2016年4月30日土曜日

投票里帰り


連投で選挙ネタ。
我が家のメイド、ネルジー嬢は、同じネグロス島の西ネグロス州カラトラバという街の生まれ。私たちの住むシライには、お姉さん家族とネルジー同様メイドをしている妹さんが住んでいます。その他のたくさんの兄弟姉妹は、実家があるカラトラバ在住。

ネグロスは日本の四国より少し小さな島。島内でしかも同じ西ネグロス州(約7900平方キロ、兵庫県よりやや小さい)の中なのに、シライからカラトラバまではバスで5時間もかかる。旅客鉄道もないし高速道路も整備されていないので仕方ないのですが、マニラやセブ...どころかマニラ〜関空よりも長時間。

ネルジーたち三姉妹は、今朝3時発の夜行バスで、この近くて遠い実家に帰って行きました。目的は選挙の投票。フィリピンでは選挙のための住民登録に、かなり面倒な手続きが必要で時間もかかる。そのためか、一度登録したらそのままになることが多いらしい。家内の場合、2013年の4月に15年間の日本滞在から帰国しましたが、たまたまその翌月だった選挙には登録が間に合わず、投票できませんでした。

前回の投稿でも触れたように、投票までのプロセスにはいろいろ問題はあっても、フィリピン人の選挙を通じた国政への参加意識は、とても高い。国や自治体のリーダーは「私たちが選んだ」という思いも強いと思われます。だから「庶民の味方」を売りにして当選した、大統領エストラーダ氏の不正蓄財が発覚した2000年、市民の怒りが爆発して大統領を辞任させたのも分かる気がします。

それにしても4/30に帰省して、戻って来るのが投票翌日の5/10。丸々十日間の里帰りです。ネルジーの給料からすれば、バス代も決して安くはなく、片道5時間の旅行なのでそう頻繁に帰るわけにもいきません。投票を口実にした家族のリユニオン(再会)と言ったところなんでしょうね。


2016年4月29日金曜日

投票率75%! フィリピン総選挙



シライ市の住宅地を歩いていると、たまに見かける落書きがあります。"Voting Changes Nothing"「投票したって、何も変わらない」。手書きではなく、型紙とスプレー塗料を使ったと思われるもので、落書きと呼ぶべきかどうかちょっと微妙。何箇所か見つけたのは、すべて同じ型紙ですべて黒。しかも、玄関の扉の横にあったりするので、誰かが勝手に書いたのではなく、住んでる人が自分で書いたか、少なくともその同意を得ているのでしょう。

投票日まで残り1週間余りとなった、2016年のフィリピン総選挙。最近では、選挙そのものに対して悲観的な考え方をする人も増えて、以前に比べると投票率は下がっているそうですが、それでも前回2013年の中間選挙での投票率は75%。

ここ最近の日本の国政選挙の投票率が50%を少し上回る程度なので、日本よりはずっと選挙権を大事にしている。ただ日本と違いフィリピンでは、大統領・副大統領、上下院議員、州知事・副知事、州議会議員、市長・副市長、市会議員の全部を一度に決めてしまう選挙で、3年に一度(大統領選は6年に一度)しかないチャンス。同列に比較はできないかも知れません。

それにしても、言葉がイマイチよく分からない外国人の私から見ても、注目度も盛り上がり方も日本とは比べものにならないほど熱心。日頃はろくに仕事もせず、道端でおしゃべりしてるオっちゃんやオバちゃんも、目の色を変えて自分の支持する候補の集会に参加したりしてます。

例によって自国民には厳しい、フィリピン人の家内によると、集まったらお金がもらえるからだとのこと。町中に溢れる輪タクや乗り合いバスに、選挙ポスターがいっぱい貼られているも、運転手やオーナーの懐に金が入るから。

最初はひどい選挙だと思ってましたが、よく考えてみると立候補するような人たちは、ごく限られた富裕階級の出身であることがほとんど。3年に一度、溜め込んだ資産を貧困層に還元しているようなものとも言える。実際、ポスターやお揃いのTシャツの大量発注で印刷業者は大儲けだろうし、これだけ人の動きが激しくなると、飲食店や交通機関などもずいぶん潤っているでしょう。

景気が良くなって、有権者の関心をアップさせているのですから、有権者の半分が投票を棄権してしまう国に比べると、どっちが民主主義国家として健全なのか、分からないですね。


2016年4月27日水曜日

ネグロス島テニス事情

日本人のテニス友達ができて、数年ぶりに週一程度でコートに出るようになって早1年。細々ながら続けているうちに、最初は英語留学でネグロス島に滞在する日本人の学生さんが、時々参加するようになりました。そしてこの1か月ほどは、フィリピン人テニス・パートナーのババロと、ほとんど毎日マンツーマンのテニス。

フィリピンの4月は真夏。さすがに何時間も打ち合うほどの体力はありませんが、朝は8時から1時間、シングルスで汗を流しています。それに加えてこの頃は、車で15分ほどの距離にある、サトウキビ精製工場「ハワイアン・フィリピン会社」のテニスコートで夕方からダブルス。

このブログで何度か触れている、ハワイアンのテニスコート。プレーしているのは従業員の人たち。日本と違って無意味な残業や長時間労働の習慣がなく、週に二日、水曜日と金曜日の4時半から、2面あるコートに、テニスを趣味にするオジさんが集まって来ます。

このコートは、かなり昔からあるそうで、ババロのお父さんがハワイアンで働いていたので、子供の頃からここでテニスをしていたそうです。正確に数えたことはないですが、いつも集まるのは、総勢30名以上はいるでしょうか?(毎回全員が集まるわけではなく、10〜12名ぐらい) 本当に男ばかりで、20代と思われる青年から、70過ぎのジィちゃんまで。その中でもトップの7〜8名ぐらいは、とんでもなく上手い。

時々、この人たちのダブルスの試合を見ますが、まるで日本にいた時に通っていたテニス・スクールの、コーチ同士のエキジビジョン・マッチみたいです。多分みんな、子供の頃から暇に飽かせて打ちまくってたんでしょうね。

日本にいた頃には、想像もできなかったネグロス島のテニス事情。フィリピンで庶民のスポーツと言えば、まずバスケット・ボール。バランガイ・ホール(町内会の公民館みたいなもの)には必ずバスケットのコートはあるし、道端にもあちこちにバスケットゴールが設置されていて、子供たちが遊んでいるのはよく見かけます。

テニスなんてする人いるんかいな?と以前は思ってましたが、少なくともこのシライ市内には、それなりのテニス・コミュニティが存在するようです。近所の市営コートでも、私たち以外にも定期的にプレーしている人もちらほら。いつもコート脇で仕事している廃品回収業のお兄ちゃんと一緒にゲームしたこともありますが、ラケットも持ってなくて、私が貸したぐらいなのに、これが驚くほど上手い。


一見テニスとは無縁な人たちですが...。

バスケットやバドミントンに比べると、ポピュラーとは言えないけれど、ネグロス島のテニス人口は、思ったより裾野が広いようです。


2016年4月22日金曜日

ブラック・アウトの夜

今日のお昼すぎ、午後2時半頃から停電に見舞われているフィリピン、ネグロス島のシライ市。この時期はフィリピンでは真夏で、連日30度超えの暑さが続き、冷房機器フル稼働の影響で停電が起きやすくなります。それでもいつもは、涼しくなり始める夕方5時ぐらいになると復旧するのですが...。

どういう理由なのか、この投稿を書いている夜10時前になっても電気は止まったまま。しかも友人からの携帯テキストによると、隣街の州都バコロドも含めて、かなり大規模な停電らしい。フィリピンでは同じ停電でも比較的規模の小さなものをブラウン・アウトと呼びます。今日のはそちらではなく、正真正銘の「ブラック・アウト」。

我が家は、こういう事態に備えて発電機を設置してあります。満タン10リッターで20時間稼働できるので、心配は不要。しかし夜間の停電時には実に目立つ。発電機を購入できるのは、かなりの富裕層に限られていて、シライ市で一番の高級住宅街の、ここセント・フランシスでも、ざっと見たところ10軒に1軒ぐらいの感じ。

灯りだけでなくかなりの騒音なので、停電真っ只中のご近所さんにしてみれば、実に腹立たしいことでしょう。しかも私の場合、努力と才覚で富を築いたという訳ではなく、経済格差を利用して移住してきた外国人。どうしたって罪悪感を持たないわけにはいきません。

たまたま今日は、夕方から夜7時頃まで車で出かけていて、帰宅途中に街灯も信号も消えた下町を通って来ました。貧困層の多いところでは、本当に町中真っ暗。扇風機も使えず暑いので、夕涼みに多くの人たちが路上に。みんな慣れきっているらしく、子供も女性も普通に笑いながらお喋りしてましたが、日本で同じことが起こったら、危なくて出歩けないでしょうね。

と、ここまで書いたところで、実にタイミングよく電気が復旧しました。約7時間半の停電が終わり、発電機をオフにすると、いつもの静寂が。ああ、よかった。


周囲が真っ暗なので、満月の明かりが眩しかった



2016年4月21日木曜日

フィリピンの地震

熊本で大きな地震があってから、もう一週間が経ちました。最初の大きな揺れを観測した後も、余震と呼ぶには大きすぎる地震が連続し、しかも震源が移動するという、住んでいる人たちにとっては耐え難い状況が続いているとのこと。ネットを開く度に拡大していく被害状況に、なかなかブログの投稿ができずにいました。

私は1995年の阪神大震災を尼崎の実家で経験しています。自宅付近の最大震度は5だったと思いますが、3階にいたせいか、もっと激しい揺れだったような記憶。戸棚などは全部倒れ、陶器やガラスの食器は、ほぼ全滅。まだ朝の明けない時間帯だったので、暗闇の中の揺れは本当に恐ろしかった。

今回の熊本や大分では、震度7や6という地震が頻発しているそうです。たった1回だけの震度5でもトラウマレベルの経験だったのに、これは想像を超えた恐怖でしょうね。

私たち家族が住むフィリピン。日本と同じように島国で火山が多く、日本並みに地震があってもよさそうに見えますが、意外にも滅多に地震はありません。今住んでいるネグロス島に家を建てようと思い立った10年以上前、生まれてからずっとネグロス在住で、建築関係者の義弟に話を聞いたところ「ネグロスには地震なんかないよ」との返事。

ところが移住前年の2012年に、ネグロス島の近海を震源としたネグロス島沖地震が発生しました。滅多にないと言っても皆無なわけではない。この時は地震に不慣れな人々がパニックを起こし、津波が来るというデマもあって一部では相当な混乱があったようです。実際30名以上の島民が、建物の倒壊などで亡くなりました。

私たちが移住した2013年には、ネグロスのすぐ近くにあるボホール島で、マグニチュード7.2の地震が発生。ボホールだけでなく隣のセブでも古い石造りの教会が崩れるなどして、100名を超える死者が出ています。ここシライ市でも震度3ぐらいの揺れを感じて、その時たまたま自宅で掃除していたメイドさんが、顔面蒼白になってました。やっぱり地震に慣れてないんですね。


ボホール地震で崩れた教会
出典:CNN.co.jp

これ以外にも調べてみると、1990年のバギオ大地震(マグニチュード7.8 死者1621名)、1976年のミンダナオ地震(マグニチュード7.8 津波による大きな被害)などがあります。あれほど頻繁に来る台風でも、備えをしているようには見えないフィリピン。数十年に一度、全国レベルで起こるかどうかという地震災害に対しては、完全に無防備と言ってもいい。恐ろしいことです。


2016年4月15日金曜日

初めて食べたスパゲティ

今日はまたまた我が家のメイドさん、ネルジーのお話。
このブログで何回か投稿したように、ネルジーは食べ物の好き嫌いが激しくて、肉類は豚・鶏・牛一切ダメ。ミンチにしようがハムにしようが全然食べられない。そこで料理担当の私としては、肉抜きで作ってネルジーの分だけ取り分け、その後別調理の肉を追加して家族用にするという調理法をやってます。これが名付けて「ネルジー・スペシャル」。

最近はこのやり方にも慣れて、極端な少食のネルジーも、普通に食べてくれるようになりました。当初は恥ずかしがって会話もなかったけれど、実は明るくておしゃべりな地金が出てきて、食べながらいろいろ話すようにも。

話すのは地元の方言で、主に家内と。それを横で聞きながら意味を尋ねると「この料理は初めて食べました」というのが多い。それもカレーとか冷麺などの日本食ならば分かりますが、スパゲティやチャーハン(こちらでもフライド・ライスは一般的)を、23歳になるまで食べたことがなかったというのには驚きです。

特にスパゲティは、フィリピン人ならば大人も子供も大好きな、ファーストフードレストランの定番メニューだし、一般の家庭でもちょっとしたお祝いやパーティだと必ず出てくる、いわばフィリピンのソウルフード。でも考えてみると、こちらでスパゲティと言えばミートソースがほとんど。ネルジーが食べられないはずです。


日本ならばシーフードやキノコ、たらこ等、肉を使わないパスタ料理はいくらでもあって、ベジタリアンでも食べられるバリエーションは豊富。ところがフィリピンでは、それなりの高級イタリアンのレストランでもない限り、お目にかかったことがないですね。想像してみると、ネルジーはちょっと寂しい子供時代を過ごしていたのかも知れません。

こうなると、何やら責任を感じてしまいます。見た目は頑丈そうに見えるネルジーですが、若干貧血気味だったり、生理前後は体調を崩しやすい様子。肉はなくても、できるだけ滋養のあるものを食べさせたいですね。


2016年4月13日水曜日

ダーティハリー・ドゥテルテ


出典:philstar GLOBAL

前回に続いて今日は、フィリピン大統領選挙のお話。
最新の調査結果によると、ロドリゴ・ドゥテルテ候補が、グレイス・ポー候補を抑えて支持率1位になったそうです。家内も投票すると言ってるドゥテルテ候補。もう日本語の記事やブログでもかなり書かれているので、知ってる人も多いと思いますが、実はトンデモない人物。

同じく今、大統領の選挙戦が進行中のアメリカで話題のトランプ候補も、相当トンデモないらしいけれど、ドゥテルテは発言内容がトンデモないどころか、ダバオ市長として無茶苦茶な「実績」を残した人物として、フィリピンでは知らない人がいません。

1990年代以来、犯罪都市として悪名高かったダバオを、フィリピンで最も安全な都市に変えてしまったドゥテルテ。問題はそのやり方で、「犯罪者は殺す」と明言し、警官による「凶悪犯の射殺」を奨励したり、実際に自警団を組織して白昼堂々の「処刑」を指示したり。だからニックネームがダーティハリー。

最初、家内からこの話を聞いた時は、俄かには信じられませんでした。いくらやりたい放題のフィリピンの政治家でも、それはあり得ないだろうと。ところがこれは、噂レベルではなく、どうやら本当で、ドゥテルテ本人も肯定するような発言をしています。そんな人物がずっと市政に関わっていられることもすごいですが、さらに大統領候補になるとは。

もっと信じられないのは、フィリピン大学の大学院を出て、インテリで常識人だと思っていた家内がダーティハリー・ドゥテルテ支持だということ。やはり、そこまでフィリピンの状況というのは切迫していると言うべきか。常識的なやり方では社会を改革できないと思われているんでしょうね。

投票1か月を切った時点で支持率1位なので、次期大統領になる可能性がぐっと高まったドゥテルテ。(これまた家内に言わせると、フィリピンの調査は各陣営が自分に都合の良い数字をでっち上げるのが常套手段なので、あまり信頼できないそうですが)私としては、内政よりも外交が心配です。こんな強硬な大統領だと、中国と戦端を開くぐらいのことは、簡単にやってしまいそうです。


2016年4月12日火曜日

連日連夜の大騒ぎ フィリピン総選挙


5月9日の投票日まで1か月を切ったフィリピンの総選挙。ここシライ市でも選挙戦真っ盛り。何しろ大統領から上下院議員、州知事、州議会議員、市長、市議会議員の改選を全部いっぺんにやってしまうので、たいへんなことです。

町中は候補者のポスターで溢れ、それがまた好き放題の場所やサイズに貼りまくっているので、誰が何の候補なのかパッと見は何だかよく分からない。大統領候補のすぐ隣に市長候補の写真がデカデカ。無秩序もいいところですね。家内によると、投票用紙はA4ぐらいあるでっかいのが1枚で、全候補者の名前が印刷されたところにチェックマークを記入するとのこと。



本当にこんなやり方で、正しい結果が出るのか、外国人の私でも心配になります。実際、過去の選挙では大規模な不正も取りざたされ、落選した陣営が「アンフェアだ!」と言い立てる事態は、フィリピン中で起こるものらしい。特に2004年、アロヨ大統領が選出された時は、公金の選挙資金への流用疑惑があって、投票後ずいぶん長いあいだ揉めてました。

実際の選挙運動はどんな感じかと言うと、ポスターを貼った選挙カーから拡声器でわめくのは日本と同じですが、BGMに大音量の音楽を流す。また集会では、昼間は地元の言葉で何やらスピーチをしてるのに、暗くなるといつの間にかディスコミュージックにカラオケ。いつものお祭りと変わらない。これを深夜1時ぐらいまでやるので、この頃は真夏の暑さも相まって、窓閉めて冷房かけないと眠れない状況です。



現職の市長陣営は、平日の昼間に幹線道路の半分を使って選挙パレードしたり。当然大渋滞が起こって迷惑極まりないけど、一般の市民はむしろ楽しんでる。再選は禁じられていると言っても、ここシライでも隣のタリサイでも、市長の奥さんが候補なので、事実上の再選と同じことですね。

ここまでやるには、おそらくものすごい額のお金が、ばら撒かれてるんでしょう。一説によると、この国で大統領になるには、10億円単位の資金が必要なんだとか。当選すれば、それに見合う利権が手に入るということか? こんな田舎町で、市長や議員はすごい豪邸に住んでたりするのも、何となく分かる気がします。


2016年4月11日月曜日

大渋滞セブ

3月に息子のパスポートの申請で、家内と二人でセブの日本領事館へ行ってきました。その後、出来上がったパスポートの受け取りは、本人確認が必須。ということで、息子の小学校が夏休みに入るのを待って、先日家族三人で再度のセブ行き。


朝7時頃のバコロド・シライ空港


ものの30分も飛ぶと隣島セブに到着
(空港があるのはマクタン島)

申請書類の準備や、申請時のトラブルで面倒だった前回に比べて、受け取りは拍子抜けするほどのあっさり済みました。ただ、領事館は朝9時から開いているのに、なぜかパスポートの受け取りは午後2時から。往路は、早朝の便しかないバコロド〜セブ。8時には空港に着いてしまい、することがないので前回と同じく、日本食材の専門店で時間を潰すことに。

フィリピンは首都マニラの一部を除いて、鉄道や地下鉄といった公共交通機関がなく、ちょっと大きな市街地は渋滞が激しい。悪名高いマニラは別格としても、中部ビサヤ地方の中核都市のセブも相当なもの。

移住後3年、日本領事館だけではなく、私の永住ビザ取得のために通った、フィリピンの入国管理局もセブにあるので、もう10回ぐらいは来てます。その間だけでも、渋滞の度合いはどんどん悪化して、今回は一番ひどい状態でした。

空港から日本食材店のあるバニラッド地区までは、混んでなければ30分ぐらいだろうという距離なのに、この日は2時間近くも。今までだと、渋滞のポイントは大きな交差点近くの道路工事だったり、事故だったりで、一箇所を過ぎればほぼ大丈夫だったのが、信号のある交差点全部で、通過するのに長々と待たされる感じ。10歳の息子はすっかり退屈してしまいました。


セブ市中心部

やっとタクシーから解放されると、もうお昼時。買い物もそこそこに、日本領事館近くの大型ショッピングモールのアヤラ・センターに移動して日本レストランへ。日本人の多いセブでは、食事が大きな目的の一つになります。



「とんかつ」という名前の店でとんかつを頂く
キャベツの千切りがお替り無料なのが嬉しい

このブログでは何度も触れているように、悪化する交通渋滞は、フィリピン経済好調の証なんでしょうか。車は増えてるし、車窓から見えるのは、高層ビルの建築ラッシュ。聞くところによると、雨後の筍の如く建てられたコンドミニアム(高層マンション)を、投機目的で日本の資産家が買い漁っているそうです。

さて、各種の手続きが一段落して、私のパスポート更新までしばらくセブに行く必要もありません。次回はどんな風になっているでしょうか? バブル経済がはじけて、火が消えたようになってなければいいのですが。



当日の夕刻にはネグロスへ帰還。
結局滞在時間の半分ぐらい渋滞でした。



2016年4月7日木曜日

小学生のフィリピン移住


2013年4月7日。日本人である私、フィリピン人である家内、そして日比混血の息子は、ネグロス島シライの地に降り立ちました。3年というのは、長いような短いような微妙な年月。でも経験の密度から考えると、日本にいた頃の10倍ぐらい濃い時間が流れました。特に小学校1年生を終えた直後に、フィリピンに来た息子にとっては、ずいぶん変化が大きかったことでしょう。

実は、息子は日本で1度転校してます。移住前年の2012年の4月に大阪府茨木市内の公立小学校に入学し、たった3か月目の7月に私の転勤で福岡へ。息子の性格によるものなのか、担任の先生やクラスメートに恵まれたのか、少なくとも見たところは、落ち込んだり不登校になったりすることもありませんでした。

フィリピンでは、移住した4月は夏休みが始まったばかりの時期。2か月後の6月が新学期でした。家内にとっては生まれ故郷のシライ市。移住前から目星を付けていた私立の小学校へ入学手続きをすることに。ここで問題になったのは、予想通り言語でした。校内で使う英語は、家内の「英語絵本読み聞かせ」などのお陰で、現地の同年代の子供たちと遜色のないレベルだったものの、公用語のフィリピノ語(いわゆるタガログ語)と地元方言のイロンゴ語は、素養がゼロ。入学前の簡単なペーパーテストに歯が立たず、号泣状態。

校長先生のアドバイスもあって、いきなり2年生ではなく、1年生からやり直しとなりました。日本では優等生でプライドの高い息子。かなり抵抗しましたが、結局2013年の6月から、再度ピカピカの1年生。

当初はどうなるかと心配したものの、フィリピンの言語以外は1年先行しているのが効いたらしく、最初のテストから、全教科の平均得点が90%以上の「銀賞」をもらってきました。以来銀賞は一度も途切れず、英語や理科では科目毎の学年最高点を取ったり、平均得点95%以上の「金賞」も時々受賞。

田舎街の小学校のことなので、過度な期待はしていませんが、それでも成績が悪くて心配するよりずっといい。当然ながら英語の読解力とリスニングは、とうの昔に追い抜かれて、今ではハリーポッターの原書を寝る前に読んでいる息子。たまに遊びに来る学校の友達とは、すごい早口の英語で喋ってます。

さてこうなると日本語も...と思うのは親の欲目か? 放置しておくと家庭での日常会話以上のレベルにはならない。いろいろ考えて今年の夏休みは、日本語の小説を与えてみました。私が最近読んだ「精霊の守り人」シリーズ。もともと日本語の本も嫌いではなく、ファンタジーやSFのテレビドラマや映画が好きなので、この選択は成功だったようです。

1週間ほどで最初の1冊を読んでしまい、今は2冊目の「闇の守り人」。結構面白がって読み進めていて、この調子だと6月までにはシリーズ読破するかも知れません。私がまだ最後まで購入してないので、また誰かにお願いして、日本から持ってきていただかないといけませんね。



2016年4月3日日曜日

旱魃と停電


日本では桜前線が北上中で、ちょうどこの週末、関西が花見のピークを迎えたらしい。フェイスブックには、友達がアップしたお花見写真がいっぱいです。3月末から4月のこの時期のフィリピン・ネグロス島はと言うと、夏の始まりの季節。乾燥した強い風が吹き抜けて、最高気温は連日30〜35度。でも大阪や東京の真夏のような耐え難い蒸し暑さはなく、日中でも日陰では意外に涼しい。

しかしながら、今年はエルニーニョの影響が残っているのか、いくら乾季でも雨が少なすぎる気がします。例年は、お昼すぎまでカンカン照りでも、夕方には豪雨があったりしましたが、記憶にある限りこの3月初旬以降、私たちの住むシライの市街地では、まとまった雨は皆無。

洗濯物はよく乾くし、毎日屋外コートでテニスできていいのですが、こうなってくると旱魃の心配が出てきます。真っ先に影響を受けるのは農業で、市場の野菜の値段がジワジワ上がってくる。庭の芝生も随分と茶色いなぁ。

そして増えるのが停電。日本でも酷暑の頃の昼間は、冷房全開で電力不足。事情はネグロス島でも同じです。でも違うのは、頻繁に長時間の停電になること。私たちの住む地域を管轄しているのは Central Negros Electric Cooperative.inc (中央ネグロス電力)通称CENECO(セネコ)と言う電力会社で、一応計画停電の場合は、事前にAMラジオなどで告知があります。


ところがこの告知、時間もエリアも確かなところは、停電になってみないと分からない大雑把なもの。だいたい平日の真昼間に、ほぼ半日、朝から暗くなるまで電気を止めるのが常態化しているのはすごいですね。さらに数十分〜数時間の突発停電は、本当に日常茶飯事。

自家発電の設備がある富裕層や大手の事業場ならば、半日ぐらいはなんとか凌げますが、近所で飲料水の販売をしている小規模な精製水業者さんなど、1日まったく商売にならない。先週は、たまたま我が家の水がなくなったタイミングとかち合って、心細い事になってしまいました。

さて、いよいよ4月〜5月のフィリピンの真夏に突入しました。台風が来たりすると困りますが、そろそろ多少は雨が降って欲しい。