2017年4月29日土曜日

マイノリティ視点


人間は、金銭の損にはいくらでも耐えられるが、他からうけるその所属への侮蔑語には激しく傷ついてしまう。とくに民族的な少数者というのは無数の傷を受けて生きている。このため個々の「人間」としての比重が、その点に無邪気な多数者よりも重いはずだと信じているのである。

司馬遼太郎 著「アメリカ素描」(1986年 読売新聞社刊)より抜粋

これは、私が敬愛して止まない司馬遼太郎さんが、30年以上前にアメリカに取材をして書かれた、エッセイの中の文章です。この本にはアメリカに住む、日系、韓国系、ユダヤ系、アイリッシュ、アフロアメリカン、そしてゲイといった、多くのマイノリティが登場します。

そんな人たちに司馬さんは、時に優しく、時に歴史学者のような透徹な眼差しを向け、アメリカという現代ではほぼ唯一の大文明の中で、マイノリティとして生きることはどういうことなのかを、浮き彫りにされています。

フィリピンの在留邦人は、現在約1万7千人だそうで、人口1億を超えるフィリピン国内では、間違いなくマイノリティ。ところが自分たちのフィリピンでの位置付けを、理解していない人が時々いるらしく、食べ物にも習慣にもまったく馴れようとせず、周囲のフィリピン人を見下し、ブログやSNS上で、いかにフィリピン人が日本人に比べて劣っているかを得々と書いているのを見かけます。

もちろん多くの邦人は、少数者であることの分をわきまえ、フィリピンに住まわせてもらっていることや、フィリピン人配偶者の愛情に感謝しているでしょう。少なくとも犯罪の対象にならないよう、不必要に目立つことは得策ではないと分かっています。

今のところ、フィリピンでの対日感情は良好で、日本人だからという理由で、差別されたり迫害を受けたりというニュースは聞きません。ところがほんの60年ほど前までは、日本人だったり日本の協力者だと分かったら、暴力を受けたり命を奪われたり。それを避けてジャングルに隠れ住んだ人の子供たちは、国籍すら持つことができないまま、何十年も生きなければなりませんでした。

同じ東南アジアの隣国インドネシアでは、1965年と1998年、クーデターによる政変時の暴動で、何の罪もないマイノリティの中国系住民が、家を焼き討ちされたり虐殺されたりという事件が起きています。また日本では、1923年の関東大震災時の妄言で、数千もの朝鮮の人たちが殺されました。

これらの悲劇は、現在マイノリティとしてフィリピンに暮している私にとって、到底他人事とは思えません。日頃から何も悪いことはしていなくても、ことさら経済的な優越感をひけらかせたり、人づきあいをせず、よく分からない気味の悪い集団だと思われたりするのは、とてもリスクのある行動。

もし大規模な政治的混乱や自然災害が起こって、民衆の心のタガが外れたら、日頃から快く思われていない人は、略奪や暴行の対象になる危険が一気に高まる。フィリピンでは、外国人は何かと注目されやすいし、侮蔑的な態度というものは、本人にその意識は希薄でも、受ける側はとても敏感に察知します。日本人全体ではなくても、特定の個人が狙われる可能性もあります。

どうも長年日本に住んできた日本人の中には、マイノリティ側に立つことの意味が、まったく想像できない人がいるようです。その証拠に、いまだにヘイトデモなんてことをやってる連中がいる。また犯罪で逮捕された容疑者が日本国籍でなかったりすると、まるで鬼の首でも取ったかのように喜ぶ人がいるし、一部のマスコミもそれを煽り立てる。

こういう状況を踏まえて、冒頭の司馬さんの言葉に戻りますと、この文章は、本の書かれた30年前の過去から、私を含めた現在の日本に向けて司馬さんが発した、警告のような気がしてなりません。自分自身に対してもそうだし、日比ハーフの子供のことを思うと、この言葉の重みはさらに増すように感じます。


故郷にミサイル?


日本では大型連休初日の今日、2017年4月29日。北朝鮮からのミサイル発射の報を受けて、東京都の地下鉄や北陸新幹線が一時ストップしました。幸い、ミサイルは発射後すぐに地上に落下し、日本や韓国などに被害は出ませんでしたが、ヘタすると第二次朝鮮戦争の引き金になりかねない、相当ヤバい事態だったことは間違いありません。

私たち家族がフィリピンへの移住を決めた時、私の家族や親戚・友人たちからは、この国の治安の悪さを心配する声が絶えませんでした。フィリピンに住んでいる今、自然災害以外のことで、私が日本に住む家族・親戚・友人のことを心配するハメになるとは、移住当初からはまったく想像すらできなかった事です。

今回の件は、まだ戦争にまでは至っていませんし、そうならないことを祈るだけです。しかし戦争というのはこんな風に始まってしまうものなんだと、思い知らされている気がします。それまで何も原因がなかったところに、突然降って湧く話ではないんですね。

大きく捉えると、日清・日露の戦役からの流れで起こった1910年の日韓併合から、1945年の日本の敗北による朝鮮半島の解放。そして1950年には東西冷戦下、同じ民族が南北に分かれて戦い双方で400万人もの死者を出すという、悲惨な朝鮮戦争の勃発。これは、太平洋戦争での日本人の死者が300万人だったことを考えると、いかに酷い状況だったかが推し量れます。

1953年には一時休戦になったものの、その後も緊張は続き、比較的記憶に新しいところだけでも、1990年代の原子炉施設を巡っての米朝の対立や、2006年以降の北朝鮮の核実験や弾道ミサイルの発射実験など、何度も武力衝突の危機がありました。

そんな戦争の火種が、今生きている半分以上の日本人が生まれる以前から、ずっと目と鼻の先にあった。それなのに日本政府も国民も、隣国で戦争が起こった時に日本は具体的どう向き合うのか、武力を一切放棄して話し合いに徹するのか、それとも合法的に兵力を持って戦えるように備えるのか、どっちつかずの曖昧なまま。結果的には、ここまで状況が切迫するまで問題を放置してしまいました。

戦争が始まれば、日本国民の生命財産が失われる可能性が高いのに、それを決めるのはトランプと金正恩だという理不尽さ。目先の生活の心配や仕事に追われるあまり、自分たちの子供や孫の将来を大きく左右するかも知れない現実を、直視してこなかったことの報いなんでしょうか。私自身も含めて、政治や国際状況に無関心でいることは、こんな事態を招くことになるんですね。

結局戦争を引き寄せるのは、軍備拡張を推進する一部の政治家や、狂信的な思想の持ち主ではなく、何もしない・決めない、文句を言いながらも、決まったことには従うしかないと思い込んでいる、ごく普通の一般国民の態度。

これは、数年前まで私の所属していた日本の大企業にも通じる話で、スピーディな決断ができないことや、間違ったことをすぐに軌道修正できない融通の利かなさは、国家を含めた大規模な組織の運営上の致命的な欠陥。

ここでフィリピンと日本を比較するのは、歴史も現在の状況もまったく違うので、あまり意味がないかも知れません。しかしながら、領土問題で対立する中国と就任直後に速攻で現実的な和解を図った、ドゥテルテ大統領の決断力とリーダーシップには、羨望を禁じえません。

さらには、大統領と言えども間違っているとなれば、権力者を引き摺り下ろすだけのパワーを秘めたフィリピン国民も、日本人にはない本当の意味での民主主義の理解力・実践力があると言わざるをえません。


2017年4月26日水曜日

市長はテニスがお好き

テニスが趣味で、移住前はテニススクールにも通い、週1回以上はコートに出ていた私。ところが、ここフィリピン・ネグロス島のシライ市では、なかなか一緒にテニスをする人を見つけるのが難しく、テニスコート自体がとても少ない。

それが約1年前に、自宅のすぐ近所で使えるコートがあることが判明し、昼間っからでも毎日テニスしたいというヒマ人...ではなく、 テニス熱心な相棒も見つかって、久しぶりにテニスライフ再開となりました。

ただ問題はそのコート。シライ在住ならば誰でも無料で使えるので、文句を言うとバチが当たりそうですが、サーフェイスは凸凹でイレギュラーが多いし、水撒きとかコート整備が不十分で、乾燥した晴天が数日も続くと、ものすごい砂ぼこり。

しかも元々3面あったのに、そのうち両側の2面は雑草がボウボウの放置状態。周囲のフェンスも穴だらけで、そこからボールが外に出てしまい、球拾いでプレイ中断もしょっちゅうのこと。なんだか、完全に忘れ去られた状態で、バスケットなどフィリピンで人気のスポーツに比べると、とても惨めな感じです。

そして、ちょうど去年の今頃は、フィリピンの国政選挙の真っ最中。シライ市長選の有力候補で当時現職の副市長だった、テニス好きのマーク・ゴレツ氏。彼が当選したらコートが新しくなるに違いないと、数少ないシライのテニス愛好家の間では評判でした。

その後、めでたくマークは当選。どうせデマだろうと思ってたら、数ヶ月後から本当にコートの補修工事が始まってしまいました。なんて分りやすいフィリピンの政治。まずは草刈りから始まって、フェンスの穴も直し、凸凹のサーフェイスも土を入れてきれいに均しました。照明設備も再点検。今では週に1回ぐらい夕方から宵の口ぐらいまではナイターもしています。


ネットを仕舞う物置や、トイレは以前と変わらずボロボロのままでも、テニス自体はとても気持ちよくできるようになりました。マーク市長さまさまですね。

そして、この4月の半ばから、いよいよ新市長のスポーツ振興政策の目玉とも言うべき、夏休みの子供スポーツレッスンが始まりました。これは、バスケットやバレーボール・サッカー・卓球などから、シライの学校に在学する子供たちが好きな種目を選び、ちゃんとコーチがついて土日を除く毎日約3週間、市内に点在するスポーツ施設で無料のレッスンを行うというもの。もちろんテニスも含まれています。

大阪に住んでいる時には、私や家内と一緒にテニススクールに通っていた今年12歳になる息子。実は運動は苦手。でも家内がどうしてもテニスをもう一度やらせたいと説得して、夏休み子供レッスンに参加することになりました。

それが始まったのが先週の火曜日で、もう1週間以上が経過。下は小学生の低学年から、上は中学生ぐらいの子供まで、総勢約10名の参加です。真夏の盛りのネグロスなので、正午前後は避けて、朝8時〜10時と午後3時〜5時の2回、合計4時間のレッスン。コーチは以前私も一緒にプレーしたことがある、ステファンというオジさん。最初は練習後には汗だくのヘトヘトだった息子もだいぶ慣れてきて、意外と面白くなってきたようです。


初日の午前中は2人からのスタートでした。

この頃ではコートへの送り迎えと、練習の間の見守りはメイドのネルジーにお任せ。こう書くと、すごいお金持ちのご子息みたいですね。でも学校の登下校と同じく、道行く車の運転は乱暴だし、野犬も多い。それに冗談ではなしに営利誘拐の危険もあるので、子供一人で通わせることができないのが、フィリピンの現実。

それはともかく、毎日スポーツをする環境に身を置くのは、本人が嫌がりさえしなければ悪いことではありません。ちょっとは打てるようになって、親子でテニスを楽しめるようになれば、儲けもの。無理せず、そこそこ頑張ってほしいものです。


2017年4月25日火曜日

19回目の結婚記念日


今日4月25日は、私とフィリピン人の家内の結婚記念日。あれは1998年のことだったので、今年で19回目なります。月並みな感想ながら、やっぱり早いものですね。フィリピンで迎えるこの日は、19年前の当日を含めて6回目。今日もあの日と同じように、晴れて暑い1日でした。

本来ならば、近くのホテルにでも1泊したいところですが、最近では子供の誕生日でも、勿体無いからと、あまり派手なことをしたがらない家内。今年など、まったく忘れていたようで、朝仕事に出かける時も普段と同じように「行ってきま〜す」。それなら帰宅した時にちょっと驚かせてやろう、とばかりに夏休み中の息子を連れて、隣街タリサイ市のショッピングモールに、ケーキを買いに行きました。

このモールは、ちょうど4年前に私たちが移住して来たのと、ほぼ時を同じくしてオープンした場所。おそらく西ネグロス州では最初のアヤラ・モールだったと思います。アヤラは、シューマート(SM)、ロビンソンズなどと並ぶフィリピン大手流通グループの一つ。これで私たちの住むシライ近辺には、三つが出揃ったという訳です。

ここには、オープン当初からマニラに本店を置くようなレストランやお菓子屋さんのチェーン店などが軒を連ね、アイ・ストア(アップル・ストアのフランチャイズ)や、スターバックスも。ネグロス暮らしでは諦めないといけないと思っていたものが、実はたくさんあることが分かって、最初は随分嬉しかったものです。

ところが今日、いつの間にかスターバックスが閉店していたことに気付きました。う〜ん、やっぱり50万都市の州都バコロドではなく田舎町のタリサイ市には、値段が高くで小洒落れたアメリカンカルチャーは根付かなかったのか? 実はアイ・ストアもアップルの看板を外して、ただの携帯屋さんになっていたし、高級路線が売り物の店は苦戦しているようです。そう言えば、移住して最初の結婚記念日に、ここでネグロスにしてはかなり高価な花束を買ったけれど、その花屋さんも無くなってるなぁ。


ただ幸い、何軒かあるスイーツ関連の店はどこも健在。お気に入りのケーキ屋さんカレア(CALEA)で、美味しそうなのを3スライス買うことができました。1スライス90ペソ(約200円)なので、ネグロスにしては立派な高級店です。夕食の後にこのケーキを食べた家内は、とても満足そうでした。


さて、日本に遅れること50年でフィリピンに訪れた現在の経済成長。私にとっては、それを象徴するようなタリサイのアヤラ。実のところ、開店以来いつ来ても「すごく混雑している」というのは、ほとんど見た記憶がありません。これは人口が少ないタリサイにモールをオープンさせた、マネージメント側の失敗と言ってしまえばそれまでのこと。でも見方を変えると、人口10万程度以下の中小都市にまでは成長が行き届かない、フィリピン経済の限界の表れなのかも知れません。

日本の場合の成長は、朝鮮戦争特需から始まって、オイルショックまでのほぼ20年間続きました。しかしフィリピンの場合は、どうもそれほど長くは保たないような気がします。コンドミニアム建設ラッシュが続くマニラ首都圏やセブでも、そろそろ価格に陰りが見え始めている。今年12歳になる息子が大人になる頃、フィリピン経済はどんな風になっていることでしょう。結婚記念日に来たアヤラで、そんなことを考えてしまいました。


2017年4月23日日曜日

フィリピンの温泉


前回のラカウォン島に引き続き、3泊4日の西ネグロス観光の最終日に訪れたのが、州都バコロドから車で約1時間の山間部にある、温泉リゾートのマンブカル。実は、私がここへ来るのは3回目。移住前と2年前で、いずれも1泊。特に2年前の時には、このブログに詳しく書いて投稿しました。

ビーチリゾートのラカウォン島と同じく、最近のフィリピンの好景気に後押しされて、どんどん新しい設備ができています。最初は、モルタルで周囲を固めただけの荒削りな露店風呂(というより温水プール?)みたいなのが一つきり。ところが今では、日本人が設計して「美川温泉」と名前がついたものや、大きなスイミング・プール。滝巡りのトレッキングコースに、子供連れでも楽しめるアスレチックもある。


お湯が熱めで、肩まで浸かっているのは
ほとんど日本人だけの美川温泉

認知度もかなり高く、ホーリーウィークの聖土曜日ということもあって、行楽客でごった返していました。宿泊用のコテージは予約でいっぱいだし、駐車スペースもオーバーフローで、かなり離れた場所に路駐するしかないほど。フィリピンでも温泉は人気なんでしょうか?

そこで今回の投稿を書くに当り、フィリピンの温泉リゾートについて調べてみました。すると、思ったよりたくさんあるんですね。有名なところではマニラ首都圏から車で行けるロスバニョス。その他にも、セブ島(リゾート地のマクタンではなくセブ本島)やバギオなど、ざっと調べただけでも20か所ぐらいヒットしました。

ブログに書いておられる日本人は、まるで口を揃えたように「日本ではまったく紹介されていませんが...。」が枕詞。確かに私も移住前は、家内の実家近くのマンブカル以外は全然知りませんでした。よく考えてみれば、島国で火山も多く、日本とよく似たフィリピン。温泉がたくさん湧いているのも不思議ではない。

ひょっとすると、潜在的にはすごく有望な観光資源なのかも知れません。日本の場合、有馬や下呂のような温泉地ではなくても、例えば大阪の市街地のど真ん中でもボーリングすれば天然温泉が湧きます。実際にスーパー銭湯ブームで、あちこちにお風呂屋さんが開業しているぐらい。例えばフィリピンでも、綺麗なビーチの近くに温泉が開発されたら、すごく人気が出るんじゃないかなぁ。

これは素人考えの思いつきなので、現実的にはそんな簡単なことでもないのでしょう。それでも今ある温泉地を、もっと高級リゾート化して日本に売り込んだら、かなりの集客が見込めそうな気がします。2年前の投稿でもマンブカルは、宿泊施設やレストランがショボくて勿体無いと書いたところ、複数のレストランが開業して、ずいぶん改善されてました。やっぱりフィリピン人でも、同じことを考えるんですね。


さて今回は日帰りだったので、コテージが良くなったかどうかは分かりませんが、風呂に浸かってマッサージしてもらって、食事にプール遊び。丸1日家族で過ごすには、本当にいいところでした。唯一残念なのは、露天風呂では水着着用だったことと、脱衣所がなくてトイレで着替えないといけなかったこと。もう一息だぞ、マンブカル。

ということで、3泊4日の観光にお付合い頂いたFさん家族を伴って、夕刻マンブカルからシライの自宅に無事帰還。超充実の4日間でさすがに疲れました。少し休息して、夜の便でマニラへお帰りになるご家族のお見送り。また来てくださいね〜。


2017年4月22日土曜日

ラカウォン再び


前回から少し間が空いてしまいました。ホーリーウィーク中の西ネグロス観光、3回目の投稿です。今日は、シライ市の自宅から、車で約1時間の場所にあるビーチリゾート、ラカウォン島について。去年の5月に、初めて日帰りで行ってきて、今年はぜひ一泊しようと決めていました。マニラ在住の日本人の友達、Fさん家族にとってもこの旅行では一番楽しみにされていた場所。

最寄りの港町のカディスからは、定員15人ぐらいの小さなボートで30分の船旅。さすがに連休で人も多く、ボートに乗るまでしばらく待ったものの、待ちくたびれるというほどでもありません。きれいな場所のわりには、外国人観光客はほとんどいない。船着き場でFさんたちと話していると、地元の中学生か高校生ぐらいの女の子たちが、私たちを凝視。もう、遠慮も何もなしに見つめられて、つい「君ら、日本人初めて見たんか〜?」と大阪弁...ではなく英語で聞いてしまった。

さて、順調に船に乗ったまでは良かったけれど、思いの外波が強く、たまたま順番で一番前に座ってしまった私たちは、ビショビショになってしまいました。よく見ると他は、アウトリガーと呼ばれる浮きが両舷についたバンカーボートばかりなのに、なぜか私たちの乗ったボートだけ浮きなしのただのボート。最初から分かっていたら、次のボートを待ったのに。

というわけで、ずぶ濡れでの上陸になってしまった1年ぶりのラカウォン島。しかし、去年と変わらぬ、美しい白い砂浜と青い海を見たら、すっかり気分も晴れました。やっぱり、フィリピンと言えばビーチリゾート。少しぐらい苦労しても、来た値打ちがあったというもの。

自然の美しさは同じでも、人工物は随分増えましたねぇ。昨年、宿泊施設と言えば、バンブーハウスのコテージだけ。数室程度の鉄筋コンクリート製客室が完成間近の状態でした。今回それは当然オープン済みで、さらに3階建ての別棟が建設中。海岸には100m以上はあろうかという長い桟橋ができて、その先には新しい船着き場。そして海上には、フローティング・バーが営業を始めていました。


桟橋の向こうに見えるネグロス島

ハードウェアは順調に整備されている感じなのに、ソフトウェア、つまりサービスがイマイチだったのはちょっと残念。島内唯一のレストラン・バーは、お客さんが少ない時は、そんなに悪くないのに、夕食時など混雑しだすと一挙にサービスが雑になります。極めつけは、朝ごはんを食べようとしたら「コックが来なかったので朝食はできません」。なんじゃそりゃ〜!

なぜ家内が、食パン1斤とチューブタイプのチーズを持ってきたのかが、よ〜く分かりました。他の宿泊客も、まるでこうなるのを見越したかのように、パンやカップ麺持参。危なく折角のリゾートの朝が、腹ペコの惨めな思い出になってしまうところでした。家内に感謝ですね。


とまぁ、若干の不満もあったものの、夕刻と朝、そして星空は素晴らしかった。このためにラカウォンまで来たようなものなので、いろいろあってもすべて許せる気分。また、今回泊まったバンブーハウス。クーラーなしでも夜は海からの風が心地よく、まったく問題なし。Fさん曰く、深夜まで音楽がうるさかったそうですが、私は熟睡できました。


ビーチを満喫できたので次は山へ、とばかりに次回の投稿は、温泉リゾート、マンブカルです。


2017年4月18日火曜日

安全なシライ市内観光

前回に続き、ホーリーウィークに日本人のFさん家族と同行した、西ネグロス観光旅行の話題です。今回は、私たち家族の住むシライ市内。メインイベントのラカウォン島(ビーチ)とマンブカル(温泉)の隙間時間を埋めるように、初日と3日目は自宅近辺をご案内しました。


市街地を離れると
見渡す限りのサトウキビ畑

我が家にお越し頂いたお客さんは、だいたい決まったコースをお連れします。最初はシライ市の中心部にあるサンディエゴ大聖堂。フィリピンでは少し大きな街なら、どこでも大きな教会は建っています。スペイン統治時代に建設された古い教会の多くは、地震対策のためにがっちりした石造り。どちらかというと無骨で男性的な印象が強い。

ところが我がサンディエゴ大聖堂は、優美な曲線のフォルムと白い外装の、とても女性的な美しさ。高層建築が皆無のシライ市街地内では一際目立って、街はずれからもその姿を見ることができます。まさにシライ市民の誇りというべきもの。


続いて、聖堂から数ブロックの距離にある、これもスペイン時代の遺構「バライ・ネグレンセ」。地元の言葉で「ネグロスの家」を意味する、100年前の富豪のお屋敷。文化遺産として、シライ市により博物館として保存されています。


マニラ住まいのFさんには、フィリピン地方都市の古い建物は新鮮だったようで、とても喜んでもらいました。また街並みがきれいで、危ない感じがしないそうです。なるほど、丸4年もシライに住んでいる私は慣れてしまって、日頃ほとんど意識しないけれど、確かにマニラに比べるとそうかも知れません。

超近代的なオフィスやショッピングモールが林立するマニラ首都圏も、ちょっと路地に入るとあまり清潔とは言えないところが多いし、いまだに白昼ホールドアップの危険もある。その点、人口密度が低いシライはのんびりしていて、深夜とかスラム街をウロついたりしなければ、女性と子供だけで歩いても大丈夫です。

また、3日目がたまたま聖金曜日だったので、市民総出の宗教行事にもご一緒いただきました。イエスの磔刑像や嘆きの聖母マリアをモチーフにした山車と一緒に、市内13か所に設置した十字架を巡る「十字架の道行き」。フィリピンならばどの街でも大々的に行われるもの。しかしFさん曰く、マニラでは人混みが怖くて、とても日本人は参加できないだろうとのこと。


日本人のお客さんにシライを案内すると、私にとっても毎回新しい発見があります。日本人の目でマニラとシライを比較するというのは、本当に目からウロコの感覚でした。言われてみれば、日本人が一人で長時間で歩いたり、隣街まで自転車漕いだりは、ここだからできること。田舎街の不便さはあっても、それを補って余りある魅力がシライにはあるようです。

そしてシライでのお泊まりは、築10年も経っていない市内唯一のホテル、リッチモンドです。かつて安宿のペンションばかりだったシライ市内では、異彩を放つリッチモンド。値段はそこそこしますが、お子さん連れだとこういうホテルは助かります。バスタブもあって、湯船にも浸かれる。


ということで、予想以上にくつろいで頂けたシライ市内観光。次回はいよいよハイライトのビーチリゾート、ラカウォン島です。


2017年4月16日日曜日

3泊4日の西ネグロス観光

久しぶりに、ぎっちり日程を詰め込んだ観光旅行をしました。日本のお盆休みのような感じの、フィリピンのホーリーウィーク(今年は4/9〜15)。学校はすでに3月の終わり頃から夏休みで、お店や会社に勤める人は、遅くても木曜日からは休暇に入ります。つまり、この時期は、子供連れの家族が、どっと観光や行楽に繰り出すタイミング。

一昨年から仕事をしていた家内。でも昨年までは在宅勤務がメインで、平日も比較的時間が自由。混むのが分かっているホーリーウィークには、あまり出かけませんでした。しかし昨年10月から、家内の仕事が週5日の朝9時から夕方5時までのフルタイム勤務になり、まとまった休みはフィリピンのカレンダー通りに。

そして今年は、フェイスブックで知り合った、マニラ在住の日本人家族がネグロスに遊びに来てくれることになり、移住後初めてホーリーウィークのど真ん中の家族旅行という運びに。

今までにも年に数回ぐらいは、単身の方、家族連れを含めて、日本人のお客さんをお迎えしてきました。やっぱり時々こういうイベントがあるのはいいですね。私はまとまった量の日本語がしゃべれるし、子供にもいい刺激になります。特に今回は、2歳と6歳のお嬢さん二人がご一緒で、子供好きな家内は大喜び。

さて、その日程。
初日は、お昼過ぎにシライ・バコロド空港に到着お出迎え後、涼しくなるまで自宅でコーヒーブレイク。ネグロスと違って日本の食材が豊富にあるマニラからの、豆腐や生麺、赤だし味噌などのお土産をありがたく頂戴して、夕方はシライ市内観光。

そして翌日から一泊で、シライから車で約1時間の場所にある、ビーチリゾートのラカウォン島へ。ここは昨年日帰りで行った場所で、ブログにも書きました。今回のお客さんは、それをご覧になっていたようです。天候にも恵まれて、美しい夕焼け・星空・朝焼けを見ることもできました。


翌日は聖金曜日。午前中にシライに戻り、肉なし野菜カレーを作りました(聖金曜日は、カトリック信徒には肉断ちが奨励されます)。夕刻からは、年に一度の「十字架の道行き」(*注)に一緒に参加。これは、イエスさまの十字架での死を悼み、磔刑像や嘆きのマリアさまを飾った山車を何台も連ねて、市街地の13か所に設置した、竹製の十字架を巡るカトリックの宗教行事。

これはシライだけでなく、フィリピン全土の街で行われますが、参加する日本人観光客はあまり多くないと思います。他のお祭りと違って、派手な歌舞音曲はなく、市民総出で祈りを唱えながら、手にロウソクを持って練り歩く厳粛なものです。そう頻繁に見られるものではないので、お客さんにも喜んでいただけました。

そして最終日が、今度はマンテンリゾートのマンブカル。こちらは日本人の設計による露天風呂がある温泉地。フィリピン暮らしの日本人としては、本当にリラックスできる場所です。ただし、さすがに家族風呂はないので、水着着用なのは痛し痒しという感じ。

こうして書いてみると、これぞ日本人の観光旅行!ですね。限られた休日の間に、できるだけたくさん見て回る日本式スタイル。フィリピン人の家内と息子三人だけだったら、同じ3泊4日でも、おそらく一箇所でゆっくりしよう、となったと思います。まぁ、たまにはこういうのも悪くはありません。体力は使いましたが、ものすごい充実感でした。

ということで、1回の投稿ではとても語りつくせないほどの観光旅行。次回以降4回に分けて投稿したいと思います。

*注 こちらでは The Stations of the Cross と呼んでいるので、その訳語である「十字架の道行き」を当てましたが、これは本来カトリックの聖堂内に掲げられた、14場面のイエスの受難を描いた画像やレリーフを巡りながら行う黙想を意味します。


2017年4月11日火曜日

4年目のタイヤ交換

先日、自家用車の給油のついでにタイヤの空気も補充してもらった時のこと。「お客さ〜ん、タイヤに釘が刺さってますよ〜。」と言われてしまいました。見てみると、左前輪には釘、右後輪には木ネジらしきものが...。


ネグロス島バコロドにあるトヨタのディーラーで、アバンザという車種を新車で購入してからもうすぐ4年。日本では販売されていないアバンザは、2003年インドネシア向けに開発された小型ミニバンです。比較的安価でも定員7名を乗せることができて、大家族が多い東南アジア諸国でヒット。ここフィリピンでも自家用車だけでなく、タクシーとしてもよく見かけます。

タイ製の我が家のアバンザ。エンジンも電気系統もすこぶる好調で、機嫌よく運転してきました。走行距離は約1万7千キロで、年数の割にはそんなに走っていないけれど、前輪タイヤの磨耗は目立っています。もう1年ぐらいはそのままにしておこうかと思ってましたが、これを機にタイヤを交換することに。

実は日本にいた頃は、ディーラーの定期点検で、言われたら交換するという受け身なドライバーだったので、何年ぐらいとか走行距離とかに関しては無頓着だった私。今回、初めてネットで「タイヤ」「交換」で検索してみました。すると磨耗がひどくなくても、3〜4年が目安とのこと。やっぱりそんなものなんですね。

さて、そうなると新しいタイヤを購入して交換...となりますが、ネグロス島では初めてのこと。元溶接工で、機械の修理には詳しい義父に聞いてみました。すると「よくぞ、ワシを頼ってくれた!」とばかりに翌朝、昔馴染みの友達が経営するタイヤ屋さんへ一緒に行くことに。

我が家からほんの数キロの場所にある、建て込んだ住宅地の真ん中。バラック同然の家に囲まれた、一軒だけ新築の綺麗な自宅で、タイヤだけでなくいろんな車の部品の販売や、タクシーのオーナーもしているという友達。かなり儲かってるみたいです。


そこで買ったのが「トヨモト・ジャパン」という、今まで私が聞いたことのないメーカーのタイヤを2本。1本2,100ペソ(約4,700円)だったので、そんなに安くもなかった。因みに当然のように中国製でした。


交換作業はそこではできなくて、別のタイア修理屋さんに持ち込みです。この修理屋さんが嬉しくなるほど「庶民の町工場」然としていて、年季の入ってそうなオジさんが、テキパキとタイヤを交換してくれました。結局、前輪2本は新しいもの換えて、ネジの刺さった右後輪は修理してスペアに。小一時間ほどで工賃は200ペソ(約450円)。製品の値段は安くなくても、人件費は相変わらす安いネグロス島です。




その後、家内から携帯にテキストが来ました。「古いタイヤは庭の花壇に使うから、捨てずに持って帰ってね〜。」


2017年4月9日日曜日

突然真夏、枝の主日


クリスチャンではない人には、別にどうでもいいお話ですが、今日(2017年4月9日)は「枝の主日」。フィリピンでは英語で「Palm Sundy」(ヤシの日曜日)と呼ばれる祝日です。毎年、この日には同じテーマで投稿しています。

今年は、この日フィリピンで用意される、手作りの十字架について。
元々は Palm Sundy の名称の由来は、イエス・キリストのエルサレム入城を、市民がナツメヤシの葉を持って迎えたという新約聖書の記述から。フィリピンのカトリック教会ではこの日、各々が手作りしたココナッツの葉の十字架を持ち寄ります。この十字架に神父さまに祝福してもらい、持ち帰って自宅の祭壇や、扉に飾ったり。まぁ、一種の魔よけみたいな感じですね。

我が家では、前日に家内がメイドのネルジーに手伝ってもらい、たくさんの十字架を用意しました。実はこの作業、私たちが移住してからは初めて。今まで、人にもらったりしてサボってました。


それにしてもここ数日のネグロス島は、急に暑くなりました。数日前の投稿で、4月なのに雨が多くて曇ってばかりで「夏はどこへ行った?」なんて書いたら、その翌日から雨をもたらしていた東北モンスーンがピタっと止んで、突然の真夏。やっぱり枝の主日は、こうでないと、気分が出ません。


朝から強い熱帯の日差しの中、無事ミサを終えて、祝福されたココナッツの葉の十字架。茶色になった古い十字架の代わりに、玄関と勝手口、二階ベランダの三箇所の網扉に取り付けました。どうかこの一年、我が家をお守りください。


ところでヤシについて、少々ウンチクを垂れます。
日本のカトリックでは、Palmの訳語としてシュロ(棕櫚)を当てます。Palm を辞書で調べてみるとヤシもシュロも指すようです。ただ狭義のシュロは、葉の形状が手のひらの形をしているものを指すので、本当はヤシとは別物。そして聖書にあるナツメヤシは、英語では Date Palm で、ただのヤシともちょっと違う。なんだか混乱してきました。フィリピンでは十字架の材料になるココナッツもヤシ科ですが、またちょっと違います。

さらには、ヤシが自生する地域が少ない日本では、ソテツの葉で代用するのが一般的。寒冷地で、ソテツも手に入らない北〜東ヨーロッパでは、ネコヤナギを使ったりするそうです。どうやら、厳密に植物の種類を限定することに、あまり意味はなさそうですね。

さて、枝の主日を迎えるといよいよ聖週間の始まり。今日から翌週のイースターサンデーまでは、フィリピン人が一番宗教的になる七日間。野外ディスコやカラオケ大会も、騒々しいことは、しばらくはお休みです。


2017年4月8日土曜日

億万長者?


今日は、日本でも(というか日本語のネット環境?)で、ずいぶん話題になっている、ノアコインについての投稿です。「ノアコイン」でググると...出てくる出てくる、「両替しておくだけで億万長者」「フィリピン発仮想通貨の驚くべき可能性」「6000兆円プロジェクトのノアコイン」。私は、この手の広告や勧誘は、昔からうんざりするほど見てきましたので、今更驚きもしません。ただ、新しいやり方だと気になったのは、「フィリピンの経済発展を支援する」と謳っている点。

私がフィリピンに関わり始めた20年前からあったのは、フィリピン女性との結婚で問題を抱えている人に、手続きやビザ取得を請け負ってお金を稼ぐ商売。私の知る限り、良心的な業者よりも、法外に高額な手数料と引き換えだったり、手続きやビザの取得ができない、詐欺そのものか、詐欺まがいのものが多かった。最近では、好景気を背景にした新築コンドミニアム(マンション)への投資や、永住ビザが数日で簡単に取得できるという話が目に付きます。

私も15年前に、フィリピン人の家内名義でネグロス島に宅地を購入したので、フィリピンの不動産取引について、まったく知らないわけでもありません。結果的に移住した頃には価格は倍ぐらいになり、もし投資目的だったらかなりの儲けになったでしょう。ただ、ネグロス島の宅地に関しては、買うのは現金さえあればとても簡単ですが、売るのは容易ではないようです。

私の宅地のことはともかく、婚姻手続きにしても、コンドミニアムや永住ビザにしても、フィリピンという国と腰を据えて付き合うつもりがない人には、あまり関係がありません。その点、今回のノアコインは、フィリピンに投資するというより、フィリピンに関係する仮想通貨への投資なので、興味を持つ人は比較的多いように思います。

それにしても、これほど大々的に告知してしまっている時点で、普通の感覚の人ならば「怪しい」と感じるもの。私がフィリピンに宅地を買った頃など、まだこの国は「アジアの病人」「アセアンのお荷物」と呼ばれていた時期。しかも田舎のネグロスなんて、日本では見向きもされていませんでした。

私がちょうど社会人になりたてだった頃の、バブルに浮かれる日本経済を知っているなら、誰でも金儲けができるという文句ほど危ないものはないと、痛い目を見て骨身に沁みていると思います。それ以外にも色々見てきましたからねぇ。洗剤を売る話とか、宗教がらみの話とか...。

正直なところ、初めてノアコインのサイトを見た時は、今時これにお金を出そうという人がいるのか?と感じたものです。ところがそうでもなかったんですね。まるでフィリピンの国家プロジェクトのような煽り方で、おそらく相当な数の問い合わせがあったのでしょう。とうとう在日フィリピン大使館から、フィリピン中央銀行は、ノアコインの事前販売に関しては、何の権限も与えていない旨の通知が出ました。

それでなくても、フィリピンについての日本での報道や記事は、昔からあまりいいイメージのものがありません。日本に住んでいた頃は、母国の犯罪と貧困のニュースばかり見せられた家内は「ネガティブ・キャンペーンだ!」と怒り出すほど。それをさらに上塗りするような事件になってしまうんでしょうか。フィリピンに住む日本人としては、かなり憂鬱な気分です。


2017年4月6日木曜日

夏はどこへ行った?


フィリピンでは夏休みと言えば4月〜5月で、一番暑くなる時期です。今年も3月下旬頃から比較的乾燥した晴天が続き、今年も順調に季節が進んでいるなぁと思ったら...。10日ほど前から、日照時間が目に見えて減り始め、朝から土砂降りでテニスができなかったり、夜はエアコンどころか扇風機も不要で、短パンTシャツで寝たら風邪引きそうになったり。

ところでフィリピンの気候。気温から言うと、山岳地帯などの標高の高い場所を除いて、年中夏みたいなもの。でも、どこでも同じかというと、西側と東側で雨の量や乾季の時期などに相当な差があるようです。そりゃ、フィリピンは30万平方キロもの国土があって、日本の37万平方キロとあまり変わりません。場所によって違いが生じるのも当然でしょう。

ということなので、今日の投稿は、私たち家族が住む四国よりやや小さなネグロス島の、しかも西半分のお話。セブは隣の島なので気候は似てますが、マニラ首都圏とは距離がありますので、その点はご留意ください。

さて、子供たちが夏休みに入る4月を、まるで待っていたかのような天候不順が続く西ネグロス。台風が来てるわけでもありません。この傾向はフィリピン中部のビサヤ地方や南部のミンダナオでも同様で、今朝(4月6日)朝の気象衛星写真を見ても、該当地域は雲に覆われています。


出典:AccWeather

フィリピンの気象庁に相当する組織パガサ(PAGASA : Philippine Atmospheric, Geophysical and Astronomical Services Administration)の発表によると、「なんも心配せんでもええがな。去年と一昨年がエルニーニョのせいで夏が長すぎただけで、今年が普通なんやから。」とのことだそうです。

このところの長雨をもたらしているのは、北東から吹く湿った季節風「北東モンスーン」。確かに自宅でも、東側の窓から雨が吹き込むほどの強い風。例年ならば3月の半ば頃には弱まるところが、今年はそれが4月にずれ込んでいるとのこと。パガサは今週末か来週には、本格的な夏の到来を予測しています。

実のところ、別に少しぐらい冷夏になろうが雨が多かろうが、私の生活にはあまり影響はありません。でもこの夏は、子供や家内の夏休みを当て込んで、近隣のビーチリゾート、ラカウォン島に一泊の予定を組んでしまいました。真夏の日差しがあってこそのビーチ。曇ってたら楽しみは半減で、天候が悪いと島へ渡る小舟が出ないかも知れない。

やっぱり、日本でもフィリピンでも、暑くなるべき時期は、それ相応な暑さになってもらわないと困りますね。パガサの予報官の言葉に間違いがないことを祈りたいと思います。


2017年4月4日火曜日

ソフト・オープン

先日4月1日、義妹ジーナの実家、モランテ一家のファミリービジネスとして、コインランドリーの店「イー・ウォッシュ(e-Wash)」が、ここネグロス島シライ市内にオープンしました。中心になっているのはジーナの弟のジュンジュン。彼は以前、私が5年前まで所属していた、日本の大手家電メーカーのフィリピン法人勤務の営業社員でした。その後韓国系の同業他社に転職。新車を買ったり自宅を新築したりと、そこそこ羽振りのいい暮らしをしています。

そのジュンジュンが、お父さんたちと始めたコインランドリー。最近はフィリピンでも、この手の店が増えているようです。洗濯サービスの商売は昔からありました。しかし、全自動洗濯機・乾燥機をずらりと並べた清潔で広い店は、シライでは初めて見るスタイル。お客さんが安価にセルフサービスで洗濯ができるのが、フィリピンでは目新しいのでしょう。



もちろん追加料金を払えば、洗濯物を置いておくだけで、きれいにたたむところまでのサービスもあります。イー・ウォッシュの料金表を見ると、8キロ分の洗濯が55ペソ(約120円)、乾燥込みで70ペソ(約154円)。ここまではセルフです。たたみまで含めると料金体系が変わり、最低5キロからで、1キロ当たり30ペソ(約66円)。8キロだと240ペソ(約530円)になります。


さて、面白いと思うのは、フィリピンでお店やレストランを新規開店する場合、準備万端整えて、一気に開店...としないのが当たり前なところ。イー・ウォッシュも、4月1日の1か月前に、ソフト・オープンと称して開店。これは、店の内装や設備がまだ完成してない状態で、取り敢えず商売を始めてしまうこと。

レストランなら、まだメニューは限定的だったりするし、お店ならば、一部の棚にしか商品が並んでいなかったり。もっと大きな規模のショッピングモールでも、半分もテナントが埋まっていないのに、オープンしたりします。日本でもたまに、プレ・オープンとかソフト・オープンは聞きますが、フィリピンの場合は、商売規模の大小に関係なく、だいたいどんなお店でも、このスタイルを取っている印象があります。

日本のソフト・オープンと違って、店によっては工事の途中で、大工さんが作業中だったりするケースも。まだ奥さんが化粧してる最中に、ホームパーティの招待客に入ってもらったみたいな感じ。物事をきっちり進めたい人ならば、ちょっと考えられないかも知れません。

悪く言うと中途半端。でも、フィリピン流の中途半端は、ひょっとするとリスクを回避するには、いい方法なのかも知れません。日本的完全主義な思考法だと、ビジネスに限らず、何でも準備が完璧と思えないと、何も始められない。そうしているうちに、好機を逃してしまう。

以前にも書いたように大抵の事柄において、6割の準備ができればやってみるべし、が私の考え方。ある程度やってみなければ、何を改善したらいいのかも分からないし、タイミングを逸してしまえば、元も子もない。それを一番端的に実践したのが、フィリピンへの移住でした。

さて、あまり知られないうちに、ひっそりとソフト・オープンした、イー・ウォッシュ。ところがグランド・オープンとなると、告知もしっかり。何と当日の朝8時からは、シライ市警の協力を得て、パトカーやバイク先導のパレードが行われました。当然、ドラムを打ち鳴らしながらの本格的なもの。お祭り好きのフィリピン人気質が全開です。


1か月の試行を経て、文字通りの鳴り物入りで始まったビジネス。私が出資したわけではないけれど、やっぱり親戚のビジネスなので、商売繁盛を祈りたいですね。


神父さまの祝福もあります。



2017年4月2日日曜日

なぜ今、銃剣道?


最初にお断りしておきます。この投稿は、政治的信条が右だとか左だとか、それが良いとか悪いとかを言いたいのではありません。また、銃剣道自体を否定する意図もありません。この種のことを書くと、タイトルと最初の数行だけ読んで、条件反射のように頭にきて、無茶苦茶なコメントを寄せる人がたまにおられるので、反論する方は、最後までよく読んでください。

まず、この投稿の発端は、昨日(2017年4月1日)複数の新聞や放送局よる報道。今回は、ネット上では比較的説明が詳しくて分かりやすいと思われる、NHKのものをベースにします。ただ最近は大手の報道機関でも、ごく稀に驚くような誤報や、事実の一部を拡大解釈した内容があったりします。この投稿は、NHKが正しい報道をしているという前提に書きます。

そのNHKの記事によると、小中学校の新しい指導要領として「銃剣道」を2021年(平成33年)から、中学校で教える武道の「例」として加える、とのこと。

ネット上の意見を見ると、誤解している人がいるようなので書いておきます。これはすべての公立中学校で、銃剣道が必須の授業になるという意味ではありません。また競技人口が少なく、多くのインストラクターを急に育成できるとも思えないので、実際に、どれぐらいの中学校で銃剣道教育が行われるかは、分かりません。

銃剣道がどういうものなのかは、全日本銃剣道連盟のホームページで詳しく解説されているので、そちらをご覧ください。

さて、フィリピン人の家内と一緒になってもうすぐ20年。フィリピンに移住して4年が過ぎて、何かのニュースを見た時に、フィリピン人ならどう感じるか? が判断基準の一つになっている私。この話を聞いた瞬間に思ったのは「これは、フィリピン人の感情を逆なでするだろうな」でした。

全日本銃剣道連盟によると銃剣道の目的は、「心身の鍛錬と礼節を学ぶこと」で、それはその通りでしょう。またスポーツ競技として確立されたものだとも思います。大人であろうが中学生であろうが、好きでやっている人に苦情を言い立てる気は、まったくありません。

ただ、銃剣というものに対して、かつて日本が占領したり軍政を敷いたりした、フィリピンを始めとする東南アジア諸国の人々が、どんな感情を抱くかを想像してほしい。太平洋戦争中、私の住むネグロス島にも多くの日本兵が駐留し、かなりの数の残虐行為があったと聞きます。そして当時小学生ぐらいだった高齢者の中には、ゲリラ討伐の名の下に、肉親や知人を目の前で銃剣で刺殺された人もいます。

私が敬愛する漫画家の松本零士さんが、著作「零士のメカゾーン」(1978年 毎日新聞社刊)で、銃剣のイラストに添えた言葉があります。「銃剣は、しばしば突きつけられた者にとって憎悪の対象となる。突きつけた方は忘れても、突きつけられた者は決して忘れない。それは、かつて一国の力の象徴だったからである。」

フィリピンでは若い世代の人たちも、高校で戦時中のことを教わりますし、祖父母の世代からの体験談も聞いています。また戦争をテーマにした映画やドラマもあります。最近では対日感情がとても良好なフィリピンでも、歴史が忘れられているわけではないのです。

そんなフィリピンの人たちが、日本政府が公式に、中学で教える武道に銃剣道を加えたと聞いたら、どんな気持ちがするでしょう。こう言うと、それなら剣道もダメなのかという声が聴こえてきそうです。確かにフィリピン戦では、軍刀による処刑や殺害もあったそうです。

しかし、太平洋戦争のずっと以前から、日本で大勢の人に親しまれてきた剣道を、自衛官以外の競技人口がとても少ない銃剣道と同列に扱うのは、乱暴すぎます。現在、剣道に対して嫌悪感を抱く人は、フィリピンでもほとんどいないでしょう。私が言いたいのは、小銃を模した「木銃」を使い、兵士による殺傷を起想させる競技(そのイメージを打ち消すための関係者の努力も分かりますが)を、わざわざ今のタイミングで、日本の子供に教えると発表するのが、あまりに配慮がなさすぎるということです。

とは言うものの、いくら私が長くフィリピンに関わっていても、所詮は日本人の想像すること。現実には、少なくとも表立って日本を非難する声は、上がらないかもしれないし、そう願います。それでもフィリピンに住み、子供をフィリピンの小学校に通わせている親としては、フィリピン人の対日感情が悪化しないよう、日本政府の慎重な言動を望まずにはいられません。