2019年8月22日木曜日

キッチンがっちり買いまショウ

その昔、1963年(昭和38年)から1975年(昭和50年)の12年間、大阪の毎日放送で制作・放送されていたゲーム形式の買い物番組「がっちり買いまショウ」。上方漫才の至宝と呼ばれた、今は亡き夢路いとしさん、喜味こいしさんが司会を務めました。

私が生まれた翌年から、中学生になるまで続いた長寿番組。日曜日の午後は「がっちり買いまショウ」を見るのが、我が家では、当たり前の習慣。今でも「5万円、7万円、10万円、運命の分かれ道」という、いとし師匠の掛け声は耳に残っています。

この番組は毎回3組のペア(基本は夫婦)が、百貨店のようにスタジオに並べられた商品を、決められた金額で購入するというスタイル。もちろん値札はついておらず、メモを片手に(その後、電卓に)値段を推測しながらのお買い物。見事、設定金額幅に収まれば、選んだ商品はプレゼント。安過ぎても高過ぎても、失格で全部没収。

今にして思えば、実に単純なしくみの番組ながら、当時、絶好調だった日本経済を象徴するような内容。見ている側も収入が右肩上がりで、物欲の塊状態。干支一回り続いたのも、分かる気がします。そしてオイルショック(1973〜)による不況と時期を合わせるように、終了となりました。

若い人には全然ピンとこない、半世紀前の番組について延々と説明したのは、一昨日、建設中のゲストハウスに使う建材の購入が、まるで「がっちり買いまショウ」みたいに感じたから。

私たち夫婦が口座を持っているメトロバンクは、カード1枚につき1日に下ろせるキャッシュが3万ペソまで。二人合わせて6万ペソになります。それに加えて、カードで支払えるのは1日に5万ペソが限度。前日に現金を用意しておいても、11万ペソがマックスということに。

銀行窓口で、何十万ペソも引き出しておく方法はあるものの、そこまでの現金を持ち歩くのは、少々恐ろしいフィリピン。

そして、その日は平日。家内が年休を取って息子は学校。久しぶりに夫婦二人だけでお買い物。州都バコロドにある、大手建材店シティー・ハードウェアの店内を、フロアマネージャーと思しきオジさんを従えて商品選び。番組と違って時間制限はないけれど、決まった金額内で、それなりの品質で建材を選ぶのは、なかなかスリリング。

もちろん今までに、似たような状況は何度もありましたが、メインの目的がキッチン・キャビネットに天板。まるで新婚カップルが、新居用に家具調度を選ぶような雰囲気だったので「がっちり買いまショウ」を思い出した次第。

いつもなら、値段以外は私にお任せの家内も、それなりのこだわりを持つ厨房周りとなると、品定めも厳しめ。(移住してからは、8割方、私が料理担当なんですけど)本当は、5年前に母屋を建てた時に買ったキャビネットと、同じリアルウッドを使った商品にしたかったところ、残念ながら在庫がない。

結局、ダークなオーク調の樹脂製に決定。天板は石材をカットした天板。それを職人さんに頼んで、流し部分だけをくり抜いてもらうことにしました。ここまでで軽く1時間が経過して、お買い上げ額は7,7000ペソ(約156,000円)。


そして、巾木(壁面の一番下に取り付ける、細長い板)と照明器具を家一軒分、一括購入。こちらは量の割にそれほど高くもなく、送料600ペソ込みでの総額が、95,531ペソ(約20万円)。

なんとか10万ペソ以下に抑えて、支払い完了。本当に「がっちり買った」気分で、建材屋さんを後にしました。


8/16〜8/22の出費

キッチン周り:7,7062ペソ
巾木、照明器具など:18,469ペソ
ステップ・タイル:5,320ペソ
セメント20袋:4,430ペソ
給・排水用パイプ、配管関係:9,033ペソ
グラインダー(工具)一式:2,320ペソ
土砂・コンクリートブロック:5,000ペソ
塗料:8,410ペソ
釘など:962ペソ
大工さん給料:19,712ペソ

計:150,718ペソ

本日までの合計:1,377,346ペソ


2019年8月21日水曜日

永住ビザ更新で日帰り弾丸ツアー




完成したばかりの
バコロド港・新ターミナルビル

昨日(8月19日)は、来月に有効期限を迎える私の永住ビザ更新のため、ネグロスの隣島パナイの州都イロイロまで、慌ただしく日帰りの弾丸ツアーを敢行。距離にして片道ざっと50km。

私の実家、兵庫県尼崎を起点にすれば、ちょうど淡路島の洲本までと同じような距離。ただし、明石海峡大橋も鉄道もないフィリピン・ビサヤ諸島なので、フェリーボートが唯一の交通手段。近すぎて空路も無し。

本当なら一泊して、ついでに観光やショッピングを楽しみたいところ。でも平日で子供は学校。土日はオフィスが閉まっているし、裏庭でのゲストハウス建設が追い込みに入っている段階。やっぱり宿泊はできそうにありません。

ただ、自宅も目的地のイミグレーション・オフィスも、港から車で30分程度。海が穏やかで船が時間通りならば、片道3時間ぐらい。家内はフィリピン大学のイロイロ・キャンパスの学生だった頃は、ほぼ毎週末、シライの実家に戻っていたそうです。

ちなみに東ネグロス州のドゥマゲテには、車で山越えの5〜6時間なので、同じネグロス島の西と東なのに、マニラへ出かけるよりも大仕事。それに比べればイロイロが何と近く感じることか。ネグロス東西では言葉が通じないけど、西ネグロスとイロイロが同じ方言なのは当たり前の感じ。

さて、私が永住ビザを取得したのは移住翌年の2014年。フィリピン人の配偶者資格で、こちらでは「13a」と呼ばれています。申請は移住後すぐにしましたが、1年間の仮ビザ経て正式発給。当時は申請も受け取りも、パナイとは反対側、隣島セブのイミグレーション。

このお役所、運転免許を管轄するLTO(フィリピン陸運局)や警察に比べると、外国人向けということもあり、はるかにマシなサービスを提供しています。でも、そこはやっぱりフィリピン。即日交付とか、ネット申請などは夢のまた夢レベル。せめて、各州都(日本ならば都道府県庁所在地)ぐらいでは受け付けてほしい。

と思っていたら、さすがにバコロドでは無理でも、ネグロス近傍ではセブだけだったのが、つい最近イロイロにオフィスを開設。

ネグロスからセブだと直通フライトがあり、イロイロへ行くのと変わらない距離感ながら、なにせセブには在比外国人が多い。いつ行っても窓口は満員で、平気で朝から夕方まで待たせて、結局5時までに終わらず翌日また来い、となることもありました。

今回初利用となるイロイロのイミグレーション。この手の対応は、家内に任せるのが常の私。フィリピン人の中では、相当なインテリに属するであろう家内でも難物。提出物はホームページに書いてあるのに、念の為電話で訊いたら、追加で必要な書類やら何やらがボロボロ出てくる。

そして、早朝5時おきで7時半の船、1時間半の船旅を経て午前10時前にイミグレーションに着くと、案の定、まだ提出物が不完全。書類を分類するために用意した紙ファイル。家内の好みでピンクだったのがNG。白でないと受け取れないとのこと。


出来立てのきれいな窓口
写真撮ったら
ガードのおじさんに怒られた

そんな物、だいたい役所側で用意して然るべきだし、ホームページでファイルの色は記載してない。フィリピン人の家内でさえ、頭に来るほど。さらに、書類添付用の顔写真も必要。それも書いてなかったぞ。

まぁ役人の融通が利かないことは、程度の差はあれフィリピンに限ったことでもないし、ここで怒鳴っても、百害あって一利なし。イミグレーションは、真新しい商業ビルの3階に入居していて、本屋と文房具店を兼ねたナショナル・ブックストア(紀伊国屋書店みたいなお店)が1階にあるので、ファイルの方はすぐに差し替え。

ところが、近くに証明写真を撮ってくれるスタジオがない。仕方がないので、タクシーを飛ばして、最寄りのSM(大手ショッピングモール)まで往復。その日は、書類を提出するだけだから、せいぜい30分ぐらいと思ってたら、やっぱり2時間半もかかってしまった。

両手の指全部の指紋を取られて、やっと提出完了。同じビルで昼食を摂ったら、もう1時過ぎ。帰りの船は2時にイロイロ港発なので時間切れ。コーヒーも飲めないし、買い物なんて全然無理。あ〜あ。救いは、終日好天で波は静かだったこと。イロイロ市内の渋滞もそれほどではなく、移動時間にロスはありませんでした。

ということで、無事日帰り弾丸ツアーを終えて帰宅すると、裏庭の建設現場では床のタイル張りが始まってました。疲れてるけど確認だけはしておこうと、玄関に入った途端に間違い発見。日曜日に購入した、ステップタイルではなく、普通のタイルが。




口頭では何度も説明したんですが、やっぱり玄関の框(カマチ)や三和土(タタキ)という概念がないフィリピン。現場現物で指示しないと、こうなるわけです。幸い張ってすぐで固まってなかったので、問題なく直してくれました。

これ、もしイロイロで一泊してたら、ステップタイルと普通のタイル、それぞれなん枚かづつ無駄になってたところです。

ビザの交付は35日〜40日後。代理人の受け取りもできるとのことなので、次回はご苦労さんながら、家内一人で行ってもらうことにしました。今度こそはゆっくり一泊して、イロイロ在住の大学時代の友達と会って、喋り明かして来なさい。


2019年8月18日日曜日

多忙なる日曜日

先週の週末から水曜日にかけて、自己診断「プチ鬱」で引きこもっておりました。その前は、フィリピン東岸を通過する熱低や台風に加えて、この時期特有の、南からの強いモンスーン(季節風)の影響で長雨。今日は、ほぼ3週間ぶりでシライ市外へ。

降らないとなったら、1週間も晴天ばかりのネグロス島。熱波襲来中の大阪や東京に比べたら、はるかに凌ぎやすいとは言え、それでも連日30度以上の真夏日。今朝も青空です。


午前7時過ぎ、起きていきなりの停電。もっともこれは事前にセネコ(CENECO ネグロス中央電力)から、フェイスブック経由で通達があった計画停電。何ヶ月に一度か、土日のいずれかに、朝から夕方まで電気を止めてメンテナンス。いつも思うんですが、止めずに点検って、できないのかなぁ?

今回はやっと発電機が使用可能。バッテリー充電でダメでバッテリーを交換したら、今度はフィルター部分の溶接が破損。これってエンジンのマフラーに相当するものだったようで、ものすごい騒音(というかほとんど爆音)。運良く裏庭では、大工さんが溶接機で作業中だったので、修理してもらえました。なので、朝から快調に発電機は運転中。

そして、発電機の始動と時を同じくして、職人さんが二人やって来ました。これはゲストハウス新築に伴い、邪魔になった庭木を切ってもらうため。庭木と言っても、宅地を購入時点ですでに自生していた、推定樹齢20年の大木。

本当は何とか残そうと、枝打ちだけでと思ってましたが、やっぱり無理。大工さんからの依頼で、敢え無く切り倒されることに。誰かが家にいる必要があって、9時からの教会ミサは私と息子だけで、家内はお留守番。

さて、10時半頃に帰宅すると、まだ木はほとんどそのままの姿。完成が近い家のすぐ脇なので、チェーンソーで豪快にブッ倒すわけにはいかず、少しづつ枝や根を切るしかないそうです。どうせ伐採することになるなら、更地の時に頼んでおけばよかった。


昼食まで1時間以上あるので、私はもう一回外出。ゲストハウスの工事が進み、明日の月曜日からは床のタイル張り。唯一未購入の玄関の框(かまち)などに使う階段用タイルを見に、最近歩いて行ける場所にできたタイル屋さんへ。


こんな田舎街のお店にはまずないだろうと思っていたら、意外なことにちゃんと目立つ場所に商品展示。ただし高いのなんの。幅40センチ長さ120センチのタイルが、蹴込み部分とセットで800ペソ!(約1,700円)必要な枚数買ったら、2万5千円ほどにもなります。ということで当初の計画通り、昼食後に州都バコロドの大手建材店まで足を伸ばすことに。


お昼は暑かったので
素麺と卵焼き

それにしても今日は暑かった。自宅からタイル屋まで片道徒歩15分ほどで、すっかり汗だく。地元の人はまず歩かず、トライシクル(オート輪タク)に乗るのが常識と思われる距離。

バコロドまで安く上げるなら、前述のトライシクルで停留所まで行き、そこからバスかジプニー(ジープを改造した中型乗合バス)。本来なら自家用車を使うべきところ、先日の事故以来、すっかり自分で運転するのが怖くなり、Grab(スマホアプリで呼べるカーシェアリング)を利用。これで片道300ペソ前後。

最近お馴染みの建材店、シティ・ハードウェア(City Hardware)では、シライで見つけたものよりシンプルで半分のサイズが4種類ほど並んでます。その値段が190ペソ。その他にもタイル張りの際にコーナーに使うモールが1本20〜30ペソ。さっきの店では85ペソで売ってたぞ!う〜ん、あのタイル屋、田舎モンを騙して商売しとるな。


ということで、即決でタイルを買い、なんとか車に乗せられる量だったので、帰りもGrabカー。雨も降ってないし楽チン。ちなみに配達を頼むと600ペソ。これは高過ぎ。

帰宅したら、そろそろ発電機がガス欠。あと2時間ぐらいで停電終了予定の5時ですが、今にもエンストしそうな音だったので、仕方なく大汗かいて給油。10リットル補給で満タンにしました。

さて、伐採の方はようやく終了したようで、二人が半日かかりの作業で、切り株まで掘り起こして料金1,500ペソ(約3,200円)。相変わらず、人件費は安いフィリピン。


その後、週末恒例のカレーを作って家族で夕食。ところが暗くなっても電気は戻らず。我が家は発電機があるので、少しの騒音さえ我慢すれば平常通りの生活。でも平均すれば、発電機を所有している世帯なんて、数十軒に一軒もあるかどうか。


週末カレー

いくら停電慣れしているネグロスの人々でも、朝から12時間以上も電気を止められたら、すいぶんと不便。と、ここまで書いて現在時刻は午後8時前。まだ家の周囲は真っ暗。

それにしても、今日は久しぶりに忙しく体も動かし、ほどよい疲れ具合。今晩はぐっすり眠れそうです。メンタルが弱っている時は、これが一番ですね。


【追記】送電は、13時間経過した午後8時過ぎに復旧しました。


2019年8月16日金曜日

私的フィリピン美女図鑑 モスラの小美人


最近、比較的短い間隔で更新しているフィリピン美女図鑑。前回のキングギドラを操るX星人に続いて、今回も東宝特撮映画からのモチーフ。「モスラ」に登場する双子の小美人です。東宝特撮映画の美女と言えば、普通の人はキングギドラより、モスラの小美人を連想するでしょう。

「モスラ」は1961年(昭和36年)に公開された作品。「ゴジラ」「ゴジラの逆襲」「空の大怪獣ラドン」「地球防衛軍」「大怪獣バラン」など、昭和29年から30年代にかけて、東宝では巨大な怪獣やロボット、宇宙人など、特撮映画の黄金時代。

ただ現在と違い、SFをや特撮が一般に認知されておらず、女性が劇場に足を運ぶような感じではなかったようです。そこで当時の東宝プロデューサー、森岩雄さんが、女性が観られる怪獣映画を作ろうと提案。可愛い美女を出すことになりました。

そこからいきなり脚本ではなく、小説家、中村真一郎氏に原作を依頼。公開に先駆けて「週刊朝日」に「発光妖精とモスラ」のタイトルで連載。小美人は「妖精」だったんですね。架空の島「インファント」は、南太平洋にあるとされ、そこでは住民の守護神モスラと、その巫女で身長30センチの双子美女が住むという設定。

この小美人を演じたのが、一卵性双生児の女性デュオ「ザ・ピーナッツ」こと、伊藤エミさんとユミさん。怪獣の巫女役と書くと、かなりキワモノっぽいですが、現在50〜60代以上の人なら、ザ・ピーナツ=小美人のイメージが定着してると思います。特に二人が劇中で歌った「モスラの歌」は、あまりにも有名。

この曲の歌詞は日本語ではなく、どこの国とも知れぬ言葉。私はつい最近まで、映画関係者が作り出した創作言語だと思い込んでました。ところがこれ、インドネシア語だったんですよ。(残念ながらタガログ語ではない)


モスラヤ モスラ
ドゥンガン カサクヤン
インドゥムゥ
ルスト ウィラードァ
ハンバ ハンバムヤン
ランダバン ウンラダン
トゥンジュカンラー
カサクヤーンム

モスラよ、モスラ
命の魔力で
卑しき汝が僕は
呪文と共に踊らん
願わくば、その身を起こし
魔力を我らに現さん

と、前振りはこのぐらいにして、小美人のイラスト。

インファント島は、実はフィリピン近海にあると勝手に設定を変更し、演じる二人もフィリピーナだったら...、という妄想を絵にしてみました。ザ・ピーナッツは、どちらかと言うと可憐な妖精。でも私のイメージでは、情熱的なラテンの血を引く、ナイスボディの美女。小美人じゃなくて大美人になってしまった。


でも、頭に輪っかをかぶせて、大輪の真っ赤なハイビスカスを添えれば、なんとなくそれっぽくなるから不思議。ちょっとリンリン・ランラン(1970年代に日本で活躍した、香港出身の双子デュオ)を思い出しながらの描画。若い人には、何のこっちゃ分からんでしょうね。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。
王女カンシライ
マイティ・フィリピーナ
クリスティン
サウンド・オブ・パラダイス
フィリピーナ in キモノ
マニラ・ガール
スーパーの警備員
タクロバンの薔薇
ジュリア・バレット
オフィレニア5人姉妹
ホワイトレディ
メイン・メンドーサ
スーパーの警備員 再び
日比カップル
人造人間キカイダー
ゴースト・イン・ザ・シェル
白いノースリーブ
聖母マリアの青い服




遂に塗装が始まった

久しぶりの、ゲストハウス建設レポートです。最後の更新が7月31日だったので、もう半月も放置。こちらをご注目頂いている読者の皆さま、たいへんお待たせしました。

施主が別件でトラブル続きで、一時休業(?)していても、真面目で仕事熱心な大工さんたちと、サポートしてくれた家内のお陰で、工事の方は粛々と推移。とは言っても、本当に放ったらかしていたわけではなく、現場は自宅の裏庭。2階寝室の窓からも状況は見えてるし、大工さんが帰った後、多少の見回りはしていました。


外観はかなり最終に近づいた雰囲気



扉を仮付すると住めそうに見える

さて前回は、コンクリートボードの天井板張り作業まで書きました。あれから2週間と少しで、屋内天井の主要部分は、つなぎ目のマスキング、目止め剤塗布を経て、最終塗装が終わりつつあります。塗り終わった部分から、今度はコーナーに三角形の断面の、木製モールを取り付け。

このモールの買い付けは、私が臥せっている間に家内に頼んだもの。今住んでいる母屋と同じ材料なので、問題なく購入完了。フィリピンでは珍しく、その日のうちに配達。待ち構えていた、8月から新規参加の塗装工ジュンジュン君が、片っ端から塗装。



魚を干してるような
通気口部品の塗装作業


まだ壁は下塗りでも
モールを取り付けてしまう

その傍ら、今まではヘルパー(特に大工のスキルがなく、穴掘りや材料運搬を担当)だったココイ君が、塗装工に早変わり。元々、塗装が専門だったんですね。なので日給も、350ペソから475ペソに値上がり。ココイの持ち場は壁。全身粉まみれになりながら、サンドペーパーでの下地準備に続き、私が色を決めて、先日購入した8ガロンのベージュ色のペンキを、黙々と塗っていきます。


フィリピンの塗料メーカー
最大手のディビス


他のメンバーも、外壁のモルタル仕上げ、軒天井、離れの浴室、雨樋からの排水などに着手。フィリピンの大工さんの仕事のやり方は、一つの作業を終わらせてから次、ではなく、できるところからどんどんオーバーラップしていく感じ。たとえば壁の下地ができた部屋から塗装したり。下地と仕上げ塗装が部屋毎に同時進行。



特に顕著なのは、とにかく内装先行。これは、完全に出来上がる前に、取り敢えず住めるようにしようという配慮。多いのは、建設費が途中で足りなくなって、外壁はコンクリート打ちっ放しのまま工事を止めて引っ越し、お金が貯まったら工事再開というパターン。それも、数ヶ月程度ではなく、何年も、時には10年以上も経ってようやく完成なんてことも。

私にすれば、まだ一部で基礎のコンクリートブロックが見えている箇所があるのに、塗装までやってしまったりするのは、材料の無駄も出そうだし、かなりの違和感。でも、これはこっちの大工さん、職人さんのやり方なので、下手に口出ししない方が無難です。

ということで、次週はタイル貼りと、いうことになりそうですね。


8/1〜8/15の出費

天井下地用角材:3,590ペソ
セメントボード(40枚)、配管材料など:26,706ペソ
セメントボード(追加29枚)、その他天井関係材料:13,455ペソ
セメント、壁下地材など:19,015ペソ
ブロック(100個)、土砂6立米:5,000ペソ
塗料:16,910ペソ
その他、塗装関連(刷毛、溶剤、サンドペーパーなど):3,723ペソ
コーナーモール、通気口部品、ドアノブ追加:25,725ペソ
扉ヒンジ追加:750ペソ
大工さん給料(2週間分):34,787ペソ
配線工給料:2,000ペソ

計:151,661ペソ

本日までの合計:1,226,628ペソ


2019年8月15日木曜日

山下大将のこと


74回目の敗戦記念日、8月15日が巡って来ました。

私が生まれたのが、1962年(昭和37年)。物心がついて、戦争のことを意識し始めた頃には、戦後25年とか、あれから四半世紀、と言ってましたから、そこから数えても50年近く。戦争を知る最後の世代、1936年(昭和11年)生まれの父母は、まだ元気とは言え今年83歳。今日は、太平洋戦争終結にちなんだお話です。

フィリピンで最も名前の知れた日本人は誰かと問われれば、若い世代だけなら、現在活躍中の歌手や俳優を挙げるかも知れません。でも、やっぱり一番は「マレーの虎」と呼ばれた、山下奉文(やました ともゆき)元陸軍大将。

これは敗戦の直前、山下大将が、フィリピン国内のどこかに金塊を秘匿したとの噂を信じ、今でも一攫千金を夢見て「山下財宝(ヤマシタ・ゴールド)」を探索する人が後を絶たないのから。

金塊のことはさて置き、フィリピンに住んでいたり、フィリピンとの関わりが深い日本人には、いまさら説明するまでもなく、山下大将は、戦争末期の1944年(昭和19年)、第14方面軍司令官としてフィリピンに進駐。日本の将兵だけで、8万を超える戦死・戦病死・餓死者を出したレイテ島の戦い、同じく20万人以上の日本人が犠牲になった、マニラ市街戦とルソン島での戦闘などを指揮。

その後日本の降伏を経て捕虜となり、1946年(昭和21年)、マニラ近郊のロスバニョス刑務所で、軍人ではなく戦争犯罪人として、囚人服着用のまま絞首刑に処せられました。

予てより私は、太平洋戦争で「人道に反する罪」で、負けた側の政治家や軍人を裁いたことには、大いに疑問を持っています。戦争当事者でもないのに、100万以上の国民が殺された、フィリピンによる裁判ならともかく、焼夷弾や原爆による無差別爆撃で、数十万もの民間人を殺害したアメリカに、そんなことをする資格があるとは思えない。正直に「復讐だ」と言えばいいのに。

そして山下大将が罪に問われたとされる、シンガポールでの華僑虐殺マニラ大虐殺に関しては、前者が参謀の独断専行だった形跡があり、後者に至っては、マニラを無防備都市にして、市街地での戦闘を避けるつもりだったとのこと。結果的には、マニラに固執する海軍や大本営を、抑えることができなかったというのが真相らしい。

また開戦当初、シンガポール攻略の際に、敵英軍の司令官、パーシバル陸軍中将に「(降伏は)イエスかノーか?」と高圧的な態度で迫ったとされる有名な逸話。実は、通訳の不手際に苛立った山下が「まず、降伏の意思の有無をはっきりしてほしい」と言った言葉が一人歩き。のちにそれを気にした山下が「敗戦の将を恫喝するようなことができるか」と語ったそうです。

死刑判決が出た後の山下大将は、多くの部下と一般市民を死に追いやったことについての自責の念を、その遺言状に書き残しています。

ところで、ヤマシタ・ゴールドの件。
こちらは、どうやらスターリング・シーグレーブ Sterling Seagrave という、1937年(昭和12年)生まれで、幼少期を中国とビルマ(現在のミャンマー)国境地帯で過ごしたアメリカ人作家の著作の影響らしい。

当時の日本軍が、占領したアジア各地で略奪した財宝を、シンガポールからフィリピン経由で日本への輸送途中に敗戦となり、司令官の山下大将がフィリピンのどこかに、財宝を隠した。

もちろんその著作はフィクションで、現在に至るまでヤマシタ・ゴールド発見のニュースはありません。1992年に、マルコス独裁時代の不正蓄財の嫌疑をかけられた、未亡人のイメルダ・マルコスは、ヤマシタ・ゴールドを掘り当てて財を築いたと言ったそうですが、これは言い逃れの嘘でしょう。

ちなみにフィリピン政府は、ヤマシタ・ゴールドについては肯定も否定もしない立場。ただ発掘によるトラブル防止のために、財宝発掘を許可制に。もし本当に見つかった時に備えて、発見者と政府、発見場所の土地所有者の間での分配比率まで取り決めをしているそうです。


2019年8月14日水曜日

プチ鬱からの帰還


かれこれ1週間もブログを休んでしまいました。
実はいろんなトラブルが立て続けで、精神的に参ってしまい、土曜日からの四日間、ベッドで無為に過ごしていたため。言うなれば「プチ鬱」。

先週更新した交通事故の件だけでなく、停電対策の発電機がバッテリー交換後も、別の部品が壊れたり、隣で新築中の現場からのラジオ騒音に、文句を言いに行って大喧嘩になったり。他にも小さな問題が連続発生。

私の場合、ある一定のストレス量を越えると、突然何をする気力も失われる感じ。この時点では無理して頑張れば、日常の家事やSNS閲覧、ブログ投稿など、やってやれないほどでもない。今月初めの投稿では、その日の予定をキャンセルして、何もしない1日にしたら、気分が楽になったと書いたばかり。でも今回は、とても1日でリカバリーできそうな雰囲気ではなかった。

実はこの状況、初めてではなく、私にとってはお馴染みの古い友人みたいなもの(腐れ縁ですけど)。


このブログで度々書いている、かつて患った鬱。2012年末まで28年勤めていた、日本の某大手企業にいた頃、辞めるまでの10年間ぐらいは、休職・復職を繰り返し、何度も心療内科医のお世話になってしまいました。

一番症状が悪化したのは2005年の、ちょうど息子が生まれた前後。その年の4月に転勤した先が、今でいうなら「超ブラック」。組織責任者の部課長が、気に入らない部下を意図的に(としか思えない)潰しにかかるような職場。度を超えた激しい叱責や、人格攻撃。目の前で提出した書類を破るなどパワハラ行為。行く着く先は完全無視。今思い出してみても、怒りが湧いてくるような環境でした。

当然、若手や中堅社員の転職・退職が相次ぎ、抑鬱状態と診断されて休職した人も、私が初めてではありません。ところが当時、この部署が担当していたのが携帯電話とそれに付随するシステムの開発。

2005年頃と言えば、携帯電話のメーカーはどこも飛ぶ鳥を落とす勢い。メンバーが辞めても、補充はそれほど難しくなかったし、ちょうど派遣社員の業務内容や業務期間の規制が、大幅に緩和されたことも追い風。そういう状況だったので、人事も労組も、問題の解決に動き出す気配は皆無。「ブラッック企業」なんて言葉もまだなかった。

結局私は、半年の休職を経て、産業医や本社人事担当者の勧めもあり、再転勤となった次第。はっきりした原因が取り除かれたので、私の精神状態も取り敢えずは復調。

その後、日本の携帯電話市場は、アップルの参入で、勢力地図がほとんど一瞬にして描き替わったのは、みなさんご存知の通り。経営不振に陥るのと並行するように、それまで放置されていた患部にメスが入り、私の上司だった人たちは退職や配置転換となりました。そして私がフィリピンが移住した年に、事業から撤退。職場そのものが消滅。

あれから10年以上が経過し、フィリピンに住んでからは、日々のストレス量は劇的に少なく。もちろん、公共サービスのレベルとか、日本では想像もできない生活環境など、まったく質の違うストレスはありましたが。

しかしこの4月から始めた、ゲストハウスの新築工事。大きな問題もなく順調な進捗だったものの、それなりに精神的な負荷がかかっていたようです。加えて、ここ数週間の長雨と連日の停電。意識はしなくても、いろいろと頭の中に溜まってたんでしょうね。

ということで、「昔取った杵柄」...とはちょっと違いますが、40代のつらい経験は伊達でなく、風邪も鬱も、初動の良し悪しが、その後の治りに大きく影響するのは、痛いほど分かってます。

会社勤めだったら、不調を自覚しても体が動く間は、簡単に休んだりはできない。でもここはフィリピン・ネグロス島。しかも早期退職の引退状態。家内に「これはディプレッションだ。」と宣言して、家事(と言っても食事の用意だけ)と現場監督を全面休業。スマホもパソコンも極力触らず、日がな一日ベッドで読書。疲れたらウトウト。

家内も私の持病とは長い付き合いなので、嫌な顔もせず、フルタイムの仕事をこなしながら、食事の準備や建築資材の買い付けに走ってくれました。すまんのぉ。

幸いにも若干食欲が落ちた程度で、不眠にはならず。これ、大事なポイント。私の経験からすると、眠れないのが一番キツい。お陰さまで、早めの対応が功を奏したのか、今日、水曜日の朝には、ほぼ回復。

「休める環境」がいかに大切かを、改めて実感した四日間でした。