2020年8月31日月曜日

バランガイ封鎖


先週の金曜日(2020年8月28日)から四日間の予定で始まった、西ネグロス州の封鎖(ロックダウン)。州民の移動を止めて、大規模な集団検査の実施が目的です。そして案の定、あちこちで新規にコロナ陽性が報告され、とうとう、個別のバランガイで、自宅待機による厳しい検疫措置となってしまいました。つまり、二重封鎖状態。

対象となったのは、私たち家族の住む宅地から、トライシクル(オート輪タク)で、ほんの5分の距離にある、バランガイ・ギンハララン。我が家のメイド、ライラと、イロンゴ語の家庭教師、アンの家がある場所。この封鎖は、1週間。この土曜日(9月5日)まで続きます。

いつもはバランガイ(Barangay)のことを、サラっと「町内会」と訳してましたが、今日は、もう少し詳しく説明します。(出典:Barangay - Wikipedia

バランガイの歴史は、16世紀以前にまで遡ります。スペイン人がフィリピンに到達した時には、すでに村落の名称として存在し、スペインの植民地時代から、アメリカ統治を経て現在に至るまで続く行政区分。

最初は、50〜100家族の比較的小さなコミュニティーだったのが、次第に発展し、1604年のスペインによる調査では、パナイ島(ネグロスの隣島)には、人口20,000のバランガイもあったんだとか。この頃は、マニラやセブより、イロイロがあるパナイ島が貿易で賑わっていたようです。

その後、それぞれの時代の為政者により、法制化・近代化が行われ、スペイン語の「バリオ(Barrio)」から、現在のバランガイへ正式に改称させたのが、1960〜80年代の独裁者マルコスでした。

現在のバランガイは、バランガイ・キャプテン(リーダー)と8人の評議会メンバーで構成され、バランガイ内での争い事を、裁判所に代わって和解させることが主な役割。要するに金も時間もかかって、係争者間で大きな禍根を残しかねない裁判沙汰を回避して、できるだけ穏便に、事を済まそうということらしい。何となく日本的な考え方ですね。

このような調停機能だけでなく、予算もちゃんと付くし、非武装ながら警備員も配置。最小行政単位とは言え、もう立派な地方自治体。キャプテンと評議会メンバーは、選挙によって決められ、時には流血沙汰にもなる、激しい選挙戦が展開されます。

各バランガイには、バランガイ・ホールという公民館みたいな建物があって、なぜかバスケットボールのコートが隣接してることが多い。私が住んでいるのは、シライ市のバランガイ・シンコ(第五バランガイ)。永住ビザ申請時の住民登録証明書を発行してもらうために、一度行ったことがあります。

2020年3月現在、全国に42,046もあるバランガイ。伝統もあるし地域に密着しているので、よく言えばバランガイ内住民の結束は堅く、悪く言えば排他的な側面も。今回のコロナ騒ぎでは、入り口に「よそ者立ち入り禁止(Outsiders No Entry)」の張り紙をするところも。

今回の封鎖は、このバランガイが主体で行われているもの。なので拘束力は強く、逆らう住民はまずいない。

聞く所によると、封鎖となったバランガイ・ギンハラランの中心である、かなり大きな市場(公設市場の除くと、シライ市内最大と思われる)のオーナーが、陽性と判定されました。これが原因で、市場とその周辺が根こそぎのロックダウン。

ということでライラも、今週は強制的にお休み。前回4月の封鎖の時とは違い、州全体の規制は、明日(9月1日)で解除なので、家内はオフィスに出勤。今週は、私のワンオペ家事になってしまいました。


2020年8月29日土曜日

再封鎖のフィリピン西ネグロス

またもや封鎖(ロックダウン)に突入してしまった、西ネグロス州。日本の四国より少し小さいネグロス島の西半分なので、徳島・愛媛を合わせたぐらいの面積。

かなり緩めの規制だったとは言え、もうかれこれ半年近く不自由な状態が続いていたところへ、州知事から今回の封鎖発表。さすがにうんざりしております。ただ前回と違って、何週間という単位ではなく、週末を挟んだ金曜日〜月曜日の四日間のみ。

二週間とかよりずっとマシなんですが、逆にこんな中途半端な封鎖をして、何の意味があるのかと訝しんでしまいます。知事の説明によると、この四日、バランガイ(フィリピンの最小行政区、大きな町内会みたいなもの)が主体になって、集団のコロナ検査(PCR検査)を行うとのこと。地元では、Mass Testing と呼んでます。

最初にこれを聞いた時には、陽性確認された人が住むバランガイで、強制的に全員を検査するのかと思ったら、そこまではしないらしく、原則、自覚症状があったり、特に希望する人だけらしい。

検査するだけなら、別に封鎖しなくていい気もしますが、ラクソン州知事がフェイスブックに投稿した記事を読むと、かなり中央政府を意識してのことのようです。つまり「やってる感」を演出するのが狙いなんじゃないか。政治家に限らず、パフォーマンス大好きなフィリピン人なので、ついそんな深読みをしてしまう。

それにしても、ただでさえ客足が遠のいている飲食店やショッピングモールなどの経営者にすれば、堪ったものではないでしょう。選りに選って土日に店を閉めないといけない。

その煽りを受けて、私のイロンゴ語レッスンも中止だし、週一の出張マッサージも、トライシクル(オート輪タク)が制限されていて、いつものセラピストが動けない。メイドのライラだけは、ご近所さんのバイクに乗せてもらって、何とか、封鎖初日の金曜日に出勤してくれましたが、市場が開いてないので、買い物もダメ。

ちなみに、8月28日現在の西ビサヤ地方(西ネグロスと隣島パナイ、ギマラスなどを含む地域)の累計陽性確認数は、4,073件。そのうち、2,132名が回復して、死者は60名だそうです。


やっぱり二つの州都、バコロドが769件、イロイロが839件と、群を抜いてます。

さて、この集団コロナ検査。陽性確認が少なければいいけれど、大量の感染者がいたとなったら、たとえ多くは症状が出ていないとしても、パニックになってしまう心配はあります。特に、元々、入院できる総合病院が一つっきりしかないシライ市など、一撃で医療崩壊となりかねない。

ここ数日は、検査の状況に注目です。


2020年8月27日木曜日

10万円で楽に暮らせる場所に10万円の仕事はない


今日のタイトルは、少し前にツィッターで見かけた言葉。正確な出典が定かでないので、言い回しは違うかもしれませんが、意味は合っていると思います。確か、安易な海外移住を諫める発言の一部だったような。

ちょっとネットで検索をかけると、出てきますね。「月10万円で贅沢に暮らせる」みたいな誘い文句。サイトによっては、10万円が15万円とか20万円になっていても、言ってることはだいたい同じ。

現役時代によほどの高収入だったか、若い頃に築いた資産など、退職後も年金その他で、悠々自適の生活を送れるならともかく、私のように、年金だけでは月々20万円にも遠く届かない人たちは、60代、70代でも働くしかない。

私の場合は、定年のさらに10年前に、思い切って日本の暮らしに見切りをつけて、家内の生まれ故郷のネグロス島に移住したわけです。実際に住んでみると、家を建てたりの初期費用を別にすれば、月10万円もあったら、相当楽な生活ができますね。

移住して7年間の好景気で、物価は上がったとは言え、それでも家族3人で、一切合切含めて、年間100万円も使っていないと思います。これには、週五日通っているメイドさん、月に数回の運転手さんなどの手当と、子供の私立中学への学費も含んでのこと。

有難いことに、4年前から家内がフィリピン教育省の職員になって、5万円強の月給を貰うようになったので、さらに楽。

つまり、もし給料が10万円、約4万5千ペソだったら、これはネグロスならば、家族の5〜6人ぐらい簡単に養える金額。借家に住んでも、せいぜい家賃が2万円まで。多分2LDK程度の家は借りられるでしょう。

誤解のないよう書き添えますと、これは飽くまで、ネグロスでもシライのような地方都市の話。州都バコロドなら、もう少しお金がかかるし、マニラ・セブのような大都市では、下手すれば、住むのも食べるのも、日本並みの出費になりかねませんのでご用心。

つまり、10万円貰ってる、あるいは稼いでいる人は、滅多にいません。企業ならば部長クラス以上でしょう。

こっちでそのレベルは、それなりに成功している自営業の経営者。あとは家族の誰かが海外で働いて、仕送りを受けているか。医者や弁護士ですら、個人でやってる人は、なかなか稼げる金額じゃないと思いますよ。(地主は特権階級で、桁が二つ以上違う大金持ちなので、それは別次元。)

ということで、本当にネグロスで、月10万円の仕事なんて、尋常な探し方では、まずあり得ない。物騒な例えで恐縮ながら、殺し屋でさえ、一人数万円で請け負うというぐらい。

特に、ここ最近は、コロナ禍の影響で、飲食業を中心に大打撃を受けている人が少なくない。また、シンガポールで歌手だった人が失職してフィリピンに戻り、化粧品のセールスを始めたけど、収入が足りないとか、俳優さんがシーフードの行商をやってるとか。(ナビマニラ

フィリピンで月収10万円なんて、いよいよ難しくなってしまいました。


2020年8月24日月曜日

まだら模様の授業再開


フィリピン教育省のロゴマーク

中学2年生になる息子の、3月末から続いた、長い長い夏休みがようやく終わりました。今日8月24日から、息子の通う聖テレシタ学院が、正式に授業再開です。

とは言っても、もちろん検疫下のフィリピン、西ネグロス州では、未成年の外出は禁止されたまま。子供達が教室に集うのではなく、例によってオンライン授業となります。

事前に手持ちのパソコンを、家内が学校に持って行って、マイクロソフト・チームズ(Microsoft Teams)というオンライン会議用のアプリをインストール。へぇ、今流行りのズームじゃないのか。

予行演習みたいなのは、実は2週間前から始まっていて、初日は、ミッションスクールらしく、オンラインでカトリックのミサに与かってました。その後、午前中だけ2〜3時間、今後の授業の進め方の説明や練習があって、今朝は、登校してた時と同じく、7時から授業開始。昼休みを挟んで、夕方4時半まで、みっちりお勉強になります。

散髪に行けず、伸び放題でぼうぼう頭も、一応、家内に見苦しくない程度に整えてもらい、今日からは上だけ制服の息子。かれこれ5ヶ月ぶりです。

しかしながら、授業が再開できているのは、私立学校のみ。当初の計画では、8月24日を期して、フィリピン全国で公立校を含めて一斉開始だったのが、先日、準備の遅れから、さらに2ヶ月延期して10月からにすると、ドゥテルテ大統領からのお達しがありました。

フィリピンでは、小学校から大学まで公立校がすべて無償。つまり、基本的にすべて政府が面倒を見ていることになる。そのため、何か大きな変化への対応は、どうしても遅くなるのが常。まぁ、これは、フィリピンに限ったことではなく、日本の場合は、もっとひどいかも知れませんね。

フィリピン教育省の職員である家内など、トップのアホさ加減に、いつも半ギレ気味で仕事してます。今回の土壇場での延期に関しても「そうなるのは、最初から分かってた」。

ただ面白いのは、教員の給与水準が、概して公立校の方が高いらしいこと。以前、息子のクラス担任だった先生は、同じ年に2回も変わりましたが、両方とも公立学校への移籍が原因。そりゃ、給料高い方に欠員が出たら、そっちに行きますわな。こういうところは実にドライで、ビジネスライク。

そして、私立高校の英語教師が本職の、我が家庭教師のアン嬢にも、授業再開の影響が。なぜか、学校が休みの土曜日に仕事をすることになって、私のイロンゴ語(西ネグロスの方言)レッスンは、土曜日から金曜日の朝へシフト。

年がら年中夏休みの私には、どっちでも構いませんけどね。

ということで、まだら模様で再開された学校教育。これが日本だったら、やれ教育格差だの、不平等だの、大騒ぎになりそうです。ところが昔から、社会のあらゆる場所で、剥き出しの格差が、堂々とまかり通っているフィリピン。

政府や教育省の無能さを指摘する人はいても、いまさら格差そのものを非難する声は、少なくとも私の周囲からは聞こえてきません。だって、私立校に通っている児童の保護者たちは、(フィリピンにしては)高い授業料を支払ってるんだから。

義務教育に関して、この理屈が、必ずしも正しいとは思えませんが、取り敢えず我が子の授業が再開されたので、ほっとしているというのが、今の正直な気持ちです。


2020年8月22日土曜日

ちょっと残念なネグロスのトヨタ

このタイトルだと、トヨタの悪口を書こうとしていると思われますね。でも、正直なところ、フィリピン国内にあっては数少ない、信頼できる会社だと思っております。フィリピンに移住直後に自家用車を購入となった時、ほとんど迷わず日系メーカー、その中でもトヨタ車を選んだのは、順当な判断でした。

まず、この7年間、エンジンも電気系統も、まったく問題なしに動いてるし、メンテナンスもきちんとやってくれる。接客態度は、フィリピンであることを差し引く必要はあっても、基本的な満足度は、かなり高い。

ネットでフィリピンでのトヨタの歴史を少し調べてみたら、ちょうど私の生まれた、昭和37年(1962年)にまで遡ります。

当初はフィリピンのメーカー、デルタ・モーターという会社が、トヨタ車の現地での組み立てや販売を担当。ところがこのデルタモーター、マルコス時代の経済低迷で経営が破綻し、1983年に操業が停止。翌年にはトヨタとの提携も解消。

その後、エドゥサ革命の混乱期を経た1988年、フィリピンの大手銀行メトロバンク、三井物産との合弁事業という形で、現在に至るトヨタ・モーター・フィリピン・コーポレーション(TMPC)が発足しました。

以来、業績は好調で、1994年以降、継続して「トリプル・クラウン」(総売上げ、乗用車販売、商用車販売の三つでフィリピン国内の一位)を獲得しているそうです。

さすが国内のトップだけのことはあって、ここネグロス島唯一のトヨタディーラーで、我が家から車で15分ほどのタリサイ市内にある、トヨタ・ネグロス・オキシデンタル。建物の規模、常設されている新車の数は、近隣の他社に比べるとダントツのトップ。

ちなみに、他社というのは、日系では日産、ホンダ、三菱、マツダ、スズキなど。そして韓国のヒュンダイ、キア。アメリカのフォード、シボレー。欧州からはプジョーと言った、錚々たるもの。この中でダントツなのですから、「世界のトヨタ」の面目躍如。

今まで何度か修理を頼んだトヨタですが、期日も値段も、当初の見積もりをオーバーしたことがなく、いつでも早め安め。それでいて仕上がりに問題は皆無。日本でならば、当たり前でも、ネグロスでこのクオリティは賞賛に値します。

ところが今回の修理は、ちょっとがっかりな点が多々ありました。
1年前に追突されて、リアドアの何箇所が凹んでしまい、結局相手の保険を使えず、そのまま放置していた状況。日本からの部品を取り寄せるので、3週間待ってくれというのには、ちょっとびっくり。外装ばかりで、そんなに特殊な部品はないはずなんですけど。

その時の見積もり金額が3万ペソと、いつになく変にピッタリな金額。修理が終わった時には、詳細の説明があって、意味のある額になるのか?

最終的には、部品が届いて、そこからの修理が1〜2週間のはずが3週間。合計これまでの最長で約2ヶ月弱かかってしまった。そして請求書には、いつもと違って詳細なしの3万ペソ。これは言い値ですね。

さらに、車の受け取りがフィリピンの祝日ニノイ・アキノ・デー。店を開けてるのかどうか、ちゃんと事前に確認して大丈夫の筈が、当日行ってみたらシャッターが下りてます。何じゃそれ?

ということで、翌日には無事受け取りも支払いも終わって、全体で見れば、これでもフィリピンにしては上出来な方なんでしょうけど、「トヨタさん、どうしちゃったの?」という感じは拭えません。

やっぱりコロナ禍が、サービスの質にじわじわと影響を与えてるんでしょうか?



ようやく修理完了の愛車アバンザ
(タイ生産)


2020年8月20日木曜日

避暑地フィリピン?


8月の半ばを過ぎた今も、日本では異常なほどの暑さが続いているらしい。聞くところによると、東京都では今月、熱中症で亡くなった人の方が、新型コロナよりもはるかに多いとか。

私が日本に住んでいた最後の数年、大阪・横浜・福岡に転勤しました。そのいずれも夏場はずいぶんと暑かった。しかし、私が子供の頃(と言えば、もう50年ぐらい昔ですが)、実家のある兵庫県尼崎市での最高気温は、せいぜい32〜3度程度でした。

エアコンがあっても、通電するのは、本当に寝苦しい夜だけ。就寝時に、オフタイマーで使っていた記憶があります。それが、最近では、終日付けっぱなしなんだそうですね。電気代がとか、環境に優しくない、などと躊躇してたら、命にかかわる事になりかねない。実際、熱中症で亡くなるのは、屋内でエアコンを使っていなかった人だったり。

それに比べて、熱帯の東南アジアに位置する、ここネグロス島。年間の平均気温でくらべたら、大阪や東京よりずっと暑いんでしょうけど、少なくとも命の危険を感じるような酷暑というのは、この7年間で経験したことはありません。

一番暑くなって、現地の人が「サマー」と呼ぶ4〜5月でさえ、ちょうど私が子供の頃の、関西の真夏ぐらいの感じ。日中は、たまに35度かそれ以上になることはあっても、日が落ちる頃には、す〜っと涼しくなって、扇風機だけで十分凌げます。

そして、日本を含む北半球の多くの国で暑くなる7〜8月。この時期のネグロスでは、雨季の真っ只中。起きた時は清々しく朝日が差していても、昼過ぎから夕刻にかけては土砂降りのパターン。だいたい夜遅くには上がって、午後から就寝時刻は、エアコンどころか扇風機すら不要な日もあるぐらい。

ちなみに、このブログを書いているのが、現地時間8月20日の午後3時半。この時刻には珍しく雨が降らず、曇りがちの天候で、気温が29度。暑さはそれほどでもなく、扇風機だけで過ごせる陽気。それに比べて尼崎は、今日も晴れて35度。うわぁ〜。


8月16日の日本各地の最高気温
まるで「列島炎上」

なんだか、完全に気温が逆転してますね。

日本の友達によると、私がフィリピンに引っ越した頃よりも、さらに暑さが厳しくなったと感じるようです。少し前の投稿で、ここ最近、日本にいる高齢の母が体調を崩していると書きましたが、この暑さが原因なのかも知れません。

さて、ここまでになると、高齢者じゃなくても、QOL(クオリティ・オブ・ライフ/生活の質)にまで影響してくるレベル。冗談じゃなくて、定年退職した人には、日本の夏場だけフィリピンに数ヶ月滞在する「避暑移住」を勧めたくなります。

まぁ、人によっては、花粉症もあるだろうし、冬の寒さが大の苦手ということがあっても、体温と同じぐらいの気温が、何日も何夜も続くのは、ちょっと耐えがたい。本当に死んじゃう人がいるぐらいですから。

ということで、今年の夏のバカンスシーズンは、ほぼ終わってしまいましたが、来年の夏には、我が家のゲストハウスを、避暑移住の拠点として宣伝してみましょうか?
「酷暑の日本を離れて、涼しい常夏のフィリピン、ネグロス島へ」
涼しい常夏というのも、何か変ですが。


2020年8月17日月曜日

それでも止まらぬメトロ・バコロド建設ブーム


今日(2020年8月17日)の報道によると、日本の4〜6月のGDP(実質国内総生産)が、前期比率年率で27.8%のマイナスになったとこと。その少し前に報じられた、同じくフィリピンの同時期のGDPが、16.5%の減でした。

正直なところ、イマイチこの手の数字が、感覚的によく分かっていない私は、これがどれほど大変なことなのか、正確には理解できておりません。また、ネット上の記事から部分的に抜粋しただけなので、日本とフィリピンをこれでもって、単純に比較していいのかどうかも。

それでも、日本は戦後最悪だと言うし、フィリピンも統計を取り始めた1981年以来最大のマイナス幅。経済音痴の私でも、オイルショックや、バブル崩壊、リーマンの時より悪い、というぐらいは分かります。

ただこれは、意図的に人の動きを止めた自粛要請や都市封鎖の結果なので、それほどの驚きはありません。やっぱりそうなってしまったか、という感じ。むしろ、私の住むネグロスでも、この数字が発表になる少し前から、景気の落ち込みははっきり目に見えるレベル。

象徴的なのは、大手ショッピングモールのシャッター街化。自宅のあるシライ市内の「ガイサノ」では、食料品売り場以外の全体の半分以上が閉まっているし、つい先週、家内が久しぶりに州都バコロドの老舗「ロビンソンズ」に行ったら、やっぱり多くの店舗が閉鎖状態。

検疫による都市封鎖が解除された直後は、買い貯めに走るお客さんで、どこも品薄でレジは長蛇の列だったのも、今では鎮静化。と言うか、買う側も、そろそろ手持ちの現金が底をつき始めたのかも知れません。

実際に、ドゥテルテ大統領が、もう資金がないから、厳しい検疫・封鎖は続けられないと発言したし、貧困層を中心にしたお金や物資の支援も途絶えた模様。国内経済活動の停滞だけでなく、今回は、OFW(海外出稼ぎ労働者)まで引き上げてしまったのが痛い。

ところが、こんな状況でも、西ネグロスのメトロ・バコロド(州都バコロドと、タリサイ、シライの3市)や、その周辺では、建設ブームが止まらない。いや止められないと言うべきか。まぁ、今完成に近づいている大規模な工事は、コロナ騒ぎのずっと前に始まったものばかり。今更中止はできないでしょうね。

シライ市内では、今までで最大規模の宅地造成が終わり分譲が始まっていたり、郊外型の大型ホームセンター「シティ・ハードウェア」が開店間近。前述のバコロドのロビンソンズでは、隣接する場所に「サイバーゲート・バコロド」と名付けた高層ビル。

その他、ドゥテルテさんが就任直後にブチ上げた「ビルド・ビルド・ビルド」キャンペーンに乗っかって、新しいハイウェイやら、ネグロス〜ギマラス〜パナイの海上架橋(未着工)。確か、同じネグロス島のカバンカランでは、新空港作ってたはず。

フェイスブック内にある「メトロ・バコロド&西ネグロス建設ブーム」というページで確認できます。

これ、どうなっちゃうんでしょうか。

バブル絶頂期に就職して、その後の凋落を経験してきた私としては「悪夢再び」の既視感。行け行けドンドンで作っちゃった本四架橋が、その後の負の遺産になってしまったのを、思い出さないではいられません。


2020年8月14日金曜日

介護移住という選択肢


このブログで、「介護移住」とタイトルに入れたのは初めてではなく、3年前の2017年に、一時帰国した時にも投稿したことがあります。(一時帰国2017 介護移住に向けて

私と家族が、今フィリピンに住んでいるのは、もちろん私の親の介護が目的ではなく、私たちの暮らしやすさの追求が第一義。私は、ストレスが多い上に夏は酷暑で冬は寒い日本から、早期退職して安逸な老後を。家内は、親戚や友達にいつでも会える、住み慣れた故郷へ。

移住当時、小学校一年生だった息子だけは、状況をよく分かっておらず、いくら母親の生まれ育った場所とは言え、もし馴染めなかったらとの心配はありました。しかし、適応力が一番だったのは息子で、今では言葉の問題も解消して、友達もたくさん。

三者三様の感じ方ながら、少なくとも現時点では、フィリピン移住の当初の目的は、ほぼ達成されたと言えるでしょう。

3年前の一時帰国の際、私の両親と二人の弟を交えて、日本の実家で話し合いました。当時、両親は元気そのもの。食欲旺盛で二人でゴルフを楽しんだりしてました。いよいよとなったらフィリピンへと、一応本人たちの意思を確認したものの、まだまだ先の話という感じ。

ところが意外にも、その「いよいよ」は、それほど先でもなかったようで、ここ最近、83歳の母の体調が良くありません。病院で検査しても異常はないけれど、どうにも疲れやすく、日中でも横になっていることが。

状況報告を弟から受けても、世界はコロナ禍で、まったく動きが取れない。そんな中、以前は強気だった母も潮時と思ったらしい。渡航が自由になったらフィリピンに引っ越したいと、弟経由で伝えてきました。

実は、こっちに来るなら、ちゃんと身体が動くうちにと、何度か母に言ってたんですよ。昨年(2019年)に竣工させた、昔の実家の間取りを再現したゲストハウス。コロナ禍前は、短期英語留学の生徒さんたちに、有料で使っていただいてましたけど、本来は、両親を住まわせるため。受け入れの準備は、もうとっくに完了してます。

さて、フィリピンでの介護を考えると、日本人がまず危惧するのが、現地の医療レベル。要介護者じゃなくても、生死に関わる持病を抱えた中高年の方は、まず移住を諦めた方がいいぐらい。

ただそれは、これから何年、何十年と生きるつもりの人の場合。私の両親は、別に早く死にたいわけではないけれど、二人とも、80代の半ばを迎える後期高齢者。息子の世話になって、短い余生を静かに過ごせたら満足。無理やりの延命措置なんて必要ないというのが、正直なところでしょう。

そう考えると、体温を超えるような暑さも、冬の寒さもないネグロス島。二人専用2LDKの一戸建ては用意したし、母が望むなら家事はメイドさん任せ。なんなら住み込みの看護師さんを雇うこともできる。今、夫婦で貰ってる年金の半額以下で、この生活すべてが賄える計算。

何より大きいのは、年老いた親の面倒を自宅で看るのは、当たり前だと思う、家内を含めたフィリピン人のメンタリティ。私もいずれは、その国民性のお世話になるかも。

唯一、計算できないのは、新型コロナウイルスの影響が無くなるまで、母にフィリピンへのフライトに耐えられる体力が、残っているかどうか。ちょっとタイミングが悪かった。

ということで、日本の高齢者、誰にでも勧められるわけではありませんが、将来、親の介護に関して不安を感じている人は、一つの選択肢として、フィリピンへの介護移住を視野に入れてみてはいかがでしょうか。


2020年8月10日月曜日

週末メイドの顛末


先月(2020年7月)の初旬ぐらいから、土日だけ働いてくれるメイドさんを探し始めました。最初はフェイスブックで、私の住むネグロス島シライ市内限定の求人を出したり、知り合いに訊いてみたり。

いろいろやった挙句に、月〜金曜日に、もう2年以上我が家でメイドとして働いているライラ、その姪っ子を紹介してもらいました。その経緯は以前にこのブログで投稿した通り。

フェイスブックでメイドを求人
助っ人メイドは、子連れで出勤
急転直下の週末メイド

新しくやって来たのが、ちょっと太り過ぎながら、一通りの仕事はこなしてくれる、27歳のグレッチン。やっとこれで、週末に少し凝った料理をしても、準備や後片付けが楽になるわいと、ほっとしていたのも束の間。初日の土曜日だけ来て、翌日の日曜日はいきなり「熱が出た」とお休み。

足に怪我して、そこが化膿したらしい。破傷風とかのヤバい病気じゃないかと、かなり心配しました。

さて、それから一週間。次の土日までには回復したとライラが教えてくれたのに、またもや、待てど暮らせど一向に姿を見せないグレッチン。今度は子供の学校でミーティングがあるというのが、休みの理由。さらに日曜日も、誰かとの約束がありますって、何じゃそりゃ。

週明け、ライラに「どうなってんの?」と文句を言ったら、ライラも姪っ子に怒ったそうです。「働きたいと言うから、仕事を紹介したのに!」熱を出したのは本当でも、それ以降は、やる気がなくなって、適当な口実を作ってサボってたらしい。

う〜ん、ここ最近はネグロス島でも、コロナのお陰で失職する人が相次いでるし、新規で人を雇う話なんて、少ないはず。そんなにキツい仕事をやらしたわけでもなく、お昼ご飯も食べられる。逆の立場で考えたら、結構もったいないと思うんですけどね。

ただ、こういうケースは、フィリピンではよくある話。こっちでビジネスをして、地元の人を雇用した経験のある方なら、よくご存知のように、端から見てて何の不満のないはずなのに、ある朝プツっと来なくなる人って、多いんですよ。

特に真面目な日本人経営者の場合、「いずれは自分の右腕に」と、大事に育成していた部下が、何の挨拶もなく突然いなくなり、気がついたら商売敵のオフィスで働いてるとか。

こう書くと、モラルや民度が低いなんて言い出す日本人の声が聴こえてますが、私が思うに、優劣と言うより、職業観、人生観に根ざした、国民性の違いじゃないかと。

有史以来、一度も寒冷化を経験したことがないであろう、フィリピン土着の人々。年に2回も3回も米が収穫できるし、果物は豊富。食べ物を手に入れるための労力や時間が、それなりの苦労はあっても、日本に比べるたら、ずいぶんと少なくて済むのは間違いない。

その上、年中暑いから、ムキになってあくせくしようと思わなくなるでしょう。同じ状況なら、私だってそう感じます。概して温暖で、厳しい冬がない場所ほど、人生は楽しむものという、どっちかと言うと享楽的な人が多い。これはフィリピンに限ったことではありません。

さらに、硬直的な職業倫理が蔓延る日本とは違い、「滅私奉公」とか、「石の上にも三年」なんて言葉が意味を持たないフィリピン社会。仕事を辞めたり変えたりすること自体に、罪悪感を覚えないのが普通。

もちろん、さすがに資本主義の世の中にある現代のフィリピンでは、気分次第で、職を転々とするのは、良いことではないにしても、精神の土壌として、仕事に縛られてツラいのなら、辞めた方がマシという気分があると思います。

と、常々考えてはいるものの、実際にたった1日で仕事を辞められたら、正直がっかり。20人ぐらい応募して来た中から、結構手間をかけて選んだ一人ですからね。何だか、もう、どうでもよくなってしまいました。

ということで、週末の家事は、家族で分担する今までのやり方を、当分続けます。考えてみたら、平日であろうが土日であろうが、全部ワンオペの日本の主婦に比べたら、これでも十分に楽なものですから。


2020年8月7日金曜日

そして歌だけが残った


今回のコロナ禍では、本来なら出会っていたであろう人、あったはずの収入、出かけていたかも知れない場所などなど、いろいろな機会を失いました。もちろん私だけではなく、ここフィリピンでも日本でも、おそらく世界中の人々が。

その反面、コロナ禍がなければ、やらなかった事に、取り組くまざるを得なかった人もたくさんいるでしょう。例えば在宅勤務やリモート学習。前回の投稿で書いたように、フィリピンでも8月末から、全国の学校で、在宅学習による新学年が始まります。
(追記:その後、学校再開は大統領の指示により10月に延期になりました。)

こうした取り組みは、検疫とか隔離とは関係なく、選択肢の一つとして重要なこと。実際に日本では、緊急事態宣言が解除されて、職場や学校に行けるようになっても、引き続き在宅勤務・学習が選べた方がいいケースが多いそうです。まず、あの殺人的な通勤ラッシュを避けることができるだけでも、その意義は大きい。

とまぁ、そんなデカい話はともかく、私の場合、4月から始まったコミュニティ検疫、いわゆるロックダウンの頃から、憂さ晴らしのつもりで、ムキになって始めたのがボイストレーニング。要するにカラオケの練習です。

元々、カトリックの信徒で、日本の教会では聖歌隊に所属し、それなりに歌っていて、歌うことが大好き。しかし、ネグロスに移住してからは、どこの教会でも聖歌隊の層が厚く、メンバーの歌唱レベルがプロ並。人口の8割以上がカトリックなんだから、そうなりますよね。日本から引越して来た素人に、出る幕はありません。

なので、かれこれ7年ぐらい、ちゃんとした歌の練習からは遠ざかり、日曜日の教会でのミサで、他の信徒にまぎれて歌うぐらい。タガログ語とイロンゴ語で、いくつかの典礼聖歌は覚えましたけどね。あとは、たまに家内の友達と一緒に行くカラオケ程度。

そのミサも、当分の間は参加できなくなり、何もしなければ、本当に歌うタイミングがなくなってしまう。そこで一念発起して、ボイストレーニング代わりに、1日1時間、10曲程度を歌い始めた次第。

せっかく練習を再開するんだから、誰かに聴いてもらうことを前提にして曲選び。昨年のクリスマスに、近所の日本人向けの英語学校のパーティに参加して、タガログ語の「マイ・ブーカス・パ」("May Bukas Pa" 「明日があるさ」という意味で、エドゥサ革命時に歌われ、フィリピン第二の国家とも言われる)をアカペラで歌ったのが好評。

この時に、英語の先生たちから「Best Friend」を知らないか?と聞かれました。なぜか、この英語学校の先生たちに人気の日本語の歌。それって、NHK連続テレビ小説「ちゅらさん」のテーマ曲だった、キロロのベストフレンドのことかいな? 放送が2001年だったから、もう20年近く前の歌。聴いたことはあるし一応は知ってるけど、いきなりは歌えませんなぁ。

どうやら、日本人の誰かから教えてもらったのが、若いフィリピン人英語教師たちの、心の琴線に触れたらしく、ことあるごとにみんなで歌っているとのこと。校歌か応援歌みたいな感じ。

そういうのが好きなんだったら、ベストフレンドと、他に何曲か、比較的最近の日本ポップスを練習して、次のタイミングで歌いましょうと約束。それを果たすために、ベストフレンドを含めて、家内が好きな平井堅さん、私のお気に入りの山下達郎さん、さらには、今年(2020年)リリースされた最新 J POP 曲などを、連日の歌い込み。

もちろんそれだけでなく、日本語にタガログ語、英語など、昔から愛聴していたスタンダードナンバーも、レパートリーに組み込んで、今では、歌詞を見ながらとは言え、ざっと40曲ぐらいは、何とか人前で歌える程度になっています。

ところが、せいぜい日本の夏休みの時期には収束しているだろうと、タカを括っていたコロナ騒ぎ。すでに8月も半ばにさしかかった今でも、収束どころか、このシライ市内ですら第二波の猛威で、陽性患者数の累計が27名。(2020年8月7日現在)

日本からのお客さんが経由するマニラ首都圏では、やや緩和されていた規制が、都市封鎖に逆戻りしてしまう始末。フィリピン各地で、日本や韓国からの短期留学生を対象にした同種の英語学校が、バタバタと倒産や閉鎖に追い込まれています。

これでは、たとえ年内にどこかの国でワクチン開発が成功しても、そこからさらに半年や1年は、コロナ前の状況には戻らないでしょうね。特に自国でワクチンを作れそうにないし、資金が潤沢とは、お世辞にも言えないフィリピン。下手すれば、数年ぐらいは検疫が続くかも知れません。

私の準備は整っていても、聴いてくれるお客さんが集まる目処は、当分立たない。そんな訳で、「そして歌だけが残った」ということになってしまいました。


2020年8月4日火曜日

平和な息子の誕生日


昨日(2020年8月3日)は、一人息子の15回目の誕生日。日比ハーフで日本生まれ、6歳の時に母の国であるフィリピンに家族で移住という経歴の割には、あまりややこしい性格にならず、素直に育ちました。

顔つきがまるっきりの日本人のせいか、日本ではイジメに遭うことはなく、対日感情の良好なフィリピンでは、日本人だからと意地悪されることもない。

ネグロスの地元小学校に編入時、フィリピノ語の素養がなかったので、本来の小2ではなく、1年戻って小1からとなり、プライドが傷ついて凹みましたが、新学期が始まると、すぐに友達もできて、意外にもクラスの女の子にモテモテ。超モテないくんだった父を羨ましがらせるほど。

まぁ実際のところは、本人になってみないと分からないけれど、概ね今のところ、ネグロスへの移住は、息子にとってポジティブな結果だったと言えそうです。

そして迎えた15歳の誕生日。小中高一貫の地元の学校では8年生。日本で言うところの中2になる息子。コロナ禍の影響で、6月から始まる筈の新学年は2ヶ月以上ずれ込んで、ようやく来週、8月10日からの再開予定。それも、子供たちは学校に行くことなく、全員が在宅学習という異例のスタイル。

日本ほどインターネット環境が整備されていないフィリピンで、しかも光ケーブルもないネグロス島。Zoom(会議アプリ)を使ったリモート学習なんて、システムへの負荷が大きすぎてまったく無理。

そこで考案されたのは、自宅でパソコンが使える子供には、ネット経由で宿題を出すやり方。子供は適時、ネットで宿題を提出。これなら同時刻にアクセスが集中して、システムがダウンなんてこともない。

そしてWiFiもパソコンもない子供は、親が毎週、プリントアウトされた宿題を取りに行って、翌週にまた親が紙で提出。

この準備が相当たいへんなようで、DePED(フィリピン教育省の地元出先オフィス)に勤務する家内は、このところ休日にまで仕事を持って帰って、忙しそうにしてます。また、公立高校の英語教師で、私のイロンゴ語の家庭教師のアンも、仕事が多すぎて土曜日のレッスンを1回お休みに。

まぁ、そんなこんなで、いろいろあって、3月末から未成年の外出が禁じられているため、息子はずっと自宅待機。それでも、パソコンやらネットフリックス、読書に皿洗いのお手伝いと、あまり退屈することもなく、夏休みを含む、この4ヶ月余りを過ごしています。

実は去年の誕生日。自宅裏にゲストハウス建設の工期真っ最中だった8月3日。私が自家用車を運転中に追突されるという、アクシデントに見舞われました。幸い私にも、同乗していた家内にも、そして相手にも、怪我はなかったものの、事故処理で警察に行ったりで、夕方までの予定が全部パー。

息子には可哀想なことに、ケーキはないし、近所のレストランでの夕食もできず。おまけに終日土砂降りで、踏んだり蹴ったり。(踏んだり蹴ったりの誕生日

それに比べると、今年の誕生日。天気はいいし、ケーキもちゃんと準備。夕食には宅配ピザと、家内が仕事帰りに買って来てくれた、鶏の丸焼き「レッチョン・マノック」。さらに、誕生日の定番メニュー、私の作ったスパゲティ・ミートソースが食卓を飾りました。




誰もお客さんが来られないのは、少し寂しいけれど、フェイスブックで、お祝いコメントをいっぱい貰って、コロナ禍が始まって以来、久しぶりに穏やかで平和な1日を、家族一緒に過ごすことができました。


2020年8月2日日曜日

コロナ感染でサイクリング禁止


前回、ここネグロス島シライ市でのママチャリ人気について投稿したら、タイミングが悪いことに、市長令でシライでのサイクリングが禁止になってしまいました。

とは言え、自転車が全部ダメということではなく、週末などを利用してツーリングを楽しんでいるバイカーが対象。何と、バイカーのグループで、新型コロナの集団感染があったそうです。検査の結果、陽性になったのが、隣街のタリサイ在住者4名と、シライの人が1名。

本格的にサイクリングをする人たちって、片道2時間とか3時間かけて、シライ市内の、最近開発された山間部のリゾート地、ランタワン辺りまで出掛けます。当然、目的地や途中で休憩したり食事をしたり。

それでなくても、州都バコロドほどではないけれど、先月(2020年7月)ぐらいから、セブや、マニラ経由で海外での出稼ぎから帰国した人を中心に、十数名の患者が確認されているシライ市内。

バイカーって、派手なウェアで走ってるから目立つし、ひょっとして奴らが感染を拡めてるのか、みたいな目で見られっちゃったのかも。市長のマーク・ゴレツさんも、神経質になってるだろうしなぁ。

実は私、しばらく前にもブログで書いたように、毎週日曜日の早朝、10キロぐらい遠乗りをしております。今朝も、陽性患者が出たというタリサイまで往復してきたばかり。もちろんサイクリング禁止は知らなくて、その時撮った写真をフェイスブックにアップしたら、義妹から禁止令のことを教えられた次第。

途中で、その義妹の実弟で、本格派バイカーでちょうど同じ時間にサイクリングしてたジュンジュン君と顔を合わしたり。彼もまだ知らなかったでしょうね。

その上とってもヤバいことに、たまたま今日は、マスクを忘れて走っていた私。日曜の早朝だし人も少ないから、まぁ大丈夫だろうとタカを括っていましたが、もし警官にでも見つかったら、拘束されて罰金を取られてたかもしれません。

ということで、シライ市内のサイクリング禁止期間は、来週月曜日の8月10日まで。それまでは、私の住むビレッジ(宅地)、セント・フランシスの中だけしか走れません。次の日曜サイクリングは無理。

ただ、自転車に乗れないだけで、まだ外出そのものに規制がかかっている、マニラ首都圏やセブ周辺に比べれば、大したことはありません。7月末にドゥテルテ大統領が演説の中で、これらの地域で、8月もGCQ(一般的なコミュニティ隔離措置)が延長されることを発表しました。

自分の周囲が、一番厳しい時に比べると、かなり規制が緩くなっているので、全然意識の中にありませんでしたが、在留邦人が一番多いマニラやセブでは、もう半年近く隔離が続いているんですよね。先日もマニラに住む日本人の友人が、散髪に行けず髪が伸び放題になった写真を投稿されてました。

日本各地で、遅い梅雨が明けた8月。本来なら、たくさんの観光客がフィリピンにやって来て、我が家にも日本からの友人や、ゲストハウスの宿泊客で賑わう筈でした。まだまだしばらくは、先の見えない忍耐を強いられそうです。