2015年4月30日木曜日

フィリピンが静止する日


とうとうフィリピン中が注目の一大イベントが、次の日曜日に迫ってきました。フィリピンでは誰一人知らぬ人のいない、6階級制覇のボクサーのマニー・パッキャオと、無敗の5階級制覇フロイド・メイウェザーの試合です。(試合のあるアメリカでは土曜日の夜)

もう5年前から何度かマッチメイキングされてきましたが、薬物検査の条件などで折り合いが付かず。その間、パッキャオが因縁のライバル、ファン・マヌエル・マルケスにまさかの6ラウンドKO負け。これが私たちのフィリピンへの移住直前で、テレビでのライブ映像は衝撃的でした。

一時は引退もささやかれたパッキャオ。しかし昨年4月にWBOのウェルター級のチャンピンに返り咲いて、今回ついにボクシングファン待望のビッグマッチが、実現の運びとなりました。

ここ10年ぐらいパッキャオの試合がある時は、マニラですら渋滞がなくなり、犯罪も減ると言います。実際、こちらに住んでから3回試合があって、このシライ市内でも、本当に街中が静かになったのは驚きました。

4月に入ったぐらいから、テレビでは試合関連のニュースや、パッキャオの過去の勝利した試合の再放送でヒートアップ。格闘技など嫌いな家内ですら、時々エラい真剣な顔してテレビ見てるなぁ。

この日曜日は、マルケス以来3年ぶりのビッグネームとの一戦。もしパッキャオが勝てばフィリピン挙げてのお祭り騒ぎでしょう。負けたら...ちょっと想像するのが恐ろしいほど、荒れるかも知れません。どっちにしても当日は、試合の後に出歩かない方が良さそうですね。


2015年4月28日火曜日

昔は金持ちやってんで

フィリピンの政治家と言えば金持ちと相場が決まっています。選挙の時の金のバラ撒き具合を見れば分かりますね。日本でも政治と金は切っても切れないけれど、こちらの場合、はるかにそれが露骨。

選挙資金のために各種の団体から集金する。政治献金自体は違法でもなんでもないですが、やはり尋常な方法では思ったようにいかないので、どうしてもやっちゃいけないことに手が出てしまう...というのなら分からなくはない。しかし、フィリピンでは外国人の目から見ていてもなんだか無法地帯のような気がします。

まず候補者の段階で「清貧」な人ってまずいないんじゃないでしょうか? シライ市内を見ても、市長や市議会議員の家って桁外れの豪邸ばかり。自家発電の設備があり停電の時に煌々と照明が点いているので、すぐ分かります。富を見せつけるのは当たり前の感覚。市長になってからではなく、元々金持ちで選挙に勝ってさらに金を増やす、ということらしい。

ところで、家内の母方のオフィレニア一族。そんな資産家はいないと思ってたら、祖父の代にはシライ市でも屈指の富豪だったことを最近知りました。自宅の税金を支払うための手続きで訪れたシライ市庁舎。その階段の踊り場に歴代市長の肖像画が飾ってあります。家内がその一つを指差して「この人は、私のお祖父さんのお兄さん」。つまり大伯父ですね。



へぇ〜。ということは昔は金持ちやったんや。その後知ったのですが、自宅の近所には「オフィレニア通り」という道があるのも、その名残。詳しくは分かりませんがやっぱり地主階級だったのでしょうか? 在任期間を見てみると太平洋戦争真っ只中。当時はシライにも旧日本軍が駐留していて、末期には上陸してくる米軍との間で激戦があったりして、相当苦労が多かったのでは、と想像します。

そんな人が親戚にいたんだ。そう思うと何となくオフィレニア市長に、息子が似ている気がしてきた。血縁はあるはずと言っても、ずいぶん遠いですけどね。

その後、一族は没落して義母つまり元市長の姪が子供の頃には、生活がかなり苦しかったそうです。今ではみんな頑張ったお陰で、中流レベルまで暮し向きが上がって、知る限りの親戚で貧乏している人はいなくなりました。

フィリピンでは、階級がほとんど固定していると思い込んでいましたが、身近にもそういう浮き沈みがあるんですね。


2015年4月25日土曜日

結婚記念日


4月25日は私たちの結婚記念日。あれからもう、17年経ちました。
17年前のこの日、西ネグロスの州都バコロドの教会で挙式。4月〜5月が真夏のフィリピン。あの日も今日と同じく30度越えの暑い一日だったのを覚えています。ことさら暑い時期に合わせたわけではなく、勤め人だった私が比較的長めの休暇を取れるのがゴールデン・ウィーク前後しかなかった。

日本からの出席は、私の両親と弟二人、そして当時働いていた会社のフィリピン法人に在籍していた、先輩社員お二人だけ。式当日まで知らなかったんですが、フィリピンでは冠婚葬祭の正装は、白が基本だったんですね。

私の家族は、外国での結婚式など初めてだったので、当然のように「真っ黒」の略礼服。私だけは家内からの指示で、ベージュのスーツを用意してましたが、まさか花嫁以外の人が白を着るものとは、思ってもみませんでした。

日本と違って、教会のミサがメインのウェディング。2時間ぐらいはかかったと思います。 スペイン統治時代の古い聖堂なのでエアコンはなし。黒服着込んで、まるで我慢大会みたいなことになってしまった...。

当時の写真を見返してみても、フィリピン側の親族も友達も、見事なまでにみんな真っ白。男性の衣装は、麻で作った「バロン・タガログ」という、白くて風通しのいい涼しい礼服。フィリピンで働く先輩社員もこのスタイルでした。



最近ではこの習慣も少し変わってきたようで、花婿が黒のスーツ着てたりすることもあります。一昨年の親戚の結婚式では、テーマカラーが事前にアナウンスされていて、新郎新婦以外は全員青いドレスやシャツ。さて、息子が結婚する頃はどんなことになっているでしょうか?


2015年4月24日金曜日

フィリピン妻の就職


フィリピン大学と言えば、日本の東京大学に相当する学校。本校はマニラ首都圏にあり、分校はミンダナオや隣島パナイなどフィリピン全国にあります。こちらでは University of the Philippines を略してUPと呼ばれています。

家内はこのUPの卒業生。大学院まで進み、卒業後もパナイ島ミアガオ市にあるビサヤ分校で、研究員をしていました。一言でいえばかなりのインテリ。今にして思えば、よく私のような男と結婚してくれたもんだと思います。高給取りとまではいかなくても、仕事を見つけるのがとても難しいフィリピンでは、結構いい給料を貰っていたようです。

日本では幼児向けの英語教室で、先生として働いていました。こちらは本当に高給。ボーナスはないものの、年収は300万円以上。この時期にお金を貯めて、フィリピンの父親に車を買ってあげるという孝行娘でした。(今でも義父は、この車を大事にしてます。)

その後、妊娠を機に退職。以来今まで多少のアルバイトはしたものの、ほとんど専業主婦。とはいえ家を建てる時はマネージャー役で大忙し。実質的には働いていたようなものでしたが...。

そろそろ新しい生活にも慣れて、ちょっと変化がほしいという感じの最近、急に家内に就職の話が。一昨年からシライ市を中心に活動している日本のNGO。(以前、このブログで書いた厄介なNGOとはまったく別組織)こちらに駐在している日本人マネージャーの秘書というかアシスタントとして働かきませんか?とのこと。

環境関連のNGOで、家内の研究員としての経歴が評価されたようで、しかもタガログ語、イロンゴ語(西ネグロスの方言)、英語そして日本語が喋れる。考えてみれば、得難い人材ですね。

業務はパソコンを使ってインターネット経由での在宅勤務がメインで、時々打ち合わせやフィールド・ワーク。かなり良い労働条件。給料も現地の感覚では悪くない金額。ということで、昨日、最初のミーティンブをしていよいよ来月から家内の仕事が始まります。今度は私が専業主夫ですね。


2015年4月22日水曜日

南沙諸島の危機

スプラトリー諸島、南沙諸島の名前で知られている南シナ海にある島々。日本でも盛んに報道されているようなので、何が起こっているかは今更言うまでもないでしょう。このブログではあまり政治向きのことを書く気はなかったんですが、ここまで中国が挑発的なことをすると、本気で戦争が起こるんじゃないかと心配になってきました。

こんな交通の要衝で領有権で揉めてる真っ最中に、近隣国の目と鼻の先で軍事施設を作るなんて、喧嘩売ってるとしか思えない。私はフィリピン人ではないので、スプラトリー諸島の帰属がどっちになっても、口出しする立場にはありません。しかし、これでは相手のプライドを根こそぎ奪ってしまって、交渉の余地を自ら放棄してるようなもの。

面子を何よりも大事にする中国だから、どういうリアクションがあるか想像できそうなものなのに。フィリピンとその支援国であるアメリカと本気で戦争するというのでしょうか? どう考えても今の経済の相互依存の状況では、ここで火遊びをして偶発的な紛争を起こしても、お互いに得になることは何にもない。

いきなり全面戦争にはならないにしても、フィリピン市場で急に中国製品の流入が止まったりしたら、たいへんなことになるでしょう。今やフィリピンでは、中国製でない品物を探すのが難しいぐらいですから。まったく住んでいる者にとっては、堪ったものではありません。とにかく当事国の指導者には何とか冷静になってもらって、戦争だけは回避してもらいたいものです。


2015年4月20日月曜日

死んでも祝う誕生日


フィリピンでの誕生日については、度々このブログで取り上げています。心底誕生日祝いが大好きなフィリピン人。親戚も友達も多くて、何よりも子供が多いこの国。日本だったら従兄弟姉妹とか又従兄弟姉妹ぐらいだと、誕生日すら知らないというのが普通でしょう。ところがこちらでは、だいたい全部のパーティに出席して、しかもその子供たちまで守備範囲に。

これに友達本人と友達の子供、さらに子供の友達まで全部ということになると、月に2〜3回は誰かの誕生祝いをしている感じになります。加えて我が家の場合、新築で比較的大きな家を作ったので、パーティ会場を提供する機会も多い。

頻繁な誕生日祝いですが、驚いたことに家内は又従兄弟姉妹ぐらいまでは、ほとんど誕生日を暗記しています。甥や姪の代父母(カトリックでのゴッド・ファーザー、ゴッド・マザーのこと)になることが普通なので、その子供たちの誕生日を覚えておくのは、当たり前のことなんだそうです。

子供が4人も5人もいる家はたいへんでしょうね。何しろ日本と違って、ケーキ買って、ちょっとしたご馳走を家族で食べてお終い...にはなりません。最低でも10人程度、場合によっては何10人とか100人規模のパーティしないと収まらない。当然プレゼントも用意します。これではパーティの費用だけで、身上を潰しそう。また、お金のない家に限って見栄っ張りなのが、フィリピンの国民性。そりゃ貯金も貯まりません。

先日亡くなった叔父。その末娘があと数日で誕生日というタイミングでした。叔父の死の直後、家内が病院に駆けつけた時この娘が「もうすぐ私の誕生日なのに〜。」と号泣していたそうです。「悲しいのは、そっちか〜!」とツッコミを入れそうになりました。

可哀想に、今年の誕生日祝いはスキップかと思いきや、何と父親の通夜の最中に、ささやかながらとは言え、ちゃんとパーティやってましたね。まさしく誕生日「いのち」な人たち。

驚くのは、亡くなった人の誕生日までお祝いすること。幼くして子供を亡くし、その子の歳を数えて...というのではありません。60過ぎで亡くなった義母の誕生日を、死後10年近く経った今でもちゃんと覚えていて、親戚が墓前に集まります。さすがにパーティまではしませんでしたが、墓場で「ハッピー・バースデー」歌うんですよ。すごいなぁ。


2015年4月18日土曜日

隣のトラブル・メーカー


もう1ヶ月ほど前になります。お隣さん...と言っても疎らにしか家が建ってないので、1ブロックほど向こうに住むアメリカ人のモーレン氏。この近辺に住む外国人で、お決まりのフィリピン人妻と暮らすパターンの爺さんです。

近所にいるアメリカ人男性は、他にも何人か知り合いがいます。息子の学校のパパ友(?)とか、プロテスタントの牧師家族。いかにも「ヤンキー」という感じで、馴れ馴れしすぎるぐらいに開けっ広げにフレンドリーな人が多い中で、このモーレン氏は相当な変わり者。

なんでもかんでも気に入らないという性分らしく、高級な宅地なのに浮浪者が住んでるから追い出せとか、更地に生えてる雑草を刈れとか、宅地の管理者や地主と大喧嘩したそうです。二言目には「俺は大金持ちで、他にも土地を持ってるんだ」と怒鳴り散らす。そんなにここに住むのが嫌ならば引っ越せばいいのに。

母国ではよほど恵まれない環境に育ってコンプレックスを溜め込んでいるのか、異常なまでの上から目線。それだけだったら、勝手に喧嘩して恨みを買えばいいけれど、何を思ったか自分の土地でもない場所の枯れ草に、火を付けてまわるようになりました。いくら焚き火が自由なお国柄でも、自宅の庭ならばともかく、他人の土地に放火するのは許されません。

最初は自分の家の隣から始めて、とうとう我が家のすぐ隣で豪快に焚き火。こら〜、洗濯もん干してるのに何すんるんじゃ〜。

しばらく様子を見ていたものの、ある日とうとうキレて、文句を言いに行こうとした私を家内が止めました。「こういう時は、警備員を呼んでちゃんと証人を用意すること。文句は私が言います。」

駆けつけた警備員を従えて、家内は自分より頭一つデカいモーレンの前に立ち塞がりました。さすがTOEFLで満点取る人ですね。立て板に水の如く英語でまくし立てる。私も2階の窓からそれを見ていて、途中で頭に来て一緒に怒鳴ってやろうと思いましたが、警備員に止められてしまいました。それにしてもリアルな英会話で「Son of a bitch」というセリフを聞いたのは初めて。何ちゅう品のない奴っちゃ。

その日を境に放火癖は影を潜め、モーレンの姿を路上で見ることがなくなりました。どうしてんのかな?と思ったら、体を壊して入院してるらしい。家内によると、蟻塚を燃やしたから、地元の精霊の罸が当たったんだそうです。やっぱり新規移住者は、現地の住民の恨みを買ってはいけないという教訓なのでしょうか。


2015年4月17日金曜日

フィリピン人のニックネーム

最近の投稿でフィリピンの家族や親戚のことを書きました。そこでニックネームを使ったのは、実名を伏せるという意図ではなく、本当にニックネームで呼び合うケースが多い。あんまりそっちで慣れてしまって、本名を知らない人が珍しくないのがフィリピン。
そんなにニックネームが好きなわりには、すごくユニークな名付け方は少なくて、ある一定のパターンがあるようです。

続柄
これをニックネームと言うべきかどうか微妙ですけど、家族や親戚の中での続柄がそのまま名前になるパターン。「マミィ」「ダディ」「ママン」「パパン」。母ちゃん、父ちゃんって、そのまんまですね。これをちょっとひねった「ミス・ママ」〜40歳過ぎまで独身だった叔母さんが姪っ子たちの面倒を母親のように見たので、こういう名前なったらしい。「パパ・ボーイ」〜子供の頃からボーイと呼ばれてたのが結婚して父親になったから。家内のニックネームの「ダイ」(お嬢さん)もこの系統でしょうね。

繰り返し音
フィリピンの言葉は、同じ音の繰り返しが多用される傾向が顕著。雑貨屋が「サリサリ・ストア」、スイーツの「ハロハロ」、噂話は「チュクチュク」など。名前だと「ボンボン」「ジュンジュン」「ノイノイ」「ティンティン」なんていうことになります。ちょっと赤ちゃん言葉みたいで響きが可愛らしい。クリスティンがティンティンという場合もありますが、中には由来は特になく、何となくそうなってしまうことも。

短縮形
グロリアが「グロ」、カトリーナが「カット」。私の洗礼名フランシスコは、たまに後ろ半部を縮めて「キコ」(シスコが転じて)と呼ばれることがあります。すごく長い名前だったら縮めるのも分かりますが、そんなにゾンザイにしなくても...と思わなくもない。

イニシャル
ジャスミン・ジョイがJJ(ジェイジェイ)、ホセ・ペラルタがJP(ジェイピー)になるパターン。因みにイニシャルをさらに縮めてジェイと呼んだりしますね。これは私の姪っ子です。

この他では、家内の友人で本名がアーネスティーナ・ペラルタなのに「レ」まで名前が縮まっちゃった人がいます。息子の洗礼式パーティのスピーチで「私の本当の名前は、アーネスティーナです。」と自分でネタにしてました。

目上の親戚や職場の上司でもニックネームで呼び合える文化は、フィリピンらしくていいのですが、先日パパ・ボーイの葬儀で、神父さまを墓地までお連れした時に「亡くなった方のお名前は?」と訊かれて、答えに窮してまいました。本当はフルバート・オフィレーニア。でも生きてる時にそんな難しい名前で呼んだことなかったもんで。


葬儀の献花にもニックネーム


2015年4月16日木曜日

葬式スカイプ

フィリピンのインフラ、電気・水道・通信・交通、どれを取っても日本に比べると著しく見劣りします。停電はしょっちゅうなのに電気代は日本並み。水道の水圧は低すぎて、自分で水タンクや水ポンプを設置しないと、朝のピーク時にはシャワーも満足に浴びれない。インターネットは遅い上に通信障害はやたら多い。交通に関しては旅客鉄道はぼ皆無で、移動時間が全然読めない...などなど。

不満を言い出したらキリがないし、世界水準では日本のサービスがある意味異常なほど充実しているので、経済レベルを考慮すると比べるのが酷かも知れません。私が生きているうちに、これらが画期的に良くなることも期待はしてませんし、もう慣れました。

しかし変な規制がないだけに、意外にも新しい技術が普及するのが劇的に早いこともあります。分かりやすい例が携帯電話。元々固定電話の通信網がイマイチだったので、電話線に頼らず、比較的設備投資が少なくて済む携帯は、1990年代の半ば頃に爆発的に広がりました。以前の投稿でも書いたように、日本と違って経費が馬鹿高くなく、数千円の電話本体購入費と100円のSIMカード、そして数十円単位からのプリペイド式のお陰で、貧困層でも携帯電話使用率は実に高い。

最近ではフェイスブック。ちょっと大型の商業施設ならば、大抵の場所で公共WiFiサービスがあります。スマホも中国製の格安のものが市場に溢れているので、老いも若きもみんなセルフィ撮って写真をアップ。寂しがり屋で写真大好きの国民性と、見事にマッチングしたんでしょうね。別に芸能人とか有名人とかでなくても、フェイスブック友達が数千人なんてフィリピン人はザラにいます。

そしてスカイプ。一説によると、出稼ぎやら国際結婚で海外に800万人ものフィリピン人が住んでいる。私が家内と付き合っていたころは、インターネットすらようやくオフィスで使えるかどうかという時代。国際電話を頻繁に使いたくても高すぎて、泣く泣く山のように手紙を書いてました。ところが今やネットさえ繋がれば、タダ同然で海外にいる親戚や家族の顔を見ながら会話ができる。もうまるでフィリピン人のために作られたテクノロジー。

今回の叔父の葬儀でも、ラップトップパソコンを通夜の場に持ち込んで、シカゴ在住の親戚とエンドレス状態で話をしてました。こっちでの親族大ゲンカも筒抜けだったらしい。こういうのを見ていると、たくましいというか、生きるための柔軟性が高い人たちなんですね。次の技術革新はソーラーパネルか、電動輪タクか?





2015年4月14日火曜日

コメディな人たち


昨日は離婚について、ちょっと真面目に投稿したところ、私よりはるかに真面目な友人から「分かっているだけでも男の子2人、女の子3人の子供を作り...」の箇所で笑ったしまったと感想をもらいました。確かにねぇ。日本人の感覚で考えると、次々と奥さんを取り替えて子供をポロポロ産ませて、状況が非現実的。シリアス・ドラマというよりもシチュエーション・コメディみたい。

叔父を含む家内の母方「オフィレニア家の男たち」。実は婚外子作りは三代に渡っての遺伝らしい(フィリピンでは法的に離婚は認められていません)。家内の祖父には文字通りの隠し子が何人かいて、子供たちがすっかり成人してから腹違いの兄弟姉妹が現れて、大騒ぎになったそうです。そしてその祖父の長男パパボーイについては、延々と書いてきた通り。

さらにそのまた長男のボンボンは、最初の妻サラ(これがまた美人!)との間に高校生の息子ジャッドがいるのに、今はローズという別の女性とマニラで所帯を持ってます。葬儀の時に後妻を怒鳴りつけたのが、このボンボン。「お前が言うな〜」と突っ込まれそうですね。その上ジャッドも高校ではずいぶんモテる。罪作り四代目の素質は十分。

もう、どこまで懲りないのかと呆れかえりますが、ボンボンと別れた前妻のサラがフェイスブックで友達になっていたり、ジャッドと後妻のローズが笑いながら集合写真に収まっていたりと、私には理解不能。

フィリピン女性は嫉妬深いとよく言われますし、私もそれは身を持って感じています。でも別れてしまえば、ドロドロした感情は割り切れるものなんでしょうか? いつまでも恨みを持続させるということが、少ない国民性なのか?
謎は深まる...。


この写真に写ってる人たちだけでも相当複雑な関係


2015年4月13日月曜日

家庭を壊すということ

聖週間、イースター、通夜、葬儀...と計らずも長いこと行事が続いてしまい、ようやく週明けの月曜日で、今度こそ日常生活が戻りました。それにしても先週の叔父の葬儀では、実にいろんな事を考えさせられました。

結婚・離婚を繰り返した叔父。その間に分かっているだけでも男の子2人、女の子3人の子供を作り、男の子1人、女の子2人を養子として育てました。上の子はもう40歳を過ぎて孫までいます。しかし一番下の女の子がまだ10歳になったばかり。

今さら言うまでもなく、両親が別れると子供にはとてつもなく大きな影響が出るんですね。実は私も20年前に日本で離婚を経験しています。(子供はいませんでした)なので夫婦別れを非難する気も資格もありません。しかし側から見ると、なぜあんなに優しい最初の奥さんにさよならして、問題だらけの最後の奥さんとの間に3人もの娘を作ったのか不思議。

もちろん男女間、特に夫婦の間のことは当事者にしか分からないことがあるもの。どっちがいいとか悪いとかは軽々しく言えません。また親が再婚とか初婚とか、生まれた子供にとっては関係ない。両親の出会いがなければ、自分の存在がなかったわけですから、これだけは否定するわけにはいかない。

しかし今回、親の意向に振り回され、怒り泣き傷つく子供たちの姿を目の当たりにして、やっぱりできることなら、両親がいる環境で子供は育ったほうがいいという、当たり前のことを思いました。

死別や諸般の事情でそうならないこともあるでしょう。親がいない子供が必ずしも不幸になるわけでもありません。でも父母同士の都合だけで家庭を壊すならば、それ相応の覚悟が必要なんですね、日本人でもフィリピン人でも。


棺の蓋に書かれた、子供たちの名前


2015年4月11日土曜日

出て行け〜


叔父パパボーイが心臓発作で急逝してから一週間。長い長い通夜が終わり、昨日ようやく本葬が営まれました。何人の女性がいたのか、親戚でも分からないというパパボーイ。最後の奥さんがやって来て、すっかり険悪な雰囲気になってしまった通夜の席です。しかし最初の奥さんとの息子、通称ボンボンが状況を一変させました。

3人の娘が味方して、傍若無人に振舞っていた後妻に、最初は我慢して沈黙を守っていたボンボン。酒が入って怒りが爆発。マニラから来ていた後妻の荷物を外に放り出して、タガログ語で「出て行け〜」と怒鳴りつけたんだそうです。それっきり彼女は葬儀場からいなくなり、昨日の本葬にも現れませんでした。

その後ボンボンは3人の娘、つまり異母妹たちに「お母さんがいいなら、一緒に出て行け」と静かに言い渡し、結局3人ともその場に残りました。叔母たちとも関係を修復して、本葬では以前と同じに仲良く隣の席に。一時はどうなるかと気を揉んでいましたが、急転直下の展開でしたね。

そして本葬の前日、ボンボンの母で最初の奥さんグロリアが出稼ぎ先のアメリカから一時帰国。二人の妻による、棺の前の対決は避けられました。それにしてもグロリア、後妻さんとは対照的で人当たりもよくて穏やかな性格。家内がマニラで学生時代を過ごしていた頃、ずいぶん世話になったそうです。しかも若い時はジーンズ「リーバイス」の専属モデルをやっていたほどの美人で、スタイルも良かったらしい。今は想像するのが難しいですが...。

私は出席しないつもりだった本葬。しかし欠席の理由が消失。当日は運転手役で荷物を運んだり、ミサを執り行う神父さまを教会から葬儀会場の墓地付属のチャペルにお連れしたりと、忙しく立ち働きました。実質的にいろんな手続きや段取りを、家内が頑張ってこなしたお陰で、フィリピンにしては引き締まった本葬に。

終わり良ければすべて良しというところでしょうか。ずいぶんたくさんの経験をさせてもらった一週間でした。


パパボーイの子供達 一番左がボンボン


棺の前の葬儀ミサ


埋葬前の最後のお別れ


2015年4月8日水曜日

棺の前の修羅場


土曜日に急逝した叔父パパボーイ。複数の妻がいて合計8人の子供の父でした。フィリピンの習慣での長い通夜が続く昨夜火曜日、最後の奥さんがマニラから到着。今まで詳しくは知らなかったんですが、この人は水商売をしていて叔父と知り合い、前夫の間に設けた二人の娘を連れて一緒になったんだそうです。

新たに三人の娘ができた後、奥さんの浮気で結婚生活は破綻。三人の娘を連れて叔父は、生まれ故郷のネグロス島に引っ越し。まるでドラマのような展開だったんですね。そしてこの最後の奥さんがかなり破滅的な性格で、酒好きで薬物中毒、異性関係も相当放埓。当然親戚中の嫌われ者で、叔父が別居を決意したのも、この母親の元では娘がまともに育たないと考えたかららしい。

しかし、こんな人でもやっぱり母親なんですね。久しぶりの再会に三人の娘たちはすっかり母になびいてしまい、今まで世話になった叔母たちを始めとする親戚一同への態度を一変させて、口も利かなくなってしまいました。三人とも地元ネグロスの学校に通っていますが、全員マニラに連れて行くと一方的に宣言して、棺の前で大喧嘩。

結局、娘とその母を残して、棺が安置されている葬儀場から全員引き上げてしまいました。う〜〜ん、感情を爆発させるのはいいけど、せめて葬儀が終わってからにすればいいのに。しかも小さな子供や親戚以外のご近所さんや友達の面前。

幸いにも私は、この修羅の現場には居合わせませんでしたが、家内からこの話を聞いてなんだかすっかり気持ちが冷めてしまいました。叔父が亡くなってから毎日夕食をたくさん作って、通夜に集まった人たちに持って行ったりしてたんですけどね。

本葬の当日には、アメリカ在住の最初の奥さんがやってくるとのこと。これは正真正銘の修羅場になるのは必至。親しい親戚や家内が葬儀の場で罵り合うのは見たくないので、私は葬式に出ないことにしました。とても残念で寂しい結末。今日はその叔父の涙のように、朝から激しい雨模様です。


69歳の叔父の誕生日を祝ったのがほんの一週間前
遠い昔のことのようです。


2015年4月6日月曜日

聖金曜日の行列



今日はイースター休暇明けの月曜日。フィリピンは聖週間も終わって通常の生活に戻りました。本当は土曜日に投稿しようとしていた聖金曜日のお話。土曜日に家内の叔父が急逝したため、ちょっと時期外れになってしまいました。

このブログで何度か触れているように、イースターは教義での位置付けから言うと、キリスト教の根幹をなす「イエスの十字架での死」を悼み「復活」を祝う特別な日。クリスマスよりずっと重要です。しかもその死は、ありとあらゆる人の罪を神に対して贖うための死。これはキリスト教独特の考え方と言えるでしょう。

このため、イースターはクリスマスより厳粛で、商業的な要素もずいぶん少ない。さすがのお祭り大好きのフィリピンでも、聖金曜日から復活の主日、イースター・サンデーまでは、深夜の野外ディスコもカラオケ・パーティもありません。

灰の水曜日に始まりイースターに終わる46日間、ここフィリピンではイースター当日よりもイエスが磔刑に処せられたとされる聖金曜日にこそ、クライマックスを迎えます。私たちの住むシライ市では、夕方から「プロセッション」〜聖金曜日の行列〜が行なわれました。



場所によっては、イエスに扮した信徒が本当に手足を十字架に釘づけにされて、血を流しながら行進するという過激なこともやるそうですが、シライではごく穏当に、十字架や聖母像、諸聖人を飾りライトアップされた山車だけ。全市民がロウソクを片手に、その山車と一緒に市内の所定コースをゆっくりと行進します。





派手な音楽や踊りは一切なくて、騒がしいフィリピンのお祭りに慣れた感覚としては、ちょっと寂しい気もします。しかし沿道にはフライドチキンやソーセージの屋台がずらり。聖金曜日は肉断ちとちゃうんか〜と思わずツッコミを入れてしまいました。


行列の最後尾はイエスの棺を模した山車


最後列が動き出す頃には月齢14日の月が


2015年4月5日日曜日

イースター、そして通夜の始まり



「主のご復活おめでとうございます。」日本ではカトリック信徒同士、イースターにはこんな挨拶を交わします。こちらではシンプルに「ハッピー・イースター」。進路が逸れたとはいえ、やはり近くを台風が通過中なので、雲が多く少し蒸し暑い朝。今日は6時過ぎには起きだして、8時のミサに参加しました。ところがいつも行っている宅地内のチャペルは何故かイースターのミサはなく、市内最大のサンディエゴ・カテドラルへ。




国民がほぼ全員クリスチャンなので、さすがにイースターの朝ともなると、いつもにもましてすごい人ですね。なんとか家族3人の席を見つけて、久しぶりに「アレルヤ」を唱え「栄光の賛歌(グロリア)」を歌いました。イースター前の40日間の四旬節は、一種の服喪の期間なので、アレルヤもグロリヤもミサの中では口にしません。

ここまでは毎年のイースターと同じなのですが、その後チャペルに行って神父さまに葬儀のミサの依頼をしました。昨日、家内の叔父パパボーイが心臓発作で急逝したためです。ついこの間、家内の友達の祖母の葬儀で同じように新年早々、葬儀の依頼をしたとばかり。まさかイースターにこんなことになるとは、思いもしませんでした。

その後、少し早めに昼食を済ませて、パパボーイの遺体が安置してある葬儀場の霊安室に向かいました。ちょうど死後24時間。遺体には防腐処置が施され、まるで人形のように棺の中に横たわる叔父と対面。ほんの数日前、元気な姿を見たばかりなので、物言わぬ状態を見てもまだ信じられない気持ち。しかし一番信じられないのは、本人だったでしょうね。





またこれから、フィリピン式の長い通夜が始まります。こちらではだいた1週間ぐらい通夜が続き、24時間親族や友人の誰かが、交代で棺に付き添います。家内の親戚ではたまたまそういう人はいませんが、大抵酒が入って賑やかな宴会状態になり、夜通し麻雀やポーカーなどのギャンブルが行われることが多い。

今回は博打打つ人がいない代わりに、20代以下の若い世代はみんなスマホを持ち込んで、ゲームやったりフェイスブック見たり。通夜と言えば故人を偲んで語り合うもののはずなんですけどね。まぁ家内の世代より上は、昔ながらの時間の過ごし方を守ってましたが。

さて、明日はイースター休暇も終わり、マニラや国外に住む親族が続々と集まってきます。何しろ3回結婚して、それぞれに子供がたくさんだったパパボーイ。これからいろいろと難しいことが起こりそう。


2015年4月4日土曜日

聖土曜日の訃報

家内の亡き母のすぐ下の弟、叔父のパパボーイ。昨年末にこの叔父についての投稿をしましたね。同じシライ市内にまだ10代の娘三人と暮らし、今週の火曜日に69歳の誕生日をお祝いしたところ。最近は糖尿病を患い、足の手術をして歩くのも難しくなってましたが、まだまだ元気だと思っていました。

明日はイースターという、雲一つなく晴れた聖土曜日の今朝、電話でパパボーイが倒れて病院に搬送されたという知らせが。すぐに家内はパパボーイの娘たち(家内の従妹)や親戚と共に病院に駆けつけましたが、心臓発作で病院に到着した時は、もう手の施しようがない状態でした。年齢的に早すぎることはないにしても、人の命のなんと儚いことか。

折しも誕生日のお祝いとイースターの休暇を兼ねて、再々婚の相手である今の奥さんの連れ子、養女二人がマニラから遊びにきていました。この二人はもう二十歳を幾つか過ぎていて、働いているとのこと。思えば娘5人に囲まれて、長く苦しむこともなく亡くなったのは、幸せな人生の締めくくりだったと言えるかも知れません。


娘5人に囲まれた誕生日

ドラマや映画だったら、息を引き取った瞬間に暗転して葬儀や埋葬のシーンとなるところですが、現実はここからが大変。隣町の州都バコロドから叔母二人と従弟も駆けつけ、家内と一緒に、病院での手続き、葬儀の段取り、マニラに住む家族や親族れの連絡等々に忙殺され、帰宅したのは夕方の4時頃。私は昼食の用意を頼むという携帯電話へのメッセージを受けて、大量のパスタや炒飯、カレーを準備して待ってました。

10歳の末娘ダリルは、家内の実家に預けられていましたが、他の4人の娘たちが、一様に疲れた顔で私の自宅にやって来ました。みんな朝から何も食べられず、これが今日初めての食事。ものすごい勢いで用意した料理を平らげてしまいました。そうなんですよ、悲しみに暮れていてもやっぱりお腹は空く。お陰でイースターの家族用に買っておいた食材がほぼ無くなってしまいました。

みんなが帰った後、久しぶりに夕焼けの撮影に。今日はなんだかいつもよりずいぶんきれいに焼けましたね。パパボーイからのお別れのサインだったのでしょうか?



2015年4月3日金曜日

穏やかな聖金曜日



依然として4号台風チェデンは、フィリピンに接近中ですが、進路が当初予測からかなり北側に逸れたようで、ネグロス島への直接の影響はかなり小さくなったようです。勢力も「非常に強い」スーパー台風から「強い」に変わりました。ここシライ市では、青空が広がり風も弱く穏やかな聖金曜日を迎えています。

聖金曜日は「主の受難」。カトリックでイエス・キリストが十字架上で死んだとされる日。肉食は控えて、食べる量も少なめにするのが信徒の習慣です。それに合わせるように、朝早くから行商の魚屋さんが玄関の前に立ちました。家内が昼食用に3尾購入。

日本では、この日は祭日でもなんでもなく、勤め人だったのでどうしても昼食は普通に食べてしまい、聖金曜日だということを忘れることが多い罰当たりな信徒でした。フィリピンでは早朝から宗教行事が行われ、仕事も休みのところが多いので、さすがに忘れることはありません。

移住後2回目の聖週間。昨年はまだ自宅の工事中でもう一つ落ち着きませんでしたが、今年はプロセッション「聖金曜日の行列」などに参加しようと思います。台風が直撃しなかったことを神さまに感謝して。


2015年4月1日水曜日

台風チェデン接近中


今日2本目の投稿です。
クリスマスでも正月でも人間の都合はお構いなしに台風はやってきます。今年はなんとイースターにちょうど合わせたように「非常に強い」台風4号、フィリピン名チェデン(国際名メイサーク)が接近中。最新の予報では4月4日の土曜日にルソン島に上陸の可能性が高いとのこと。

4月1日現在で中心気圧は920hPa、中心付近の最大風速は秒速50メートル、瞬間最大風速が秒速70メートルとなっています。一昨年の台風ヨランダに比べると若干弱いとは言え、直撃されれば相当な被害が出そうな数字。在マニラの日本大使館からは、再三警戒を呼びかけるメールが届き、地元新聞のフィルスター紙の予報でも「スーパー台風」と最大級の表現。

今のところ私たちの住むネグロス島のシライ市では、幾分風が強いですが晴天で真夏の日差しが照りつけていて、情報がなければ台風が近づいている感じはまだありませんが、今回はスピードも早く、予想進路がほとんど一直線でフィリピンに向かっていることから、予報の精度はかなり高いようです。

明日には食料や水の補給をした方がよさそうですね。どうか、被害が最小限にとどまって、平和な復活祭が迎えられますように。祈ります。

出典:philstar Headline


さよならブランドー



我が家の裏庭で飼われている鶏たち。雄鶏ブランドー、雌鶏ポチョラとクーカイ。その子供はもう雛ではなく成鳥になった雄1羽に雌2羽。ペットではなく卵や鶏肉用に飼い始めたものなのに、子育ても終わっても雌鶏たちは全然卵を産みません。そろそろポチョラ食べよか?と家内が言い始めました。名前付けてしまったので、食用にするとなると変な罪悪感が湧いてきます。

それを敏感に感じ取ったのか、まるで生き残りを賭けたように2羽の雌鶏が交代で卵を生むようになりました。すごい生存本能ですね。餌は市販のトウモロコシベースのものばかりやっているので、卵の黄身はほんとのまっ黄っ黄。黄身というぐらいだから黄色いのは当たり前なんですが、卵というより黄色の絵の具みたいな色。

まぁ色はちょっと変わっていても、料理に使ったら普通の卵なので、ポチョラとクーカイはしばらく延命することになりました。すると今度は雄鶏ブランドーに異変が。脚を引きずるような変な歩き方してるなと思ったら、とうとうへたり込んで歩けなくなってしまいました。う〜ん、可哀想だけどこれが食べどきか...。

時々庭の草刈りなどをやってもらっている、便利屋のダリ(以前ウチでメイドやってたカトリーナのお父さん)に頼んでシメてもらいました。ついさっきまで生きていたのに、あっというまに「鶏肉」になってしまったブランドー。



さて食べ方なのですが、以前にも飼っていた雄鶏をツブしたことがあって、その時は、とても固くてあまり美味しいものではありませんでした。そこで今回は鍋でグツグツ煮込んでスープを取ることに。1時間ほども煮て、他の調味料を加えるといい感じのスープが。
白菜、人参、ネギと最後にゆで卵を入れて、ネイティブチキンラーメンの出来上がり。食事の前のお祈りに「ブランドー、ありがとう」と唱えて、家族で美味しくいただきました。