2021年4月28日水曜日

23回目の結婚記念日

 この日曜日(2021年4月25日)は、私たち夫婦の23回目の結婚記念日でした。

だいたいどんなカップルでも、似たようなものでしょうけど、これぐらい長く一緒にいると、相手がフィリピン人だとか、国際結婚だからなんてことは、関係なくなってきます。習慣の違いや、感覚のギャップで面白がったり腹を立てたりするのは、せいぜい3年ぐらいまで。

そんなことはお互い慣れてしまい、良いことも悪いことも積み重なって、夫婦の歴史になっていくわけです。ほんと、いろいろありましたよ。人生最良の日かと思えば、修羅場的状況も経験しました。

さて今年は...と言うか、去年に続いて今年もコロナ禍が続いていて、特にパーティをするわけでもなく、ホテルで一泊とかもなし。しかも23年目って中途半端なんですよね。イギリス発祥の「〇〇婚式」って、最初の15年は、紙婚式から始まって、毎年、革や木、銅、陶器と、段々高価になっていく仕組み。贈り物の素材ってことらしい。

15年目の水晶婚式が終わると、その後は5年刻みになり、23年目は何も無し。再来年は「銀婚式」だから、少しは派手に祝いたい。有名な金婚式は50年目で、その頃私は80歳を超えてるので、夫婦揃って元気にというのは、微妙な感じ。

それはともかく、いくら中途半端な年数でも、何もしないわけではなく、ケーキぐらいは用意して、宅配ピザも頼んだり。近所にあるケーキのチェーン店の、ゴールディロックス(Goldilocks)に行って、ショーケースに陳列してあるケーキを選び、店員に頼めば、予約とかなくても、その場でメッセージをケーキに書いてもらえます。

担当のオバちゃんに「Happy 23rd Wedding Anniversary」と言うと、満面の笑みを浮かべ、手慣れた手付きでサラサラっと書き上げました。

フィリピンの場合は、お祝い用の食品、特にバースディケーキの需要はものすごい。子供の数が多い上に、大人になっても、誕生日のパーティは欠かさない国民性。こんな小さな地方都市のシライでも、ぱっと思い浮かぶだけで、ケーキが買える場所は片手の指に余るぐらい。

私がケーキを買ったゴールディロックスは、ショッピングモールの中にある、店員一人の敷地が4畳半もないぐらい。コロナ禍が続いて、経営は楽じゃないと思いますが、潰れずにずっと店を開けてます。

それにしても、フィリピンの4月は盛夏の真っ只中。記念日だからと、ボイストレーニングを兼ねて、家内に何曲かラブソングを歌ったら、もう汗だく。23年前も同じように、カンカン照りで暑かった。別にこの季節を狙ったわけではなく、日本のサラリーマンだった私が長期休暇を取るには、ゴールーデンウィーク前後に少し年休をくっ付けるしか、選択肢がなかったから。当時は入籍前の若いフィリピン女性に、観光ビザはまず出なかった。

ということで、昔ならば、家族だけで夕食にピザ食べて、その後のケーキでお終い。ところが今は、その写真をSNSに投稿すると、夫婦二人分の友達から、お祝いコメントがたくさん頂けます。ついでに結婚式の写真も添えたら、それについても盛り上がったり。こういうのは、いいものですね。


2021年4月25日日曜日

亡くなったのは学校の先生

 先日、家内の同僚がコロナで亡くなった件を、まだ引っ張っております。

結局メイドのライラおばさんは、死亡が伝えられた月曜日からずっとお休みで、丸一週間の連続欠勤。週明けの月曜日は出勤してくれるかどうか、まだ連絡はありません。

また、検査結果待ちだった同じ職場の人から、もう一人陽性が出てしまい、これで亡くなった人を含めて三人の感染が明らかになりました。いわゆる「クラスター」の状況。シライ市全体で見ると、ずっと10名前後で推移していた陽性患者数が、ここ数週間で一挙に60名以上。西ネグロス州の、夜8時以降外出禁止も続いています。

さて、亡くなったのは、フィリピン教育省のシライ支部職員で、元々は市内の高校で英語を教えていた先生。それも、あちこちの学校で教鞭を取っていたらしい。同じく高校の英語教師で、私にイロンゴ語(西ネグロスの方言)を週一で教えてくれているアンも、よく知っていました。


亡くなった方が教えていた
市内のドーニャ・モンセラート高校

そして、小学校の先生である義妹のジーナも、フェイスブックにお悔やみの投稿をしていたし、驚いたことに、毎週、出張マッサージを頼んでいるラケルが「あの人は、私の先生だったんですよ」とのこと。

私と同じ歳だったので、大学卒業以来、先生をやってたとすると、もう30年ぐらいになるでしょうか。こんな小さな地方都市で、ずっと公立学校の教師ならば、自然と顔も広くなるし、ちょっと道を歩いただけでも、かつての教え子を出会うことも多いと思われます。

15年ほど前に他界した、家内の母、つまり私の義母が、これまた高校の先生。定年まで勤め上げた肝っ玉かぁちゃんみたいなおばちゃん。人望が厚かったので、それこそ市内の至るところに、「あの先生には頭が上がらない」みたいな、子分同様の教え子がいっぱいいました。

庶民レベルのシライの顔役だったので、今住んでいる宅地を買う時など、すいぶんと世話になったものです。生きていてくれたら、家を建てたり、近所とトラブった時には、きっと頼りになったでしょうね。今も少々早過ぎた死を悼んでおります。

こんな具合に、みんながよく知る有名人がコロナで亡くなったとなると、感染に対する恐怖心が、改めて拡散されるもの。今日、日曜日に久しぶりに市内のショッピングモールに出かけても、人は少なかった。緩みかけていた警戒心が、また巻き直された感じ。

それにしても、もうコロナ禍は1年以上。再び巡って来た暑い季節も、半ばを過ぎようとしています。来年の今頃は、どこかのビーチリゾートに遊びに行けるかなぁ?



2021年4月22日木曜日

身近なコロナ死の衝撃


前回の投稿から、少し間が空いてしまいました。実は投稿翌日の月曜日、新型コロナ感染で州都バコロドに入院していた、家内の職場の同僚が亡くなりました。案の定、重症化のリスクが高いとされる、高血圧だったそうで、私と同じ58歳でした。

既にシライ市内だけでも、30名を超える死者が確認されていて、この人が特別だったわけでもないけれど、家内にしてみれば、同じ職場で働き、顔を知っていて何度か話もしたことがある。やはり身近な場所での死は、衝撃の大きさが段違い。

これは、今回のパンデミックに限ったことではありません。フィリピンで繰り返される自然災害や犯罪で、毎年何千もの人々が亡くなっています。比較的最近の話題だと、ドゥテルテ大統領による「麻薬撲滅戦争」で、裁判なしに警察によって殺害された容疑者が、5,600人以上。

テレビのニュース、ネット経由で、どれだけ多くの人が非業の死を遂げている現実を知っても、直接会ったことがなければ、それほど感情を揺さぶられはしません。いちいち反応していたら、身が持たない。

特に、もう一年も続くコロナ禍。何となく、感染者や死者の数が増えることに、慣れていました。そんな気持ちが、一気に引き締まった感じです。私も家族も、感染の可能性はあるし、そうなったら命を落とすリスクがある。

ちなみにフィリピンで、新型コロナで患者が亡くなった場合、亡骸は荼毘に付されます。つまり火葬。防腐処置を施して、そのままの姿で葬られるのが一般的なこの国では、死後であっても、自分の身体が焼かれることには、多くの人が恐怖心を抱くもの。

まだ、家内が私と日本に住んでいた頃、たまたま私の叔父が亡くなり、焼き場での骨揚げを見て、家内が震え上がっていたのを覚えています。おそらくフィリピンでは、コロナ死の数だけ、その死だけでなく、肉親の身体が焼却されることへの、悲しみがあるんでしょうね。

そんな心理的な負の影響だけでなく、現実問題として困ったのが、メイドのライラおばさんが、怖がって我が家に寄り付かなくなったこと。

どうやら、フィリピン教育省のオフィスでの感染、死亡事例ということで、狭いシライ市内では、尾鰭のついた噂が広まってしまったらしい。家内の検査結果は陰性で大丈夫だと、ライラには伝えたんですが、本人はともかく、周囲の家族や近所の人が引き留めてるのかも知れません。もうかれこれ四日経ちますが、連続欠勤状態。

なるほど。これが風評被害というものか。

今は学校は閉鎖で、中学生の息子はオンライン授業なので、どうということはないけれど、もし日本のように、マスクして登校してたら、どうなっていただろうと怖くなります。実際日本では、感染者はおろか医療従事者の家族や子供にさえ、嫌がらせやイジメがあると聞きますから。

ということで、今日は、フィリピンでのコロナ死の現実について、その一端をご紹介しました。



2021年4月18日日曜日

コロナ感染者の隔離先

 前回の投稿で、家内の勤務先であるフィリピン教育省のシライ市オフィスで、新型コロナ感染者が見つかり、全職員が自宅謹慎状態だとお知らせしました。幸運なことに、昨日(2021年4月17日)家内の検査結果は陰性との連絡が。5日かかると言われていたけれど、3日で結果が出ました。

今回の事態が厄介だったのは、感染発覚直前にその職員さんが、市内の高校で教師を集めてのミーティングに出席していたこと。もちろん、マスク着用の上、安全な距離は取っていたんでしょうけど、やっぱり同じ部屋で会話をしたとなったら、全員の状況を確認せざるを得ない。

さらに、まだ検査を受けた人の半分ぐらいしか終わっていないらしく、残念なことに、新たに陽性判定された人もいたそうです。

シライ市内唯一の総合病院では、たくさんの医師・看護師が隔離中で、事実上の医療崩壊に瀕しているため、州都バコロドに搬送された最初の陽性患者。この方は女性で、最初から症状が出ていたとのこと。

そして、今回の検査で陽性判定を受けた人は、無症状。それでも自宅にいることもできず、病院も受け入れ不可で、どうするのかと思ったら、市内にある公営住宅で隔離となりました。

8年前の私と家族がシライに移住してきた2013年、ここネグロス島を含むビサヤ地方に甚大な被害をもたらした、スーパー台風ヨランダ。この時の洪水で、家が流された人たちを支援するため、市が計画して昨年ようやく完成した公営住宅が、臨時の隔離施設となったわけです。


シライ市内のイーロペス地区にある
公営住宅のヨランダ・ハウス

この、通称「ヨランダ・ハウス」には、我が家のメイド、ライラおばさんの80代のお母さんも入居していて、以前からその存在は知っていました。

写真で見る限り、決して広くはないにしても、作りはしっかりしてそうだし、1ヶ月やそこら住むのなら、まぁ悪くはないでしょう。とは言え、出歩けないし、持ち込める身の回りの品もそんなにたくさんは無理でしょうから、ずいぶんと不自由だろうと推察。

これはまったく他人事ではなく、もし家内が無症状の陽性だったら、同じようなことになっていたかも知れません。日本では、一人で自宅隔離中の方が、容態が急変してそのまま孤独死したという報道もあって、医療崩壊の恐ろしさの実態を垣間見た思いです。


2021年4月15日木曜日

再び感染者急増のネグロス島

新型コロナ感染者がまたもや爆発的に増加して、厳格なロックダウンに見舞われたマニラ首都圏に遅れること約1ヶ月。ここネグロス島を含む西ビサヤ地方にも、その影響が押し寄せて来ました。

本日(2021年4月15日)、フィリピン保健省の下部組織、保健開発センターから、西ビサヤ地方の新型コロナ感染者数のレポートが出ました。それによると、ピークだった昨年9月を上回る数の新規患者数(一週間当たり)が発生。私の住むシライ市でも、最近はずっと10人前後で安定していたのが、4月に入って30名以上に急増。

そして身近なところでは、先週末、何と家内の勤務する、フィリピン教育省のシライ・オフィスの職員一人がコロナ感染の疑いで、病院へ緊急搬送される事態に。シライ市内にある公立総合病院では、おそらく医療従事者から陽性反応が出たんでしょうね。大勢の医師や看護師が隔離中で受け入れ不可。やむを得ず、州都バコロドの病院に運ばれたそうです。

昨年も似たようなことがあって、その時は、感染が疑われた人の検査結果が確認されるまで、2週間近くもかかり、陽性反応が出たのは、自宅待機していた職員の隔離期間が終わった後でした。

さすがに1年経って、検査結果も早くなり、今回のケースでは早々に陽性の判定。さらに、そのご家族まで感染していたことが分かり、急遽、全職員が検査を受けることになりました。もちろん月曜日から家内は、以前同様の在宅勤務。

なるべく人混みを避けて、今朝早くに出かけた家内。すぐにでも結果が分かるのかと思いきや、五日もかかるとのこと。これでは、結果が分かった頃には、またも隔離期間がほぼ終わってます。

今のところ家内に変わったところはないけれど、万が一でも陽性だったら、私も息子もメイドのライラも、自宅ごとロックダウン。症状が出ても、入院できるかどうか難しく、想像するだけで恐ろしいことになります。

西ネグロス州全体でも、マニラのような全面的な都市封鎖には至らないものの、ラクソン州知事によって、午後8時から朝4時までの夜間外出禁止令が発令されました。同じタイミングで、日本でも「マンボウ」こと蔓延防止措置として、午後8時以降の飲食店の営業自粛要請が出ましたが、こちらはそんな生やさしいものではなく、警官がパトロールをして違反者が見つかれば、問答無用で即お縄。

お陰で、ここ最近元通りになっていた、夜間の野外ディスコやカラオケの騒音がピタっと止みました。これだけならば、私には喜ばしいことながら、さらに感染者が増えたりすると、昨年の今頃と同じ、正真正銘のロックダウンに戻りかねません。

というわけで、またもや予断を許さない状況になっているネグロス島です。



2021年4月13日火曜日

移住丸8年で考える、フィリピン向き不向き 後編

前編からの続きです。

まず、大前提としてあるの健康。これは別にフィリピン移住とは関係なく、どこで暮らそうが当たり前かと思われます。ただ、フィリピンの場合、日本に比べてとにかく医療費が割高。風邪引いたとか、ちょっと怪我したぐらいなら大したことはないけれど、継続的なケアや投薬が必要な、糖尿病や心臓疾患の治療になると、高額な割には信頼度がイマイチのフィリピン。

元々、これと言った持病がなく、酒・タバコに無縁な私でも、健康維持のために筋トレや自転車漕ぎを続けているのは、フィリピン医療に頼れないと思うから。ここに懸念がある方には、残念ながらフィリピンでの生活はお勧めできません。

もう一つ、これだけは欠かせないと思うのがコミュニケーション力。ありがちなのが、フィリピンの言葉はもちろん、英語もほぼダメで、頼りは若いフィリピン妻というパターン。

その奥さんが信頼できて、行動力がある人なら、それでも何とかなるでしょうけど、やっぱり自分の資金で、土地の購入や家を建てるとなったら、自分で交渉事ができないと、致命的なトラブルになりかねない。夫婦関係がずっと良好とも限らない。

また、日々の生活でも、喋れないと外へ出るのも億劫になって、現地の友達も作れない。自然と付き合う相手は日本人ばかりになって、これがまたストレスの元になりやすい。移住してから言葉を勉強しよう、でもいいんです。要は、国籍や年代が違っても、初対面の人たちと、積極的にコミュニケーションを図ろうという意思が大事。

幸いフィリピンの公用語は英語。英語の家庭教師なら、地方でもかんたんに探せるし、大都市ならば外国人向けの英語教室もある。オンラインならもっとお手軽。私のように、英語の先生にフィリピンの言葉を教わる手もあります。

さて、健康とコミュニケーションさえクリアできれば、あとは、慣れ。

よく言われるのは、「完璧主義」と「柔軟性」の問題。自慢ではありませんけど、私はかなりの完璧主義者だと自覚しています。部屋の掃除や片付け、自分でやる料理、毎日の歌の練習にしても、自分の中に、かなり明確な基準があって、それを満たさなければ気分が悪い。それでも、そこは慣れ。

自分でやれる範囲のことは、今でも徹底的に拘りますが、人に任せるとなったら「ここさえ出来てたら、残りは許容範囲」と割り切る。そうでなければ、自分の家なんて、建てられたものではありません。日本に比べたら、人件費も材料費も安いんだから、仕上げが少々ゆがんでいても、塗装にムラがあっても仕方がない、と考える。

最初はなかなか疲れます。それでも、半年もすれば慣れるもの。

やや難易度が高いのは、柔軟性。特に食べ物に対する好みは、いくら柔軟性を持てと言われても、そう簡単には変われない。なんでもかんでもフィリピンスタイルに合わせる、では続かないので、ここはプライオリティーを付けて、個別に対応すべき。

食材に関しては、これも幸いなことに、大型ショッピングモールがある州都ならば、日本製のカレールーや、うんど・そば・素麺の類は、だいたい入手可能。そうではない地方の場合、半年に一度程度、息抜きを兼ねてマニラやセブに、買い出しに出るのもいいでしょう。

そこまでしなくても、自炊すれば、田舎でも売ってるタホは豆腐がわりになるし、トンカツや天ぷら、魚の煮付けに肉じゃがぐらい、日本とほぼ同じ材料があるので、十分再現可能。つまり、どうしてもこれだけは譲れない部分だけは、少し手間をかけたり、代替品を見つけたり、工夫をすれば大丈夫。

お米に関しては、パサパサのローカル米が嫌なら、餅米を混ぜると食感は日本米にかなり近くなります。

さて、最後になりましたが、どの国に住んでも、老後に趣味がなければ、行き詰まること間違いなし。こればかりは、それまで仕事一筋で、還暦を過ぎてから急に新しいことを始めるのは無理がある。遅くとも50代前半ぐらいからは用意が必要。

ちなみにフィリピンでは、歌か楽器、ダンスができると、どんな場所に行っても人気者になれます。マニラ在住の日本人の友達に、これ全部できちゃう人がいるんですよね。羨ましい。


移住丸8年で考える、フィリピン向き不向き 前編

先週の 4月7日で、私たち家族がここフィリピン・ネグロス島に移り住んで、丸8年が経過しました。当時、私の年齢は50歳と半年。28年間勤めた日本の某大手電機メーカーを、前年の末に早期退職。転勤族、とまでは行かないけれど、比較的勤務地替えが多く、引っ越しを伴った異動が4回。大阪を起点に横浜や福岡を転々。

日本国内最後だった福岡市中央区の賃貸マンションを引き払い、翌日のマニラへのフライトに備えてホテル日航福岡に一泊したのが、2013年の4月5日。夕食は、つい近くのラーメン屋さんへ。それも博多ラーメンではなく、関西系の天下一品。やっぱり学生の頃から慣れ親しんだ味ですから。

福岡〜マニラのフィリピン航空便は、午後の遅い時間帯で、マニラ到着後ネグロスへの乗り継ぎが翌朝。ニノイ・アキノ国際空港近くのパサイ市内のホテルに泊まりました。桜の季節から、暑さの盛りのフィリピンだったので、空港のターミナルビルを出た時は、とても蒸し暑く感じたのを覚えています。

それから約1年間、家内が事前に探してくれた借家に仮住まい。2LDKのそこそこの広さだったので、冷蔵庫や洗濯機、電子レンジなどの主だった家電製品や、ある程度の数の家具も買い揃えました。

国際引っ越しは日通に依頼し、あまり大きくない棚やテレビとオーディオ、今も愛用している自転車などなどが1ヶ月かかって到着。何と言ってもたいへんだったのは、千冊以上の書籍でした。

移住の数年前から、日本人の建築家にお願いして、設計は済んでいた自宅。大工さん探しや、申請が結構時間がかかり、着工したのは、半年経った10月。隣島のボホールで大きな地震があったり、スーパー台風ヨランダが来たり、工事以外にも印象に残る出来事が満載の1年でした。

そして、日本人学校を作るほどの邦人がいないネグロスなので、小学校1年から地元の学校に通い始めた息子は、もう中学生。家内は、その学校の斜め向かいにある、フィリピン教育省のシライ市分室に就職。

私は当初、テニスをやってましたが、数年で何となく縁がなくなりました。その代わりでもないけれど、ブログ執筆やイラスト描き、ボイストレーニングに筋トレ・サイクリング等々。2年半前からは地元の方言、イロンゴ語を習ったり。家内が働き始めてからは、家族のための料理も担当。

一昨年は、自宅の二期工事に相当するゲストハウスを、自分で設計と現場監督をやって完成させ、これで移住の生活も、完全に軌道に乗った感じ。幸いにも、コロナ禍の影響は最小限で、ほとんど生活の質を落とすことなく、日々を過ごしております。

とまぁ、今のところネグロス島への移住は、家族全員にとって成功したと言えるでしょう。

そういうタイミングなので、今回は、リタイア後、フィリピンに移住する日本人の向き不向きについて考えてみたいと思います。(後編に続く)



2021年4月11日日曜日

私的フィリピン美女図鑑 イロイロ出身ミス・ユニバース

フィリピンも日本も、コロナ禍がらみの重苦しい話題ばかりですが、ミス・ユニバースの世界大会が、来る5月17日、ハリウッドの会場で開催されます。

ここ何年かの国際的なミスコンでは、我がフィリピーナの活躍が目覚ましく、ミス・ユニバース2015年にピア・ウォルツバック、2018年にカトリオーナ・グレイがそれぞれ優勝。カトリオーナは、前回の美女図鑑でイラストを描いたばかり。

さらには、2013年のミス・ワールドのミーガン・ヤング。ミス・インターナショナルでは、2013年のベア・サンチャゴに、2016年のカイリー・ヴェルゾサ。世界三大ミスコンテストを席巻する勢い。

さて、2020年のミス・ユニバース・フィリピン代表は、史上初めて「イロンガ(イロンゴ語を母語にする女性)」ラビヤ・マテオ嬢が選ばれて、イロンゴ語圏であるパナイ島や、ここネグロス島で大きな話題になってます。

フィリピン代表に選ばれたのだから、美しく魅力的なのは当たり前にしても、そのドラマチックな生い立ちが注目の的。インド系アメリカ男性と、フィリピン女性の間に生まれたラビヤは、父を知らず、貧困の中に育ちました。

医療関係の大学を卒業し、2020年現在、マニラで教職に就いているラビア。生まれ故郷のパナイ島イロイロ市代表としてミス・ユニバースに応募した動機は、生き別れになった父との再会を果たしたいから。マスコミが騒ぐのも分かります。

特にフィリピンの場合、世界的ボクサーのマニー・パッキャオや、俳優から政治家に転身した現マニラ市長で、次期大統領の呼び声も高いイスコ・モレノなど、貧困から身を起こした成功譚が大好き。その意味では、ミス・ユニバースのフィリピン代表に選ばれた時点で、ラビヤがフィリピン・ドリームの体現者だと思われたんでしょうね。

そんな背景があるから、我が家のメイドのライラおばさんも、家庭教師のアンも、熱心なラビヤ・ファン。というわけで、今回の美女図鑑のモデルは、ラビヤ・マテオです。

さて、詳細に描いてみると、ラビヤの顔って意外なほどに左右非対称。写真を反転させてみると、目の位置や形がかなり違うんですよ。美人ほど完璧なシンメトリーと思われがちですが、実はプロのモデルや女優でも、左右の顔の印象は、違うのが当たり前。

カメラの前に立つ仕事をする人には常識で、自分の顔の印象は、右と左でどう違うのか、明確な自覚があるんだそうです。試しに雑誌のグラビアや広告などを見ると、同じモデルさんなら大抵、顔の決まった側を向けている。ラビアの場合は、左側が多いですね。このイラストではレイアウトの関係で、右側にしてますが。

実はここが大事なポイント。あまりに左右均質な顔って、絵に描いたら不自然で、マネキンかアンドロイドみたいに見えちゃいます。適度に左右の変化があると、親しみやすさ、温かさを感じられるようになるから不思議なもの。その点ラビヤの顔は、絶妙と言えるほど。

なるほどなぁ。ネット上の前評判でラビヤの人気が高いのは、そんなところに秘密があったのかも知れません。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

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2018年

2019年

2020年

2021年



進まぬフィリピンのワクチン接種


出典:The Straits Times

 日本では、新型コロナウィスルのワクチン接種が、遅々として進まない状況に関する報道や論評がネット上で繰り広げられています。そして、ここへきて再び各地での感染拡大。対応策の、蔓延防止措置と称した飲食店の営業時間制限が、甚だ恣意的で不徹底なことから、国や都道府県の為政者への不信感が募っているらしい。

私の生まれ故郷である兵庫県では、県知事自らが「うちわ会食」などという、ネタとしか思えない奇妙な呼びかけを始める始末。「うちわを飲食店に配布するから、会食の際には、これで口元を覆って」ということなんですが、気は確かか?と思ってしまいます。

2021年4月9日更新の日経新聞が伝える「世界のワクチン接種状況」によると、断トツで接種が進んでいるのがイスラエル。100人当たりの接種回数がすでに112.5回で、統計上では全国民が1回目を済ませて2回目も着実に進んでいる。効果もはっきり出ていて、新規感染者数・死者数が劇的に減少とのこと。

自国でワクチンの開発に成功したアメリカ51.7回、イギリス56,1回が目に付く多さ。その他では、バラつきがすごくて、14億余りの人口を抱える中国は、フライングと言いたくなるほど大急ぎで接種を開始したのに、まだ10.7回。かたや、不思議なことにアジアの小国ブータンが、すでに60.7回なんだそうです。

さて、問題の母国日本は、残念なことに1.2回と低迷。「先進国で最低」なんて見出しもありましたが、ワクチンに関すること以外でも、とうの昔に先進国を名乗れない気がしますけどね。それはともかく、この投稿を執筆中時点での明日、4月12日から、高齢者対象の接種が始まるとのことで、河野太郎さんの陣頭指揮で、一気に状況を挽回してほしいものです。

そして我が第二の故郷フィリピンでは、0.9回。数字だけ見ると、日本とそんなに違わないけれど、在留邦人としては泣きたくなるような数字。

マニラ首都圏とその周辺地域では、今日4月11日まで続いていた厳しいロックダウンが、12日の月曜日から一段緩和されるとの発表がありました。感染者数が減ったわけではなく、これ以上やると経済が持たないとの判断なんでしょうね。

首都圏に比べれば、事態の切迫度はまだマシとは言え、私の住むネグロス島では、明日から午後8時から朝4時までの夜間外出禁止。そして何と、家内の勤務先である、ここシライ市のフィリピン教育省の職員一名が、新型コロナの疑いで病院に搬送されてしまいました。

市内の病院では、医療関係者の多くが隔離中で対応できず、州都バコロドへ。陽性となったら、家内を含めて関係者一同が2週間の自宅謹慎となってしまいます。

それに追い討ちをかけるように、フィリピンでのライセンス生産の可能性が報じられていた、ロシア製ワクチンのスプートニクVに、重大な疑惑が持ち上がりました。なんと、スロバキアが購入したスプートニクが、論文で90%を超える効果が出たとされたものと、中身が違っていたというのです。

ニューヨークタイムズの記事なので、単なる噂やデマとは思えません。もしそれが本当なら、治験の情報が未公開の中国のシノバック製以上に信用できない。もう溜息しか出ませんね。

因みにスプートニクのお膝元、ロシアでの100人当たりの接種数が、まだ9回。自国製ワクチン、というより、ソ連時代から続く、政府に対する国民の不信が強く、接種拒否する人が多いんだそうです。



2021年4月7日水曜日

新型コロナ感染・フィリピン国内の温度差

新型コロナの世界的流行により、フィリピン最初の都市封鎖が行われて、もう1年以上が経過します。

規制を緩めたり、また揺り戻しが来たり。何波目なのかよく分かりませんが、今年3月になって、マニラ首都圏での感染者数が、今までの記録を更新する勢いで増加。ホーリーウィーク(イースター前の一週間)には、またもや厳格なロックダウンに逆戻り。

その後、ロックダウンは延長され、現在(4月7日)の予定では、さらに一週間後の4月11日までとなっています。

ただしこれは、マニラとその周辺の状況。おそらくネットで入手できる日本語情報や、日本語の「まにら新聞」の記事だけだと、まるでフィリピン全土が「元の木阿弥」になったような印象を受けるかも知れません。しかし、少なくとも、私の住むネグロス島のシライ市や、西ネグロスの州都バコロドでは、そこまで切迫した事態ではない。

もちろん、コロナ禍前に戻ったわけではないにしても、シライ市内の陽性患者数は、ずっと一桁台で安定し、マスクやフェイスシールドの着用、ソーシャルディスタンスの遵守をすれば、買い物や外食に、それほどの不便は感じない。

これは、オフィシャルにどこまで許容されているのか、定かではないながら、夜10時ぐらいまで限定で、フィエスタは行われているようです。フィエスタとは、各集落単位で行われるお祭り。屋外ディスコやカラオケ大会を伴う行事。週末には、数キロも離れている場所から、どんちゃかどんちゃかと、音楽が風に乗って聞こえてくる。

聞くところによると、新型コロナに限らず、インフルエンザなどの感染症の流行と、人口密度には密接な関連があるらしい。東南アジアでも最大級の人口2,000万のマニラ首都圏では、感染爆発が起こりやすく、一度広がるとなかなか収まらないのも分かります。

それに比べてネグロスは、州都バコロドですら人口は50万。その上、それぞれの市街地は、広大なサトウキビ畑で隔てられているので、ロックダウンの効果が大きいであろうことは、素人目にも想像できる。

ちなみに昨年は、ここネグロスでもロックダウン真っ只中だったイースター。当然ミサには参加できないし、例年、親戚が集まってのパーティも無し。移住以来初めて、誰も来ないイースターを経験しました。

今年は、前述の通りなので、例年通りにイースターの日曜日、私の家族+親戚の10人で、ささやかながらランチ・パーティ。まだまだ前途多難であっても、ワクチン接種の見通しも見えてきて、気持ちの上では、ずいぶん明るく感じました。

また、以前に紹介した、ネグロスの隣島パナイのイロイロ市在住の、友達の娘さんで、医師資格試験をパスしたばかりのゼニア嬢が、アストラゼネカ製のワクチンを接種したとの知らせが。(フラワーガールがお医者さん

というわけで、気がついたら2021年も3ヶ月が過ぎて、日本では新年度。フェイスブックのタイムラインには、日本の友人による、たくさんの桜の写真が投稿される季節。来年には、お花見の時期に、一時帰国できたらいいなぁと、家内と話しております。



2021年4月4日日曜日

竹の足場を再利用 やっぱりブラインドは必要

前回に続いて、屋根修理の足場に使った竹を、再利用したお話。

そのまま自宅前の路上に放置された15本の青竹を見て、フェンスのブラインドにしようと思ったのは、先日のお隣さんとの揉め事が発端。空き地に作った畑に、毎日、朝8時か9時頃にやってきてお昼に帰り、やや遅めの昼過ぎから暗くなるまで、野菜作り励むオっちゃん。

自転車に積んだデッカいスピーカーで、ディスコみたいにフルボリュームの音楽を、農作業のBGMに。「静かにしろ」と文句を言ったら、バランガイ(フィリピンの最小行政単位)経由で苦情申し立てをされた件。(バランガイからの召喚状 バランガイ・キャプテンの調停

バランガイ・キャプテン(町内会の会長さんみたいな感じ)の仲裁よろしく、お隣さんとの関係は何とか修復して、静かにはなったものの、正直、見たくもないオっちゃんの自転車を漕ぐ姿が、毎日2往復、嫌でも目に入ってしまいます。

これは我が家のフェンスが、風通し最優先の、下半分ブロック+上半分スカスカの角パイプの格子だから。今住んでる自宅を設計した時には、まさか隣近所と、こんなにややこしいことになるとは想像もしてなかったし、周囲の家を見ると、結構このタイプのおおらかなフェンスが多い。やっぱり年中暑いから。

こっちから見えるということは、時間帯によっては、向こうからも室内が見える。さらに、このオっちゃんだけでなく、少しづつ空きロットに新しい家が建ち始めているので、以前に比べると、人通りも増えている。

いずれは、フェンスそのものを作り替えて、全部ブロック塀にしようと思っていた矢先に、使い道の無くなった竹材が手元に残されたというわけです。

ということで、またまたメイドのライラおばさんの親戚で、大工さんをやってる人を紹介してもらいました。この大工さんは、以前、週末だけメイドを頼んで、たった1日だけでバっくれちゃった、ライラの姪っ子グレッチンの旦那さん。(週末メイドの顛末

作業そのものは至ってシンプル。竹を短冊状にカットして、フェンスの角パイプ部分に目隠しをするだけ...なんですが、何しろ量が多いので、全部カットするだけで結局1週間近くかかっちゃいました。工賃は大工さん二人で6,000ペソで材料費の3倍。まぁ1万円ちょっとなので、日本と比べれば格安ですけどね。

出来上がりは予想通りで、プライバシーも守れます。ところが、なぜか家内とライラが口を揃えて「ペンキ塗らないの?」と詰め寄ってくる。私は、竹の素材感があって、悪くないと思っていても、彼女らにすると、竹そのまんまは安っぽく見えるらしい。実際安いけど。

この辺りは、感覚の違いとしか言いようがなくて、ペンキなんか塗ったら、そっちの方がよっぽど安っぽい感じがするでしょう。

さて、当初の予定通りにブラインドは完成しても、まだかなりの量の竹材が残ってます。それならばと、今度は家内が、大工さんに頼んで、植木鉢を置ける棚を作ってもらうことに。こちらは大した作業量でもなく、半日ほどで、素朴で可愛いガーデニングアイテムが出来上がりました。



大喜びの家内。でも、これはペンキ塗ろうとは言わんなぁ。


2021年4月2日金曜日

足場の竹を再利用 フィリピンの建材事情


 「建材事情」と銘打つほど、ご大層な話でもないんですが、フィリピンに移住してから経験した、2軒の家の建設と、そのメンテナンスを通じて感じたこと。

とにかく日本では考えられないのは、すべての建材、セメントから土砂、配線・配管の部材、建具や釘に至るまでを、施主が自分で買い付けに行くのが前提なこと。もちろん、施工業者に設計・施工丸投げもできるけれど、これやっちゃうと、ほぼ間違いなく不必要に高くつくか、全然意向と違う家が建ったりします。

タチの悪い業者だと、品質極悪の安物を使い、差額を大工さんや現場監督が懐に入れる、なんてこともあるらしい。

幸いにも、家内の弟が市役所の建築関連の仕事をしているので、真面目な大工さんを紹介してもらい、間に業者を入れず、直雇いで仕事をしてもらいました。

日本で働いていた頃は、工業デザイナーという職種だったことから、職人気質のモデラーさん(デザインの試作品を作る人たち)に、図面とスケッチでモデル制作を依頼するのには慣れていた私。中には気難しいオっちゃんもいましたから、それに比べると、素朴なフィリピンの大工さん相手の仕事は、気楽なもの。

そういう経緯なので、実際に施工が始まると、シライ市内だけでなく、車で30分ほどの距離にある西ネグロス州の州都バコロドまで足を運んで、家内の通訳を頼りに、大工さんから上がってきた要望を元に、建材の買い付けに走り回った次第。

さすがにこれを家二軒分もやったら、どの建材は、どこの店に行けばいいか、相場はいくらぐらいかが、だいたい把握できます。時には建材だけでなく、ハンド・ドリルなど電動工具の購入や、コンクリートミキサー、溶接機のレンタルなど、ちょっとした施工業者ができるんじゃないかというぐらいの、経験と知識を得ました。

そして、直近のメンテナンスが、先月(2020年3月)前半の屋根修理。(やっと終わった屋根修理)この時は、スチール瓦専門業者への依頼だったので、大工さんとスチール瓦部材の手配はお任せだったものの、やっぱり足場の竹は、工事までに揃えておいてくれとのこと。

竹に関しては、自分で何度も買い付けに行った、勝手知ったる竹屋さん(竹だけでも売ってるし、バンブーハウスや竹の家具も作っている店)があります。たまたまここが、我が家のメイド、ライラおばさんの家の近所なので、お金を渡して、出勤時に買ってきてもらいました。


8年前のバンブーハウス購入時
向かって一番右が経営者のオバちゃん

念の為に書きますが、こんなことができるのは、関係者全員が信頼できる人だから。もしこれを読んで、フィリピンに移住して家を建てようという人。たとえ相手が、フィリピン人配偶者の知り合いや親戚だったとしても、最初のうちは絶対に自分で行って、品物を確認してから支払ってください。

さて、トライシクル(オート輪タク)に積まれてきた、直径12、3センチの青竹15本。足場にすると言っても、切ったり貼ったりはほとんどせずに、屋根修理終了後は、購入直後そのままに近い状態で、自宅前の道端に放置。これは勿体無い。

そこで、それを再利用して、今私が寝起きしているゲストハウスのフェンスの、ブラインドを作ろうと思い立ちました。ここからが、やっと本題なんですが、ずいぶんと長くなってしまったので、この続きは次回に投稿します。