2019年2月27日水曜日

ゲストハウス / 申請図面ができました


一応、2019年内の竣工を目指している、裏庭に建設予定のゲストハウス。先日発注した、市役所への建設許可申請用の図面が、早くも完成しました。

発注先は設計事務所ではなく個人。それも市役所勤務の、許可を受け付ける側にいる現役スタッフが、アルバイトでやっているような人。これって職業倫理的にどうなんですかね? まぁ申請が通らないことは絶対ないので、安心と言えば安心なんですが、日本ではちょっと考えられない。

このスタッフの名前がルイ。名前だけはフランスの王様っぽいけれど、そんな優雅さは皆無で、近所では「酔っ払いのルイ」で通ってる、ごく庶民的なオっちゃん。7年前に、母屋の申請図面も頼みました。納期は守るし、ボったりすることもない。私が見る限り図面も問題なく描いてくれます。

久しぶりに会ったルイ、ずいぶんと太ったなぁ。以前は中肉中背で長髪。1970年代の日本のフォーク歌手か、みたいな風体でした。それがタバコを止めた途端に太りだしたんだそうな。変な病気とかじゃないらしいので、それはそれでいいかも知れません。

特筆すべきは、出てきた図面がオートCAD描画。やっとネグロスでも、そういう時代になりましたね。今更説明するまでもなく、CADとは、Computer Aided Designのこと。要するにパソコンのアプリで図面を描いて、それをプリントアウトしたもの。

実は私、このCADが日本で普及し始めた1980年代に、某家電メーカーで製品開発の仕事をしておりました。まさに企業へのCAD導入最前線。当時はシステム全体で数千万円の時代。当然専用機で、パソコン自体が一般に普及しておらず、メインフレームとか呼ばれた、馬鹿デカい専用マシンが必要でした。

最初は図面だけだったのが、1990年代に入ったころから3次元データも扱い始め、そのシステム導入も担当したので、結局私が手描きで図面を描いたのは、新人デザイナーだった、ほんの1年ぐらいの期間。その後アイデアスケッチもパソコンになって、今ではイラストを手描きしようにも、手先が震えて思ったような線が描けません。

私の昔話はともかく、ネグロスでここまで来るのに、30年遅れ。もちろんマニラのオフィスなどでは、もう少し早くにOA / Office Automation 化(という言葉も死語ですな)してたんでしょうけど。

単に手が汚れないだけでなく、変更・修正が早いのが大助かり。こういう仕事の常として、クライアントからの要望で、何度も直しが入るもの。その対応が何倍もスピードアップするし、できたものはフェイスブックのメッセンジャーでも送れて、すぐに確認ができる。

A4縮小印刷も、自宅のプリンターでOK。いちいち隣街のバコロドまで行く必要もありません。ほんの数年しか経ってないのに、何だか隔世の感がありますね。フィリピンでの携帯電話の普及と同様に、日本で要した時間の何十分の一の間に、いきなりインフラがジャンプアップ。


と、図面がキレイで早いだけなら、めでたしめでたしで終わるところが、やっぱり地元の専門家なので、費用の話も出てきます。床面積が約80平米で、100万ペソ(二百数十万円)ぐらいかとタカをくくってたら、ガレージも込みだと100平米以上だから、200万ペソ近くになるとの見積もり。

これは建築業者に丸投げしたら、そう見積もるだろうということで、カミさんも「食べ物買うお金が、なくなっちゃう」と子供みたいな言い方で猛抗議。そこまでカツカツの予算じゃないってば。この金額なら銀行口座には余裕があるって、あなたも知ってるでしょ?

とは言っても、ちょっとでも安くするには、やっぱり自分でフォアマン(現場監督)するしかなさそうだと、腹を括りました。プロセスを全部見て、ここは安い部材でも大丈夫とか、ここだけは手を抜かずとメリハリつけて、冗費の削減をしなければ。

そんな経緯で、最初の関門はあっさり通過し、いよいよこれからが難問の大工さん集め。何しろ景気がいいもんだから、大型の商業施設だけでなく、一般住宅も新築ラッシュのシライ界隈。ちょうどすぐ隣でも家を建ててる真っ最中。

今住んでいる家を建ててくれた、大工にして溶接工のアントニオくんや、配線工のサルディーなど、信頼できる職人さんの再結集ができるかどうかが、早期着工の鍵ですね。


2019年2月25日月曜日

新郎新婦はウェディング・プランナー

この週末、またもや大金持ち家族の結婚式に出席しました。
家内がフィリピン大学ビサヤ校で、研究員をやっていた頃のつながりで、同校の大学教授だった父親と、大地主にして実業家の母親、その長男ヨハンの結婚式に招待された次第。

このイングレス・ファミリー。私も家内と一緒になってからは、友達付き合いをさせてもらっていて、今住んでいる家を設計した時、日本から建築家の方に来てもらって参考に家を見せてもらったこともあります。一昨年のフランチェスカ(奥さん)の還暦祝いパーティにも招かれて、その時は、私から似顔絵を贈りました。

さて、今回結婚するお二人。聞くところによると、新婦さんはウェディング・プランニング会社のオーナー経営者。そしてヨハンはそこを手伝っているビジネス・パートナー。つまり、二人とも結婚祝いの専門家なので、やっぱり式も披露宴も超ハイレベル。

まず、式場となった教会がすごい。ネグロスの隣島パナイの中心地、イロイロ市内にあるモロ教会。ここはスペイン統治時代の典型的な石造りのカセドラル。ただ大きくて古く格式があるだけでなく、珍しいことに全館冷房完備の大聖堂。以前にやはり結婚式を執り行った大金持ちが、そのために冷房設備を寄付したとのこと。フィリピンの富豪って、桁違いですね。










可愛いフラワーガール



お祝いでも菊の花を使うフィリピン


さらに結婚ミサを執り行ったのは、ビショップ(司教)。一つの教会だけでなく、一地方の教区全体の総責任者。日本のカトリックでは、大阪教区とか京都教区などの全部で16あって、特に信徒数が多い東京・大阪・長崎には「大司教区」が置かれています。

ミサそのものは、特別な内容があるわけではないけれど、聖歌隊が感動レベル。男性10名、女性6名、これに指揮者がついたクラシックスタイルの堂々たる混声四部合唱。元々歌に関しては裾野が広いフィリピン。ちょっとしたチャペルの聖歌隊でも、なかなかだったりするぐらいなので、本格的な訓練を受けたプロの歌手はどんだけすごいか。


テノールが独唱した主の祈りなんて、まず素人では歌えない、音域の広いメロディを、切々を歌い上げるもんだから、毎週聴いて自分で歌っている祈りなのに、ちょっと泣きそうになるぐらいの出来栄え。伴奏のピアノも素晴らしい。

続く披露宴は、市内を流れるイロイロ川に面したパーティ・スペース。歌手が二人にバイオリニスト、パーカッションとキーボード担当のミュージシャン、さらにダンサー5人を贅沢に配し、もうそれだけで、十分にお金が取れるディナーショー。








最近では日本でもおなじみの、新郎新婦の馴れ初めや家族・友人からのメッセージをまとめたムービーも、度外れた凝りよう。なんとわざわざ二人のプロモーションビデオを撮影するためにニューヨーク・ロケ。どこまで金持ちやねん。

専属のデザイナーもいるようで、二人の頭文字 J (Johan ヨハン)と A (Aiza アイザ)をあしらったロゴマークを作り、映像のトップや、出席者に無料配布する二人のブロマイドに使ったり。招待状もレターではなく、この結婚式専用に作られたウェッブサイトにログインするための、パスワードを送ってくるというスマートさ。


披露宴の最後には、ほんの数時間前の式の様子を、BGMはもちろん、各種のエフェクトを動員した、映像作品に仕上げて見せてくれました。最近は、パソコンで昔のプロ並みの動画編集ができるアプリも出回っていて、私も素人ながら、そこそこは使ったりもしますが、編集後の最終形をイメージしながら、本物のプロが撮影した素材なので、とても真似ができないレベル。

今までも、式場の飾り付けが豪華だとか、ゲストの数が桁外れに多い、なんてことは感心させられたフィリピンの富裕層。いよいよフィリピンでも、ハードウェアや人件費だけではなく、ソフトの質を追求する時代に入ってきたようです。


2019年2月21日木曜日

ピンポイント・ブラウンアウト


Brown-Out(ブラウン・アウト)とは、停電を意味する言葉。フィリピン在住だったり、頻繁に渡航する人ならばよく耳にするでしょう。ここ5〜6年の経済成長のお陰で、マニラ首都圏などではかなり少なくなったそうですが、ここネグロスでは相変わらずの、電気止め放題。

昔に比べればマシになったとは言え、1〜2ヶ月に一度ぐらいは、週末に朝から夕方までの長時間計画停電はあるし、突発的に数時間なんてのも日常茶飯事。間隔は一定ではなく、3ヶ月ぐらい順調で油断してたら、1週間ぐらい連日で短いのが続いたり。夕食時であろうが、朝、シャワーを浴びていようが、いきなりブチっと来るのは、本当に困ります。

一番影響が大きかったのは、5年前の大晦日。日本ならば、まさに「紅白歌合戦」から「ゆく年くる年」が放送され、年が明けて家族で初詣...ぐらいのタイミングを狙い澄ましたようなブラウンアウト。親戚の女の子たちと囲むご馳走の乗った食卓も、何だか貧乏臭い新年カウントダウンになってしまった。

それに懲りて、自宅にディーゼル式の発電機を備え付けたので、半日やそこらの停電には困らなくなったものの、やっぱり騒音は大きいし、排気ガスもあるので、快適な環境とは程遠い。メンテナンスもこまめにしないと、いざという時に動かなかったり。

そして今朝は、停電状態の中で目覚めました。1日の始めにこれは、ちょっとガッカリ感が大きいですね。まぁ初めてのことではないので、気を取り直してカーテンを開けたら、1ブロック離れた道路の街灯が、全部ちゃんと点いてる。同じ宅地の中でも、電気が消えてるのは、我が家の周囲、ほんの数軒のみ。

こういうピンポイントで来られると、対応が面倒になるんですよ。停電している家の誰かが、セネコ(CENECO / Central Negros Electric Cooperative 中央ネグロス電力)に通報しないと、点検や修理に来てくれません。結局、私が何度も頼んで、電話をしたのは家内。それでも10分ぐらいでセネコのスタッフ2名が来てくれて、すぐに電気は復旧。フィリピンの公共サービスにしては、上出来の対応でした。

何が原因だったのか、スタッフは説明もせずにトットと帰っちゃいましたが、おそらく部品の老朽化みたいな、そんな事でしょう。つい数週間前には、焚き火が電柱に燃え移って断線、4〜5時間ぐらい何百世帯にも影響が出る停電があったばかり。こっちの人って、家から出るゴミで焚き火するのが、大好きなんですよね。

ところで、フィリピンにいると「ブラウン・アウト」という英語を、疑いもなしに使ってますが、確か停電はブラック・アウトと習った気がします。ネットで調べてみたら、Brown-Outとは、停電の意味もあるものの、第一義には電力節約のための電力低下という、技術用語らしい。

多分以前は、本当に電力不足からの停電が多く、しょっちゅう言ってるうちに、停電全般を指すようになったと推測。この手の、和製英語ならぬ「比」製英語は、よく耳にします。トラフィック(Traffic 交通)が一語で「渋滞」とか、他の英語圏ではあまり聞かないブレッド・ウィナー(Bread Winner 一家の稼ぎ頭)とか。

我が家のメイドさんは、何故かセイム(Same 同じ)を、セイム・セイムと繰り返し。これはフィリピノ語やイロンゴ語では、サリサリ・ストア(雑貨屋)、ダコダコ(大きい)、ガマイガマイ(小さい)などのように、繰り返し音が多いので、英語を話しても、その癖が出ちゃうんでしょう。

ということで、今日は、フィリピンの田舎暮らしあるあるの、ブラウン・アウトについてのお話でした。


2019年2月17日日曜日

世界規模のはしか大流行


フィリピンで麻疹(はしか)が大流行です。

2月12日(2019年)付けのまにら新聞の記事によると、フィリピン厚生省は、1月1日から2月9日の40日間に、国内の麻疹の感染者は4302人にのぼり、死者は70人と発表。この数字は、昨年(2018年)同期の約4倍にもなるそうで、死者のうち55人が予防接種を受けていませんでした。

同省は、マニラ首都圏を始め、ルソン島南部のカラバルソン、中部ルソン、東ビサヤ、の4地域が集団感染地域(Outbreak)と宣言。これ以外に、ミンダナオ島北部で、5人の死者が出たとの情報も。

原因は、2018年に社会問題となった、デング熱ワクチンの薬害。予防接種を受けた子供の死亡例が相次ぎ、これをきっかけにして、我が子にその他の予防接種も受けさせない親が、増えたからとされています。

日本も対岸の火事だと、静観している場合ではありません。私の親戚や友人が多く住む大阪府では、今年に入ってからすでに38人もの感染者が出ました。昨年1年間で、日本全国の累積感染者数が282人で、大阪では15人だったことを考えると、まだフィリピンほどではなくとも、かなり危険な状況です。(大阪府の公式サイト

麻疹なんて、きちんと予防接種を受けていれば、何も問題はないと無邪気に信じていた私。ところがフィリピンや日本だけでなく、去年にはヨーロッパ43カ国で、上半期だけで4万1000人を超える感染者を出している。(死者は少なくとも37人)この投稿を書くために調べるまで、迂闊にもまったく知りませんでした。(2018年8月22日付ニューズウィーク記事

どうやら背景には、予防接種のワクチンの効果そのものを疑問視させるような、インターネットを通じた、フェイクニュース(デマ)の拡散があるらしい。その最たるものが、麻疹・おたふく風邪・風疹の三種混合ワクチンを接種すると、自閉症になるというもの。

イタリアでは、2018年6月に極右政党を含む連立政権によって、ワクチン接種の義務を撤廃する法案が通ってしまいました。これはイタリアから、多くの麻疹感染者を出している事と、無関係ではないでしょう。

こうして見ると感染症の蔓延は、必ずしも貧しさや教育水準の低さではなく、玉石混交のネット情報を、盲信することからも起こるんですね。これではフィリピンでの麻疹流行を批判できません。

とまぁ、政治の話はともかくとしても、今からフィリピン、特にマニラ首都圏に渡航しようとする人は、麻疹の予防接種がまだならば、早々に最寄りの医療機関でのワクチン接種することを、強くお勧めします。何しろWHO(世界保健機関)が、つい先日の2月14日に、世界の麻疹阻止の取り組みが後退していると、警告を発したほど。

免疫がない状態だと、10人中9人が発症する強力な感染力を持つ麻疹。しかし正しく予防接種を受ければ、間違いなく根絶できる感染症でもあります。最後に、WHOで予防接種・ワクチン・生物的製剤部門を統括する、キャサリン・オブライエン氏の言葉を引用します。(2019年2月15日付 AFP記事

現在の後退の原因は、ワクチン接種が行われていないせいだ


2019年2月15日金曜日

クライアント急逝


昨日、フィリピン在留邦人で、友達付き合いをさせてもらっていた方の訃報に接しました。私より2〜3歳年長で、ほぼ同世代。ネグロス島に自宅建設を予定していて、私がその間取りや外観デザインのお手伝い。つまり私のクライアントでもありました。

人生90年とか100年とか言われる、最近の日本。フィリピン在住であっても、70代、80代で元気に暮らしている日本人は、何人も知っています。長生きし過ぎて、老後の生活費が底をついて貧困に陥る「下流老人」なんて、嫌な言葉も見聞きするほど。

私が子供だった昭和40年代、西暦ならば1970年前後には、今の私の年齢である50代と言うと、もう老人の枠に入っていたように思います。少なくと初老と呼ばれていたような気が。考えてみれば、60代で亡くなる人も多かったので、逆算すると、50代には、残り時間が10年ぐらいしかない時代だったんですね。私の母方の祖父母は、二人とも60代で病死しました。

とは言うものの、今でも、日本人全員が90歳か、それ以上まで生きると決まっているわけでもなく、当然ながら私の年代で人生を終える人だっている。理屈では分かっているけれど、本当に身近な同世代の人、しかもフィリピン移住の同志が亡くなると、少なからずショックを受けてしまいます。

このクライアントさんの場合、今から家を建てようというぐらいなので、健康で前向き。日本国内ならば定年を迎えようという時期でも、バリバリの現役ビジネスパーソン。昨年12月には、直接顔を合わせてのミーティング。

つい先月まで、チャットでやりとりしながら、こちらが送った図面にコメントを頂き、それを修正する作業が続いてました。ようやく最後の立面図を送付したところ、それ以降、ぷっつりと音信不通。それまでは深夜でも早朝でも、律儀に返信をもらっていただけに、何かトラブルでもあったのかと心配していた矢先。

亡くなったクライアントさんの親族の方から、代理でメッセージが入った時には、「これは悪い知らせだ」とピンと来ました。それでも、せいぜい病気か事故で入院ぐらいかと思っていただけに、十日前に亡くなっていたとの知らせには、しばし絶句。

一緒に食事をして、よく喋り、よく食べていた印象が強かったので、月並みながら、とても信じられないとしか言えません。最後のチャットの三日後には、もうこの世にいなかったことに。

こういう事があると、嫌でも我が身に置き換えてしまいます。漠然と少なくとも20〜30年の余生はあるだろうと思っていても、こればかりは、本当に神ならぬ身の知る由もなし。不機嫌に過ごしたり、ネガティブな思考に囚われている暇はないんですよね。時間は有限なんだと、改めて思い知った昨日でした。


2019年2月13日水曜日

ゲストハウス / 申請図面の発注


昨年末頃から、盛んに「裏庭にゲストハウス建てま〜す」と、当ブログだけでなく、あちこちで発言している私。楽しみにしてます、という若干のリップサービスだけでなく、本気で泊まりに行きますとのお言葉も頂戴し、いよいよ後に引けなくなってきました。

ゲストハウスと言っても、簡易のシャワー・トイレ付きのベッドルームひとつ...みたいな程度ではありません。20年前まで私が住んでいた実家の間取りを再現しようという、個人としてはかなり意欲的な構想。平屋の2LDK。日本式のお風呂も完備する、本格的な一戸建て住宅です。

すでに十分広い母屋があるのに、なぜもう一軒?と訝しむ方もおられるでしょう。主な目的は、少し前に投稿したように、フィリピン移住を考える日本人を対象にした、お試し短期ネグロス滞在サービスのため。

もちろん民宿みたいな使い方もいいでしょうし、地元の人への貸家も可能。中期的には、息子が結婚した時の住まいにすることも、視野に入れております。

広さはざっと80平米。母屋に比べると半分以下の床面積ながら、現在の日本、大阪周辺で、同じ面積の賃貸マンションだと、家賃は15万〜20万円ぐらいはするらしい。曰く、家族4人がゆったり生活ができて、夫婦の寝室と子供部屋2つは確保可能。つまり、3LDKの広さなんですね。

間取りは再現しても、元々の実家はもう少し狭かった。1畳(910mm × 1820mm)を1メートル × 2メートルに拡大しているので、約1割り増し。そこに両親と私、さらに弟2人の5人家族が居住。今考えたら、ずいぶん窮屈な感じ。

それでも小さいながら庭があり、なんとか自家用車を駐めるスペースも。阪急沿線の急行停車駅から徒歩10分。母が私を身籠っていた頃に引っ越してきた当初は、父が勤める会社所有の借家。それがオイルショックで会社が倒産して、出て行くか買い取るかの厳しい選択を迫られました。

折しも、父は中東のドバイへ単身赴任中。世帯主を外国で働かせておいて、帰国もさせず家族は追い出すなんて、無茶苦茶な話ですね。この時は、叔父(母の弟)が全面的にバックアップしてくれて、父不在のまま、何とか住宅ローンを組むことができた次第。

結果的には、好条件の立地の物件を、比較的安く購入することができました。しばらく後のバブル期では、到底手出しできない価格になっていたことでしょう。その後いろいろあって、建て替えはしたものの、今も同じ場所に、80歳を過ぎた両親が住んでいます。

さて、そんな思い出深い私の生家。それをわざわざフィリピン・ネグロスの地に再建しようと計画。

これが日本なら、まず図面の依頼も一仕事。どこかの設計事務所にお願いして、時間も費用も大変そう。ところがたまたま私は、以前、図面を描く仕事をしていたので、間取りと、簡単な配線・配管、外装・内装のデザインは自前。これをフィリピンのライセンスを有する業者に頼んで、申請図面の形式に清書してもらえばOK。1週間ぐらいで8,000ペソ(約17,000円)。何とお手軽な。

問題はここから。
家を建てる場合、フィリピンでは直接大工さんを雇うか、建築業者に委託するかの2択。もう丸々1軒建てた経験があるし、大工さんの人脈もできたので、自分で現場監督することはできるんですが、建材の買い付けから、詳細の図面描きまで、全部一人でやることになります。

また、前回と違い、家内がフルタイムで働いているので、細かいニュアンスの通訳や、材料の価格交渉なども当てにできない。これは相当面倒な仕事になりそうです。ならば業者に丸投げは?というと、確実に高くなるし、信頼できるパートナーが見つかるかどうか。

ということで、申請図面の発注を前に、どっちで行くか、目下悩み中の日々を送っております。


2019年2月10日日曜日

開店2ヶ月のアヤラ・モール



昨年(2018年)の12月初旬、西ネグロスの州都バコロドのど真ん中、州庁ビルに隣接した一等地にオープンした、アヤラ・モール・キャピタル・セントラル。SM(シュー・マート)、ロビンソズと並ぶ、フィリピン国内最大手のショッピングモール・チェーンです。

ロビンソンズはもう20年以上前、かなり最近の印象だったSMシティも、すでに10年以上経過し、最近ではSMXと銘打った大規模な売り場拡張も行い、さらにその隣にはホテルとコンベンションセンターを新築中。大きく遅れを取った格好のアヤラです。

それを一気に挽回するかのように、立地の良さだけでなく、4階建ての、西ビサヤ地方最大の売り場面積が謳い文句。オープン直後のクリスマス前には、すごい人だかりで、周辺道路の渋滞が、瞬間最大風速的にマニラ並みになったという話も。私は、それを聞いていたので、熱りが冷めるの待って、1月も終わりに差し掛かった頃に、家族で行ってみました。

前評判に違わず、入れ物はずいぶんと立派で広い。ざっと歩いただけでヘトヘトになるぐらい。でも残念ながら、それだけのこと。開店2ヶ月になろうかという時期なのに、テナントの半分も開いていなかった。フィリピンお得意の「ソフト・オープン」が、延々と続いている状態で、良し悪しの評価をすることもできない。


当初はかなりの人出だったそうですが、さすがにこれでは、一度来たお客さんから「まだ何もないよ」の口コミが広がったと見えて、平日だったことを差し引いても、あまりにも閑散とした佇まい。人が少ないもんだから、クーラーが効き過ぎで寒い。それが原因で、翌日、家内が熱出して寝込んでしまいました。

わずかに開いていた店で目に付いたのは、日系のダイソー(100均)と、それに追随する中国版の日本城。アップル製品の専門店、iStore(直営店のApple Store ではなく、フランチャイズ)など。飲食店では、ジョリビーにチョーキン(超群)と言った、フィリピンではお馴染みのファーストフード。




でも、これって、先発のロビンソンズとSMにはほとんど出店済みの顔ぶればかり。これでは、敢えて大規模な投資をして、バコロド市内では最も地価が高いと思われる場所に、店を出した意味がイマイチ見えてきません。併設されたスーパーも、日本からの輸入食材は一通り並んでいたものの、他で買えない品揃えでもない。

う〜ん。レベルは違うけれど、1年前のガイサノ・シライのオープン時と、似たようなガッカリ感を味わってしまいました。

ただ、まだ期待が残るのは、「カミング・スーン(間もなく開店)」。レストランでは店名表記もあり、「ナンチャッテ」ではなさそうな日本食の店もいくつかありそう。

おそらく、4月〜5月、フィリピンの夏休みの時期にめがけて、各店舗の開店ラッシュが見込まれるんでしょう。もしそうでなければ、7年前に、近隣のタイサイにオープンし、集客に失敗して、ほとんど閉鎖寸前になってしまったアヤラモールの二の舞かも。

いずれにせよ、客の立場からすれば、買い物の選択肢が増えるのは大歓迎。何とか特徴のあるお店をたくさん出してもらい、バコロドにある大手ショッピングモールは、3軒とも繁盛してもらいたいですね。


唯一、物珍しかった
店内にある大きなチャペル


2019年2月8日金曜日

罰金75ペソの運転免許更新

先月(2019年1月)に投稿した、運転免許の更新ができなかったというお話。しばらくブログを休んでいたので、続報がまだでしたね。実はその翌週に、一応、更新は無事済みました。

「一応」と言うのは、3年前と同じ問題があって、プラスティック製の正規免許証が発行されなかったから。これは、LTO(Land Transportation Office / フィリピンの陸運局)が、カード制作業者への支払い遅延のために、素材を調達できないという、何とも情けない理由。

前回の更新時には1年以上待たされて、その間はLTOに支払った手数料の領収書が、免許証代わり。今度はそれほど悪い状況ではなかったけれど、やっぱりすぐには無理。もちろん、最初から即日交付は期待してないとは言え、発行までが2ヶ月「ぐらい」。頼りないことこの上なし。

発行されても連絡があるわけではなく、タイミングを見計らって取りに行くことに。まだなら無駄足。フィリピンで運転免許を持つと、嫌でも忍耐強くなります。





特に今回は、ショッピングモールにある更新センターではなく、バコロドの陸運局。周囲は再開発が進んできれいになっているのに、ここだけ時代に取り残されたような佇まい。敷地内はむき出しの地面で、前日の雨が水溜まりになってるし、トイレの水は流れない、大勢の人がいる待合ロビーには空調もない。難民キャンプか?

更新に必要な健康診断(尿内の薬物と視力の検査)は、向かいの小さな診療所でやってましたが、驚くことに手数料を払うだけ。検査なし診断書の販売業。これはひどいなぁ。これでは、本来なら運転が許されないような、目の悪い人、ヤク中ですら免許が更新できてしまう。

ユルいのはそれだけではなく、うっかり失効に対しても、罰金は75ペソ(約160円)だけ。講習も何もなし。私の場合は、失効後3ヶ月半ぐらいでしたが、聞くところによると、1年以上放置していても、似たようなものらしい。

ということで、免許証代わりの紙切れを貰うまでが、ざっと2時間。最近はネットで事前予約できるようになり、家内に頼んでおいてもこの待ち時間でした。

せっかく州都のバコロド市街地に出てきたので、近くにある入国管理局(イミグレーション)の窓口にて、ちょうど毎年1月に行われる、永住ビザの更新も済ませました。こちらは対象になる人の数が桁違いに少ないとは言え、クーラーの効いた待合で、たった5分ほどで手続き完了。

同じお役所でも、この差は何なんでしょうかね?


2019年2月5日火曜日

ネグロス島にテーマパーク

先日久しぶりに小一時間ばかり、自宅近辺を自転車で走った時のこと。一面のサトウキビ畑だったはずの場所に、大きな道が出来ているのに出くわしました。

その向こうには、観覧車やアトラクションの施設などが見えます。シライ市内にテーマパークを作っているとの話は聞いてましたが、こんな近くだったのか〜。なぜか私は、同じシライでも、もっと山側の空港近くだと勝手に思い込んでおりました。これなら、ちょっと頑張れば、自宅から歩いてでも行ける距離じゃないですか。



振り返ると草を食む水牛が

遊園地の名前は「マジックランド」。アルファベットではMagik Land で、フィリピノ語っぽく、Magic の c が k になってるのがミソ。でも、2年前にこの話を初めて聞いた時には、確か名前は「エンチャンテッド・キングダム」(魅惑の王国)だったはず。この投稿を書くために調べたら、昨年の記事には「マジック・アイランド」。


どうも運営会社が変わったらしい。それでなくても、誘致には大量の裏金が動いたであろうことは、容易に想像できるフィリピンのビッグ・ビジネス。誰か経緯をよく知っている人がいたら、レクチャーしてほしいぐらいです。

という大人の話はさて置き、まったく予期していなかった、ご近所のテーマパーク。サイクリングの途中に見た時には、「忽然」と姿を現したように感じてしまった。帰宅してから調べたら、広さは3.75ヘクタール。

関西にある、愛称ひらパーこと「ひらかたパーク」が約16ヘクタールで、その1/3にも満たないサイズ。それでも比較するものがない、サトウキビ畑のど真ん中。ずいぶん巨大な建造物のように見えました。

1960〜70年代に、関西で子供時代を過ごした者としては、テーマパーク(というより遊園地)には、少々複雑な思いがあります。小学生ぐらいの時に、親や親戚に連れていってもらった遊園地というと、尼崎から近いのが甲子園阪神パーク、宝塚ファミリーランド、エキスポランド(万博公園内)など。当時のひらかたパークは、菊人形のイメージしかなく、あまり子供が行きたがるような場所ではありませんでした。

ところがバブルが弾けてからは、遊園地の倒産が相次ぎ、健闘していたエキスポランドも、2007年に起こったジェットコースターでの死亡事故がきっかけで閉鎖。結局一度も再開されることなく、2009年に閉園となりました。

つまり、私の思い出に残る遊園地は、ほぼ全滅。生き残ったのが、ひらかたパークだけ。1996年に大々的なリニュール完成と同時に、「ひっらぱ〜」でお馴染みのCMを開始。2013年からは、地元の枚方出身の俳優、岡田准一さんを二代目「ひらぱー兄さん」に起用。彼の出演映画ポスターを大胆にパロディー化した宣伝などで、ユニバーサルスタジオに対抗できる、関西唯一のテーマパークとなって現在に至ります。


ということで、高度経済成長の日本みたいな状況のフィリピン・ネグロス島にあって、イケイケドンドンの鳴り物入りで開発が進むマジックランド。その周囲では、大規模な宅地の造成が進み、昨年3月オープンのガイサノに続いて、流通大手のロビンソンズも、シライ進出の噂が。

私にとっては、まさに、いつか来た道。この、2019年内オープン予定のマジックランドも、10年、15年先に存続しているかどうか。できれば阪神パークやファミリーランドの轍を踏まず、ネグロスのひらパーとして、末長く地元民に愛されてほしいものです。


2019年2月2日土曜日

マニラの空

今日は、マニラ旅行の投稿、最終回です。

偶然ながら、私たちがマニラからネグロスに戻った日曜日(1月27日)に、マニラ湾の大掃除を行われました。後から記事やテレビのニュースなどで、大々的に繰り返し報道され、そんなことやってたんだと驚いた次第。

聞くところによると、あまりの汚れ方にブチキレた大統領のドゥテルテさん。有名な観光地ボラカイ島の砂浜を、号令一下、半年で美しい姿に戻したことに味を占めたのか、今度はお膝元のマニラを、とのことらしい。汚水を海に垂れ流していたとして、まずはマニラ動物園を始め、飲食店や工場などの閉鎖は、まさにボラカイでのやり方。

そしてそれに続く清掃作業。ボランティアやら本職の清掃員やら総がかりで、見た目には相当キレイになったみたいです。清掃後の海岸を、海水浴してる人がいたのは、ヤラセっぽいですが、実際に見た人も驚いたそうなので、少なくともゴミがなくなったのは、嘘ではなさそう。

案の定、まだゴミだらけの、マニラ首都圏を流れる川の写真がフェイスブックに投稿され、「こっちを掃除しないと意味ないよ」みたいな文言が書き添えられてました。掃除をした市民も、号令をかけたドゥテルテさんも、それぐらいのことは分かっているでしょうから、今後は、海岸だけでなく河川の清掃もあると思われます。

それにしてもフィリピンでは、一旦お祭り騒ぎになると、すごい勢いで動きだすものですね。動画を見ると、ボランティアのグループが各々、お揃いのTシャツを用意して、思いっきりカメラ目線で大掃除。ええ格好しぃでも嬉しがりでも、キレイになるんだから、大したもんです。わざわざゴミをまいて、それをマニラ市長エストラーダさんが網ですくい取るパフォーマンスは、悪乗りし過ぎですけど。

ドゥテルテ大統領のような強権的「正義の味方」が、国政の表舞台に登場したのは、本人だけの力というより、それを受け入れる素地が出来上がっていたんだろうなと、実感してしまうような出来事。今回のマニラ滞在では、ほんの限られた場所しか見て回ってないけれど、昔(1990年代)に比べれば、本当に小綺麗になった印象が残りました。

私が結婚する前に両親に嫁の顔を見せようと、ファースト・コンタクトを、当時のホテル日航マニラでセッティングした時のこと。母が空港からの街並みを見て「終戦直後の梅田のガード下みたいやな」と言ったのを覚えています。

あれから20年以上。「終戦直後」だったマニラは、私の目には、大阪万博(1970年)当時の梅田ぐらいまでは復興してました。場所によっては、一足飛びにバブル期だったかも?

単に清潔になっただけでなく、Grabの普及でずいぶんと移動が便利になりました。タクシーと比べて、決して安上がりではないにしても、流しのタクシーが来ないような場所で車を呼べるし、事前に料金が分かって、運転手の素性も知れている安心感は大きい。

とまぁ、良いことばかり書いてしまいましたが、だからマニラに住もうか、とは思えないのも正直なところ。渋滞の酷さはともかく、物価の高さに人の多さ、一番厳しいのは、高層ビルや高架道路が増えすぎて、本当に空が狭くなってしまったこと。




これは何もマニラに限ったことではなく、大阪も東京も同じ。でも、ネグロス暮らしを6年も続けた私には、もう都会での生活が無理になったんだと改めて実感。せいぜい1〜2週間程度、遊びに来るぐらいなら楽しいけれど、ずっと住めと言われたら泣きますね。

ということで、我が第二の故郷ネグロスの素晴らしさを思った、久しぶりのマニラ滞在でした。



自宅の徒歩圏内で
こういう風景が見られます