2016年8月30日火曜日

ラッキー・メイド

このブログを続けて読んでいただいている方には、もう耳タコでしょうけど、改めて書きます。我が家のメイド、ネルジー嬢は、料理が苦手です。しかも、かなりの偏食家で、フィリピン人には珍しく、お肉が食べられません。(野菜はダメでお米と肉だけ、という人は多いですが)

しかし、それ以外の働きぶりについては、歴代のメイドさんの中では、一番。男並みの腕力で、5ガロン入りの水タンクを二つ、合計40キロ超を軽々と運ぶ怪力。いつも家中ピカピカに掃き清めずにはいられない、日本人でも珍しいほどの几帳面さ。炎天下でも小雨の中でも、庭の手入れを続ける粘り強さ。ほんとに助かってます。

食事の用意も、何もしない訳ではなく、私の指示にとても忠実に、下ごしらえの手伝いや、鍋番はきっちりこなすし、包丁だって器用に使います。することがなくなると、調理に使った食器や道具を、片っ端から洗ってくれるので、食事が出来た時には、台所が片付いている。もちろん後片付けは、完全お任せ。

その他には、洗濯の一切と、買い物、子供のお迎えなどなど...正直、これで月3000ペソ(約7000円)では、申し訳ないほど。もちろん相場というものがあって、決して安く叩いている訳ではありません。


鶏の餌やりもネルジーの日課

こういう感じなので、雇い主の私が作った料理を、毎日家族と一緒に食べてさせるのは、何の違和感もなし。時には、肉類を食べられないネルジーのために、少しだけ手間をかけて、一品追加で作るのも、全然苦にはならない。

ところが、先日、隣街に住む友人家族、日本人の旦那さんとフィリピン人の奥さん、そして二人のハーフのお子さんを自宅にお招きした時のこと。メインには、ポークカレーを用意して、煮込んでいる間に、ネルジー・スペシャルと称して、肉なし炒飯を作り始めると、奥さんが「信じられない」という顔をしました。

雇い主が、メイドのために食事を作るなんて、普通のフィリピン家庭では、ありえないことなんだそうです。ふ〜ん、そういうものなのか? でも、たとえ料理ができるメイドさんでも、日本食作れる人は、滅多にいないでしょう。本人の分だけ自分で作らせるのも、食材も余分に必要だし、調理のためのガスや水も無駄が多い。私としては、合理的な判断のつもりなんですけどねぇ。

いずれにしても、食事に関してだけ言えば、我が家のネルジーは、かなりラッキーなメイドさんなのかも知れません。


ネルジー用の野菜カレーと卵カツ
カレーは好きなようで、この日も完食


2016年8月28日日曜日

洪水間一髪 州都バコロド


只今フィリピンは、雨季のど真ん中。つい二週間前に、首都マニラの洪水被害の投稿をしたばかりだというのに、土曜日の昨日は、我が西ネグロスの州都バコロドがエラいこと。

例によって、毎日必ず土砂降りが来て、数時間は激しく降り続く日々。昨日は朝から定期便が。そんな雨の中、久しぶりにバコロド滞在の日本人の友達とテニスをしようと、行ってきました、センターコート・テニスクラブ。ここは自宅のあるシライから、車で約30分の距離にある、バコロド市内のインドアコート。インドアといっても、安っぽいプラスティックの波板の屋根で、それも相当古びていて、土のコートのあちらこちらへ雨漏りしてました。

昼前まで三時間ほど、他のお客さんやコートに雇われているヒッティング・パートナーにも入ってもらってダブルス・ゲーム。その間中、外は激しい豪雨。怒鳴らないと、フォールトのコールも聴こえないほどの雨音。

その後、近くのショッピングモール内のレストランで食事をして、帰路についたのが、かれこれ午後二時過ぎだったでしょうか? その頃には、モール前の大通り「ラクソン・ストリート」は、一部大きな水溜まりが出来ていて、道行く車列は、ノロノロ運転状態。かなりの渋滞が始まっていて、モールの駐車場から出るだけで、20分ほどもかかってしまいました。

ちょっとヤバイかな?と感じましたが、モールを出ると意外とすんなり。渋滞がひどいのは、市の中心部に向かう車線だけ。シライに向かう市外方面は、いつもとあまり変わらない交通量。ただ、雨脚は激しくなる一方で、怖くて60キロも出せない状況でした。

何とか自宅に戻ると、シライ市内の雨はそれほどでもありません。これこそ超局地的に滝のように降る、元祖ゲリラ豪雨。やれやれとばかりに、着替えて少し昼寝をしました。さて、夕方に目が覚めて、フェイスブックで家内のバコロド在住の友達が投稿した写真を見て、びっくり仰天。


ほんの数時間前まで私がいたラクソン・ストリートが、まるで川のように茶色い水に覆われいます。家内によると、その近くの病院で、デング熱で入院している姪のジャスミンの、付き添いをしていた義弟(ジャスミンのパパ)が、帰れなくなって病院に泊まるとのこと。

うわぁ、これは間一髪でした。バコロドは、以前より少し強い雨が降ると、簡単に道路が冠水してしまうとは聞いていましたが、本当にこんなに短時間で洪水になってしまうんですね。おそらく、下水道の設備が貧弱なんでしょう。まったく、フィリピンの雨季、侮るべからずです。


2016年8月26日金曜日

姪っ子ジャスミン受難 デング熱続報


二週間ほど前、私の住む西ネグロス州でデング熱が流行しているという話を投稿しました。その後もデングの猛威は衰える気配を見せず、ついに身内に感染者が。

私の姪っ子で、息子の従姉のジャスミン。11歳の小学校の5年生。私たち家族と同じシライ市内の、家内の実家に住む女の子。この子が今週の月曜日から発熱して、しばらく学校を休んでました。一旦熱が下がったのに、昨日からまた熱が上がり、病院で検査を受けたところ、デング熱との診断。

幸い症状は軽いようなのですが、血液中の血小板数が減っているとのことで、緊急入院となってしまいました。血小板減少はデング熱の特徴。健康な人の場合、血液1立方ミリ中の血小板数は、15万〜40万個。フィリピンの基準では、12万以下になると医師から入院の指示が出るそうです。ジャスミンの場合、検査結果は11万5千でした。

入院先は、州都バコロドにある私立の総合病院。今日は仕事を休めないジャスミンのママ(私の義妹)の代わりに、朝から夕方まで家内が付き添いに行ってきました。もう熱も下がり、点滴しながら血小板の回復を待っている状況で、ちょっと安心。

さて、気になるフィリピンでの入院費用。ジャスミンがいる病院は、西ネグロスでもトップクラスで、入院費用は個室で1日1500ペソ(約4000円弱)。これに治療費や薬代がプラスになるので、義妹家族の収入からすると決して楽な出費ではありません。ただ、義弟は任意の健康保険に入っているので、支払いは半額以下になります。

しかし保険があっても、入院に際しては、最初に現金で5000ペソ(約1万2千円)のデポジット支払いが必要。シライ市内の半分以上の世帯が、月収5000ペソに届かないので、多くの人たちにとっては、入院自体が無理ということになります。お金がないと、シライ市内の公立病院しか選択肢はありません。ところが家内によると、この病院は医療レベルがかなり見劣りして、院内感染のリスクもあるらしい。

こういう話を聞くと、ジャスミンはかなり恵まれた環境にいるんですね。おそらくデング熱の感染者数や死者も、実際は公式発表よりも、遥かに深刻な数字になっている可能性は高い。病院にも行けず、診断すら下されない患者さんは、いくらでもいることでしょう。


【追記】発症後ちょうど一週間で、入院四日目の今日、ジャスミンは無事退院しました。



2016年8月25日木曜日

尼崎発フィリピン往き

このブログの自己紹介にも記したように、私は兵庫県の尼崎という街の生まれ。たいていの人がそうであるように、私も生まれ故郷が大好きです。

なんで、いきなりこんな書き出しから始めたかというと、ここ最近立て続けに、尼崎で生まれたり、住んでいたりする人と、フィリピンを通じて知り合ったからです。私と同じようにフィリピン女性と結婚した人や、尼崎に住みながら、同じネグロス島にご家族で長期滞在している人など、フィリピンとの関わり方はさまざま。

それでも、同じ場所に居たというだけで、まったく未知の人と永年の友達だったような感覚になります。特に、日本から遠く離れて暮らしていると、余計に。

尼崎は、大阪市と神戸市の間に位置する中核都市。市内には阪急・JR・阪神の3本の鉄道が走り、住むにはとても便利で、人口は45万人。そんなに大勢人が住んでいるんだから、中には、フィリピン人と結婚したり、フィリピンに滞在する人もいるでしょう。そう言ってしまうと身も蓋もありませんけど。

かつて私が子供の頃は人口55万を数え、臨海部に工場が林立し、幹線道路を大型トラックが走り回って、大気汚染が深刻な状態でした。市内を流れる庄下川は、工場の汚水や生活排水で悪臭を放ち、一時は、尼崎といえば公害の街というイメージが定着してしまった。

ところが今では、すっかり空気もきれいになり、あの庄下川には小魚が戻ってきたと言います。その代り...でもないのですが、2005年のJR西日本・福知山線の脱線事故やら、2012年の尼崎連続変死事件やらで、イメージそのものは、今でもあまり良くないかも知れませんね。

イメージがいいことだと、テニスのクルム伊達公子さんの母校、園田学園は、私の実家のすぐ近くです。その他に尼崎所縁の有名人では、つい先日亡くなった、人間国宝の桂米朝師匠は、ご子息の米團治さんと共に尼崎にお住まいでした。また、ダウンタウンの松本さんと浜田さんが尼崎生まれ。このお二人、私と1年違いの同年代。

この尼崎を、今の家内との結婚を機に離れて、もう20年が経とうとしています。これだけ時間と距離を置くと、生まれ故郷を、ずいぶん客観的に眺められるようになりました。いろんな経緯があって、今はフィリピン暮らし。もちろんそれは気に入っているのですが、もし事情が許せば、もう一度尼崎で、家族一緒に住んでもよかったかな、とも思える最近です。


2016年8月23日火曜日

出張マッサージ

私がフィリピンに移住する直前の4年前頃、日本でもマッサージが急に流行りだした印象が残っています。それほど広くもない、テナントビルの一角のような場所が多かった。最近一時帰国した時も、東京でも関西でも相変わらずの繁盛ぶり。

フィリピンでは、日本でのブームが始まるずっと前から、マッサージは一般的。ただ、ストレスやら肩凝りやらを溜め込んだ、会社勤めの人たちが仕事の後にリラックス、という需要とはかなり違って、どちらかと言うと有閑マダムの憩いの場のようです。

ここ田舎町のシライに、全国展開のチェーン店「グランド・ロイヤル・スパ」の支店がオープンしたのが、3年前。昨年あたりから私も通うようになりました。だいたい週一回の頻度で、1時間のボディ・マッサージを頼んでます。料金が300ペソ(約700円)で、平日の昼間だと割引があって255ペソ(約600円)。これはお得。

オイルを使った施術が人気で、全身以外には、足・顔があります。その他だとオイルなしの指圧(Shiatsu と日本語名称そのまま)や、タイ式、ストーン・マッサージなど。従業員は、ほとんが若い女性ですが「不健全なサービス」は一切ありませんよ(!)。わざわざ張り紙して「特別サービス禁止」を徹底。お客さんのほとんどが女性なので、変な噂でも立ったりしたら、アッという間に商売できなくなるんでしょう。

マニラなどの風俗系のものは「マッサージ・パーラー」で、普通のマッサージは「スパ」。マッサージャーはセラピストと呼ばれています。くれぐれもお間違えなきよう。

さて、すっかり週一の習慣になったスパ通いですが、最近は出張サービスがお気に入り。これは家内の従弟夫婦が新しく始めたビジネス。2〜3名のセラピストを雇い、自家用車で顧客の家を訪問営業するというもの。わざわざ隣街のバコロドから来てもらうので、最低でも2セットの利用が必須なのですが、私だけでなく家内も施術してもらって、重宝してます。


二階の風通しのいい部屋でサッマージ

フィリピンでは、マッサージだけでなく、ネイルサロンや美容院の出張サービスも多い。大抵は普段店舗勤務で、休みの日だけ自営のフリーというパターン。店に行くより、少し安くしてくれるそうです。同じことを日本でやって店に知れたら、即解雇になりそうですね。

それにしても、家事はメイドに任せ、マッサージにマニュキュア、ヘアケアまで、全部自宅で出張サービス。もう少し余裕があれば、運転手雇ってる奥さんも多い。日本企業の現地駐在員の奥さんが、あまりの居心地の良さに、旦那さんが帰任する時に大揉めになったというのも、分かる気がします。中には地元のお金持ちの男性とくっついてしまい、離婚してそのまま永住というツワモノもいたんだとか...。


2016年8月19日金曜日

私的名曲選4 ゴダイゴ「ビューティフル・ネーム」

1970年代後半から80年代の日本。私が高校生だった頃、流行りましたね〜、ゴダイゴ。ヒット曲は数多いけれど、やはり一番有名なのは、テレビドラマ「西遊記」のテーマ曲の「モッキー・マジック」と「ガンダーラ」。日本人が歌った日本向けの曲なのに、歌詞が英語、しかも流暢な英語で、それが大ヒットしたなんて、それ以前にはあまり記憶がありません。ガンダーラはサビだけが英語でしたが、アルバムでは英語版を収録。

それ以外にも、ミラージュやスプリンターなどの車や、「赤いシャポーの味の素」「森永チョコレート」のCMソング。この頃に青春を過ごした世代ならば、絶対に耳にしてると思います。

私の大好きなアニメ、映画版「銀河鉄道999」のテーマもゴダイゴでした。売れっ子のシンガーがアニメの曲を歌ったのは、多分ゴダイゴが草分けだったように思います。最近でこそ当たり前になりましたが、その前に記憶にあるのは、水原弘さんが歌った「忍風カムイ外伝」のエンディング・テーマぐらいでしょうか。

そんなゴダイゴの人気絶頂期にリリースされたのが「ビューティフル・ネーム」。1979年は「国際児童年」で、この曲はその協賛歌。「みんなのうた」でも使用。そう言えば、当時はNHKでやたら流れてました。

その後、全編英語のゴダイゴによるセルフカバーを始め、国内外のいろんなアーティストにカバーされたビューティフル・ネーム。1991年に Apo Hiking Society というフィリピンのボーカル・グループが「Bawa't Bata 」(子供たち一人づつ)というタイトルで、タガログ語版をリリース。このグループと同じ、アメリカ資本のMCAレコード所属だったゴダイゴのプロデューサーによって、カバーが実現したそうです。だからバックの音源は、オリジナルと同じなんですね。


これが今やフィリピンでは、小学校で教材に使われるほど、超スタンダード・ナンバー。メイドのネルジーも知ってるぐらい。家内など、元が日本の曲だと言っても頑として信じない。それほど、フィリピン人の愛唱歌になってます。

タガログ語の歌詞は、こんな感じです。全体のイメージは日本語の歌詞に近いですが、神さまが出てくるのは、さすがカトリック大国のフィリピン。例によって超意訳ですので、悪しからず。


子供たち一人づつ

世界中の子供たち
一人づつに名前があって、いい子たち
僕らは誰でも歳を取るけど
みんな子供のままなのさ

子供たち、
陽の光の中で遊べ
雨の中を歩め
お金があってもなくても
肌の色が白くても黒くても
そんなことは関係ない
世界は若い君たちのもの

世界中の誰だって
神さまは大好きさ
世界中の子供たち
一人づつに名前があって、いい子たち

子供たちを慈しんで
それは神さまのルール


私的名曲選のバックナンバーは、こちら
五番街のマリーへ
シクラメンのかほり
Habang May Buhay


2016年8月18日木曜日

ここまで来たかグーグル・ビュー

世界中で活用されているグーグル・マップ。ウィッキペディアによると、2005年にβ版としてサービスが始まり、日本で使えるようになったのが2008年。まだ10年余りしか経ってなかったんですね。

グーグル・マップ普及のはるか以前から、私は地図大好き少年。本屋に行ってまずチュックしたのが地図。日本では、どんな小さな本屋さんでも地図は売ってます。世界地図から、日本の詳細図、道路地図に都道府県、市町村の詳細図。小学生の頃から地球儀と世界地図を眺めるのが大好きで、叔父に買ってもらった帝国書院の「最新基本地図 世界・日本」など、舐めるようにして毎日閲覧。もう宝物状態でした。

この最新基本地図は、毎年改訂版が出版されているらしく、2016年でもう40訂版。小学生の頃に持っていたのが、おそらく最初の頃のものだったと思います。もうそれは手元にはありませんが、フィリピンへは、1996年版を持ってきました。

この地図の優れたところは、その時の最新地図が掲載されているだけではなく、各地域ごとに地図を通じた歴史が学べる点。例えば、中国の歴代王朝の最盛期の版図や、ローマ帝国から、中世、近世、第一次大戦・第二次大戦前後の各時代のヨーロッパの地図など、文章で読むより、ずっと感覚的に理解できました。

そんな地図好きの私にとって、フィリピンの地図事情は、実に寂しい限り。一枚物のフィリピン全図ぐらいは、簡単に見つかりますが、ネグロス島やシライ市の詳細図など、どこを探しても見当たりません。せいぜいマニラやセブなど、有名な都市の観光地図ぐらい。

そもそも、フィリピン人は、車を運転するにも、どこかを旅行するにも、地図を見るということをあまりしない国民のようです。最近でこそカーナビ搭載の車をたまに見かけますが、それもまだまだ珍しい。

なので、グーグル・マップは、実に重宝してます。しかし移住当初の2013年には、シライ付近の航空写真は、日本国内と比べると解像度がずいぶん低かったし、肝心なところに雲がかかった写真を使ってたり、相当ひどいものでした。

ところがここ数年で、状況は劇的に改善。このド田舎のシライ市内も写真はきれいになり、レストランや店舗、公共の建物の表示も格段に増えました。(ただ、日本語対応がまだダメで、シライ Silay を「シレイ」、バランガイ Barangay をバランゲイなどと表記)

そして、つい最近気づいたのは、グーグル・ビューがシライ市内をカバーしたこと。撮影日は今年の1月になっているので、もう半年も前。へぇ〜、あの撮影車がここまで来たのか。しかも自宅が写っているので、家の前を通ったんですね。すごい。


つい先月も、早速このグーグル・ビューを使って、隣街バコロド在住で初訪問の友人宅までのルートを下調べ。画期的に分かりやすくて、かなり奥まった場所なのに、一度も迷わずたどり着けました。

携帯電話も含めて、最近のIT関連の技術革新は、多少のタイムラグはあるものの、世界中どこに住んでいても、恩恵に浴することができます。20年ほど前まで、国際電話をするのも大変だったのに、まるで夢のような時代になりましたね。



ヤモリと共存 ネグロスの夜


フィリピンで生活すると、どうしても避けられないのが、家の中に入ってくるいろんな生き物。とは言っても、ネグロス島の平野部では、日本の真夏の状況とそんなに大きな違いはありません。

一番厄介な蚊は、デング熱を媒介したりする危険なヤツ。しかし、どの家でも窓にも扉にも網戸があるので、屋内ならば、そうそう刺されることはありません。閉口するのは、ハエの多さ。ガーデンパーティでもすると、ものの数分で何十匹もたかってきます。食べ物だけでなく、肌が露出しているところは、腕・脚・顔面と、人間にもたかるので、鬱陶しい。ところが、ネグロスのハエは、おっとりしていて、殺虫剤など使わなくても、ハエ叩きで割と簡単に駆除できます。(多少時間はかかりますが)

アリの凄さは以前にも投稿しました。(アカアリ大発生 大戦果 アリの巣コロリ アリさんパニック)食卓にこぼした細かなクッキーの破片や、飲み終えたコーラの瓶など、どうやって嗅ぎつけるとかと驚くほど、短時間で群がってくる。時には子供用の咳止めシロップや、歯ブラシにまで。こちらでは、冷蔵庫は冷やすためだけではなく、アリ避けシェルターの役目も果たしてます。

ゴキブリは、本場のフィリピン。サイズや種類は日本のもとさほど変わらないものの、こちらではみんな飛びます。引っ越す前の借家で、顔めがけて飛んできた時は、軽くパニックになりました。ところが新築の自宅では、もう2年以上経過しても姿を見ません。特に薬剤散布とかした覚えはないのですが、できれば永久に会いたくない。

日本でも時折見かける、ちょっと大きなクモも、我が家の常連さん。脚を広げると子供の掌ぐらいの大きさで、時々シャワールームに出没しては、家内に金切り声を上げさせる。

さて、昆虫やクモなどで構成される我が家の屋内生態系。その食物連鎖の頂点に君臨するのがヤモリ。昼間は、本棚の裏や、ベッドの下に隠れていて、夜になると小虫を求めて這い出してきます。今、このブログを書いている部屋にも、常時二〜三匹は待機状態。害虫を食べてくれるので、駆除したりはしませんが、アルミサッシの窓枠に潜んでいるのが多くて、たまに朝窓を開けると、ペチャンコになったヤモリ君と目が合う悲劇も。ここまでは、頻度はともかく、昔は私の実家(兵庫県・尼崎市)でもよくあった話。

同じヤモリの仲間でも、日本にはいない大物がゲッコー。こちらも昼間はあまり表に出てこないので、姿を見ることは比較的稀ですが、鳴き声がすごいので、すぐに所在が知れてしまいます。Gecko(英語)という名前の通り「ゲッコー・ゲッコー」と大音量。フィリピンでは「トッコー」とも言うそうです。

体長は20センチから30センチにもなるゲッコー。さすがに部屋の中には入ってきません。ところが私の部屋は、深夜まで明かりをつけてパソコンに向かうことが多いので、毎晩のように網戸に張り付いて、虫を狙ってます。今では顔なじみのお客さんのような感じ。鳴き方に個体差があるので、毎晩同じ奴が来ていると分かります。

こんなことを書くと、フィリピンには住みたくないと思われそうですが、意外とすぐに慣れます。最近ではゲッコーの声に、郷愁すら感じるぐらいですよ。


2016年8月16日火曜日

続・フィリピン妻の就職


1年半ほど前に投稿した、フィリピン人の家内の就職。その後もずっと日本のNGOで働き続けてます。現金を預けても大丈夫という信頼感と、日本語で敬語が話せる語学力を買われて、二回も日本出張。それも、フィリピンの小学校の先生や大学生を引き連れてのマネージャー役。二回目の時は、東京で催されたJICA(国際協力機構)主催で、総理大臣夫人の昭恵さん出席の会合にも参加したそうです。

サラリーは、フィリピンでの一般的な勤め人と比べると悪くないレベル。(とは言っても今の生活費を全部賄う額には届かないですが)でも、恒久的な仕事ではなく、今のプロジェクトが終わる今年の年末には終了してしまいます。

その代りに、というわけでもないけれど、次の仕事のために、今日家内は試験と面接を受けにDepED(Department of Education フィリピン教育省)のオフィスに行ってきました。このDepEDという組織、もともとは1987年にコラソン・アキノ大統領の治世下で発足したDESC(Department of Education, Sports and Culture 教育・スポーツ・文化省)を母体として、2001年に分離独立した、比較的新しいもの。

教育省に就職するなんて言うと、とてもすごい事のように聞こえますが、これはシライ市の分室。シライ市内の学校運営や教育施策を支援するようなところで、日本ならば、市の教育委員会という感じでしょうか? たまたま空きポストが出たとのことで、家内に声がかかったというわけです。

今勤めているNGOのプロジェクトの内容が、環境教育を行える小学校〜高校教師の育成。その関係でシライ市のDepEDとの関わりができました。狭いシライ市のことなので、それ以前からの家内の友達や知り合い、高校の同級生なども多い。今日の面接も、面接官が顔見知りで、全然緊張感がなかったらしい。珍しくよそ行きの服を着て、めかしこんで出かけた家内は、ちょっと拍子抜けして帰ってきました。

取り敢えず、「内定」みたいな感じだったようです。まだ金額は確定してませんが、サラリーも今の仕事よりは、だいぶ上がりそう。日本の企業と違って、狂ったような残業は皆無だし、土日・祝日はきっちりと休み。できたら私が就職したいぐらい。

もちろん私が務まるようなレベルではなく、フィリピン大学〜大学院卒の学歴と、その後の研究員としての職歴や、NGOでの仕事ぶりが評価されたわけで、運だけで就ける仕事ではありません。

さて、この調子で稼いでもらって、家族の生活費を全額賄うとなると、私の専業主夫の立場は、いよいよ不動のものになりそう。家庭内パワーバランスも、微妙に変化するかも知れませんね。


2016年8月14日日曜日

モンスーンの季節 首都圏洪水

もう今日で十日間も雨天が続く、フィリピン・ネグロス島シライ市。と言っても、ずっと降り続いているのではなく、時折日が差す時間も。ところが、それに油断して傘を持たずに外出したりすると、文字通り「滝のような豪雨」に見舞われます。

ほんの数十分で止んで虹が出ることもありますが、降る時は半日以上。隣の空き地には「インスタント池」が現れました。雨季の間だけ、カエルたちのパラダイス。こうなると、昼夜を問わずゲロゲロ大合唱に。以前住んでいた大阪・茨木市内。マンションの前が田んぼで、梅雨時にはアマガエルが夜通し鳴いていたのを思い出します。



毎年この時期、七月〜八月は、インド洋方向から吹き込む南西風、いわゆるモンスーンの影響で、雨が、それも大雨が続くことが多いフィリピン。去年も一昨年も、一週間も十日も雨続きでした。おかげで一日中とても涼しく、就寝中はエアコンどころか扇風機も不要。窓閉め忘れると、風邪を引いてしまいそうです。


出典:地球の風

連日35〜40度の酷暑が続いているという日本。さぞや羨ましいと思われるでしょうが、今年が少し度が過ぎたようで、フィリピン各地で水害が報告されています。特に洪水被害が慢性的なマニラ首都圏。コンクリート壁が崩れて幼い姉妹が亡くなったり、悪天候のため、フライト・キャンセルが続出したり。身近なところでは、雨が続くと野菜の値段がてきめんに上がる。


出典:philstar

自宅では、裏庭の周囲に廻らせた竹製のフェンスの一部が、金曜日の朝にバッタリと倒壊。今年の三月に、西側の竹フェンスが倒れて修理したという投稿をアップしましたが、今回は北側。作って丸二年以上経過していて、倒れるのは時間の問題だったところを、雨がダメ押ししたようです。

先日、生活費を引き締めると書いたところなのに、また修理に二万円ぐらいの出費。マニラの洪水被害に比べれば大したことないとは言え、やっぱり痛いですね。



2016年8月12日金曜日

西ネグロスでデング熱流行


出典:The NEWS Mimute

複数のフィリピン・メディアが、数ヶ月前から報道し始めた、西ネグロス州でのデング熱の流行。本日(8月12日)付けの「パナイ・ニュース Panay News」によると、地方保健局(Provincial Health Office)が「エピデミック Epidemic」流行病のレベルに近づきつつあると発表しました。

今年2016年1月1日から8月6日までの、ネグロスでの累計感染件数は、2520件。前年の849件に比べて197パーセント増です。とてもヤバいことに、私たちの住むシライ市での感染件数が、252件で州内トップ。それに続いてバゴ市202件、ヒママイラン市199件、カバンカラン市196件、カウアヤン市165件となっています。それ以外にもシライの隣街タリサイなど、ほぼ西ネグロス全域で患者が出ている模様。

死亡率は0.4パーセントと、それほど高くはないものの、タリサイをはじめとして州内ですでに少なくとも10名が死亡。息子が通うシライ市内の小学校、聖テレシタ学院でも、4名の児童が罹患したとのこと。

デング熱は、「〇〇さんの旦那さんがデングで寝込んだ」とか、身近でも時々感染者の話は聞きます。高熱や下痢、頭痛・筋肉痛、全身の倦怠感などが主な症状で、大抵は一週間ほどで治る病気。一昨年は日本国内でも感染が確認されたので、ご存知も方も多いでしょう。

厄介なのは蚊が媒介する感染症である点です。「できるだけ蚊に刺されないように」などの注意書きを見ますが、フィリピンに住んでいて、まったく蚊に刺されないで生活するのは、まず無理。

普通の民家ならば、扉にも窓にも網戸があるのが一般的で、かなり神経質に開け閉めする人が多いですが、それでも家の中に蚊を一匹も入れないのは、相当難しい。シャツもパンツも長いのを着用すれば、かなり防げます。でも、いくら涼しい雨季でも、朝から晩まではちょっとたいへん。

結局のところ、気をつけていても、蚊に刺される時は刺されてしまうし、デングに罹るかどうかは、運次第としか言えません。幸運にも、私を含めて家族がデング熱に感染したことはありませんが、目下のところ一番心配なのは、小学校4年生の息子。

今は、一年で一番雨の多い季節。校庭のあちこちに水溜りができてるし、教室にはエアコンなどないので、窓は開けっ放し。もう神さまに祈るしかありません。


メトロバンクの定期預金 後編


メトロバンクのシライ市支店

前回は、大阪にあるメトロバンクの支店から、フィリピン人の家内名義の口座へ高額送金をした話。でもその前に、フィリピンに口座を開くのって、どうすればいいのでしょうか?私の場合は、家内がフィリピン人なので、現地に家内の口座を開設し、日本から送金して移住してから、私と家内の共同名義にしました。

しかし、日本人だけで口座を開くのは、かなり面倒らしく、例えば特別居住退職者ビザ(SRRV)を取得しようとする場合、フィリピン国内の銀行に、2万〜5万米ドルの定期預金の口座を持つこと必須条件。ところが、ビザ取得前なのに、銀行の窓口で、口座を開くにはビザが必要だと言われ、堂々巡りになってしまうこともあるそうです。

話を戻して、移住後の銀行預金について。
後からメトロバンク・シライ支店のマネージャーに聞いたところ、日本から高額の送金にみんな驚いて、しばらくは支店内の語り草になっていたらしい。地主など、何億ペソも預金してる人もいて、額そのものは大したことはなくても、海外からの送金にしては、あまりないことなんだそうです。(田舎街ですからねぇ。)

送金したお金は、すぐに必要な生活資金を残して、定期預金に入れました。あまり先のことを心配する人が少ないフィリピン。定期の満期も半年が基本。そして気になる利率ですが、数日前に確認したら、たったの1.25%でした。これは一律ではなく、銀行によってはもっと高いところもありますが、国内最大手のメトロバンクは、経営が安定していて信頼度も高い代わりに、ローリスク・ローリターン。

もちろん、日本に比べればはるかにマシですが、高額の預貯金があれば、利子だけで生活できた時代に比べれば微々たるもの。まぁ元本がそこそこあるので、半年に一度、ちょっとしたボーナス程度の金額にはなります。

このようにして、半年〜1年ごとに、少しづつ必要な金額を普通預金の口座に移して、日々の生活費に充てています。若干不便なのは銀行カード。私と家内で1枚づつ持ってますが、給料日の翌日(フィリピンは月二回が一般的)や、年金支給日など、店舗に一台しかないATMは大混雑。しかもすぐに現金がなくなるようで「オフライン」(使用不可)になることもしょっちゅうです。

ただ、銀行カードが、ショッピングモールやスーパーでの支払いに使えるのは、日本よりも便利。クレジットカード作る必要もないし、手数料はかかりません。(クレジット機能付きですが、残高が十分ならば、預金から直接引き落としができます。)


ネグロス島での生活費は、突発的な出費がなければ、家族3人でだいたい月3〜4万ペソ程度。(約7〜9万円)ところが、この1年は、家の修理や発電機の購入、私の一時帰国に、ビザ・パスポートの手続きで何度もセブへ行ったりと出費が多く、当初の見込みの1.5倍ぐらいになってしまいました。

家内に職があって、大いに家計を助けてくれていますが、年金生活ができるまでは、まだ10年少し。そろそろ生活を引き締めていかないといけませんね。


2016年8月11日木曜日

メトロバンクの定期預金 前編


今日は、お金のお話。フィリピンに移住しようと考えている人には、少しは参考になるかもしれません。

私たち家族三人の生活を支えているのは、日本での貯金と家内の給与。私は4年前、ちょうど50歳になった時に、それまで28年間勤めていた企業の早期退職に応募して、かなりいい条件の退職金をもらって勤め人を辞めました。もちろんそれだけではなく、コツコツ蓄えたお金もあり、一時的には、ざっと五千万円以上の預金残高。

退職時点で、すでにフィリピン・ネグロス島の家内の実家近辺に、600平米の宅地(今住んでいる場所)は購入済み。問題は、フィリピンへの送金でした。さすがに家内を含めて、フィリピンの親戚や友達で、こんなに大きな額の送金をしたという人はいません。ネットで調べたりもしましたが、やっぱりフィリピンの銀行に聞くのが早道でした。

実は、以前から十数万円程度の送金ならば、家内の実家宛に送金したことは何度かありました。私の知る限り、関西に支店を置く、唯一のフィリピンの銀行「メトロポリタンバンク」通称メトロバンクを通じてです。大阪にあるのは東京支店・大阪出張所という名称で、大阪地下鉄の御堂筋線・本町か、堺筋線の堺筋本町が最寄り駅。

今も同じサービスをしているのかどうかは分かりませんが、当時は送金金額に上限はなく、金額に関係なく一回の送金手数料が一律3千円でした。さすがに一千万単位になると、送金者(つまり私)の身元確認のための運転免許と、お金の出所を確かめられる通帳(もしくはネットバンキングでの残高表示のプリントアウト)のコピーの提出が必要でした。

この時住んでいたのは、転勤先の福岡。送金先(家内の現地口座)を含めて必要な情報を登録済みだったので、大阪の窓口には直接足を運ぶことなく、書類は郵送、手続きは電話で済ませました。

メトロバンクの担当者の日本人マネージャさんは、私と同年代の男性。送金金額を聞いた時は「え〜!本当にこの金額でいいんですか? 思い切りましたね〜〜!」と電話口で驚いていました。その後に一言「羨ましいです。」

実際には預金の全額ではなく、いくらかは日本に残してはいたものの、一介のサラリーマンが、簡単に持てる金額ではないので、その反応も無理ないかも知れません。またこの時は、アベノミクスの影響で円安傾向になる直前。まだ1ドル90円台の時期なので、図らずもきわどいタイミングでの送金になりました。

ここまででかなりの分量になってしまったので、フィリピンでの運用(と言うほどのことでもないですが)については、次の投稿に。


2016年8月10日水曜日

勤続半年メイドのネルジー


三代目メイドのネルジーが我が家で働き始めてから、早くも半年。前の二人が、なぜか半年ちょうどでいなくなってしまったので、まずは半年続いけてほしいと思ってましたが、なんとか最初の関門はクリアしたようです。

最初の頃は留守番を任せても、寝室や貴重品の置いてある部屋には、しっかり施錠していた家内。最近ではすっかり信用して、一晩家を任せるまでになりました。それに、この頃は、家内といると、本当によくしゃべるし、よく笑うネルジー。こんなにゲラだったのか。

あまりに無防備な笑い方に、家内が「アホみたいやから、その笑い方やめなさい」と注意したら、もっと笑いが派手になる始末。もちろんアホな子でなく、よく気がつくし、一度言いつけたことは、大抵しっかり覚えていて、自分から仕事をこなす働き者。

フィリピンで暮らし始めて、3年半。メイドを雇うようになって2年半ほど経ちます。何となく分かってきた、いいメイドの条件。まずは、よく働くということ。当たり前だと言われそうですが、怠け者のメイドって、他の家では結構いるらしい。

言われたことしかしないし、雇い主が見ていないと、1日テレビ見てたり、ケータイいじってたり。ネルジーが以前に働いていた家の、もう一人のメイドがこのタイプだったそうです。まぁ、そういう人だと、家内だったら、一ヶ月もしないうちにクビにするでしょうね。

次に、明るくてよくしゃべること。やっぱり住み込みメイドの場合、メイド部屋があっても、同じ家で暮らす同居人。我が家の場合は、食事も一緒に摂るので、準家族のような存在。同居人が陰気で無口だと、それはちょっと嫌ですね。

そして、変に女を意識させないこと。こう書くとネルジーが女らしくないと言っているようですが、そういう意味ではありません。例えば、最初のメイドのカトリーナは、デリカシーにやや欠けるところがあって、子供も使うトイレに、生理用品を置きっぱなしにしたり。家内が時々機嫌を悪くしてました。何と言っても、ボスである主婦に好感を持たれないメイドは、ダメなようです。

さて、しばらくは居ついてくれそうなネルジー。無断外泊はないし、どうやらボーイフレンドもいない様子。家内との関係も良好で、何より息子が懐いているのは大きい。この調子ならば、クリスマスにはボーナス支給もありかも?




2016年8月9日火曜日

フィリピーナの銀メダル


出典:Rappier

近代オリンピックで、今までフィリピンの選手が獲得したメダルの数って、どれぐらいかご存知でしょうか? 多分、ほとんどの日本人(フィリピン人ですら)は、まったく知らないと思います。私が初めてフィリピンに来た1995年以降で記憶にあるのは、1996年のアトランタ大会での、ボクシングの銀メダルだけ。

先日始まったリオデジャネイロ五輪。早々にフィリピン選手の快挙の報がもたらされました。重量挙げ53キロ級で、フィリピン・ミンダナオ出身のヒディリン・ディアス(Hidilyn Diaz)嬢が、銀メダルを獲得。フィリピンでは、テレビでもフェイスブックでも、新しいナショナルヒーロー誕生とばかりに大騒ぎです。

フィリピーナ(フィリピン女性)で初めて、フィリピン重量挙げで初めて、そしてミンダナオ島出身者で初めての五輪メダリスト。最初の質問の答えですが、前回ロンドン大会までの夏のオリンピックでは、銀が2個、銅が7個の合計9個が、1924年以来のメダル獲得数。半分以上の5個がボクシング、その他の競技では、水泳と陸上で2個づつ。

ディアスの銀は、記念すべきフィリピン10個目のメダル。この功績で、彼女には500万ペソ(約1200万円)の報奨金と住宅が、フィリピン政府より贈られることが決まったそうです。

スポーツに限らず、世界レベルでの活躍の場がそれほど多くないフィリピン。話題になるのは、ボクシングとビューティ・コンテストぐらいしか思い浮かばない。そういう環境なので、一度でも世界の脚光を浴びると、あっという間に国民的アイドルになります。1996年の銀メダリストの名前を、20年経った今でも家内は覚えてたぐらい。(マンスエト・ベラスコ選手)

日本では、銅メダル獲っても喜べない選手がいるなんて、フィリピン人が聞いたら怒るでしょうね。古い話ですが、前回の東京オリンピック(1964)でマラソンで銅メダルの円谷幸吉選手が、その次のメキシコ大会前に、27歳で自殺したことを思い出してしまいました。

それにしても、ボクシング世界チャンピオンのパッキャオ選手や、ダバオ市長から大統領になったドゥテルテと、このところミンダナオ所縁の人物の活躍が目立ちます。貧困が社会問題になって久しいフィリピンでも、特に貧しいとされるミンダナオ。そういう地域から、どんな分野にせよ、希望の星が輩出されるのは、本当に嬉しいことです。


2016年8月8日月曜日

誕生日はホテルでお食事


今年も息子の誕生日が巡ってきました。子供の誕生日というと、何十人もお客さんを招いてホームパーティしたり、レストランのパーティ・スペースを借り切ったりと、分不相応な散財をするのがフィリピン流。我が家でも移住以来、3年続けてホームパーティをやってました。

しかし親も子供も、何となく飽きてきた移住4年目。息子も別にパーティをしてほしいという感じでもなく、今回はぐっと地味な誕生日に。

当日は、週のど真ん中の平日だったので、ほんとに身近な親戚を8人だけ招いての夕食。(それでもパーティはする)そして、その週末、息子の希望で、隣街の州都バコロド市内のホテルのレストランで食事をして、その夜は家族でホテルに一泊してきました。

「どこが地味やねん?」とツッコミが入りそうですが、親戚とのパーティなんて、特別な料理を作ったわけでもないし、品数を増やして、ケーキと宅配ピザを注文した程度。ホテルにしても、一泊五千円ほどで、食事代を合わせても家族全員で一万円にもならない。フィリピンの感覚からすると、これで十分地味な誕生日です。

さて、宿泊したのはバコロドで一番の高級ホテルで、昨年の家内の誕生日でも利用して、お昼を食べた「エル・フィッシャー」(L'Fisher Hotel)。泊まったのは、実は今回が初めて。屋上にはプールやジムにスパもある。久しぶりに息子とプールで泳ごうと、水着に浮き輪まで持参しましたが、ホテルに着いた途端に生憎の土砂降り。仕方がないので、私だけがスパで、マッサージをしてもらいました。(息子の誕生日なのに)



食事はディナー・バイキング。いくら食べても料金は同じとなると、どうしても食べ過ぎてしまうのが人情。私も家内も、翌朝まで胃もたれするほど食べてしまいました。息子だけは最初の一皿でおしまい。なかなか冷静なヤツ。

食事を終えて、客室に戻る途中にある二つのボールルーム。金曜日の夜だったので、両方パーティの真っ最中。しかもどちらもバースディパーティ。ドアには主賓の名前が書かれた立て札があって、まるで結婚披露宴並みですね。特に盛大だったのは、18歳の女の子の誕生日。フィリピンでは、18歳が成人年齢。特に女性の場合は、18歳になると「デビュー・パーティ」と称して、ことさら盛大にお祝いする習慣があります。


部屋に戻ると、窓からは週末の都会の夜景。バーやカラオケが立ち並ぶ州都の中心部なので、9時なんてまだまだ宵の口。ド田舎のシライ市では、8時過ぎにもなると、人通りもまばらになるのが普通なので、バコロドの明るい夜の景色が、やけに新鮮に感じました。さすが、人口50万都市。


2016年8月7日日曜日

市長も裁判官も容赦なし 豪腕ドゥテルテ


出典:Pinoy News

これは驚きました。
すでに、日本語の記事でも伝えられているように、フィリピンのドゥテルテ大統領は、8月7日未明、テレビ放送を通じて、麻薬関与の容疑者として、市長、議員、裁判官、警官、兵士などの実名リストを公表しました。(AFPは160名以上となっていますが、現地新聞 Inquirer 報道の名簿では156名)

政治家で名前を挙げられているのは、首都マニラのあるルソン、ミンダナオが多いものの、ネグロス島が属するビサヤ地方でも、現職・前職含めて14名の市長が名指し。ネグロスの隣島、パナイ島イロイロ州の州都で、家内の友達が多く住むイロイロ市長のジェッド・マビログ氏(Jed Mabilog)も容疑者とされています。マビログ市長は、すぐにこれを否定

それ以外では、観光地として有名なセブ市の前市長や、私の住む西ネグロスに隣接する、東ネグロスのバサイ市の市長も。

日本人の感覚からすると、晴天の霹靂とでも言うしかない話。しかしフィリピン人の家内に聞くと、地元住民の間では、公職にある者が麻薬に関係しているは、公然の秘密。噂レベルでは知られていても、報復を恐れて誰も糾弾しないし、警察も動かない。警官や地方の裁判官がグルだったりするので、手の出しようがないらしい。

当然のことながら、フィリピン内外の人権団体は、ドゥテルテ大統領の強引なやり方を非難し警告。すでに大統領就任前後から、裁判もなしに麻薬犯罪の容疑者が大勢射殺され、その数400名とも800名とも言われています。これでは冤罪は避けられないし、今回公表されたリストも誤認がある可能性も。(そもそもフィリピンの刑法では、死刑はありません。)

それでも私の知る限り、ドゥテルテは依然として国民の高い支持を得ています。もっと言うならば、これこそ彼に投票した選挙民の望んでいたことで、ダバオ市長時代にやったことを、国政レベルで再現しているだけ。見方を変えれば、フィリピンの麻薬犯罪は、政治家・警官などの権力層に、骨がらみに染み付いた宿痾であって、もはや劇薬を使った荒療治しか、解決方がないということか。

正直に言って、多少はフィリピンを分かったつもりだった私も、新大統領が就任1か月で、まさかここまでやるとは思いませんでした。しかし、所詮は居候外国人の私。ドゥテルテのやり方を批判する気にはなれません。




2016年8月4日木曜日

ゴールデン・カレー @ ネグロス島


二年ほど前に、フィリピンでも日本式のカレーを作ってるという投稿をしました。その後も、この習慣は続けていて、最近では「ウィークエンド・カレー」と称して、土日には必ずカレー。大抵の日本の家庭と同じく、一度作るとかなりな量になるので、続けても飽きないように、カツカレーにしたり、スパゲティやうどんと組み合わせたり。

最近の流行りは、キーマカレー

気が向くと、ジャポニカ米(フィリピン国内の生産ですが、種類がフィリピンのインディカではなく、日本と同じもの)を使うことも。こうなると日本で夕食にカレーを食べてたのと、まったく同じ味で、海外に移住したのを意識しなくなる瞬間です。

これができるのも、ネグロス島で日本製のカレールーが手に入るから。メインの材料、お肉、タマネギ、ニンジン、ジャガイモは、日本のものとほとんど変わらない。その他には、缶入りマッシュルーム、牛乳、コンソメ、トマトソースも使います。こちらも日本と同様、どこでも売ってる一般的なもの。時々、牛乳の代わりにココナツ・ミルクも。

そして気になるルー。これは、どういうわけだか近隣スーパーの輸入食材の棚にあるのは、S&Bのゴールデンカレーだけ。知っている範囲で三軒のスーパーに置いてますが、どこも同じ状況です。ただし、いつでも数量は確保されていて、品切れになることは滅多にない上に、「甘口」「中辛」「辛口」は、必ず揃っている。

移住当初、これ以外にもハウスのバーモントカレーや、こくまろカレーもあって、意外な日本カレーの充実ぶりに興奮したのに、しばらくすると淘汰されたのか、今では、ゴールデンカレーだけが残っています。

毎週作っているので、我が家の食料棚には、いつでも4〜5箱は常備されている「中辛」ゴールデンカレー。ホームパーティの時に用意する料理の一品は、大抵カレー。嬉しいことに、いつも一番人気で、フィリピン人、日本人に関係なく、どのお客さんにも喜んでもらってます。

スープ状で本家のインドスタイルのカレーは、フィリピンのレストランでも時々見かけます。それにスパイス売り場には、カレー・パウダーもあり、カレー風味そのものは、フィリピンでもポピュラーなようですね。

移住前から考えていたのは、日式カレーレストラン。「ちょっと高級」ぐらいのイメージで売り出せば、こっちでも固定客がつくんじゃないかと思います。実は今年の初め頃、ルソン島のリゾート地でレストランを経営している、家内の友人から「ウチの料理人にレシピを伝授してくれないか?」というお誘いがありましたが、その後、音沙汰がありません。やる気はあるんだけどなぁ。




2016年8月1日月曜日

正しい独裁 ドゥテルテ大統領就任1カ月


出典:Notey

早いもので、ドゥテルテ氏がフィリピンの大統領に就任してから、1カ月が経過しました。マスコミの注目度は極めて高く、ゴールデンタイムのニュースで、新大統領の顔を見ない日はありません。

特に目を引く話題は、やはり麻薬組織との対決。もう就任前から密売人の自首が相次ぐという、まるで映画のような展開。そして大統領が奨励した(と信じられている)通り、麻薬密売の容疑者が、もう何百人も射殺されているそうです。

フィリピンでは、ただの外国人に過ぎない私でも、ドゥテルテの活躍には快哉を叫びたくなるものの、ここまでやってしまうと、暗殺されてしまうんじゃないかという心配も。実際、今年1月、メキシコの首都メキシコ・シティで、麻薬撲滅を訴えた新市長が就任の翌日に殺されるという事件があったばかり。

しかし、こういう派手なことよりも、私が本当にすごいと思ったのは、今日8月1日から始まった、911番(日本の110番や119番に相当)緊急通報ダイヤルの開設。日本人の感覚からすると、今までなかったの?と思いますが、驚くことに、なかったんですよ。事故や火事、急患の場合がどうしてたかと言うと、最寄りの警察署、消防署、救急病院の番号を控えておいて、そこに直接ダイヤル。

ところが、どの部署にも専門の対応窓口がないらしく、なかなか繋がらなし、繋がっても「担当が違う」とたらい回し。迅速な対応ができてたら、助かったかも知れない命は数知れず。私も3年前、食中毒で入院した時など、最初から電話して救急車の到着を待つなんてことはせず、深夜に車を所有している義弟に頼んで、近くの病院まで運んでもらいました。

実は、ドゥテルテ氏がダバオ市長だった頃に、地域限定とはいえ、すでに991番を導入した実績があるんだそうです。その他にも喫煙場所の厳格な制限とか、爆竹の禁止(毎年、クリスマスや正月に爆竹を多用するフィリピンでは、事故による怪我人や死者が絶えない)など、他国では当たり前なのに、フィリピンではできていない事を、徹底してきました。

それにしても、いくら市長時代に経験があっても、就任1カ月で全国レベルでの新システム導入には恐れ入ります。それだけでなく、「国に文句があったら電話しろ」とでも言うべき「8888番ダイヤル」も同時開設。早速、家内に頼んで電話してもらいました。去年の10月に更新を申請した運転免許がまだ交付されないとクレーム。

案の定、初日はダイヤルが殺到して、何度か掛けてみましたが「話し中」。ニュースによると、文句を言うためより、お試しで通話した人が多かったそうです。

ド派手なことから地味な取り組みまで本気度全開で、現在支持率は91パーセント。「フィリピンのトランプ」とか「ダーティ・ハリー」とか、いろいろ言われているドゥテルテ大統領。このまま改革が進めば、独裁的とも思える強権を振るって、国力を飛躍的に拡大した、シンガポールのリー・クワンユーや、マレーシアのマハティールに匹敵する、偉大な政治家として歴史に名を残すかも知れません。


ダイヤル991、8888の現場の状況を伝える
ABS-CBNのニュース映像