2024年6月6日木曜日

ネグロスの主峰カンラオン噴火


噴煙を上げるカンラオン山 出典:CNN

 最近あんまり使わない言い回しかも知れませんが、青天の霹靂とはまさにこれ。今週の月曜日6月3日の夕刻、私たち家族の住むフィリピン・ネグロス島。その中央部にあるカンラオン山が突如噴火しました。

ネグロス「島」と言っても、サイズは日本の四国より少し小ぶりな程度だし、自宅のあるシライ市からは、ざっと50kmも離れています。音がしたとか火山灰に気付いて...ということではなく、それを知ったのは、地元新聞のフェイスブックへの投稿を見て。それも最初は、上空5,000mまで達したという噴煙の写真を、またウクライナかガザの記事かと勘違いするほど、まさかカンラオンが噴火とは想像もしていませんでした。

ちなみに50kmというと、関西ならばだいたい大阪〜神戸の距離。風下でもなかったので、報道がなければ、まったく知らないままだったでしょう。

このカンラオンという山、北のシライ山、マンダラガン山、南のタルニス山と並んで、ネグロスの背骨を形成するような島の最高峰。「突如噴火」なんて書いてしましたが、以前から時々軽い水蒸気爆発を繰り返していて、1996年には、たまたま山頂付近にいた外国人登山客を含む3名が亡くなる事故が発生。決して侮れない活火山なんですよ。

今回は水蒸気ではなく、大量の火山灰を噴出する爆発的な噴火で、小規模ながら火砕流も発生したのこと。幸い人的な被害はなかったそうなんですが、翌日の午前中は、近くのバコロド・シライ空港発着の29便が欠航。5段階の下から2番目の警戒レベル2の発令で、火口周辺の2,800名が避難を余儀なくされました。折りからの雨季で、周辺の河川には火山灰が流入して泥流状態。道路にまで溢れて、一時周辺の道路が閉鎖されるという被害も。


出典:Inquirer

さて火砕流というと、奇しくも噴火のあった6月3日は、1991年に長崎県の雲仙・普賢岳の大火砕流で、43名もの方々が犠牲になった日から33年目。当時、長期の東京出張中だった私は、宿泊先のウィークリー・マンションの一室で、小さなテレビの前に釘付けになっていました。

映像を通じてのみとは言え、あの惨状をリアルタイムの報道で見ているだけに、火砕流が発生するような火山がある島に住んでいたのかと、今更ながら空恐ろしくなりました。カンラオンの山頂に登ったことはないものの、山腹にある温泉リゾートのマンブカルには、移住前から泊まり掛けの2回を含めて、家族で何度も遊びに行ったことがあります。

ということで、この投稿を書いている6月6日現在、それ以降の噴火はなく、シライ市内は全く平穏。ただ今月の末には、昨年に続き高齢の両親が半年ほど滞在する予定なので、空港が封鎖されたりすると少々厄介なことになります。島全体の経済や観光へのダメージを考えても、なんとかこのまま沈静化してほしいところです。



2024年5月29日水曜日

待望の雨季

今年(2024年)は、3月の初め頃から厳しい陽射しと暑さが続いたフィリピン。かれこれ3ヶ月続いた旱魃は、5月の最終週になろうかと言う先週末になって、ようやく終焉を迎えたようです。

そのきっかけとなったのが、台風1号、フィリピン名「アグホン Aghon」の接近。フィリピンの気象庁であるパガサ(PAGASA)は、たまたま台風による降雨で、これをもって直ちに乾季の終わりは宣言しないと、慎重な姿勢を崩してません。しかしながら、台風であろうが梅雨前線であろうが、雨は雨。金曜日の早朝、本当に久しぶりの本格的な雨が降り始めた時は、ずいぶんホっとしたものです。 

それと言うのも、今回の熱波。ネグロスでの最高気温の数字だけなら35℃前後で、大阪や東京の一番暑い時期より多少マシなぐらいなんですが、さすがに3ヶ月続くと心身共にダメージが大きい。途中3〜4回は夕立ちはあっても、まさに焼石に水のお湿り程度。5月に入ってからは、胸に圧迫感があったり、しつこい便秘状態だったりで、明らかに体調もおかしくなってました。

ネグロス島に引っ越して12年目で、ここまで連日のエアコン稼働は初めて。就寝時に室内温度が30℃あっては、エアコン無しでは眠れません。しかも最近は、私と家内、息子が別々の寝室なので単純に3台分。2万円越えの電気代請求に、目玉が飛び出そう。

それにしても、室内で話し声も聴き取りにくいほどの雨音が、これほど心地よく感じるとは。何時間でも一晩中でも聴いていられるのは、かなりの倒錯心理ですな。当然ながら、実際の気温も体感温度も一気に下がり、エアコンどころか扇風機さえオフのまま眠れる夜が戻って、ご飯も美味しくて、天高く馬肥ゆる「雨季」。

とりわけ暑さに弱い、私のイロンゴ語(西ネグロスの方言)家庭教師のバンビ。土砂降りの翌日の授業には、「昨夜は本当によく眠れました」と、実に爽やかな表情。バンビだけでなく私の体調も、自分で呆れるぐらいに分かりやすく復調しました。

とまぁ、ここまでなら万事めでたし良かった良かったで終われるんですが、そうは問屋が下さない熱帯気候の極端さ。今度は降り過ぎて、ルソン島の南部辺りでは、洪水被害が出たようです。さらに身近では、バンビの姉で我が家のメイドのグレースおばさん。可哀想なことに、ちょうど二泊三日の予定でビーチリゾートへの旅行が、台風接近にぶち当たってしまいました。

初日はほぼ終日の豪雨で、それ以降も時折陽射しは戻ったものの、楽しみにしてた休暇とは程遠いイメージだったでしょう。尤も、高校時代の親友たちと連れ立っての旅行だったので、宿泊先でオバちゃんトークを楽しんだろうとは思います。

ということで、これを書いている時点で、台風1号はフィリピンから遠く離れ、九州の南海上に。本土への上陸はないとしても、まだ5月なのに日本に大雨を降らせるなんて、異常気象ここに極まれり。

肝心の雨季が来たかどうかは、まだ判断が難しいけれど、少なくとも雨季恒例の羽虫の大発生はあったし、全天雲のないピーカンのカンカン照りはなくなったので、一応普通の天候に戻ったと見て良さそうです。



マニラで日本人オフ会3連発

 前回から3週間も間が空いてしまいましたが、引き続き4月中旬のマニラ滞在のお話。

マニラに限らず何泊かするような遠出になるとよくあるのが、SNSで知り合った地元に在住の日本人の方々とのオフ会。もうミクシィ華やかなりし20年以上前から時々やっていて、初対面なのに、長年の友達付き合いのような気軽さで話し始められるのが楽しい。気が合うかどうかは、年単位の交流で確認済みなので、変な緊張感がありません。

今回は、私のフィリピン移住直後ぐらいから、フェイスブック経由で知り合った同年代の男性お二人と、比較的最近やり取りを始めた30代の女性のお三方。

まず一人目は、前回に少し触れた、エルミタでラーメン屋さん「グルメ・ラーメン」を開店したばかりのNさん。Nさんとは、配偶者がフィリピン人というだけでなく、同じデザイナー職出身でカトリック信徒。しかも日常的に料理もこなすという、ちょっと驚くほど私との共通点が多い方。しかもお店のコックさんが、私の住むネグロス島シライの隣町、州都バコロド出身者。ただでさえ、勝手知ったるFB友達なので、話が弾まないはずがありません。

せっかくなので、マニラ初日のお昼時にお邪魔して、ご自慢のラーメンを頂くことにしました。ランチタイムに店を開けてはおられますが、稼ぎ時は夕食から深夜の「締めのラーメン」が中心のようで、私が行ったときは他にお客さんが1組のみ。お味の方は、さすが日本人経営でかつ日本で修行したコックさんの調理なので、近所だったら通うだろうなぁというレベル。

Nさんは、ガンガン経営を広げて...という感じではなく、この一店に集中して行くとのこと。これなら、フィリピンでの日本人経営の飲食店でありがちな、ローカルスタッフに任せきりにするうちに、味もサービスも劣化という心配もなさそう。何より腰の低いNさんの接客ぶりに好感が持てました。こういうところはネット経由だけでは分からない部分。

そして二人目は、同じくフィリピン女性と結婚して、マニラのコンドミニアムにお住まいのMさん。Mさんの暮らしぶりは、ある意味理想的なセミ・リタイア生活で、若干の仕事は日本に残しつつ、日比の両方にあるご自宅を行ったり来たり。SNSで拝見していると、どちらの国のご家族や親戚とも良好な関係を保っておられるし、早朝のジム通いも欠かさないご様子。

私の場合は、マニラのような大都会は人も車も多過ぎて疲れてしまうので、今のネグロス暮らしが性に合ってますが、定年を迎えても、やっぱり便利な都会の方が良いという人ならば、間違いなくこのライフスタイルには憧れるでしょう。もちろんここに至るまでは、いろんな苦労もあったのでしょうけど、少なくとも今はたいへんリラックスされてる印象。フィリピンの友人・知人が、Nさんが実年齢よりずっと若く見えると言うのも「然もありなん」な感じです。

そして三人目は、マカティにあるリトル・トーキョーで、今回唯一の女性と夕食。唯一と言っても、最近は女性の日本人移住者もまったく珍しくなくなったフィリピン。ツイッターでのハンドルネーム、まーさんは、そんな在マニラ邦人の中でもかなり異色の経歴をお持ち。

なんとフィリピン大学の獣医学部を卒業し(ということは、家内の後輩)、格闘技が趣味で、なぜかグラフィックデザイナーとバンドのボーカルを兼務している、超多彩な才能の持ち主。性別も住んでる国も関係なく、こんなにマルチタレントな人物って、そうそうお会いしたことがありません。その上「私、頑張ってます」みたいな悲壮感もなく、実際お会いしたら実に自然体でチャーミングな人。


家内とリトル・トーキョーにて

リトル・トーキョーの「相撲茶屋・関取」で、久しぶりの日本食を堪能した後が、その日のメインのカラオケ。さすがに初対面の女性と二人だけでカラオケはいろいろ差し障りがあったので、まーさんにお願いして他にお二人の日本人に参加いただきました。日本人にもフィリピン人にも、交友関係の広いまーさんに感謝です。お陰さまで何の気兼ねもなく、例によってマイク無しの地声で、大爆唱させていただきました。

ちなみに、カラオケの曲目が無い時のために持って行った、ブルートゥースのスピーカーを店に忘れてきちゃった粗忽者の私。まさーさんが機転を利かせて、バイク便でホテルまで届けてくれました。素晴らしい判断力と行動力。

ということで三者三様、いろんなフィリピン移住のかたちを垣間見ての実感は、それぞれに幸せを成就されてるなぁ、ということ。もちろん皆さん心配や悩みが皆無ってことはないでしょうけど、それぞれのスタイルで生き々きとしてました。お会いできて本当に良かった。



2024年5月11日土曜日

四半世紀ぶりにマニラ・エルミタを徘徊

 もう1ヶ月近く前の4月中頃、久しぶりに家内と連れ立ってマニラに二泊の小旅行をしました。同じフィリピン国内と言っても、マニラ首都圏とネグロス島シライ市。東京と四国とか九州の、しかも県庁所在地でもない地方都市ぐらいの差がある上に、通じないぐらいに方言が違います。心理的な距離感は、ほとんど外国と言ってもいいぐらい。

退職して隠遁生活している私は、一時帰国のフライト乗り換えで空港経由はあっても、フィリピン移住後12年目でマニラに宿泊したのはたったの3回。前回は確か2019年だったので、かれこれもう5年前。(懐かしのザ・ペニンシュラ

今回の目的は、私の事ではなく家内のビザ更新手続き。それも日本ではなくアメリカの入国ビザ。実はまだ日本に住んでいた2000年に、家内とアメリカ旅行をした際に取得したもの。翌年に9.11のテロがあったので、もし1年ズレていたら、フィリピン人がアメリカのビザ取ろうなんて、最初から諦めてたでしょう。

その後、シカゴ在住の親戚を訪ねて再渡米したのが2004年。「来年も来るよ〜」と言って別れたんですが、その年の年末に家内が妊娠して2005年に出産。なんやかんやで、今まで使うことがなかったビザ。放置すれば今年(2024年)中には無効になってしまいます。それは勿体無いので、アメリカ旅行の予定はないけれど、延長申請のために在マニラのアメリカ大使館に予約を入れたというわけです。

前述の通り、何か所用でもない限りマニラに行くことは滅多にない私たち家族。なので私も同行して土日を絡めての二泊三日となりました。ちなみに高校生の息子は学校があるので、お留守番。さすがにちょっと心配なので、親戚やメイドさんに順番で泊まってもらいました。

御上りさん気分で宿泊先に選んだのがマニラ・ホテル。戦前から経営している老舗で、マッカーサー将軍やケネディ大統領、ビートルズが泊まったことでも有名で、日本の占領時代には軍の司令部が置かれていたそうです。ただ、宿泊料で言うとペニンシュラやマンダリンなどの最高級ホテルほどではないし、最近できたオカダ・マニラに代表されるような、ベイエイリアにあるカジノ併設の場所に比べれば、高嶺の花と言うほどでもありません。


重厚で歴史を感じる
マニラ・ホテルの1階ホール

それに何より便利なのが、エルミタ地区にあるアメリカ大使館のすぐ近く。4月はフィリピンの真夏で、特に今年はエル・ニーニョの影響の酷暑なので、さすがに家内はタクシーを使っていたものの、それさえなければ私なら歩こうかという程度の距離。

それにしても、エルミタのホテルに泊まるなんて、四半世紀以上ぶり。実は家内と出会う前の30代になりたての頃の私は、マニラに住んでいた彼女との逢瀬で、数ヶ月毎のフィリピン通い。リサール公園のすぐ隣にあって、今は閉鎖されてしまったホテルを常宿にしていました。そこも決して安宿ではないものの、当時は歓楽街の様相を呈していたエルミタ界隈で、宿泊客は夜遊び目当てのオっさんが多かった。まぁ私も人のことは言えないんですが、ロハス大通りを隔てただけなのに、見るからに「上流階級向け」に見えたマニラ・ホテルは憧れだったんですよね。

さて、マニラ到着翌日の日曜日。ずっとフェイスブックで交流のあったマニラ在住の日本人の方が、同じくエルミタにラーメン屋さんをオープンしたというので、お昼を食べに行く予定を入れていたところ、その前に買い物をしたロビンソンズ(ショッピングモール)で、急に家内が体調不良。病院に行くほどではないけれど、先にホテルに戻って横になるとのこと。仕方がないので、ロビンソンズから数ブロック離れたラーメン屋さんには、一人で徒歩となった次第。

午前中でも間違いなく体感温度は40度前後で、家内が一緒ならタクシーだったであろう道のり。暑さでちょっとふらつきながらも、実に懐かしかった。基本、変わってないんですよね。ちょうどお昼前なので、歩道にまではみ出した椅子やベンチには、トロトロ(一杯飯屋)で食事をする老若男女。心なしか昔の荒れ果てた感じは影をひそめ、庶民的で楽しそうな食事風景に見えました。

実際、この10年ぐらいでフィリピン経済は大成長を遂げ、1990年代の絶望的な状況は、改善されました。まぁこっちもそれなりの年齢だし、将来に対する不安を抱えていた30代と比べたら、心に十分な余裕があるからというのも大きいでしょう。

ということで、ものの30分程度のセンチメンタル・ジャーニーでしたが、どっちかと言うとやや暗めの色彩に塗り潰されていたエルミタの記憶が、南国の日差しがさんさんと降り注ぐ明色に上書きされたような、ちょっと幸せな気分に浸ることができました。

マニラ旅行については、次回も続きます。


2024年5月3日金曜日

暑すぎるフィリピン

 またまた1ヶ月のご無沙汰となってしまった当ブログ。この文章を書いているのは2024年の5月3日で、日本では憲法記念日でゴールデンウィーク真っ只中という頃。そしてフィリピンの4月〜5月は、毎年乾季で暑くなる季節。タガログ語でもネグロス島の方言イロンゴ語でも、乾季や夏を指す言葉は、タグ・イニット(Tag Init)。イニットは、「暑い」だけでなく、「日差し」「直射日光」も意味します。そして、その通りに今年の夏は連日の強い日差しのネグロス島。

実はこの暑さ、もう3月の初旬から続いていて、途中で2〜3回ほど数時間から半日程度の降雨はあったものの、5月に入って時点ですでに2ヶ月も真夏状態。1日の最高気温は33〜36℃程度なので、大阪や東京の都心部の一番暑い時期と同じか、ちょっとマシな程度。ところが、暑さの中休みがなく、ほぼずっとよく晴れて暑いので、さすがにバテてきました。

これは、最近数年毎に発生するエル・ニーニョの影響だそうで、一般的な日本人よりも暑さ慣れしているはずの地元の人たちでも、熱中症と見られる症状でダウンするケースが相次いでいます。バイクを運転中に意識が朦朧として転倒したり、頭痛がひどくて仕事を休んでしまったり。バイクで転けたのは、私のイロンゴ語の家庭教師バンビの知人で、頭痛は週一でマッサージに来てくれてるラケルおばさん。二人とも命に関わるようなことにはならなかったけれど、屋外の仕事や肉体労働に従事している人たちは、本当に大変。

とは言え、緑が多くて土が露出している面積が多い田舎のネグロスは、コンクリート・ジャングルのマニラ首都圏に比べれば、これでもまだ凌ぎやすい。何と言っても、夕方になれば屋外はス〜ッと涼しくなって、早朝は空気がヒンヤリ。先月末に2泊3日でマニラに行ったのですが、日中エアコンの無い場所にはとても居られない、40℃前後の暑さで、深夜になっても蒸し暑い。マニラ滞在については、別途詳しく投稿します。

さて、この異常気象レベルの暑さの中、驚くことに学校は夏休みではありません。本来ならば4月〜5月、子供たちは家にいるはずが、コロナ禍以降、約2ヶ月の遅れが生じたまま。もう4年も経って、さっさと元に戻せば良いものを、海外の(主にアメリカ?)学校に合わせて、このまま行った方が便利だと、教育大臣兼務のサラ・ドゥウテルテ副大統領の強い主張で、真夏に登校させて、雨季と共に夏季休暇。

確かにフィリピンからアメリカの大学に進学するなら、数ヶ月も待つ必要はなくなるけれど、そんな子供は数が知れてるでしょうに。

案の定、暑過ぎて、コロナ時代のオンラインや宿題形式のモジュール授業に逆戻り。息子が通うシライ市内の私立高校では、PAGASA(フィリピンの気象庁)の翌日の気温予測で、体感温度が40℃を目安に、対面授業とオンラインを使い分けてます。その都度、対応が変わる先生たちは、振り回されていることでしょう。

ちなみに、なぜか実測値ではなく、ネット上でもテレビのニュースでも、暑い時には体感温度しか使わないフィリピン。スマホのお天気アプリでの最高気温予測は35℃で、PAGASAの発表は42℃。これって必要以上に煽り過ぎだと思いますよ。まぁ実際、暑いことは暑いんですけどね。

ということで、頑固なサラ女史も異常気象には勝てないらしく、再来年度までをメドに、夏休みを従来の時期に戻すことが発表されました。



2024年4月1日月曜日

日本語が通じない英語学校の日本人スタッフ

 気がついたらもう4月。申し訳ないことに、久しぶりの更新かつ新年度早々の投稿は、とってもネガティブなお話。今日はエイプリル・フールの日なので、嘘でも書いたんじゃないかと思われそうですが、嘘だったら良かったのに...というような出来事。

遡ること3週間。先月(2024年3月)初旬から我が家のゲストハウスを、近所の英語学校に短期留学する日本人の生徒さんに貸し出すことになりました。日本は春休み。この時期に高校生や大学生の方々が増えて、学校の宿泊設備のキャパを超えてしまうから。

この日本人経営の英語学校は、コロナ禍前からのお付き合い。経営者のYさんと知り合って、もう6〜7年越しになります。コロナで一旦は撤退したものの、昨年からここネグロス島シライ市内も戻られて、我が家から徒歩15分ほどの場所の商業ビルのワンフロアを使って業務再開。ピーク時には外部の宿泊施設も借りるほどの盛況というわけです。

ここまでは私にとっても良い話で、臨時収入にはなるし、若い日本人の方々と接点ができて刺激にもなる。学生さんは3名で、一人学校側から面倒見役の女性スタッフが来るとのこと。トラブルの元になったのは、このスタッフ。

20代で、就職して数年の日本の会社を辞めてネグロス島へ。仮にAさんとしておきます。Aさんは学生に先立って前夜からゲストハウス入りというので、大慌てで大掃除。自分で言うのも何ですが、2LDKで家具や食器、家電製品付き。片田舎のシライ市にあっては、日本での宿泊と大差のない居心地だろうと思います。加えて庭も含めて念入りに掃除を済ませて待ってました。

ところが待てど暮らせどAさんは来ない、連絡もない。まるでダメなフィリピン人メイドさんみたい。翌日やっと来たと思ったら、ヘソ出しルックの短パン姿でお出まし。別に就活ではないのでスーツで来いとは言いませんが、この後空港に生徒さんを迎えに行く仕事があるはずなのに。私は上司でもないので黙ってましたが、この第一印象での違和感は、不幸にも勘違いじゃなかったことが明らかに。

そして空港から学生さんが到着し、順調な滑り出しのはずが、いきなり夜間のゲート施錠忘れ。裏庭に建てられたゲストハウスは、建物としては母屋と完全に独立しているものの、同じ敷地内でこちらのゲートから母屋の庭に入ることもできる作り。なので当初は、鍵の開・施錠は私でやろうと思ったんですが「責任をもって管理します」と言うので任せてました。それがこの結果。

追い討ちをかけるように、翌日も施錠してなかったし、さらに昼間は落とし金具も横バーもしないから、季節風に煽られてゲートがフルオープン状態。外から敷地内まる見えで、不審者でも野良犬でも入りたい放題。

どうやら根本的に、フィリピンの治安のレベルが理解できないらしい。ガードマンのいるビレッジ(宅地)内で、長閑で平和に見えるものの、実際に泥棒被害(大した物ではないにせよ)はあったし、狂犬病のリスクだってあります。

もちろんその都度、注意はしてたんですよ。言葉を選んで紳士的に。ところが困ったことに日本語が通じないのか、あるいは異次元の解釈をしているのか、まったく改善の兆しが見られない。別にそれほど難しい事をお願いしてるわけじゃないんですけどね。

さすがに1週間この状況だったので、経営者のYさんに直訴。日本人同士で言葉が通じないようなので、人を代えてくださいと頼んでみました。確か、もう一人インターンの方がおられました。それが無理なら、せめて私に門扉の開閉と鍵の管理を任せてくださいと。

まぁ人は代えられないというのは仕方ないにしても、頑ななまでにスタッフによる管理にこだわって、深夜零時の門限の提案も却下。というのは生徒さんの夜遊び黙認で、午前様の3時頃帰宅ということがあったんですよ。

約1時間弱の話し合いの結果、鍵を学校側が用意するナンバーボタン式のもと交換し、今後は責任を持って(こればっかり)施錠時には鍵が閉まった状態のスマホ写真を、メッセンジャーで関係者と共用する、という対応に。

さてこれで一件落着かと思ったら、舌の根も乾かぬうちに、またもゲート開けっぱなし再発。たまたま見つけたメイドさんが、びっくりして言いに来ました。つまりフィリピン人でも驚く不用心さ。あの話し合いは何だったんでしょうか?

とうとう堪忍袋の緒が切れて、件のスタッフさんに歯に衣着せぬ言葉で注意。それでも怒鳴りつけたり感情的にならないよう自制したんですが、言うに事欠いて「私も暇じゃありませんから」「元々、貸し出すべきじゃなかったんでしょう。」だって。まぁ門扉の建て付けが悪くて、暑いと膨張して外からは閉めにくくなることはありましたが、そんなの私に一声かけてくれれば済む話。ここまで相互理解ができないと、もう出て行ってもらうしかありません。

実は、これだけではなく、室内のドアノブは二つも壊してくれるし、備品の水タンクのキャップを勝手に不要と思い込んで捨ててしまうし。洒落にならなかったのは、体調不良で寝込んでた女子高校生の生徒さんを、半日も一人にしていたこと。こちらには何の連絡もなかったので、もし母屋も留守にしてたら、病人を門扉が未施錠の状態で放置するところでした。

結局、3週間の予定が半分の10日ほどでレンタルハウスはおしまい。追い出した格好になったので、宿泊費も電気・水道代も頂けません。元々、相場の半額ぐらいの良心的な価格だったんですけどね。一応、移動先の手配も考えて「すぐ出て行け」じゃなくて、24時間の猶予は与えたものの、生徒さんには悪いことしてしまいました。とは言え、ストレスで、以前の鬱病の時みたいに、胸の圧迫感や神経性と思われる腹痛が出始めたので、もうこっちもいっぱいいっぱい。今にして思えば、彼女の口からは一度も「ごめんなさい」とか「すみません」という言葉は聞かれませんでした。

ということで、ストレスの元凶が視界から去って、体調は戻ったものの、良好な関係を保っていたはずの英語学校のYさんとは、行き掛かりながら絶縁となってしまったのは、とても残念なことでした。あ〜あ。


2024年3月12日火曜日

差別の話

 この何ヶ月か、たまたま差別に関する話が私の耳目に触れたので、今日は、それについて考えたことを書いてみます。

当たり前のことながら、人種、出自、心身のハンディキャップ、性別、性的志向などなど、どんなことでも差別は絶対にダメです。「それは差別じゃなくて区別だ」なんて屁理屈をコネたってダメなものはダメ。判断するのは簡単で、自分がその当事者だったらどう感じるかを想像してみればよろしい。

日本のように、比較的似たような顔つきで、一応は標準日本語を理解する人が多い国では、白人と黒人、あるいはアジア人との間にある深い溝は、実感として分かりにくいかも知れません。それでも、中国・韓国系の人たちに対する根深い嫌悪や偏見は無くならないし、被差別部落やジェンダーなどなど、厳然と差別は存在します。

それを図らずも顕在化させたのが、今年(2024年)1月のミス日本選出にまつわる一連の騒動。いろんなメディアで報道されたので、ご存じの方も多いでしょう。グランプリに輝いたのが、ウクライナ人を実の両親に持つ、椎野カロリーナさん。確かに見た目は白人女性。ただし父母が離婚し、母親の再婚相手が日本人だったことから、幼少時に日本に移住し帰化。日本語も普通に話されます。


出典:New York Post

さらにミス日本に応募しようというぐらいですから、とびきりの美人さん。美しさを競うコンテストで日本国籍を有する美人が選ばれたんだから、外野が騒ぐようなことではないはずが、批判的な意見...というか完全なやっかみが集中。案の定「純日本人ではない、ハーフですらない云々」なんて馬鹿げた言い草。

そもそも今日本に住んでる人々って、その多くがモンゴルやシベリア、中国・朝鮮半島、あるいは東南アジアや太平洋の島々からの渡来人の末裔。間違いなく全員が雑種。結局のところ日本人の定義は、国籍の有無しかないはずなんですよ。この件に関しては、どんな理屈をこじつけても、ルッキズム(外観至上主義)以外の何物でもありません。

特に在外邦人で、配偶者がフィリピン人、子供がそのハーフという私にすれば、否応なく考え続けてきた問題。それだけではないにしろ、息子がフィリピン人の母を持つことを理由に、謂れなき差別やいじめを受けることが心配で、フィリピン・ネグロス島に移住したとも言えるぐらい。

有難いことに、このフィリピンの片田舎では、日本人だからと、差別的な扱いを受けたことはありません。息子に訊いてみても無かったとのこと。ただそれは、永年に渡る日本政府からの国際援助や、最近のアニメやマンガの影響で形成された、良好な対日感情によるところが大きい。加えて、元々マレー・インド・中国・スペイン系など、いろんな顔つきの人がいますからね。

もちろんフィリピンにだって、私たちが直接被害を受けていないだけで、差別はあるでしょう。例えばムスリムや少数民族への偏見や、絶望的なまでに大きい貧富の差など。差別が皆無のユートピアなんて世界中どこに行っても見つからないと思います。

そして先日の米国アカデミー賞の受賞式での出来事。昨年(2023年)に、主演女優賞と助演男優賞に選ばれたマレーシア出身のミッシェル・ヨーさんと、ベトナム出身のキー・ホイ・クァンさん。このお二人が慣例に従って、今年の同賞の受賞者に黄金のオスカー像を手渡すプレゼンテーター。その受け渡しの際の、二人の白人受賞者の態度が失礼だったと話題になっています。

主演女優賞のエマ・ストーンの場合はちょっと微妙ながら、助演男優賞のロバート・ダウニー・jr.は、キー・ホイ・クァンさんと目も合わさず握手も謝辞もなし。さすがにこれはアカんでしょう。たとえ心の中にアジア人嫌悪があったとしても、仮にも演技のプロなんだから最低限の礼儀と感謝は表現すべき。ヒット作で演じているスーパーヒーロー役が、イメージダウンも甚だしい。

ちなみにツイッターで、欧米に住む邦人の投稿によると、白人からこんな態度を取られるのは決して珍しいことではないらしい。19世紀や20世紀初頭の暴力的人種差別ではないものの、まるでその場にいないかのごとく無視されたり。配偶者の家族からも日常的に同様の仕打ちを受けている人もいるぐらい。

正直なところ、私にだって心の奥底には、一部のフィリピン人への差別的感情がないかと問われれば、絶対に無いとは言い切れません。それどころか、同世代の日本人男性に対しても偏見を持ってしまうこともあります。問題は、それを態度や言葉に出すか出さないか。一番タチが悪いのが、自分でも気づかないまま差別的言動を取ってしまうことでしょう。これは本当に気をつけないといけません。