2015年8月31日月曜日

8月のメリー・クリスマス

以前、英語で9月〜12月(September / October / November / December )は最後が er で終わって、この4ヶ月だけがまとまっているのは、この時期がクリスマスシーズンだから...というような投稿をしました。もちろんこれは冗談で、他のキリスト教文化地域に比べても特別クリスマス好きなフィリピンの国民性を、少々誇張したつもりでした。

ところが最近知ったのですが、ちゃんと「Ber Months」(バー・マンス)という言い方があるんですね。この国独特の言い回しで、「バー・マンスだからクリスマス・ツリーを飾らなくっちゃ。」という感じで使います。日本だったら、まだクソ暑い時期に何を寝ぼけとんじゃ!と総ツッコミが入りそう。いつでも暑いフィリピンでは、あんまり関係ないのか?

しかしさすがのフィリピン人でも、9月の声を聞くまでは自制してると思ってたら...フライングしてしまう奴がいるようです。まだ8月20日過ぎぐらいに、偶然訪れた隣市バコロドのショッピングモール。日本のコーナンによく似た感じのDIY用品や生活雑貨を置いている、通称「ハード・ウェア」と呼ばれる店。もうかなり大々的にクリスマス商戦が始まってました。


「早々にツリーを出したけど、飾り物が足りなくなってる。」というようなお客さんを狙ったのか、ツリー本体ではなくデコレーション用の小物がずらり。高額なテナント料が必要と思われるネグロス島内でも一等地の商業エリアなので、伊達や酔狂でやっているとは思えません。それなりに勝算はあるんでしょうね。

さて、明日からいよいよバー・マンス最初の9月。我が家でもそろそろ飾り付けを始めようかな?


2015年8月30日日曜日

永遠の夏休み


ふと気がつくと8月もあと数日。日本では多くの学校で夏休みが終わる頃。ここフィリピン・ネグロス島で暮らしていると、年中夏。多少変化はあると言っても、初夏〜梅雨〜盛夏の繰り返しのようなものなので、季節感はほぼ皆無です。

しかしネットのおかげで、移住前に想像していたような浦島太郎状態でもありません。例えばお天気。フィリピンでも台風が接近したりすると、頻繁に気象情報がテレビでもネットでも頻繁に更新されますが、日本の恐ろしくキメの細かい天気予報や、ほとんどリアルタイムの雨雲レーダーの画像などに比べると大雑把。

海外にいるのに、日本の酷暑の状況などは気象台やニュース報道に加えて、ツィッターやフェイスブックを通じて知り合いの生々しい声や写真が伝えられるので、フィリピン国内の他地域ことよりも遥かによくわかります。それ以外にもこの夏は政治絡みの事や、東京オリンピックの競技場やらシンボルマークのデザイン問題で騒がしかったですね。

そういう環境なので、遠く祖国を離れて異国暮らしという感覚は今ひとつ希薄。日本との時差も1時間しかないし、食材はだいたい日本と同じものが手に入るので、日本食恋しさでホームシックになることもない。要するに日本にいた頃の夏休みが、ず〜っと続いているようなもの。

正確に言うと、社会人になってからの夏季休暇ではなく、小学生時代の夏休みに祖父の田舎、長野に長逗留してるみたい。シライ市では、日本の都心部の狂ったような蒸し暑さとは無縁で、本当に40年程昔の長野の田舎にそっくり。裏庭で茄子やオクラを収穫していると、まるで昔に戻って長野に帰ったのかと錯覚を起こしそうです。

特にこの時期、午前中は晴れて暑くても昼過ぎから夕刻にかけて、毎日盛大に入道雲が湧いてくる。その景色を見ると、永遠に続く夏休みの世界。早期退職して心底良かったと思える瞬間です。


2015年8月27日木曜日

チャコの母猫


日曜日に突然死んでしまった仔猫のチャコ。まだまだ引きずってます。自宅の周辺には野良猫が多く、猫が視界に入る度に思い出してしまう。最近のネットに溢れかえる猫の写真も目の毒ですね。特に可愛い仔猫。

チャコの死の翌朝、家内とメイドのアミーがチャコの母親らしき猫を見たそうです。チャコと同じ茶トラ。まだ私が寝ていた早朝、我が家の玄関先をうろついていたとのこと。私がチャコを拾った時、周囲に他の猫の姿はなく、てっきり親にはぐれたと思い込みましたが、本当は餌でも探しに出てただけなのかも知れません。見捨てられたわけではなかったのかなぁ?

もし、その茶トラが母猫だったとしたら、結果的にチャコを殺すためにさらって来たようなもの。それでなくてもずっと罪悪感に苛まれていたのに、これは追い打ち。痛た...。

もうひとつ気を重くしてくれたのが、SNSでの書き込みでした。「ペットが死ぬのは飼い主の病気を肩代わりしてるから。だからちゃんとお祈りしてください。」どこか外国の俗信みたいなものらしい。それにしても飼い猫が死んで落ち込んでる相手に言うには、ちょっとデリカシー無さすぎのコメントですね。


2015年8月25日火曜日

ノー・モア・雨漏り

自宅の新築工事が終わって1年。2階ベランダの下にある部屋で、4箇所も同時に雨漏りし始めたのが今月(8月)の始め頃。この時期は台風が多く、直撃はしなくてもフィリピン東の沖合を通過するだけで、インド洋からのモンスーンを吸い込むような形にり、強烈な豪雨が続くことが多い。石垣島を始め、日本にも大きな被害が出た15号台風も、典型的にこのパターン。

雨漏りって実に嫌なものですね。兵庫県尼崎市の実家に住んでいた頃、ちょうど新築間もない時に阪神淡路大震災が発生。鉄骨構造の3階建て住宅だったので倒壊はしなかったものの、壁や屋上床に亀裂が入ってしまいました。建築士で施工会社を営んでいた父は他所の家の修繕に走り回り、自宅は半年ぐらい放置。その年の梅雨、3階の私の部屋はかなりひどい雨漏りに。石膏ボードの天井に「ポトッポトッ」と雫の落ちる音に、ノイローゼになりそうでした。

実は新居ができる前の借家でも雨漏り。フィリピンに移住してまで雨漏りに悩まされ続けるとは、私は余程の水難の相の持ち主らしい。もう雨漏りとは縁を切りたい!...ということで、対処療法的なやり方ではなく、根本的に解決するためにベランダの上に鉄骨で屋根を葺くことにしました。

自分で簡単な図面を描いて、家内の友達から紹介してもらった施工業者に相談。話は順調に進んで、建材を購入したのが先々週の金曜日。先週の火曜日から工事が始まりました。途中大雨で1日だけストップしたものの、土曜日以降雨も止んで本日(火曜日)、着工から1週間で屋根が完成。



やはり後付けなので不自然な感じはしますが、背に腹は代えられません。それでも想像していたよりは、かなり良い仕上がり。ベランダは完全に屋根に覆われて以前の開放感は無くなったけれど、雨はもちろん熱帯の日差しも遮ってくれるので、なかなか快適な空間になりました。

今度こそ、これで大丈夫!(...のはず)







2015年8月24日月曜日

5日目のお別れ チャコ帰天

仔猫のチャコを拾って来てからずっと恐れていたことが、あっさり現実に。昨日のお昼までは元気に「に〜に〜」鳴いていたのに、お昼を済ませてチャコにもミルクやろうとケージを見ると、もう死後硬直。去年の仔犬2頭タロとジロの時と同じか、それ以上の呆気なさでした。

やっぱり牛乳が体質に合わなかったのか? はっきりした死因はまったく不明。たまたま日曜日ということで、一番一生懸命チャコの世話をしていたアミーは、半日休みで祖母の家に行って不在。すぐには埋めず、棺桶代わりに食材が入っていたプラスティックのトレーに乗せて、倉庫に安置しました。(こうしておかないと、アリやハエがたかってしまう)

この日は家内の学生時代の友人たち3名が遊びに来る予定で、早めに夕食の準備。この作業のお陰で多少なりとも気が紛れました。それでも頭の中は、罪悪感でいっぱい。道の真ん中でたった一匹で鳴いていた仔猫。このままだと死ぬかもと連れ帰りましたが、道端の草むらにでも隠しておけば、母猫が戻って来たかもしれません。

死なれるのが辛くて、50歳過ぎまでほとんどペットは飼わず、去年成り行きで仔犬2頭を飼い始めたものの、1ヶ月で2頭とも急死。性懲りもなくとは、このことですね。特に今回の仔猫の場合、わざわざ自分で拾って、結果的に死なせるために連れてきたようなもの。

夕刻帰宅したアミーに「悪い知らせ」を告げました。アミーは見る見る大きな瞳に涙をためて、動くかなくなったチャコをしばらく抱っこ。チャコが我が家に来て、たった5日目のお別れになってしまいました。う〜ん、やっぱりそう簡単に生き物飼い始めるもんじゃないなぁ。今度こそ、もうペットは飼わないぞ。


裏庭に三つ目の墓標を立てることになってしまった


2015年8月22日土曜日

仔猫のチャコ

次回に続きますと書いておきながら、ちょっと間が空いてしまった我が家の仔猫の話。実はあんまり立て続けに話題にして、すぐに死んでしまったりしたらどうしようと心配してました。1年ほど前、新居への引越しと同時に仔犬二頭を貰い、可愛がって育てていたのに、ほんの1ヶ月ほどで二頭とも相次いで急死。この経験がすっかりトラウマになっているようです。

「猫の飼い方」でネットで検索かけて、いろいろ調べました。牛乳はお腹を壊しやすいので猫用ミルクがいいとあれば、早速近所のスーパーに走りましたが、シライは田舎過ぎてドッグフードはあっても、猫用ミルクはおろかキャットフードを売ってない。家内に言わせると、猫なんて残飯食わしておけばいい...そうです。

また、仔猫は寒さに弱いという記述を見つけると、毛布を用意しそうになりました。おっと、ここは熱帯のフィリピンでしたね。もう仔猫の可愛さと小ささに目が眩んで、50過ぎのオッさんが我を忘れております。

こう書くと私がつきっきりで世話してるように思われますが、実際にはメイドのアミーが文字通りの「猫可愛がり」。運良くこの仔猫は牛乳は大丈夫なようで、まるで人間の赤ちゃんのようにアミーが数時間毎に飲ませています。授乳用に一番小さな人間用の哺乳瓶も用意。それでもまだ猫が小さすぎて、乳首に吸い付くというより齧り付く感じ。


寝床は以前、仔犬用に購入したケージにボロ布を敷きました。やっぱり母猫が恋しいのか、時折布に頭を埋めて「に〜に〜」鳴いているのは少々哀れです。ミルク飲んで眠っていると、死んでやしないかとつい揺り起こしたり。


食後の舌ペロのポーズ

さて、名前はどうしようか?。家内と話を振られるとつい悪い癖が出て、スタートレックの登場人物の名前を持ち出してしまいます。カーク?ピカード?アーチャー?(歴代艦長の名前) アンドロイドが飼っていたスポットという猫がいたな...。ん〜、どれもピンと来ない。チャコティ(宇宙船ボイジャーの副長)は?と言うと、すかさず家内が「チャコ」がいい。ということで、仔猫(オス)はあっさりチャコになりました。

我が家の家畜は、犬にしろ鶏にしろすぐ死ぬか脱走してしまう傾向にあるようです。チャコよ、今度こそ長生きしてこの家に居ついてくれよ。


2015年8月21日金曜日

英雄の日 〜アキノ氏暗殺から32年〜

8月21日は「英雄の日」。英雄とは1983年に当時のマルコス大統領の独裁政権下で、亡命先のアメリカからの帰国直後にマニラ国際空港(その後ニノイ・アキノ国際空港に改名)で射殺されたニノイこと、ベニグノ・アキノ上院議員のこと。この事件が発端で無血革命が起き、マルコスは国外へ亡命し、アキノ氏の妻コラソンが次期大統領に就任しました。以来、アキノ氏が殺された8月21日はフィリピンの国民の祝日。息子の学校もお休みでした。

フィリピンでは、英雄と称えられ死後も人々に慕われるには、非業の死を遂げることが必須条件のようです。この感覚は日本人にも共通するところが多い。例えば源義経。一ノ谷や壇ノ浦で平家に圧倒的な勝利を収め軍人としては天才でした。しかし政治がまるで理解できず、それが原因で兄の頼朝に疎まれて最後は味方に殺されてしまいます。のちに「判官贔屓」という言葉ができるほどの国民的アイドルになりますが、後世に与えた影響の大きさは、どう考えても頼朝が上。

その他にも、日本史でいうと織田信長、赤穂浪士、坂本龍馬...その最期が悲劇的であればあるほど、人気も高い。フィリピンの場合も同様で、独立運動の思想的リーダー、ホセ・リサールは35歳でスペイン軍により銃殺され(吉田松陰?)、独立の指導者、アンドレス・ボニファシオは33歳で政敵アギナルドにより処刑されています(西郷隆盛?)。

その系列に並ぶのがアキノ氏。現在流通している高額紙幣の500ペソ札に肖像が使われているのも当然。とは言っても、もしアキノ氏が死なずに大統領になっていたら、その評価はどうだったでしょう? 最初は熱烈な国民の支持を受けたであろうことは容易に想像できますが、今に至るも改善されない貧困問題には手を焼いたと思います。これは誰が大統領でも難しい。


アキノ氏はフィリピンに帰れば殺されることを十分予期していたらしく、周囲の人たちにもそう語ったとのこと。そのタイミングで死ななければ英雄になれないと、悟っていたのかも知れませんね。


国語週間 〜新・フィリピン言語事情〜

日本は単一公用語の国で、方言はあっても意思の疎通ができないほどの違いはないと思います。しかし、この状況は明治維新後に意図して作り出されたもの。廃藩置県で人の移動が急に自由になった時には、相当困ったことになったそうです。私が中学生の時、国語の先生から聞いた逸話で、東京帝大に入学した東北出身の学生と九州の学生が言葉が通じず、仕方なしに英語で喋ったということが実際に起こったらしい。

現代日本語では、政治・思想から専門技術、小説や詩歌などの芸術分野まで、自由に表現することができますが、これは明治期に膨大な量の翻訳語が作られ、政府が制定した標準語の普及に努力したから。例えばベースボールを「野球」と訳したのは俳人の正岡子規。「投手」「捕手」「打者」「盗塁」「安打」「本塁打」などなど、子供の頃から深く考えずに使ってる言葉ですが、全部英語から訳したのですから、英語の読解力と日本語(漢語?)のセンスはすごいですね。

さて、フィリピンの場合もスペインから独立するまでは、似たような状況でした。母語として使われる言語は85〜87もあって、その相互が意思疎通が困難なほど違っている。主要なものだけでも、タガログ・セブアノ・ヒリガイノン(イロンゴ=家内の母語)・ボホラノ・ワライ・ビコール・イロカノ・パンパンガの八つ。1930年代に公用語の問題が大論争になったそうです。(という議論は何語でしたんでしょうね? 多分スペイン語か英語?)

結局1937年、時の大統領ケソンが、首都周辺の言語であるタガログ語を国語の基礎として採択するという宣言を行いました。1955年になって「国語の父 ケソン大統領」の誕生日に由来する8月13日〜19日が「国語週間」(National Language Week)になったそうです。今でも週の最終日には、全国の学校で子供達がフィリピンの伝統衣装を着て登校することが奨励され、昨日はフィリピン国籍を持つ私の息子は、独立を賭けてスペインと戦った兵士「カティプーナン」も着用していたという、当時の服装をして出かけました。

それにしても、日本と違うなぁと思うのは、タガログ語を基礎とするフィリピノ語が公用語として採用された後も、各地の母語・方言がそのまま残されたこと。ただ残ってるだけではなく、最近では「マザー・タング」として小学校できちんと教えています。母語への誇りも高く、人口比で言うと最大勢力のセブアノが、なぜ公用語にならなかったのか?といまだに不平を言う人もいるほどです。





下校時はまるで子供達のファッションショー


2015年8月19日水曜日

仔猫が家にやって来た

我が家の周辺の道端には動物がいっぱい。犬猫の類から鶏、山羊、水牛、たまに馬。夕立が降り出すと大人の手のひらサイズのヒキガエルまで。こいつらが車が普通に走るような道で「生活」しているので、運転してると危なくてしょうがない。

今朝も子供を小学校に送った帰り、仔犬がよろよろと私が運転する車の前を横切りました。幸いそれほどのスピードでもなかったのでハンドル操作と減速で余裕を持って避けましたが、この道では何度か昼寝してる犬を轢きそうになってます。

このニアミスの少し後に、生まれたてらしき仔猫の鳴き声を耳にしました。ほんとに細ぉい声で「み〜み〜」。でも草むらかどこかに隠れているようで、そのまま通過。

昼前頃、なぜか久しぶりにサイクリングでもしようと思い立ち、自転車で出かけようとすると家内に呼び止められました。「ついでに食パン買ってきて。」 私の自転車は荷台もバスケットも付いてないマウンテンバイクなので、そうなるとバックパックを背負わないといけません。

面倒臭いと思いつつ、最近オープンしたばかりの最寄りスーパーに向かう途中。偶然朝仔猫の鳴き声を聞いた場所にさしかかると...生後1週間経つかどうかというような、小さな小さな猫が、炎天下の道のど真ん中で「み〜み〜」。すっかり忘れてましたが、さっきの猫!


もし自転車ではなくて車だったら、轢き殺していたかも。道の脇に自転車を停めて、片手で持ち上げました。まったく警戒もせず、相変わらず私の手の中で「み〜み〜」。辺りを見回しましたが、他の猫はどこにもいません。

数秒の間に「こいつ連れて帰ったら家内が怒るかな?」「猫飼ったら天井裏のネズミを捕ってくれるかな?」「世話はメイドのアミーに頼めるかな?」などなど、たくさんの自問自答。まるで仔猫を運ぶためみたいに、空のバックパックまで用意してる。「この猫との出会いは運命やったんや」と自分勝手に決め込み、猫を背負って、さっさと元来た道を戻りました。

仔猫を見た瞬間の家内のリアクションは予想通り、やや嫌悪感の混じった驚き。汚がって触ろうともしません。対照的にアミーは大喜びで頬ずりせんばかりで、こちらも予想通り。私はそのまま仔猫をアミーに預けて、スーパーに向けてもう一度自転車を漕ぎ始めました。帰宅した時には当然バックパックの中には牛乳が。

次回に続きます。


2015年8月18日火曜日

身内のゲイ

東南アジア、特にタイではゲイが多いことが有名なんだそうですね。バンコクには仕事で何度か行きましたが、あんまりそういう印象は残っていません。それよりも、ここフィリピン。テレビでもゲイのタレントはよく見かけるし、売れっ子だとデッカい広告になってたりもする。最初見た時は、ちょっと引きました。

私の住むネグロスの言葉でオカマは「アギ」。田舎街のシライでもアギの人は実に多い。人通りの多い場所をものの10分も歩くと、一人や二人とは必ずすれ違うほど。(はっきりそれと分かる格好の人だけですが)

美容院では4〜5人美容師さんがいれば1人は、ほとんど確実にそうだし、意外に多いのがお店のレジなど、現金を扱う場所。フィリピンで経理関係の仕事は圧倒的に女性が多く、たまに男性がいると、まず間違いなくゲイ。

つまりフィリピンのゲイはカミングアウトしてる人も多いし、普通に働いている人も多い。私の知り合いにも、日本のNGOで働いていたゲイの人がいます。彼の場合、身なりは男性でメークなどもしてないので、言われるまで気づきませんでした。

しかし、だからと言って同性愛者が完全に社会全体に受け入れられているかと言うと、これはまた微妙な問題です。国民の大多数が信じるカトリックでは、少なくとも公式には同性愛は認められておらず、フィリピンでは同性婚などの法的承認はありません。

実は家内の従弟の一人がゲイ。名前は、カルロ。このカルロ君、両親が早くに離婚し、その後母親は日本に働きに出たので、子供の頃から伯母に育てられました。この母代わりの伯母さんは学校の先生で、どちらかというと保守的な考え方の人。カルロの性的嗜好については容認したものの、女装には反対。結局、高校を卒業するかどうかぐらいの時期に伯母の家を飛び出してしまいました。

その後、何年も音信不通でしたが、先日の叔父の葬儀の際、久しぶりに親戚のいる場所に顔を出しました。先週の息子の誕生日パーティにも来てくれて、約10年ぶりに会話。ちゃんと自活していて、アメリカの保険会社顧客の苦情などに対応する、オペレーターの仕事をしているそうです。

やはり、表向きは何も言わなくても、自分の家族がゲイとなると相当な葛藤があるようですね。


2015年8月17日月曜日

フィリピンのための祈り


3週間ぐらい前から、フィリピンの教会では、日曜日のミサの最後に特別なお祈りを唱えるようになりました。「オラショ・インペラタ(Oration Imperata)」というタイトルで、以下のような内容。グーグルと家内の助けで私が和訳しましたので、多少の意訳・誤訳はお許しください。

天と地、空と海を創られた全能の主よ
今、私たちの故郷フィリピンの西の海は緊張に満ちています
フィリピン諸島のあなたの子供たちを見守ってください

この島々と海の平和を祈ります
正義と人権尊重によって、この問題が解決されることを祈ります
この地の海洋生物とその生息地に、被害が及ばないことを祈ります
私たちの島々と海を防衛する同胞たちが、天災と人災から守られるよう祈ります

私たちにお恵みを与えてくださる、素晴らしい創造主である愛する神よ
勇気と対話の精神でこの危機を解決するために、
私たちの指導者たちに知恵と理解の精霊を送ってください

私たちがいつも、あなたの言葉に忠実に
あなたの意志に従順にいられますようお助けください

この祈りを主イエス・キリストを通してお捧げします
アーメン

原文はこちら

ここで言う「島々と海」とは、中国など周辺諸国との間で領有権が争われ、一触即発の状態になっているスプラトリー(南沙)諸島とその周辺海域のこと。日本人の感覚からすると、ここまで政治的・軍事的な事柄は、神さまへの祈りに馴染まないでしょう。

オラショ・インペラタとは、ローマ時代からある祈りの形式だそうで、災害や飢饉などの際に大司教(日本では東京・大阪・長崎が大司教区)の権限で制定される公式な祈り。日本語に訳すと「義務としての祈り」という意味になるのか? 「祈り」と「義務」こちらも日本語ではあまり馴染まない言葉同士。最近の日本だと「東日本大震災被災者のための祈り」がこれに相当すると思われます。

以前、ニューヨークの聖パトリック教会でミサに与った時に、これから戦地に赴く(時期的にはイラクへの派兵?)20名ほどの兵士たちが、軍服で司祭の祝福を受けていたのを見たことがあります。兵士の家族や友人からすれば、その無事を祈る気持ちは当然なんですが、この時も何とも言えない違和感を持ち、はたと考え込んでしまいました。

もし、日本がなんらかの紛争の当事者になり、日本の兵士や民間人が戦闘に従事したり巻き込まれたりする事態に至った場合、私はどんな祈りを捧げたらいいのでしょうか? また日本のカトリックの代表者は、どういう立場を取るのでしょう? 最近の日本での出来事を見ていると、真剣に考えないといけなくなる可能性がないとは言えません。



2015年8月16日日曜日

フィリピンでの終戦記念日

今年は第二次世界大戦で日本が、アメリカを始めとする連合国に降伏してから、ちょうど70年目。私は戦争が終わって17年後に生まれたので、もちろん当時のことは知りません。それでも終戦時に小学生だった両親から空襲のことや学童疎開、食糧難などについての生々しい話を幼い頃から聞かされていたので、戦争に対する恐怖や嫌悪の感情はかなり強く持っています。

しかし、日米戦の巻き添えを食ったフィリピンの被害について知ったのは、大人になってからでした。先の大戦での日本人犠牲者全部で310万人。それに対してフィリピンでの日本人の死者が51万人とのこと。実に第二次大戦で亡くなった日本人の、6人に1人がフィリピンで命を落としたことになります。私の父方の親族にも、出征後フィリピン近海で戦死した人がいました。

フィリピンに住んでいる日本人としては本当に心が痛みますが、さらに辛いのはフィリピン人が100万人以上も殺されたという事実。人間の死を数の多寡であれこれ言うのはあまり意味がないと知りつつも、この数字の前には呆然とするしかありません。



シライ市内に保存されている旧日本軍によるトーチカ

結婚してから家内に聞いてみたところ、戦争中のことは学校で詳しく学んだそうです。バタアン死の行進やマニラ市街戦。マッカーサーや日本の山下大将のこともちゃんと知ってました。(ゼネラル・ヤマシタの話は「隠し埋蔵金」の方で有名)

ところが今の対日感情の良さはどうでしょう。比較的最近でも日本人による買春ツアーや、じゃぱゆきさんなどネガティブな話題には事欠かないはずなのに、初めてフィリピンに来てから20年、一度も面と向かって非難されたりしたことはありませんし、日本人とのハーフである息子が、学校でいじめられたこともない。

理由はいろいろあるとは思います。日本の車やオートバイ、アニメやファッションなど日本のテクノロジーやカルチャーは憧れの存在。マニラにも、ここネグロス島にも日本の援助で建った空港のターミナルビルがあります。

でも、仕事やレジャーでフィリピンに来る人は、少なくともこの国と日本の間に、過去どんな経緯があったかの概略ぐらいは知っておくべきだと、強く思います。別に本一冊読まなくても、インターネットで簡単に調べられる範囲でいいですから。フィリピンで迎える終戦記念日に、そんなことを思いました。


2015年8月14日金曜日

6万ペソの使い道


先日投稿した築1年目の雨漏り騒ぎ。結局2階のベランダ全体と隣接するガレージの屋根の一部、合わせて60平米の広さを庇(と言うより屋根の拡張)で覆うことになりました。鉄筋やC型鋼、スチールパイプで骨組みを作って、トタンで屋根を葺きます。この広さだと、ちょっとした離れを増築するぐらいの規模。

新築工事が終わって1年余り。もう縁が切れたと思っていた建材店が立ち並ぶ、州都バコロド市内の通称「ショッピング」通りに行ってきました。こちらでは施工業者に建材まで任せると、とても高くついてしまいます。費用を抑えるには、施主自らが買い付けに走らなければなりません。

ちょっと面倒なのは、こういう店ではクレジットカードが使えないこと。相当大きな店構えでオフィス然とした所でも現金のみ有効。購入アイテムを決めて価格が分かった時点で、近くの銀行ATMでキャッシュを引き出します。鋼材の支払いが全部で約3万ペソ、7万円程度なので、日本だったらそんなに大騒ぎする金額でもないですが、フィリピンでは大金。

さらに2週間の業者への工賃見積もりが2万5千ペソだったので、塗料代も合わせて6万ペソを下ろすことになりました。この金額、よく考えたらウチのメイドさんの2年分の給料に相当します。こんな話メイドのアミーにしたら、泣き出すか怒り出すかしそう。

フィリピンでの最高額の紙幣は1000ペソ(約2200円)。つまり全額1000ペソ紙幣でも6万だと60枚の札束になってしまいます。ATMでも500ペソ札が混じることが多いので、実際に手にするのはさらに分厚い束。しかも1回に引き出せる金額の上限が1万ペソで、1枚のキャッシュカードは1日3回まで。私と家内で1枚づつカードがあるので、6万ペソは本当にギリギリ一杯のキャッシュということになります。

生活実感としては1000ペソは1万円ぐらいの使い勝手で、フィリピンの庶民感覚だと60万円の札束を持ち歩くことに。ATMから建材店までは100メートルぐらいしか離れてませんが、この間の移動が怖い。

次に行った塗料屋さん。足繁く通ってすっかり顔なじみなっていた、中国系店員のお姉さん。久しぶりの再会に満面の笑顔で「サー、増築ですか?」。「修理や!」ちょっと憮然として言ったら、「フィリピンでは雨季によくあることですよ〜」とやっぱり笑いながら答えてくれました。


2015年8月13日木曜日

息子が10歳 〜フィリピンのバースデイパーティ〜

このブログで何度となく取り上げているフィリピンの誕生日祝い。クリスマスと結婚式を除くと、これほどパーティで盛り上がることはないでしょう。とにかく子供の時だけでなく、大人になっても老人になっても、人によっては亡くなってからも墓の前でお祝い。

特に盛況になるのは、1歳と10年ごとの誕生日。
1歳の誕生日を盛大に祝うのは、乳幼児の死亡率が高く最初の1年目が峠だからと思われます。1歳を過ぎると一安心という気持ちの表れ。

そして先週、日比混血の息子が10歳の誕生日を迎えました。でもフィリピン人にしてはあまりお祭り騒ぎに関心がない家内。当初は家族3人だけで、どこかのレストランで食事をしておしまいにしようと思ってたらしい。しかし今年は息子の誕生日の週に、偶然日本からお客さんが来ることになりました。

この来客のKさん一家は、息子と同級生の男の子がいるご家族。私たちが日本に住んでいた頃、台湾人の奥さんと家内が、市のボランティアで運営されている在日外国人のための日本語教室で友達になったのがきっかけでした。話していると子供が同じ歳、しかも連れ合いが同じ会社に勤めていることが判明。(つまり私と先方の旦那さん)

同じ会社と言っても、従業員が数万人という大企業なので、それまでお互いを知らなかったものの、実は同じ敷地のすぐ近くの部署に所属。趣味がテニスというのも同じで、その後はテニス仲間にもなり、すっかり意気投合してしまいました。子供同士も友達になって、ほんの2ブロックほどしか離れていないお互いのマンションを行ったり来たり。

約5年間ほど、文字通り家族ぐるみの付き合いをさせてもらった友達が、ちょうど子供の誕生日の時期にはるばる日本から来るというのですから、バースデイパーティを盛大にしないわけにはいきません。

ということで、昨年と同じく親戚や友達を30名ほども招いてのホームパーティになりました。今年は張り込んで、レッチョン(豚の丸焼き)も注文。私も何ヶ月も前からメニューを考えて、前日から厨房に「籠城」。仕事でもここまでやった覚えがあんまりない、というぐらい一生懸命料理に取り組みました。

当日は、雇いたてのメイドのアミーに加えて、我が家に宿泊したKさんの奥さんや、義妹のジーナも手伝ってくれて、何とか30名分の料理を間に合わせました。パーティそのものより、こっちの方が楽しかったほどです。パーティが終わり、Kさん家族も帰国して週明けは何とも言えない寂しさ。子供の頃、夏休みが終わってしまった時の気持ちを思い出してしまいました。





2015年8月8日土曜日

昔の日本を思い出す 〜セーブ・モア開店〜

前回の投稿に引き続き、シライ市内にオープンしたスーパーマーケット、セーブ・モアのお話。開店翌日の金曜日の午後、家内と連れ立って行って来ました。

隣も向かいも学校という立地なので、昼食後すぐの時間帯は子供にお弁当を届けに来たり、自宅で食事する子供を送ってきたりしたお母さんたちでいっぱい。(フィリピンの小学校では給食がない)そしてなぜか高校生が制服のまま大挙して押しかけてる。君ら、授業はどないしたんや?


それにしても、この熱気。なんとなく見覚えがある光景だと思ったら、駅前再開発が華やかなりし頃の1978年(昭和53年)、実家の尼崎市内の阪急塚口駅前に、ダイエーを主体とした複合商業施設「塚口さんさんタウン」ができた時にそっくり。当時中学生だった私は、ちょうど今セーブ・モア内の新設ゲームセンターに集まっている子供たちと同じぐらい年齢。あの頃はインベーダーゲームが流行ってたなぁ。

さて、肝心の品揃え。期待していた日本からの輸入食品はバコロドほどではありませんでしたが、それでも味噌や豆腐を置いているのは嬉しい。野菜や果物は公設市場より高いけれど品質は揃っていてラップに包まれた様子は日本のスーパーみたい。肉と魚は清潔な売り場で種類も豊富。これは元からある肉屋さんが大打撃...と思ってたら、その肉屋の顔なじみの店員さんたちが二人、連れ立って買い物に来てたのには笑ってしまいました。子供連れで、敵情視察には全然見えない。




驚いたのは、まるで空港にでもあるような両替所ができたこと。今までも市内には両替所はありましたが、パチンコ屋の景品引換え所みたいで、替えられるのは米ドルなどのみ。日本円の取り扱いは無し。日本人目線的には、シライ史上初の快挙ですね。



これで過当競争の時代に突入したシライ市内の流通業界。昔の日本の場合、元からあった商店街や個人経営の八百屋、精肉店が軒並み閉店に追い込まれ、場所によっては未だに「シャッター街」のまま放置されています。しかしフィリピンでは、セイブ・モアに来る客層とはまったく別に、月収1万円にも満たない世帯がたくさんあるので、公設市場や道端の露店がいきなり姿を消すとも思えません。フィリピン版のバブル経済は、この先どうなっていくのでしょう?


ここはほんとにシライ市内? 〜セーブ・モア開店〜

初めてフィリピンで「SM」と書かれた巨大な看板を見た時は、かなり驚きました。日本だとアブノーマルな意味になってしまいますが、こっちでSMというと国内最大の流通チェーンの名前。ちょうど日本の「イオン」に相当するネーム・バリューと言うと分かりやすいかも知れません。

中国系フィリピン人のヘンリー・シーさんが、1958年(昭和33年)にマニラで始めた「シューマート(靴市場)」を起点に、今やフィリピン国内に35の巨大ショッピングモールを展開する一大財閥。最近ではSMは「スーパー・モール」の略だと言うことになってます。

このSM傘下のスーパーマーケットが、同じSMを略称とするセーブ・モア(Save More)。高級食材や日本などからの輸入食品を扱い、フィリピンに住む身としては「いかりスーパー」か「成城石井」の感じ。このセーブ・モアが昨日ついに我が田舎街のシライ市内にオープンしました。

シライ周辺では、州都のバコロドにスーパー・モールがあり、隣市タリサイにはセーブ・モアがオープン済み。人口から考えると、とっくに大きなスーパーやショッピングモールが出来ていてもおかしくなかった。しかし家内によると、シライの地主連中は土地を貸しても売りたがらない人が多いそうで、まとまった面積の用地買収が難しく、今まで新規の大手スーパーが進出できなかったらしい。

ところが最近の好景気が後押ししたのか、ここ数年で相次いでロペス、プリンスなどのフィリピン国内では最大手のスーパーがシライ市内に出店。満を持して木曜日のセイブ・モア、オープンでした。




さすがに開店当日は、あまりの人出に恐れをなして遠巻きに見ているだけでしたが、金曜の午後からは少し人混みはマシになったので、家内と二人で日曜日のパーティのための買い出しに行ってきました。

長くなりそうなので、続きは明日投稿します。


2015年8月6日木曜日

欠陥住宅? 〜1年目の改修工事〜

ついこの間、自宅の新築工事が終わって1年が過ぎたところ。玄関付近の雨漏りをようやく修理して安堵したのも束の間、今度は屋内に雨漏り、しかも4箇所同時。最初は息子の部屋の窓枠辺りで、玄関と隣接する場所から。そして昨日の豪雨で、今まで何ともなかった客間のクローゼットからの漏水と、息子の部屋の天井中央部分から漏り始めてしまいました。

当初の玄関付近の漏れは、ガレージ屋根の雨樋が原因だと思っていましたが、どうやらそれだけではなく、その上にある2階のベランダが根本的に問題を抱えていたらしい。このベランダ、屋根はなく完全にオープン。午前中は直射日光も当たらず、雨さえ降らなければとても気持ちのいい場所。夜は星もきれいに見えます。

しかし、フィリピンの雨の多い気候をちょっと見くびっていたようですね。たった1年とは言え、経年変化で床や壁のコンクリートには微細ながらもひび割れが...。そこから染み込んだ雨水がそのすぐ下の部屋の何箇所からか漏れている。やっぱり周囲に、こんなに開放的な構造の家がないのは、フィリピンの施工レベルでは、完全に防水するのが最初から無理だったということか。日本だったら「欠陥住宅だ〜!」と大騒ぎになるところ。


このアイデアを作ったのは他ならぬ私自身なので、誰に文句を言うこともできません。しかし、詳細設計をしてもらったのは日本人の父。雨漏りは大丈夫か?というような会話をした記憶があり、結局その心配が現実のものとなってしまいました。

設計も施工の監督も全部日本人でかためて、材料の買い付けは自分たちで済まして、経費を節約して安心の家作りができたと喜んでいたのですが、良いことづくめにはならなかった。やはり地元の建築士なり施工業者なりに、もう少し見てもらうべきだったようです。(ただし、お金はかかったでしょうけど)

と、ボヤいていても仕方がありません。今から構造を全部やり直すのは経費がかかり過ぎるので、ベランダ全体を覆う庇を追加することにして、今日施工業者に来てもらいました。近所で似たような工事を手がけていて、その時の費用が全部で7万ペソ(約20万円)。う〜ん、2ヶ月分の生活費...。しかし、これからまだ何年も住むつもりなので、その程度の出費は仕方ないか。取りあえず、かんたんな図面と見積もりをお願いしました。

次の台風が来る前に雨漏りが治ってほしい。


2015年8月4日火曜日

フィリピン散髪事情

散髪にどれぐらいのお金を払うものでしょうか? 私が日本にいた2年前で、一番安いのがカットだけで1000円の大衆理容だったと記憶してます。比較的高い方では顔剃ってもらって、洗髪してセットもして3000円。美容院だったらもっと高額なんでしょうね。私は3000円以上の場所には行ったことありません。

さて、私が今住んでいるフィリピン・ネグロス島でのお話。散髪に限らず、物を買ったりいろんなサービスをしてもらう場合、安いけどすごくボロっちぃところと、日本人の感覚でも高級な感じのところの極端な二択になることが多い。

安い方では小汚ぁ〜い雑居ビルの、冷房どころか扉もない一室に、散髪用の椅子と鏡だけが置かれた散髪屋さん。こういう場所では、理容師は場所を借りているだけで、ハサミ、剃刀、バリカンなどの道具一式持ったフリーランスのオッちゃんたちがいます。スタイルはTシャツにジーンズで、白衣着てる人などいません。初めてだと、誰が客で誰が理容師なのか判別できない。

衛生面では少々不安を感じますが、値段は格安でカットだけだと50ペソ(約120円)。私はいつも「ミリタリー・カット」。顔を剃ってもらうには追加で50ペソが必要です。洗面台がないので、シャンプーはなし。散髪自体はともかく作業全体がザツなので、髪の毛が服の中に入ってたいへん。終わるといつも速攻で家に帰ってシャワーしてます。

もうちょっとマシな場所で髪を切ってもらいたい場合は、ショッピングモールの中にある美容院(ビューティー・パーラー)。ここは見た目、日本の美容院と何も変わりはありません。以前一度だけ行ったことがありますが、カット、シャンプー、顔剃り...まったく違和感がありませんでした。そのかわり(と言っては何ですが)理容師にはオカマさんが多い。私の髪を切ってくれたにいちゃん、男と分かっていても色気があってちょっとヤバい気分に...。

問題の価格。場所代とか高そうだと思いきや、それでも150ペソ(約400円弱)。思わず「うっそ〜」と言いそうになりました。カットにメイクアップ、ストレートパーマ当てても1500ペソだそうで、フィリピンって、つくづく人件費が安い国なんですね。


いつものオっちゃんに散髪してもらう息子


2015年8月2日日曜日

外人と呼ばないで


最近、日本に住む外国人が書いたブログや記事などをネットで読むと、面と向かって「外人」「外国人」と呼ばれることに抵抗を感じるといった内容が目に付きます。私は、フィリピンに住む日本人なので、この国の人からすると「外人」なのですが、言われてみると「外人ですか?」(Are you a foreigner?)なんて訊かれたことはないですね。

「外国人」も「Foreigner」も、呼ばれる側になったらどう感じるか。いちいち「あなたは外人だから...」とやられたら、やはりいい気分にはならないでしょう。外人と言うかわりに「◯◯人ですか?」と訊くのがフィリピンでは普通です。

私は昔からどういうわけか東南アジアを旅行すると「中国人」「韓国人」「香港人」「台湾人」と順番に訊かれて、日本人はあんまり最初には来ません。マレーシアでは地元の華人と思われて、いきなり広東語で話しかけられたりもしました。それでも外人と呼ばれるよりはずっとマシ。

考えてみると、フィリピン人の顔つきは実に多種多様。一番古くから住んでいるマレー系に加えて、中国系、インド系、スペイン系...。外見だけではなくファミリーネームもご先祖さまのものを引き継いでいる。私の家内も父方がマレー系の「パヒランガ」で、母方はスペイン系の「オフィレーニア」。親戚ではインド系の「バトー」や、友達では中国系の「チャン」などなど。そもそもこの国で、外人と内人(?)を分けることなど無理。

そんな環境なので、日本人とのハーフである息子も学校でいじめられることもなく、私は周囲の人たち、家内の家族・親戚・友人、ご近所さんや市場のおばちゃん、宅地の警備のにいちゃんたちから余所者扱いされず、まずまず快適な生活を送ることができています。もし息子が、小学校の高学年から中学生になるぐらいまで日本にいたら、相当真剣にいじめられやしないか心配したでしょうね。