2023年6月30日金曜日

私的フィリピン美女図鑑 似顔絵イラストで結婚祝い

 何と、もう4ヶ月以上も更新していなかったんですね、フィリピン美女図鑑。

実は、新しい描き方をいろいろと模索しておりました。前回までのスタイルは、リアルな画法で言うならば、油画のように隙間なく絵の具を乗せて、隅々まで重厚に描き込むやり方。仕上がりはリアルで、そこまで到達したかどうかはともかく、肌の質感まで触れられるぐらいの仕上がりを追求しておりました。

当然ながらこの方法は、1枚仕上げるのに数週間から1ヶ月。体力も集中力もずいぶんと使います。正直に言って、年齢的にしんどくなってきたんですよ。年に1〜2作なら何とかなりますが、描きたい対象はいっぱいあるし、気ばかりが焦って仕方がない。なので、もうちょっと1枚当たりの描画時間を減らせる描き方に、シフトしてました。

とは言うものの、短時間に仕上げる=簡単に描ける、わけではなくて、シンプルな表現ってむしろ難しい。目標にさせてもらったのが、かつて少年ジャンプ誌で「すすめ!!パイレーツ」や「ストップ!!ひばりくん!」で憧れた漫画家の江口寿史さん。今ではイラストレーターとしてご活躍。私より6年先輩なのに、まったく画力に衰えはなく、可愛さに磨きがかかった美少女を描き続けておられます。

この辺りの経緯は、去年の投稿でも書いてますね。結局ジタバタして、新しい描き方が安定するまで、1年以上も費やしてしまいました。

例によって前置きが長くなってしまいましたが、今日のイラストは、ずいぶん前に安請け合いして結果的に放置してしまったもの。以前にもモデルになっていただいたことのある、セブ在住の美しき日本人女性。

めでたいことに、彼女はフィリピン男性とゴールイン。ただ諸般の事情で結婚式はされなかったそうなので、それではせめてイラストでもと、ウェディングドレス姿をプレゼントしようと思い立ったわけです。

こういうイラストの場合、まずモデルに似ていることが大前提。リアルに描き込むスタイルなら、あんまり考えなくても参考写真に忠実に描けば自動的に似て来ますが、シンプルタッチではそうはいきません。街頭の似顔絵描きの人って、初対面の人を短時間で、しかもデフォルメしたコミック風なのに、ちゃんと似せて描きますよね。あれは相当なセンスと訓練がないと出来ない芸当だと実感。

ということで今回は、描き慣れない男性と愛犬まで「似せて」描くのに、少々手こずりました。モデル本人に見てもらうのはドキドキしましたけど、喜んでいただいたようでホっとしております。



過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

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2023年6月28日水曜日

フェイスブックよりツイッター

今私が常用しているSNSは、フェイスブック(FB)、ツイッター、インスタグラムの3つ。 ここ1〜2年ほどは、よくツイッターを使っております。

以前はFB一辺倒で、フィリピンも日本もどっちからの友達も網羅。特にフィリピン人のFB率は、ほぼ100%に近い普及率なんだそうで、タイムラインを見るだけでなく、チャットと電話がわりにFBメッセンジャー。

一時期は、フィリピン関係の日本人を対象にして、グループを立ち上げるぐらい傾倒してたんですが、ほんの半年もしないうちに、荒らしやメンバー間の対立に嫌気がさして早々に撤退。これは日本人のメンタリティが良くないのか、FB独特の閉鎖性が私に合わなかったのか。

今でも投稿は続けてますが、すべて友達限定。その友達の数もずいぶんと整理しました。まったく投稿しないし、コメントもリアクションもない人は、リアルでよく知っている人を除いて、すべてサヨナラ。

それに呼応するように、使い始めたツイッター。こちらは、友達申請とかの手間がいらなくて、気軽にフォローしたり止めたり。私が趣味としているイラストのビッグ・ネーム江口寿史さん、その活動を注目している前明石市長の泉さん、ミュージシャンの矢野顕子さん、そ他多数。あるいは、まだそれほど知られていない画家や作家の方など、つい時間を忘れて追いかけてしまいます。

そして一番役に立っているのが、フィリピン在留邦人の方々とのネットワーク。やはりマニラとセブが多くて、ネグロス島は少数派ながら、フィリピンで生活しないと知り得ない、貴重な情報をいただいております。こちらからの発信と言えば、ほぼ料理の写真とこのブログぐらいなので、かなりお得な感じ。

ただ、常識や礼儀に欠けた輩も多いのがツイッター界隈。フィリピン関係でも、たまに変な人がいるので、相手にせずさっさとミュートかブロック。こんなことで退職後の時間を浪費するのはもったないですから。

それでもヒマな人はいるもので、ずっと前のツイートをわざわざ探し出してきて、いわゆるクソリプしたりする。なので最近は、1週間か10日ぐらいで過去のツイートをすべて消すようにしています。これはFBでも同じ。

こんな具合に、平和にツイッター生活を満喫していたところに降って湧いたのが、経営者の交代劇。とにかくイーロン・マスク氏がトップになって以来、頼みもしない不要な仕様変更の嵐。告知もなにもなく、いきなり変更とか追加されるので、ウザいことこの上なし。一番鬱陶しいのが、やたら広告の数が増えたこと。

なかなか一箇所が安住の地とはならない運命のSNS。何しろフィリピン移住前はミクシィやってましたからね。もうパスワードも忘れて、ログインさえできなくなって久しい。

ということで、不満はいろいろあるし、ネット上であっても人間関係の面倒臭ささは厳然と存在はしますが、SNSが、海外移住者の暮らしを変えたのは間違いないでしょう。正直言って、自分が今どこの国に住んでいるかさえ、あまり強く意識しなくなっております。



2023年6月25日日曜日

「フィリピン人はみんなルー大柴」説

 昨日(2023年6月24日)は、ウクライナ戦争が一気に終結かと思わせるような、ロシアでの内戦騒ぎ。風雲急を告げるとはまさにこのことで、かなり興奮気味で今朝のニュースを見たら、何のことはない、まるでヤクザ同士の手打ち。まったくの茶番で呆気ない幕切れ。

今日はそんな国際情勢がメインではなく、もうすぐ家庭教師に来てもらって5年になろうかと言う、私のイロンゴ語(フィリピン・西ネグロスの方言)学習について。

最近は、毎週日曜日の午後から2時間がレッスンタイム。いつも教えてくれているバンビ先生は、本職の高校教師がとても多忙。というのは、コロナ禍で卒業シーズンが約三ヶ月ずれて、今がその時期。バンビの受け持ちが、通常の学校ではなく、ちょっと訳ありで教育機会を逸して成人してしまったり、早過ぎる妊娠出産で学校に通えない、という人々の高校教育。

卒業と同時に就職したい生徒も多く、ポートフォリオ、つまり履歴書作成の手伝いで大忙し。はっきり言って、成績優秀で履歴書なんて自分で書いちゃう子はあんまりいないでしょうから、バンビの苦労が偲ばれます。

その代行で、先週と今日来てくれたのが、バンビの姪っ子エイプリル嬢。姪っ子と言っても25歳。なかなかの美人で、とても一児の母には見えません。彼女のことは、以前このブログでも書きました。(セクシーな家庭教師)ちなみに、エイプリルの母親が、現在我が家のメイドさんのグレイス。グレイスでさえ私より10歳も若いので、この辺りは出産年齢の低いフィリピンらしい。

さて毎週のレッスンでは、私が一週間分の出来事をジャーナルと称して、日記かエッセイのようにイロンゴ語作文。それを先生に添削してもらうというやり方。教科書も参考書もないマイナー言語なので、分からない部分は取り敢えず英語で書いて、授業でそれに相当する単語や表現を教えてもらってます。新規に学んだことは、即、手製のネット上の辞書に反映。(日本語 / イロン語辞典

今週のジャーナルは、上記のロシア内戦。いつもは、身の回りの日常に関する記述が多いんですが、大きな事件や災害があった時は、頑張ってイロンゴ語で書いてます。ところが、この手の政治とか軍事をまともに書くと、ほとんどが英語ばかりになってしまう。というのは、ちょっと専門的な語彙、たとえば「占拠」とか「蜂起」「退路」「軍事組織」みたいなものは、1対1で対応するイロンゴ単語が見当たらない。

結局、英単語をイロンゴ語の冠詞や前置詞、助詞でつないだハイブリッドな文章にならざるを得ません。例えば「ロシアの民間軍事組織ワグネルのリーダーである、エフゲニー・プリゴジンが蜂起した。」は、「Nag-uprising si Yevgeny Prigozhin, ang leader sang “Wagner” ang private military organization sa Russia.」となります。(赤字が英語と固有名詞)

これでは、わざわざイロンゴ語で言うより英語で言った方が早いぐらい。全部イロンゴ語に置き換えることもできるようなんですが、やっぱりニュアンスが変わったり、すごく長くなったり。またディープ・イロンゴと呼ばれる、昔ながらの表現を使うと、若い人が理解できない。なるほどなぁ。数学や科学の教科書が英語で書かれている理由を、今更ながらに実感してしまいました。

公用語であるタガログ語ベースのフィリピノならば、もう少し語彙も整備されていているものの、テレビでドラマや政治家のスピーチを聞いてると、英単語はとても頻繁に使われています。つまり、フィリピン人が普通に喋ったら、ある程度は「ルー大柴」になっちゃうものらしい。

特別に専門的な話題じゃなくても「運良く」「驚いたことに」「〜は、もうたくさん」みたいな表現は「fortunately 」「Surprisingly」「No more ~」が、さらっと出て来て誰も訝しんだりしません。もし日本人同士の日本語会話でやったら、ふざけてるのかと怒られそう。

そう言えば、まだ家内が来日したばかりで日本語勉強中だった頃には、私もちょっと難しい熟語は英語に置き換えて喋ってたので、それを聞いてた人に「まるでルー大柴やな」と言われたことがあります。

ということで、改めて明治時代初期に、ヨーロッパから入って来た新概念を、ことごとく日本語(「民主主義」「病院」「野球」などの和製漢語)に翻訳した先人の努力と、漢字の持つ応用力の強靭さに感謝している次第です。



2023年6月20日火曜日

フィリピン妻を褒める


新婚当時に描いた家内の似顔絵

 今日の投稿は、手前味噌が過ぎるとか、惚気と思われても仕方ないんですが、ウチの家内が素晴らしいというお話です。

かれこれ今年で結婚25年の銀婚式を迎えたのは、何度かここでも話題にした通り。昔風の表現を借りれば「糟糠の妻」。もちろん米糠で漬物漬けたりしたことはないし、新婚の頃、そんなに苦労したわけでもないんですが、まぁ四半世紀も一緒だったので、人並みにいろんなことがありました。

まずは言いたいのが、フィリピン人配偶者でありがちな、金銭や時間に関するトラブルが一切なかったということ。義両親や親戚から金を貸してくれというのがほぼなく、一回だけあった叔母からの頼みは、本当に困っていたし信用もしてる人だったので、数十万円を貸しましたが、これはのちに完済。

もちろん家内本人の金銭感覚は、平均的な日本人かそれ以上にキッチリしていて、かつて日本での専業主婦時代にも、財布を預けっぱなし。月末に困ったとか、変な買い物されたってことは皆無。それどころか、自分で子供向け英会話の教師職を見つけて来て、一時は月収が約30万円。そしてこれもコツコツ貯めて、ネグロスの父に自動車をプレゼントする親孝行ぶり。

ちなみに器量はというと、すごい美人というわけではないけれど、結婚した30代前半で高校生に間違われる童顔。フィリピンでも日本でもやたら道を聞かれるぐらい、誰からも警戒心を抱かせない雰囲気があります。何よりも「聡明な」という形容詞がぴったりの優等生タイプ。

元々は、フィリピン大学(日本の東大に相当)に奨学金もらって現役入学した秀才で、私と結婚するまで大学に残って研究員をやってました。給料も悪くなかったはずだし、なぜ私と一緒になってくれたのはいまだに謎です。本人曰く「騙された」んだそうですが。

そして、お金に関してのみならず、時間を守る感覚も日本的。約束の10分前に先着して待ってるフィリピン人を見たのは初めてでした。これはどうやら家内だけが突然変異だったのではなく、母方の親戚、オフィレニア一族の血統らしい。家内の母も叔母たちも、やたら学校の先生が多く、私に対する口調までが「教育的指導」っぽいほど。その影響で、家内の従兄弟姉妹たちは、揃って時間厳守が板についている。

この「教職の血」は、家内にも色濃く流れていて、息子が生まれてからは満を辞した感じで、教育ママとなりました。生後数ヶ月の頃からの英語絵本の読み聞かせに始まり、今では唯一苦手なタガログ語をビシビシ指導。もちろん必要以上に厳しいわけではなく、時にはフィリピンの母らしく、息子が辟易となるぐらいハグ&キスの雨アラレになったり。

こういう細やかな情愛の表現は、夫婦生活を維持する上でどれだけ大切かを、結婚して25年経った今でも実感している次第。これは日本人同士でも同じなんだろうと思いますが、相手が配偶者でも子供でも、「あなたを大切に思ってます」という気持ちを言葉や態度に出すのは基本中の基本。私の親の世代ほどではないにしても、羞恥心旺盛な日本人が、一番苦手とする分野かもしれません。

家内の場合、この愛情表現が十分かつ適度。まぁたまには行き過ぎて変な嫉妬になることもありますが、陰にこもらず陽性で分かりやすい表現になるのは助かります。

そんな感じで、最初に家内を始めとする、真面目で几帳面な人々との付き合いから入ったフィリピン生活。1990年代辺りに、やたら本や記事になったような、いかにフィリピン妻やその親戚から金品をタカられたか、という話は、共感はまったくなく、「それどこの国のこと?」なんて、驚きを持って眺めたものです。

その後の本格的なネグロス移住では、煩雑極まりない各種の手続きや、自宅建設など、もし家内の働きが無かったら、どれも途中で頓挫してたんじゃないかと思うぐらい。今も私が超手抜きな専業主夫やってられるのも、家内がお役所勤めをして稼いでくれているお陰です。

ということで今日は、手放しで妻を褒めてみました。



2023年6月19日月曜日

マニラを外してセブ経由


 正式名称ニノイ・アキノ国際空港、略称NAIA。このフィリピンの首都マニラの玄関口である空港が、このところ国際線を中心に、大混乱が続いているようです。

少し前は、4つあるターミナルのうちの第2ターミナルを占有していた、ナショナル・フラッグ・キャリアのフィリピン航空による、長年のターミナル使用料未払いが発覚。ドゥテルテ大統領の指示で、莫大な罰金を課されるという不祥事がありました。また、空港職員が旅客の荷物に銃弾を隠し、それを理由に金銭を要求する犯罪も多発。

最近では、今年(2023年)の正月1日に大規模な停電を起こして管制が全面ストップ。マニラ離発着便だけでなく、フィリピン全土の空の便が麻痺状態に。規模はやや小さいけれど、ついこの間にも停電がありました。情けないことにその原因が、スタッフが自分の携帯電話を充電するために、メインシステムの電源を引っこ抜いたから。ちょっとこの国は、どうなってんですかね?

振り返ってみるに、私がフィリピンと関わりを持ち始めた1990年代から、NAIAは悪評ふんぷん。税関では乗客から公然と賄賂を要求してたし、ボロボロの荷物カートは有料。設備は古くて汚いし、フライトの遅れは常態化。Filipino Air Line を捩って Flight Allways Late なんて言われたものです。そして最悪なのが、外国人観光客と見れば、タクシー運転手はメーターも倒さず法外な金額を請求したり。特にお人好しの日本人は、格好のターゲット。

2010年代後半に入り、上記のドゥテルテさんにシバキ上げられたお陰で、常連だった「世界最悪空港ランキング」上位からは外れたものの、丸三年続いたコロナ禍の後は、どうやらすっかり元の木阿弥。新任大統領のボンボン・マルコスは、文字通りのボンボン。まったく睨みが効かず、緩みまくっております。

そして最近の、第3ターミナルへの国際便集約で、混乱は頂点に。

本来ならばずっと以前に、空港のキャパシティ不足を補うために、首都第二空港を作っておくべきだったんですよね。日本ならば、羽田と成田、あるいは伊丹と関空みたいに。遅まきながら数年前には、ビールで有名な大財閥のサンミゲールが、マニラ首都圏北部のブラカン州に国際空港建設のプランをぶち上げましたが、コロナのため着工準備に手間取っているらしく、続報も耳に入ってこない状態。

ただ私と家族が住んでいるのは、マニラから遠く離れたネグロス島。別にマニラを経由しなくてもマクタン・セブ空港があります。コロナ禍の間は日本への直行便はすべて休止の憂き目に遭いましたが、すでに成田へのフライトは再開し、嬉しいことに11月にはセブ〜関空が復活するらしい。

ネグロスからセブは、正味30分のフライトで行けるし、国際線のターミナルは新しくてきれい。何よりターミナル間の連絡が良好で、ストレスなく移動ができるのが最高。マニラの場合、一旦空港外に出ないといけない所は、昔から一向に改善されず。フィリピン航空ならば同じターミナルで乗り換えできたのが、最近の改悪でそれも不可能に。

ということで今後しばらくは、ハブ空港としての機能を喪失したマニラに見切りをつけて、一時帰国はセブ経由一択ということになりそうです。


2023年6月13日火曜日

将来に備えて今を生きない日本人

 このブログの読者の方って、すでに海外で生活してたり、国際結婚してる人が多いようです。なので、それなりのリスクは覚悟の上で、前に進んだ経験はおありでしょう。まぁ結婚なんてものは、どこの国の人がパートナーでも、破綻のリスクはつきまとうもの。嫌なら別れたらいいだけのことだし。

さて、フィリピン暮らしのリスクで、私が最大だと思うのが医療。医師・看護師の報酬が低すぎて、有能な医療スタッフはどんどん外国へ流出するもんだから、残念ながら日本に比べると、国内の医療レベルは、かなり低いと言わざるを得ません。その上、健康保険制度が未整備なので、自分で保険に入るか、フィルヘルス(フィリピンの公的な健康保険)に加入済みの配偶者がいないと、入院や手術の費用が捻出できない恐れもあります。

救急車で運ばれるような急患かつ重篤な状況でも、デポジット(前払金)がないと、治療も受けられないという仕打ちが日常なのがフィリピンの現実。ただこれは、保険に入るなり、緊急用のキャッシュを日頃から用意するなりして、準備が効く性質のもの。癌などの生死にかかわる病気なら、日本に戻って治療することもできます。

最悪の場合は、脳卒中や重大な交通事故。でもここまで行くと、日本にいたって死ぬ時は死んじゃいますから、あんまり心配し過ぎても意味がなさそう。要するにリスクはあっても、ある程度の備えがあれば、憂いも少ない。

ただ、時々いるのが、ちょっとでもリスクがあるというだけで、海外移住を全否定してしまう人たち。日本での生活には満足していて、今がとても幸せなんだったらそれも分かりますが、不満・不平ばかりで、フィリピンで暮らせて羨ましいなんて言いながら、「じゃあなたも移住したら?」と返すと「できるわけないでしょう」と逆ギレ。

「英語ができない」「治安が悪い」「食べ物が合わない」「暑すぎる」そして「病気になった時が心配」。お決まりのできない理由の羅列。そういう人に限って、日本以外で暮らしたことがないし、フィリピンについて調べたこともない。ましてやフィリピン人の友人・知人なんて皆無。食わず嫌い、ここに極まれり。

やや誇張して書きましたけど、実際にこれに近いやりとりって、移住前に何度かありました。どうやら、多少英語が喋れたり、フィリピン人の妻がいる私が、何やら特別に恵まれた人間だと思い込んでいるらしい。もちろんそんなことは全然ないわけで、英語なんて社会人になってから、TOEIC得点100未満から始めたし、家内と一緒になる時は、母親や親戚から大反対。移住の準備金だって、結果的に30年近くかかって稼いだもの。

結局のところ、多くの日本人って、貯金、保険、子供の教育などなど「将来に備える」と言いながら、今現在の生活の質を犠牲にしている気がします。その割に、その「将来」の具体的なビジョンがあるわけでもなく「漠然とした不安」があるばかり。歯を食いしばって、将来のために耐えているはずが、その将来はいつまで経っても将来のまま。

その対局にあるのが、フィリピン人のメンタリティ。今を楽しみ過ぎて、明日の食い扶持のことさえ忘れてしまう、ある意味とてもハッピーな人たち。実はどっちもどっちで、程度の問題なんですけどね。

そんなこんなで、50歳も過ぎて定年が近づいてから。職場や家庭で若い頃から我慢してきたことって、一体どんな意味があったの?と気づくわけです。これは切ない。現在フィリピン・ネグロス島で、ほぼストレス・フリーに暮らしている私ですら、例えば20代でこれに気づいていれば、もっと納得度の高い人生だったかもと思う次第。



2023年6月12日月曜日

いかに50歳で日本から脱出したのか 後編

 前回は、フィリピン・ネグロス島への移住を、どういう経緯で思いつき、決断したかを語りました。今回は、そこから十年かかった準備期間で、具体的に何をやったかを書いてみます。

まず何はなくてもお金。そこから貯蓄する目標金額の設定と、50歳到達時の退職金を再度のチェック。これは突発事故でもない限り、見通しが大きく外れることはないでしょう。詳細は省きますが、合計が数千万円にはなる見込みで、これがあったからこそ退職してネグロス移住を決断した次第。その根拠が年間約100万円の生活費と算出したから。実は恥ずかしながら、宝くじも買ったりしましたけどね。

つまり、最初からフィリピンで働く意思はありませんでした。結果的に無職になったのではなく、確信犯。もう私たちの世代(1960年代生まれ)では、退職金と年金だけでは夢のまた夢の「悠々自適」ってやつを、やってみたかったんですよ。こう書くと、現役で働いておられる20〜40代ぐらいの人からは、思いっきり反感を買うでしょうねぇ。

ただ、大まかには何とかなるとの目処が立ったとは言え、ここからの詰めがとても大事。

お金の次が住環境。すでに移住を決めた時点で、家内名義でネグロス島に600平米の宅地を購入済み。今でも日本に比べるとネグロスでは格安の土地価格。20年以上前には、市の中心部に近い閑静なエリアであったにもかかわらず、200万円もしなかった記憶が。ローンすら不要でニコニコの現金払い。ちょっとした自家用車を買うぐらい。

若干怖かったのは、実際の支払い。メトロバンク(フィリピン最大手の銀行)大阪支店から義母の口座に振り込んで、地主に払ってもらいました。高校教師である義母は100パーセント信頼してるものの、フィリピンの銀行への不信感がなかったと言えば嘘になります。何しろ高額ですからねぇ。なのでランドタイトル(土地の権利書)を手にした時は安堵しました。

さらには、たまたま知り合った大阪在住の一級建築士に、自宅の設計まで依頼する気の早さ。この方、日本の団地への見識と愛情で知られた、その道では有名人。こんな風変わりな依頼を面白がって受けていただき、移住の何年も前には基本設計が完了。

この件、我ながら上々の判断だったと思うのは、限られた原資で10年15年と暮らすには、居心地の良い住居が必要不可欠だったから。若くて毎日働いているなら、そこそこの寝ぐらでも構いませんが、毎日が日曜日状態となったら、それ相応の広さと居住性が維持されてないと、またぞろ心を病んでしまいます。それに頻繁に出歩いて外食ばかりでは、いくら物価が安いネグロスであっても、年間100万円程度ではとても暮らしていけません。

結果的に建築士さんの図面からは、かなり変更させてもらいましたが、出来上がったのが母屋と離れを合わせて、寝室が6つ、トイレ・シャワーが4つ、リビング・ダイニングが2セットある、家族3人には贅沢すぎる間取り。もちろん庭付きで、バックヤードには四畳半程度のバンブーハウスもあります。

とまぁ、箱モノは準備万端ですが、一番大事なのは心と体の健康。どんなにすばらしいハードウェアがあっても、ソフトがポンコツだと使い物にならないのと同じ。

もともと週一でテニスをしていて運動習慣はあったものの、最寄りのテニスコートへの行き帰りを電車から自転車に切り替えました。当時住んでいた大阪の茨木市から、吹田や豊中までは結構なアップダウンがあって片道が10キロ以上。真夏など、コートに着いた時点ですでにヘトヘト。でもこれって移住後に経験が生きました。全然知らなかったんですが、海沿いが平坦なネグロスは、サイクリングの適地。サイクル野郎も結構多いんですよ。

そして定年後の生活に欠かせないのが趣味の充実。デザイナーだったので昔からイラスト描きは大好きで、それに加えて始めたのがアマチュア・コーラス。参加したグループがかなり本格的で、年に一回ホールを借りて、テレジアミサ曲のようなクラシックの声楽曲を歌ったり。プロの指導でボイストレーニングしたのは、この時が初めてでした。

意外にも役立ったのが、ミクシイの日記。学生時代から本の虫だった私は、読書量は多くても書くことはほとんどなかった。ところが二、三十人程度のマイミクさんに読んでもらうだけでも励みになって、フィリピンのことや2005年に生まれた息子のことなど、せっせと投稿。大袈裟に言うと、このブログにつながる文体が、この時に確立されたように思います。

ということで、意図的に仕組んだものと、意識せず結果的に伏線となったものが上手い具合に結びついて、移住後十年が経過。一応は予想以上の成功と言えるでしょう。もちろん途中でいろんなトラブルがあって、軌道修正を余儀なくされた事柄も多々あれど、ある程度の準備と臨機応変な姿勢があれば何とかなるもの。まぁやってみないと分からないことも多いですからね。

最後に強調しておきたいのが、健康の大切さ。本当は運も大切なんですが、こればかりは人事を尽くして天命を待つしかない。不測の怪我や病気には、いくら気をつけても逃げられない時があるものの、生活習慣で守れる部分も大きい。これは海外移住とは無関係に、どんな人生でも最重要課題ですから。



2023年6月8日木曜日

いかに50歳で日本から脱出したのか 前編

 前回はなぜ私が、50歳で日本の企業を早期退職して家族でフィリピンに移住したかを、ツラツラと書き記しました。今回はその実行編です。

フィリピンへの移住を思いついたのは30代の終わり頃。フィリピン人の家内と一緒になって数年経ったぐらいの時期です。実はちょうど海外担当を外れて、日本国内市場に仕事が移ったタイミング。当時の海外業務は、開発は日本で行なっていたものの、最終決定権は現地法人の社長にありました。輸出は縮小して現地に工場と生産技術、企画・営業機能を移してましたからね。

つまり、その社長と数名のブレイン的な部長さんで、実質的な仕事が回っている状況。極端に言うと、国内でまったく理解されなくても、現地の社長がゴーサインを出せば問題なし。これは実に快適な環境でした。プレゼンがすべて英語だったのも大きいでしょう。なぜなら参加する日本人スタッフはノン・ネティブが多くて、微妙なニュアンスが分からないこともあり、発言も返答も変な含みがなくストレート一本。次までに何をすればいいのかの答えが出ているので、ストレスも少なかった。

そこから180度違う日本向け業務。前回恨みを込めて書いたように、物事が決まらない上に、やり直そうにも指示が曖昧すぎて、謎解きのような会議の連続。精神的に疲弊しまくっていた時にフト浮かんだのが、家内の故郷フィリピンへの移住でした。

さて、そこからが人生の分かれ道。「ここではないどこか」的な願望は誰でも持つでしょうけど、本気で実現の道を模索する人は少数派。私はどうやら、その変わり者の一人だったようで、思い立ったが吉日が如く、早速フィリピン・ネグロス島での生活をシミュレーションを始めました。

シミュレーションと言ってもそれほど大層な話ではなく、日々の生活の金勘定。食べ物や気候、言葉と生活習慣は、仕事や家内の里帰り同行で長期滞在の経験があるので、適応できるかどうかは体感的に分かってました。

何ヶ月か考えた末に、50歳まではちょっと無理という結論に到達。インターネットでのビジネスが今ほどの広がりはなかった当時、40歳直前の私が持っていた職業スキルと言えば、日本企業の中でしか通用しないものばかり。私が料理人だとか美容師だったなら、すぐにでもビザ取得に走り出してたんですけどね。もちろん手に職があっても、フィリピンでの起業はそれほど簡単ではありませんが。

ただ逆に言うと、ある程度のまとまった資金があって、住宅を始めとする生活基盤を確立して、年金支給の65歳まで食いつなぐ前提ならば、50歳からが最適。マニラやセブでは無理でも、家内の実家シライならば、年間100万円もあれば、みじめにならない程度の生活レベルは維持できそう。実はこの読みがまんまと当たって、あれから20年経って景気がよくなり物価が上がったフィリピンでも、シライに住んでいる限りは、まだかなり余裕があるぐらい。

さて、そこから50歳までの10年も、相変わらずの我慢の日々だったのですが、ぼんやりした夢ではなく、実行を見据えた移住計画があったお陰で、なんとか凌ぐことができました。やっぱり人間には希望が必要なんですね。また具体的なビジョンがあると自然と頭のアンテナが張り巡らされて、将来に繋がる情報を得たり、素晴らしいその道の先達の方々と出会えたり。

結果的に焦って走り出さず、十年の助走期間があったのはプラスに作用しました。まぁ十年はちょっと長すぎで、二〜三年ぐらいで良かったんですけど。

ということで、移住までの十年で何をしたかを書く前に、ざっと1,500字も費やしてしまったので、次回に続きます。



2023年6月6日火曜日

なぜ50歳で日本から脱出したか

 今回のテーマは、このブログの核になる命題。今までも機会がある度に散発的に書いてはきましたが、改めての自己紹介代わりに、ひとまとめに記そうと思います。

なぜ50歳で日本から脱出したか? 身も蓋もなく単刀直入に言うと、日本で働くのがもう無理になったということに尽きます。まさしく脱出。口の悪い人は、日本を捨てたとか逃げたなんて後ろ指を指しますが、まぁ何とでも仰ってくださいまし。

とは言え、選択肢は無限にある脱出先。その中からフィリピンを選んだのは、妻がフィリピン人だったのが唯一の理由。そしてフィリピンの中でもマニラでもなくセブでもなく、増してやアンヘレスでもバギオでもボラカイでもボホールでもない、ここネグロス島の、さらに州都ですらない、地方都市シライ市に住んでるのは、その妻の実家があったからに他なりません。

日本に比べると物価が安いとか気候が温暖だとか、英語留学の謳い文句に出て来るような有象無象は、全部後付けの理屈でございます。もっとはっきり言ってしまうと、家内以外のフィリピンの人々が、他の東南アジアの諸国民と比べて、飛び抜けて好ましいと思ったわけでもありません。

もし家内がタイ人だったら、あるいはヨーロッパのどこかの国の出身だったら、おそらく、よほど住むのが難しい場所でもない限り、少なくとも妻の故国は、どこであれ移住先の候補にはなったでしょう。

さて、本題に戻ってなぜ日本ではもう働けないとなってしまったか。正確には「日本では」はちょっと大き過ぎて、当時在籍していた会社では、と書くべきでしょう。なんて言うと、さぞやひどい労働環境だったのかと思われそうですが、話はそれほど単純ではありません。

ちなみにその会社。日本でも有数の大企業で、従業員は海外含めると数十万名。給与水準は業界でもトップクラスだし福利厚生も決して悪くない。日本から来る就活中の若い人たちにこの話をすると、「どうしてそんな勿体ないことしたんですか?」と驚かれます。

ただ図体がデカいだけに、その内部はまさに日本社会の縮図。部署や上司に極端なほどの当たり外れがあるのも事実。実際40代の頃に在籍した職場は、転職者や心を病んで休職者が相次ぐブラック職場。かく言う私も、転勤半年で休職者リストの仲間入り。結局その部署の責任者でブラック総元締めのようなオっさんは、私が別の職場に異動後そのポストを外されて退職しました。

その経験が、直接的には日本脱出の引き金になったのは間違いないんですが、もっと前から感じていたのは、その会社の、と言うより、日本の大きな組織特有の不条理さ。とにかく物事がすんなり決まらない。一つの商品の仕様を決めるにも、根回しのために膨大な資料を用意。その挙句に何ヶ月もかかって関連部署と積み上げた合意を、会議に欠席したトップの、後出しの一声で全部やり直し。これは相当メンタルがタフな人でもキツい。

それでも業績が良くて、日頃の労苦も報われる額の賞与が出るうちは頑張れたんですが、2000年代に入ると、中国や韓国メーカーの猛追を受けて業績が悪化。給料が目減りするのと同時に、やれコンプライアンスだセキュリティだと社内ルールがどんどん厳格に。ただでさえ物事が決まりにくかった会議に、「エビデンス」流行りで資料がどっと追加になる有様。行き着く先は、お決まりの希望退職者の募集というわけです。

そもそも30代の後半には、出世レースから早々に降りてしまった私。管理職ではなかったお陰で、幾許かのボーナスは貰っていたと言うものの、元より条件が整えば、いつでも辞めてやろうと待ち構えていました。当時は希望退職ではなくても、50歳到達と同時に退職金が相当額の上積みになるシステムもありましたから。

そんな具合に、最上段に振りかぶっていたところに、飛んできた絶好球。タイミングもぴったりの50歳になったその年。募集開始日にフルスイングして28年間のサラリーマン生活に終止符を打ったわけです。

もちろん、いきなりその結論ではなく、何度か転職のトライはしました。ただ会社を変わっても、同じレベルの給料となると、転職エージェントが紹介してくるのは、日本国内の同じ業界になってしまいます。かと言って中国や韓国メーカーは提示する報酬が高い代わりに、求められる能力も高いんですよね。

結局のところ私は、日本式の組織に不適合だったんでしょう。専門職としての手腕も大したことはなかったし。なので早期退職してフィリピンに移住したことには、まったく後悔はありません。むしろ、もっと早くに日本から脱出すれば良かった。

本当に正直に言って、日本で機嫌良く仕事ができて収入もそこそこあり、子育てや老後の暮らしに大きな不安がなければ、還暦を母国で迎えていたのは間違いない。決して挑戦的に前向きに移住したのではなく、進退極まって文字通りの脱出。

ということで「なぜ」の問いには一応答えたので、次回は「いかに」を語りたいと思います。



2023年6月4日日曜日

フィリピン人だって喧しいと眠れない

 フィリピンに移り住んだ日本人が、なかなか慣れないことの筆頭なのが騒音の問題。もちろん飛行場とか幹線道路を走るトラックの話ではなく、昼夜関係なく近隣から流れて来る大音量の音楽。私の住む宅地、セント・フランシス・ビレッジは、手前味噌ながら、市内でも最高級の部類なので、さすがに貧困層が多い建て込んだ市街地に比べると静かなもの。

それでも、家族や親戚が海外出稼ぎで一山当てて、成金になって分不相応な家のオーナーになった人が、たまに田舎の親戚を集めて、深夜から朝方までドンチャン騒ぎすることもあります。

さらに月に一回ぐらいの頻度で、市内のバランガイ(町内会)が、週末にやるフィエスタ。これが業務用のバカでっかいスピーカーで、終夜屋外ディスコやカラオケ大会。距離があるので、我慢できないほどではないけれど、重低音の「ドスドス」が耳障りで眠れない時もあります。わざわざこのために、日本に一時帰国した時に耳栓を買いましたよ。

これは本来、飛行機の機内などで入眠する時に使うもの。耳栓とノイズキャンセル機能付きのヘッドフォンを併用すると、かなり防音効果が高いとか。そこまでの投資をする気はありませんけど。

このブログでも何度も取り上げたこの話題。つい最近まで、フィリピン人なら全員この手の騒音には耐性があって、誰も気にしてないんだと思い込んでました。何しろ「これはフィリピン文化だ」とイバる人もいるぐらい。

ところがやっぱりそうでもなかったらしい。と言うのは、私のイロンゴ語の家庭教師バンビの旦那さんのマイケル君。実際は入籍してないので、バンビはパートナーと呼んでますが、事実上の夫婦。

このマイケル君。今年(2023年)になってから、隣島パナイの州都イロイロ市で働いてます。仕事はコンピューターのプログラミングで、給料も悪くない。通える距離ではないので、週末だけフェリーでネグロスに帰り、平日は職場近くの寮で寝泊まり。

問題は、その寮の隣人。ずいぶん安普請の建物らしく、部屋を分けるのがベニヤ板の薄い壁で、その隣人が毎晩友人と酒を飲んで大騒ぎ。その上、近所に住む人たちが深夜に大音量のカラオケをやるので、可哀想なマイケルは慢性的な寝不足になっている。

私だったら即刻大喧嘩になるか、トットと寮を出ていくでしょうけど、家賃が安いし気が弱くて文句も言えない。せっかく週一で帰宅してもほとんど寝てるそうで、気の毒なことこの上なし。同情のあまり、未開封の耳栓を2セット進呈しました。

バンビに訊いてみると、文句も言えないのはともかく、マイケルが特別デリケートで騒音に弱いわけでもない。バンビ曰く「フィリピン人は、隣近所への配慮がなさ過ぎる」。騒音問題に関しては、フィリピンでもかなりの割合で、不満を抱えている人がいるんですね。そりゃ同じ人間ですから。

ここからは例によって私の推測ですが、これは貧富の差と比例するような気がします。つまり、貧乏人ほど喧しい音楽を好むという法則。考えてみると、結婚するまでフィリピン大学で研究員をやっていた家内。友達付き合いする人は、頭脳明晰で家柄も良く富裕層出身者がほとんど。

もちろん音楽は好きな人も多いけど、音量や聴く時間帯は、ほぼ一般的な日本人並みの節度があります。正直なところ、移住前まではそういう人たちしか知らなかったので、実際に住んでみて驚いた次第。ここまで無節操とは思いませんでした。

聞くところによると、深夜の大音量音楽は、その子供たちにも悪影響があって、宿題ができない上に宵っぱりになって、授業中に居眠ったり。貧困から抜け出す唯一の道である教育をもダメにしてる。そう考えると、単に近所迷惑というだけでなく、フィリピン社会の将来にも暗い影を落とす、悪しき習慣なのかも知れません。



2023年6月1日木曜日

この台風バグっとる


出典:ウェザーニュース

 もうバグってるんじないかとさえ思ってしまう、今回の2号台風フィリピン名ベティ。強さも並外れていますが、長引く影響力とんでもない。かれこれ4日も前に、フィリピン・ネグロス島のはるか離れた海上を通過して、6月1日現在は台湾の東なのに、今日も朝から土砂降り。

グアム島に襲来した時に比べるとかなり勢力は弱まったとは言え、中心付近の最大瞬間風速が秒速40メートル。まだまだ油断できません。すでに沖縄は強風圏に入っていて、さらに九州にも強い雨を降らせているようです。

普通の台風だったら、この段階でネグロスは静かになっているはずが、むしろ通過してからが連日の強風と大雨。最接近時の風で送電線がダメージを受け、西ネグロスの各地が停電が相次いだ話は先日投稿した通りながら、昨日・今日とオレンジアラーム(フィリピンの大雨警報)が発令され、シライ市内の全学校が臨時休校。引き続き風も強いので、猛烈な雨が室内に吹き込んで床がビチャビチャ。これでは窓を開けることもできない。

お天気アプリで雨雲を見て恐ろしくなったのは、九州からフィリピン、さらにはインドネシアを越えて、はるかインド洋にまで伸びる、ほうき星のような長大な雨雲。まるで巨大な吸引機でインド洋から雨雲を吸い込んでいる状況。ちなみにフィリピンの天気予報って、分かりにくい上に当たらないので、最近はアプリと日本の気象庁が頼みの綱。

それはともかく、例年4〜5月が乾季で暑く、6月に入った途端に雨季なので、季節の移り変わりは順当と言えるネグロス島。ただ台風が引き金になったのは、この十年の移住生活で記憶がありません。いつもなら、市長が休校を指示した時は大抵空振りで、昼前には日差しが戻って「市長が宣言出したら雨が止む」と揶揄されてたのが、今回に限っては、子供を休ませて良かったと思うほどの土砂降り続き。

過去フィリピンでは、ジプニーが土砂崩れに巻き込まれ、乗っていた登校中の子供たちが亡くなるという悲劇がありました。特に山間部に住んでいたり、橋のない川を渡し船で通学するケースが多いシライ。児童の安全には神経質なほど気を遣っています。

とまぁ、そのプロセスは異例だったとは言え、雨季の始まり自体は結果的に例年通り。羽虫が大量発生し、朝晩は扇風機も不要なほど気温が下がり、セミが弱々しい声で鳴き始めます。ネグロスのセミは日本とはずいぶん違って、盛夏には鳴かず、雨季の日差しが弱い時期に活動開始。

...と、ここまで書いたら、夕刻にはやっと雨が弱まってきました。さすがに台風の中心が2,000キロも遠ざかったらそうなりますわなぁ。ほぼ5日振りぐらいに、激しい雨音もビュービューという風の音もない、静かな夜を迎えたネグロス島です。

ということで、今度は日本列島を射程圏内に収めたベティ。最新の天気予報だと本土上陸の可能性は低いながら、進路に近い地域ではこの土日に大雨が降るかもしれません。日本の皆さま、どうかご無事で。

蛇足ながら日本の天気予報って、親切で分かりやすいですね。