2018年8月31日金曜日

息子と観る40年前の大河ドラマ


フィリピンに移住する前...どころか、息子が生まれる前なので、もう購入から15年ぐらい経ってしまったDVDボックス。このブログで、何度もネタにしている、昔のNHK大河ドラマ「黄金の日日」。

大河ドラマの最高傑作「黄金の日日」
杉谷善住坊 日本・フィリピン交流史1
ユスト高山右近 日本・フィリピン交流史2

放送が1978年(昭和53年)なので、今年でちょうど40年。私が高校1年生の時ですよ。フィリピンという国があることぐらいは知ってたものの、具体的なイメージは何にも浮かばない、東南アジアのどこかにある場所、という程度の認識。そんな私が、初めてビジュアルで接したフィリピンが、黄金の日日に登場する「呂宋」。

言ってみれば、我が第二の故国となったフィリピンとの出会いが、このドラマだったというわけです。

それまでの大河と言えば、ほとんどが、武士や大名が主人公。その常識を破って、初めて商人〜日本とルソンの交易で巨万の富を築いた、呂宋助左衛門〜を中心に据え、しかも、城山三郎さんの原作と、市川森一さんの脚本が同時進行するという、当時としては異例のスタイル。

大河ドラマ史上初の海外ロケを敢行し、日本側だけでなく、フィリピンサイドも、錚々たる俳優を起用。主役の助左(若き日の呂宋助左衛門)が、交易船の難破で漂着した、ルソン島アゴー村。その族長を演じたのが、ビック・バルガスさん(Vic Vargas)。私の義母のアイドルだったそうです。

ずっと観ようと思っていましたが、何しろ1年分、全51話の物語。なかなか手を付けられずに放置状態。そして念願のフィリピン移住を果たし、息子が日本なら中学生の年齢に達したのを機に、この1月から、親子で視聴を開始したという次第。

往時を懐かしんで、大河ドラマの放送時間に合わせて、観るのは毎週日曜の夜8時からと勝手にルールを決めました。戦国時代のドラマなので、息子にはセリフが難解かと若干の危惧はあったものの、退屈せずに観ているので、だいたいは理解しているんでしょう。

堺の商人、今井宗久に仕える一介の奉公人から身を起こした助左が、まだ台所奉行だった木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と知り合う頃から始まった物語も、現在(8月末)で本能寺の変。既に自分の船を持つ船長(ふなおさ)として、再度のルソン渡航をするところまで、ストーリーは進んでます。

それにしても、改めて観直してみると、ライティングのせいか、セットは貧相に見えるし、演出がずいぶん時代掛かっているのは、仕方がないところ。こっちの知識が増えた分、脚本のアラにも気がついてしまいます。

例えば、琉球往きの船が嵐で難破する件。沖縄の近海で遭難したとしても、一晩でルソン島の西岸に流れつくのは、ちょっと無理過ぎ。私だけでなく、息子にさえ指摘されてしまいました。偶然流れ着いたアゴー村に、日本語を解するルソン島民がいるのも、ご都合主義ですね。

ただそうした瑕疵を、吹き飛ばしてしまうほど、物語全体にパワーがある。当時の制作者や俳優陣の、熱い思いが込められているからでしょう。

そして、いやでも40年の歳月を感じさせるのが、もう鬼籍に入ってしまった人たちが演じる姿。川谷拓三さん(杉谷善住坊)、緒形拳さん(秀吉)、高橋幸治さん(信長)、丹波哲郎さん(今井宗久)、鶴田浩二さん(千利休)、林隆三さん(今井宗薫)...。

中でも薄命のキリシタン女性、モニカを演じた夏目雅子さんは、役と同様に若く美しいまま、天に帰ってしまわれました。ビック・バルガスさんも、亡くなってからもう15年が経ちます。

さて、月日は流れて、黄金の日日の放送後に、社会問題にまでなったジャパゆきさんの時代を経て、今や日比ハーフの人たちが、スポーツや芸能界で活躍しています。大河ドラマでリメイクは無理でしょうけど、今映画化すれば、いろんな世代から注目を浴びると思いますよ。誰か企画してくれないかなぁ?


2018年8月30日木曜日

風邪流行は市長のせい?


最近、シライ市内では風邪が流行っているようです。
例年雨が多く、朝夕と日中の寒暖差が大きくなるこの季節。蚊も増えることから、デング熱患者も増加。一昨年は義弟の娘ジャスミン、昨年はジャスミンの叔母ジジがデングで入院。

さすがに風邪の場合、いくらフィリピンでも、デング熱ほど重篤化するケースは稀とは言え、人によっては数日ぐらい寝込んでしまったり。先週から我が家に滞在中の姪っ子が通う、近所の英語学校でも、何人かの生徒さんが風邪を引いているらしい。

そしてメイドのライラも、かれこれ1週間近く咳と洟水が止まらない。仕事にはそれほどの支障はなさそうでも、見てるこっちがツラくなる。

そのライラによると、風邪引きさんが多いのに、市内にある公設の診療所には医者が不在なんだとか。実入りのいい大きな病院へ移ってしまったそうです。それでなくても医療保険加入率が低く、相当重い症状でも通院せずに、我慢する人が多いフィリピンの貧困層。この状況は、感染の拡大に拍車を掛けているようなもの。

ここからライラの愚痴が爆発。
2016年の選挙で選ばれた現市長のマーク・ゴレツ氏。ライラの言い分をそのまま信じると、マークの前任、オティ市長の頃は、貧乏人の多いバランガイ(フィリピンの最小行政単位で、町内会のようなもの)に、無償で巡回診療する医師がいて、医薬品もタダで配布してくれたんだとか。

また、オティはその在任中、私の義弟で、市役所で建設関係部門の次長、ロイ(ライラはサー・ロイと敬称で呼びます)に命じて、ライラの住むバランガイ内の道路を整備したり。来年の選挙で、わたしゃ、絶対オティに投票しますよ!と鼻息も荒い。

選挙権もなく、市長の政策の良し悪しには、イマイチ実感が伴わない、外国人の私。マークが市長になってから目に見えて変わったのは、市営のテニスコートが綺麗になったとか、同じく市営の体育館が再整備されりの、スポーツ振興。そう言えば、夏休みには子供向けのスポーツ教室も恒例行事になりました。

ところが、市の教育員会に勤務する、家内からの情報では、市長の執務室に、何の権限のない市長の実父専用のデスクが設置され、何かにつけて、息子に影響力を行使しているらしい。50歳近くになって独身というのも、あまりよくない噂のタネにされています。

私がマークについて批判するには、判断材料もなければ、その権利もない。ただ、日本からの居候としては、感染症の流行など、国籍やお金の有る無しに関係なく、シライに住んでいるだけで、その被害を受けるようなことだけは、何とか有効な対策を打ってもらいたいものです。


2018年8月29日水曜日

フィリピン視点の大阪評


出典:Inside Osaka

私が生まれ育った関西圏。その中心都市である大阪が、世界で3番目に住みやすい街に選ばれたんだそうです。どっかのパチモン調査会社がデッチ上げた話ではありませんよ。

この調査は、毎年、世界140の都市を対象に、安定性・医療・文化・環境・教育・インフラの観点で、居住性の良さを評価したもの。実施しているのは、1946年(昭和21年)から続く、イギリスのエコノミスト(Economist)という専門誌の調査部門、エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(Economist Inteligence Unit )。世界の国家や工業を分析し、そこから導きだした将来予測などの情報を提供しています。

この世界居住性ランキング(Global Liveability Ranking)の2018年版で、1位ウィーン(オーストリア)、2位メルボルン(オーストラリア)に続いて、堂々の第3位が大阪という結果となったそうです。

こう書くと、日本で一番犯罪発生率が高い大阪が、なぜ?と思う人も多いでしょう。確かに、人口100人当たりの犯罪件数の比較では、大阪市中央区が10.76%で、不名誉な全国1位。2位は東京都千代田区の9.078%、3位が名古屋市中区7.795%。

ただしこの数字は、母数を住民登録数で算出しているため、単純に人口密集地や、昼間人口が多い場所の数値が、高くなる傾向があります。なので、これだけを元に、治安の悪い危険な街だと判断するのは、必ずしも正しいとは限りません。

さらに、国別の犯罪率の低さでは、一番住みやすいとされたウィーンがあるオーストリアが9位。オーストラリアはトップ10に入らず。日本は世界で3番目に犯罪率が低いとの結果。(因みに1位はシンガポール、2位はルクセンブルグ)

つまり、日本国内であまり成績のよくない大阪も、土台となる国のレベルで比較すれば、決して劣悪な状況とは言えない。

私のように、犯罪率を比べたら、お話にならないフィリピンに住んでいる者からすれば、大阪で多いとされる、ひったくりやスリなんて、余裕で防げる犯罪。自転車のカゴに荷物とか、鞄の外側にあるポケットに財布、なんてことをこの国でやったら、それは盗んでくださいと言っているようなもの。

そういうネガティブな話だけではなく、東京と比較しても、家賃も食費も圧倒的に安い。特に食べ物に関しては、ただ安いだけでなく、今や海外からの観光客が大阪を訪れる理由になるほど、美味しくてバリエーションが豊富。

また鉄道や地下鉄網は、混乱しないサイズで程よく発達し、首都圏の殺人的な混雑に比べたら、はるかにマシ。教育や医療レベルも他の日本の都市と比べて、劣るわけでもない。客観的に考えてみると、大阪って意外と住みやすいんですよ。(ただし、文化面の評価だけは、かなり低かったそうですが)

そんな大層な話をするまでもなく、フィリピンに5年以上も暮らし、たまに一時帰国すると、大阪の良さがよく分かります。上記のインフラや食事に限らず、私の移住後に、梅田や、天王寺駅周辺の再開発が完了し、本当にここは大阪市内か?と思うほど綺麗に整備されました。

幼稚園に入る前から母親に連れられて、梅田地下センターをうろついていた私には、広く美しくなった阪急百貨店は、もう感涙もの。

ただし正直なところ、移住直前に約半年住んだ福岡市が、住みやすさから言えば、大阪より上なんじゃないか、と思わないでもないですけどね。

ということで今日は、我が心の故郷・大阪(本当の故郷は、大阪の隣街、兵庫県・尼崎市)を、フィリピン在住関西人の視点で再評価してみました。


2018年8月28日火曜日

日本の若者13人 


昨年(2017年)、ネグロス島シライ市の自宅から徒歩10分ほどの、同じサブ・ディビジョン(宅地)内に開校した英語学校、アクティ・ラボ。若き経営者、ユーキ君とサヨさんによる、座学ではなく、街に出て生きた英語を実践する学習スタイルと、小規模ながらアット・ホームな雰囲気が功を奏して、日本からの生徒さんが途切れることがありません。

特に、日本で学校や職場が夏季休暇に入るこの時期は、フル・キャパシティ状態。教室兼宿舎の、比較的大きな一軒家だけでは足りず、シライ市の中心部にある、旧富豪邸を改装したペンションハウス、ジャーマン・ウンソン・ヘリテージ・ハウス(German Unson Heritage  House)を一時的に借りるほどの盛況です。

そのアクティ・ラボで現在勉強中の、私の姪っ子を含む11人の生徒と、ユーキ君とサヨさん、合計13人が、昨夜(8/28)我が家にやって来ました。

日頃、短期留学生や、近所のNGOにインターンで参加する方など、若い日本のお客さんは珍しくないとは言え、こんなにたくさんの人が一度に、というのは新記録。年齢的なものに加えて、共同の下宿生活を送っているような状況の人たち。もう長年の友達同士のような仲良しグループ。その陽気な喧騒ぶりには、圧倒されそう。

考えてみれば、わざわざ休暇を利用して外国で勉強しよう、しかもアメリカやオーストラリアではなく敢えてフィリピン、さらにマニラ・セブを外して、日本人がほとんどいないネグロス島のシライに来るような若者たち。内気で引っ込み思案な性格のはずがないですね。


この日のために、食材を買い揃え、当日は早朝から厨房に立ちっぱなしの調理。用意した献立は、日本式のカレー、エビの煮汁で炊き上げたエビ・ピラフをメインに、サヨさんからのリクエストによる餃子、フィリピン式春巻きルンピア、麻婆豆腐、キューピーマヨネーズをたくさん使ったポテトサラダ、豚肉の串焼き、ついでに余ったお米のおにぎり、忘れてはならない、豆腐とワカメの味噌汁。

自作はここまでで、食べ盛り13人の食欲に備えて、近所にある宅配ピザを2枚注文し、さらに念のため、アクティ・ラボからの持ち寄りとして、メイドさんに作ってもらったパンシット・カントン(焼きそば)に、炊いた白米を5合。

嬉しいことに、みなさん涙を流さんばかりに、美味しい美味しいと、食べてくれました。予想通り、一番好評だったのは、おにぎりと味噌汁。日本からマダムMに持って来てもらった、海苔と梅干し、味噌を惜しげなく使った甲斐がありました。それほど長期間、日本を離れているわけでもないけれど、やっぱり恋しくなる味なんですね。



それにしても、やっぱり若さってすごい。大量の料理が、最初の30分ほどで、ほぼ完食に近い勢い。通常なら、ホームパーティで作った料理は、その後数日ぐらい家族の食事を賄える分が残るところ、今回はせいぜい1回分。

食後は、13歳の息子が出してきた、クロスワードゲームで盛り上がりました。英語を勉強しにきた人のツボにハマり、ネイティブ並みの息子は、その場を仕切る先生役になれて大喜び。いつもは食べ終わったら、自室に籠もってしまうのが嘘のようです。良かったの〜。

これだけ喜んでもらえるんなら、本気でケータリングサービスでも始めようかと思うほど。終日手伝ってくれた、メイドのライラは、餃子ならシライでも商売になると太鼓判。10個で50ペソと値付けまでし始めました。ちょっと安過ぎるんとちゃうか?

ということで、こういうのは私も大好きなので、心から、またのお越しをお待ち申し上げております。


2018年8月27日月曜日

明っかる〜い ナッショナ〜ル

今は無きテレビ時代劇「水戸黄門」。言うまでもなく、1969年(昭和44年)から2011年までの42年間、通算43シーズンもの長期に渡って放送された、一大長寿番組です。その一社提供スポンサーだった松下電器(現パナソニック)のブランド「ナショナル」を世に印象つけたのが、水戸黄門のオープニングに使われた歌「明るいナショナル」。

私が子供だった、昭和40年代というと、日本の家庭では、夜間の室内がそれほど明るくはなかった。四畳半か六畳の部屋に、せいぜい蛍光管が2本の照明が一つっきり。寝室の枕元や子供の勉強机に、手元用の電気スタンドを置くぐらいで、トイレや浴室は、電球が一個だった記憶があります。

ところが、その後、日本の家庭の照明事情は様変わり。特別に裕福な家ではなくても、蛍光灯と白熱球を組み合わせたり、メインとは別に間接照明を取り付けたり、灯りのバリエーションは豊かに。まさしく「明るいナショナル」の掛け声に合わせて、日本の夜はずいぶん明るくなりました。

その後、たまたま松下電器の社員になって、世界中の照明事情を見て回って気づいたのは、こんなに部屋の中を煌々と照らすのが当たり前なのは、ひょっとすると日本だけなんじゃないかということ。

特にアメリカやヨーロッパなどでは、私の感覚からすると驚くほどに暗い。話を聞いてみると、あんまり明るくしてしまうと、まるでオフィスにいるみたいでリラックスできない、とのこと。それとやっぱり、青や緑、グレーなど、瞳の色が明るいと、光をより敏感に感じるようです。やたらとサングラスを掛けるのは、必ずしもファッションだけじゃないんですね。

現地調査では、各家庭で、一番落ちつく明るさまで、照明を落としてくださいと頼んだら、大抵の人は、停電でロウソクを灯した?と思ってしまうような暗さ。こんなに違うものかと、驚いたものです。蛍光灯の白より、白熱灯の暖かい色を好むのも、日本との相違点。

そして移住したフィリピン。
さすがに瞳の色も日本人と似通った人々が多く住む国。欧米の家庭よりは、日本に近いものの、やっぱりやや暗く感じます。まぁネグロスでは、本物の停電が頻発して、嫌でもロウソクに頼るケースが多いですが。

良くも悪くも、日本の明るさに慣れてしまった私なので、自宅には、地元の人からすれば、少しやり過ぎなくらいに、いっぱい照明器具を設置。もちろん常時一斉点灯ではなく、食事中と、食後のリラックス時などでは、明るさや光の色を変えられるようにしています。



自宅ダイニングの天井照明

また、どうしても薄暗い=貧乏臭い、と感じてしまうこともあり、キッチンの流し周辺や、集中して作業をすることの多い、自分の書斎では、それこそオフィス並みの光度。特に50代になってからは、視力も衰えたようで、余計に明るさが必要になってしまいました。

ということで、もしこれからフィリピンに家を建てるという方がおられたら、ライティングのプランは、よく練った方がいいですよ。フィリピンの建築家に丸投げすると、出来てからずいぶん暗いし、照明の数を増やそうにも電源が足りない、なんてことになるかも知れません。


2018年8月26日日曜日

最強晴れ女 姪っ子M


日本の夏休みを利用してフィリピンに初渡航した、日本人旅行者のよくある勘違い。平日に子供たちが学校に行っているのを見て、フィリピンには夏休みがないと思ってしまう。「いやぁ〜、フィリピンは年中夏みたいなもんだから、子供の夏休みなんて無いんですよ〜。」とでも言ったら、信じてしまいそう。

もちろんそんは訳はなくて、はっきりした四季はないフィリピンでも、4〜5月には気温が上がって、日本より長めの夏休み。しかもそれが学年の区切りで、休み明けの6月が新学期。フィリピンのことを知っている人ならば、言うまでもないでしょう。

7〜8月ではなく、4〜5月に暑さの最盛期を迎えるのは、東南アジアだけでなく、インドやパキスタンなどの南アジア(モンスーンの影響を強く受ける)地域に共通なんだそうです。

そして8月というと、フィリピンでは雨季。最近の日本では、夏の暑さ尋常ではないので、お盆休み前後だと、日比の気温が完全に逆転して、もうフィリピンが避暑地状態。昔はインドでは、熱波で毎年死者が出るなんてニュースを聞いて、世界には過酷な自然があるもんだと、他人事だったのが、今では日本での熱中症による死者が、年によっては、1000人(2015年は1077人)を超える状況。

旅行先が涼しいのはいいけれど、今年のフィリピンは、マニラ首都圏を中心に例年になく激しい雨の降り方。少し前にも投稿したように、各地で洪水被害が出て、8月16日には、豪雨の中、ニノイ・アキノ国際空港で厦門航空機が着陸に失敗。怪我人は出なかったものの、36時間に渡り滑走路を閉鎖することになりました。多くのフライト・キャンセルや遅れが出て、影響を受けた日本人観光客の方も多かったでしょう。

ところが、ここネグロス島シライの8月。降ることは降っているものの、マニラに比べると全然大したことがありません。第1週に日本から我が家にお越しいただいた、マダムMとそのご子息も、当初は天気を心配していたのに、結局ほとんど傘も使わず。

そして先週に、短期英語留学で姪っ子が到着して丸一週間、驚くことに一滴の雨も降らない。姪っ子M(偶然同じイニシャル)は、マダムMを凌駕する最強晴れ女のようです。

一昨年のフェイスブックの投稿を見ると、隣街の州都バコロドで洪水が発生して、たまたま一時入院中だった娘を見舞った義弟が、帰宅できずに病院で一泊したなんてことが書いてある。降って当然の季節なんですけどねぇ。

もちろんずっとカンカン照りではなく、連日雲は多め。周囲には時々入道雲も見えるので、シライ市の我が家の周辺だけが降ってない様子。ネグロス全体で少雨ということでもなさそう。

そんな長すぎる雨季の中休み。姪っ子は、屋外でテニスを楽しんだり、早朝にちょっと長めの散策をしたり。今日は「英雄の日」の休日なので、近場のビーチリゾートで、英語学校の友達とバーベキューをして来ると出かけていきました。

さて、姪っ子Mの晴れ女効果。いつまで続くでしょうか。


2018年8月25日土曜日

専門能力は見えない翼


今週火曜日のニノイ・アキノ・デー(8月21日)、日本から英語留学のために、ネグロスにやって来た姪っ子。ただいま大学2年生で、青春真っ盛り。さぞやキャンパスライフを謳歌しているんだろう、と思いきや、意外とそういう感じでもないらしい。

日本の多くの大学生は、頑張るのは入学まで。入試が終わった途端に、就職までの4年間のバカンスとばかりに、遊び呆けてしまう学生も多い。就職活動は大変と言いつつも、諸外国での大学生の勉強ぶりとは、比べものにはなりません。

ところが我が姪っ子。将来はソフトウェア・エンジニアを目指していて、JAVAやらC言語やらを苦労して習得中。しかもスマホだけでなくノートパソコン持参で、夕食の後は、何やらカチャカチャとキーボードを叩いてます。傍には今流行りの「ディープ・ラーンニング」(AIに用いられる、コンピューターが事象を理解するための学習方法)の専門書。

最後に会ったのが、小学生か中学生ぐらいの時で、まるっきりの子供のイメージしかなかった姪っ子。ちょっと見ない間に、外見だけでなく、頭の中もずいぶん成長しました。元来、文系だったにもかからず、これからはコードの一つも読み書きできないと、それこそコンピューターに仕事を奪われてしまうとばかりに、プログラミングの世界へ。

ネットさえ繋がれば、世界のどこでだって仕事ができて、食いっぱぐれがない。ならば、英語が喋れないと片手落ちだ、という順番で、今回の英語留学を思い立ったわけです。なかなか一本筋の通った思考回路。

短期留学の話を母親にしたら、サンフランシスコに住む、遠い親戚宅に居候を勧められたのを、「旅費が高い!」と一蹴。少なくとも姪っ子には、フィリピンに対する偏見は、欠片もない。まぁ、親の懐を当てにせず、居酒屋でバイトした金で留学なので、コストパフォーマンスを考えるのは当然ですが。

そんな姪っ子の姿を見ると、専門能力を身に付けるのは、世界に羽ばたける見えない翼を手に入れるようなものだと実感。今年の前半に、同じように我が家に下宿して英語を勉強していた人は、プロのパティシエ(菓子職人)さん。手前味噌ながら、私の場合はデザイナー。

たまたま挙げた三つとも、カタカナ職業ながら、大工さんでもお寿司屋さんでも、日本から出ても(あるいは特定の会社を辞めても)通用する専門能力ならば、どれも立派な翼に間違いはありません。

バブル崩壊以降、長期凋落傾向に歯止めが掛からない日本。労働人口は減るし、効果的な政策は打ち出せそうにない。国内に留まって、できるだけ安定した場所に就職をして、という30年前の処方箋が、すっかり色褪せた今、日本から飛び出すことを前提にした将来への準備は、最低限のリスクヘッジとすら言えるでしょう。

そういう小難しい話は抜きにしても、日本で働くには理不尽なことが多すぎます。意味のない労力を要求する、時代錯誤な精神主義や、行き過ぎた顧客サービス。効率の悪い長時間労働に加えて、女性への明らかな差別も根強い。

ということで、姪っ子には、卒業したらサッサと日本の外へ出なさい、何だったら裏庭に離れを建てるから、そこでネット経由の仕事をするか?と、煽りまくっております。


2018年8月24日金曜日

だから日本人会には近づかない


前回「面倒臭いフィリピン関係者たち」と題して、同国人であることが恥ずかしくなるような、フィリピンに関わる日本人について書いたところ、思いの外、たくさんの反響をいただきました。それも「お前に言われたないわ!」という逆ギレではなく、共感するとのコメントが。

やっぱりフィリピンに暮らしたり、フィリピン人と付き合ったりする多くの日本人は、普通に常識があって、私と同じように「面倒臭い人々」を苦々しく思っていたようです。反撃に備えて少し身構えていただけに、やや拍子抜けの反面、かなりホッとしました。ページビューもぐんぐん伸びて、「エホバの証人」をテーマにした時以来のヒット。

それに気を良くして、調子に乗るわけではないけれど、今日も日本人ネタを少々。

フィリピンだけでなく、ある程度まとまった数の邦人がいる日本国外の街や地域には、たいてい日本人会が組織されていることでしょう。マニラやセブなどはもちろん、ここ西ネグロスの州都バコロドにもあります。

韓国人向けの英語学校が盛んになり、それに便乗するように、日本からの若い留学生も増えているバコロド市。顔ぶれは流動的ながら、日本の夏休みの時期など、何百人単位の日本人滞在者がいると思われます。三日前にシライにやって来た姪っ子によると、マニラ〜バコロドのフライトには、高校生やボーイスカウトらしい団体客が40〜50人もいたとか。

ただ、何年も住むような長期滞在や、永住者はぐっと少なく、おそらく百人いるかどうか。そのほとんどが、私同様、フィリピン女性を配偶者とする、定年退職した中高年男性らしい。そうなると、日本人会のメンバーはジィさんばかりで占められて、私のように50そこそこで早期退職した者は、下手すると若造のヒヨっ子扱い。

移住直後ぐらいの時期、家内の大学以来の友人で、バコロドでも有数の資産家にして貿易商、フィリップ・クルーズ氏の誕生日パーティに招かれた時、たまたま同席していた、バコロド日本人会の人たちと、少しだけ話をしたことがあります。

会長を務める方は、もう30年以上もこの地に住むパイオニア。農場を経営したり、日本・フィリピン間ビジネスの仲立ちをしたり、実に温厚で、フィリピン人にも日本人にも人望のある名士。初対面で、ずっと年若の私にも、きちんと丁寧な受け答えをしていただきました。

ところが、その取り巻きのオッさんたちが、どうにも嫌な感じ。たまたま話題に上がった、地元で活動する日本のNGOについて、最近来たばかりの新参者が...みたいな言い方で、歯牙にも掛けない。フィリピン歴が長いほど偉い、とでも言わんばかり。

年長者やその道の先輩に敬意を払うのは、悪い習慣ではないし、私は日本文化の良さの一つだと思います。とは言っても、それは年寄りや経験の長い人物が、無条件に偉そうぶって、尊大に振舞っても構わないという意味ではありません。もちろん、日本人会のメンバーがすべて面倒臭いわけではなく、おそらく一人一人と話をすれば、普通の人々。

でも、人間って群れると、その集団が持つ負の側面が、顕在化するのはよくあること。日本人の場合は、周囲の空気を読んで、自分の意見を言わなかったり、阿諛追従もいじめも、発言力の強い人の尻馬に乗ったり。それが嫌で日本から逃げてきた私のような者にすれば、何を好きこのんで、日本のムラ社会に戻りたいと思うでしょう。

後になって気づいたのは、この年寄りばかりの閉鎖的な雰囲気って、高齢化が進んだ日本のカトリックにそっくり。移住前に住んでいた福岡のように、信徒の母数が多く、年齢の偏りが少ない地域ではそうでもないけれど、全国的に見れば、爺さん婆さんの溜まり場になっている教会も多く、何か新しい取り組みをしようにも、身動きが取れないような状況。

それはさて置き、食わず嫌いの思い込みだと自覚しつつも、以来、日本人会には近づいておりません。しかも、わざわざ自分より年配の人たちに混ざらなくても、たいへん有難いことに、もっと若い世代の日本人のお客さんや、フィリピンの親戚や友達が、しょっちゅう我が家に来てくれます。

ということで今日は、一匹狼を気取った、ちょっと鼻持ちならない結びになってしまいました。


2018年8月23日木曜日

面倒臭いフィリピン関係者たち


英語留学やリゾートについての話題が取り上げられる機会が増えて、以前に比べるとずいぶんとイメージが良化してきた、日本でのフィリピン観。家内が来日した1990年代の後半なんて、犯罪や災害のニュースばかりで、テレビを見た家内が「ネガティブ・キャンペーンだ」と、よく憤ってました。

特にここ数年は、ドゥテルテ大統領の改革、あるいは、好景気に影響された経済関係の報道も、ネット上では相当数見ることができます。

それでも、相変わらずなのは、フィリピン在住だったり、フィリピンに足繁く通う日本人が巻き散らす、この国や国民を貶める言動の数々。私は、フィリピン以外の邦人コミュニティについて、リアルでもネットでも詳しくは知らないけれど、こんなにタチの悪いのが多いのは、ここだけなんじゃないかと思うほど。

そこで今日は、そうした「面倒臭いフィリピン関係者たち」の分類をしてみたいと思います。


1. エロおやじ

差し当たって、フィリピンのイメージを一番落としているのは、このグループ。国全体が巨大な風俗店としか思っていないようなタイプのオッさんたち。

このブログで何度も投稿しているように、私は、女性との出会いを求めて来比すること自体が、悪いとは思わないし、いまさら買春目的の旅行者を糾弾するつもりはありません。

ただ、遊ぶんならもっとスマートにやれと言いたい。空港やホテルのロビーで、「武勇伝」を大声で話すなんて論外で、そもそも群れないと行動できないのが情けない。その上、フィリピーナは金次第で何でもやる、金に汚いとネット上に書き散らす馬鹿。金で女を買いに来たんだから、そういう接し方をされるのは当たり前でしょうに。

少なくとも自分の行為は、誇れることではなく、見知らぬ誰かに吹聴するべきものでもない、という自覚だけは、持てないもんですかね? 第一フィリピンでも売買春は、違法行為ですよ。


2. なんでも悪口

1との関連性が強いのが、とにかく口を開けば、フィリピンの悪口しか出てこない人たち。風俗からフィリピンに関わり始めると、ほぼ100%、付き合うのは貧困層出身のフィリピン人。教育も満足に受けてないし、社会経験も乏しい。他にいい仕事もない。どうしたって日本人を金蔓と見てしまうのは止むを得ない。

ところが、自分の会ったことのある相手だけが、すべてのフィリピン人を代表していると思い込んで、徹底的に扱き下ろす。それは最初に、相手の顔を札束で張るようなことをするからでしょう。そんなに嫌なら、さっさと日本に帰れと言いたくなります。


3. 差別・偏見の塊

そして最近特に増えたのが、日本は何でもナンバーワンだと盲信する一方、フィリピン人だというだけで、怠け者だ、頭が悪い、マナーがなってない、と決め付ける連中。ボーイフレンドがフィリピン男性だという日本女性に「結婚したら、旦那を養うことになるよ」と、上から目線の訳知り顔で説教を垂れるのを聞くと、うんざりしてしまいます。

当たり前過ぎて、わざわざ言うのもアホらしいけれど、働き者で教養もあるフィリピン人は、いくらでもいますよ。何なら実名を挙げて、ここにリストを書き連ねてもいいぐらい。

自分が世話になっている国の人々を、差別と偏見でしか遇せない人は、腹を割って話のできるフィリピン人の(だけでなく、中国や韓国の人々にも)友達がいないんだろうな、と思ってしまいます。


4. 日本人を騙す奴ら

これも昔から、一定数いますね。結婚相手の紹介、彼女の日本への渡航のお手伝い、不動産購入の斡旋...。最近では、仮想通貨やネズミ講紛いのマルチ商法などなど。真面目にビジナスとしてやっている人がいる一方、最初から同じ日本人をカモにしようとする輩。

この頃は、ネットのお陰で、直接会ったことのない人にも、言葉たくみに儲け話を持ちかけることもできるし、日本に住んでいながら被害に遭う場合もあるでしょう。

最悪なのは、騙すだけでなく、やっぱり後を絶たない保険金殺人。フィリピンでは合法的にも非合法にも拳銃入手は難しくないし、その気になれば殺し屋が安く雇えるお国柄。ここまで来ると、面倒臭いどころか完璧な犯罪者です。


5. 貧乏自慢

1〜4に比べると少数派ながら、貧しい暮らしに適応している風を装い、普通の日本人を蔑む屈折した人。月々の生活費の安さ自慢から始まって、こんなにまずい食べ物でも平気です、汚いトイレは当然、お湯シャワーなんて金持ちの贅沢だ...云々。

本気でフィリピンの貧困と戦い、この国の社会を少しでも良くしたいと奮闘している人なら、まずこんな言い方、書き方はしない。そういうのに限って、実はちゃんと蓄えもあって、日本に帰国する気ならいつでも帰れる境遇の暇人だったりします。

悪意はなくても、やたらフィリピンの貧困を美化するのも、同じ系列でしょうね。いくら子供が楽しそうに笑ってたって、乳幼児の死亡率の高さを知れば、「貧乏でも幸せ」なんて、簡単には言えませんよ。



ということで、日頃の憂さ晴らしとばかりに、書きたい放題に書いてしまいました。念のために書き添えますが、仕事の都合などで、望まずしてフィリピンに住み、どうにも環境に順応できない人が不満をぶつけるのは、まったく事情が違います。それはお気の毒としか言いようがありません。

また、フィリピンに関わる多くの日本人が、こうした面倒臭い人々ではなく、ごく普通の常識ある人だというのも分かっています。ただ、ネット上で大きな顔をしているのは、上記のような連中。声がデカいだけに目立つ。態度も粗野で、ネットリテラシーも日本語の作文・読解能力にも難ありなのが多い。

リアルでもネットでも、そんなのは無視しておけばいいんですが、どうにも「要らんことしぃ」の性格が直せない私は、今日も、不毛な戦いを続けているわけです。


2018年8月22日水曜日

日本から姪っ子が到着


唐突ながら、私には日本に弟がいて、その娘、つまり姪っ子が二人います。実は昨日(2018/8/21)、日本で大学に通う一人が、夏休みを利用した短期英語留学のために、ここネグロス島のシライにやって来ました。

海外体験はというと、一度アメリカに旅行したことがあるけれど、団体ツアーで、段取りも現地でのアテンドも全部お任せ。今回は、自宅を出てからマニラ経由で、バコロド・シライ空港に来るまで、完全に一人旅。何事にも最初はあると言っても、やはり叔父の立場としては、相当心配でした。

特にマニラのニノイ・アキノ国際空港は、もう2年ほど、イミグレーション・スタッフの人員不足で、国際線の離発着が多い時間帯には、1時間半とか2時間待ちが常態化。さらにタイミングの悪いことに、前週の木曜日に発生した、厦門航空機の着陸トラブルで、土曜日のお昼まで、2本あるうちの1本の滑走路が閉鎖。

フライトの乱れは、その後もしばらく続き、案の定、日曜の深夜に至るまでイミグレーションは、まるで難民キャンプのような混雑が続いたそうです。姪っ子には、前日に、2時間待ちぐらいにはなるかも知れないから、折りたたみの椅子とか、暇潰し用の本(スマホは電池切れの恐れもある)などを持参するように、連絡を入れました。

結局のところこの情報は、フィリピン初渡航の姪っ子を、徒らにビビらせただけに終わり、フライトはオンタイムで成田を離陸し、予定より少し早めにマニラ着。イミグレは15分ほどですんなり通過。「全然大したことなかったし〜」と、フェイスブック・メッセンジャーでテキストが送られてきた時には、心底ホッとしました。

当日はニノイ・アキノ・デーの祝日で、休みの夕刻には、国内便がやたら遅れることも多いフィリピン。ところが珍しいことに、マニラ〜バコロドの便も定刻通り。まだ明るい午後6時前には、空港で無事落ち合うことができました。

それにしても、大きくなったの〜。私が日本を離れて、すでに5年。姪っ子に最後にあったのは、そのだいぶ前で、正確にはいつだっから思い出せないほど。ほとんど喋ったこともなかったし、小学生ぐらいの子供が、いきなり大人になって現れたような感じ。

今は、学校でプログラミングを学び、居酒屋のバイトもして、ずいぶん忙しい日々を送っているとのこと。専門性がはっきりしていると、大学でそれなりに勉強しなければならないのは、いいことです。デザインを学んだ私も、道は違っても、似たような学生生活でした。

それにしても、我が姪ながら、ずいぶんと知的な女性に育ちましたね。喋り方は身内に対してということもあって、やや舌足らずながら、将来についてしっかりした考えを持っている。何より、英語を勉強しようと思い立ったのは、別に親や教師に言われたからではなく、完全に本人の意思。旅費も英語学校への支払いも、バイトで稼いだ金なのは、立派なものです。

とにかく、本当に久しぶりだったし、まさか来てくれるとは思っていなかったので、嬉しさのあまり、昨夜はずいぶん遅くまで話し込んでしまった。

メイドのライラも、かなり前から楽しみにしていたらしく、姪っ子を一目で気に入り、さっそく週末は、自分が住んでいるバランガイのフィエスタに連れていくことで話がまとまりました。

さて、我が家での滞在期間は4週間。これからも折に触れて、姪っ子のシライ滞在のエピソードを投稿していきたいと思います。


2018年8月21日火曜日

名前のある兵士 NHKスペシャル「祖父の見た戦場」


8/11に日本で放送されたNHKスペシャル「祖父が見た戦場〜ルソン島の戦い 20万人の最期〜」を、遅まきながらネット経由で観ました。

この番組は、NHKのチーフアナウンサー小野文惠さんが、太平洋戦争中、フィリピンのルソン島で戦死した、祖父、小野景一郎(おの・かげいちろう)さんの足跡を追うという形式で制作されたドキュメンター。

小野さんは、「ためしてガッテン」や「鶴瓶の家族に乾杯」などに出演し、紅白歌合戦の司会も務めた、NHKの看板アナウンサー。私も日本にいる時は、頻繁にお顔を拝見しておりました。この投稿をするに当たって調べてみたら、昭和43年(1968年)生まれの50歳。私より六つお若いだけだったんですね。

お祖父さまの景一郎さんは、享年34とのことだったので、明治末年のお生まれのはず。つまり私の祖父と同世代。父方・母方とも、祖父は出征しなかったものの、フィリピンが舞台だということもあって、感情移入するなという方が無理なぐらい。

フィリピンでは、昭和16年(1941年)の開戦から、敗戦の昭和20年(1945年)の間に、日本人が 51万8千、アメリカ人 1万5千、そして110万人ものフィリピン人が亡くなったと言われています。もう数が膨大過ぎて、とても感覚では処理できない。このように、戦争被害を数値だけで捉えても、ともすれば、歴史の一部として書かれた、無味乾燥なものように思われがち。

ところが、直接会ったことはなくても、顔や名前、その来歴を知り、残された親族の悲しみなどを垣間見た瞬間、ただの数字の羅列が、にわかに生々しい感情を呼び起こします。「名もない兵士」「名もない庶民」なんて一人もいなくて、誰もが私たちと同じように、この世に生を受け、家族や友に愛され、泣いたり笑ったりした人々。

また番組では、新たに発見されたという、日本兵の死体の数を、その時期や場所と共に、アメリカ軍が詳細に記録した極秘リストを元に、フィリピンの地図にプロット。

マニラ市街戦そしてその後、日本兵がどのように敗走し、最期を遂げていったか。コンピューターグラフィックスによって、時間と共に広がる、死者を示す地図上の赤い点が、残酷なほど当時の状況を鮮やかに視覚化。

一番胸に迫ったのは、部隊の日誌にある、マニラから北部のサンフェルナンドへ列車で移動したという記述を追って、現在僅かに残った線路を辿るシーン。まるで、73年前に小野衛生兵が乗ったであろう、列車の幻が見えてくるようでした。

また、日本兵によるマニラ市民の虐殺や暴行なども、その当事者と小野アナウンサーが面会する形で伝えていました。レイプ被害を受けた女性の「私たちは過去を乗り越え、許しました。でも絶対に忘れはしません。それは二度と同じことを起こさないため。」との言葉。フィリピン在留邦人の一人として、これは見るのがつらかった。

本を読んだり、ネットの記述で戦争について調べることも大切ですが、すぐれた映像作品には、魂を揺さぶる力があるものですね。

最近の政局報道に関しては、公共放送の名に値しない姿勢を見せるNHK。しかし、こういうドキュメンタリー番組を作る手腕を見る限り、まだまだ捨てたものではない。できたら、高校の日本史の授業で使って欲しいぐらいの映像素材です。(と言うと、反日教育だ、左傾化だと、騒ぐ連中が出てくるんでしょうけど。)


2018年8月20日月曜日

私はセブアーノ顔なのか


タイトルは、もちろん冗談で、フィリピン人の親戚や友達にそんなことを言われたわけではありません。

ただ、最近多いのは、買い物でショッピングモールをウロついていると、英語ではなくイロンゴで話しかけられること。移住してから5年で、私の顔形が変わったわけでもないので、おそらくこっちの生活に慣れて、態度がデカくなってるんでしょうか。

そこまでではなくても、すっかりリラックスしているので、観光客とか短期滞在者にあるような、緊張感が薄れているのかも知れません。

海外慣れしていない日本人によくあるのが、外国語で話しかけられたら、とにかく「ちゃんと」返事しなければならないと構えてしまう人。あるいは、店員に何かを尋ねようと、頭の中で英語を組み立てて、喋ってみたはいいけれど、聞き取れないほどたくさんの言葉数で返されて、軽くパニックになったり。

私は、英語は、なんちゃってだし、イロンゴがそんなに分かるわけでもないけれど、少なくともこちらが客の立場なら、分からなければ何度でも聞き返せばいいし、面倒だったらその場を立ち去ればいいと開き直り。と偉そうに書いていますが、私も最初の海外出張の時は、カチカチでしたけどね。

とにかく、変に落ち着き払っているもんだから、中国系メスティーソとでも思われて、ネイティブ・スピードのイロンゴ対応を受けることもあります。分かる範囲だったら、片言のイロンゴで返事はするけど、大抵は「English only」。

すると「Are you Cebuano?」と聞き返されることが2度ほどありました。つまり、フィリピン人なんだけど、セブアーノ語圏(島の反対側の東ネグロスや、セブ島など)からの旅行者で、英語は分かってもイロンゴ語がよく分からない人だと思われたらしい。

フィリピン永住を目指している私としては、決して気分の悪いことではないものの、こんな顔でもフィリピン人に見えるのかと、ちょっと驚いてしまった。移住前の旅行者の時は、韓国人や中国人とよく間違われたのに。

最近、我が家に滞在した日本の友達、セブアーノ語を流暢に操る、マダムM女史によると、フィリピンに住んでいた頃に、現地の人から「セブアーノ顔」があると、教えてもらったそうです。日本だと、東北っぽいとか九州系だとか、みたいなもの?

家内に訊いてみると、セブアーノ顔と言うほど、具体的に身体的な特徴があるわけでもないけど、黙っていても何となく雰囲気で分かることもあるんだとか。

残念ながら私には、フィリピン人の地方による顔や雰囲気の差なんて、まったく判別がつきません。中国やインド、スペインなど、マレーとはっきり違う系統の顔立ちでもない限りは、全部「普通のフィリピン人」。ただ、人によっては妙に日本人に見えたりもして、道行く人を眺めながら、実家の近所に住んでた八百屋のオッちゃんみたいや、と一人でニヤニヤすることも。

それじゃ、とばかりに自分の顔を指差して、「これはどこの顔?」と家内に言ったら、やっぱりどう見ても日本人なんだそうです。(ガクッ)


2018年8月19日日曜日

我が街初の日本食レストラン

遂に、こんな日が来ましたね。フィリピン・ネグロス島の人口12万人の地方都市、我が街シライにオープンした、日本食レストレンに行って参りました。

と大袈裟に言うほどの店では全然ありません。場所は、息子の通う小学校の裏手で、人通りも少なく、普段はトライシクル(オート輪タク)の運転手さんが、椰子の木陰で昼寝をしているような裏通り。

家内からその話を聞いた時に思い浮かんだのは、そう言えばその辺りに、バッチョイ(フィリピン式のラーメン)を1杯25ペソ(約60円)で売ってる、トロトロみたいな店があったなぁということ。息子の小学校に行く時は、大抵その前を通るので知っていました。ただ、最近はその店も閉めてたはず。

ロケーションからして、大したこともないだろうと、何となく忘れていた日曜日。教会のミサが終わったあと、いつもは私が担当する昼食の支度を家内に頼んだら、よほど面倒だったらしく「そうだ、新しいジャパニーズ・レストランへ行こう!」となりました。

やっぱり私が思っていた通りの場所で、店構えも想像通り。かなり大きな家の、乗用車3〜4台は駐車できそうなガレージ。そこを適当に改造して、小さなトイレを付けた程度の簡易店舗。半屋外の開放的なスペースに椅子とテーブルが置かれ、焼肉がメインということらしく、各テーブルにカセットコンロが一つづつ。



店の名前が「Kobe Yakiniku House」(神戸焼肉ハウス?)なんだそうです。

お昼にしては、少し早めの時間帯だったので、お客さんは他にいません。メニューには写真もなく、アルファベットで「Yakiniku」とか「Gyoza」の文字が並びます。店名のルビには「コビ・ヤキニク・ホス」と、なんでこうなるのか分からないカタカナも。

若干の後悔を胸に秘めつつ、「ピュア・ビーフ」と説明書きのある焼肉、餃子2人前(合計10個)、エビフライにチキンカツを注文。さてどんなのが出て来るか。ツッコミ倒してやろうと待ち構えておりました。

意外に早くできた餃子を皮切りに、お肉も料理も次々とテーブルに並びます。嬉しかったのは、ピッチャー丸ごと麦茶がサービス。これは、オーナーが日本人か、少なくとも日本で暮らしたことのある人が、アドバイスしているな。


「ピュア・ビーフ」は、地元のお肉なので、神戸牛とは比べものにならないけれど、タレはちょっとピリっとしていて、一応焼肉のタレと呼べるレベル。日本食(というか韓国料理?)と思わなければ、問題なく食べられます。餃子も、外見さえ目をつぶれば、普通に餃子の味。5つで40ペソ(約100円)は、リーズナブル。



店のあちこちには、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」「また来てください」など、日本語とアルファベット、加えて英語での意味表記があったり、フィリピンに住む日本人のインテリアにありがちな、日本人形が飾ってあったり。



ウエイトレス(というか、普段着のオバちゃん)は、割とまとまった日本語を話します。オーナーとその息子さんも日本経験があり、そして親戚の旦那さんが日本人。つまり、日本シンパの家族が、大好きな日本食で商売をしようと思い立ったんでしょう。

それはともかく、味付け・盛り付けに、相当ローカルな解釈が加わっていて、日本食と呼ぶには躊躇すべき内容ながら、家族3人が満腹になって、締めて支払いが410ペソ(1000円足らず)のコストパフォーマンスを勘案すれば、十分許せます。

問題は、日本人なんて数えるほどしかいないシライ市内。わざわざ市外からお客さんが来るほどとも思えないので、この味が、どれだけシライノン(シライっ子)の口に合うか。そうこうしているうちに、比較的身なりもキチンとした、家族連れが数組。悪くない感じです。

家内は及第点を出したようで、職場の同僚にもお勧めしようとのこと。曲りなりにも、せっかく開店した日本食レストランなので、なんとかビジネスとして軌道に乗ったらいいですね。次は巻き寿司(のようなもの)を頼んでみましょう。


「神戸サウナ&スパ」と印刷された「壱億円札」
が貼ってありました。


2018年8月18日土曜日

女性の自立を阻む国


昔ほどではないけれど、今でも「男は仕事あってこそ」みたいな言い方をする人がいます。もちろん、やり甲斐のある職業に就いて、充実した毎日を送っている人は、いいなぁと思うし、健康でずっとその仕事を続けられたら、たいへん幸せな人生でしょう。それは、男に限ったことではないですけどね。

ただ、男女雇用機会均等法が施行されてからだけで、もう30年以上経過した日本で、未だに女性が、十分な報酬を得られなかったり、相応の地位につけなかったり。さすがに公然と「女が働くなんて生意気な」とは言えないにしろ、そんな感情を剥き出しにするオっさんは多い。その手の輩に「男は仕事...云々」みたいなことを言われると、つい反発したくなります。

女性を雇いたくない理由として、よく言われるのは、結婚や出産を機に退職してしまうとか、家事や育児のために長時間労働ができないとか。これって今となっては、女性だけなく、男性の働き手をも束縛して苦しめている、呪いみたいなもの。

一度正社員になったら、簡単に辞められないと、雇われる側も思い込んでいるから、いくら仕事がキツくても、人間関係に行き詰っても、ひたすら耐えるしか選択肢がない。また、単に無駄な仕事が多いだけなのに、いつまで経っても根本的な解決を図ろうとしない。

普通に考えたら、女性だから務まらないんじゃなくて、そもそも、よっぽど我慢強くて、盲目的に働くことを厭わない人以外は、耐えられないような労働環境だと認めているようなもの。

それでも、1960〜70年代やバブル期のように、年々収入が増えて豊かになっていく実感があれば、それでも頑張ろうかというのも分かりますが、いくら真面目に働いても、結婚や子供を持つこともままならない給料の安さ。

もう社会の状況が40年前、30年前とは様変わりしているのに、女性のポジションだけは昔のままにしておきたいらしい。むしろ優秀な人材の輩出を、女性だというだけで、全力で妨害している。最近発覚した、東京医科大の入試における不正は、氷山の一角。

出来る女を落として、本来なら合格できないレベルの男を医者にするって、恐ろしい話ですよ。医療だけでなく、フェアな競争ができていれば、他の分野でも、日本はもっと国際競争力が付いていたんじゃないかと思います。

さらに恐ろしいのは、母子家庭の半数以上が、相対的貧困に陥っている事実。(2016年、厚生労働省の調査)これは長年、女性の経済的自立を阻み続けてきた結果に、他ならないでしょう。

日本から離れて、フィリピンの田舎暮らしをしていても感じるのは、最近の日本では女性の方が行動力も知的好奇心も、男性より上なんじゃないかということ。

我が家に来てくれる、ボランティアや英語留学の若い日本人は、8〜9割が女性。学校を卒業してからも、中には、日本の閉塞感を嫌って、フィリピンにそのまま居ついたり、自分で仕事を立ち上げたり。私の知る限り、どの人もちゃんと自立して、実に活き活きと暮らしてますよ。

その点男は、若い世代でも、日本の会社に就職して、きちんと月々のサラリーを貰って...みたいな、昔ながらのレールの上を走ることしか考えない人が多い。海外に出るのは、最低でも3年、日本で働いてからじゃないと、なんて、まったく意味不明の、年上の誰かに吹き込まれたようなセリフを言ったり。

翻ってフィリピン社会。家内の親戚や友達関係を通じて知り合った、フィリピン大学の教授、大きなビジネスに携わる貿易商、食品加工会社の経営者など、そのすべてが女性。他にも実際に話したことのある人では、フィルヘルス(フィリピンの健康保険会社)の部長職やメトロバンク(大手銀行)の支店長など、高い地位にある女性は、何人でも思い浮かべることができます。

もっと言うと、この国では、女性の社会進出を阻んだら、国の運営そのものが立ち行かない。すでに二人の女性大統領が誕生し、現副大統領も女性。役所でも民間のオフィスでも、管理職に女性がいない場所を探す方が難しい。

こう書いている私にしても、教育省の出先機関に勤務する家内を、サポートする側になっての専業主夫。フィリピンでは誰一人として、それを訝しんだりはしません。

女性がつらい思いをする国では、男性も幸せになれない。ネグロスに移住して6年目の今年、その思いを年々強くする次第です。


2018年8月17日金曜日

ビサヤの時代

差し詰め、日本で言うところの「地方の時代」みたいな息吹を感じる、最近のフィリピン。マニラ首都圏への一極集中が行き着く所まで行ってしまい、交通、治安、そして洪水を始めとする自然災害への対策、すべてがもう限界。

私が見るところ、ドゥテルテ大統領が、その政治生命を賭してでもやると明言する連邦制の導入は、その最大にして唯一の切り札。地下鉄建設も、ジプニー(乗り合いバス)のリニューアルも、頑張ってはいるものの所詮は対処療法。根本的な体質改善には、素人目にも、連邦制導入による首都機能の地方分散しかないでしょう。

私たち家族の住むネグロス島では、連邦になった時の行政区分が、旧来のウェスタン・ビサヤ・ディストリクト(西ビサヤ地方)になるのか、一旦は沙汰止みになった、東西ネグロス州を統一した、ネグロス・アイランド・ディストリクト(ネグロス島地方)に一新されるのかが気になるところ。

西ビサヤということならば、首都はイロイロ(ネグロスの隣島パナイの中心都市)か、西ネグロスの州都バコロドか。しかし、ネグロス島単独となると、首都はバコロドの南にある、カバンカラン(Kabankalan)という街になる、という話も聞こえてきます。


カバンカラン市庁舎

いずれにせよ、それぞれの市民や周辺地域の住民にすれば、首都となってさまざななインフラが整備されて、その生活に直接の恩恵があると期待するでしょう。こうした政治的な競争がある場合、フィリピンでは裏金を行き交い、時には流血の惨事になりかねません。

それはともかく、ネグロスが行政的に一つの扱いになって、財源も確保されるなら、前回投稿したように、東西ネグロス間の交通の便を何とかしてほしいところ。小型旅客機のエア・コミューターとか、バコロド・カバンカラン・ドゥマゲテを繋ぐ高速道路とか。

ちなみに10年以上前から、バコロド、ドゥマゲテに次ぐ、ネグロス第三の空港を、カバンカランに作る構想があって、今年3月のサンスター(Sunstar Philippines)の記事によると、ようやく、ターミナルビル建設の着工に必要な取り敢えずの資金、一千万ペソを調達したそうです。(総工費ではない)

直近には、いろいろと生臭い話もあるでしょうけど、国家百年の計から考えれば、とてもいい話。仮にマニラ首都圏が戦災や災害で大きな被害を受けても、地方に各機能を分散しておけば、全体へのダメージは少ないし復興も早い。

また、現代フィリピン最大の問題である貧困も、地方にお金が回れば、対策も打ちやすくなる。(ただしこれは、汚職や横領など、政治家の「病気」治癒が前提)

そしてまず真っ先に、新しい道路やビルの建設で、たくさんの雇用が生まれることでしょう。

ということで、ここ何年か、ネグロスにしてもパナイにしても、市街地は再開発され、リゾート地には設備が整い、道路もコンドミニアムも建設ラッシュ。セブの新空港ターミナルが先日オープンしたし、いよいよフィリピンは、ビサヤの時代とも呼ぶべき状況になってきました。(物価も上がっちゃうのが痛し痒し)


2018年8月16日木曜日

おいでませ、ドゥマゲテへ



いきなりタイトルを裏切って申し訳ないことながら、私はドゥマゲテに行ったことがありません。でも、いいところらしいですね。

ドゥマゲテ(Dumaguete)は、私たち家族の住む、ネグロス・オキシデンタル(西)の反対側、ネグロス・オリエンタル(東)の州都。西の州都バコロドが、人口50万を超える、比較的大きな街なのに比べ、ドゥマゲテは人口は約13万人余りとやや小振りで、私の住むシライとほぼ同規模。

つい先日、この風光明媚な地方都市が、フィリピン退職庁(PRA Philippines Retirement Authority )によって、「退職者に優しい、最優秀退職エリア」(RADAR Best Retirement Area Deemed as Retiree-Friendly)という、長ったらしい名前の選定を受けました。要するに、退職した人にとって、フィリピンで一番暮らしやすい街。

ここはアメリカやヨーロッパからの移住者も多く、また学園都市としても有名で、小学生ぐらいのお子さんを連れて、日本人の親子留学もよく聞きます。私もSNS経由で、何人かのお母さんや、この地で日本人向けの英語教室を経営されている方と、知り合いになりました。

ドゥマゲテ自体が魅力的な場所というだけでなく、各種リゾートへの中継地としても最適な立地条件。ドルフィン・ウォッチング船が出る街バイスへも、車で1時間。ここまで分かっていて、なぜ出かけないのか?

四国よりやや小さいサイズのネグロス島。西から東へなんて、そんなに遠くないのに、交通の便が絶望的に悪い。鉄道か高速道路でもあれば、せいぜい数時間の距離ながら、いわゆる「地道」を自家用車かバスで行くしか手段がない。しかも中央の山間部を抜けるので、自分で運転しなくても疲労困憊。


昨年は、ドゥマゲテまでの距離よりやや近くにある、ダンフガンというリゾート地に行ってきました。ずっと海岸沿いの比較的平坦な道ですら、4時間の移動でくたくた。これ以上の距離でアップダウンがあって、曲がりくねった道程だと思うだけで、気持ちが萎えてしまいそう。私にとっては、遥かなる楽園という感じです。

以前にも書いたように、多少高額でもいいから、小型旅客機ぐらい飛ばしてほしくなる。バコロド(空港はシライ市内)にもドゥマゲテにも、立派な空港があるし、ビジネス客の場合、少なく見積もっても2泊3日の旅行になってしまうところが、日帰りできるとなったら、利用者はいると思いますよ。

私など、バコロドからセブ経由でドゥマゲテに行こうかと、本気で考えたこともあります。例えてみれば、同じ四国で、香川県の高松から高知へ行くのに、大阪で飛行機を乗り継ぐようなもの。さすがにこのプランは高過ぎると、家内からの決済は下りませんでした。

そんな事情で、毎年、子供が夏休みに入る4月〜5月には、今年こそはと思いつつ、気がつくともう6年目。もたもたしている間に、せっかく友達になった日本人のお母さんたちは帰国してしまうし、何となくタイミングを逸してます。

ということで、フィリピンでNo.1の退職者に優しいとまで言われているのですから、10年早めの早期退職ながら、一応の退職者としては、来年こそ意を決して、ドゥマゲテ行きを敢行したいと思います。


2018年8月15日水曜日

8月15日


私は1962年(昭和37年)の生まれで、母が25歳、父が26歳の時の子供です。両親とも大阪の下町育ち。敗戦の1945年(昭和20年)8月15日には、小学校(当時は国民学校)の2年生と3年生でした。

東大阪にいた父は、大阪大空襲を目撃。母は学童疎開で、私の祖父の故郷、長野県にいたので、戦災を直接体験することはなくとも、戦中戦後の食糧難は身に沁みた世代。81歳の今も健在ながら、カボチャとサツマイモは、もう一生分食べたからと、口にしようとしません。

そんな親や祖父母、親戚、そして教師に至るまで戦争経験者で、夏休みの課題図書と言えば、空襲や原爆に関する書物が必ずあったという環境。嫌でも戦争については、子供の頃から考えさせられました。(ほとんどは被害者としてばかりでしたが)

やがて中学、高校になると、元来の読書好きということもあり、戦記物に接する機会が増えました。まさか50歳になってから自分が移り住むとは想像もせず、フィリピンでの、レイテ沖海戦やマニラ市街戦のノンフィクションも。高校の現国教師が元海軍の戦闘機乗り。その影響で特攻隊の本もずいぶん読みましたね。

自分が学生だった頃には、当然ながら子供視点。空襲で家族を失った記述でも、印象に残るのは親を亡くした戦災孤児。少し大きくなってからも、感情移入の対象は、二十歳前後で体当たり攻撃に赴かざるを得なかった、若い特攻隊員たち。

ところが、40歳を過ぎて、遅くに一人息子を授かってからは、見方が親視点に変わりました。何が辛いって、まだ幼稚園や小学校に通う子供を、戦火で亡くした親の悲しみを知るのは、本当に身を切られる思い。

広島の原爆で子供を亡くしたお母さんが、何十年経っても子供部屋を整理できず、いつ戻ってきても勉強を再開できるようにと、机も本もそのままで、毎日掃除している逸話には、今でも胸を締め付けられます。朝、元気に送り出した我が子が、行方不明。死亡時の状況を知るどころか、一片の骨すら見つからなかったそうで、生きていることを信じたくなる気持ちは、痛いほど分かります。

出征兵士の書き残した手記なども、最近では、その親御さんの心中に、思いを巡らせるのが常。ここネグロス島でも、8,000名もの将兵が、祖国に家族を残したまま、帰らぬ人となりました。

フィリピンでは、解放または戦勝記念日となる8月15日に、私の知る限り、政府や自治体による大規模な祝典やセレモニーを開催することはありません。ネグロスに住んでいると、かつて日本とフィリピンが敵味方に分かれて戦ったことも、忘れてしまいそうです。

とは言ってもフィリピンでは、今も内戦や爆弾テロがあり、戦闘による死者も出るのが現実。日本だって、国内外のきな臭い現状を見るに、どうなるか先の見通しは不透明。

この日には、フィリピンであろうが日本であろうが、自分の子供を「お国のため」に、戦地に見送るような事がなくなることを祈るばかりです。


2018年8月14日火曜日

止まない雨はないけれど

「止まない雨はない、とかじゃなくて、今降ってるこの雨が耐えられないっつってんの」という格言なのかボヤキなのか、よく分からないセリフを、最近ネット上で見かけました。おそらく天候そのものではなく、抑鬱状態に悩む人の心の中を代弁したものでしょう。

実際、鬱を体験した私には、この言葉は実感そのもの。気持ちが土砂降り状態の時に、一般論的な慰めは、まったく何の役にも立たないばかりか、余計に苛立ちを募らせたりすることも。

ところが最近の日本やフィリピンでは、頭の中ではない現実で、尋常ではない量の雨が、長時間に渡って降り続くという事態になっています。日本では言うまでもなく、平成30年7月豪雨と名前まで付いてしまった、西日本を中心に、全国各地に大被害をもたらした大雨。死者は220名に達しました。

そしてフィリピンでは、今現在(2018年8月14日)、マリキナ市を始めとするマニラ首都圏や、ルソン島各地で被害が拡大中の豪雨による洪水。

例年この時期、フィリピンではモンスーン(南西からの湿った季節風)が吹き荒れ、数日から一週間以上の雨が続くことは、珍しくありません。ここネグロス島シライの自宅、まさにこのブログを書いている書斎も、南側の窓から風が吹き込み、時折やや強めの雨がザっと通り過ぎたり。



出典:地球の風

それにしても、今回の雨は、さすがのフィリピンでも少々度が過ぎる感じ。マニラ周辺での洪水の酷さは、2009年に死者500名以上を出した、16号台風オンドイ以来最悪と言われ、連日ニュースでは、泥水に浸かった首都圏の街並みが報道されています。

オンドイ襲来時は、まだ日本に住んでいた私たち家族。実はフィリピン移住を強く後押ししていただいた日本人のMさんが、被害の大きかったマリキナにおられます。後押しと言っても、先方からプッシュがあったわけではなく、私がMさんのブログを拝見して、勝手にそう思い込んでいただけですが。

Mさんは年齢もフィリピン移住歴も、ちょうど私の10年先を行く先輩。同じようにフィリピン女性と結婚し、日比ハーフのお子さんもいます。

私がネグロスへ引っ越す数年前に、マリキナのMさん宅に一泊させていただいた時のこと。ちょうどオンドイの翌年だったので、被害の記憶も生々しく、2階建ての1階部分が長期間に渡って使用不能になったことや、掃除や後片付けに、どれだけ大変だったかなど、たくさんの経験談を話されました。

異常気象によって、夏場の高温や旱魃、それまでに例がないような大雨などが増加傾向なのは、どうやら日本もフィリピンも同様。Mさんからの教訓は、私のネグロスの自宅プランにも取り入れました。

つまり、当初は一部の部屋だけが二階にあった間取りを、ほぼ総二階に変更し、腰まで来るような大水でも、家財道具を上に避難させて、二階だけでもしばらくは生活できる仕様に。幸いにして、ここシライの自宅周辺では、この5年間にそこまでの出水はないものの、一応の備えをしたことで、多少なりとも気持ちは楽になりました。

それはともかく、ルソンでの雨。フィルスターの記事(Philstar)によると、今日も各地の学校は臨時休校。またABS-CBNの伝えるところでは、フィリピンの東海上にある三つの熱帯低気圧が、モンスーンを強める形になって、まだ大雨が収束する見通しが立たないとのこと。

まったく「止まない雨はない」なんて、ゆったり構えているどころの話ではなく、一刻も早い天候の回復を祈るばかりです。


2018年8月13日月曜日

お米の国の人だけど



出典:Rappler

欧米と比べて、日本人が東南アジア諸国に親しみを感じやすいのは、距離や顔つきの近似もさることなが、同じ米食文化だということが大きいでしょう。フィリピン料理が不味いと、文句ばっかり言う人だって、例えばアメリカの一般家庭にしばらく滞在していみれば、どれだけフィリピンの食べ物が、日本人にとって好ましいものかが分かるはず。

フィリピンに住んだり、フィリピン人と生活を共にする人には説明するまでもなく、どんだけ、お米大好きな人たちなんや、というのが実感。おかずは文字通りの副食で、とにかくたくさんのお米を食べるためにある。我が家でフィリピン人のお客さんを迎えて、日本式のカレーを振舞ったりすると、カレーは大して減らないのに、お櫃は見る間に空っぽ、なんてことがよくあります。

とまぁ、食べる方はともかく、田んぼのある風景は、私たち日本人にとってもお馴染み。特に収穫時期の田んぼでは、風に乗って来る、あの懐かしい香りを感じるだけで、心が安らぐ。ちなみにネグロスは、耕作地の大部分がサトウキビ畑なので、田んぼを見るには、かなり山奥に行かないといけません。

フィリピンで稲作というと、何と言っても有名なのはコルディリェーラのライス・テレス(Rice Terraces of the Philippines Cordilleras)。私はまだ実物を見たことがありませんが、写真だけでも、さぞかし大変な労力を費やして作られたんだろう思います。2000〜3000年も前から、山岳民族のイフガオ族によって、ここで営々と米作りが続けられ、1995年にはユネスコ世界遺産に指定されました。

ところが意外にも日本の場合、こうした棚田より、広々とした平野に水田を作る方が、技術的にはずっと難しいんだそうです。

日本で生まれ育つと、ちょっと田舎へ行けば水田風景があるのが当たり前で、あまり深く考えたことはありませんが、まず田んぼは、かなりの精度で平坦でないといけません。しかも、田植えの時には水を張り、中干しや稲刈りの時には水を抜く。地面を平らにするだけでなく、田に水を引く治水や排水が必須条件。

街中に残ったような、狭い田んぼならまだしも、新潟や秋田の広大な田園地帯など、想像するだけで気の遠くなるような大規模工事。

日本では農業土木というカテゴリーがあるのに、英訳すると Agricultural Engineering 農業工学になってしまうそうです。農業だけのための土木、という概念自体が、日本的な発想。つまり、熱帯地方やそれに準じる場所での、自然の状態で雨季と乾季がある天候(フィリピンのような)を、日本では「土木工事」によって、再現してやる必要があったわけです。

こう考えると、同じようにお米の国であっても、手間も時間も、並大抵ではない努力で、やっと年に一回の収穫を得られる日本(沖縄や鹿児島、高知を除く)と、(比較をすれば)少ない労力で、普通に二期作・三期作ができるフィリピンでは、お米に対する考え方が違うのも当たり前。

そのせいか、フィリピンの人たちは、お皿や炊飯器に残った米粒をきれいに食べるという習慣(というか躾?)は、あまりない。おにぎりを作った後、しゃもじについたお米まで食べていると、メイドのライラに笑われてしまいました。私が子供の頃など、お茶碗に米粒を残したりしたら、母親の鉄拳制裁でしたからね。

ここからは、きちんとした学術的な根拠もない、私の空想ですが、食扶持を得るための苦労を、何千年も続けているうちに、現代日本人の異常なまでに将来についての心配性が、気質として根付いてしまったんじゃないでしょうか。

教育にしても貯蓄にしても、あるいは労働観にしても、現在を犠牲にして将来に備える。今我慢して、いずれは笑って暮らそう、というような。しかし残念なことに、今の日本人は、その笑うべき将来を迎えないまま、我慢と苦労だけの人生で終わる人が、少なくないなぁ。

ということで、今日はちょっと真面目に、日本とフィリピンの米食文化について考えてみました。


2018年8月12日日曜日

私は田舎の有名人

公称、人口12万人のシライ市。西ネグロスの州都バコロドが50万都市なので、ネグロス島の中ではそこそこの規模。日本で人口12万人台の都市を調べてみると、東京都内では国分寺市が約12万3千人。有名な会津若松市(福島県)が約12万4千人。大阪府下では、私が勤務していた会社があった門真市(約12万3千人)があります。

ただしシライの場合、西側は海で東は山、南のタリサイ市、バコロド市や、北のビクトリアス市の間には、延々と続くサトウキビ畑が横たわっているので、日本のように近隣の市街地と、どこに境界線があるのか分からないのとは、だいぶ違います。

また市外から労働者がおおぜい通勤してくるような、大きな事業所がそうあるわけでもないし、ショッピングモールで働く人たちも、シライ市内在住者が多い。

さらには、山間部のパタッグやランタワンは、交通の便が悪くて、毎日平地にある職場に通うのは、自家用車でもないと難しい。学校は山の上にもあるし、日々の生活はそっちで完結してしまいます。

つまり、ちょっとした陸の孤島なので、街中を歩いている顔ぶれに、ほんとんど年中変化がない。観光客もいるにはいますが、結構「よそ者」って分かっちゃうぐらい。

こういう土地に外国人が移住してくると、そりゃあ目立ちます。まぁ、日本人である私の場合、白人や黒人ほど体格に差があるわけでもない。中国系メスティーソで通らない顔つきでもないけど、やっぱりスーパーで買い物したりすると、日本人だとバレますね。

先日、日本からの来客で、シライ市内では数少ない観光名所のバライ・ネグレンセ(築100年を超える、スペイン統治時代の富豪の邸宅を、博物館として保存)に行った時のこと。ここでは、シライ出身の現役大学生が、ボランティアとして説明員を務め、大学側もそれを単位として認めるという制度があります。


バライ・ネグレンセの二階室内

そんな女子大生説明員が、私の顔を見るなり「ミスター○○ですか?」と、私の本名で声をかけてきました。ご近所さんだったら、通り名のフランシスと呼ぶはずだし、全然見た事ない相手だったので、かなり驚いた。

なんで名前知ってんの?と訊いたら、息子と同じ学校、聖テレシタ学院に通っていて、息子のことを知っていたから。テレシタ学院は、小・中・高の一貫校。最近まで高校生だったんでしょうね。


3名いた説明員は全員女性で
お揃いの民族衣装でした。

それにしても、息子はこんな上級生にまで顔が知れるほどの有名人だったのか。日比ハーフながら、思いっきり「日本人顔」で、私と血縁関係があると丸わかり。学外の公開模試などで何度も表彰されているので、ファンも多いらしい。特にかなり年上の女子生徒に人気だという噂も。

今までも初対面の人から、近所で散歩してましたね、とか、パラワン・エクスプレス(送金や受け取りができるノンバンク系の金融機関)で見かけましたよ、なんて言われて、まるで衆目監視状態。今度は息子経由で身元が知られるのか...。

マニラ首都圏やセブなら、全体の人口が桁違いだし、外国人も多い。自分で言うのも何ですが、中肉中背で、外見上の特徴に乏しい私など、そんなに目立たない。人が少なく、長閑な地方都市に暮らす、一種の税金みたいなものでしょうか。

可愛い女の子に声をかけてもらえる程度だったら、俺も有名人だと喜んでいればいいけれど、フィリピンの場合は、日本人=金持ちというステレオタイプがいまだに根強い。あんまり悪目立ちしたり、誰かの恨みを買うと、本当に拳銃を持った馬鹿が、自宅に押しかける可能性もあります。

以前にも冗談めかして書きましたが、これはそろそろ本気で銃器を購入して、武装することを考えたほうがいいのかも知れません。


2018年8月11日土曜日

ブログで学ぶイロンゴ語「耳に付く言葉」


ページ・ビューがイマイチ伸びない、イロンゴ語のお勉強。先週は来客対応で一回飛んでしまいました。こういうことがあると、つい自分に言い訳してしまって、それっきりの尻切れトンボの原因になるんですよ。とは言え、期待している人も若干はおられるようなので、頑張って再開したいと思います。

今日は、まったくイロンゴが分からない状態でも、会話の中に頻発して耳に付く言葉を集めてみました。ある程度その言葉を理解できるようになると、なかなか思い出すのが難しいけれど、移住して5年以上経っても、いまだに片言しか聞き取れない私なもので...。

まずは、Sige シゲ。これ本当によく聴きますね。タガログと共通で、相槌のようなもの。「うん、それで?」みたいな感じ。シゲ・シゲと連発されると、昔のテレビ番組「レインボーマン」で主人公が戦った悪の秘密結社「死ね死ね団」を思い出して仕方ない。今にして思えば、世界征服が子供向けヒーロー物の定番だった時代に、世界から日本人を抹殺するのが目標という、超ユニークな団体でした。

Tapos タポスは、終わり。Tapos ka panyaga? タポス・カ・パニャーガ?(お昼ごはん、済ませた?)なんて使い方します。ところが電話などで、一つの話題が終わって次の話になる時などにも、タポ〜スと入れたり。「それはさて置き」みたいなニュアンスなんでしょうね。

そして、タガログでの Talaga タラガ。イロンゴではちょっと違って、Tuod トゥオッド。関西弁なら「ほんま〜?」ってところでしょう。日本人の場合、人によっては「うそ?」と言うかも知れません。疑いよりも驚いたり感心したりする時に使うことが多いようです。

フィリピン関係者には、おなじみの Di ba ディ・バ(でしょ?)は、イロンゴでは Di bala ディ・バラ、となります。

Lang ラン、もタガログ同様によく使いますね。Kumsta? クムスタ(元気?)と訊かれて、元気だよと言うのが、OK lang オーケー・ラン。 私は、イロンゴが喋れるの?と言われると、 Dyotay lang ジュータイ・ラン(少しだけ)、と返すのが常。

義父の口癖が Linti リンティ。これはあまり上品な言い方ではないらしく「クソッ」という感じ。家内によく言われたのが Damak Mo ダマック・モ。あなた、汚いよ、という意味。疲れてシャワーも浴びずに寝ようとすると、必ずこのフレーズが。最近は、子供に対して使ってます。

毎週日曜日の教会でのミサ。お祈りや聖歌は英語でも、説教はどこのカテドラル、チャペルでも必ずイロンゴ。そこでよく聴くのが、No ノ(英語のノーではない)。センテンスの最後に、....ノ、....ノ。と、ちょっと語尾を上げてくっ付ける。最初はその神父さんの口癖かと思ったけれど、何人かの人が同じように言う。まぁ、敢えて和訳すれば、「ね?」「でしょ?」みたいなものか。

ということで、今日は、イロンゴを喋るフィリピン人同士の会話で耳に付く、気になる言葉でした。それでは最後に、西ネグロスに限らず、全フィリピン人がびっくりした時に叫ぶ言葉。

Ay! アイッ!


私的フィリピン美女図鑑 バスケのリナ

今回モデルになっていただいたのは、バスケットボール女子のフィリピン代表選手。と言っても、テレビや写真で見ただけの、会ったこともない女性ではなく、親しい友達のお嬢さん。

母親のダイアナさんは、ネグロス出身フィリピン人の友人として、時々このブログでも書いています。バブル期に初来日した出稼ぎ労働者で、日本人男性と結婚してそのまま日本に留まったというのは、よくある話。

日本に住む、その他多くのフィリピン人と違うのは、ビジネスの才覚があって、しかも義侠心の塊のような女性だという点。自分で商売をして、年末調整までこなす強者。秋田県在住だったのに、震災で苦境に陥った同胞を助けるために、福島県に引っ越したというから、すごいですね。

他にも、日本国内のフィリピン関係催事に協力したり、フィリピンで困っている日本人の相談に乗ったり。国籍に関係なく、こんな人物はなかなかお目にかかれるものではありません。まさにフィリピンと日本をつなぐブリッジ・パーソン。

そのダイアナさんは、日本人を父に持つ、4人姉妹のお母さん。まだ小学生で日本で同居する末娘以外は、ここネグロスで高校や大学に通い、三番目のリナさんが、今日のモデルというわけです。

リナさんは、バスケットボール、アンダー16のフィリピン代表。バスケが国技と言ってもいいぐらい盛んなこの国。ここシライ市内でも、道端のヤシの木などにバスケットを付けての、ストリート・バスケをよく見かけます。なので選手の層も厚い。そこからのフィリピン代表ですから、これはお母さんに負けないレベルのすごさです。

先日、ダイアナさんの帰省時に、バコロド市内のホテルでランチをご一緒した時に、リナさんにもお目にかかりました。さすがバスケ選手。背が高いし体格がいい。それだけでなく、当然ながら普通に日本語を使い、わずかな会話ながら、私のような関西弁のオっさんにも物怖じせず、はっきりと自分を主張する姿勢には感心しました。とてもティーンエイジャーとは思えないほど。

そして、美女図鑑に登場いただくぐらいだから、美人です。しかも、フェイスブックのタイムラインを拝見するに、ファッションモデルも兼務。そりゃそうですね。スタイル抜群でトップ・アスリート。エクボが可愛い日比ハーフならば、周囲が放っておかないでしょう。


というわけで、今日のイラストは、7月にマレーシアのクアラルンプールで開催された、アセアン学生スポーツ選手権(ASEAN Schools Games Malaysia 2018)での優勝を祝して、リナ姫に捧げます。背景はフィリピン代表を意識して、国旗をあしらってみました。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

2017年

2018年


2018年8月10日金曜日

るんるんメイド


我が家史上初の、通いにしてオバちゃんメイドのライラ。カトリーナ、アミー、ジャジャの3名がティーンエイジャーで、4月まで働いていたネルジーが26歳。一挙に最高齢記録を更新する43歳の卯年生まれ。

面接の時からよく喋るし、明るく賑やかな人なのは分かっていました。我が家にもすっかり慣れた最近は、それに加えて、また違う側面が垣間見えます。外見は肝っ玉かぁちゃんながら、愛嬌があると言うか、すごく可愛い性格なんですよ。

働き始めてすぐに分かったのは、大の音楽好き。初日からダイニングに置いてあるラジオを目敏く見つけて、お気に入りのFM局を自分で選局。鼻歌交じりに家事開始。英語でもOPM(Original Philippine Music フィリピノ語のポピュラー音楽)でも、レパートリーは実に幅広い。多分カラオケに行ったら、マイクを離さないタイプでしょうね。

それだけならフィリピン人によくあるパターン。ちょっと違うのは、日本に行ったこともないのに、時々日本語の歌が混ざる。やっぱりお爺さんが日本人だったからか、それとも単に日本の音楽が好きなのか。

大抵は、なんちゃってのハナモゲラ日本語なので、原曲が分からない。その中で一曲かなりちゃんと覚えているのが、高橋真梨子さんの「For You」。台所で鍋を洗いながら「あな〜たが〜、ほしぃ〜〜」と熱唱するもんだから、大笑いしてしまった。一体、どこで覚えてきたんだろ。


先日は、息子と家内にお弁当を届けに行って、何やら大きな袋を担いで帰ってきました。サンタクロースの真似するには、いくらなんでも早すぎるぞ。得意満面の表情で、玄関先で袋を開けると...。

出てくる出てくる、男物のスニーカーやら、女性用の服などなど。一体どうしたのと尋ねたら、同じ宅地内に住むアメリカ人牧師の家で大掃除でもしたようで、門の前に、大量のゴミが出してあったんだそうです。ゴミと言っても、ちょっと汚れてるぐらいで、どれも十分使えるレベル。さ〜やん。(Sayang フィリピノ語で「もったいない」の意)

もちろん黙ってかっぱらったのではなく「ちゃんと、許可を得てますからね!」と力んだ返答のライラ。貰って来るのは構わないけど、ウチのメイドだって身元をバラすなよと苦笑い。その日仕事が終わった後は、家族へのお土産ができてよっぽど嬉しいのか、もうスキップしそうなほど「るんるん」と帰って行きました。

そんなライラを見てつくづく思うのは、国籍・性別・年齢など関係なく、可愛げのある性格って本当に得だなぁということ。同じような言動でも、可愛げを感じさせるのと、そうでないのとでは、受け取られ方が正反対。

かれこれ20年ぐらいのフィリピンの人々との付き合いを通じて、フィリピンの国民性の一番の特徴は「可愛げ」なんじゃないかと感じてます。


2018年8月9日木曜日

1000回目の「ネグロス島永住日記」


2013年の10月31日から書き始めた当ブログ。この投稿が通算1000回目。まぁ、よく続いたものですね。1000回と言えば、毎日書いても3年がかり。平均すると2日に1回で、約5年で1000回到達。

私たち家族が、ここネグロス島のシライに引っ越したのは2013年の4月。すでに、その10年ほど前に自宅建設用の土地は購入済みだったし、日本人建築家に依頼した設計図まで出来てました。本当はすぐにでも着工したかったところ。

しかし何事も、予定通りには進まないのがフィリピン。シライ市の建設関連部門に勤務の義弟に頼んでいた、現地役所への申請用図面の手配や、大工さん集めが全然進まない。「やるやる詐欺」状態で数ヶ月が経過。さすがの家内もブチッと切れて、自分たちで動き始めたのが、8月あたり。

まぁ、最初の頃は私のビザや子供の学校手続きなど、いろいろと忙しかったので、義弟が段取りよくやってくれても、そんなにすぐ建設開始、とはならなかったでしょうけど。

なんだかんだで、建築許可が下りて、信頼できそうな大工さんが集まったのが10月。ようやく見通しが立って思いついたのが、備忘記録も兼ねてのブログ投稿。「永住日記」などと大それたタイトル付けてますが、本来は「マイホーム建設日記」とでもするべきもの。

最初の方の投稿は、こんな感じ。

ネグロス島 移住半年が過ぎました。
フィリピンで家、建ててます
これがフィリピンスタイル

と、平和に始まったはずの工事が、いきなり暗転して、スーパー台風ヨランダの来襲。

台風襲来前夜
ようやく電気、ネットが復旧
工事再開初日

しかし、その後は(フィリピンにしては)順調に推移して、翌2014年の1月末には上棟式
内装がほぼできた4月に、完成を待たずに引っ越し。(フィリピンではよくある話)そして、6月にめでたく竣工。そこでお終いにすることもできましたが、この時点で8ヶ月も続いていたブログ。そこそこ読んでいただいている方もいるようだし、私自身が面白くなってきました。

そこからが言ってみれば、このブログの本番。近所で活動する日本のNGOに喧嘩を売ったり、家内がメイドがクビにしちゃったり。やがて身の回りのネタが尽きてきたので、「奥さまはフィリピーナ...か?」と題した10回シリーズで、私とフィリピンとの出会いを延々と投稿。

最近では、「日本・フィリピン交流史」なんて、9回シリーズの歴史物にも挑戦。これは反響が大きくて、私自身もずいぶん勉強になりました。

そして現在も連載(?)が続く、「私的フィリピン美女図鑑」。フィリピン美女の似顔絵イラストを描いているわけなんですが、毎回期待している読者もおられて、止めるに止められない。(もちろん私も楽しんでおります。)

この頃は、一種のエンターテイメントだと思って書いていて、硬いのやら柔らかいのやら、織り交ぜております。当初は敢えて避けていた、政治・宗教・歴史関係もガンガン投稿。今では「ネグロス島」でググれば、だいたい最初のページに表示されます。

何より、これを書いてて良かったのは、はるばるマニラや日本から、ブログの読者が会いに来てくれること。それも同年代の方だけでなく、性別や年齢もさまざま。二十代の若い女性が多いのも嬉しい限り。

ということで、まだしばらくは続きそうな「ネグロス島永住日記」。次の1000回までやってるかどうかは私にも分かりませんが、引き続きのご愛読を、よろしくお願いしますね。


2018年8月8日水曜日

兄妹天使


前回に続き、またまた日本からの来客、マダムMのお話です。

マダムMは、ご本人もたいへんチャーミングな方なのですが、今回同伴のお二人のお子さんが実に「天使」な兄妹。少々汗臭くてゴンタ(関西の方言で、やんちゃな子供の意)な小二と幼稚園児ながら、一人息子がもう来年中学生というタイミングの私には、昔を思い出させる存在でした。

初対面でも「抱っこしたろか?」というと、二人ともニマ〜〜って笑うし、近所にお化けがおるから、今日の晩、見に行こか? なんて訊いたら、本気で怖がる。この素直でスレてない感じは、本当に久しぶり。

どんな国でも、このぐらいの歳の子供を連れて歩くと、周囲からの視線が温かくなるもの。その余禄で、保護者への待遇も格段に良化。特にフィリピンの場合は、この傾向が著しい。朝の散歩で「あの人にマアヨン・アガ(おはよう)って言うてみ」と仕向けると、言われた相手はもう溶けそうな笑顔を返してくれます。

日本の場合、ベビーカーで電車に乗ったら、いくら混雑してるからと言っても、露骨に嫌な顔をされるなんて、やっぱり普通の国ではないですね。

さて、天使とは言っても、2歳しか違わない二人は、しょっちゅう喧嘩はする、ものは落とす、食事時など大騒ぎ。それでも親ではない無責任な立場。お叱り役をママに丸投げして、自分だけ「近所の優しいオっちゃん」を決め込むという、楽チンなポジションを取らせていただきました。ごめんなさいね、マダム。

たった3泊4日の間でも、よく笑ったしよく泣きました。月曜日が、たまたま義母の命日で、家内と息子、義父たちと一緒に教会での夕方ミサの聖体拝領。信徒一人一人が、聖餅(せいへい、キリストの体を模した、小さな煎餅みたいなもの)を頂いた時。信徒ではないマダムM母子は、当然ながら頭を下げて、神父さまの祝福を受けるだけ。

妹くんは、それがとても残念だったようで、しばらくの間「せんべい、食べたかった〜」と半べそをかいてました。このぐらいの子供に、聖体拝領の意味を教えても納得してくれないしね。

と書くと、どんだけ子供好きかと思われそうですが、実は私、自分の子供が生まれるまでは、かなりの子供嫌い。正直に白状しますと、電車の中やレストランで赤ちゃんに泣かれたりしたら、顔には出さないけれど、ずいぶん辛かった。

ところがエラいもので、我が子を一通り面倒見たら、なぜ辛かったのかを思い出すことすらできないほどの変わりよう。意図的ではないにせよ「子供との接し方」みたいなものを会得。

ポイントは、子供を大人扱いして話す事と、方言(関西弁)を使うこと。本気でボケとツッコミを演じれば、大抵の子供は面白がります。相手がフィリピンの子供でも、言葉の調整は必要ながら、基本姿勢は同じでOK。

ということで、我が家に幸せを運んでくれた、兄妹天使。来年の夏休みも、オッちゃんは待ってるで。もしお母さんが行かないと言っても、道に大の字に寝転んで「フィリピンにいきたい〜」ってゴネるんやで。


2018年8月7日火曜日

マダムMとレディM


前回投稿の続きです。

土曜日の深夜からの3泊4日。我が家に滞在していただいた日本からのお客さん、マダムMと二人の子供たちは、今日火曜日の夕刻、次の訪問地セブに向けて飛び立って行きました。過ぎてみればあっと言う間でしたね。

家に着いたのが1時半の午前様で、大人も子供もお疲れモード。当初予定していた、みんなで日曜朝の教会でのミサ参列はさすがに無理で、ちょっと遅めの朝食の後、我が家のある宅地「セント・フランシス・サブディビジョン」内をゆっくり散策。

木曜日からの大雨は、フライト到着前後だけ止んだけれど、またも朝方までぶり返しの豪雨。これは今回、マダムのシライ滞在はずっと雨かと半ば諦めていたら、ちょうど散歩でに出ようとした頃に雨脚が弱まり、散歩から帰ってきた時には、持って行った傘はたたんだ状態で持ち帰り。さすがは自称・晴れ女のマダムM。(ただしフィリピン国内限定なんだそうです。)

昼食は、シライ郊外にある、フィリピン離れしたずいぶん洒落たレストラン。(ここについて詳しくは、以前投稿した「ネグロスの隠れ家的レストラン」を参照ください。)トロピカル・ガーデンにダイニングセットを並べたような設えなので、大雨だったらキャンセルしかないと思ってました。ところが、ここでも晴れ女パワーが威力を見せて、約2時間半のゆったりしたランチタイムの間、一度も傘は使わず、途中からは薄日も。



期待通りのサービスだったし、料理も美味しかった。おまけにずいぶん広いスペースに、お客さんは3〜4組なので、子供たちが少々走り回っても大丈夫。こういうところが子供に寛容なフィリピン。大人も子供も、大満足でした。

食後は、できるだけ地元の人の生活を、リアルに感じられるところを子供たちに見せたい、とのご要望に沿って、食事の材料を買いにシライ市の公設市場へ。やっぱりフィリピン体験の最初が、シキホールでの2年にも渡るボランティア活動だったというマダムらしい。

帰宅後は地元の食材を使っての、夕食の支度。我が家ではよくあるパターンで、お客さんにもお手伝いしてもらう、参加型おもてなし。今回は、春巻き包みをお願いしたところ、さすが現役子育て真っ最中の主婦、私がやるよりずっと上出来に、形が綺麗に揃ったルンピア(フィリピン風春巻き)が完成。


準備が整った夜7時には、セブ在住の同じく日本人の友達で、ネグロス生まれのフィリピン人ボーイフレンドと、隣街バコロドに帰省中だった、レディ・M(たまたま同じイニシャル)が、たくさんの手土産持参で合流。彼女は以前に似顔絵のモデルにもなっていただいた方。

こうして、フィリピンとの縁浅からぬマダムとレディの両手に花状態で、50代の半ばを過ぎようというアラ還親父は、たいへん幸せなディナータイムを過ごすことができました。調子に乗って、喋り過ぎたぐらい。

ということで、マダムMのシライ滞在、次回に続きます。


2018年8月6日月曜日

晴れ女、マダムMの訪問


またまた、このブログが縁で知り合った日本からのお客さんが、ネグロス島の我が家にやって来ました。若い頃にフィリピンでのボランティア活動でこの国に2年住み、英語もタガログ語も、その上ビサヤ語にまで堪能という女性。夏休みを利用して、小学生と幼稚園児のお子さんを二人連れての来比です。

私より干支が一回り若い、年の離れた妹といった感じですが、人生経験値の幅や深さは、私のそれよりも上回ってるんじゃないかと思うほど。度胸も据わってるし周囲への気配りもできる。これだけ能力も才能もある人が、なぜ日本に住んでいるのかが不思議なくらい。仮にお名前はマダムMとしておきます。

このマダムM、フィリピン・ネグロス島との深い関わりという点で私と共通項があるだけでなく、生まれ育ちが同じ兵庫県で、出身大学も関西の美術系。フィリピンにて知り合った日本人はたくさんいますが、この三つが重なった人というのは、他にはいません。超ピンポイントの奇跡的なレベル。

約1年前、フェイスブックでお互いの存在を知り、私の方からメッセージをしたところ、先方もブログを読んでくれてました。それから、そこそこ頻繁にネット上でのやり取りが続き、4ヶ月ほど経った今年(2018年)4月に、他のもう一人と共同運営で、フィリピン関係者のためのコミュニティ「フィリピン主婦/主夫の友」を立ち上げた次第。

そして昨日の深夜(正確には本日早朝)、満を持してのオフ会が実現したという訳です。ネグロス到着が深夜になってしまったのは、フィリピンではお約束の、マニラ〜バコロド・シライの国内便の大幅遅延のため。日本からの長旅、お疲れさまでした。

ところでマダムMは、自称晴れ女。それもどうやら伊達ではないらしく、到着直前までの大雨が、フライト到着を見計らったようにピタリ。私が迎えに行く頃には月も出て、風は穏やか。どうもネグロスを司る女神さまも、マダムMの晴れパワーに敬意を払っているらしい。

翌日の日曜日は、またもや降り出した雨が、みんなで散歩にでようとすると小雨になり、最初はさしていた傘も途中から不要に。近くのレストランでの昼食から、戻るまで、曇りがちながらも、時折雲間から陽の光も。

ところが帰宅したとたんに、またもや大雨。ここまでくると、マダムを雨に濡らさないよう、天の配慮があるような感じすらするほど。ということで、到着から初日は、子供たちも元気一杯で、シライ滞在を楽しんでいただいている様子。

お客さんは火曜日まで、合計3泊我が家におられる予定で、次回もマダムMの動向をお伝えします。


2018年8月4日土曜日

逆カルチャーショック


ヤフーの天気予報によると、今日(2018/8/4)も私の実家がある兵庫県尼崎市では、当たり前のように最高気温が摂氏35度以上の予想。ところがネグロス島のシライでは、ここ三日間雨の続き、昨夜などは扇風機も不要で、就寝時に窓を開けたままだと風邪を引きそうなぐらい。

メイドのライラは体調崩して1日休むし、出歩く人の格好は上下長袖・長裾でジャケットやウインドブレイカー着用の人が多い。おそらくこっちの年間最低気温を記録したんじゃないかと思います。風も強いし、体感温度は20度以下かも知れない。

最近フィリピン・日本の逆転現象は、天気だけではありません。前回の投稿でも少し書いた通り、ここ何年かのフィリピン経済成長はすごくて、地方のネグロスでも建築ラッシュ。マンションや巨大ショッピングモールは言うに及ばず、日本人の目からすると衛生的とは言えなかった、公設市場がリニューアルされたり、幹線道路の橋が車線増に伴って架け替えられたり。

こうなると、住んでいる人の意識や感覚も変わって当然。

州都バコロド出身で、もう日本に住んで30年以上というフィリピン女性の友達がいます。彼女がフェイスブックで、日本では一回の食材の買い出しで、1万円ぐらい使ってしまうと投稿。思わず私は、ネグロスの公設市場で買ってれば、1万円は1ヶ月分だよ、とコメントしました。

彼女は4人姉妹の母。末の娘さんだけは日本で同居してますが、上の3人はネグロスで大学や高校に通学。コメントへの返信として、ネグロスにいる子供達への仕送りの、食費1ヶ月分が3万円というから、こっちが驚きました。いくら食べ盛りとは言え、家族3人の私たちよりかなり高額。

半分冗談で、ジョリビーやイエローキャブ(ファーストフード)に行きまくってるのと違う?と返すと、外食費は別なんだそうです。よく聞くと買い物はSM(最高級のショッピングモール)ばかり。公設市場は一度スリにあって怖くて行けなくなったとか、臭いがダメだとか、まるで初めてフィリピンに渡航した日本人観光客みたいな反応。

でもこれって、この友達だけが特別なわけでもなく、15年間日本に住んで家内が、ネグロスに移住するとなった時に、「カウンター(逆)・カルチャーショック」だと言ってました。やっぱり生活感覚って、フィリピン人であろうが日本人であろうが、便利な方や清潔な方にはすぐ慣れてしまうんですね。

私の場合、さらにその逆で、もう5年もフィリピンに住んでいると、良くも悪くもこっちに感覚が順応同化。なので、たまに日本に帰ると、当たり前のことに驚いたり感動したり。

特に店舗や交通機関での、度外れて丁寧な接客態度には恐縮することしきり。客単価千円もしないようなレストランで、一泊数万円もするような、ホテルのコンシェルジェ並みの受け答えを経験しているようなもの。コンビニのバイトさんに、こっちが気を使って敬語を連発してしまいました。


2018年8月3日金曜日

フィリピンの悪いとこ取り


このブログで時々取り上げている、ここ何年かの日本の惨状。昨日は、東京医科大学が入学試験で女性受験者のみ一律に減点していたという、信じられない不正が発覚。しかも他の大学でも、女性の合格率が不自然に低いとの情報まで。

内閣総理大臣を筆頭に、政治家、官僚が嘘を吐いたり公文書を偽造したり、あるいは差別意識に基づく暴言を撒き散らしたり。今回は日本大学トップによる犯罪教唆や脅迫に続き、教育機関の腐敗まで晒してしまいました。

もうずいぶん前から問題になっている、企業による明らかな労働基準法違反と、その結果の過労死も含め、そこに通底するのは、憲法を含む基本的なルールの恣意的な解釈、あるいは公然たる無視、そしてそれに対して何らの羞恥も感じない、組織責任者のモラル崩壊です。

バレなければ構わないだろう、というのも悪質ですが、最近では不正や犯罪が指摘されても開き直ったり、あろうことか、さらに嘘を重ねて言い逃れをした挙句に、本来それを取り締まる警察や司法までが、揉み消しに加担。その上救いがないのは、大手の新聞やテレビ局さえが意図的に報道しなかったり。

少し前に、このブログでも指摘したことの繰り返しになりますが、基本ルールの無視とモラルの崩壊って、50〜30年前のフィリピンで起こったの同じことです。悪名高いマルコス元大統領は、憲法すら自分の都合の良いように停止できる戒厳令を悪用、事実上の独裁によって、一つの国を完全に私物化。

この20年に及ぶ暗黒時代、政界も財界も骨の髄まで腐ってしまい、贈収賄や横領、政治家自ら犯罪者との癒着で、違法薬物は国中に蔓延。国家としての信用は地に落ちました。革命から30年以上も経過した現在、やっと後遺症を払拭できそうなリーダーが登場したものの、改革の道はまだ半ば。

フィリピンのことを後進国だの、民度が低いだの、何かにつけて見下している日本人に言いたい。過去のフィリピンで起こったことが、まるで悪いとこ取りをする如く、日本で起こっています。しかも、この期に及んで、まだ日本が豊かな先進国で、世界一マナーのいい国だと、思い込んでいる人が少なくない。

先月にこの場で少し触れた、日本の生活保護。受給者が216万人もいるのも驚きながら、捕捉率が2割未満。つまり実際には1千万人が、生活保護を受けて然るべき貧困状況にあるということ。大雑把に言っても今の日本では、10人に1人かそれ以上の人が貧乏なんですよ。

日本の貧困の定義は、いわゆる「相対的貧困」(所得が社会全体の中央値の半分以下)で、フィリピンなどの「絶対的貧困」よりすっとマシだと言われるかも知れませんが、子供に与える精神的なダメージは、より深刻と考えられています。

日本に貧困の子どもなんて本当にいるのか?

それでも半数近いの国民が、現内閣を支持している(NHKのよる調査結果)というのが不思議で仕方ありません。まるで政権発足当時のマルコス人気を見ているよう。あれだけフィリピンをぶっ壊したのに、マルコス時代を懐かむ人がいたり、その妻や子供が現役の議員だったり。

つい最近、1960年代の西ネグロスの州都バコロドの街並みを撮影した、カラー写真を見る機会がありました。実にのどかで美しい場所だったんですね。ところが私が最初に訪れた1990年代の半ばは、市の中心部ですら荒れた感じで、市役所前の広場には、夜間薬物中毒患者が徘徊し、危なくて散歩もできない有様。

最近の経済成長のおかげで再開発が行われ、ようやく州都らしき佇まいを取り戻しつつあるバコロド市。1970年代から40年を経ての復興と言えるでしょう。

日本経済のバブル崩壊以降は、「失われた10年」「20年」などと言われます。経済を復興させるのも並大抵のことではありませんが、ルール尊重の気風やモラルって、一旦失われてしまうと、数値で確認できないだけに、反面教師としてのフィリピンを見るまでもなく、その再建は経済以上に大変そうです。


2018年8月2日木曜日

元気ドリンクはスポーツ用?

日本市場発祥の商品は数あれど、私が現代の日本を象徴すると思うのが、元気ドリンク。「元気」なる名称が定着したのは、おそらく1980年代のバブル期でしょうか。その前は、強壮剤とかアンプルと呼ばれていたような気がします。

日本人なら知らない人はまずいない、ユンケル皇帝液とか、リポビタンD、アリナミンV、リゲイン...等々。清涼飲料水として販売されているものも含め、軽く100種類以上はあるようです。昔は「24時間戦えますか?」なんて、今考えたら過労死を煽るようなキャッチャフレーズもありました。ウィッキペディアでは、元気じゃなくて栄養ドリンクという分類になってますね。

疲労回復に効果があると、思っておられる人もいるでしょうけど、眠気覚しや栄養補給にはなっても、実はカフェインで、疲れを麻痺させるだけなんだそうです。年に何回もない、超重要業務の締め切りに追われ、今晩乗り切ったら数日はゆっくり休める、なんて状況には向いてるかも知れませんが、日常的に過剰摂取すると健康に悪いどころか、中毒によって死に至るケースも。

栄養ドリンクに、疲労を取る成分は一切入っていない

この元気ドリンク、フィリピンではエナジー・ドリンクのカテゴリーで販売されていて、おそらく1970年代に日本から輸入された始めた、リポビタンD(Lipovitan)が元祖。私の年代だと、元ジャイアンツの王貞治選手を起用したCMを思い浮かべそう。もう少し若いと「元気一発」になるのか。販売開始は何と私の生まれた昭和37年。



でもフィリピンのエナジー・ドリンクは、疲労回復もさることながら、どちらかと言うと、スポーツドリンクとして販売されているようです。試しに Energy Drink Philippines で検索したら、コブラやモンスター・エナジーなどの現地でよく見かけるブランド以外に、日本ではスポーツ用として知られたゲータレードもヒットしました。


出典:Pinoy Fitness


出典:Hangover price



そもそも、定時以降にオフィスに残る人なんて、滅多にいないお国柄。深夜業務のための眠気防止と言うと、夜行バスや長距離トラックの運転手、あるいは、ナイトライフ系に従事する労働者。この場合、元気ドリンクなんて生易しいものではなく、シャブ(覚醒剤)依存になってしまいかねないのがフィリピンの怖いところ。

なので、そっちの連想をさせてしまうと、商品イメージがガタ落ちなので、スポーツ向けにせざるを得ないのかも知れません。

ということで、日本でもフィリピンでも、本当に疲労を回復させたければ、十分な食事を摂って日付が変わる前にトットと寝ることです。最近の私など、つい油断してパソコンやスマホで就寝時間が午前1時とかになると、翌日がてきめんにダルい。ということで、もう寝ます。皆さま、お休みなさいませ。


2018年8月1日水曜日

私的フィリピン美女図鑑 愛しのフィリピナ花嫁

早いもので、もう八月になってしまいました。日本では相変わらずの酷暑が続く、夏真っ盛り。子供の休みやお盆ということもあり、今月は炎熱の日本を脱出して、ネグロスの我が家へ行こうというお客さんも、何組か予定が入っております。

日本では来月(2018/9月)、映画が公開される「愛しのアイリーン」。フィリピナ中毒になっている日本人の間では、わりと有名なコミックが原作。最近まで知らなかったけれど、ちょうど私がフィリピンに初渡航した1995年に、ビッグコミックスピリッツに連載され、全6巻の単行本にもなりました。

作者の新井英樹さんが、国際結婚相談所のフィリピン見合いツアーに参加して取材したという、農村に嫁いだフィリピン女性、アイリーンを主人公にした物語。これだけだと、コミカルな人情劇かなと思ったら、ストーリーはなかなかハードな展開。

映画でアイリーンを演じるフィリピン女優のナッツ・シトイさんは、大人の美貌の持ち主ながら、原作のアイリーンは何ともワイルドな風貌。と、まるで何度も繰り返し読んだようなことを書いてますが、実は未読なんですよ、

ただ、2011年に発刊された全2巻の復刻版。その上巻の表紙が、花嫁姿で豪快に微笑むアイリーン。これが何とも強烈な印象で、ウェディングドレスのフィリピン美女を描いてみたいと思ったのでした。

ということで今日のお題は、映画化記念も兼ねて、愛しのアイリーンの表紙から、着想だけを頂戴した「愛しのフィリピナ花嫁」。ミス・ユニバースに出てくるような、ピカピカの美人ではなく、少し童顔で可愛らしいという「いかにも」な設定で描いてみました。女性読者の方からは、ロリコンの誹りを受けそうです。

とは言え、お得意のセクシー路線じゃなくて、(できるだけ)オッさん視点を外し、女性が見てもいいなと思ってもらえるよう、なけなしのイマジネーションを総動員して、南国の花嫁にトライしました。


それにしても、ウェディングドレスって、本気で描いたらこんなに大変だったんですね。前回の「白鳥のジュン」から3週間近くもかかってしまいました。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

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