2014年8月29日金曜日

ライス・イーター

学生時代、もう30年以上昔、親戚が経営するカレー専門の小さなレストランで、足掛け2年ほどアルバイトしたことがあります。大学の長い夏休み、来る日も来る日もカレーの鍋番してたら、知らない間に作り方を覚えてしまいました。

普通に日本スタイルのカレー。ルーは業務用ですが既製品を使っていたので、家庭でも再現できる調理方法。この店の特徴は、ジャガイモを入れないのと、ニンジンやリンゴ、玉ねぎをミキサーですり潰してから煮込むことでしょうか? それから牛乳とケチャップ(!)、バターをたっぷり入れること。

最近ではカレー作りに凝る人が多いらしいので、今ではそれほど珍しくもないですが、当時は「ほ〜、お店で出すカレーは、こんな具合に作るんかいな」と驚いたものです。もともとカレーは大好きなので、大学を卒業して企業に勤め出してからも、時々ヒマを見つけてカレー作りに精を出し、少しづつ自分流に磨きをかけていきました。

フィリピンに移住してからも、大きなスーパーマーケットでは日本のルーが手に入るので、1ヶ月に一度は作ってます。食材はルー以外は近所の公設市場で買った新鮮な野菜や鶏/豚肉なので、ひょっとすると日本で作ってた時より美味しいのではないか?と思う出来映え。

家内の親戚や友達にも、よく振る舞うのですが、これがとっても好評。このカレーを楽しみに家に来てくれる人さえいます。

さて、食べ方なのですが、こちらはカレーの時に限らず、個人専用の食器はお皿一つにスプーンとフォークだけ。ご飯もオカズも大皿に盛って、食べる分だけ自分の皿に取り分けます。大抵の人は、まずご飯をたくさん取って、オカズを少しづつその上にかけ混ぜて食べる。シチューでもスープでも同じ食べ方。さすがに私はスープの時だけは、別の器で食べます。



大人数の食事にカレーを出すと、カレーのルーはあんまり減らないのに、ご飯だけが物凄い勢いで無くなっていくことが多いです。ライス・イーター(ご飯食い)ばっかり。

どうもオカズとご飯を食べる時のバランス感覚が、日本とはだいぶ違うようですね。お米が好きなのか、少しのオカズで効率良く満腹になれるからなのか、分かりませんが。

先日、自宅でカツ丼作ったら、メイドのカトリーナが丼とは別にいつものようにお皿を出してきて、器用に具を分けながら、ご飯だけ二杯分食べてました。博多のラーメンでスープを残して麺をお替わりをする「替え玉」というのがありますが、これは「変え飯」?


2014年8月25日月曜日

王女カンシライの伝説

今日8月25日は、フィリピン国民の祝日「ナショナル・ヒーローズ・ディ」(英雄の日)で、学校もオフィスもお休み。全然忘れていた私は、いつもは息子を学校に送りに行く7時過ぎに目が覚めて、朝寝坊だっ!と慌てましたが、パジャマのままテレビの前にいる息子を見て、休みだと気付きました。

フィリピンの英雄に入るのかどうか…。今日は私の住むシライ市の名前の由来となったという、王女カンシライについて。

最初にシライ市と聞いた時、頭に浮かんだのは漢字で「白井」。正しくは「Silay」なので「Shirai」とは発音が違うのですが、私の日本人耳には同じように聴こえて、太平洋戦争時の日本による占領時代に名前付けたのかな?と思ってしまいましたが、そんなわけないですね。

こっちに引越してからウィッキペディアで調べたところ、昔まだスペインの侵略以前に、ネグロス島にはカンシライという名前の王女がいたそうです。この王女さま、ずいぶん勇ましい人だったらしく、島民を率いて自らも短剣を帯びて海賊と戦ったとのこと。画像検索してみたら、隣島パナイでのお祭りの写真が何枚かヒットしました。



家内に話したら、当然王女カンシライの事は知ってました。でもそれは、ただの伝説で本当はカンシライという樹木の名前から来たと、一笑に付してしまいました。自分の故郷のなのに、夢もロマンもないことやなぁ…。

お姫様の名前が地名になったというと、遥か昔に付き合っていたガールフレンドが住んでいた、大阪府の池田市を思い出します。こちらは、中国・三国時代の話で、呉の国の王女、呉服媛(くれはとりのひめ)が日本に縫製技術を伝えるためにやって来て、今の池田市に迎えられたので、呉服町(くれはちょう)になったと言われています。

実際にどうだったのかは歴史の霧の中ですが、こういう話には想像力を掻き立てられますね。フィリピンの国名は、征服者スペインの国王「フェリペ2世」から付けたなんていう話より、よっぽどいい。


2014年8月24日日曜日

フィリピンの色彩

セブ島から戻ってから、しばらく何となく疲れが取れず怠い感じが続いてましたが、土曜日ぐらいからやっと体調が回復。つい午後になっていたジム通いも、ちゃんと朝から行って来ました。

久しぶりに朝から青空が広がり、暑い(と言っても30度になるかどうかという程度)けれども爽やかな天気です。冬がない南国フィリピン。年がら年中花が咲き乱れていて、最近はあんまり気にもしてませんでしたが、これほど日差しが溢れると花の色もきれいなので、ゆっくり歩いて写真を撮りました。





改めて見てみると、ものの15分も歩いただけで、こんなにたくさんの種類の花に出会えるんですね〜。ちょっとビックリ。しかもどれも原色の絵の具を塗ったようで、青空の背景とのコントラストが強烈。











服装や住宅の外壁がハデになるのもよく分かります。
まだ移住する前、家内の里帰りで1〜2年毎ぐらいに来てた時は、鮮やかな色のTシャツが気に入って、何枚も買って帰ったものでした。日本で着て歩くと「一体、その服どこで買ったの?」とよく驚かれたものです。

ピンクはブーゲンビリアのピンク。ブルーは南国のスカイブルーという具合で、まさしくフィリピンの自然から写し取ったような色。日本では完全に浮いてましたね。やっぱり、色に対する感覚は、その土地の自然、特に植物の色の影響が大きいようです。



ところで、花の色だけに限ると、赤や黄の暖色は豊富なのに、青い花があんまり見当たりません。こっちはスミレは咲かないようだしツユクサも見ない。たまたま近所でそういう花が少なかっただけなんでしょうか?


2014年8月22日金曜日

麗しのチェスカ

セブ島、タリサイ市でのスラム体験ホームステイ、これが最後の投稿です。

最初から最後まで、子供に囲まれて過ごした今回のツアー。同行した他の三名の日本人参加者のうち、偶然お二人が小学校の先生だったこともあって、子供達にモテモテの3泊4日でした。

私が泊めてもらった家は、小学生の娘さんが一人。といっても始終近所の子供達が出入りしているので、一人っ子という感じは全然しません。
この子はチェスカという名前で、可愛い子供達の中でも、抜群の愛くるしさ。日本では「天使過ぎる」なんて形容詞が流行っているらしいですが、チェスカは天使そのもの。

すごいハニカミ屋さんで、私と目が合うといつも顔を隠してしまう。嫌われているのではなく、後ろを向いていると、背中や頭を突っついてきます。振り向くと、ピュ〜〜という感じで逃げてしまいますが…。

何回も写真を撮ろうとしましたが、カメラを向けると恥ずかしがって全然ダメ。他の子は「私を撮って、僕を撮って」と言わんばかりに集まってくるのになぁ。フィリピンの子供にしては珍しいタイプかもしれません。



それにしても、子供だけでなく、フィリピン人は人懐っこい。最初はちょっと警戒している感じでしたが、少し親しくなると底抜けに親切で話し好き。落語に出て来る、江戸時代の長屋の住人って、こんな感じだったのかも? 久しぶりに「人情」という言葉を思い出しました。

瞬く間に滞在期間は過ぎて、明日はお別れという日。ツアー主催のNPOハロハロ代表のHさんのアイデアで、この日の昼食は日本人が料理をすることに。私は日本のカレーのルーを持ち込んで、当日朝、近くのスーパーで買いそろえた地元の食材を調理して、日本式カレーライスを振る舞いました。

フィリピンでは何回も作っているカレーですが、この日もみなさんに喜んで食べてもらうことができました。本気でカレー屋さん始めようかと思うほどの人気。



さて、とうとう最終日。情に厚いフィリピン人。やっぱり涙々のお別れになってしまいました。お世話になったアテ・アナベルとしっかりハグ。こういうのは、苦手なんやけどね〜。

アナベルのことは、ずっとアテ(お姉さん)と呼んでましたが、別れの前に歳を聞いたら、まだ39歳。私より干支一回りも若かったんですね。次に会ったらダイ(お嬢さん)と呼ばせていただきます。

最後の最後に油断したのか、チェスカ。一枚だけですが、可愛い表情を写真に納めることができました。隣の島に住んでいるから、またすぐ来るよ〜。


向かって右側がチェスカ



帰りの飛行機から見えたタリサイ市
ウルっときてしまった。


2014年8月21日木曜日

おっぱいカラオケ

セブ島、タリサイ市でのスラム体験ホームステイ、四回目の投稿です。

歌や踊りが大好きなフィリピン人。特に貧困層の人たちは、娯楽が少ないこともあってか、手軽に楽しめるカラオケに目がありません。それもカラオケボックスのような、防音が整った場所ではなく、道端や庭先で絶唱しているオジさんやオバさんを、私の住んでいる街でもよく見かけます。

スラムに寝泊まりするとあって、これは歌で仲良くなるしかないっ! と思い定めた私は、ツアーに参加すると決めた時から、密かに(でもないか?)自宅で歌の練習を始めたのでした。

一応「文化交流」と言う大義名分があるので、日本語の歌「上を向いて歩こう」「涙そうそう」「やさしさに包まれたなら」などの曲のカラオケを、打ち込みソフトで作って練習しましたが、何と言っても盛り上がるのは、タガログ語の曲。

レパートリーはせいぜい4曲ほどしかなく、その中でもお気に入りの2曲に絞って毎日歌ってました。1曲目は「May Bukas Pa」(マイ・ブーカス・パ)。ブーカスとは明日の意味で、文字通り「明日があるさ」という曲。フィリピンの第二の国歌とも言われているそうで、エドサ革命の時に歌われ、教会でのミサ曲としても使われることも。

2曲目は私の思い出の曲で、初めて出張でフィリピンに来た時、ジャケットの歌手があまりに美人だったので、それだけで買ってしまい、帰国してから曲を聴いて大好きになった「Habang May Buhay」(ハーバン・マイ・ブーハイ)。その後、家内と知り合ってから、偶然にも彼女の好きな曲だということが分かり、完全に暗譜するほど歌い込みました。こちらも、大抵のフィリピン人なら知っているポピュラーな歌です。

用意万端整えて、ホームステイ先の家に着いてすぐ、いきなりアカペラで歌ったところ、近所の子供達がいっぱい集まって来ました。こんなに真剣なオーディエンスに囲まれたことは、教会の聖歌隊で歌った時でもなかったのでは?

1曲だけお試しのつもりが、子供達にせがまれ、初日だけで、用意した日本語、英語、タガログ語、ついでにミサ用のラテン語の歌まで、全部歌ってしまいました。

翌日は、朝から向かいの家の軒先に、おそらくこの集落で1台きりではないかと思われる、カラオケセットが用意され、昼間っから、もう一回歌い直し。さらに近所のお母さんが赤ん坊抱いて大挙参加して、時ならぬご近所さんカラオケ大会になってしまいました。
あまりにも当初の狙い通り過ぎて、完全に「仲間」になれたものの、ちょっとこれは恥ずかしい。



さて、驚いたのがこのお母さん達、歌いながら授乳をしてます。どっひぇ〜〜。
よく見ると、どのお母さんもTシャツの下はノーブラで、いつでもどこでもひょいっとシャツをめくり上げて、赤ん坊に乳房を含ませてる。

う〜む。当のお母さん達は、何の恥じらいもなく、至極当然という顔でしたが、私は、おっぱいカラオケの刺激が強過ぎて、後半の歌がワヤクチャになってしまった。



2014年8月20日水曜日

幸せ? 当たり前でしょ

セブ島、タリサイ市でのスラム体験ホームステイ、三回目の投稿です。

このツアーでは、ただスラムでの生活を体験するだけではなく、他の地域で食料配給に協力したり、各所帯で実態を知るためにインタビューをしたり。

3泊4日の3日目の午後、2グループに分かれてインタビューに臨みました。平日の昼間だったので、訪れたのはどこもお母さんと子供がいる家。最初は、4人目の赤ちゃんが生まれたところという若い奥さん。狭い一間の家で、なんとなく疲れた表情でしたが、それでも快く初対面の外国人の不躾な質問に答えてくれました。

フィリピンでは英語が公用語とは言え、スラム住人は教育機会に恵まれず、英語ができない人が多い。この奥さんもそうだったので、英語が堪能な地元の世話役の女性に通訳をお願いしてのインタビュー。

いろいろ話しているうちに、旦那さんとか奥さんとか呼んでいるものの、実はちゃんと入籍しているカップルの方が少ないことが分かりました。役所に登録する手数料が払えない。なので、本当は夫婦ではなく、「パートナー」なんだそうです。ただ日本と違って、家が基本の戸籍ではなく個人登録なので、生まれた子供は私生児のような扱いにはならないらしい。

私が一番知りたかったのは、子供の数は意図したものなのかどうか? 成り行きで次々と妊娠してしまっている印象があったのですが、お母さんに聞くと計画はしているとのこと。4人で十分なので、これでお終い。お医者さんとも相談して、これ以上は、生まない。若干疑問は残りましたが…。

今一番の悩みごとは?と聞いてみると、他の家庭でも判で押したように「経済的な問題」。月収が2〜4000ペソ(5000〜10000円)ぐらいで、家族4人、5人あるいはそれ以上を養っているので、いくら物価が安いフィリピンでもこれは、大変でしょう。当然、借金のことも気になるようです。



そこで最後に「あなたは今、幸せですか?」と聞いてみました。
もう間髪置かず「幸せ? 当ったり前でしょ!」理由はこれまた同じで「だって、子供がいるじゃない。」そ〜か〜。だからみんな貧乏暮らしでも笑ってるんや。

このスラムに限らず、フィリピンでは子供が多い。中には物乞いをしたり、交差点の信号待ちの車にタバコや新聞売ったりしてる子供もいますが、道端で見かけるのは大抵、顔中で笑いながら遊んでいる元気な子供たち。

年間3万人もの自殺者を出している日本で、もし同じ質問をしたらどんな答が返ってくるでしょう? 子供がいても家族がいても、育児や職場の人間関係で悩んでいて、ここまでストレートに「幸せです。」とはならない気がします。

最終日に行った別のスラムで、チョコレート粥の配給をしました。
これは、地元のキリスト教会の奉仕で、今回のツアーの代金の一部も資金になっている活動です。粥ができると、子供達が出て来る出て来る。めいめいに持って来た器にカップ一杯分を配給していくのですが、みんな本当に嬉しそうで、なんだかこっちまで幸せな気分になりました。


チョコレート粥 配給中



配給前のお話担当のお姉さん
どこかで見た顔だと思ったら、トトロの「ネコバス」に似てた



2014年8月19日火曜日

流しちゃだめよ

前回に引き続いて、セブ島、タリサイ市でのスラム体験ホームステイ。

まずは、トイレのお話。
最初からトイレについては、いろいろ聞かされてました。まぁ、そんなに清潔なわけはないと、分かっていましたが、難儀なのはペーパーを流せないということ。

一応水洗式なので、それほど汚い感じはなかったのですが、何しろ下水管が貧弱なようで、紙流すと詰まるそうです。上水道はなく、共同の井戸からポンプで汲んで来た水がバケツに入れて置いてある。それを柄杓を使って流し、ついでに手でお尻も洗う。

フィリピンで左手で握手しない理由が、よ〜〜く分かりますね。その後石鹸できれいにするのですが、やっぱりこの手で握手はアカンわな。しかし私は、フィリピンに住んでいるのに、このスタイルは初めて。

家内の実家でも友達の家でも、そんなにお金持ちということはなくても、普通に水洗で、紙ぐらいは流せるトイレばかりでした。これはラッキーな偶然だったのでしょうか? ホームステイ前日に泊まったセブ市内のホテルも、バックパッカー向けの安い宿だったせいか、水道はあっても紙は流せませんでした。これは、どっちが標準なのか?

ともかく、この暮らしが受け入れられるかどうかは、水回りの環境に耐えられるかどうかで決まるんでしょうね。

意外にも快適だったのは寝床。当初、板の間にゴザ敷いて雑魚寝と言われてたのが、何と個室でしかもベッドがありました。私がお世話になった家は、「母屋」には壁がなく、竹製の高床式。ここが居間で、寝室は「離れ」で、ちゃんと壁があります。多分いつもは、ここで家族三人が寝てるんでしょうね。一人でベッドを占領して、ちょっと悪いことをしてしまった。


解放的な「母屋」




四畳半ほどの大きさの「離れ」

中には扇風機も置いてくれて、かなりゆっくり眠れました。しかし、どうしようもなかったのは、蚊。壁があるといっても隙間だらけなので、ほとんど外で寝てるのと変わらない。蚊が媒介するデング熱という怖い病気があるので、上下長いジャージを着てたのですが、手の甲や足、頬っぺたを刺されてしまい、結局短パンTシャツでも一緒。

さらに予想外に良かったのが食事。
前回も書きましたが、この家の主婦アナベルは、自宅でトロトロと呼ばれるおかず屋さんを営んでいます。朝は2時半(!)に起きて、当日の朝や昼のためにずらりの並べた鍋に、フィリピンの家庭料理を作る。冷蔵庫がないので、作り置きができない。



当然、家族は、朝起きると各自好きな料理を自分の皿に盛って食べるのですが、いつも作っているだけあって、これがヘタなレストランなんかより美味しい。スラムの体験ツアーなのに、これでいいのか?と思いつつ、毎度の食事が楽しみなるほどでした。

たった3泊だから言えるんでしょうけど、もっと堪え難い状況かと想像していただけに、慣れればそれほど悪くはない、スラムでの寝泊まりでした。


朝の果物 甘いマンゴー



 朝は鶏どもに叩き起こされます



2014年8月18日月曜日

ホームステイ・イン・スラム

ご無沙汰しております。先週から約一週間、私の住むネグロス島のお隣、セブ島に滞在しておりました。目的は日本のNPO(特定非営利活動法人)「ハロハロ」が主催する、セブ島現地視察ツアー。このハロハロさんは、地元の貧困層の人たちが作った雑貨を輸入するなどの支援事業を展開しています。以前、偶然ネグロス島に来ていた代表のHさんと知り合いになり、いろいろお手伝いをしていたのですが、事業内容をもう少し詳しく知りたいと思って参加しました。

このツアーの目玉は、貧困層の住むスラムに3泊の体験ホームステイ。フィリピンにと関わり始めて20年近くになり、スラムは嫌というほど見てきましたが、本当に泊まるというのは初めて。家内に話したら、フィリピンに住んでるのに、なんでわざわざお金払ってホームステイするの?と、冷めた返事をされてしまいました。確かに酔狂だと思われても仕方ないかも。

自宅があるネグロス島シライ市から目的地のセブ・マクタン空港までは、飛行機でものの30分。朝6時半のフライトで8時過ぎにはセブ市内に着いてしまうほどの近さです。つい数週間前にセブ市内の入国管理局にビザ更新手続きのために行ったところで、「また、来ちゃった」という感じ。

セブと言うとビーチリゾートで有名ですが、リゾートホテルが立ち並ぶのは、実はセブ市内ではなく、橋が架かる狭い海峡を隔てたマクタン島。セブ市は、歴史的建造物がある観光地であると同時に、フィリピン有数の大都市でもあります。中心部のオフィス街には高層ビルが林立し、日本の領事館もその中に入居。

今回ホームステイしたのは、そのセブ市内からさらに車で1時間ほどの距離にある、タリサイ市というところ。細々と漁業を営んでいる人たちが暮らす、文字通りのスラム(貧民街)。さぁどんな事になるかいな?とかなりビビっていたんですが、結果から言うと、思いの外、心温まるいい体験ができました。


宿泊した家の裏に広がる景色

私がお世話になったのは、集落の中でトロトロと呼ばれるおかず屋さんを営む、アテ・アナベル(アテ=お姉さん)とその家族。旦那さんと小学生の娘さんの3人。いろいろあったのですが、最終日には涙を流して別れを惜しんでくれました。また、この家の子を始めとして、うじゃうじゃといる集落の子供達にティト・フランシス(ティト=おじさん)と慕われて、私を含めて日本から来たビジター4人の周りは、いつも子供が。



アテ・アナベルのトロトロ(おかず屋さん)



お世話になった人たち。一番右がアナベル


ということで、これから何回かに分けてツアーについて投稿したいと思います。




2014年8月10日日曜日

歩くの大嫌い

日本での最後の8年間は、最寄り駅から徒歩数分の所ばかりに住んでいたので、運転免許を持っていたものの、車は手放して、電車にバス、そして自転車に徒歩が移動手段でした。中でも徒歩。よく歩きましたね。
肥満というほどでもなかったのですが、若干太り気味だったので、通勤も買い物も暑かろうが寒かろうが、できるだけ歩きました。平日に10kmぐらいは、普通だったと思います。

移住当初、まだ車を購入する前、日本にいるのと同じ調子で、隣りのタリサイ市にあるショッピングモールまで片道約5km、何度か歩いて行きました。もちろん熱帯の国なので暑いのですが、大阪の真夏に比べると同じぐらいか、蒸し暑さが少ない分まだ凌ぎやすいぐらい。

さすがに帽子は被り、飲み水も携帯してましたが、これには家内が呆れてしまい、最後には、恥ずかしいから止めてくれと懇願されてしまいました。それほど、この距離を歩くと、フィリピンでは奇異に思われます。はっきり言って変人扱い。

暑さはともかく、まず危ないというのはあります。幹線道路でも舗道がなく、時速100km近くでぶっとばす車の横をひょこひょこ歩くわけですから。しかし、そんな車が多い道でなくても、一般の人、特に女性はあんまり歩きません。三輪バイクのトライシクルという、怠け者の強い味方がいるからです。



フィリピンでは大都会から田舎街まで、人が住む場所は、ほぼ完全に網羅しているトライシクル。ちょっと表通りに出れば、雲霞の如く走り回っています。一応取り決めがあって、市外へは行かないとか、空港には乗り入れないとかありますが、ちょっとした買い物などには重宝します。しかも一乗り8〜10ペソ(20円〜25円)という安さ。

大人だけでなく、子供も学校の行き帰りに使ってます。朝夕はトライシクル・ラッシュが起こるほど。子供がズボラかましたらアカンがな、と思ってしまいそうですが、こちらの学校は、毎日全教科の教科書を持っていかいといけなかったり、車やら野犬やら暑さやらで、本気で危ないので、これも仕方ない。



最近は、車に乗ることが増えて、以前ほど歩かなくなりましたが、それでも荷物が多いとか、子供を連れてるとかでない限り、1kmぐらいは歩くようにしてます。しかし、やっぱり一目見て「外国人」と分かるので、目立つみたいですね。近所の人だと、初対面でも「歩いてるの見た」と言われることがよくあります。

冗談ではなく、外国人=お金持ちと思われるフィリピンなので、あんまり無防備に歩いてると営利誘拐の標的になることもあるらしいので、そろそろ考えを変えた方がいいのかも知れません。


2014年8月9日土曜日

別れを告げに



昨日は、亡くなった義母の命日について書きました。
今日は、その続き。実は義母が死んだ時に、少し不思議なことがありました。

フィリピンでは、義母の命日の八月というのは雨期に当たり、当日も雨でときおり激しく降っていたのを覚えています。義母は前日から危篤状態で、夫である義父と義弟、そして娘の家内が病院に泊まり込みで詰めていて、その他の親族は、交代で自宅待機していました。

私と1歳になったばかりの息子は、義母の妹である叔母の家にいました。雨が降り続き、昼過ぎなのに薄暗い中、突然の停電。しかし豪雨で停電になるのは、フィリピンではとてもよくある事で、あぁまたか、という感じ。だいたいどの家庭でも電池式の照明が常備されていて、その時も別に慌てもせずに、幼い息子に自分の顔を照らして見せて、遊んだりしてました。

ものの数分で電気が回復したでしょうか? 珍しく素早い復旧やな、と思ったのを覚えています。それから少し経ってから、病院にいる家内から電話がかかってきて、義母が亡くなったことを知らされました。

その夜のこと。フィリピンではお通夜を1週間も行う習慣があって、遺体は亡くなるとすぐに、葬儀屋さんの手によって防腐処理されます。確か、そういう一連の手続きが済んで、親族一同が家内の実家に集まった時。

「お母さんが亡くなった時刻に、何か変わったことなかったか?」と聞かれました。最初は何を言ってるのかと思いましたが、しばらく考えてから停電の事を話すと、やっぱりとの事。

何カ所かに分かれて待機していた親族のいた家すべてで、ちょうど義母が事切れた瞬間に停電していたらしいのです。それもその家だけで、周囲では何ともなかった。そう言われてみれば、停電した時に窓の外を見たら、隣家の玄関から灯りが見えていた…。

ちょっと前に、フィリピンの座敷童についての投稿の時に書いたことにも通じますが、フィリピン人にとって現実の世界とあの世とは地続きで、感覚的にとても近いのではないか、と思います。この時も、親族の誰も当然の事のように、この出来事を受け止めているように見えました。

そして、そのフィリピンの血を半分受け継いでいる息子。帰国してからしばらくの間、夜誰もいない真っ暗な部屋に向かって、時々笑っていたなぁ。


2014年8月8日金曜日

肝っ玉母さんの命日

前回の投稿で、息子の誕生日パーティのことを書いたばかりなんですが、その三日後が義母、つまり息子の祖母の命日です。今から8年前の2006年の8月6日、ガンのため63歳の若さで帰天してしまいました。


お墓参りに行った命日の朝。「千の風になって」を口ずさみそうな天気でした。




今、住んでいる宅地を見つけてくれたのも、土地購入の手続きを全部面倒みてくれたのも、実はこの亡くなった義母でした。60歳の定年まで、近くの高校の先生をやっていて、小さなシライ市内では、どこへ行っても昔の教え子がいるという、言わば近隣の女ボスみたいな存在。

私などにも、家内と付き合っている当初から、出かける時は帽子を被れとか、○○の辺りは、ヤク中がいるから近づくなとか、まるで実の息子を叱るような調子でした。見た目もなかなか恰幅がよくて、この世で怖いものは雷だけ。昔、テレビのドラマで京塚昌子さんが演じた「肝っ玉かあさん」みたいな人。

結婚した後は、本当に息子になってしまったので、たまに里帰りすると「フランシ〜ス」(フィリピンでは洗礼した時の名前のフランシスコが本名)と叫んで、盛大にハグされてました。私よりずっと長生きしそうな勢いだったんですけどね。


2002年に撮影した義母

息子が生まれた時は、横浜に住んでいた私達のところに、何と単身やってきたりもしました。いくら60過ぎとは言え、そう簡単にビザが取れなかったのに…。今思えば、その時もう余命いくばくもない事を悟っていたんですね。生後数ヶ月だった息子を、それこそ一生分可愛がってくれました。

もうお母さんが危ない、とフィリピンの義弟から国際電話があったのが、翌年の8月。亡くなる数日前。元気な時しか見てなかっただけに、やつれ果てた病院での死の床の義母を見た時は、かなりショックでした。娘である家内に看取られたのがせめてもの救いだったのかも知れません。

先日完成した自宅は、義母と義父に一緒に住んでもらうつもりで、最初はもうワンセット寝室と浴室を作るつもりでした。家内によると、義母はずいぶん楽しみにしていたそうです。合掌。



命日には必ず家族で夕方のミサに与ります。



ミサの後には、雨期には珍しくきれいな夕焼けが見られました。



2014年8月5日火曜日

フルパワー・バースデイパーティ

とにかくお祭り事が大好きなフィリピン人。一番テンションが上がるのがクリスマスで、それに次ぐ一大イベントが家族の誕生日。もうバースデイパーティとなると、家族総出で準備しなくてはいけません。家内の誕生日忘れてた、なんてことは絶対あり得ないし、もしやったら実家に帰られるかも知れません。

この間の日曜日は、息子の9歳になる誕生日でした。すっかりこちらの習慣に染まった息子は、3ヶ月ぐらいまえから「バースデイ・カウントダウン」をしてました。彼の場合は、関西人である父の血が強いようで、天性の嬉しがりなだけ?

1ヶ月を切る頃になると、誰を招待するかを決めて、招待状を作らないといけません。これが日本の年賀状並みの力の入れようで、子供の写真や似顔絵に、アニメのキャラクターや動物のイラストなどをあしらって、かなり真剣に描きました。こういうところで、前職がデザイナーだったことが役に立ちます。

参考のために、グーグル画像検索で「birthday invitation」を入力してみると、出て来る出て来る、ものすごい数の招待状デザイン。多分これはアメリカの習慣なんでしょうね。お陰で大助かり。一般的には、デザイン込みで写真屋さんや印刷屋さんに発注するようです。

来ていただくお客さん、息子の場合は、半分以上が小学校のお友達とそのお母さん。夕方、子供の迎えに行ったついでに家内が配って回りました。もちろんクラス全員はとても無理なので、15人ぐらい(お母さんが一緒なので、実際にはその倍以上の人数)に絞りましたが、これがなかなか難しい。

息子は、学校でも数人しかいない外国人とのハーフ。それが結構目立つようで、妙に女の子の間の人気者。「あの子が呼ばれているのに、なんで私は招待されないの?」みたいなことが相当あったそうです。う〜ん、父は羨ましいぞ。



パーティ会場は、新居のガレージ。ここにパーティ・ニーズの店(この手の店もいっぱいあります)でレンタルしてきた椅子とテーブルを並べて、テーブルクロスや花を飾り付け。当日は朝から家族だけでなく、親戚や友達が手伝いに来てくれました。本当に大騒動ですね。




さて、お客さんが三々五々集まって、司会進行はこれが天職か?というほど上手い、カミさんの従弟のパウロの担当。実際にパーティの司会を仕事にしてたこともあるらしい。子供向けのゲームやらビンゴなどなど。心配していた天気も、途中でちょっと雨がパラついた程度で、何とか最後まで保ってくれました。




結局総勢50名以上は参加してくれたでしょうか? 今回は新居のお披露目ということもあって、特にお客さんが多かった。取合えずは無事に済んでよかったです。

残るはウンザリするような後片付け。こんなに疲れることも、あんまりないと思いますが、この時ほど家にメイドさんがいることを、ありがたく思うこともないでしょう。なるほど、だからみんなメイドさん雇うのか。