2016年11月28日月曜日

誕生日はベトナム料理で

この週末土曜日は、家内の51回目の誕生日でした。移住してもうすぐ4年。最初の頃は、家内だけでなく、家族の誕生日は、親戚や友達を自宅に招いてのホーム・パーティ。それも20人、30人と招待しての結構な規模のパーティをやってましたが、もうすっかりそれにも飽きてしまい、今年は家族で外食が定着。今回は家内の希望で、隣街バコロドに最近オープンした、ベトナム料理のレストランに行ってきました。

フィリピンにベトナム・レストラン、しかも、マニラやセブではなく、ネグロス島にそんなお店ができる時代になったんですね。私が知っている範囲だと、中華にイタリア(主にピザとパスタ)、日本に韓国ぐらいしか、外国の料理を食べさせる店はありませんでした。

元々華僑が多い土地柄なので、中華は多分昔からあるんでしょう。ピザとパスタは、アメリカの影響で、フィリピン人も大好き。日本・韓国料理は、日本人と韓国人の旅行者が多いから。

特にフィリピンでベトナム料理が流行ってるとは聞かないし、オーナーがベトナム系の人なのかも知れません。こういう定番から離れたスタイルが出始めるのは、金持ち階級だけではなく、中流の層が厚くなったということか。しかも場所が、表通りからずいぶん奥まった住宅地の中。車で行ったら、10分ほど迷ってしまいました。

お店の名前は「ラウ・ラム・カフェ」(Rau Ram Cafe)。前日までの熱帯低気圧の影響も去って、朝から暑いほどの日差し。ちょっと苦労してたどりついたのは、想像していたよりずっとしっかりした作りの建屋。一般住宅を改装したものではなく、新規の建築のようです。10台以上は駐車できそうな、ゆったりしたパーキングも。かなりキチンとした建築家/デザイナーが手がけたものと思われます。



さて、肝心の料理。東南アジア諸国は仕事であちこち行った私ですが、実はベトナムは未踏。移住前、福岡に住んでいた頃に一度だけ家族で行った、博多駅前のレストランが、唯一のベトナム経験です。それでも、出てきた牛肉入りのフォー(ライス・ヌードル)と生春巻は、確かに福岡で食べたのと同じ。



ただ、純粋なベトナム料理でもなく、ナシゴレン(マレー風炒飯)やミゴレン(同・焼きそば)があったり、スパイシーさ加減がなんとなくインドネシアっぽかったり。その辛さも、フィリピンテイストに合わせて、かなり控えめでした。


と、御託を並べましたが、とても美味しかった。スパイシーな料理は、フィリピンでは比較的少ないので、久々にパンチの効いた味を堪能。パクチー大盛りも嬉しい。お箸を頼めば出てきて、息子と二人でフォーはお箸でいただきました。

フィリピンに住んでいて言うのも変ですが、異国情緒たっぷり。でも、やっぱりフィリピン流のサービス。持ち込みバースデーケーキは当然のようにOK。食事の後にちゃんとロウソクもセッティングして、まるでこの店のメニューのような扱い。


私たち家族3人に加えて、家内の父と弟夫婦にその子供2人、家内の叔母と従弟夫婦、さらにわざわざ隣島パナイから来てくれた、家内の幼馴染の友人1人の、総勢12名のこじんまりしたパーティ。でも、料理もサービスも良かったし、家内は喜んでくれたようです。私も気に入りました。これならば、日本からお客さんが来ても、お連れできますね。


コーヒーも本格的
砂糖入りだけど、ほどよい甘さ


2016年11月25日金曜日

無理なら休む



昨日から今朝にかけて、フィリピン中部ビサヤ地方を、熱帯低気圧マルセ Marce(フィリピン名)が横断。ここネグロス島では、つい先ほどマルセが通過したようで、時々雨が弱まり、空も明るくなってきました。フィリピンでは自国に接近する台風に、番号ではなく「フィリピン名」を命名。台風だけでなく、熱帯低気圧も同様。

また、予想される被害や台風・熱低の規模に応じて、シグナル1から4までの警報が出されます。今回のマルセでは、ネグロスを含むビサヤ地方を中心に、一番軽微なシグナル1。これだと、幼稚園や保育園が自動的にお休み。小学校以上が休校になるのはシグナル2以上。

このルールによると、今日は小学生の息子も登校するはずなんですが、朝から雨が激しく、母親である家内の判断でお休み。勝手に決めてエエんかいな?と思いましたが、家内を職場まで車で送っていく途中に学校の前を通ると、登校時間なのに人影がまばら。ゲートは開いていて、守衛さんもいるので休校ではないものの、やはり自主的な判断で子供を休ませた保護者が多かったようです。

学校だけでなく、交通機関のジプニー(乗り合いバス)や、路線バスの運行が困難になったり、動かなくなったりしたら、フィリピン人はあっさり通勤を諦める人が多い。数時間かかっても徒歩で、と思い詰めるような人は、会ったことがない。

台風でなくても「雨でトライシクル(輪タク)がつかまらないから」が、立派に欠勤や遅刻の理由になるお国柄。それで多少の不都合が生じても、自分でも無理なら休むと思っているから、仕方がないで済ませる。

こういう習慣を見ると、どうしても日本と比較してしまいます。いつものように極端な例で申し訳ないのですが、1995年の阪神大震災の時、未明の地震発生で公共交通機関がほぼ麻痺してる状況でも、出勤してる人はいました。中には被害の出た自宅に家族を置いたままで、というケースも。電車が止まった時点で、早々にギブアップした私などには、想像もできないメンタリティです。

個人の範疇ならば、場合によっては災害よりも深刻な、陰湿ないじめや過酷な業務環境が続いても、たいていの日本人(子供も含めて)は、なんとか登校・出勤しようとするし、周囲が簡単には諦めさせません。ネット上では、最近やっと「これは異常」と声を上げる人が出てきたようですが、おそらく現場では相変わらずなんでしょうね。

以前、私が勤めていた会社では「命懸けで仕事をしろ」と、本気で言う人が何人もいました。実際に、命に関わる病気で治療が必要なのに、入院を先延ばしにしてる社員や、それを組織責任者が賞賛するのを見聞きしたことも。戦前の話ではなく、つい何年か前のことなんですよ。信じられません。

仕事よりも自分の健康や命の方が大切なのは、当たり前。少なくともフィリピンでは当たり前なんだけどなぁ。そんなことを、学校を休んで家にいる息子の顔を見ながら、考えてしまいました。


2016年11月23日水曜日

日々の米を今日も与え給え

今日11月23日は、日本では勤労感謝の日。でも元々は「新嘗祭(にいなめさい)」という宮中祭祀の日。年に一度、天皇が神さまに五穀豊穣を感謝し、自らもその年収穫された米などの穀物を食するというもの。起源は飛鳥時代まで遡って現在も続き、千年以上もの歴史があります。

有史以来、お米とは深い関わりのある日本。そして日本だけでなく、東〜東南〜南アジアに米を主食とする文化圏が広がり、フィリピンも米食地域の一つ。

ひょっとするとフィリピン人は、日本人よりもお米大好きな国民かも知れません。以前にも「ライス・イーター」と題して投稿したように、僅かな量のおかずで、どっさりお米を食べる。だから中年以上の人だと、お腹ぽっこりで糖尿を患う人が多いのは、そのせいかと思うほど。

粘り気の強いジャポニカ米が主流の日本に対して、一般にフィリピンで作られているのは、比較的水気の少ないインディカ米。ジャポニカ米よりお腹にもたれることが少なく、その分つい食べ過ぎてしまう気がします。

毎週日曜日のカトリック教会でのミサ。その儀式の中心が、キリストの体を模した「パン」を頂く聖体拝領。ところが最も重要な祈り「主の祈り」のイロンゴ語(西ネグロスの方言)訳では、その一節「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」の「糧」に相当する言葉として「米」が当てられています。

英語訳で「パン」Bread の部分が、イロンゴ語で炊いた米を意味する「カノン」Kan-on。米そのものだけでなく、食べ物一般を表す言葉として使われるそうで、やはりフィリピンでは食料の代表が米なんですね。漢字の「糧」も米へんだし、「ご飯」と書いて食事一般を意味することもあるので、感覚は共通しているのかも知れません。

ちなみに、炊く前の米粒は「ブガス 」Bugasu、稲穂だと「フマイ」Humai。英語では「ライス」しかないのに、状態によって名前が変わるところは、米・ご飯・稲穂などを使い分ける日本と似ています。タガログ語でも「カニン」Kanin、「ビガス」Bigas、「パライ」Palayと、単語は少し違うけれど、同様に呼び分ける。

しかし、食べ方は日本と違い、お箸は使わずもっぱらスプーンとフォーク。欧米式のナイフ・フォークではなくスプーンなのは、やっぱり米を食べやすくする配慮? これはフィリピンだけでなく、私が行ったことのある、タイ、マレーシア、インドネシア、シンガポールなどの東南アジア諸国では同じスタイル。中国でも山東省にある会社の食堂では、洗いやすさ優先のためか、お箸ではなくスプーン・フォークでした。

さて、タイトルにも使った「主の祈り」。ヨーロッパ系の言語だと、おそらく英語以外も「糧」は「パン」なんでしょうけど、フィリピン以外のアジア諸国とかアフリカでは、どんな訳語になっているんでしょう。調べてみたら面白いかも。


ほぼ全島サトウキビ畑のネグロスでは、
珍しい田園風景


2016年11月22日火曜日

悪夢再び


今日は、珍しく平日に早朝テニスをしようと、朝5時(日本時間午前6時)に携帯の目覚ましで起床。何気なしにツイッターを見たら、地震や津波関連のつぶやきで画面が埋め尽くされてました。

滅多に見ないテレビ、しかもさらに滅多に見ないNHKワールドにチャンネルを合わせて、慄然。福島県沖で強い地震があり、沿岸に津波警報発令のニュース。5年前と同じような画面構成で、緊急放送。ただし国際配信なので、日本語の上に英語表記を重ねたもの。もっと雑然として、余計に尋常ならざる空気が伝わってきました。嫌でも思い出すのは、5年前のこと。

2011年3月11日は、まだ日本在住。折しも心療内科医からのドクター・ストップで、約1年に及ぶ休職期間中でした。当時暮らしていた大阪府茨木市のマンションで、津波襲来の第一報から、テレビの前に釘付けになったのを、今でもはっきりと覚えています。

今回は幸いなことに、2011年のような大惨事になることはなく、この投稿を書いている昼過ぎの時点で、津波警報・注意報はすべて解除されました。

フィリピンでも、私たちの移住直後の2013年10月に、ネグロス島と同じビサヤ諸島にある島、ボホールでマグニチュード7.2の地震が発生。多くの建物が倒壊し、200名近くの死者を出しています。シライ市内でも、震度2か3程度の揺れを感じました。日本に比べると、段違いに頻度は低いとは言え、火山もあり地震も津波も来るフィリピン。やはり、もしシライ市が津波に襲われたら...、と思うと、ぞっとします。

まず、警報の類が出ることは期待薄なので、強い揺れを感じたら自分の判断で、行動するしかありません。シライ市のあるネグロス島の西側は、沿岸から島の中央山岳地帯まで、緩やかな傾斜のサトウキビ畑が広がる地形。市内では3階建てのビルすら数えるほど。しかも自宅は海から2kmも離れていない場所。高台に逃げると言っても、徒歩ではとても間に合わず、車を飛ばして山に駆け上るしかないでしょうね。

何とか生き延びても、その後がたいへん。3年前のスーパー台風ヨランダで、まるで津波のような高潮に襲われた、近隣の島レイテの州都タクロバン。あの状況から考えて、災害からの復旧は絶望的に時間がかかると、容易に推測できます。

数年前まで「ネグロスには地震がない」と言い切っていた、建築技師の義弟。しかし、2012年には、島の反対側で死者が出るほどの地震がありました。私も人のことは笑えません。関西では大地震はないと思っていたのに、1995年の阪神大震災で、尼崎の自宅はかなりの被害が。やはり、日本人もフィリピン人も、自然災害から逃れられない宿命を背負っているようです。

2016年11月21日月曜日

母とネルジー 両親のフィリピン滞在・後編


今年八十歳になる両親のフィリピン滞在レポート、前回の続きで、これが最終回です。

母の足の負傷で、丸二日はバタバタしてしまったものの、それ以外は概ね順調だったフィリピン滞在。今回、両親にとって目新しい体験だったのは、日常生活にメイドさんがいるということだったかも知れません。

大抵の日本人、特に日頃すべての家事を一人でこなしている人は、メイドさんにどう接していいのか戸惑うのが普通。母は、6人兄弟姉妹の一番上で、祖父母が共働きだったこともあり、子供の頃から幼い弟や妹の世話をしたり、家事は一通りしてきました。父と結婚した時に、専業主婦とは何て楽なんだろうと思ったほど。

おそらく、十日間も何もかも人任せは、本当に小さな頃と入院中を除けば、初めてだったようです。ただ食事に関しては、一度だけ夕飯を作ってもらいました。献立は肉じゃがと味噌汁。ジャガイモ、ベーコン、玉ねぎ、人参など、日本とほぼ同じ食材があり、包丁もオタマも道具類は日本から持ってきた物が揃っているので、別にどうってことはないだろうと思いきや、意外にも大緊張の母。

日本の感覚からすると、ダダっ広い台所に、アシスタントに我が家のメイド、ネルジーを付けたのが原因。狭い所での孤独な調理を何十年もやってきた人なので、かなり面食らったようです。ネルジーの方も初めて接する日本人のバァちゃんなので、緊張が感染。携帯カメラを向けても、笑顔が引きつってました。

料理の手伝いなんて、身振り手振りでなんとでも頼めるはず。でも妙に律儀な母は、「スンマセンけど、◯◯をしてくれませんか?」と大阪アクセントの完璧な日本語。ネルジーが軽くパニックに。後でネルジーに聞いたら「英語で何を聞いても、全部日本語なんですぅ〜」と笑ってました。

それ以外にも、洗濯をしてもらうのには、抵抗があった。「他人さんに、下着を洗ろてもらえるかいな」とのことで、滞在中、自分と父の衣類一切の、洗濯、干し、たたみを一人で完結。まぁ日本メーカーの全自動洗濯機があるので、手間自体は日本にいるのと同じですが。



二階のベランダで洗濯物干し

そんなこんなで、メイド不要の母だったけれど、やはり同じ家にいる同居人。私が見ていないところで接点がいっぱいあったらしく、帰国前には「素直なええ子や」と感心することしきり。チップを上げたいと、月給3000ペソのネルジーに、1000ペソも渡そうとするので、さすがにそれは多すぎだと止めました。(ごめんね、ネルジー)

途中いろいろあったけれど、何とか十日間の日程を終了し、予定通り朝6時のマニラ行き早朝フライトで帰国の途についた両親。当日の夕方には無事帰国の連絡がありました。私にとってもいろんな体験になった、今回の両親の滞在。

最近では「介護移住」などという言葉があるらしい。これは遠方の介護施設や、都会に比べて広い住居が確保しやすい、日本国内の地方に引っ越すことで、一般的には海外移住を指す言葉ではないようです。私も介護が第一義で、フィリピンに移住したわけではないものの、もし高齢の両親を引き取るとなった場合、海外移住は、かなり有望な選択肢と言えるかも知れません。

フィリピンならば、広い家を持つのは、そう難しいことではないし、必要ならば住み込みの看護士を雇うこともできる。寒い冬もなく、煩わしい近所付き合いもない。問題は環境の変化を、介護を受ける側の人が受け入れられるかどうか。誰にでもできる話ではないけれど、ある程度の条件さえ整えば、介護する側にとっても、ずいぶん負担が少ないんじゃないかと思います。

両親の帰国後、孫である息子に「おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らしたいか?」と尋ねてみたら、「うん!」と即答したのが印象に残りました。


2016年11月19日土曜日

突然介護 両親のフィリピン滞在・中編

今年八十歳になる両親のフィリピン滞在レポート、前回の続きです。

さほど暑くもなく雨もあまり降らず、食事には満足して機嫌よくのんびりの両親。土曜日の午後、いつもの出張マッサージのおねえさんに、両親の施術も頼むことになりました。すっかりリラックスしてるし、ついでに南国リゾート気分になってもらおうと、良かれと思って勧めたマッサージが、仇になるとは...。

父は昔からマッサージが好きで、日本でもよく揉んでもらってましたが、母は生まれて初めて。当日と翌日はなんともなかったのに、月曜日の昼過ぎになって強烈な揉み返しが。それも、ちょっとした筋肉痛どころではなく、15年前に複雑骨折した左足首に激痛。伝い歩きですら冷や汗流すほどで、痛さの余り食事もできず、無理して食べたら吐いてしまう。これはヤバい。

慌ててネットで「揉み返し」を調べてみたら、結構ひどくなることがあるんですね。マッサージが気持ちいいだけに、「天国と地獄」と形容しているサイトもありました。頭痛や吐き気が来ることも多いらしい。

そして夕刻には、まったく歩けなくなり、立ち上がることもできない。仕方がないので、トイレに行く時は、私が横抱きにして運びました。母親を抱き上げるなんて初めてで、その拍子抜けするほどの軽さに驚き。日頃筋トレで鍛えていたのは、このためだったのか? 

有名な短歌「たわむれに、母を背負いて、そのあまり軽きに、泣きて三歩あゆまず」を詠んだ石川啄木と違って、涙は出なかったし、三歩以上歩きましたが、やっぱりこの軽さは衝撃的でした。もう子供である自分が、親を保護する立場になってしまった...。

仕事から戻った家内は、尿瓶を買ってきてくれたり、車椅子を借りるため友人に電話したりで大忙し。翌日の朝、家内は仕事を半日休んで、一緒に隣街のバコロド市内の総合病院へ、母を連れていくことに。通院前には、近所に住む友人夫婦が、車椅子を玄関まで届けてくれました。有り難い!


病院での診立ては、やっぱりマッサージの揉み返し。レントゲン撮ってみても、骨は折れてないし、痛みさえ引けば飛行機に乗っても大丈夫とのこと。早速、鎮痛剤と塗り薬を処方してもらいました。ちなみに外科のお医者さんは、「揉み返し」を英語で「Stress of Therapy」と表現してました。フィリピンではマッサージとは言わずセラピー、マッサージャーはセラピストと呼びます。

さて、この鎮痛剤。帰宅してすぐ服用したら、ちょっと怖いぐらい劇的な効果が。数時間で痛みはかなり治り、少し足を引きづりながらも、歩けるまでに回復。食欲も戻って、夕食はいつも通りの大食らいぶり。よかった〜〜〜。これは「おばあちゃんの足が良くなりますように」と前の晩、息子が祈ったからでしょうか? 神さまに感謝。

結果的に突然の一時介護状態になり、車椅子を使うと、思いもしなかった住宅の不具合に気付かされました。手すりは後から取り付けられるにしても、扉が小さすぎたり、洗面所のちょっとした段差が大変だったり。門扉の前だけスロープにしておいたのに、貼ったタイルが滑りやすくて、実際には使いにくい、というのもありました。

両親が要介護になる前に、フィリピン移住の下見という位置付けの今回の滞在。図らずも、受け入れ側の私にも、いろんな意味で準備を促す結果に。やっぱり高齢者配慮したデザイン(特に水回り)にして、裏庭に離れを一軒建てようかなぁ。また、お金の算段しなくちゃ。

ということで、次回に続きます。


2016年11月18日金曜日

大食い八十歳 両親のフィリピン滞在・前編


昨日までの十日間、日本に住む両親が、ネグロス島シライ市の我が家に、滞在していました。少し前に投稿したように、父も母も今年八十歳で、終活中の二人。だいぶ前から「あと何年生きられるか分からん」が口癖。身体は、あちこちガタが来ているようですが、足腰はしっかりしていて、今でも毎週のように二人でゴルフ場に通っているらしい。

日本の実家は、バブル期に作った三階建て。父は三階、母は二階の居室で、かなり急な階段を昇り降りする生活。父はまだ建築現場の監督の仕事、母は掃除・洗濯・炊事を一人でこなしています。若い頃に比べると「すっかり手抜きや」と言う母ですが、日に三度の食事の準備だけでも、相当な労働でしょう。最近、私も毎日ご飯を作っているので、よく分かります。

さて、新しい家は初めてでも、シライは何度も来ている両親。特に父は、この家の施工監督をしていたので、勝手知ったる場所です。今回の滞在目的も、いずれはこちらでの同居を見込んでの下調べ。お客さん扱いはせず、途中で一度だけレストランに出かけた以外は、散歩も買い物も、自分たちで好きなようにしてもらいました。

ただし、食事の用意だけは、私が担当。献立はいつもと同じとはいえ、量がすごい。一般的に八十歳にもなれば、いくら健康でも、もう少しは食が細くなるもんだろうと思います。ところがこの二人、特には母は、小学生の息子よりも食べる。しかも好き嫌いは皆無。

老人でなくても、中年以上の日本人は、フィリピンの米は食えないだとか、肉が固いとか文句を言う人が多いけれど、母は何を食べさせても、美味い美味いと完食。「この歳になって、息子に食事を作ってもらうとは、思わんかった」とご満悦です。まぁ、不機嫌になられるよりずっといいし、結構なことなんですが、食材の減りが早いこと。

数日も経つと、なんだか老人ホームの食事係に、就職したような気分になってきました。しかし考えてみると、私を含めて男三人兄弟を育てた母。食べ盛りの頃など、それは大変だったでしょうね。食卓での話題は、一日一升炊いても足りなかったこと、翌日の弁当のつもりだったおかずを、夜中に全部食べられてたこと...などの苦労話。

食事だけでなく、気候も良かった。雨が多いはずの今の時期、なぜか両親が到着してからは、ほとんど雨が降らない。かと言って暑さの厳しい季節でもなく、昼間でも風が通って快適な毎日。暇になると、母は私の書架にある本を読んだり、ハリー・ベラフォンテやビートルズの曲を聴いたり。父は日本から持ってきた、戦艦武蔵のプラモデルを作ってました。

これで、十日間の滞在は、平和に終わるのかと思いきや、一週間が経過した頃、思わぬトラブルに見舞われました。ということで、次回に続きます。


2016年11月13日日曜日

言うたらアカん Fワード


天空の城ラピュタに出てくる「滅びの言葉」。ラピュタが金曜ロードショーで放送されると、劇中でたった一回だけのセリフの瞬間に、ツィッターがパンクするほど呟かれるそうですね。他の呪文に力を与えるために、知っておかなくてはいけないけれど、決して使ってはいけない。

英単語でも、それに近い言葉があります。文字通り一言で、人間関係を破壊するインパクトを持った「滅びの言葉」。それが、みなさんよく御存知の「F**k」。アメリカ映画でよく聴かれます。でも、映画に出てくるからと言って、実際の英語の会話では、絶対に使ってはいけません。ネイティブ並みに喋れるならまだしも、「日常会話なら何とかなります」レベルの人がヘタに使うと大火傷します。

語源は、諸説あってはっきりしないけれど、本来の意味が「性交」の一番下品な表現であることは、間違いなさそうです。日本語だと書くのも憚られる「オ**コする」と同等か、あるいはもっとドギツイ言い方なのではないかと。

最近のアメリカでは、性的な意味だけはなく、実にいろんなニュアンスを含む言い回しに使われるらしい。必ずしも否定的な意味だけではなく、ポジティブにも使われることも。それでも、本当にごく親しい者同士の内輪の話か、殴り合い覚悟で相手を侮辱する時以外は、口にしない方がいい。

フィリピンの二つある公用語の一つが英語。息子の通う私立の小学校では、全教科英語で授業が行われます。もしそこで冗談でも F**k を使ったら、その場で先生から厳重注意で、保護者に報告されること間違いなし。二回目以降には、停学や退学もありえます。学校だけでなく、フォーマルな場所では、まともな判断力のある人は絶対使いません。

そんな恐ろしい「滅びの言葉」を、あろうことか、近所で活動する某NGOに研修に来ていた日本の若い女性が、面白半分に連発したそうです。当然その場にいた日本人は、驚いて止めたし、フィリピン人は本気で怒った。もし私が同席していたら、怒鳴りつけて、3時間ぐらい説教していたかも知れません。

しかもその F嬢、「ビッチ(Bitch)」も多用するとのこと。この言葉は、最近日本語の文章でもよく使われてます。F**kほどエゲツなくはないものの、相当下品な言葉。しかも意味を誤解している。

「雌犬」から転じて「誰とでも性交渉を持つ、雌犬みたいな女」だったのが、最近では「嫌な女」のことなんだとか。罵倒語に変わりはないものの、性的な意味はあまりないみたいです。ところがネット上で散見される日本語の記事には、「尻軽女」のつもりだったり、単に露出度の高い服を着ていたり、派手なメークをしている程度の女性を形容するのにさえ使ったり。

いずれにせよ、意味を知るのは悪いことでないにしても、初対面の人に言っていいような言葉ではありません。特に若い女の子! 言うたらアカんぞ〜!


2016年11月10日木曜日

ネグロス島にテーマパーク?


アメリカの大統領選挙の投票日から一夜明けた今朝。日本でもフィリピンでも、ネット上のトップニュースは、もちろんトランプ・ショック。私もこれは驚きました。本当にこれが、アメリカ国民の選択なのかぁ? 二大政党制とか、選挙人選挙という、他の国ではあまり見られない特殊な環境が生み出した、一種の事故みたいなもんじゃないかという気もします。

ここネグロス島でも、新聞やニュースは、トランプ当選が一面トップのビッグニュースではありますが、シライ市内に限っては、それに並ぶ、あるいはそれ以上に市民を驚かせたのが、来年末にシライにテーマパークがオープンする話。

日本では、知名度ゼロに近い「エンチャンテッド・キンダム」(Enchanted Kingdom)和訳すると「魅惑の王国ランド」というような感じでしょうか。私も全然知らなかったんですが、1995年、マニラ近郊のラグナ州サンタローザに開園したテーマパーク。写真で見ると、ディスニーランドの縮小版といった雰囲気。

途中何度かの経営危機があったけれど、オープン20周年の昨年2015年には、年間180万人の入園者を記録したそうです。面積は25ヘクタールで、東京ディズニーランドの約半分程度。1割は海外からのお客さんで、中国と韓国からが多いらしい。

おそらくエンチャンテッド・キンダムは、フィリピン国内では唯一にして最大のテーマパーク。その第2号の場所に選ばれたのが、セブでもなくダバオでもない。この田舎のネグロス島で、しかもなぜか人口12万人のシライ市。まぁ空港からのアクセスがいいとか、土地が確保しやすいとか、それなりに条件は悪くないのかも知れませんが、なぜ選りに選ってシライ?

少し前にシライで、大きなショッピングモールの建設が始まったと、このブログに投稿しましたが、今回のはフィリピン全国レベル。インパクトは遥かに大きい。ここまで来てしまうと、交通渋滞や物価上昇などが心配になってきます。とは言っても、最初に開園するのは、面積4ヘクタール。ひらかたパーク(*)の1/4程度しかない、ささやかな遊園地で、テーマパークと呼ぶほどでもないかも。

さて、オープンは来年2017年の12月。フィリピンのことなので、遅れもあるでしょうけど、一体どうなることでしょう。

*ひらかたパーク。大阪府下では、ユバーサル・スタジオ・ジャパンに次ぐ年間入園者数を誇る遊園地。関西人ならば「ひらパー」を知らない人はいません。


2016年11月7日月曜日

西郷隆盛が過労死を招く


もう何年も前から日本で社会問題になっている過労死。つい最近では、某大手広告代理店勤務の若い社員が自殺し、月100時間を超える残業の事実などから、過労死と認定されました。

私自身も、フィリピンに移住する前は、日本の大企業で28年も働き、一時期は、この亡くなった方と大差のない長時間労働。土日は休みで、1か月が約20日勤務。毎日夕方5時から10時まで残業したとして、1日5時間。これで100時間なのですから、私が20代から40代の前半の頃、1980年代〜2000年代には、当たり前のような毎日。で、その結果どうなったかというと、不眠に抑鬱。退職する直前は、半年以上に及ぶ休職を2回もすることになりました。

私の経験を振り返ってみて、心を病んでしまうほどのストレスの要因は、細かく分類すると、その時々の具体的な仕事の内容で、微妙に違っているけれど、結局行き着くのは、組織としての意思決定能力の、絶望的なまでの欠如ではないでしょうか?

分かりやすくするために、敢えて極端な例を述べてみます。まず最初に、責任者の承認がない「仮」企画書に基づいて、担当者が「仮」案を作る。あやふやな状況でスタートしているので、当然1案に絞ることができず、3案とか5案とか用意しなければならない。

走りながら、仮案を係長、課長、部長と個別に説明し、それぞれから「指示」や「注文」を受ける。これがまたそれぞれに何回も「やり直し」が発生。なぜなら、どの指示も注文も、具体性がなく抽象的なものばかりだから。ひどい場合には「俺は、これが嫌いだ」で会議が終わることすら。どう嫌いで、どうすれば好きになるのか、さっぱり分からないままで、複数案同時進行はそのまま。

そうこうしているうちに、どんどん時間は無くなり、深夜残業して、さらに仕事を家に持ち帰っても、ちっとも先に進めない。闇雲にいろんなアイデアを出しては、上司に拒否されるのを繰り返して、いろんな人の意見で「玉虫色」になった最終案。これを社長が参加した「決定会議」で、ボロクソに貶されて、決定どころか最初からやり直しに。ここでも社長から具体的な指示は出ないので、また暗中模索になる。

書いていて、昔を思い出し気分が落ち込んでしまいました。このプロセスを何ヶ月も続ければ、真面目な人ほど、ぶっ壊れてしまいますね。どうも、日本では、最初にはっきりと細かい指示をするのは、良い上司ではないと信じられているみたいです。「命令」という言葉も嫌いだし。歴史上の人物で、代表的なワンマン指導者、織田信長が、最後には部下に殺された逸話が象徴的。それに対して、理想的とされるのが西郷隆盛でしょう。

優秀な部下を見つけて、全部任せてしまい、大方針だけを示すと言うやり方が、なぜか賞賛されてきました。でも部下に担がれて、その暴走に付き合った結果、西郷隆盛は西南戦争という明治政府への反乱を起こして敗走し、その部下諸共滅んでしまいます。

西郷と対立する形で政府に残った大久保利通は、今でも人気がありません。でも、本当に明治維新後の日本を作ったのは、大久保。版籍奉還、廃藩置県、地租改正、富国強兵、殖産興業、これすべて大久保の業績。大久保利通がいなければ、日本の近代化は、もっと遅れていたか、全然別の形になっていたでしょう。

私には、中途半端な「西郷隆盛」気取りが、日本を働きにくく、住みにくい国にしている元凶に思えて仕方ありません。百歩譲って、西郷的なリーダーを認めるにしても、そんな人は会社のトップに一人いれば十分です。

今日も日本では、曖昧な指示の元、権限もなく安い給料なのに、責任だけを負わされて、深夜まで途方に暮れながら働いている人が、たくさんおられるんでしょう。それを思うと、暗澹たる気持ちになります。やっぱり、子供を日本の企業で働かせようとは、思わないですね。

2016年11月6日日曜日

PPAP フィリピノ・パロディ

馬鹿々々しいほど流行っている、PPAP(ペンパイナッポーアッポーペン)。もうネットでも関連記事はいくらでもあるので、知らないという人も少ないでしょうけど、もし見たことがない人は、「PPAP」で検索してみてください。


さすがネット上での流行りなので、あっという間に世界中で話題になり、日本だけでなく、パロディやリミックスなどの二次創作物が大量に作られています。特にフィリピン人は、この手のシンプルなネタが大好き。暇な人は「PPAP Philippines」で探すと、さらにいろいろ出てきますよ。もうPPAPフィリピノ・パロディというカテゴリーが、できているらしい。

元々、フィリピンでは日本のコンテンツに関心が高く、このブログでも何度か取り上げたように、意外な日本の曲が、タガログ語でカバーされて大ヒットしたりしています。古いところでは、藤圭子の「夢は夜ひらく」とか、比較的最近のものだとゴダイゴの「ビューティフル・ネーム」、サザン・オールスターズの「真夏の果実」など。

アニメやコミックでは、スタジオ・ジブリの一連の作品は言うに及ばず、「ワンピース」「ナルト」「デス・ノート」のマニアックなファンも多い。家内が子供の頃には「ボルテスⅤ」が人気だったんだそうです。

ところで、今回のPPAPが目新しいのは、日本の中学生レベルとは言え、英語のコンテンツだというところ。日本人のパフォーマンスだとちゃんと分かった上で、オリジナルを直接見て面白がっている。そして、フィリピンでの普及率がとても高い、フェイスブックでも拡散したので、一部の「日本通」だけでなく、子供から年寄りまで知っている。我が家のメイドのネルジーですら、私がモノマネをすると笑い出すぐらい。

よほどフィリピン人の笑いのツボを押したんでしょうね。英語やタガログ語のものだけでなく、なんとビサヤ語版のパロディまで登場しました。家内と息子は、それを見てゲラゲラ笑ってます。日本語の字幕が付いていて、一応意味は私にも理解できるけれど、ベタすぎて、さほど面白いとは思いませんが...。






2016年11月2日水曜日

親の終活

私の両親は、二人揃って今年80歳になるというのに、まだまだ元気。今私たちが住んでいる自宅の、施工監督をやってくれた父親など、帰国後また仕事してるほど。建築業界は、なぜか定年が他の業界に比べて高いらしく、建築士だけでなく、大工や鳶、左官などの職人さんは、かなりの年齢になっても現場にいる人が多い。

それにしても、80歳で現場監督というのは、ちょっとすごい。昔から10歳やそこらは、若く見られて、今でもすっかり白髪になったとは言え、まだちゃんと髪がある父。母親も背中も腰も真っ直ぐだし、「高校生か?」とツっこみを入れたくなる程よく食べる割には、ちっとも太ってない。何より、二人ともボケてないのが大助かり。

母親の母、つまり私の祖母が亡くなった歳より、母は10年以上も長く生きているけれど、記憶にある祖母の最後の姿の方が、ずっと年寄りな感じでした。祖母は、大正末の生まれで、私の知る限り8回妊娠して、1人は乳児の時に病気で亡くし、さらに1人は流産したものの、長姉の母を含めて6人の子供を育て上げた人。戦中戦後の混乱期に、食べ盛りの子供を抱えての苦労が、祖母を年齢以上に老けさせたのかも知れません。

今年6月に一時帰国した時のこと。私は、両親が住む尼崎の実家に滞在していました。その時、たまたま母の部屋で見つけた一枚のハガキが、なんと「終活セミナー案内」。最近は、生協でこういう催しもやってるんですね。介護・生前見積・お葬式・保険・相続...。なるほど。


よく考えてみたら、私自身がもう50代の半ばで、親の時代だったら、そろそろ身辺整理のことを考えていた年齢だったのかも知れません。まだ子供が小学生で、つい数年前に移住して新生活を始めたせいか、ちっともそんな感じになりませんが。

さて、そんな両親が、もうすぐフィリピンに来ます。自宅が出来てからは、初めての訪問。家内は早々に活動開始して、メイドのネルジーと一緒に引越し以来の大掃除に着手しました。関係は良好とは言え、やはり舅・姑としばらく一緒に過ごすとなると、それなりの緊張感があるようです。

普段はメイド部屋代わりにしているゲストルームも、模様替えして来客準備。ちょっと可哀想ですが、ネルジーは両親が滞在中、息子と相部屋で、床にマットレス敷いて寝てもらうことになります。

父はもう半年以上も、ネグロス島の生活を経験済みですが、母はどんな反応をするでしょう? 何もせずにのんびりというのは苦手な母なので、久しぶりに毎日、料理を作ってもらいましょうかね?