2025年7月1日火曜日

7名死亡の大事故発生


出典:Negros Now Daily

 7月の投稿は、たいへん痛ましく残念な話からになってしまいました。

先週の金曜日(2025年6月27日)、我が街シライの市役所職員を乗せた車が横転し、7名が死亡19名が負傷するという、私が知る限り、シライ史上最悪の交通事故が発生。事故現場は、市役所から山間部へ通じる幹線道路で、山の中腹とは言え見通しの良くそれほどの急坂でもない場所。しかも晴れた午前中なので、最初に聞いた時は「なぜ?」というのが率直な感想でした。

第一報では、トラック絡みの事故とのことで、てっきり市の職員はマイクロバスに乗っていて、猛スピードのトラックと正面衝突でもしたのかと想像しました。ところが実際は、職員が乗っていたのがトラック。しかも本来、人が乗ってはいけない荷台に、30名近い人が立ったまま乗車していたらしい。さらに運の悪いことに、途中でブレーキが効かなくなり、コントロールを失って横転。

おそらく、よほどのスピードが出ていたんでしょうね。事故直後に報道された写真を見ると、亡くなった方々は、道路に叩きつけられたように横たわり、ムシロの代わりにバナナの葉が被せられていました。

まず、これだけの大人数をトラックの荷台に乗せて山道を走るなんて、日本では考えられない状況ですが、フィリピンではよくある話なんですよ。一般的に交通安全への意識が低すぎる。例えば、軽トラや中型トラックの荷台に人を乗せて走るなんて日常茶飯事。さらに驚くのは、バイクに家族4〜5人で乗ってたりする。これがサイドカータイプのトライシクルじゃなくて普通の二輪。お父さんが運転して、前に4〜5歳ぐらいの子供、後ろには赤ちゃんを抱いたお母さん、みたいな要領で。

こんな危険運転が普通なので、いつも「これは事故ったら大惨事やろなぁ」という思いでした。まさにその危惧が現実になってしまったわけです。

なぜ平日の昼間に、市の職員が大挙して山間部へ向かっていたかと言うと、これは定期的に行われている、市が主催の植林事業の一環。フィリピンというと、どこも緑豊かで、熱帯雨林に覆われているイメージですが、実は7〜8割、下手すると9割が伐採されてしまい、危機的な森林破壊が進行してるのが実態。このため山の保水力が低下して、土砂崩れなどの災害が多発。海では、かつて沿岸部に広がっていたマングローブの森も同じ状況になっています。

「アジアの病人」と揶揄されていた1980〜90年代を経て、今世紀に入った頃から経済成長著しいフィリピン。さすがに懐に余裕が出てくると、これまで放ったらかしていた環境破壊にも目が向くようになったのか、2000年代になってからは、あちこちで植林して緑を取り戻そうという機運が盛り上がってきました。

ここネグロス島のシライでも、一時期日本のNGOが協力もあって、今では市役所独自で植林運動を行なっています。まぁ元はと言えば、高度経済成長時代に日本への輸出用に樹木を切りまくったのが発端なので、ちょっと遅すぎる罪滅ぼしみたいなものですが。

そのような、より良きフィリピンの将来を作ろうという活動の途中で、こんな事故が起こるとは、まったく悲しい限り。目的は何であれ危ないことを続けてたら、いずれ事故になるのは、単に確率の問題でしかなかった。

さて、日本人的発想ならば、これから事故の責任追求が始まるところ。市役所の管轄部署の部課長や、場合によっては市長まで首が飛んでも、まったく不思議ではない。ところがフィリピンの場合は、そうはならないでしょうね。トラックの運転手には何らかの刑事罰があるかも知れませんが、役人が責任を感じて辞任するなんて光景は、下はバランガイ(町内会)から上は国政に至るまで、少なくとも私は見たことがありません。

おそらく被害者やその遺族への補償も微々たるもので、そもそも保険に入っていたかも疑わしい。ちなみに家内の弟、つまり義弟は市役所の職員で部長クラスの管理職。直接知っている方が亡くなっているそうです。

細かいことに拘らない大らかさは、この国に暮らす上での大きな魅力とは言え、人命にかかわる事へのいい加減さ、雑なところだけは何とかならないものかと思いますね。差し当たっては、息子に「友達に誘われても、トラックの荷台に乗ったりするなよ」と諭すことぐらいしかできませんけど。



2025年6月30日月曜日

箸でカレーを食べる高齢両親

 今年の3月に再び我が家にやって来た、もうすぐ90歳の高齢両親。今回は12月初旬まで滞在予定で、その半分ぐらいの日程が終わりました。

両親のためにわざわざ建てた2LDKの一戸建て。その値打ちが発揮されてる感じで、すっかり生活も安定した今日この頃です。相変わらず半分寝たきりの母ですが、食事の時には自分の足で歩いて母屋にやって来ます。特別にお粥などの流動食は用意せず、もうすぐ20歳の息子(つまり母にとっては孫)と同じ献立を、88歳という年齢の割には、毎食きちんと食べています。

それに比べて父はかなり元気で、暇つぶし用に日本から持って来た、大きなジグソーパズルに取り組む毎日。日に一回は、家の周りをややよたつきながらも歩行訓練。相変わらず照明や扇風機の消し忘れはあるし、窓全開でエアコンを回すスカタンはやりながらも、一応の意思疎通はできている。

ただ、二人ともアルツハイマーの兆しが出ているのは間違いなさそうで、食事時のふとした行動に違和感を覚えることもしばしば。最近気になってるのは、なぜか頑なにスプーンを使わないこと。明治や大正ではなく、ギリギリとは言えレッキとした昭和二桁生まれの両親。子供時代から普通にスプーンやフォーク・ナイフは使ってた世代だし、それしかなければ、今でもそれで食事はします。

ところが、フィリピン式の食事作法に則ってスプーンとフォークを並べると、なぜかフォークだけで食べようと頑張ってしまう。私はよくチャーハンを作るんですが、まるで親の仇のようにフォークだけしか使わない。それでキレイに食べられれば良いんですが、案の定、食後の皿にはご飯粒がポロポロ残ってる。「スプーンの方が食べやすいやろ?」と言うと、スプーンを使うものの、翌日にはネジが巻き戻るように元の木阿弥。

別に残したって構わないんですが、かつて弁当箱の蓋の裏に、ほんの少し米粒を残したら、烈火の如く怒った母なので、子供の立場としては、なんだか悲しくなってしまいます。おそらく認知能力が下がっただけでなく、目もよく見えてないんでしょう。

父に至っては、カレーを箸で食べようとする始末。もちろんカレーだけなら箸は出しませんが、たまたま野菜サラダも作ったので、箸の方が取りやすいかとの配慮の追加。ところが一旦箸を持ったら、食べ終わるまでスプーンには触るものか!みたいな勢いです。そして食べ終わった後の皿は、ものすごく汚い。変なところだけ、一般的なフィリピン人に似てしまってますねぇ。(ちなみにフィリピンでは、食べ終わってお皿がきれいな人の方が珍しい。)

まぁ、多少食べ方が汚くても、私の作る料理が口に合ってるようで、食事前は、10分か15分も前から、食卓のある母屋の部屋が見える場所で「メシはまだか」とばかりに待機状態。何だか、親子の立場が逆転しちゃったみたいです。

と、衰えてしまった両親をあげつらうような書き方をしてしまいました。しかし車椅子が必要で、毎回弟が付き添いをしながらも、飛行機に乗って外国のフィリピンまで来るだけでも、年齢を考えればずいぶんと活動的。気候への順応力も大したものです。英語は二人とも全然ダメで、父など1970年代にはオイルショックの煽りで、ドバイで出稼ぎ労働してたのに、結局英語はモノにならなかった。それでも掃除や洗濯してくれるメイドのおばさんには、分からないながらも優しく対応。これは面倒を見る側にすると、たいへん助かる。

最近つくづく思うのは、介護移住という観点では、フィリピンの地方って本当に適地。住む場所もそこそこ広くて、完全ニ世帯住宅(狭い敷地に上下で分けるのではなく、別棟を建てられる)も可能。メイドさんや介護士も、必要なら住み込みで雇えるし、寒い冬もない。

ということで、これから親の介護に直面しようという、私と同世代の人々へ。フィリピンへの介護移住は、真面目に選択肢の一つとして検討するに値しますよ。


フィリピンで教える難しさ

 ぼやぼやしてたら、あっという間に今年も半分終わり。もう6月の30日になってしまったので、駆け込みで何本か投稿します。

まずは先月(2025年5月)から始めた、オンラインでの日本語教師。なれない教職で、かつ生徒がフィリピン人。難しいことはあるだろうと予想はしてたものの、やっぱりいろいろ起こってます。

本来は、日本での就職希望者を募って、20人ぐらいに対面授業をする計画で、隣街の州都バコロドに小ぶりながら学校まで建設中。日本在住のフィリピン人経営者で、私の10年来の友人でもあるダイアナ女史が、かれこれ1年ぐらい前に声をかけてくれて、今の仕事をしているわけです。日本とフィリピンを往復して頑張っているダイアナなんですが、これが、なかなか順調...というわけには行きません。

学校の工事は遅れまくってるし、何社かある、交渉中の日本のクライアントとも、話がまとまりそうでまとまらない。ようやく動き始めたのが、ダイアナの知り合いで、日本で小さな会社の管理職をしている、某フィリピン女性からのオファーによる今の仕事。彼女の親戚でマニラ在住の20代女性に、日本での仕事を手伝ってもらうということで、それに先立って、基本的な日本語を教えてほしいという内容。

記念すべき私の生徒さん第一号は、日本語会話経験がほぼゼロ。私はフィリピンの言葉はイロンゴ語(私が住む西ネグロスの方言)しか解さないので、当然のように、英語で日本語を教えております。まぁ、それは大きな問題ではないんですが、困ったのは、この生徒さんの学習モチベーションの低さ。

もう半年もしないうちに、日本に渡って仕事を始めるというのに、予習・復習はしてくれないし、平仮名すら、まったく覚えようとしない。平日は自宅からマニラの職場へバス通勤で、オンライン授業は帰宅後の7時半から。朝も早いので、この時間には疲労困憊なのは仕方ないですが、ちょっとこれはマズいんじゃないか?

教科書は「みんなの日本語」を使っていて、これは版を重ねた初心者向け日本語教育のバイブルのような本。内容は充実しているものの、最低でも平仮名と片仮名は読める人向けに作られているので、毎回の授業では、アルファベットでルビを振った教材を、用意しないといけません。これが相当な仕事量。今回だけお終いではなく、今後も使い回しができるとは言え、今もらってる給料とは、とても釣り合いません。

なのでこのままでは、労力だけかかって、半年たっても片言レベルにしかならない。危機感が募り、ほぼ私に仕事丸投げ状態だったダイアナに「これヤバいよ」と伝えました。その回答が「大丈夫、仕事でほとんど日本語を使わないから」。何じゃそりゃ〜。

日本での仕事というのは、日本へのフィリピン商品の輸入関連。職場では基本英語だけだし、小売のお客さんは在日フィリピン人がほとんど。こちらはタガログが喋ればそれでOK。日本語は、買い物や交通機関での移動など、生活で必要な最低限の日本語ができれば良いらしい。生徒さん本人もそういう意識。そういう大前提は、授業が始まる前にしてくれよ〜。

ただ、そういった学習意欲の問題だけでなく、フィリピンあるあるの「今日は頭が痛いから」「飼い猫の具合が悪いので獣医に行きます」「大渋滞で時間までに帰宅できません」などなど、言い訳オンパレードで、やたら欠席が多い。どれも嘘ではないようなんですが、それにしても、ちょっと休み過ぎですねぇ。

そして極め付けが「ネットが死んでて授業受けられません」。この投稿を執筆中の6月末日がこの状況で、かれこれ1週間もネット不通。これは実際フィリピンのネット事情からすると、まさに「あるある」で、広範囲のネット障害も頻繁だし、今回のように特定の回線だけ不通になることも、実によくある。キャリアに連絡しても、何日も修理に来ないし、来ても「原因不明」で何の対策もなく業者が帰っちゃったり。我が家もこれが原因で、キャリアを替えましたから。

ということで、一体いつ再開できるのか見通しが立たないまま、7月を迎えようとしております。


追記:と書いた直後にWiFiの修理が終わったとのことで、久しぶりの授業がありました。大雨で帰宅が遅れて短縮授業の上に、隣家のパーティでカラオケ騒音がすごかったですけど。



2025年6月6日金曜日

フィリピンの大学で奨学金


「サクラサク」ならぬ「カエンジュサク」
の季節のフィリピン

「結果が分かり次第、報告します。」と書いてからすでに1ヶ月強。本日(6月6日)早朝、やっと息子が受験したセント・ラ・サール大学から、奨学金受け取り許可の連絡が来ました。それも郵送や電子メールでさえなく、該当者の名前をフェイスブックのホームページでシェアするという方法で。

合理的だし間違いが少ないし、FB普及率は九割以上の、いかにもフィリピンらしいやり方なんですが、同じこと日本でやったら、確実に炎上案件でしょうね。

それはともかく、まずラ・サール大学の合格は数週間前に分かっていて、息子が言うところの試験の感触からは、おそらく問題なしと思っていました。なので、飛び上がって大喜び...ではなかったものの、今日の奨学金に関しては、学費を支払う側からすれば相当嬉しい。そりゃそうでしょう。一時はマニラで一人暮らしの支援まで覚悟してたのが、バスで通える近場の大学に無料で通えることになったんですから。

しかも私たちが住むシライ市では、先月2選を果たしたガレゴ市長の政策で、シライ市内から隣市のタリサイやバコロドの学校に通う学生のために、無料送迎バスが運行されてます。これは本当に助かります。

これで昨年8月のフィリピン大学を皮切りに、4校の受験と最後の奨学金まで全勝でパスした息子。まぁ本当にたいへんなのは、大学出てからなんでしょうけど、親の責任範囲でここまで好成績なのは、素直に喜び、褒めるべきところ。この週末は、ちょっと美味しい晩御飯でも作りましょう。

さてここからは親馬鹿モード全開で失礼します。

この奨学金の難度なんですが、新入生が約1,000名に対して、受け取ることができるのは息子を含めて60名。奨学金のために別のテストがあったわけではなく、高校での成績がトップ数名に入っていて、入試の成績が優秀なことが条件。さらに最終考査は一人一人に面接となります。そのために先週、大学の先輩でもある、息子の従兄アンドレの運転する車で、ラ・サール大学に面接を受けに行ってました。

「うちは貧乏やから、奨学金がないと大学行けないんですぅ」と言ってこいと冗談を飛ばしてたものの、もちろん質問内容はそっちじゃなかったと思います。おそらく学業に対する意識の高さの確認みたいな事だろうと推測。もちろん受け答えは英語なので、それは息子の得意分野。帰宅後「たぶん大丈夫」との言葉通りとなった次第。

そして前回も少し書いたように、学びたいのはコミュニケーション。当初は言語学に興味があると言ってたし、フィリピン大学もガチの言語学専攻にトライだったのが、最終的に選んだのが、同じ「コミュニケーション」でも、商業寄りな分野。映画やテレビ、印刷媒体について学ぶんだとか。「で、何の仕事をしたんや?」と訊いたら、コンピューターゲームの製作者になりたいとの返事。つまり、何らかのエンターティンメントを作る側に行きたいらしい。

本人はマインクラフトから入って、多少のプログラミングはできるようで、そこからコードがりがりのプログラマーより、もうちょっと全体を俯瞰する立場を狙ってるということか?

まぁ、大学に入る時の希望と実際の就職では違っていて当たり前で、それはこれから息子がどんな人や世界と出会うかで、まったく変わってくるでしょう。かつてアートを目指して芸大に入ったけど、工業デザイナーとして家電メーカーに就職した私なので、その辺りは楽観的に眺めております。

何をやるかも大事なんですが、それよりも私の関心事は、どこで働くか。そもそも国外に働きに行く事自体のハードルがめちゃくちゃ低いフィリピン。むしろ、自国内で待遇の良い職場を探す方が難しいぐらい。それなら英語はできて、専門能力さえあれば、英語ベースの外国の方がはるかに良い暮らしができて、面白い仕事もできる。

極端な人物がリーダーになってしまい、移民に対してひどい対応を始めたアメリカは別としても、シンガポールやオーストラリア、ニュージーランドに中近東などなど。中近東で労働と聞くと、肉体労働者やメイドを思い浮かべがちですが、数は少ないながら、企業に就職して管理職に就くフィリピン人もいる。何を隠そう我が家のご近所さんは、サウジアラビアでボーイング社の部長だった人で、数年前に定年退職して悠々自適の暮らしをしてます。

何なら日本語マルチリンガルの能力を生かして、日本の外資系企業で働くという手もある。

ということで、先走った馬鹿親の皮算用になってしまいましたが、大学の4年間って本当に楽しい時期。新学期は周囲の公立校より少し遅めの7月1日からで、まずは、いろいろと満喫してほしいものです。



2025年5月29日木曜日

家庭教師バンビ 奇跡の人生大逆転

 フィリピンの総選挙や私の日本語教師デビュー、そして向かいの家の騒音で揉めた5月も、あっという間に残り数日。私の引退生活では珍しく、かなりの多忙感がある1ヶ月でしたが、最後はちょっとハッピーな話題を。

2021年の12月からなので、かれこれ3年半も私のイロンゴ語の家庭教師をしてくれているバンビ。現役の高校教師で、家庭の事情や病気などで教育機会を逸してしまった生徒さんへの、出張授業を専門とするALS(Alternative Learning System)の専任者。加えてギターやピアノが弾けるので、所属するプロテスタント教会では、讃美歌の伴奏したり行事のスタッフになったり。その忙しい合間を縫って、週一回、私の家で2時間のイロンゴ・レッスンをお願いしてます。

そんな彼女も不惑を過ぎて、体調にいろいろ問題が出てくる年頃。生理不順で、時々とてもしんどそうにしてましたが、昨年末、勤務先の教育省シライ分室にて、大量の不正出血。救急車で病院に搬送されるほどで、そのまま数日間の入院となってしまいました。クリスマスには、バンビの生徒さんと一緒にクリスマス・キャロルを歌おうという計画もすべてキャンセル。ようやく職場に復帰して、私に家に来てくれたのは、その数週間後でした。

バンビの不運はこれだけではありません。数年来シライ市内で同棲していた彼氏との関係が破綻。聞くところによると、この男性は既婚者でマニラに妻子がいるんだとか。バンビは辛抱強く、彼が結論が出すのを待っていたんですが、優柔不断な態度を続ける彼に嫌気がさして、とうとうお別れになったそうです。

それだけでなく、職場でもいろいろ問題が発生。仕事の内容にはいつも真面目に取り組むんですが、どうも時間や予定のマネージメントが不得手。イロンゴ・レッスンもよく遅刻したり、直前になって別の日に変更になったり。まぁバンビに限らず、フィリピンあるあるとは言え、おそらく体調不良とも重なって遅刻が続いたんでしょうね。上司との関係がかなりこじれちゃったらしい。

なぜそんなことまで分かるかというと、バンビは教育省で働く家内の職場の同僚。家内とは昔からの知り合いで、いろいろ相談もされる仲。つまりその縁で、家庭教師になってもらったわけです。

こういうことが同じ時期にどっと押し寄せてきたので、私も家内も気の毒に思い、バンビのレッスンの後、昼ごはんや夕食を一緒に食べたり。「この後、ご飯食べる?」と聞くと、たいていすごく嬉しそうに「ありがと〜」と返ってきます。こういうところが、8人兄弟姉妹の末っ子らしく可愛げがあるんですよね。上司とは上手くいかなくても、生徒さんには人気があるわけです。

さて、そんな災難続きのバンビ先生。ここ数ヶ月ほどは、週末、子供にギターを教えることになったとかで、ずっとバックアップ要員の姪っ子、エイプリルが私の家庭教師。エイプリルも気立てが良くてインテリ、しかも美人なので、私にとっては悪いことではないものの、やっぱりちょっと寂しい。


昨年(2024年)の誕生日に贈った
バンビの似顔絵イラスト

ところが週末に忙しいのは、ギターを教えることだけが理由じゃなかった。バンビの姉で、我が家のメイド、グレイスおばさんによると、何とバンビに新しい彼氏ができたんですよ。しかも、そのお相手は、ずっとバンビを心配していた牧師さんによる紹介。ということは、同じ教会所属で同じ信仰を持つチャーチメイト。

まだ会ったことはないですが、バンビと同世代の40代で、子供はいるけど未婚のシングル・ファーザー。ただし飲料水店の経営するまじめな自営業者で、大金持ちとまでは行かなくても、収入は安定しているようです。なるほど、どおりで最近になって急に、自宅のフェンスの修理をしたり、エアコンを購入しようなんて話が出てきたわけだ。以前は、すいぶん前に亡くなった父親の借金返済や、前の前の彼氏に買ってあげたバイクのローンやらで、いつも金欠病だったんですよ。

さらにめでたいことに、近々結婚まで考えてるとのこと。裕福な結婚相手を見つけたからといって「人生の大逆転」なんてタイトルをつけたら、まるで金目当てみたいで失礼ですが、今までのバンビの受難を思うと、そうも言いたくなります。何より、エイプリルやグレイスによると、今とても幸せそうなんだとか。

信心深くて、フェイスブックにやたら新約聖書の一節を投稿したりするバンビ。長い試練の時を経て、ようやく神さまの祝福が、我が家庭教師の上に降り注いだようです。日取りは未定ながら、結婚式にはぜひ呼んでもらいですねぇ。




2025年5月25日日曜日

AIで書いた苦情申し立て

 前回からの続きで、向かいの家との騒音紛争に、ようやくケリが着いたお話です。

4ヶ月続いた向かいの家のリノベ工事も、5月の半ばにやっと終わったようで、久しぶりに窓を開けて涼しい風を室内に送り込めるようになりました。...と思ったら、今度は、まるで狙ったように、我が家に一番の至近距離の角で、雄鶏を飼い始める始末。こいつが、朝の4時とか5時に鳴き始めて、私を叩き起こしてくれます。こうなると、もう年齢的に二度寝ができず、昼寝をしようにも、明るいうちは15分から30分間隔で時を告げるので、寝付くことができない。

さらに追い討ちをかけるように、まだ若干の仕上げの残り作業があるらしく、時々数人の大工がやってきて、またもや大音量音楽。ある日の午後、ついにブチキレて直接大工に「止めてくれ」と言ったら(一応英語で「プリーズ」はつけました)「文句があるなら警察を呼べ」と逆ギレ。

ここまでの4ヶ月、苦情を入れるにしても、一般的なフィリピン人の騒音に対する感覚の違いを理解した上で、私なりに紳士的に対応してきたつもりでした。ただ、ここに家を建てたのは、静かな暮らしが売りの宅地だったし、ちゃんとルールもあります。残念ながら、ここまで敵意・悪意を剥き出しにされたら、しかるべき筋に訴え出るしかありません。

ということで誠に遺憾ながら、バランガイ訴訟に踏み切る前の最後の手段で、クラブハウスのマネージャーからのアドバイスに従って、英文書簡による苦情申し立てをすることにしました。ほんと、やりたくなかったんですけどね。

さて、仕方なく書くことになったとは言え、どうせやるなら当てつけのように格調高い英語でビビらせてやろうと、まず日本語でそれなりの文章を自作。それを今流行りのAI(無料)に「丁寧な英語で」と但し書きを入れて翻訳してもらいました。瞬時にそれらしい英文が出てきたので、AIさんお礼を言って、今度はそれを、ほぼ英語ネイティブの息子に校正を依頼。進学先の大学が決まって、この7月1日まで余裕かまして夏休み中だし、もともと英語は得意中の得意なので、AI並みに直しの入った文章が完成。ここまで2時間もかかってません。

ちなみにこの文章を、私のイロンゴ語の家庭教師のエイプリルに見せたら、きれいな英語に驚いてました。

それを3通印刷して署名し封筒に入れて、一通は翌朝家内に頼んで向かいの家の住人へ、もう一通はクラブハウスのマネージャーへ、最後の一通はそのマネージャーに頼んで、マニラに住む宅地のオーナーに宅配便での送付をお願いしました。

結局そこまでしなくても、向かいの住人(オーナーの息子)が、手紙を受け取ったその場で、びっくりして家内に謝罪。前日、私に悪態をついたのは、貧乏大工かと思ったらその住人の従兄弟だったそうです。要するに、工事中の昼間は住人が不在で、事情を知らない従兄弟が一人で作業してたとのこと。当然、宅地のルールなんて知らないだろうし。

さらに、翌日から雄鶏の鳴き声もピタリ。どっかへ売ったのか、シメておかずにしちゃったのか。その鶏を直接飼育していた庭師だか使用人だかのおじさんも、それから姿を見なくなりましたね。夜間は明かりがついているので、住人はいるんでしょうけど、昼間はまるで廃屋のような静けさ。

ということで、結果オーライのめでたしめでたしだったんですが、改めて思ったのは、この国で静かに暮らすって、単に場所にお金をかけるだけでなく、場合によってはそれ相応の努力が必要なのだということ。聞くところによると、この宅地に500軒もある家のオーナーの名義って、ほとんどがOFW(フィリピン海外労働者)なんだそうです。

つまり、昔ながらの富裕層や外国人が住むようなビレッジと違い、成金の小金持ちが住民の大部分。まぁ私も似たようなものなので、偉そうには言えませんが、何代も高級住宅地に住み、マナーやルールを身につけた住民は、まずいないってこと。

もうひとつ後日談めいた話をすると、最近、私が始めたオンライン日本語教師。現在3人の生徒さんがいるんですが、どの家も、背後で犬が吠えたり鶏が鳴いたり。果ては隣家の子供の泣き声で、時々生徒さんが何を言ってるか聴き取りにくかったり。

やっぱりフィリピンの一般庶民の感覚では、音楽がうるさいと苦情を言う日本人の方が、常識外れで厄介な存在なんでしょうかね?(溜息)



隣家との騒音紛争の結末

 今年の1月中旬から続いていた、向かいの家との騒音紛争(?)が、先日ようやく収束しましたので報告します。

まぁ他人さんからすれば、まったくどうでもいい話だし、こんなことでストレスを溜めるのも馬鹿馬鹿しいんですが、当事者の私にとっては、一時的とは言え不眠による体調不良にまで追い詰められたので、かなり深刻なお話。

もう一度背景をおさらいしますと、私の住んでいるのは、フィリピンでも比較的高級住宅地の部類に入るセント・フランシスという名前の、ビレッジとかサブディビジョンと呼ばれる場所。500世帯もの人々が暮らすと言いますから、人口は数千人にもなるちょっとした街。そして、ひとつの区画は150平米(約45坪)もあって、家によっては2〜4区画を買って家を建てています。我が家も4つ分の土地なので、600平米。普通に日本の宅地だとすれば「豪邸」レベルでしょう。

つまり、一軒一軒の間隔が広くて、人口が多くても敷地全体が広大なので、普通に住めば隣家の騒音など気にならないはず。サブディビジョンのローカル・ルールでも、屋外でのカラオケなどの大音量音楽や、雄鶏の飼育は禁止されています。日本に比べれば格安の地価ながら、ネグロスの物価からするとやっぱり高嶺の花なので、連日連夜庭でカラオケするような、どっちかと言うと貧乏人っぽい人はいません。

ところが厄介なのは、今回のお向かいさんのような、工事で大工が入ってくる場合。すごく差別的な書き方になってしまいますが、フィリピンの大工さんって基本的に貧乏人ばかりなんですよ。というのは、総じて肉体労働の価値は低く見られるフィリピン社会。日本のような、腕の良い職人さんは尊重されるような文化があまりない。そもそも給料が安すぎる。ぶっちゃけ高校も出たかどうかみたいな、教育がなくて、騒音に対する感覚がまったく異次元の人が多い。

なので、わざわざバイクに大きなスピーカーを積んで来て、作業中に頭が割れそうなボリュームで音楽をかけるのが、彼らにすれば当たり前。もちろん私だって、パソコンで作業する時などBGMを流したりしますが、室内かヘッドフォンで聴くか、それなりの周囲への配慮はします。一般的な日本人が相手なら、言うまでもない話。

こんな感じで、狭い道一本挟んだだけの10メートルも離れない場所で、朝から夕方までディスコミュージックみたいなのを聴かされたら、そりゃ病気になっちゃいますよ。ただでさえグラインダーやドリルの騒音がすごいのに。

なのでその都度、宅地の警備員やメイドさんに頼んで、音楽を止めてもらうようにお願いし続けてたわけです。もっとも当座は静かになっても、翌日とか数日後には、忘れちゃうのかワザとなのか、また同じことの繰り返しですが。途中からは、宅地の管理事務所に相当する、通称「クラブ・ハウス」のマネージャーの協力も仰ぎ、事態は鎮静の兆しを見せてきたのが、前回までの投稿の経緯でした。

ということで前振りだけで、結構な量になっちゃったので、この話は次回に続きます。