2016年12月30日金曜日

フィリピン・ペソ紙幣のこと


紙幣切り替えを伝えるポスター

フィリピンでは、今年(2016年)いっぱいで、フィリピン・ペソ紙幣の切り替えが完了する...はずだったのですが、この年末ギリギリのタイミングになって、3か月延期になりました。さすが我らのフィリピン中央銀行、行き当たりばったり加減は、もう神がかりの域に達しています。

1985年から流通が始まった旧ペソ紙幣と、2010年からの新ペソ紙幣が二重に使われているフィリピン。6年がかりの紙幣切り替えの最終年が今年の予定でした。当初の手筈では、明日大晦日で旧紙幣は使用不可。つまりいくら大量に持っていても、全部紙くずになってしまうという恐ろしい事態。かなり以前から注意喚起が。

理由は、偽造の防止。日本でも同じ理由で時々紙幣の切り替えがあるそうですね。しかしフィリピン・ペソ紙幣の場合は、世界でも最高水準の印刷技術を駆使した日本の紙幣に比べて、かなり偽造が容易。以前から問題になっていました。普通に買い物してても、高額紙幣の500ペソとか1000ペソは、レジのおねぇちゃんが透かしを確認するのは当たり前。

そんなドタバタ騒ぎのフィリピン・ペソ紙幣。実生活での使い勝手はどんな感じでしょうか?

まずは、庶民には一番馴染み深い20ペソ札(約47円)。トライシクル(輪タク)に乗ったり、サリサリストア(雑貨屋さん)で、ペットボトル入りの水を買ったりするのに使う紙幣。独立直前の準備政府・初代大統領のマニュエル・ケソン氏の肖像が使われています。日本でいうと、伊藤博文初代総理大臣に相当する人物。私の世代だと、伊藤博文=千円札ですね。


そんな偉い人の顔が印刷されているのに、扱いは随分ぞんざいで、八百屋でお釣りにもらったりすると、黄ばんでしわくちゃ。我が家のメイドさんのネルジーも、丸めてポケットに突っ込んだりしてます。かわいそうなケソンさん。実はもっと少額の5ペソや10ペソ紙幣もまだ使えるらしいのですが、4年前の移住以来、一度も実物を見たことがありません。

手元にあって一番使いやすいのは、100ペソ札(約236円)。お顔は、こちらも元大統領のマニュエル・ロハス氏。現在に直接つながる第三共和政の初代大統領で、第二次大戦直後の1946年就任。日本だと吉田茂さんのような位置づけでしょうか。


食材や日用雑貨の買い物は、この100ペソ札が3〜4枚もお札にあれば、だいたい大丈夫。頼り甲斐は、千円札の感じですね。トライシクルでは無理ですが、乗り合いバスのジプニーだと、なんとかお釣りも出ます。ただしタクシーでは、例えば250ペソの料金で100ペソ3枚渡しても、50ペソはチップと見なされてしまう場合も。大袈裟に言うと、ここでお釣りを要求できるかどうかが、フィリピン在住者と短期滞在の旅行者の分かれ目。私ならば、お釣りの50ペソを受け取ってから、10ペソか20ペソ程度をチップに返すでしょう。

そして500ペソ(約1180円)。表に印刷されているのは、1986年のエドゥサ革命の立役者、元大統領のコラソン・アキノ氏と、その夫で元上院議員のベニグノ・アキノ氏。さすが高額紙幣。ネグロス島で、比較的いい給料を貰っている人の日給が500ペソぐらい。そう考えると、やっぱり五千円札レベルの貫禄ですね。シライ市内ならば、家族3人でちょっと外食しても、500ペソ札1枚あれば十分。


まだこの上に1000ペソ(約2360円)紙幣はありますが、現金としては少々持ち重りする額。高額過ぎて、人前でちらつかせるのは怖い感覚。私は1000ペソ以上の支払いの場合、極力カードで済ませるようにしています。

本来ならば、ここ何年かの好景気を反映して、5000ペソ札(約11,180円)があっても良さそうな気もします。家を建てている時には、建材購入で2〜3万ペソの現金を下ろしたりしましたが、ATMで全部1000ペソ札で出てきても、札入れがパンパン。時々500ペソ札も混ざると札束状態。まるで何十万円も持ち歩いているような感じでした。でも現実的には、高額紙幣を増やすよりも、キャッシュカードを使える店舗を増やした方がいいのかも知れませんね。


2016年12月29日木曜日

2016年 10大ニュース


移住してから4回目の年末で、この10大ニュースは3回目(以前の投稿20142015)になります。最近では、移住前の日本での日常生活を思い出すのが、ちょっと難しくなってきました。寒い平日の朝、通勤前のあのツラい時間が、もう何十年も前のことのようです。

さて、天皇皇后両陛下のフィリピンご訪問で明けた2016年。これは陛下にとっても大きな出来事だったようで、先日の誕生日の記者会見では、真っ先にフィリピンについての言葉を述べられました。フィリピン在留邦人の一人として、胸が熱くなる思いです。

5月には、大統領選がありました。フィリピン史上、1980年代のマルコス失脚とアキノ大統領就任に次ぐ大事件だった、ドゥテルテ大統領の登場。これが何といっても一番の話題。田舎街の我らがシライでも、麻薬関連犯罪者の自首があったり、同じネグロス島内の他市の市長が、麻薬取引を告発されたりして、決して余所事ではありませんでした。フィリピン全体のことなので、10大ニュースには入れませんが、大統領関連の投稿数は、今年1位ですね。


フィリピンの事が日本でこんなに話題になったのは、1986年の、当時三井物産マニラ支店長だった、若王子さんの誘拐事件以来じゃないでしょうか?

シライ市内の出来事だと、たった人口12万人のこの街で、大型ショッピングモールの建設が始まったり、フィリピン国内では有名な、テーマ・パークの誘致が決まったりと、景気のいい話が多かった。ほんの数年前まで、信号すらなかったこのド田舎では、信じられないことです。

それでは、我が家の2016年10大ニュース、行ってみましょう。

第10位 「グーグルビューのネグロス上陸」


ここまで来たかグーグル・ビュー

日本では、市街地はほとんどカバーされているグーグルビュー。ようやくこのシライ市の、しかも我が家の前までやって来てました。ずっと先のことだろうと思っていただけに、とても印象に残った出来事。


第9位 「シライで流行 デング熱」


出典:The NEWS Mimute

西ネグロスでデング熱流行」「姪っ子ジャスミン受難

姪っ子が罹患して驚いたデング熱の流行。身内には感染者が出たと聞いたことがなかったので、油断してました。やっぱり熱帯のフィリピン。感染症を侮ってはいけない。なんとこのネグロスで、しかもシライ市内での感染者数が、国内最多を記録してしまいました。今年の雨季は本当に雨が多く、その影響もあったのかも。


第8位 「隣家の騒音」


深夜の轟音、隣の鶏舎」「平和は戻った...か?
フィリピン式ご近所トラブル解決法

朝の5時からガンガンに音楽を流すお隣さん、闘鶏を飼育する鶏舎とのバトル。なかなか大変でした。結局今では、嘘のように静かで平和な生活環境が戻っています。関係ないけど、問題が片付いたのは、ちょうどドゥテルテ大統領の就任直後でしたね。大統領は騒音をまき散らす夜間屋外ディスコの禁止を、法制化しようとしているそうです。


第7位 「フィリピンも異常気象?」


旱魃と停電」「酷暑と旱魃 2016年フィリピンの夏
突然夏の終わり」「台風が来ない今年のフィリピン
モンスーンの季節 首都圏洪水」「洪水間一髪 州都バコロド
クリスマス台風接近中

2016年は、観測史上最も気温が高い1年だったそうです。日本より一足先に夏が来るフィリピン。今年は本当に雨が少なく暑かった。それでも大阪や東京の酷暑よりはマシでしたが。6月以降は一転台風が連続でやって来て、首都マニラだけでなく、ネグロスでも洪水被害。来年もこんな極端な気候が続くのでしょうか?


第6位 「テニスの相棒」



今年も多かったテニスネタ。3月には初めてのフィリピン人パートナー、ババロと知り合いました。4月、5月の乾季には、ほとんど毎日近所の市営コートに出てましたね。最近は雨が多いのと、プータローだったババロが廃品回収業に就職してしまったので、しばらくご無沙汰。また、テニス仲間の日本人やニュージーランド人の友達が、相次いで帰国してしまったのも、寂しいことです。


第5位 「三年ぶりの一時帰国」



満を持しての一時帰国。本当は、もっと以前に里心がついてしまうかと思ったものの、3年間はあっという間に過ぎました。住環境は日本にいた頃よりも快適なぐらいだし、食べ物にも順応。それでも、嬉しい帰国。やっぱりネグロスでは食べられない、本物のお寿司が良かった。特にこの写真は、寿司職人になった中学時代の友達が握ってくれたお寿司。格別の味でした。また、会いに行くで〜。


第4位 「三代目住み込みメイドのネルジー」


三代目メイドさん着任」「怪力ネルジー
働き者ネルジーの1日」「苦労人ネルジー
ネルジー・スペシャル」「投票里帰り
朗らか乙女 ネルジーの受難」「ネルジーのトラウマ
勤続半年メイドのネルジー」「ラッキー・メイド
ネルジーの洗礼」「正直メイド、嘘つかない

去年の今頃は、二代目メイドのアミーが働き始めて半年目の時期。求人に8ヶ月もかかり、やっとメイドさんが居着いてくれて一安心、なんて書いてました。ところがそのアミーは正月休みで帰省して、それっきり。その1ヶ月後、我が家に来てくれたのがネルジー。

すごい人見知りだったり、極端に食が細かったりと、最初は心配させられました。でも、もうすぐ1年が経ちます。いろんな意味でとても面白い愛すべき女性で、ブログネタをたくさん提供してくれました。 どうか今度こそ逃げないでね。


第3位 「両親の滞在」


親の終活」「大食い八十歳
突然介護」「母とネルジー
納豆長者

投稿回数よりも、インパクトの大きさで3位に入れた、両親の滞在。もう二人とも80歳で、要介護になった時に備えての下調べでした。ところが、母が急に歩けなくなって、本当に介護の訓練みたいなことになってしまった。幸い数日で回復して、予定通りの帰国。短い滞在期間の割には、いろんなことがありましたね。

結局両親も、悪くはない感触だったようで、来年からは具体的な活動が始まりそうです。それにしても早やくしないと、お迎えが来てしまうで〜。


第2位 「家内との馴れ初め回想」


奥さまはフィリピーナ...か?」「教会で会いましょう
お見合い@ネグロス島」「神さまの思し召し
超遠距離恋愛」「ついに結婚
配偶者ビザ取得顛末」「やっぱり冬は苦手
孝行嫁」「クリスマスの奇跡

私を含めて、フィリピン在住日本人男性の場合、フィリピン女性との結婚がきっかけ、というのが多いと思います。そしてブログを書くとなると、そのフィリピン妻のことからとなるんでしょう。このブログの場合は、自宅建設から始めたので、家内のことは時折触れるぐらいした。

ところが、直接知っている日本人の方から、ぜひ馴れ初めを知りたいと言われて、初めてまとまった文章に。こうして書いてみると、忘れかけていたエピソードを思い出して、夜中に一人ニヤけたり憤ってみたり。当時のことを追体験したようでした。


第1位 「家内の就職」


続・フィリピン妻の就職」「ドレスアップ・フィリピン妻

投稿回数たった二回。でも我が家にとっては、ダントツで大きな生活の変化だった、家内の就職。それまでも日本のNGOのセクレタリー役で給料は貰っていたけれど、在宅勤務のパソコン業務がほとんど。フルタイムで平日の朝から夕方までの仕事は、フィリピンに引っ越してから初めてです。

私の毎日の弁当作りが、子供の分を含めて二人分になり、家事の仕事量は増えたものの、生活費をほぼ賄えるだけの安定した現金収入は、家計的には大助かり。今までは、貯金を食いつぶす生活でしたからね。いくら十分な蓄えがあると言っても、精神的には随分と楽になりました。

以上で、10大ニュースは終わりです。
2016年も、残すところあと二日になってしまいました。今年も当ブログを読んでいただき、ありがとうございました。それでは、来年もよろしくお願いします。


2016年12月26日月曜日

静かな大晦日は来るか?

クリスマスにフィリピン・ルソン島を横断した、26号台風ニーナ(フィリピン名)は、南シナ海に抜けました。マニラ首都圏の被害は、それほどでもなかったようですが、ルソン南部のビコール地方では、洪水などによって4名の犠牲者が。また、マニラ発着の航空便にもキャンセルが相次ぎ、足止めを食らってしまった人が多数出ている模様。

ここネグロス島シライ市では、事前の予想よりやや台風がゆっくりだったからでしょうか。クリスマスイブの24日は、昼間にいつもの夕立ちはあったものの、夜のミサの時間帯は晴れて、星がよく見えました。教会の庭にはテントが張られ、チャペルの外でミサに与る人も、雨に濡れないよう配慮。幸いそれも無用のことに。


クリスマスミサのために飾り付けられた
自宅最寄りチャペルの祭壇

それでもさすがに台風の影響のせいか、朝から曇りがちのクリスマス当日。時折パラパラと小雨程度で、本降りにはならず。いよいよ本格的に、町中から花火や爆竹の音が聴こえて来ました。フィリピンのクリスマス・お正月には、爆竹が付き物。相変わらず決まり事のように、テレビからは火事発生のニュースが。

もう半分ぐらいは、フィリピン人化している私の頭の中。いつもはフィリピン人の悪口を聞くとムカっ腹を立てるけれど、爆竹に関してだけは、お世辞にもフィリピンの人達は利口とは言い難いと思ってしまいます。

本当に毎年毎年、この時期には爆竹が原因の火事や事故が多発。ニュース映像は、何年も前から使いまわしているのかと思うほど。必ず焼け出された人、それも決まっておばあさんがインタビューされて、言うことも同じ。「クリスマス(or お正月)なのに、住む家が無くなってしまいました。これから私たちは、どうしたらいいんでしょう。(号泣)」

お気の毒だとは思いますが、いい加減に学習してくれよ、と言いたくなります。こちらの爆竹は、日本で売ってるような可愛らしいものばかりではなく、ちょっとした爆弾並みのものも出回っている。音が大きければ大きいほど、魔除けのご利益があるということらしい。

そんなものを、建て込んだ町中や人通りの多い路地で爆発させれば、子供にだって危ないと分かりそうなものなのに。指や腕を失くしてしまうような事故も多いし、今年(2016年)初めには、マニラで3000もの人が家を失う火事がありました。

そして、花火・爆竹禁止を公約に掲げたドゥテルテ大統領が当選。
マニラ首都圏やその近郊では、例年に比べると静かになったんでしょうか? まぁ台風騒ぎでそれどころではなかったのかも知れません。マニラから遠く離れた、ここネグロス島では、そんなお達しもどこ吹く風。昨夜などは、隣家の庭で花火が打ち上げられるし、まだ散発的とは言え、いつも通りのドンパチ騒ぎ。少なくともこの年末は、変わらぬ轟音で、大晦日を迎えることになりそうなネグロス島です。


2016年12月23日金曜日

普通の国への遠い道


約2か月ぶりに、ドゥテルテ大統領関連の投稿です。私がここで触れなくても、日本語のメディアでの露出がすごいですね。フィリピンのニュースとしては、稀に見る注目度で日本に報道され続けています。

最近は、日本訪問時の持ち上げぶりから比べると、トーンが少々様変わり。超法規的殺人が、すでに自首した人や、麻薬犯罪とは無関係な人にまで及んでいること、穏健派(大統領に比べると)のレニ・ロブレド副大統領との対立など、ネガティブな論調が目立つようになりました。

ここ数日では、ダバオ市長時代の自らの手による「処刑」を告白したり、大統領を殺人容疑で捜査することを求めた国連・人権高等弁務官を口汚く罵ったり。この演説は、昨夜のニュースで見ましたが、伏字の「ピー」ばかりで、よほどひどい言葉を連発してたんでしょうね。

日本にいて日本語の報道だけに接していると、なかなかフィリピン国内の雰囲気は分からない。私もフィリピンに住んでいるとはいえ、マニラ在住ではないので、首都圏の空気は皮膚感覚で理解しているわけではありません。しかし私の家内を始め、周囲のフィリピン人の意見を聞いている限り、相変わらずドゥテルテ大統領の支持率は高い。

そもそも、大統領本人が超法規的殺人に関与しているのは、公然の秘密。少なくともドゥテルテ大統領に投票したフィリピン国民は、今更それを認めたところで、誰も驚かない。冤罪が多いことに眉をひそめつつも「やむをえない」と考える人が多いように思います。対麻薬犯罪の「戦争」なので、誤射・誤爆による犠牲も、ある程度は仕方がないという感覚かも知れません。

それほどまでに、ドゥテルテ就任以前のフィリピンは、異常な状態が続いていました。言ってみれば、今この国は、ようやく「普通の国」になろうとしている。「普通」の定義とは何かと問われると、ちょっと困りますが、公務員や警官が公然と賄賂を求めたり、市長や裁判官が違法薬物ビジネスに手を染めたり、刑務所に拘留されている犯罪者が、外から娼婦を招き入れるのが当たり前の国は、とても普通とは言えないでしょう。ここまで普通でなくなった国を、一挙に普通にしようとすれば、強烈な反作用があるのは当然。

ドゥテルテ大統領の「暴言」も、本人の弁によると、思わず口が滑ったのではなく、意識的な発言とのこと。フィリピンのように、経済的にも軍事的にも弱い立場にある国からすれば、国際社会から注目されるには、これしか手がなかった。大国アメリカや中国と、良くも悪くも互角に渡り合う姿を見て、フィリピン国民ならずとも、溜飲を下げる人は多いようです。実際、ドゥテルテ大統領の派手な振る舞いがなければ、日本でフィリピンの麻薬汚染の惨状を知る人は、未だに少なかったでしょう。

暴言に比べると注目度は低いけれど、ドゥテルテ大統領就任以降、LTO(フィリピンの陸運局)の不手際で、3年間も滞っていた運転免許証発行が正常化したり、外国人へのビザ延長手続きの簡素化などが実現しています。地味な部分でも確実に変化が現れているのは、間違いない。

今年の前半には、まったく想像もできなかったフィリピンの現状。来年もドゥテルテ大統領の言動からは、目が離せません。


2016年12月22日木曜日

クリスマス台風接近中



確か中学生ぐらいの頃、学校の授業で習った熱帯地方の気候のことで、今でもよく覚えている言葉があります。それが「高温多雨」。こーおん・たう。とっても変な響きで、まるで日本語じゃないみたい。それが40年後に、自分がその高温多雨な場所に住むことになるとは。

フィリピン暮らしも、年が明けると4年目に突入しようかというこの年末。高温多雨を日々実感しております。今年は4〜5月の乾季が、例年になく暑くて雨が極端に少なく、隣のセブ島では旱魃で、州知事が非常事態宣言するほど。ところが、6月まで一つも発生しなかった台風が、その後は、いつもより早いピッチで量産。去年は、こんなに雨降ったっけ? というほど、連日の雨。

連日と言っても、日本の梅雨みたいに終日降るのではなく、朝は日差しが眩しいほどの晴天。そして判で押したようように、昼過ぎから雷を伴った土砂降り。だいたい数時間で上がるというパターン。昼間ではなく、宵の口から深夜に豪雨もあります。

おかげで、趣味のテニスが全然できない毎日。近所のシライ市営のコートは、アウトドアで土のサーフェイスしかなく、水はけがあまり良くない。最低でも24時間ぐらいは雨が止んでいないと、乾いてくれません。生乾きでプレーしようとすると、コート管理のオっちゃんが「バサ・バサ」(basa basa 湿ってる)と言って、追い払いにかかる。

そして、なんとこの年末のクリスマスの時期に、台風26号がフィリピンに接近しています。フィリピン名はニーナ(Nina)。可愛らしい名前ですが、まるで狙いすましたように、イブにフィリピン東岸に近づき、クリスマス当日にマニラ首都圏直撃のコース。

ネグロス島は、直接の被害は少なそうとは言え、クリスマスイブに強風と土砂降りなんて、勘弁してほしい。この日ばかりは、日頃あまり真面目ではないカトリック信徒も、夜のミサに家族連れ立って与るのが、フィリピンの習慣。クリスマス前の約1か月の待降節(アドベント)の期間、歌わずに我慢していきたグロリア(栄光の讃歌)を爆唱して、ミサの後は、みんなでご馳走を頂くのが楽しみなのに。

私たち家族がお世話になっている教会は、サブ・ディビジョン(宅地)の中にある神学校付属のチャペル。それほど大きくはないので、クリスマスミサの時にはお御堂だけでは足りず、庭に椅子を出して、いつもの倍以上来る信徒を受け入れます。もし大雨になってしまったら、ミサが中止にはならなくても、参加できる人がは少なくなってしまいます。神さま、どうか、台風が逸れますように...。


2016年12月21日水曜日

季節を感じる朝7時


今日は、冬至。一年で一番昼間の時間が短い日。こればかりは全地球規模で、共通の現象。しかし日本に比べてフィリピンは、約3000キロも赤道に近いので、同じ北半球と言ってもだいぶ雰囲気は異なります。

大阪では夏至の日没が午後7時15分ごろで、冬至は午後4時50分ごろ。その差は約2時間半。それに比べて、ここネグロス島だと、夏至が午後6時30分ごろで、冬至が午後5時30分。たった1時間しか違わない。日本では「秋の日はつるべ落とし」なんて美しい言い回しで、表現されますが、こちらでは誰も、日が短くなったことを意識しないでしょうね。

実際、生活してみても、4〜5月の特に暑い時期を除くと、季節を感じることはほとんどありません。最低気温は平地だと20度以下になることはまずないし、大抵の花はいつも満開。枯葉は散らず、年中新緑。自然よりも、クリスマスやイースターなどの人間が決めた行事で「1年経ったんだなぁ」と思うのが関の山。昔のどの写真を見ても、Tシャツに短パンだと、不思議に時の移ろいが、日本にいた頃より早く感じます。寒かったとか、暑かったとかいうのは、記憶や時間の感じ方にも影響があるものらしい。

そんなフィリピンの四季(というより、せいぜい二季?)も、稀に実感されることも。ちょうど今頃の、冬至を挟んだ前後1か月間ぐらいの毎朝7時ごろ。自家用車で子供を学校に送って行く時間帯に、小学校から自宅に戻るルートが、日の出の方向とぴったり重なり、真正面から朝の直射日光を浴びて運転することになります。

しかも、夜間に激しい雨が降って、早朝には止むパターンが多いので、路面がびしょ濡れで、反射光も眩しく、とても危ない状況。その上、私は極度の近視。メガネ無しでは運転できず、最近は老眼が進んでコンタクトレンズも使いづらい。つまりサングラスがかけられません。今は、クリスマス休暇ですが、年が明けたら、またあのヒヤヒヤ運転再開です。

もうちょっと情緒のあることで、季節を感じたいけれど、これも、寒い冬無しで生活できることの代償というものでしょうか? 考えてみれば、寒くて暗い冬の朝、布団から出るのも一大決心の場所には、戻りたくはないですね。会社勤めの頃は、だいたいそういう朝、特に月曜日に「退職」の文字が頭に浮かんだものでした。


今日、冬至の黄昏時
空がピンク色に染まりました


2016年12月20日火曜日

クリスマス大好き 13か月給与法


フィリピン人は、クリスマスが大好き。
このフレーズ、今までブログで何回書いたことやら。バー・マンス(ber month)と呼んで、語尾が ber で終わる月は、全部クリスマスシーズンなのがフィリピン。9月(September)からお店のショーウインドウはクリスマスデコレーションが始まるし、BGMもFMラジオからもクリスマスソング。

年中夏なので、元からここに住んでいる人にとっては当たり前でも、寒い冬がある、北半球の国から移り住んできた人間にとっては、どうしても慣れない、最高気温30度の12月。師走の雰囲気ゼロだし、サンタクロースの服着たマネキンも、暑苦しいとしか見えません。


クリスマス休み前、最終日の小学校
夏休み前みたい

そんなへそ曲がりの私は、なぜフィリピン人がそこまで騒ぐのか、イマイチ理解できませんでしたが、最近やっと理由が分かった。それがクリスマスのボーナス。ボーナス支給なんて、日本の、それもある程度業績の良い会社にしかないのかと思ってたら、フィリピンでは法律があって、社員にはクリスマス前に、各従業員の1か月分を支払わないといけないそうです。名付けて「13か月支給法」(13th Month Pay Law)。

つまり、雇用主は年間12か月分にプラスして、業績が黒字だろうが赤字だろうが、雇っている人には、1か月分を余計に払わないといけません。労働基準法で決まっているのです。しかも、働き始めて1か月の人も例外ではないし、年内に辞めた人に対しても支払い義務がある。これは、経営者にとっては、相当な負担ですね。

でも、貰う側にいれば、そりゃ嬉しくなるでしょう。道理で早くから、皆さんワクワク・ウキウキになるはずだ。しかも、勤め人だけでなく、個人事業主であるタクシーの運ちゃんも、散髪屋のにいちゃんも、みんなクリスマス料金。

そう言えば、自宅を建ててる時、クリスマスには僅かながらでも、ボーナス支給してたなぁ。私たちが住むサブ・ディビジョン(宅地)は、周囲がフェンスで囲まれ、ショットガン持った警備員が常駐。全部で十人ぐらいいる、その人たちにも「クリスマス・チップ」。ここでは管理事務所の担当者が、家のオーナー宅を一軒づつ回って、お金を集めてます。

チップなので、額は決まってないけれど、リストにサインして金額を書き込むもんだから、みんな見栄を張って、500ペソ(約1200円)ぐらい支払う人も。ネグロス島では、大工さんの日給が、せいぜい300ペソぐらいなので、チップとしては、決して安くない金額です。

さらに週に2〜3回来る、ゴミ回収車のおじさんたちにもチップ。ご丁寧に封筒を用意して、これまた一軒づつ手渡し。相場はだいたい50ペソ(約120円)ぐらい。でも今日は財布に細かい紙幣もコインもなくて、仕方なく100ペソ払っちゃいました。

極め付けは、クリスマス・キャロル。子供も大人も、歌がプロ並みでも、耳を塞ぎたいレベルでも、お金持ってそうな家に目星をつけて、玄関前でいきなりミニ・コンサート。小学生のグループが、かわいい声で歌ってくれたりすると、有料でも嬉しいものです。昨夜のキャロルには、なんと息子のクラスメートの女の子が混じってました。

これは別に物乞いをしている訳ではなく、ごく普通のフィリピンの習慣。言ってみれば、日本のお年玉みたいなもんでしょうか。家内は、息子にも「来年は、キャロルしなさい」と焚きつけてました。

さて、我が家のメイド、ネルジーにもボーナスを上げないといけません。ところが、ネルジーは同じクリスチャンでも、クリスマスを祝わない「イグレシア・ニ・クリスト」の信者。家内は「クリスマス関係ないんなら、ボーナスも要らんやろ」と、ちょっと不機嫌です。そんな意地の悪いことを言ったら可哀想でしょ。



2016年12月19日月曜日

正直メイド、嘘つかない


フィリピンのメイドさんについての投稿後、何人かの日本人の方から、メイドの盗癖についてのご指摘がありました。確かに、雇い主がフィリピン人でも日本人でも、この手の話はよく耳にします。

フィリピンでの生活を始めて、約4年。その間、通い・住み込み含めて、合計4人のメイドさんを雇ってきました。無断外泊したり、何の連絡もなしに行方不明になったりと、素行に問題のある人はいたものの、お金や貴重品に手を出したメイドさんは、一人もいなかった。これは、ものすごい幸運だったのでしょうか?

一般的に、フィリピンでのメイド業では、資格は不要。雇ってもらえれば、誰でも、今日からでもメイドさんになれます。私たちの住むネグロス島のシライ市では、紹介所やエージェントもなく、メイドさんを雇いたくても、人伝てに頼むか、自分で探してくるしかありません。

例えば、市場とか教会前の広場などの人通りの多い場所で、「メイド募集(House Maid Wanted)」なんて大書したプラカードでも掲げれば、10分もしないうちに人だかりができるでしょう。要するに誰でもよければ、メイドさんを見つけるのは簡単なこと。

実際、大金持ちのお隣さんは、プラカードは掲げないけれど、「誰でもいい」式に求人してるらしい。ところが、すぐにクビにして、新しい人を雇うの繰り返し。やっぱり、雑に選ぶと雑な人しか集まらないんですね。この家には、息子と同級生で同じ学校に通うの女の子がいて、この子がお父さんの車で登校する時間が遅くなると「あ、またメイドさんをクビにしたな」と分かってしまいます。

我が家の場合、歴代のメイドさんは、すべて直接知っている親戚や友人からの紹介でした。まず最初の、自宅が建つ前の借家暮らし時代に、通いで来てもらっていた、ライおばさん。私と同年代で孫がいるライさんは、家内の実家で永く働いてきた人。家族ぐるみでの付き合いがあって、料理も家事一般もソツなくこなす大ベテラン。今でもパーティとかで、人手が必要な時は、たまに来てもらってます。

初代住み込みのカトリーナは、高校卒業したての17歳でした。この子は、家を建ててくれた大工さんの娘さん。無断外泊さえなければ、多分今でも我が家で働いていただろうと思います。全体的にあまり悪い印象はなかったのですが、フィリピンで奥さまを怒らせてしまっては、どんな家でもクビになっちゃいますね。

二代目アミーは18歳。私の友人で、別の家でメイドをしているリタの姪っ子。カトリーナよりも真面目で愛想が良く、見た目もチャーミング。日本人のお客さんが「モデルみたいですね」と評したスレンダーなスタイル。ところが、やっぱりモテる子は、男の子と遊びに行きたいし、住み込みメイドのように時間拘束が長い仕事は、無理だったんでしょうか。去年の年末年始休暇で実家に帰ったきり、戻ってこなくなりました

そして今年の2月から、我が家で働き始めたネルジー。24歳ながら、他家で6年も働いた経験があります。別に命じなくても、朝5時には起き出して、掃除を始めるし、真面目さ加減では抜群。この頃は家内もすっかりネルジーを信頼して、鍵を預けたり一晩留守を任せたりしてます。やはり、紹介してくれたのは私のフィリピンの友人で、私の知る限り、一番時間にもお金にもきっちりしている、クリスティンという女性。

こうして書いてみると、フィリピンでのメイド選びのポイントは、紹介してもらう人物の信用度に尽きるようです。そして、メイドさん本人の性格だけでなく、その家族や、どんな人たちと付き合っているかを、そこそこ把握できるかが肝要。ただしこれは諸刃の剣の側面もあって、雇い主の行いが悪かったり、メイドさんに辛く当たったりしたら、紹介した人や、メイドさんの家族・知り合いを通じて、雇い主が信用を失うことになります。噂社会のフィリピンでは、要注意事項ですね。


2016年12月18日日曜日

南国映画館「君の名は。」


先週12月14日から、フィリピンでも劇場公開が始まった、映画「君の名は。」。日本の歴代興行収入第2位を記録する大ヒット作で、内容について今更説明の必要もないでしょう。約半年遅れで、ここフィリピンにもやって来たというわけです。

日本のアニメのファンが多いフィリピン。それでも劇場で公開される作品は、それほど多い感じでもありません。少なくとも、私たち家族が移住してからの、この4年間では「ポケモン」ぐらいだったでしょうか? 日本の実写映画に至っては、フィリピンの映画館で見た記憶はないですね。

マニラの映画館で「君の名は。」公開予定という情報はあったものの、ネグロス島ではどうなのかは、まったく知らず。たまたま、クリスマス前の買い物で、家族で州都バコロドのショッピングモールに行った、昨日の土曜日。ひょっとしてと思い、最上階のシネコンを覗いてみたら、"Your Name" Now Showing の表示が。時間も開始前15分だったので、これ幸いと、小学生の息子と二人で映画館に飛び込みました。

今回嬉しかったのは、英語の吹き替えではなく、日本語のオリジナル音声そのままで、英語字幕版だったこと。日常生活では、それほど困らない程度の英語力はあるけれど、映画は難しい。

ハリウッド製の話題作は、字幕なしでそのまま上映できるので、日本よりも早く見られるケースが多い。本当はもっと頻繁に映画館に足を運びたいのですが、アクションやSFならばなんとかなっても、やはりシリアスなドラマになると、筋を追いかけられず、どうしても敬遠してしまいがち。ということで、本当に久しぶりに、言葉で煩わされず映画を楽しむ機会になりました。冒頭の「東宝」のタイトルには、思わず快哉を叫びそうに。

監督の新海誠さんの劇場デビュー作「ほしのこえ」は、WOWOWで放送された時に見ました。「なんて美しくて情感たっぷりに、空を描く作家なんだろう」という印象が強く残った作品。そして今回の「君の名は。」は、「ほしのこえ」以上に、空そのものがストーリーに深く結びついた内容で、主人公たちの心情描写も、空で表現。全編、とても気持ちよく見ることができました。

細かい部分では、田舎の情景の中に、「オロナミンC」や「アース」の昔懐かしい看板が描かれていたり、飲料の自動販売機に「コーヒーのBoss」のロゴを見つけたりで、本筋とは全然関係ないところで、一人ウケてしまった。

さて、気になるのは、映画を見てのフィリピン人の反応。
実は土曜日とは言え、正午過ぎの、その日最初の上映回だったせいなのか、まばらにしか人がいませんでした。内訳は、全員10代か20代前半くらいの若い人ばかり。家族連れはおらず、友達同士とか男女のカップルのみ。

前半の、シチュエーション・コメディっぽいパートでは、結構笑いが多かった。笑うタイミングも、日本人の観客と多分同じという感じ。そしてエンディングロールでは、拍手する人がいました。これは、日本ではあまりないことですね。

それにしてもこの映画では、飛騨の田舎町も東京も、ずいぶん綺麗に描いてました。日本でも、映画に登場した場所を「巡礼」するのが流行っているそうなので、これは日本に憧れる若いフィリピン人は、映画を見た後、ぜひ行ってみたいと思うんじゃないでしょうか?(すごく幻滅して帰国するかも知れませんが)そう考えると、「君の名は。」は、よく出来た日本の観光案内映画になっている、とも言えそうです。

まぁ、たった十数人程度とは言え、皆さん楽しんでいたようで良かった。その次の回には、もう少したくさんのお客さんが待っていました。私も映画が気に入っただけに、中国と同様に、フィリピンでも大ヒットしてほしいものです。

でも正直に言うと、なぜ「シン・ゴジラ」は上映されないのか?と思うし、もっと正直に言うと、「君の名は。」よりも「この世界の片隅に」をフィリピンの映画館で見てみたかった。


2016年12月15日木曜日

フィリピン暮らし How Much?


フィリピンの最高額紙幣
1000フィリピンペソ札

もうすぐ5年目に突入するフィリピン暮らし。家も建ったし永住ビザも入手。息子は現地の学校に馴染んだようで、女の子に大人気(らしい)。すっかり生活が安定して、月々の生活費もほぼ決まった額になってきました。

今日は、これからフィリピンへの移住を考えておられる人たちに向けて、実際のフィリピン暮らしに、どれぐらいお金が必要なのかを、ご紹介したいと思います。

しかしながら、私たち家族(夫婦と小学生の子供が一人の三人)が住んでいるのは、マニラやセブ、ダバオなどの、人口数百万とか一千万を超える大都市ではなく、地方のネグロス島。面積ではフィリピン国内4位の広さの島とは言え、州都バコロド(人口50万)ですらなく、そこからさらに車で30分ほど離れたシライ市。場所によっては、同じものでも値段が全然違うので、その点は十分ご留意ください。また、土地と家(フィリピン人の家内名義)、車の購入などの初期投資に、合計約1200万円程度かかったことを記しておきます。



まずは毎月の支出のうち、金額と内容がだいたい決まっている項目を書き出してみました。やはり食費の6000ペソ(約14000円)が大きい。我が家の場合、一般的なフィリピン家庭に比べて、日本からの輸入食材(味噌、豆腐、みりんなどの調味料、カレールー、インスタントラーメンなど)を定期的に購入しているので、2〜3割は高くなっているでしょう。つまり日本の味を一切諦めれば、2000ペソ(約5000円)程度は、安く上がることになります。

意外にも高かったのが息子の学費の2800ペソ(約6600円)。公立ならば高校までは無料のフィリピンですが、現地の言葉ができない息子には、全教科英語で教える私立の学校しか選択肢がありませんでした。年に一度まとめてなので、日頃は意識しないけれど、月割りにするとかなりの額だったんですね。ちなみに分割も可能。滞納もあるらしく、一括で早めに支払うと割引になります。つまり2800ペソは、これでも割り引かれた金額。

思った通りに高いのが電気代。2500ペソ(約6000円)は、毎日のシャワーに使う電気温水器や、水圧を上げるためのポンプの稼働がなければ、もう少し抑えられる数字。普通の家だと、水シャワーが当たり前だし、自家用ポンプを設置している家は多くない。とにかくフィリピンの電気代は、近隣諸国でも例がないほど高額。日本並みか日本より高いかも知れません。

食費以外で一番値が張るのが、家政婦給料3000ペソ(約7000円)。メイドさんのネルジーに毎月支払ってる金額。住み込み家政婦がこれで雇えるとは、日本の感覚だと破格の安さ。でも、ネグロス島の相場だと、そんなに悪くはありません。

マッサージというのは、週一の出張マッサージで支払っている金額。一回2時間で私と家内が1時間(300ペソ)づつ。月8時間として2400ペソ(約5700円)。全体の支出に占める割合で見ると、これも思ったより大きい。切詰めるとなったら、まずここですね。

通信費は、固定電話(インターネット接続を含む)と、携帯電話の使用料。固定電話は、契約を結んでいるグローブに支払っている1300ペソ(約3000円)で、携帯は、都度プリペイド式で度数(ロード)を購入。いつも1回100ペソ分づつ買っています。家内の分と合わせて月500ペソまでぐらいで合計1800ペソ(約4300円)。でもちょっと油断すると肝心な時になくなるという不便さ。定額制はあるものの、割高なので、文句を言いながらもこまめにプリペイドで我慢してます。

フィリピンには国民皆健康保険制度がありません。私と家族は、入院時のみに適応される入院保険に加入していて、支払い金額は年間4000ペソで、月割りにすると330ペソ弱(約800円)。時々クリニックで診てもらう程度風邪ひきならば、医療費は安いのですが、入院すると一泊でも1万円近い費用になります。移住した年に、食中毒で2泊入院して、早速この保険のお世話になりました。

ケーブルテレビの視聴料が月額500ペソ(約1200円)。放送内容は、日本のスカパーのような感じで、フィリピンの放送局だけでなく、主にアメリカのニュースや映画が楽しめます。NHKの英語放送ありますが、残念ながら日本語のものは見ることができません。

トライシクル(輪タク)の費用が、一月分の概算で1500ペソ(約3500円)。買い物や通勤など、近い距離でもフィリピンでは滅多にあることをしません。私は健康にも気を使ってよく歩くのですが、それでも暑い盛りの時期は、ついついトライシクルに頼ってしまいますね。

飲料水は、どこでも町内に一軒はある、飲料水販売の店から購入しているからです。水道水はシャワーや洗顔には問題なくても、さすがに直接飲むのはちょっとリスクが高い。我が家だけでなくどの家庭でも、20キロ程度入るのプラスティックタンクで買ってます。1タンク分で20ペソ。空になったタンクをお店に持って行って、水だけを詰めてもらう方式。追加料金で配達もしてくれます。

あとは各種の税金や車の燃料費など、合わせて26,730ペソ(約6万3千円)。もちろんそれ以外にも、服や外食、旅行などの固定ではないも勘案して、年間でだいたい50万ペソ(約120万円)以内で生活しています。

ただし私は、酒・タバコは嗜まないし、ゴルフも夜遊びもしません。実はバコロドには、本格的なゴルフコースもあれば、地元では有名な歓楽街「ゴールデン・フィールド」という場所もあります。バーやクラブ、ホテル併設のカジノだって揃っている。その気になれば、おそらく一ヶ月で100万円やそこら使うのは、簡単なことでしょう。(ヘタすると、一晩で散財?)また、予測できない大病や大怪我などについては、当然ながら計算外。これは日本にいても同じことですね。

と、こういう感じです。フィリピン移住を画策している方々、参考になりましたでしょうか? それでは、同志諸君の幸運と健闘を祈ります。


ドレスアップ・フィリピン妻

このところ立て続けに、少々重たい話題だったので、今日は軽めに。

日本風に言うと、ネグロス島、シライ市の教育委員会の職員になったフィリピン人の家内。つい先日は、業務開始から2か月経って、ようやく初任給を貰ってきました。これは給料が滞納されたわけではなく、勤め先の手続きが遅れて、振込先の銀行口座がなかなか開設できないという、実にフィリピンらしい理由。なので、初任給は小切手支給です。

1.5か月分で約9万円と、フィリピン人で、しかも田舎街シライにしては、かなりいい稼ぎの家内。その週末は、シライ市内で一番高級な(と言っても、家族3人で2000円も出せば、ビールも付いて、満腹になれる店ですが)レストランに、私たち親子と実家の義父、弟夫婦に息子の従兄姉を集めて、夕食をご馳走してくれました。

さて、就職して初めての年末。昨日、300名ものゲストを招待して、シライ市主催で恒例の「年間最優秀教職員表彰」のセレモニーとパーティがありました。これは、市内にある約80の公立小・中・高校の校長や教師、職員などを対象にした表彰制度の一環。でも自薦なのか他薦なのか、誰がどんな審査で選んでるのか、家内も知らないそうです。


シライ市内の教育施設や、先生たちの支援をする立場の、家内の職場、通称「ディペッド DepEd」(Department of Education)。家内は、受賞ではなく、会場の設営や運営サイドで、このセレモニーに参加しました。ついでに私にも招待状。

この準備が大変。何が大変かというと、ずいぶん前から当日の衣装やメイクの手配に大わらわ。驚いたことに、このために隣街のバコロドまで出かけて、自前でドレスのレンタル。採寸までして、そのドレスの最初のお客さんになるんだとか。そしてメイクは、パーティが始まる午後3時の何時間も前から、職場にメークアップ・アーティストを呼んでました。後で聞くと「600ペソ(約1400円)もかかった」とこぼしてたけど、それが許される職場というのもすごい。


そして、パーティ当日。1時間前に会場入りした家内の仕事は、来賓対応の案内係。それなら別に、ちょっと綺麗な服装ぐらいでも良さそうなもの。まるで結婚披露パーティに臨む新婦さんみたいにならなくても。添え物の私も、涼しい時期とは言え、最高気温が30度近くなる気候の中、黒のスーツにネクタイ。移住以来初めてなので、4年ぶりの正装です。

だいたい予想はしてましたが、セレモニーの完成度が半端ではない。プロのパーティ・コーディナーターが付いて、司会は男女一組で、こちらもプロのMC。音響も照明も、ちょっとしたコンサート並み。ホームルーム担当や各種の学校設備、職員に教員、校長に顧問など、10部門毎に、ノミネートされた数名が登壇。まるでアカデミー賞みたいに、部門別のプレゼンテーターが「紳士・淑女の皆さん、今年の最優秀教員は...、ミセス◯◯です!」てな具合に発表。

それにしてもフィリピン人は、スピーチ慣れしてる人が多い。「長」と名のつく役職の人ならば、堂々たる英語のスピーチはお手の物。抑揚があり、適度に笑いも入れながら、MCと比べても遜色のないレベル。市長、副市長、市会議員、さらにはネグロス島全体を統括する行政区分の「リージョン」責任者まで、一通り挨拶。それでも居眠りせずに全部拝聴。この国では、社会的地位の高さとスピーチ能力は、比例するんですね。

スピーチと受賞式典だけではなく、途中に3回も地元高校生による歌や踊り、寸劇が入りました。これがまた、ミュージカル「グリース」の一幕を再現したりして、とても素人とは思えない仕上がり。特にソロで歌った女の子は、「この子、いつデビューするんや?」と言いたくなるほどの歌唱力。

初めて参加した、政治家も出席するフォーマルな場所。思いがけず、フィリピン・エンターテイメントの層の厚さを垣間見る機会となりました。


最後は関係者全員が登壇して合唱状態


2016年12月13日火曜日

助けが必要なのは日本


前回前々回と、続けて投稿した、フィリピン人のメイドさんに日本へ来てもらおうという話。念のために書きますが、これは仕事がなくて可哀想なフィリピン人に、お金持ちの日本人がお情けで雇用機会を提供する、ということではありません。

今助けが必要なのは、日本なのです。赤ちゃんが生まれても、頼れる身内が近くおらず、有料の保育園は満員で断られる。賃金は下がる。法外な残業をしないと生活できない理不尽な労働慣習は、当分改善されそうにない。

これから子供を作ろうというカップルは、こんな過酷な状況を目の当たりにして、最初から育児そのものを諦めてしまい、労働人口は減る一方。今40代、50代の年金生活予定者(つまり私の世代)にも死活問題です。海外から家事や育児、老人介護を支援してくれる労働者を受け入れる以外に、喫緊の問題を解決するウルトラC的方策があるなら、教えてほしい。少なくとも私には想像できません。

もう今でもかなり手遅れだと感じているのですが、もし私がフィリピン人で、海外に仕事を求めるのなら、言葉の壁が厚く、しかも低賃金で過剰な完璧さを求める日本など、最初から選択肢にすら入れないでしょう。日本に憧れるフィリピン人がいるのは、実態を知らないだけのこと。英語がそのまま使える、シンガポールや香港の方が働きやすいし、フィリピンからも近い。苦手な寒い冬だってありません。

そして専門知識や能力があるなら、アメリカやカナダを選びます。仕事の条件は厳しいかもしれないけど、それはプロに求められる、報酬の引き換えとしては当然の要求。日本独特の、理解不能の理不尽さはずっと少ない。

そもそも日本は、もはや裕福で幸せな国とはとても言えません。相対貧困率は6人に1人という、先進国ではかなり高い数字だし、名目GDP(国内総生産)ではアメリカの1/3以下、中国の半分にも及ばない。いじめと自殺という社会問題も解決の糸口が見えない。それなのに、いまだに1980年代のバブルの頃の幻想にしがみついている人が、どうも多いように思います。特に現在年金で生活をしている世代。

落ちぶれてしまった現実には目を閉ざし、プライドだけは高く、自分たちのやり方を押し付けるようでは、いずれ見向きもされなくなるでしょう。「雇ってやろう」の上から目線どころか、お願いして来てもらわないといけない立場であることを、いい加減に悟るべきです。

建築ラッシュに沸くマニラやセブを見て、どうせバブルだと冷笑的になっている場合ではない。日本の地方都市に蔓延する、シャッターが閉まったままの商店街と比べてみてほしい。ネグロス島ですら、州都バコロドの活気はすごい。さらにこの田舎町のシライに、大型ショッピングモールがオープンしようとしています。何よりもこの国は、子供や若い人たちで溢れかえっている。

私が日本での子育てに見切りをつけて、我が子の将来をフィリピンに託した理由は、こういうところにあるのです。


2016年12月12日月曜日

フィリピンメイド雇用の実際


前回の投稿では、早くフィリピンからメイドさんを呼んで、働く日本の主婦・主夫をもっと楽に...という趣旨のことを書いたところ、早速フェイスブックを通じて、何人かのフィリピン在住と思われる日本人の方から、反響をいただきました。

その中の意見として、フィリピン人のメイドを雇っても、仕事内容に不安や不満があって任せられない。結局たいへんでも、自分でやった方が気が楽との声が。確かに、日本人の家政婦さんとまったく同じレベルのサービスを期待したら、それは完全に裏切られるでしょうね。

こちらにはそんなつもりはなくても、フィリピンの感覚では、指示らしい指示もなく、隅々まで完璧を求められるように感じるでしょう。それに日比の経済格差を差し引いても給料が安い。ネグロス島だと、日本円で1万円も貰えばいい待遇。そんな低賃金で完璧を要求する方が無理筋というもの。

かれこれ3年間、メイドさんを雇用してきた私でも、さすがにフィリピン人メイドを、何の準備もなしにいきなり日本に連れて行って、お客さんに満足してもらえるとは思いません。「多少拙速でも早く」と書きましたが、当然ながらある程度の訓練は必須。では実際にメイドさんを受け入れるには、どんなことが必要になるか、ちょっと考えてみました。

まず最初の難関は日本語。こればかりは、最低でも家事で使う語彙と、雇用主と意思疎通ができる程度の会話能力がないと、それこそ話になりません。ただしここで、丁寧語も謙譲語も完璧に...とか言い出すと一気に「超狭き門」になってしまいます。大学の教授になって講義をするとか、神父さまの代わりにミサで説教をするわけではないので、最初は、家事限定の日本語で十分。その後、本人の努力で日本語能力が上がったら、サラリーをアップするようなインセンティブがあればいい。

家電製品の表記が全部漢字というのも、家事をするには問題でしょう。私は以前、家電製品のインターフェイス・デザインを担当していたので、よく分かりますが、漢字というのは、世界でも最も洗練された表意文字。短い表現でも実に理解しやすい。アルファベット圏のリモコンなどが、アイコンばかりなのとは対照的です。でも、家電の表記だけに限って学習すれば、それほどたいへんでもない。

フィリピン人の家内が来日した時、最初は洗濯機や掃除機、テレビのリモコンに、全部英語のラベルを貼ろうかと、真剣に悩みましたが、慣れてしまえばどうってことはありませんでした。とにかく何もせずに悩むより、やってみて改善していく姿勢があれば、恐れるには足りません。

それにも増して一番大事なのは、雇う側の意識の問題。「以心伝心」とか「一を聞いて十を知る」という言葉は、フィリピンでは通じません。そんなことを本気で言ったら、私は超能力者ではないと返されるのがオチ。どんなことでも、命じたことだけしかしないと思わないと危ない。場合によっては、紙に書いて渡すぐらいでないと。

我が家の歴代メイドさんの場合、調理の手伝いは、野菜を切るサイズも、ご飯を炊く量も、一回ごとに細かく指示しています。食材の買い物も全部メモ。八百屋さんもよく分かっていて、書いたメモに値段を書いてくれるので、お釣りの間違いや誤魔化しがない。日本の場合だとレシートをくれる場所の買い物がほとんどなので、これは大丈夫でしょうけど。

そんな感じなので、まずは単純な作業から始めるのが無難でしょう。それでも、食器洗いや洗濯物のたたみ、水回りの清掃などだけでも、やってもらえると本当に助かる。フィリピンでも料理はダメで、掃除・洗濯・食事の後片付けだけに特化したケースも多い。その分サラリーは、料理ができる人に比べると安い。

さらにフィリピンでは当たり前の住み込み。これは日本の住宅事情ではまず有り得ない。たとえ金額的には何とかなっても、雇い主が心の病気になりかねません。それに、雇用条件の交渉など、メイドを雇い慣れない日本人にはハードルが高い。やはりサービスを提供する会社などから、時間と作業内容を限定して、派遣する形式になるでしょうね。(これには、メイドさんをトラブルから守る意味もあります)

いずれにしても「金払うんだから、完璧にやってもらって当然」という態度では、受け入れは失敗します。それなりのサービスだけど、日本人を雇うよりもずっと安い、ぐらいに考えないといけません。そして、相手は感情のある人間だということも忘れずに。まぁそれは、どこの国でも、対人関係構築の基本ではありますが。

そんな、ちょっとした意識改革さえできれば、メイドさんのいる生活は、ずいぶん楽。私が50過ぎで「主夫」を始められたのも、メイドさんがいてくれてこそです。

次回に続きます。


今こそメイドビザを


今年、2016年版のジェンダー・ギャップ指数が公表されました。ジェンダー・ギャップ指数とは、世界経済フォーラムという国際的な非営利団体(1971年に発足し、スイスのジュネーブに本部を置く)が、年に一度世界各国別に、男女間で均等に地球資源が分配されているかどうかを数値化したものだそうです。

この指数の算出の基礎となるデータは、「健康」「教育」「経済参加」「政治参加」の4カテゴリーで調査され、一般的には「男女平等ランキング」と紹介されています。数値が高いほど男女間格差を小さいということ。

昨年、調査対象国142の中で、101位だった日本。今年はさらに悪化して111位まで落ちてしまいました。これに対してフィリピンは、アジア諸国ではブッちぎりのトップで、全体でも7位。日本の場合、教育では格差が小さいものの、経済・政治参加、つまり議員や管理職に就いている女性の割合が、とても低い。

確かにフィリピンでは、ここ30年で女性の大統領が二人も選出されているし、現職の副大統領も女性。私のメインバンク、メトロポリタン銀行のシライ支店では、支店長以下のマネージャーがほとんど女性で子持ち。しかも私が口座を開けた時期には、担当マネージャーが、本人も周囲も当たり前の顔して、臨月のお腹を抱えてました。私の見聞や実体験からも、この指数の結果には説得力を感じます。

これに関して、日経スタイルは興味深い記事を書いています。フィリピンでの女性の社会進出を支えているのは、メイドさん。ホワイトカラーに従事する女性は、家事・育児など任せられるものを、プロに外注することを躊躇しない、という意味の内容。

これだけを読むと、何もかも丸投げにして、女性は仕事だけしていると捉える人もいるかと思いますが、日本と違って狂ったような時間外労働は、女性に限らず男性でも絶対にしないし、土日はキッチリと休む。夕食時や休日には家族と一緒に過ごすのが常識なので、家事はしてもらっても、子供を放置することにはなりません。

中には本当にメイドやヤヤ(雇われ乳母)に任せっきりの人がいても、それは少数派。カルチャーではなく、各家庭個別の問題。日本にだって育児放棄する親がいるのと同じです。

我が家では主夫が私で、働いて現金収入を得ているのが家内。お弁当と夕食の支度、子供の学校への送り迎えは、私が担当しています。(小学生の子供を一人で登校・帰宅させたりすると、虐待だと思われかねません。)それでも家内は、息子と平日でも1時間やそこらは会話してるし、健康状態や学校での出来事を把握しています。

掃除・洗濯・買い物などはメイドのネルジーに頼んでいて、何より助かるのは、食後の片付けやってくれること。もし自分が外で働いていて、しかも家事もするとなったら、流し台に汚れた食器が溜まってたり、乾かした洗濯物が山になっていたりした時に、一番徒労感を覚えることでしょう。これだけでも、メイドさんがいてくれて、本当に気持ちが楽。

「保育園落ちた日本死ね」が流行語になってしまう日本。今必要なのは、一刻も早くフィリピンなどの海外から、メイドさんに来てもらうこと。これ、だいぶ以前から本気で考えてます。とにかく日本は対応が遅すぎる。その上、効果が10あっても、弊害が1でもあったら、全部却下という体質。「完璧に準備ができました」という体裁が整わないと動きません。

例えば、フィリピン人看護士の受け入れの条件に、完璧な日本語と完璧な医療知識を求めたり。以前にも書きましたが、そんな優秀な人は日本に来なくても、アメリカで就職できるだろうし、フィリピン国内でも仕事は見つけられます。誰がわざわざ高いハードルを克服して、過労死といじめの国に来てくれるものか。(しかも最近は、低賃金)

もう多少拙速でもいいから、とにかくやってみて、問題が出たら都度法律や制度を改善していく方法が、取れないもんでしょうか。完璧主義の日本では、大人も子供もみんなが疲れていて、不幸せそうなのに、なんでもエエ加減な国フィリピンでは、みんな幸せそう。この調子では、日本のジェンダー・ギャップ指数は、この先何年も改善されそうにありません。

次回に続きます。


2016年12月10日土曜日

就活中のあなたへ


先日、ここネグロス島シライ市内で活動するNGOに、日本からインターンとして参加中の大学生のお嬢さんと、話をする機会に恵まれました。この年齢の人だと、もう親御さんが私と同世代だったり、下手すると歳下だったり。そして話題は、やはり就活のことに。

彼女には、もう意中の就職先があるようで、なぜそこで働きたいかを語ってくれました。ところが、それが何となく優等生の模範解答っぽい。「社会貢献」「自然環境」などの言葉がちりばめられて、全体の筋は通っているけれど、本当にあなたのやりたいことはそれ?と尋ねたくなりました。

最後の方に出てきたのが、その会社はフィリピンでの事業も手がけているので、何年か日本で勤めて、機会があればフィリピンでも...。とのこと。いや、それが一番大事なことなんじゃないの? 社会貢献とか自然環境のことはどうでもよくて、本音はフィリピンで働きたいんでしょ?

ちょっと意地悪な、面接官みたいな問い詰めになってしまいましたが、じっくり話を聞いてみると、やっぱりフィリピンを含めて、海外に出たいそうです。ところがいろんな事情があって、決断ができない。おそらく周囲からは、「現実はそんなに甘くない」「家族や友達と離れて、一人でどうする」なんて言われたんだろうと推測します。私がフィリピン移住を決めた40代の頃ですら、散々そんなことを聞かされました。

でも、子供の夢みたいなことが、実は一番重要。そして大抵そんな夢は、とてもシンプルです。そもそも私は、絵を描いたり紙細工を作るのが大好きな小学生でした。要するに図画工作。それが高じて、美術系の大学に入り、工業デザイナーになりました。

よく考えてみると、図画工作の延長で、高校生の頃せっせと模写してた、松本零士さんのちょっとエロティックな美人イラスト。(当時は銀河鉄道999や宇宙戦艦ヤマトが大流行り)今だから正直に言えますが、女の裸の絵を描きたかっただけなんですよ。単なるリビドーの発露。でも、それが美大入試に必要な、デッサン力や表現力の基礎訓練になったのは間違いありません。

大学では夢が叶って(?)、女性のヌードデッサンやクロッキーもしました。ところが実際には、限られた時間で描写に専念しないといけないので、ドキっとするのは最初だけ。性的な気分に浸るどころでは、ありませんでした。

私だって就職の時には、「使いやすくて美しい生活の道具をデザインする云々」ともっとらしいことを言ってました。でも働き始めて幸せだったのは、アイデアスケッチを描いたり、デザインサンプルの仕上げをしている時。つまり図画工作。それで給料をもらえるんだから、最高でした。幸せでなくなってきたのは、デザイン決定のための言い訳作り(デザイン・コンセプトとも呼ぶ)や、デザイン・マネージメントと称して、実作業以外の日程や予算管理の仕事が増えてから。

かなり話が横道に逸れました。言いたいのは、どんな仕事を選ぶにしても、多少夢みたいでも、動機が不純でも、本当にやりたいことが、できるかどうかが問題。「何をしたいか分からない」なんて、自分の気持ちに正直になっていないだけです。周囲の人に気を遣って、やりたいことを諦めて後悔しても、誰も助けてくれませんよ。

やりたいことをやってみて失敗したら? その時はやり直せばいいだけのこと。若い頃、何かに没頭した経験は、絶対に無駄にはなりません。そもそもやらずに後悔するより、やって後悔した方が、はるかにマシだと思いませんか?


2016年12月6日火曜日

ネルジーの洗礼

人口の9割超が、クリスチャンで占められるフィリピン。フィリピンと言うと、ほとんど全員がカトリックかと思われていますが、カトリックは約8割。差分の1割は何を信じているかというと、いわゆるプロテスタントを含む、非カトリックのキリスト教。

たった1割と侮るなかれ。総人口1億を上回るフィリピン。日本とは異なり、信仰を持たない人はほとんどいないので、大雑把に数えても、1千万人の信者がいることになります。しかも、自分の意思で、多数派のカトリックを選ばなかっただけあって、文字通り「敬虔な」信者が多い印象。

「今日は雨が降ってるからミサはまた来週」などと、簡単に諦めるユルユルのフィリピン・カトリックとは大違いの、本当に真面目な人たち。自宅の近くの末日聖徒(モルモン教)、エホバの証人セブンスディ・アドベンティストなどの教会は、どこもそれほど大きくないけれど、礼拝のある時間帯(日曜日とは限らない)には、チャペルから溢れんばかりの人が集まります。

中でもフィリピン生まれのキリスト教、イグレシア・ニ・クリストの信徒は、時間厳守だし、お金にはキッチリしてるし、数あるフィリピン・ノン・カトリックの中でも筋金入りのクリスチャン。以前にもこの宗派については投稿したように、ある意味、とても日本人的な生真面目さと勤勉さを旨とする教義。


シライ市内にある
イグレシア・ニ・クリスト教会

そして、我が家の真面目なメイドさん、ネルジー嬢も信者の一人。日曜日の朝以外にも、木曜日の夕刻に礼拝があるそうで、毎週欠かさず出かけます。それも、ドレス・コードが厳しいらしく、いつもスカートに袖のある服。メイクも気合い十分。知らなかったら、デートにでも行くのかと思ってしまいそう。

ネルジーの教会通いは、今年2月に我が家で働き始めた当初からだったので、とっくにイグレシア・ニ・クリストの洗礼は済ませてると思ってたら、実はまだ見習い信者だったらしい。ネルジーを紹介してくれた、私の友人クリスティンが、わざわざ家にやって来て「洗礼の準備なので、今週は三日続けて教会です」と、雇い主である私の許可を求めに。この礼儀の感覚がとっても日本人的。

さぁそれから、礼拝前になると大緊張のネルジー。いつにも増して念入りにおめかしして、それこそ「お見合いに行くんか?」と言いたくなるほど。いつもはTシャツに短パン、サンダル履きのスタイルしか見てないので、すごく新鮮。しかも、結構な衣装持ちなんですね。

めでたく洗礼を終えたネルジー。特に変わったこともないけれど、その後、なぜか息子のお弁当の配達や、市場への買い物頼んだだけでも、教会に行くのと同じレベルで着飾るようになりました。昨日など、胸元が開いた真っ赤なブラウスを着て、コロンの香りを振りまきながら小学校へ。お洒落に目覚めたのか、それとも...?

まぁ24歳のお嬢さんだし、いろいろありますわな。以前のメイドさんのように無断外泊したりするわけでもないので、しばらくは温かく見守りたいと思います。なんだか、父親の視線になってますね。


2016年12月5日月曜日

納豆長者

先月、両親がフィリピンの自宅に来てくれた時は、たくさんの日本の食材や薬品を持ってきてもらいました。両親に限らず、日本から我が家へのお客さんには、日本の品物の「運び屋さん」をお願いすることが多い。

在留邦人や日本人観光客が多いマニラやセブと違い、昔に比べてその数は増えたとはいえ、おそらく100名もいない西ネグロス在住の日本人。当然、日本人向けの食材や商品の扱いは、限定されています。

それでも、このシライ市内や隣街の州都バコロドでは、移住前の想像よりもいろんなものが入手可能。ヤクルトは完全に現地化しているし、ハウスのカレールーやチキンラーメンなどは、ずいぶん前から輸入食材のコーナーに並んでます。比較的最近だと、森永製の紙パック入り豆腐にハナマルキの味噌、天ぷら粉にパン粉などなど。粉もん大好き関西人としては、おたふくのお好みソースに、キューピーのマヨネース(ベトナム製)が買えるのはとても嬉しい。さらに助かるのはバコロドのロビンソンズに、100均のダイソーができたこと。

ただし、当然買えないものもあります。お好み焼きの必須アイテム、紅生姜に青のりがない。そしてフィリピンでは一般家庭で揚げ物をする習慣があまりないようで、油の濾し紙がないし、卵焼き用の四角いフライパンもない。バッファリン、コンタック600、太田胃散、ムヒ、など常備薬も、適当な代替品が見当たらない。もちろん薬品は、フィリピンでもたくさん売ってますが、ちょっとしたことでも医師の処方箋が必要だったり、効き目が強すぎたり。

しかし何と言っても、買えないものの代表は、納豆。我が家の日本人二人(私と息子)は、関西育ちのくせに大の納豆好き。特に息子は、日本にいる時に小学校の給食で納豆を食べてから病み付き。誰かが日本から来ると聞くと、まず最初に言うセリフが「納豆買ってきて」。

ということで、今回の両親来訪でも、大量の物資を依頼。中でも納豆は、アマゾンで業務用を購入。ネットで発注して日本の実家に送ったところ、母から「冷蔵庫に入りきらんほど、納豆が届いたで〜」と、悲鳴のようなメールが来てしまいました。

1800円で業務用の90個入り。よく考えたらすごい量ですね。仕方がないので、半分ほどは、ご近所さんに分けてもらって、残り半分をスーツケースに詰めての渡航。空港のチェックインで咎められることもなく、約40個の納豆は、ネグロス島シライ市の自宅に到着しました。

これだけ苦労して持ってきてもらった納豆。賞味期限の関係もあって二週間で完食。もう飽き飽きするかと思いましたが、常食するものは、意外に飽きないんですね。最後の一つまで、惜しみつつ頂きました。母ちゃん、ありがとう。


冷凍庫にぎっしりの納豆


2016年11月28日月曜日

誕生日はベトナム料理で

この週末土曜日は、家内の51回目の誕生日でした。移住してもうすぐ4年。最初の頃は、家内だけでなく、家族の誕生日は、親戚や友達を自宅に招いてのホーム・パーティ。それも20人、30人と招待しての結構な規模のパーティをやってましたが、もうすっかりそれにも飽きてしまい、今年は家族で外食が定着。今回は家内の希望で、隣街バコロドに最近オープンした、ベトナム料理のレストランに行ってきました。

フィリピンにベトナム・レストラン、しかも、マニラやセブではなく、ネグロス島にそんなお店ができる時代になったんですね。私が知っている範囲だと、中華にイタリア(主にピザとパスタ)、日本に韓国ぐらいしか、外国の料理を食べさせる店はありませんでした。

元々華僑が多い土地柄なので、中華は多分昔からあるんでしょう。ピザとパスタは、アメリカの影響で、フィリピン人も大好き。日本・韓国料理は、日本人と韓国人の旅行者が多いから。

特にフィリピンでベトナム料理が流行ってるとは聞かないし、オーナーがベトナム系の人なのかも知れません。こういう定番から離れたスタイルが出始めるのは、金持ち階級だけではなく、中流の層が厚くなったということか。しかも場所が、表通りからずいぶん奥まった住宅地の中。車で行ったら、10分ほど迷ってしまいました。

お店の名前は「ラウ・ラム・カフェ」(Rau Ram Cafe)。前日までの熱帯低気圧の影響も去って、朝から暑いほどの日差し。ちょっと苦労してたどりついたのは、想像していたよりずっとしっかりした作りの建屋。一般住宅を改装したものではなく、新規の建築のようです。10台以上は駐車できそうな、ゆったりしたパーキングも。かなりキチンとした建築家/デザイナーが手がけたものと思われます。



さて、肝心の料理。東南アジア諸国は仕事であちこち行った私ですが、実はベトナムは未踏。移住前、福岡に住んでいた頃に一度だけ家族で行った、博多駅前のレストランが、唯一のベトナム経験です。それでも、出てきた牛肉入りのフォー(ライス・ヌードル)と生春巻は、確かに福岡で食べたのと同じ。



ただ、純粋なベトナム料理でもなく、ナシゴレン(マレー風炒飯)やミゴレン(同・焼きそば)があったり、スパイシーさ加減がなんとなくインドネシアっぽかったり。その辛さも、フィリピンテイストに合わせて、かなり控えめでした。


と、御託を並べましたが、とても美味しかった。スパイシーな料理は、フィリピンでは比較的少ないので、久々にパンチの効いた味を堪能。パクチー大盛りも嬉しい。お箸を頼めば出てきて、息子と二人でフォーはお箸でいただきました。

フィリピンに住んでいて言うのも変ですが、異国情緒たっぷり。でも、やっぱりフィリピン流のサービス。持ち込みバースデーケーキは当然のようにOK。食事の後にちゃんとロウソクもセッティングして、まるでこの店のメニューのような扱い。


私たち家族3人に加えて、家内の父と弟夫婦にその子供2人、家内の叔母と従弟夫婦、さらにわざわざ隣島パナイから来てくれた、家内の幼馴染の友人1人の、総勢12名のこじんまりしたパーティ。でも、料理もサービスも良かったし、家内は喜んでくれたようです。私も気に入りました。これならば、日本からお客さんが来ても、お連れできますね。


コーヒーも本格的
砂糖入りだけど、ほどよい甘さ


2016年11月25日金曜日

無理なら休む



昨日から今朝にかけて、フィリピン中部ビサヤ地方を、熱帯低気圧マルセ Marce(フィリピン名)が横断。ここネグロス島では、つい先ほどマルセが通過したようで、時々雨が弱まり、空も明るくなってきました。フィリピンでは自国に接近する台風に、番号ではなく「フィリピン名」を命名。台風だけでなく、熱帯低気圧も同様。

また、予想される被害や台風・熱低の規模に応じて、シグナル1から4までの警報が出されます。今回のマルセでは、ネグロスを含むビサヤ地方を中心に、一番軽微なシグナル1。これだと、幼稚園や保育園が自動的にお休み。小学校以上が休校になるのはシグナル2以上。

このルールによると、今日は小学生の息子も登校するはずなんですが、朝から雨が激しく、母親である家内の判断でお休み。勝手に決めてエエんかいな?と思いましたが、家内を職場まで車で送っていく途中に学校の前を通ると、登校時間なのに人影がまばら。ゲートは開いていて、守衛さんもいるので休校ではないものの、やはり自主的な判断で子供を休ませた保護者が多かったようです。

学校だけでなく、交通機関のジプニー(乗り合いバス)や、路線バスの運行が困難になったり、動かなくなったりしたら、フィリピン人はあっさり通勤を諦める人が多い。数時間かかっても徒歩で、と思い詰めるような人は、会ったことがない。

台風でなくても「雨でトライシクル(輪タク)がつかまらないから」が、立派に欠勤や遅刻の理由になるお国柄。それで多少の不都合が生じても、自分でも無理なら休むと思っているから、仕方がないで済ませる。

こういう習慣を見ると、どうしても日本と比較してしまいます。いつものように極端な例で申し訳ないのですが、1995年の阪神大震災の時、未明の地震発生で公共交通機関がほぼ麻痺してる状況でも、出勤してる人はいました。中には被害の出た自宅に家族を置いたままで、というケースも。電車が止まった時点で、早々にギブアップした私などには、想像もできないメンタリティです。

個人の範疇ならば、場合によっては災害よりも深刻な、陰湿ないじめや過酷な業務環境が続いても、たいていの日本人(子供も含めて)は、なんとか登校・出勤しようとするし、周囲が簡単には諦めさせません。ネット上では、最近やっと「これは異常」と声を上げる人が出てきたようですが、おそらく現場では相変わらずなんでしょうね。

以前、私が勤めていた会社では「命懸けで仕事をしろ」と、本気で言う人が何人もいました。実際に、命に関わる病気で治療が必要なのに、入院を先延ばしにしてる社員や、それを組織責任者が賞賛するのを見聞きしたことも。戦前の話ではなく、つい何年か前のことなんですよ。信じられません。

仕事よりも自分の健康や命の方が大切なのは、当たり前。少なくともフィリピンでは当たり前なんだけどなぁ。そんなことを、学校を休んで家にいる息子の顔を見ながら、考えてしまいました。


2016年11月23日水曜日

日々の米を今日も与え給え

今日11月23日は、日本では勤労感謝の日。でも元々は「新嘗祭(にいなめさい)」という宮中祭祀の日。年に一度、天皇が神さまに五穀豊穣を感謝し、自らもその年収穫された米などの穀物を食するというもの。起源は飛鳥時代まで遡って現在も続き、千年以上もの歴史があります。

有史以来、お米とは深い関わりのある日本。そして日本だけでなく、東〜東南〜南アジアに米を主食とする文化圏が広がり、フィリピンも米食地域の一つ。

ひょっとするとフィリピン人は、日本人よりもお米大好きな国民かも知れません。以前にも「ライス・イーター」と題して投稿したように、僅かな量のおかずで、どっさりお米を食べる。だから中年以上の人だと、お腹ぽっこりで糖尿を患う人が多いのは、そのせいかと思うほど。

粘り気の強いジャポニカ米が主流の日本に対して、一般にフィリピンで作られているのは、比較的水気の少ないインディカ米。ジャポニカ米よりお腹にもたれることが少なく、その分つい食べ過ぎてしまう気がします。

毎週日曜日のカトリック教会でのミサ。その儀式の中心が、キリストの体を模した「パン」を頂く聖体拝領。ところが最も重要な祈り「主の祈り」のイロンゴ語(西ネグロスの方言)訳では、その一節「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」の「糧」に相当する言葉として「米」が当てられています。

英語訳で「パン」Bread の部分が、イロンゴ語で炊いた米を意味する「カノン」Kan-on。米そのものだけでなく、食べ物一般を表す言葉として使われるそうで、やはりフィリピンでは食料の代表が米なんですね。漢字の「糧」も米へんだし、「ご飯」と書いて食事一般を意味することもあるので、感覚は共通しているのかも知れません。

ちなみに、炊く前の米粒は「ブガス 」Bugasu、稲穂だと「フマイ」Humai。英語では「ライス」しかないのに、状態によって名前が変わるところは、米・ご飯・稲穂などを使い分ける日本と似ています。タガログ語でも「カニン」Kanin、「ビガス」Bigas、「パライ」Palayと、単語は少し違うけれど、同様に呼び分ける。

しかし、食べ方は日本と違い、お箸は使わずもっぱらスプーンとフォーク。欧米式のナイフ・フォークではなくスプーンなのは、やっぱり米を食べやすくする配慮? これはフィリピンだけでなく、私が行ったことのある、タイ、マレーシア、インドネシア、シンガポールなどの東南アジア諸国では同じスタイル。中国でも山東省にある会社の食堂では、洗いやすさ優先のためか、お箸ではなくスプーン・フォークでした。

さて、タイトルにも使った「主の祈り」。ヨーロッパ系の言語だと、おそらく英語以外も「糧」は「パン」なんでしょうけど、フィリピン以外のアジア諸国とかアフリカでは、どんな訳語になっているんでしょう。調べてみたら面白いかも。


ほぼ全島サトウキビ畑のネグロスでは、
珍しい田園風景


2016年11月22日火曜日

悪夢再び


今日は、珍しく平日に早朝テニスをしようと、朝5時(日本時間午前6時)に携帯の目覚ましで起床。何気なしにツイッターを見たら、地震や津波関連のつぶやきで画面が埋め尽くされてました。

滅多に見ないテレビ、しかもさらに滅多に見ないNHKワールドにチャンネルを合わせて、慄然。福島県沖で強い地震があり、沿岸に津波警報発令のニュース。5年前と同じような画面構成で、緊急放送。ただし国際配信なので、日本語の上に英語表記を重ねたもの。もっと雑然として、余計に尋常ならざる空気が伝わってきました。嫌でも思い出すのは、5年前のこと。

2011年3月11日は、まだ日本在住。折しも心療内科医からのドクター・ストップで、約1年に及ぶ休職期間中でした。当時暮らしていた大阪府茨木市のマンションで、津波襲来の第一報から、テレビの前に釘付けになったのを、今でもはっきりと覚えています。

今回は幸いなことに、2011年のような大惨事になることはなく、この投稿を書いている昼過ぎの時点で、津波警報・注意報はすべて解除されました。

フィリピンでも、私たちの移住直後の2013年10月に、ネグロス島と同じビサヤ諸島にある島、ボホールでマグニチュード7.2の地震が発生。多くの建物が倒壊し、200名近くの死者を出しています。シライ市内でも、震度2か3程度の揺れを感じました。日本に比べると、段違いに頻度は低いとは言え、火山もあり地震も津波も来るフィリピン。やはり、もしシライ市が津波に襲われたら...、と思うと、ぞっとします。

まず、警報の類が出ることは期待薄なので、強い揺れを感じたら自分の判断で、行動するしかありません。シライ市のあるネグロス島の西側は、沿岸から島の中央山岳地帯まで、緩やかな傾斜のサトウキビ畑が広がる地形。市内では3階建てのビルすら数えるほど。しかも自宅は海から2kmも離れていない場所。高台に逃げると言っても、徒歩ではとても間に合わず、車を飛ばして山に駆け上るしかないでしょうね。

何とか生き延びても、その後がたいへん。3年前のスーパー台風ヨランダで、まるで津波のような高潮に襲われた、近隣の島レイテの州都タクロバン。あの状況から考えて、災害からの復旧は絶望的に時間がかかると、容易に推測できます。

数年前まで「ネグロスには地震がない」と言い切っていた、建築技師の義弟。しかし、2012年には、島の反対側で死者が出るほどの地震がありました。私も人のことは笑えません。関西では大地震はないと思っていたのに、1995年の阪神大震災で、尼崎の自宅はかなりの被害が。やはり、日本人もフィリピン人も、自然災害から逃れられない宿命を背負っているようです。

2016年11月21日月曜日

母とネルジー 両親のフィリピン滞在・後編


今年八十歳になる両親のフィリピン滞在レポート、前回の続きで、これが最終回です。

母の足の負傷で、丸二日はバタバタしてしまったものの、それ以外は概ね順調だったフィリピン滞在。今回、両親にとって目新しい体験だったのは、日常生活にメイドさんがいるということだったかも知れません。

大抵の日本人、特に日頃すべての家事を一人でこなしている人は、メイドさんにどう接していいのか戸惑うのが普通。母は、6人兄弟姉妹の一番上で、祖父母が共働きだったこともあり、子供の頃から幼い弟や妹の世話をしたり、家事は一通りしてきました。父と結婚した時に、専業主婦とは何て楽なんだろうと思ったほど。

おそらく、十日間も何もかも人任せは、本当に小さな頃と入院中を除けば、初めてだったようです。ただ食事に関しては、一度だけ夕飯を作ってもらいました。献立は肉じゃがと味噌汁。ジャガイモ、ベーコン、玉ねぎ、人参など、日本とほぼ同じ食材があり、包丁もオタマも道具類は日本から持ってきた物が揃っているので、別にどうってことはないだろうと思いきや、意外にも大緊張の母。

日本の感覚からすると、ダダっ広い台所に、アシスタントに我が家のメイド、ネルジーを付けたのが原因。狭い所での孤独な調理を何十年もやってきた人なので、かなり面食らったようです。ネルジーの方も初めて接する日本人のバァちゃんなので、緊張が感染。携帯カメラを向けても、笑顔が引きつってました。

料理の手伝いなんて、身振り手振りでなんとでも頼めるはず。でも妙に律儀な母は、「スンマセンけど、◯◯をしてくれませんか?」と大阪アクセントの完璧な日本語。ネルジーが軽くパニックに。後でネルジーに聞いたら「英語で何を聞いても、全部日本語なんですぅ〜」と笑ってました。

それ以外にも、洗濯をしてもらうのには、抵抗があった。「他人さんに、下着を洗ろてもらえるかいな」とのことで、滞在中、自分と父の衣類一切の、洗濯、干し、たたみを一人で完結。まぁ日本メーカーの全自動洗濯機があるので、手間自体は日本にいるのと同じですが。



二階のベランダで洗濯物干し

そんなこんなで、メイド不要の母だったけれど、やはり同じ家にいる同居人。私が見ていないところで接点がいっぱいあったらしく、帰国前には「素直なええ子や」と感心することしきり。チップを上げたいと、月給3000ペソのネルジーに、1000ペソも渡そうとするので、さすがにそれは多すぎだと止めました。(ごめんね、ネルジー)

途中いろいろあったけれど、何とか十日間の日程を終了し、予定通り朝6時のマニラ行き早朝フライトで帰国の途についた両親。当日の夕方には無事帰国の連絡がありました。私にとってもいろんな体験になった、今回の両親の滞在。

最近では「介護移住」などという言葉があるらしい。これは遠方の介護施設や、都会に比べて広い住居が確保しやすい、日本国内の地方に引っ越すことで、一般的には海外移住を指す言葉ではないようです。私も介護が第一義で、フィリピンに移住したわけではないものの、もし高齢の両親を引き取るとなった場合、海外移住は、かなり有望な選択肢と言えるかも知れません。

フィリピンならば、広い家を持つのは、そう難しいことではないし、必要ならば住み込みの看護士を雇うこともできる。寒い冬もなく、煩わしい近所付き合いもない。問題は環境の変化を、介護を受ける側の人が受け入れられるかどうか。誰にでもできる話ではないけれど、ある程度の条件さえ整えば、介護する側にとっても、ずいぶん負担が少ないんじゃないかと思います。

両親の帰国後、孫である息子に「おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らしたいか?」と尋ねてみたら、「うん!」と即答したのが印象に残りました。


2016年11月19日土曜日

突然介護 両親のフィリピン滞在・中編

今年八十歳になる両親のフィリピン滞在レポート、前回の続きです。

さほど暑くもなく雨もあまり降らず、食事には満足して機嫌よくのんびりの両親。土曜日の午後、いつもの出張マッサージのおねえさんに、両親の施術も頼むことになりました。すっかりリラックスしてるし、ついでに南国リゾート気分になってもらおうと、良かれと思って勧めたマッサージが、仇になるとは...。

父は昔からマッサージが好きで、日本でもよく揉んでもらってましたが、母は生まれて初めて。当日と翌日はなんともなかったのに、月曜日の昼過ぎになって強烈な揉み返しが。それも、ちょっとした筋肉痛どころではなく、15年前に複雑骨折した左足首に激痛。伝い歩きですら冷や汗流すほどで、痛さの余り食事もできず、無理して食べたら吐いてしまう。これはヤバい。

慌ててネットで「揉み返し」を調べてみたら、結構ひどくなることがあるんですね。マッサージが気持ちいいだけに、「天国と地獄」と形容しているサイトもありました。頭痛や吐き気が来ることも多いらしい。

そして夕刻には、まったく歩けなくなり、立ち上がることもできない。仕方がないので、トイレに行く時は、私が横抱きにして運びました。母親を抱き上げるなんて初めてで、その拍子抜けするほどの軽さに驚き。日頃筋トレで鍛えていたのは、このためだったのか? 

有名な短歌「たわむれに、母を背負いて、そのあまり軽きに、泣きて三歩あゆまず」を詠んだ石川啄木と違って、涙は出なかったし、三歩以上歩きましたが、やっぱりこの軽さは衝撃的でした。もう子供である自分が、親を保護する立場になってしまった...。

仕事から戻った家内は、尿瓶を買ってきてくれたり、車椅子を借りるため友人に電話したりで大忙し。翌日の朝、家内は仕事を半日休んで、一緒に隣街のバコロド市内の総合病院へ、母を連れていくことに。通院前には、近所に住む友人夫婦が、車椅子を玄関まで届けてくれました。有り難い!


病院での診立ては、やっぱりマッサージの揉み返し。レントゲン撮ってみても、骨は折れてないし、痛みさえ引けば飛行機に乗っても大丈夫とのこと。早速、鎮痛剤と塗り薬を処方してもらいました。ちなみに外科のお医者さんは、「揉み返し」を英語で「Stress of Therapy」と表現してました。フィリピンではマッサージとは言わずセラピー、マッサージャーはセラピストと呼びます。

さて、この鎮痛剤。帰宅してすぐ服用したら、ちょっと怖いぐらい劇的な効果が。数時間で痛みはかなり治り、少し足を引きづりながらも、歩けるまでに回復。食欲も戻って、夕食はいつも通りの大食らいぶり。よかった〜〜〜。これは「おばあちゃんの足が良くなりますように」と前の晩、息子が祈ったからでしょうか? 神さまに感謝。

結果的に突然の一時介護状態になり、車椅子を使うと、思いもしなかった住宅の不具合に気付かされました。手すりは後から取り付けられるにしても、扉が小さすぎたり、洗面所のちょっとした段差が大変だったり。門扉の前だけスロープにしておいたのに、貼ったタイルが滑りやすくて、実際には使いにくい、というのもありました。

両親が要介護になる前に、フィリピン移住の下見という位置付けの今回の滞在。図らずも、受け入れ側の私にも、いろんな意味で準備を促す結果に。やっぱり高齢者配慮したデザイン(特に水回り)にして、裏庭に離れを一軒建てようかなぁ。また、お金の算段しなくちゃ。

ということで、次回に続きます。


2016年11月18日金曜日

大食い八十歳 両親のフィリピン滞在・前編


昨日までの十日間、日本に住む両親が、ネグロス島シライ市の我が家に、滞在していました。少し前に投稿したように、父も母も今年八十歳で、終活中の二人。だいぶ前から「あと何年生きられるか分からん」が口癖。身体は、あちこちガタが来ているようですが、足腰はしっかりしていて、今でも毎週のように二人でゴルフ場に通っているらしい。

日本の実家は、バブル期に作った三階建て。父は三階、母は二階の居室で、かなり急な階段を昇り降りする生活。父はまだ建築現場の監督の仕事、母は掃除・洗濯・炊事を一人でこなしています。若い頃に比べると「すっかり手抜きや」と言う母ですが、日に三度の食事の準備だけでも、相当な労働でしょう。最近、私も毎日ご飯を作っているので、よく分かります。

さて、新しい家は初めてでも、シライは何度も来ている両親。特に父は、この家の施工監督をしていたので、勝手知ったる場所です。今回の滞在目的も、いずれはこちらでの同居を見込んでの下調べ。お客さん扱いはせず、途中で一度だけレストランに出かけた以外は、散歩も買い物も、自分たちで好きなようにしてもらいました。

ただし、食事の用意だけは、私が担当。献立はいつもと同じとはいえ、量がすごい。一般的に八十歳にもなれば、いくら健康でも、もう少しは食が細くなるもんだろうと思います。ところがこの二人、特には母は、小学生の息子よりも食べる。しかも好き嫌いは皆無。

老人でなくても、中年以上の日本人は、フィリピンの米は食えないだとか、肉が固いとか文句を言う人が多いけれど、母は何を食べさせても、美味い美味いと完食。「この歳になって、息子に食事を作ってもらうとは、思わんかった」とご満悦です。まぁ、不機嫌になられるよりずっといいし、結構なことなんですが、食材の減りが早いこと。

数日も経つと、なんだか老人ホームの食事係に、就職したような気分になってきました。しかし考えてみると、私を含めて男三人兄弟を育てた母。食べ盛りの頃など、それは大変だったでしょうね。食卓での話題は、一日一升炊いても足りなかったこと、翌日の弁当のつもりだったおかずを、夜中に全部食べられてたこと...などの苦労話。

食事だけでなく、気候も良かった。雨が多いはずの今の時期、なぜか両親が到着してからは、ほとんど雨が降らない。かと言って暑さの厳しい季節でもなく、昼間でも風が通って快適な毎日。暇になると、母は私の書架にある本を読んだり、ハリー・ベラフォンテやビートルズの曲を聴いたり。父は日本から持ってきた、戦艦武蔵のプラモデルを作ってました。

これで、十日間の滞在は、平和に終わるのかと思いきや、一週間が経過した頃、思わぬトラブルに見舞われました。ということで、次回に続きます。


2016年11月13日日曜日

言うたらアカん Fワード


天空の城ラピュタに出てくる「滅びの言葉」。ラピュタが金曜ロードショーで放送されると、劇中でたった一回だけのセリフの瞬間に、ツィッターがパンクするほど呟かれるそうですね。他の呪文に力を与えるために、知っておかなくてはいけないけれど、決して使ってはいけない。

英単語でも、それに近い言葉があります。文字通り一言で、人間関係を破壊するインパクトを持った「滅びの言葉」。それが、みなさんよく御存知の「F**k」。アメリカ映画でよく聴かれます。でも、映画に出てくるからと言って、実際の英語の会話では、絶対に使ってはいけません。ネイティブ並みに喋れるならまだしも、「日常会話なら何とかなります」レベルの人がヘタに使うと大火傷します。

語源は、諸説あってはっきりしないけれど、本来の意味が「性交」の一番下品な表現であることは、間違いなさそうです。日本語だと書くのも憚られる「オ**コする」と同等か、あるいはもっとドギツイ言い方なのではないかと。

最近のアメリカでは、性的な意味だけはなく、実にいろんなニュアンスを含む言い回しに使われるらしい。必ずしも否定的な意味だけではなく、ポジティブにも使われることも。それでも、本当にごく親しい者同士の内輪の話か、殴り合い覚悟で相手を侮辱する時以外は、口にしない方がいい。

フィリピンの二つある公用語の一つが英語。息子の通う私立の小学校では、全教科英語で授業が行われます。もしそこで冗談でも F**k を使ったら、その場で先生から厳重注意で、保護者に報告されること間違いなし。二回目以降には、停学や退学もありえます。学校だけでなく、フォーマルな場所では、まともな判断力のある人は絶対使いません。

そんな恐ろしい「滅びの言葉」を、あろうことか、近所で活動する某NGOに研修に来ていた日本の若い女性が、面白半分に連発したそうです。当然その場にいた日本人は、驚いて止めたし、フィリピン人は本気で怒った。もし私が同席していたら、怒鳴りつけて、3時間ぐらい説教していたかも知れません。

しかもその F嬢、「ビッチ(Bitch)」も多用するとのこと。この言葉は、最近日本語の文章でもよく使われてます。F**kほどエゲツなくはないものの、相当下品な言葉。しかも意味を誤解している。

「雌犬」から転じて「誰とでも性交渉を持つ、雌犬みたいな女」だったのが、最近では「嫌な女」のことなんだとか。罵倒語に変わりはないものの、性的な意味はあまりないみたいです。ところがネット上で散見される日本語の記事には、「尻軽女」のつもりだったり、単に露出度の高い服を着ていたり、派手なメークをしている程度の女性を形容するのにさえ使ったり。

いずれにせよ、意味を知るのは悪いことでないにしても、初対面の人に言っていいような言葉ではありません。特に若い女の子! 言うたらアカんぞ〜!