2019年10月29日火曜日

最後の詰めが甘いフィリピンの施主

貧困層の人々ならともかく、警備員が常駐するようなサブディビジョン(宅地)内の家屋なのに、中途半端に工事が止まっている物件が多い、ここフィリピン・ネグロス島。事情を知らない日本人は、すぐに大工さんの怠慢や悪徳建設業者のせいだと思うでしょう。

しかし、実際に2軒の施主をやった経験からすると、必ずしもそうではないと気づきます。

まずよくあるのは、途中で資金が尽きてしまうパターン。すごく大雑把な見積もりを鵜呑みにして、エイヤッと着工しちゃう人が多い。日本だったら、真面目な業者さんほど慎重を期して、弱気なほどに「最悪」を想定するもの。

ところがフィリピンの場合、住宅建設に限らず、強気というか向こう見ずというか。それでなくても、予算や日程管理の事務作業が、お世辞にも得意とは言えない人々が多いもんだから、大抵が、すべて上手くいく前提の「最良」でゴーサインを出すみたい。

フィリピンで施主経験のない、日本人が失敗するのは分かるけど、地元に生まれ育って、何百万ペソもの費用を用意できる(つまり、そこそこ教育のある)人が、この落とし穴にハマるのは、ちょっと理解に苦しむところ。

そして、もっとよくあると思われるのは、予算内に収まっているのに、最後の最後でケチってしまうケース。やっぱりフェンスは、お金が貯まってからにするとか、外壁の塗装はまた次の機会に、なんて。多分、奥さんが途中でストップかけるのかなぁ?(これは我が家のことですけど...。)

こういう詰めの甘さが祟って、私たちの住むセント・フランシス・サブディビジョンでも、「残念な家」が散見されます。ここまで頑張って、どうしてフェンスがトタンなの?とか、建物は美しいのに、庭は放置で雑草生えまくりとか。

ちょうどこの2週間ほどが、自宅裏のゲストハウスが、最後の作庭でした。角っこに作った鶏舎や、発電機用の小屋、飛び石や敷き詰めた砂利などが、家内の「勿体ない攻撃」のターゲットに。確かに私の思いつきで、最初のプランになかったものも多いですが、ここで手を抜くと後々不便で、みすぼらしいよ。


コンクリート製の飛び石と
敷き詰めた砂利


古タイヤ再利用の花壇
植物がないと仮設トイレに見える


浴室裏の仕上げ


鶏舎のつもりが、肝心の鶏がいなくなり
屋根付き洗濯物干し場にしようかと

費用に関しても、全部足しても10万円もいかないレベル。何度も書いているように、まだまだ人件費が格安のネグロス島。

というわけで、このところ少々ご機嫌斜めの家内を、何とかなだめつつ、万聖節(ハロウィンは、その前夜祭)の11月1日に作業完了の目処が立ってきました。あ〜、くたびれた。


10/20〜10/29の出費

大工さん給料:30,850ペソ(2週間分)
溶接機レンタル料:750ペソ
土砂・コンクリートブロックなど:6,260ペソ
セメント、鋼材など:18,726ペソ
塗料など:5,187ペソ
配線材料など:5,615ペソ


計:66,688ペソ

本日までの合計:2,079,524ペソ


2019年10月26日土曜日

私的フィリピン美女図鑑 妖鳥シレーヌ

ゲストハウス建設が、いよいよ完成間近となり、なかなか集中できる時間が取れなくて、いつになく難航した美女図鑑のイラスト。今回のお題は「妖鳥シレーヌ 」。言うまでもなく、永井豪さんの代表作「デビルマン」に登場するキャラクター。

主人公の不動明やデビルマンより人気があるんじゃないかというぐらいで、ウィッキペディアでも、独立した項目になっているほど。ネットで検索すると、画像が出てくる出てくる。アニメだけでなく実写映画にコスプレ、フィギュア。

中には、永井さん自らがセルフパロディ化した「シレーヌちゃん」なる、コミックまでありました。

以下、盛大にデビルマンのネタバレがありますので、ご注意。

原作のコミックを読んだのは、私が小学校の5年か6年ぐらいだったと思います。連載中の雑誌ではなく、友達の家で単行本5巻を一気読み。今にして思えば、よくあの内容を少年誌(少年マガジン)で掲載できたもんだ。

手足は千切れ、血が飛び散る残酷描写に、物語の終わりに人類は滅び、主要なキャラクターはほぼ全滅。不動明の恋人、牧村美樹は、惨殺された上に晒し首になるという、超トラウマ級のストーリー展開。

シレーヌは、「裏切り者」アモン(不動明と合体する前の名前)を抹殺するために現れた最初の刺客。結末を予測させるような、文字通り血みどろの死闘を演じて、立ったまま最期を迎えます。

テレビアニメ版にも出ては来ますが、原作とはまったくの別物。お子様向けにずいぶんと毒気を抜いてあったので、シレーヌの印象もほとんど残っていません。なので、今回の美女図鑑は、アニメでも映画でもない、コミックのイメージを元に描いております。

とは言え、「フィリピン」美女図鑑。やっぱり私なりにアレンジして、フィリピン女性がシレーヌを演じたらという設定は大事にしたい。そこで、オリジナルでは完全に鳥の翼だったところを、頭髪の印象を残したり、手の形状は、ほぼ人のままにしたり。悪魔から、少し人間に引き戻した感じにしてみました。

そして、おっぱい丸出しではSNSでシェアできないので、やや不本意ながらも、隠すべき箇所はそれなりの表現に。実際に描いてみると、そっちの方が妙に生々しくなった気もしますけど。

さて、描き上げてみると、どこかで見たようなポーズ。何となく「サモトラケのニケ」っぽく見える。これは、ギリシャ領サモトラケ島で発見された、翼を持った勝利の女神を象った彫刻。頭部と両腕が失われているにもかかわらず、今にも動きだしそうな迫力で、ギリシャ彫刻の傑作と言われています。

偶然の欠損が、頭部から翼が生えたシレーヌの姿に重なって見えてしまう。ひょっとすると、この独創的なシルエットは、女神ニケから着想を得たのかも?



過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

2017年

2018年

2019年


2019年10月24日木曜日

身近の異文化


異国の人と家族を作り、異国に住んでいると、あまりに当然過ぎて意識することもなくなってくるのが文化の違い。言葉や宗教観、歴史への認識はもちろん、細かいところでは、食事の作法に味の好み、笑いのツボや怒りの逆鱗まで、指摘しだしたらキリがない。

特に私みたいに、意味なく日本人同士で群れるのが嫌いという偏屈な性格だと、否応なしに大多数のフィリピン人の中で、日本人は私ただ一人になるシチュエーションが普通。6年半もこれなので、慣れざるを得ません。

それでも最初はストレスが溜まったものです。一番多いのは、こっちが客だったりクライアントの立場になった時。スーパーのレジで長蛇の列が出来ていても、係のお姉さんは鼻歌混じりでチンタラ仕事してたり。頭数が多いのに、他にたくさん空いているレジを開けるわけでもなし。

今、自宅裏庭でゲストハウスを作ってくれている大工さんにしても、アラを探せばいくらでもあります。タバコの吸殻や空き箱をポイ捨てするし、道具は出しっぱなしで帰っちゃうし。(本当に高価な工具は仕舞いますけど)

昔、父親が監督を務めるビルの工事現場でバイトした時、一日中掃除ばっかりやらされた身にすれば、ゴミを散らかしたままにできるメンタリティが理解できない。見た目のきれいさも去ることながら、危ないでしょうが。実際、古釘を踏み抜いて休んだ人もいるし。敷地内で立ちションするのだけは、さすがに注意しましたけどね。

さらに身近では、メイドさん。
サンダル脱いだら右はあっち左はこっち。買い物頼んだら、お釣りのお札はグチャっと丸めて財布の中。照明の付けっ放しも時々やってます。

こんな場面に出会すと、陥りがちなのが、日本人は優れていて、フィリピン人の民度が低いという一面的な思考。でも考えてみれば、レジ係の人たちなんて、安月給の上に半年でクビになる。そんな待遇で優秀な労働者が集まるわけがない。

大工さんにしても、それに近い状況。家を建てる腕さえ許せるなら、後は誤差の範囲と思わないと、こっちが疲れる。メイドさんに至っては、毎日顔を合わせる点では、家族に準じる存在。毎日ガミガミやったら、すぐに辞めてしまいます。

安全のために整理整頓とか、節電ならばまだしも、脱いだ履き物を揃えるのがなぜ必要なのか、ちゃんと理詰で説明しろとなったら、困ってしまう。

ところが最近、そんなフィリピン在留邦人的な状況が、日本でもジワジワと押し寄せているようです。日本の友人が、コンビニで100円の印鑑を買おうとしたら、順番がバラバラに置かれていた。店の人に言おうとしたら、ノン・ジャパニーズの店員さんばかり。これは仕方がないなと諦めたそうです。

それでもベトナムやネパールの人を相手に、罵詈雑言を吐く輩がいるらしい。ただ、ツィッターでの投稿を見ていると、あからさまに差別意識丸出しの客には、毅然とした態度で臨む店も増えている。そりゃ利益に繋がらない客(とも言えない)を出禁にして、貴重な労働力を守った方が合理的だし、マトモなお客さんは増えるとのこと。

これは、フィリピン人の家内と一緒になった時にも思った事ですが、最初から文化も思考形式も違うと思ったら、細かい事は気にならなくなります。もっと言えば、そもそも国籍がどうあれ、人間って一人一人別人格。違うのが当たり前。

こんな「世界の常識」が、異常なまでに同質性を要求する日本にいると、なかなか見えなくなるんですよね。


2019年10月22日火曜日

パンの本質



また、ケッタイなタイトルと思われたかも知れません。これ、最近見つけたフィリピン製パンのパッケージに書かれていたもの。名称らしきものが三行に並んでいて、一番上に「PANMOTO」、下に「ESSENCE OF BREAD」、そして真ん中にあるのが「パンの本質」。そのまんま日本語で印刷してあります。

日本で育って、母語を日本語とする人ならば、商品ブランドにしては何か変だと感じる微妙な名前。ひょっとしてと思って、グーグル翻訳で、ESSENCE OF BREADと打ち込んだら、案の定、「パンの本質」と出てきました。しかも書体まで同じ。


おそらく日本人、少なくともネイティブの日本語スピーカーは、企画やネーミングには加わっていないと推測されます。こういうのを見ると、脊髄反射のレベルで「メイド・イン・チャイナ」と断定する慌て者が出てきそう。

シライの隣街、西ネグロスの州都バコロドの大通りには、少し前からデッカい広告が出ていて、へぇ〜、また妙な名前を付けたなぁと思ってました。それが先日、たまたま買い物に出かけた近所のガイサノ(ショッピングモール)のスーパーで、商品棚に並んでいたので、物は試しと一斤購入。

別に他の食パンと比べて高いわけでもなく、トーストにして食べてみても、ごく普通の味。パッケージだけ、ちょっと奇を衒ったようです。ちなみに日本語の「パン」は、フィリピンでも、そのままで通じます。スペイン語から来ているとのこと。

電気製品では、この国では今も信じられている「日本製神話」の影響か、何の関係も意味もなく日本語っぽい名前や、日本メーカーブランドをちょっとだけ変えたものが多いフィリピン。お客さんもバカではないので、生産地が日本ではないことを知っています。

結局、日本でもよくあるマーケティング戦略で、名前だけでも外国風にすると、何となく格好良く感じるから。これに関しては、決してフィリピン人を笑えません。

およそ20年前、フィリピン人家内の来日時、最初に「?」となったのが、私が借りていた賃貸マンション。なぜかスペイン語で「Casa Fiesta」。本当はカーサと発音するところを、カタカナで「カサ・フィエスタ」となっていました。直訳するとパーティ・ハウス。フィリピノ語でフィエスタと言えば、お祭りのこと。

次に引っ越した横浜市都筑区では「リンデンハイム・仲町台」「Linden Heim」とはドイツ語でリンデン(ドイツの地名?)の家という意味。なぜここでドイツ語?

さらに次が「エスポワール・南茨木」。今度はフランス語の Espoir (希望)。4軒目がようやく「鳥飼中央ビル」で、ポエムな世界から脱却。考えてみたら、ただのアパートをマンション Mansion (邸宅)と呼ぶのが、一番のポエムかも。

ということで、外国の人たちから、日本風の名前や日本的な発音、平仮名や漢字が、憧れを持って受け止められていると思えば、ことさらそれを囃し立てたり怒ったりするのも、見当違い。日本人がロクに知りもしないのに、ヨーロッパの言葉を垢抜けていると感じるのと同様。

最近のフィリピンの若者の間では、ハングルを印刷したTシャツが幅を利かせてたりもします。フェイスブックで、韓流スターの写真をプロフィールにしてる人も多い。多少不自然でも、日本語を使ってくれるうちが華、ということでしょうね。


2019年10月20日日曜日

自作の家具で模様替え

先月の投稿で書いた、ゲストハウス新築に伴って自分でデザインした家具。厚さ1センチほどのベニヤ板で作ってもらうシンプルなものばかり。大工さんも塗装工も揃っている今なので、ゲストハウス用だけでなく、母屋で使うものもたくさん発注。

数えてみたら、棚が九つと家内のドレッサーが一つ。裏板もがっちり作ったので、どれも丈夫で相当な重量となりました。

大工さんの人件費が日本の1/4から1/5のフィリピン、ネグロス島。家にしてもそうですが、自分で図面が引ければ、日本に比べればはるかに安く、好きなようにできます。そんな自作の家具が、先週辺りから続々と完成。塗装の乾燥を待って、母屋に運び込んで模様替え大会となりました。

まず一番の大物が、居間の壁一面の本棚。元々あった棚は、移住後すぐに購入したもの。置いていたのは主にDVDなど。書籍に比べるとずいぶん軽いはずなのに、棚板がすっかりたわんでしまいした。フィリピンで買ったから、中国製だから、とはあまり関係なく、日本でもそれほど高価でない本棚は、大抵こうなっちゃうんですよね。

まずは、古い棚からDVDやアルバムなどを取り出す作業。量は知れてるし、力仕事でもないけれど、どれも埃まみれ。こういう時に手伝ってくれるメイドさんがいると、どれだけ楽か。一人で全部やること思うと、それだけで挫折しそうになります。

ずっしり重い新しい本棚。設置を大工さんにお願いして、後は出した物を戻すのみ。実はこれが一番面倒なんですよ。根が癇症病み(かんしょやみ / 関西弁で神経質なこと)な私なので、表紙は新旧の順番通り、サイズも揃えて美しく並んでいないと気になって仕方がない。メイドさんに任せたりしたら、日本語が読めないもんだから上下逆にしたりするし。



とは言え、私にとっては楽しい作業でもあります。28年間職業にしていていたデザイナーという仕事も、部屋の片付けと似ています。混乱した状況から秩序を見つけ出して、分かりやすく美しくするのが、デザインの本質みたいなもの。



ということで、大工&メイドの協力のお陰で、狙い通りにすっきりした居間。古い棚は、傷みが少ない半分をゲストハウスに、日本だったら処分してしまうであろう、棚板が少し曲がった残りの半分は、家内の職場に寄贈することになっております。

そして翌日は、台所。正確には台所の脇に作った、フィリピン独特の「ダーティ・キッチン」と呼ばれる土間みたいな空間。広さ三畳ぐらいの細長い部屋に、食材や調理道具を置くための棚を三つ新作。これでぐっと調理仕事の効率が上がって、見た目も上々。



最後が、家内のドレッサー。
母屋が出来てしばらくしてから買ったものながら、やっぱり安物はダメですね。鏡とスツールはまだ使えても、引き出しの底板が反ってしまい、きちんと閉まらなくなってました。なのでこちらは新作ではなく、部分的に補完する形。


今回の模様替えで、家内が一番喜んだのはこれでした。


2019年10月19日土曜日

全館点灯、200万ペソ到達

日本での台風19号騒ぎやら、親戚の結婚式やらで、いろいろ取り紛れてしまって、ゲストハウス建設関連の投稿が滞っておりました。

最後の最後にぶち当たった難関、電気引き込み工事の目処が立ち、仮配線ながらようやく照明だけは使えるようになり、昨日の金曜日(2019年10月18日)全館点灯テストを敢行。







母屋の時に感じたのと同様、やっぱりライティングがあると、もう建設現場ではなく住むことができる家。間取りが、30年前に建て替えてしまった、兵庫県尼崎市にあった私の実家を再現したものなので、新築なのに郷愁を覚えてしまいます。玄関の扉を開ける時、つい「ただいま」と言ってしまいそう。

10日前の投稿で、電気の引き込みを電力会社に依頼するための図面や書類を準備中と書きました。実は申請してからちょっとトラブル。何と工事費用が3万ペソ(約6万3千円)との見積もり。いくらなんでもそれは高過ぎ。母屋の時は、数千ペソだったはずなのに。

そこで地元に厚い人脈のある家内。ママ友の旦那さんがセネコ(CENECO ネグロス中央電力)勤務なので、相談に乗ってもらうことに。旦那さんの名前はガブリエル。実に気さくなオッちゃんで、わざわざ土曜日の午前中に、奥さんのケネスと一緒に我が家まで来てくれました。

間取りと配線を一通り見て「使用電力見積もりが多過ぎ」。電力計算をした電気技師がエエ加減なのか、冷蔵庫やエアコンの消費電力を一昔前の規定で算出していたらしい。使う電力が増えると工事費も高くなる仕組みで、特にエアコン3台分が効いた。

結局、電力計算なしのテンポラリー(仮工事)で、十分賄えることが分かり、配線工のサルディに来てもらって、その場で仕様と必要電材を指示。なんじゃそりゃ。

そういう経緯があって、週明けからやっと分電盤の買い付け。取り付け作業が昨日終わって、取り敢えず母屋から電源ドラムを使って、照明と換気扇は無事動作確認ができたという次第。

こんな事なら、真面目に手続きなどせず、最初からガブリエルに頼めばよかった。以前に比べればかなりマシになったとは言え、こういう所は相変わらずのフィリピン。「知り合い」「友達」が幅を利かせる旧体質。ただ、当のガブリエルが、謝礼を一切受け取らなかったのは立派。

それにしても、最後の方で分電盤を付けるので、折角塗装まで終わった壁を盛大にカチ割るのには、施主の心が痛みました。これもフィリピン的な仕事の進め方。効率の悪いことおびただしい。




ということで、当初4ヶ月のはずだった工期が、7ヶ月目に突入した10月。ようやく今月中の竣工が見えてまいりました。


10/8〜10/19の出費

大工さん給料:14,425ペソ
電材:23,361ペソ
溶接機レンタル料:750ペソ
土砂・コンクリートブロックなど:2,480ペソ
セメントなど:10,385ペソ
塗料など:1,890ペソ

計:53,291ペソ

本日までの合計:2,012,136ペソ


家具や家電製品を買う前に、200万ペソに到達してしまいましたねぇ。


2019年10月15日火曜日

新郎新婦に親三組


この国と付き合っている人ならお分かりのように、冠婚葬祭との遭遇率が高いフィリピン。とにかく人間が多く、特に子供や若者の数が半端ない。社会に活気があると言うか、ちょっと鬱陶しいぐらいと言うか。

そんなフィリピンでも、昨日、顔を出した結婚式は、かなり珍しい部類じゃないかと思い、このブログに投稿する次第。

タイトルからもお分かりのように、新郎の両親が別居してそれぞれに新しい伴侶がいて、新婦からすれば義両親が二組いる状況。しかも、合計三組の親たちが、当たり前に式に同席して記念撮影にも並んでいたというお話。

さらに当のカップルも、すでに同居して子供が一人。旦那がまだ22歳なのにお相手が30歳過ぎの姉さん女房。まぁ部外者の私が騒ぐようなことではないけれど、やっぱりいろいろと気になってしまう。部外者なんて書きましたが、実は新郎のジャッド君は、小さい頃から知っていて、何を隠そう家内の従弟の長男。

しかも部外者どころか、私たち夫婦がプリンシパル・スポンサー(20組みぐらいいる結婚の後援者、敢えて言うなら、頼まれ仲人に近いかも)も務めることに。

最初に会ったのは小学校の低学年ぐらいの時。実に可愛らしい男の子で、目がクリクリのおかっぱ頭。知らなかったら女の子と間違えそう。同じ高校に通っていたという、我が家の初代メイドのカトリーナによると、女子生徒たちのアイドルだったとのこと。

父親のボンボンは、今でこそちょっとショボくれた中年ながら、こちらも初対面の時は男前でした。どうやらプレイボーイだったお父さん(つまり家内の叔父)、パパ・ボーイの血を受け継いだようで、親子二代に渡って複数の女性と家庭を持ってしまった。

4年前にパパ・ボーイが心臓発作で急逝の折には、棺の前で、このボンボンと後妻さんの間で火花が散ったのは、以前に書いた通り。(出て行け〜

そしてジャッドの母親サラが、これまた美人なんですよね。早めに老けてしまった前夫とは対照的に、今も若々しい現役のダンサーにしてインストラクター。シライ市内では有名で、名士と言ってもいいぐらい。歌や踊りのプロは、フィリピンでは幅が効くんですよ。

大きなお世話ながら、ボンボンが今マニラで同居している女性が、十人並みの美人なのに何とも愛想がなくて、親戚としてはあまりいい印象がありません。我が家に来た時など、私が食事を用意しても、礼も言わず黙々と食べてるだけだったし。

ちなみに、昔からボンボンとサラの事を知っている、同世代のメイドのライラおばさんはサラ贔屓。やっぱり「なぜ、あんないい奥さんと別れて...。」という感じ。

もちろん夫婦の間なんて、実際のところは当事者同士にしか分からないもの。バツイチの私が言うと自己弁護に聞こえそうですが、たとえ側からそう見えていても、いい妻だったか、いい夫だったかなんて、所詮は他人の憶測に過ぎません。

というわけで、今ではそれぞれ新しい連れ合いと、子供までもうけたボンボンとサラ。写真大好きのフィリピンでは恒例の、延々と続く記念撮影。「新郎新婦とその両親」は、カップルと三組の親たちという、左右非対称の不思議な構図となりました。


その後には、新郎のジャッドから見ると、異母・異父のまだ幼い兄弟姉妹たちとも笑顔でパチリ。もちろん結婚前に生まれた娘さんも一緒。もう訳が分かりません。


2019年10月11日金曜日

スーパー台風ハギビス


このブログの執筆中(2019年10月11日フィリピン時間午後3時)に、「typhoon」でググると、Super Typhoon Hagibis (スーパー台風ハギビス)の記事がたくさんヒットします。ハギビスとは、現在日本に接近中の台風19号の国際名。直接影響を受ける日本以外から注目されるほど、記録的な強さと大きさ。

この「ハギビス」という名前。実はフィリピンから提供されたもの。2000年より、南シナ海と北西太平洋で発生する台風には、日本を含む14カ国が加盟する台風委員会が命名することになっていて、名前は加盟各国から提供された合計140個を順番に使用。

フィリピンでは、この国際名とは別に、国土に近づいた台風や熱低に限ってPAGASA(フィリピンの気象庁)が独自の命名を行っていますが、今回は皮肉なことに、フィリピンに被害を与えない19号台風に、フィリピノ語の名前が付けられました。

意味は「迅速な」とか「俊敏な」。人の名前にも使われるらしく、フィリピンを舞台としたNHK大河ドラマ「黄金の日日」で、主人公の呂宋助左衛門が漂着する、ルソン島の戦士の名前がハギビスでした。日本語ならば「敏郎」みたいな感じでしょうか。

一方、日本語の記事では、その進路が酷似していることから、1958年(昭和33年)に、関東地方に甚大な被害をもたらした、狩野川(かのがわ)台風の再来かとの声も。つまり、こんなに強力な台風が関東地方を直撃するのは、ほぼ60年ぶりということ。

私が小学生ぐらいの頃、NHK大阪の制作で、毎年台風シーズンになると連続で放送していた番組があります。ネットで調べても出てこないので、確かなことは分かりませんが、昭和40年代の放送。

当時はまだ、ジェーン台風(1950年 / 昭和25年)や伊勢湾台風(1959年 / 昭和34年)、第二室戸台風(1961年 / 昭和36年)など、近畿地方で大きな被害を出した台風の記憶が、生々しかった時代。過去の記録と映像で、台風がもたらす被害の詳細を、分かりやすく解説した内容に、家族でずいぶん熱心に観たことを覚えています。

その中でも特に印象的な写真が、実は、今回引き合いに出されている、狩野川台風通過直後の被災地を記録したもの。あまりにも破壊的に、集落が一掃された風景。まさか今頃になって、この写真をネット上で見るとは思いませんでした。


これは、被害が最も大きかった伊豆付近だと思いますが、東京都内でも約33万戸が浸水。江東区、墨田区、葛飾区など下町だけでなく、水害が起こりにくいとされた、世田谷区、杉並区、中野区と言った山手でも被害が出たそうです。

もちろん、下水などのインフラ整備が進み、当時とは様変わりしているので、進路が似ているから同じ惨事になるとは限らない。それでも、上陸予想の前日に「非常に強い」勢力と、瞬間最大風速が秒速70メートルとのこと。

とにかく風雨が強くなってきたら、絶対に外出はしないでほしい。下手に窓を開けたりしたら、室内に吹き込んだ風の逃げ道がなくなって、屋根が吹き飛ばされてしまうこともあるそうです。ましてや出勤するなんて、自殺行為でしょう。フィリピンだったら警告がなくても、仕事に行く人なんて絶対にいません。

ということで、少しでも台風の影響が軽く済む事を、ネグロス島から願っております。この投稿が、ただの空騒ぎで終わりますように。


2019年10月10日木曜日

日本の皆さま、どうかご無事で

一ヶ月前、千葉県を中心に甚大な被害をもたらした台風15号。驚くことに、ごく一部とは言え、まだ停電している世帯があるとのこと。NHKの報道によると、高速や幹線道路みたいなメインの電線が復旧しても、各家庭に分岐する路地の部分が、場所によっては複雑な接続になっていて、そこがネックになっているらしい。

また房総半島周辺では、秋の行楽シーズンなのにお客さんが激減してしまい、観光収入に頼る人々が厳しい状況に。1995年の阪神淡路大震災後の神戸と、同じような事になってるんですね。

その15号の経路をなぞるように、中心気圧915hPa、最大瞬間風速が秒速75メートル(フィリピン標準時刻、2019年10月10日 午後15時現在)という、エゲつない台風19号が首都圏に接近中です。さらに特筆すべきはそのサイズ。秒速15メートル以上の強風圏に本州全部が入ってしまうぐらいのデカさ。


出典:Earth Wind Map

ネットの日本語環境では、大手の新聞や放送局だけでなく、専門家や、過去の大型台風を実際に経験した個人のブログに至るまで、厳重な警戒を呼びかける投稿が、たくさんアップされています。

そのいくつかに目を通してみると、2013年にフィリピン中部のビサヤ諸島に襲来した、史上最悪のスーパー台風「ヨランダ」を彷彿とさせる内容が。当時は、私たち家族がネグロス島(中央ビサヤ地方)に移住して、まだ半年の頃。

在マニラ日本大使館からのメールの文面というのが、今ネットに溢れている台風情報にそっくり。「60メートルを超える風速」「過去に例を見ない甚大な被害が予想され」「食料、飲料水の確保に万全を」...。

秒速60メートルを超える強風なんて、日本では、そうは経験するものではありません。その上、移住して間も無く、イマイチ土地勘のない私は、震え上がりました。

実際には、自宅のあるネグロス島シライ市の被害は、それほどでもなく、我が家の停電も3日目には解消。被害が大きかったのは、ネグロスよりずっと東で、ヨランダの上陸地点に位置するレイテやサマールの島々。特にレイテの州都タクロバンは、高潮のために市街地が壊滅するほどの被害。ここだけで6,000名以上の死者を出しました。

この時に問題となったのが「高潮」という表現。どうもそれに該当する適当なフィリピノ語やワライ語、ビサヤ語がなかったらしく、英語の Storm Surge 使って警告したところ、多くの人が深刻に受け取らず(と言うか意味が分からず)、結果として避難が遅れました。家や家族を失った被災者が、「津波」Tsunami と言ってくれたらすぐに逃げたのにと、悔やんだそうです。

不吉な事に、今回の19号台風に関する記事で、高潮発生の可能性を指摘する投稿を目にしました。それでなくても、ここ数年、それこそ過去に例を見ない風水害が頻発している日本。気象庁を始めとする関係機関も、以前では考えられないような強い表現(「接近とともに世界が変わる」台風15号)を用いて、何とか早めの避難を呼びかけています。

ヨランダ辺りまでは、台風接近が多く被害も大きくなりがちなフィリピンを、日本は他人事のように遠くで見ている感じでした。またフィリピンに襲来するのは、生まれたての強い台風だと、私も根拠なく思っていたのが、実は進路上の海水温度の関係で、日本に接近してからの方が勢力が強まることだってある。

真夏の異常な暑さと同様、台風に関する常識も、昔とはまったく変わってしまったようです。移住してからというもの、フィリピンに住んでいて、自然災害で日本の心配をすることが本当に多い。どうか日本の皆さま、台風の威力を過小評価することなく、くれぐれもご無事で。


2019年10月9日水曜日

マクドが街にやって来た



もう一週間ほど前のお話。
私たち家族が移住した、ここネグロス島シライ市に、マクドナルドが開店しました。1940年(昭和15年!)にアメリカ、カリフォルニアで創業。2013年現在で、全世界に3万5千を超える店舗を展開するマクドナルド。

当然、フィリピンにも進出済みで、その知名度の高さと存在感は日本と同等レベル。ただし、日本以上に食生活のアメリカナイズが進んでいるフィリピンと言えども、ファーストフード人気ナンバーワンは、マクドナルドではなく、圧倒的な差を付けてジョリビー。日本でも長く1位だったのが、最近は僅差ながら、モスバーガーに競り負けているそうですね。

とは言うものの、やっぱりグローバル企業の超有名ブランド。50万都市の西ネグロス州都バコロドならいざ知らず、人口13万足らずの地方都市シライ。マクドナルドが出店となると、かなりの話題になります。20年以上前、この街に初めて来た頃を思うと隔世の感。

ちなみに、今やフィリピン人のソウルフード化しているジョリビーは、ちょうど1年前に、ショッピングモールのガイサノ内テナントとしてオープン済み。シライ市内の2号店となる、ドライブスルー併設の独立店舗を準備中という段階。(我が街シライにジョリビーがオープン

その他のチェーン店では、串焼き鶏専門店「マン・イナサル」に、コンビニエス・ストアの「セブンイレブン」。流通大手の「フードマン」「ロプェス」「プリンス」、「セーブモア」。近々、ホームセンターで有名な「シティ・ハードウェア」も、市の中心部に出来るらしい。

つまり、マクドナルド・シライの開店は、この5〜6年の、シライへの出店ラッシュの一環という見方もできます。まったくの偶然ながら、私たち家族が日本から引っ越してきたのが、2013年の6年前。このブログで事あるごとに書いているように、本当に1960〜70年代の、活気溢れる日本を見ているよう。

ところで、フィリピンでのマクドナルドの呼び方。日本では西と東で「マクド」「マック」に二分されていますね。私は関西の生まれ育ちなので、学生の頃から「マクド」。マックと言ったら、どうしてもファーストフードより、アップルのコンピューターを思い出してしまいます。

こちらも偶然ながら、フィリピンでの略称が「マクド」。正確には、日本式の "Makudo" じゃなくて "Makdo" なんだそうですが、私が関西訛り丸出しで「マド」(「ク」にアクセント)と発音しても、一応通じます。

前置きが長くなりましたが、開店当日の10月1日、私も「マクド・シライ」に行ってきました。さすがにマーク・ゴレツ市長出席のオープニングセレモニーの時間は外したものの、平日昼過ぎでもお客さんで大賑わい。


昔からある、独立した2階建商業建築物を全面改装。店が広くて客席数が多いので、混雑が緩和して見えるのを割り引いても、昨年9月のジョリビー開店時ほど、熱狂的な感じではありません。王者ジョリビーとの格の違いを感じてしまいました。



二階の窓から見える
サンディエゴ大聖堂

ただ、私個人の好みから言えば、やっぱり昔から慣れ親しんだマクドの味に軍配を挙げたい。それほど頻繁に利用する気はないけれど、一ヶ月に一度ぐらいなら、ジョリビーの甘いスパゲティーより、ビッグマックを食べたくなりますね。

何にせよ、選択肢の幅が広がるのは大歓迎。たまに家内の里帰りに訪れる街ではなく、ずっと住んで、骨を埋めようという場所ですから。


2019年10月7日月曜日

終わりそうで終わらない現場

遂に着工以来、丸半年が経過した、裏庭のゲストハウス建設。建物本体は外装も内装も殆ど仕上がり、ほんの少しだけ塗装のタッチアップが残っている程度。でも、建具と配線・配管が微妙に未完で、まだ住んだり宿泊したりはできません。

大工さんの作業は、周囲フェンスと、それに付属する3メートル四方の鶏舎の仕上げに移行。今週中にはモルタル完で、来週までには塗装の見込み。庭には、合計25立米の土入れが終わっています。







南西の角には鶏舎
屋根はトタン、壁と扉は竹の予定



南東には発電機を設置

建具に関しては、建て付けがイマイチの場所を調整したり、網戸のスライド鍵の鍵穴を開けるぐらいなので、戸締りはできるし、虫もだいたい防げます。

水道は、全部配管が終わって開栓済み。ところが、配管担当のアントニオ君が何を勘違いしたのか、シャワーからの水量を調節するバルブを、外したまま水道管をつないでしまった。これでは元栓開けたら水流を止められない。なので、こちらは、バルブ取り付け待ち。

そして、肝心要の電気がまだ。水は出てもポンプが稼働できないので、加圧ができないし、電熱式給湯器が使えずシャワーのお湯も出ない。つまり全体では、電気待ちと言ってもいい状況。

これは、配線工のサルディと相棒のセバスチャンの手が遅いからではなく、電力会社のセネコ(CENECO / Central Negros Electric Cooperative 中央ネグロス電力)に提出する書類の準備がまだ整わないから。

母屋を建てた5年前とは、手続きのルールは変わったらしい。まずは、建築申請時の配線図を承認した、ライセンスを持つ電気技術者に、最終の使用電力量を計算してもらい、その書類にサイン。それを申請者がセネコに提出して、許可をもらうという流れ。セネコからは工事前に、現地で確認のため担当者が見に来ます。

配線工のサルディは、電力計算書に基づいた仕様の分電盤を買って取り付けるので、書類がなければ、次の作業にかかれないというわけ。分電盤込みで配線が完了しないと、セネコに電気工事を頼めません。


分電盤設置場所は、まだこんな状態

さて、こういうややこしい手続きになると、地元民の家内に頼るしかないわけですが、家内もルール変更を知らず、申請図面に係わった技術者の連絡先が分からない。やっと住所を探し当てて、わざわざ技術者の自宅まで、書類作成を有料(500ペソ)で依頼しに行ったら不在。留守番のメイドさんが要領を得ない対応で、電話番号も教えてくれないから、3回ぐらい無駄足。

やっと依頼できたと思ったら、今度は建築士作成の図面に間違いが発覚。今現在は、その建築士に、間違いを訂正した図面の再作成を頼んでいるところです。

これが出来て、ようやく電気技術者のサインが貰えて、それからセネコのオフィスに書類提出。今日が週明け月曜日で、今週中に電気工事ができるかどうか。いつもながら、フィリピンの書類申請の煩わしさには、手を焼きます。

ただし材料への出費や、大工さんへの支払いは、もう先が見えてきました。電気の目処が付いて、次の週末は、家電製品と家具の購入ができたら、いよいよ終わりという感じです。


9/29〜10/7の出費

大工さん給料:11,800ペソ
配線工給料:2,000ペソ

土砂・コンクリートブロックなど:18,900ペソ
セメント、フェンス用鋼材など:9,590ペソ
その他:857ペソ

計:53,147ペソ

本日までの合計:1,958,845ペソ


とうとう、2ミリオンを突破しそう...。


2019年10月4日金曜日

おっぱいポロリのメイドさん

もう「釣り」以外の何物でもないタイトルで申し訳ありません。でも本当にそんな感じだったんですよ。

問題のメイドさんとは、いつも来てくれてるライラおばさんではなく、喘息が悪化して一週間の病欠になったライラの代打で、二日間だけアルバイトしてもらった、二十歳のティンティン(クリスティンの愛称)。

二十歳なのに三歳の子供がいるという、フィリピンあるあるの女の子。小柄だし、顔付きも二十歳どころか中学生の我が息子の同級生と言われても、そうかいなと思うほど。ライラが顔見せで連れて来た時にその子供も一緒で、思わず「弟さん?」と訊いてしまった。いわゆる「子供が子供を産んだ」というパターン。


さて、業務初日。子供を実家に預かってもらい、一人でやって来たティンティン。子供を抱いていないと、まるっきりティーンエイジャーにしか見えません。取り敢えず、皿洗いにリビング・ダイニングの掃き掃除、飲料水の購入などのルーティーンワークをお願いしました。

そして昼前にはいつものように、家内と息子の弁当作り。料理はできないティンティンなので、野菜を切ったり煮物の鍋番をしたり。滞りなく弁当準備ができて、ちょっと早めの昼食を済ませてから、トライシクル(オート輪タク)でものの5分の距離にある、家内の職場、DepED(Department of Education ディプエッド / 教育省の出先機関)とその向かいにある息子の学校へ弁当配達。

出がけに「配達の後、一度家に戻って、子供を連れて来ていいですか?」と言うので「ワラ・プログレマ(問題ないよ)。」と返事。そんなに難しい子でもなさそうだし。

さて、その言葉通り、小一時間ほどで、子連れで戻って来たティンティン。しばらくする事もないし、息子が幼稚園の頃観ていたアンパンマンのDVDを再生。もちろん日本語音声だけですが、それなりに面白がってました。

それを見届けて、私は2階の書斎で、イラスト描いたりブログを更新したり。ずいぶん静かになったと思って降りてみたら、ティンティンがおっぱいポロリで、子供に授乳していたというわけです。

フィリピンでは...というか、少なくとも私が住んでいるネグロス島で見た範囲では、お母さんがショッピングモールのベンチなど他人の目がある場所で、胸をはだけて授乳するというのは、それほど珍しい光景でもありません。私が子供の頃には、日本でもたまに見かけました。

今の日本でもなくはないでしょうけど、やっぱり授乳室だったり、場所がなければトイレの個室とか自家用車の後部座席。また、授乳ケープを使うこともあるでしょう。いずれにしても、ずいぶん気を遣う話。

フィリピンでは、乳幼児を連れて歩くお母さんやお父さんの絶対数が、日本に比べると段違いに多いので、赤ちゃんが泣こうが授乳をしてようが、誰も気にしない感じ。幼稚園児ぐらいの子供がレストランで騒いで、保護者が放ったらかしなのは、ちょっと困りますけど。

という前提があるにしても、クライアントの家でメイドが、それも二十歳の女性が平然と胸をはだけているのは、さすがに驚きました。今更、女の子のおっぱいを見たからと、ドキドキするような年齢でもないけれど、客間もあるし、台所の隅に行ってもよさそうなもの。堂々とリビングのソファに、正面向いて座ってたので、一瞬目のやり場に困ってしまった。

実は以前にも、これと似たような状況が。
もう5年ぐらい前に、セブで貧困住民の生活改善を目指している、日本のNGOの活動に参加して、スラムのような場所に数日体験宿泊した時のこと。私が泊めてもらった家だけでなく、周囲は小さな子供たちがウジャウジャ。

乳幼児もたくさんいて、お母さんたちは、ポロっとTシャツの胸をまくり上げて、赤ちゃんに乳首を含ませたまま、カラオケで歌ってました。(「おっぱいカラオケ」)

まぁ、ここまで屈託なく自由に振る舞うのは、フィリピンでも貧困層に限られているようです。おそらくティンティンも、ご近所さんがいる中で、当たり前に授乳するのが習慣になってるんでしょうね。住んでいる場所が、バラックが建て込んだ、ギンハラランというバランガイ(フィリピンの最小行政区)ですから。

2日目の今日は、さらに行動が大胆に。
朝から子供同伴なのはいいとしても、昼過ぎには授乳したまま親子でうたた寝。ティンティンは、おっぱい丸出しでソファで寝息を立ててます。どこまで無警戒なんじゃ。

それにしても、3歳になってもまだ授乳、しかも母乳なんですね。息子の時は、せいぜい2歳になる前に、離乳食に移行した記憶があります。ネットで調べてみたら、かなり個人差が大きくて、何歳までと、決めつけることはできないらしい。

ということで、二日間だけの臨時雇いながら、強烈な印象を残したティンティンとその三歳の子供は、今日の夕刻、我が家を後にしました。


2019年10月3日木曜日

57歳の誕生日に思うこと


今日10月3日は、私の誕生日。昭和37年(1962年)生まれなので、今年(2019年)で57歳になります。このブログは、英語留学やボランティア活動で、ネグロス島に興味を持った若い人が読んだりすることも。そんな人たちからすれば、1962年なんて、もう歴史の一部という感覚でしょう。

この年は、ビートルズが「ラヴ・ミー・ドゥー」でメジャーデビュー。戦後初の国産旅客機YS11(懐かし〜)が完成し、007ジェームスボンド映画の第1作「ドクター・ノオ」が公開。

世界情勢では、米ソ(アメリカとソビエト連邦のこと)冷戦真っ只中で、ベトナム戦争が激化。キューバ危機が起こって、全面核戦争の一歩手前まで行きました。

ちなみに10月3日、まさに私が生まれた当日には、阪神タイガースが2リーグ制後の初優勝。だからと言って、タイガースファンにはなりませんでしたけど。

マリリン・モンローが亡くなり、その後世界的な薬害事件の原因となった、サリドマイドの催奇形性が発覚して使用中止。つわりの症状改善で処方されたこともあり、私が被害者になっていた可能性もある、たいへん恐ろしい出来事。

同年生まれの有名人では、松田聖子ちゃんに、布袋寅泰さん。トム・クルーズボン・ジョヴィ。ノーベル賞を受賞した山中伸弥博士、脳科学者の茂木健一郎さん、叶姉妹の恭子さんもいます。

と、並べてみると、確かに歴史の1ページですなぁ。

ところで、日本生まれのこの世代って、結構激しい浮き沈みを経験してるんですよね。小学生ぐらいまでは、東京オリンピックだ、東海道新幹線開業だ(1964年)、大阪万博(1970年)だと、行け行けドンドンの高度経済成長だったのが、いきなりのオイルショックでエゲツないインフレに見舞われます。

一気に世相が暗くなって、「タワーリング・インフェルノ」に代表されるパニック映画や、1999年に世界が滅ぶとする「ノストラダムスの大予言」が流行ったり。と思ったら、学生時代から就職期の1980年代には、今では「神話」と化したバブル経済。そしてトドメに「失われた20年」。まるでジェットコースターみたい。

私の親世代も、浮き沈みという点ではもっと激しい。何しろ、原体験が敗戦後の焼け野原。その分、本当のドン底生活が骨身に染みているので、母親に言わせれば「もう、怖いもんあれへん」とのこと。打たれ強いこと、この上なし。

父親なんて、バブル後に自己破産まで経験しているのに、一度も「困った」という顔を見たことがありません。保証人になった私や、後始末をした弟の方が、よっぽど苦労した感じ。

多分そのせいでしょうね。嫌韓・嫌中を叫び、クール・ジャパン話が大好きで、現実逃避するネトウヨ連中に、50〜60代のオっさんが多いというのは。たまたま日本が調子のいい時代に、青春期、壮年期を謳歌し、精神論で頑張れば大丈夫との幻想を捨てられない人々。厄介なのは、自分の成功体験=日本の伝統と、思い込んでいるところ。

その上、最近の中高年は、私の祖父母の世代に比べると、10歳から20歳ぐらい肉体年齢が若くなっている。これは私の実感であり、そう思う同世代の方も多いのでは?

唯でさえ現実に不満タラタラの上に、なまじっか身体が元気なので、ちっとも達観の境地に至らない。やたら怒りっぽくて不寛容な老人が増えることになるわけです。お店やレストランで、従業員に偉そうにしてる人って、半分以上が中高年の印象。「老害」なんて言葉が流行るわけだ。

なので、50歳をいくつか過ぎたら、若い人たちの迷惑にならず、不要なストレスを溜めないよう、早めに引退することを強くお勧めする次第。それでは生活ができないなら、日本を脱出すればよろしい。できない理由を理路整然と述べる人は、相手にする必要はありません。

日本を出るかどうかは別としても、まだ先の長い残り人生を充実させるためには、できない理由ではなく、できるためにどうするかを考えるべき。そうでないと、1960年代、昭和30〜40年代生まれの同輩諸氏は、これからの日本で生きるのに、ずいぶんと困難が待ち受けていそうですよ。


2019年10月2日水曜日

助っ人メイドは、子連れの二十歳

「ネタの宝庫」我が家のメイド、ライラおばさん。
時々ヘマもやらかすけど、働きぶりは概ね良い評価ができるレベル。唯一の難点が、ちょっと健康に問題があるところ。雨が続くと風邪引いたり、右膝が痛くなったり。特に厳しいのは、1週間も晴天で空気が乾燥すると、持病の喘息が。

呼吸困難になるほどひどくないとは言え、やっぱり見ていて可哀想になります。当然、本人も苦しくて、時々通院で1日仕事を休んだり。

本来なら今の時期、9月から10月は雨が多く、台風被害も頻発するフィリピン。ところがどういうわけか今年は、ネグロス島より、遠く日本を直撃する台風ばかり。これもエル・ニーニョの影響でしょうか。

そして空気が乾き、ネグロス全島を覆うサトウキビ畑から焼畑の煙が漂うと、てきめんにライラの咳が悪化する。それほど経済的に余裕はない中、ちゃんと通院しているライラ。咳の原因はアレルギー。日本の花粉症とは違い、患者数はそれほどでもないにしても、咳やクシャミなど、いかにもアレルギーの症状を訴える人を時々見かけます。

さて今回は、いつになく長引く咳。ライラが家内に相談して、1週間病欠することになりました。ライラの不在を埋めるために、16歳の姪っ子に助っ人を頼んでみるとのこと。ライラの姪だからメイラか?

この仮称メイラ嬢、まだ高校に通うはずの年齢ですが、何の事情か登校はせず、国が教育支援の一環として行なっている、学外への教師派遣を利用しているらしい。その関係で、シライ市教育委員会勤務の家内を、どこかで見たことがあると言ってました。

期待してたら、ライラから家内の携帯に、やっぱり子供過ぎて無理との連絡が。う〜ん、これで今週は、ワンオペ主夫かと観念。(というほど大層な仕事量でもないですけど)

ところが事態は再度変わって今日。昼前に家内と息子に届ける弁当の用意をしようかというタイミングで、今からライラが助っ人メイドを連れて来ると、職場の家内から電話。

やって来たのは、二十歳のティンティン。しかも子連れ。最初は弟かと思ったら、ティンティン自身が産んだ三歳児。高校を卒業するかしないかのタイミングでの出産ということになります。フィリピンではよくある話。


それはさておき、ライラが紹介するだけあって、気立ては良さそうだし明るいし。折角来てくれたので、ライラに1時間だけ弁当の準備と配達をお願いしたら、ティンティンは待っている間に、自発的に居間の掃除。

ということで明日から、たった二日間の臨時雇いながら、子供を実家に預けて、朝8時から夕方6時まで、我が家に来てもらうことになりました。

ちょうどお昼時だったので、ライラとティンティン、そして三歳の男の子が、台所の隅にあるテーブルで、残っていたおかずを昼食に。食べている間、お米や調味料の置き場所、飲料水の購入について、何かとレクチャーしているライラ。


ライラが辞めるわけではないけれど、新旧メイド間で業務引き継ぎする風景は、初めて見ました。今までは、里帰りしたまま帰って来なかったり、家内がクビにしたケースばかりだったもので。


家が出来ても引っ越せない

我が家の裏庭でのゲストハウス建設。それより約2ヶ月工事が先行していた、反対側隣家の新築がほぼ終わり、後はフェンスと作庭を残すのみとなりました。電気も水道も来ているし、窓越しには家具も揃っている様子。当然、すぐにでもクライアントが引っ越してくると思ってたら...。

今日(2019年10月2日)でもう半月は経過しているのに、大工は来ないし、誰かが住んでいる気配もない。夜間は真っ暗。時々、クライアントの物と思われる、赤いトヨタのウィーゴ(Toyota Wigo インドネシア開発の東南アジア向け車種)が停まっているけど、しばらくすると帰ってしまう。

このブログでも書いた通り、ラジオ騒音や道にはみ出して置かれた砂利などが原因で、この家の大工とはトラブル頻発。現場監督とかなり激しい口論になったり。フィリピン人相手に、ここまで関係が悪化したのは、今までないというぐらい。

それがあったので、大工が来なくなってホッとしたのが正直なところ。静かになったのは大歓迎なんですが、こう長い間、出来立ての家が放置されていると、関係ないとは言え、お隣さん。クライアントに恨みがあるわけでもなく、ちょっと心配に。

普通だったら、まだ工事が完全に終わらなくても、早々と住人が引っ越して来るのが普通のフィリピン。私たちも母屋を建てた時には、まだフェンスの作業中の時期に、それまで居た借家を引き払って、新居へ移動したものです。大工さんもそれを見越して、庭よりも家本体、外装よりも内装を先に仕上げる。

一体どうなってるのかと家内に訊いてみたら、どうやら建築費の支払いで問題があったらしい。クライアント家族は、旦那さんがOFW(Overseas Filipino Worker 海外出稼ぎ労働者)で、それも単純労働ではなく、そこそこいい稼ぎがあるとのこと。まだ幼児の子供が一人いて、直接話したことのある家内によると、奥さんは優しそう。

我が家のゲストハウスの場合は、自分で大工さんを直雇い。ところが、隣家は建築業者に丸投げのパッキャオ方式。出来上がった家は、中も外もずいぶんと凝った作り。私の感覚からすると装飾過剰。フィリピン人が思い描く「ドリームハウス」とはこういうものか。

総二階の床面積が、ざっと200平米はありそうな広さ。照明器具やキッチンも、いかにも「お金かかってます」。


ここからは私の想像ながら、クライアントが、あんまり途中確認してなかったようなので、請け負った業者が豪華にしちゃったんじゃないでしょうか。どういう契約なのか分からないので、断定はできないけれど、いざ支払いの段になって「こんな金額、聞いてねぇよ〜。」となったのかも。憶測に過ぎませんが。

フィリピンでよくあるのが、途中で資金が尽きて、塗装なしの廃屋みたいな外観の家に住んでいるパターン。こちらの場合は、何年かしてお金が貯まったら作業再開となります。私の知る限り、ほぼ完成した家に引っ越せないなんて、初めて見ました。

隣家が差し押さえを食らったわけではないでしょうけど、そういう話は、フィリピンで、よくある事らしい。銀行や、パギビグ(Pag-IBIG Fund フィリピン版の住宅金融公庫みたいな団体)から借金してローンを組んで、支払いができずに、建てた家を取られてしまうケース。実際、我が家の近所でも、銀行に家を差し押さえられて、今は無人になっている所もあるぐらい。

住宅だけではなく、隣街のタリサイ市にある、フォードのディーラー。店舗前の駐車スペースに中古車っぽい車がずらりと並んでると思ったら、途中でローンが滞ったオーナーから取り上げた車。ずいぶん印象の悪いことをするものです。

ということで、家だけ新品で、敷地が地面むき出し、廃材放置の状態を毎日見せられるのは、やっぱり気持ちのいいものではありません。早く何とかしてほしいものです。