2016年10月31日月曜日

死者を悼む夜

毎年のように書いておりますが、今日ハロウィンは、万聖節(諸聖人の日)の前夜祭。11月1日の万聖節とは、元来カトリックの祭日で、すべての聖人と殉教者のために祈る日。さらに翌日11月2日は、万霊節(死者の日)。文字通り、死者を悼む日になります。

フィリピンでは、この万聖節前後に、死者の魂が家族の元に帰ると信じられていて、日本のお盆とまったく同じ意味合い。明日は、みんなでお墓参りをして、墓前で食事をしたり、亡き人たちの思い出を語りあったり。さすがのフィリピンでも、この時期だけはカラオケやディスコの騒音は鳴りを潜めます。

ところが、ここ最近の日本では、死者を悼むべきこの夜が、仮装して馬鹿騒ぎをするお祭りとして、定着してしまいました。私は、あまり行儀が良くないとは言え、一応カトリックの信徒で、フィリピンに住む者としては、どうしても違和感が拭えません。

クリスマスも元々の宗教的な意味をほとんど無視して、ただのお祭りにしてしまい、しかも若い男女がデートをする日にしてしまう日本人。それでもクリスマスは、救い主の誕生日。意味は理解しないくても、一緒にお祝いするならまぁいいか、とも思えますが、万聖節の場合は、そういう割切りもちょっと難しい。

もちろん、フィリピンでもハロウィンは、子供が仮装して近所の家を回り、キャンディやお菓子を貰うという行事はします。私たちの住む宅地内でも、一昨日の土曜日の夕刻に「トリック・オア・トリート」が催され、何十人もの子供たちが仮装で集合。私の息子も参加しました。でも飽くまで子供が主体。大人が深夜まで飲んで騒ぐことは、ありません。

10月31日と11月1日は、フィリピンの国民の祝日で、学校もオフィスもお休み。我が家では、例年と同じく家内が花やロウソクで祭壇を飾りました。明日は、一族総出で、義母と叔父が眠る墓地へお参りに行きます。これが本来の万聖節なんですけどね...。




2016年10月26日水曜日

経済支援 1兆4000億円


ついにドゥテルテ大統領が日本に到着しました。フィリピンの大統領訪日は、もちろん初めてではないけれど、こんな騒ぎになったことは、記憶にありませんね。私と家内が日本に住んでいた頃、当時のアロヨ大統領が訪日時に大阪にまでやってきて、二人で顔を見に行ったことがあります。あの時は、ほとんど報道もされず、人知れずひっそりと...という感じでした。

それにしても日本語の記事は、相変わらず表層的なものが目立ちます。「暴言大統領」「フィリピンのトランプ」「超法規的殺人」など、決まりきったフレーズが枕詞。本当にレッテル貼りが好きですね。ただの人気取りで言いたい放題の大統領候補と、暗殺さえ覚悟している政治家を、同列に並べるのは失礼です。それにアメリカとの決別宣言や、中国との和解など、もう少し掘り下げて報道できないものでしょうか? 

そもそも外交では、どんな国でも自国の利益最優先が当たり前で、そのために権謀術数の限りを尽くすもの。それを表に出た言葉だけを額面通りに受け取って、アメリカに喧嘩を売っただとか、中国の飼い犬に成り下がったとか。そんな記事なら、素人にだって書ける。

ドゥテルテ大統領の場合、多数を前にした記者会見より、単独インタビューの方が、彼の政策の背景を理解する上で、重要な内容が多いように思います。昨日(10月25日)付けのNHKの記事によると「(フィリピン国内で)フィリピン兵士以外の武装した兵士は見たくない」との発言がありました。

考えてみるとフィリピンには、約500年前スペインに占領・植民地化されて以来、1991年のスービック基地返還まで、常に外国の軍隊が居座り続けてきました。スペインの後はアメリカ、その次は日本、そしてまたアメリカ。以前、仕事でマニラに滞在していた時、たまたまアメリカ海軍艦船の寄港と鉢合わせしたことがあります。その夜、当時の歓楽街エルミタ辺りでは、羽目を外した海兵が大挙繰り出して乱痴気騒ぎ。外国軍隊の駐留とはどういうことなのかを、思い知りました。何世紀にも渡るフィリピン人の感情を思うと、ドゥテルテ大統領の言葉の重みが分かります。(追記:巡回駐留という、恒久的な基地を持たない形で、今も米軍はミンダナオ島にいます。)

ようやく追い出した外国の軍隊が、スプラトリー(南沙)諸島の領有権問題を理由に、また戻ってくるかも知れない。それよりも係争相手の中国と和解して、問題そのもを棚上げにする方が、よほど現実的。どうせアメリカは中国と本気で事を構えるつもりはないし、中国が易々と撤退することなどあり得ません。具体的な約束は何もない「玉虫色」の共同声明と引き換えに、軍事的な緊張を和らげ、経済制裁は解除。その上巨額の経済支援を得るとは、何とも巧妙な外交手腕ではないですか。(当然ながら、中国国民は怒っているらしい。)

総額1兆4000億円と言われる経済支援。2015年のフィリピン国家予算が約7兆円なので、国全体の年間支出の1/5に及ぶ金額を、たった数日の訪中で稼ぎ出したことになります。しかも、使い道が麻薬中毒患者の更生施設やインフラ整備など、まさに直近の課題に当てられるとのこと。どこに消えていくのか分からない、バラマキ予算とは違う。

フィリピンは、2015年のGDP(名目GDP)の比較で日本の1/14、何と中国の1/38の経済小国。軍にはジェット戦闘機も空母も戦車もありません。現時点でアメリカは、自国兵士の血を流してまで、守ってくれるかどうかは不透明。一国に頼るリスクを分散させるのは、弱小国の生き残るための知恵。現にアメリカは、南ベトナム政府とその国民を、見捨てた過去がありますから。フィリピン国内からの視点で考えると、ドゥテルテ大統領の言動は、そんなに気まぐれでもないと思いますよ。




2016年10月24日月曜日

フィリピン料理に挑戦2 トルタン・タロン


前回、アドボの作り方を投稿してから、もう2ヶ月も経ってしまいました。今回取り上げるのは、トルタン・タロン Tortang Talong 。聞きなれない名前ですが、要するに挽肉入り茄子オムレツです。フィリピン家庭で一般的なだけでなく、日本人で好きな人も多いですね。日本でもフィリピンでも、ありふれた材料で簡単に作れます。

トルタン・タロン 1人前
材料:
茄子 でっかいのを一つ(写真のはでか過ぎて、ちょっと切りました)
挽肉(牛でも豚でもお好みで) 100グラム
卵 1個
玉ねぎ中 半分
塩コショウ 適宜
胡麻油(サラダ油でも可) 適宜

1. 茄子を柔らかくなるまで茹でる。


2. 茹で上がった茄子の皮を剥く。


3. 皮を剥いた茄子を、二枚おろしの要領で開き、フォークなどでほぐす。
 ヘタは切り離さないこと。調理する時、取っ手代わりになります。


4.  茄子をトンカツの衣を付けるように、溶き卵に浸す。
5. 玉ねぎを細かく刻み、挽肉と一緒に塩コショウを加えて炒める。
私は好みで胡麻油を使いますが、サラダ油でもコーン油でも大丈夫。
6. 炒めた玉ねぎと挽肉を、残りの溶き卵と一緒によく混ぜる。


7. よく熱したフライパンに胡麻油を敷いて、まず茄子だけを焼く。
8. 茄子はひっくり返さず、その上に玉ねぎ、挽肉+溶き卵を全部かける。


9. 弱火で3分程度焼いてから、ひっくり返す。


10. 十分火が通ったら、もう一度ひっくり返して出来上がり。


こちらではオムレツ感覚なので、ケチャップをつけて食べます。もちろん何もつけなくても、十分美味しい。日本にいた頃は、家内もよく作ってくれたし、こちらでも庶民的なお惣菜屋さんでは、定番メニュー。挽肉無しで作ることもあります。茄子が苦手な小学生の息子も、これならば喜んで食べるので、茄子嫌いな子供さんがいるお家では、おすすめかも。

確かめたわけではありませんが、フィリピン土着のというより、スペイン料理っぽいですね。この投稿に書く前にネットで調べたら、クックパッドにもアップされてました。私が知らなかっただけで、実はもう日本でも人気レシピだったんでしょうか?



レッテル貼り


別に最近になって始まったわけでもないけれど、フェイスブックやツィッターでよく見る「レッテル貼り」な投稿。国籍や生まれた場所、職業など、表面的なことだけで、その人物や集団のことを決めつける。私がよく見かけるのが「フィリピン人は、〇〇だ。」という類。

これ、良いことはまず書いていなくて、ほとんどが「上から目線」の悪口ばかり。「怠け者」「時間にルーズ」「恩知らず」「泥棒」「馬鹿」。フィリピンに数回程度旅行しただけの、経験の浅い人が書くならまだしも、フィリピン女性と結婚しフィリピンに何年も住んでる人が、こういう発言をするのには驚きます。

このブログで、以前に何度か取り上げている話なのですが、見てしまうとやっぱり腹が立つ。日本にだって素行のだらしない人や、手癖の悪い人がいるのと同じで、フィリピンにもいろんな人がいます。特に貧困層の人たちは、基礎教育を受けるチャンスがなく、手に職をつけることができず、犯罪に手を染めてしまう場合もあるでしょう。

でもそれは、一部のこと。確かに日本ほど時間に神経質な人は少ないにしても、社会的な常識や金銭感覚、貞操観念に大差があるとは思えない。ましてや怠け者はフィリピンでも食べていけないし、恩知らずなんてフィリピン人が一番嫌う罵倒文句。

想像するに、こんなこと平気で言うのは、札ビラで頬っぺたを叩くような人付き合いしか、してないからじゃないか。お金欲しさに集まる人としか接触がなくなって、ますますフィリピンへの偏見が強くなるという悪循環。

そしてお金がなくなると、誰も寄り付かなくなるのは当然。フィリピン人が恩知らずなのではなく、自分が恩知らずな人を選んでいるだけの話。せめて生涯の伴侶ぐらいは、金ではなく自分の魅力で射止めたら?と言いたくなります。

ちょっと気をつけて見てると、「フィリピン人は...。」と書く人は、同じように「中国人は...。」「韓国人は...。」とやってます。思い込みと決めつけだけ。「思考停止」とはよく言ったもの。

このところネット上では「レッテル貼り」「上から目線」「思考停止」など、なんだか嫌な言葉ばかりが目につきます。こう言われても仕方ない人が多いのも、実際の印象。注意を怠ると私自身も、陥りかねないこと。でも少なくとも、自分が住まわせてもらっている国や、その国の人たちへの感謝を、忘れてはいけませんね。それを忘れたら、正真正銘の恩知らずになってしまいます。


2016年10月20日木曜日

可哀想の国


このタイトル、フィリピンが可哀想な国という意味ではありません。フィリピン人の平均的なメンタリティを理解する上で、重要なキーワードだと思えるのが「可哀想」という言葉。

フィリピノ語で、可哀想は「カワワ」Kawawa。病気や貧困で困っている人を見て、「可哀想だなぁ」と言うのは「カワワ・ナマン」Kawawa naman となります。何となく日本語の語感に似ていますが、関係はなさそう。でも、ニュアンスも含めて日本語の「可哀想」と、完全に同じ意味のようですね。フィリピンでは、かなり頻繁に使われる表現のひとつ。

英語だと「プア」Poor が一番近い言葉でしょうか。私はフィリピノ語(タガログ)もイロンゴ語も片言レベルなので、フィリピン人との会話は主に英語。その場合「プア」もよく聞かれます。そして単に言うだけでなく、何かにつけて「可哀想がる」国民性。

分かりやすいのは、信号待ちや渋滞で停止している車の窓を叩く、子供の物乞いへの態度。私の感覚だと、いちいちお金を恵んでたらキリがないし、長い目で見てフィリピンのためにもならないと考えてしまいます。でも、フィリピンのドライバーは、かなり高い確率で窓を開けて、わずかでも小銭を渡しますね。私の家内も、手元に細かいお金があれば、数ペソでも上げるのが常。

家内の友達の家に泊めてもらった時、旅先でほとんどお腹をこわしたことがない私が、珍しくキツい下痢になってしまったことがあります。初対面ではなかったけれど、まだあまり親しいとは言えない間柄。それでも「可哀想に」とばかりに、家族を挙げて面倒を見てくれました。ちなみにこの家、旦那さんも奥さんも、結婚前に家内が勤めていた、フィリピン大学ビサヤ分校の教授。貧乏な人同士が助けあうというのは、フィリピンでよく聞く話だけれど、カワワ精神は、お金の有無とは関係ないんですね。

面白いのは、自分より弱い立場の他者だけではなく、時折自分に対しても発動されること。「アコ・カワワ」Ako Kawawa 「私は可哀想」は、フィリピンの慣用句。日本に住んでいる時に家内が、覚えたての日本語でこう言うので、最初は冗談かと思いました。自己憐憫と言ってしまうと身の蓋もないですが、これは弱さというより、生き方のひとつなんじゃないでしょうか。

日本人は「他人に迷惑をかけるな」とか「情けは人のためならず」(誤用で元の意味とは逆に使う)などと言って、他人に助けを求めたり、他人を助けること自体を極端に躊躇する傾向があります。一見立派な姿勢に思えても、社会全体でこうだと、窮屈で息苦しい。

人にも自分にも「可哀想」と思える社会では、人にも自分にも寛容になれる国。これは気候や食べ物よりも、人間が生きていく上で、一番大事なことなのかも知れません。陰湿ないじめもないし、自殺する人も滅多にいない。そもそも道を歩いている人の顔つきが穏やかです。家内が大阪の街を一人で出歩くようになった時、帰宅して私に言ったのが「どうして、みんな怒ってるの?」でした。やっぱり、そう見えるんですね。

特に最近の日本では、ネットでの袋叩きがひどい。下手すると相手を鬱病や自殺にまで追い込んでしまう。もう人権侵害の域にまで達しているほど。フィリピン人ではないけれど、可哀想だと思わないんでしょうか? もう日本の方がフィリピンより、よっぽど可哀想な国になってしまっています。


2016年10月19日水曜日

シカゴから愛を込めて


もう先月のこと、アメリカに住む、家内の義理の叔母ジェネリとその娘ケビンが、ネグロス島に一時帰国しました。家内の母方の親戚オフィレニア一家は、出稼ぎのための移住者が多い。ジェネリとケビンを含め、家内の従妹三人とその子供たちが三人、さらに叔父と叔母が三人、合計九名がシカゴで暮らしています。

働いている人は男女とも全員が看護士で、シカゴ市内の病院勤務。もう移住して約15年経っていて、まだ息子が生まれる前に、一度遊びに行ったことがあります。出稼ぎとは言っても、九名・三世帯全員が、建売の一戸建てに住んでいる。郊外なので結構な広さだし、当然車も所有。

シカゴはミシガン湖畔にある、全米の人口第三位の大都会で、別名「風の街」。その名の通り私たちが行った時も、海のような湖からの風が、吹き渡っていました。八月だったので強い風も快適でしたが、冬場はとんでもなく冷たい強風になるのは、容易に想像できる。

冬の寒さは別にしても、概ねいい暮らし向き。移住当初は幼かった三人の子供たちは、今ではもう大学生で、里帰りした家内の従妹のケビンも、もうすぐ卒業。オフィレニア一族で初めてのお医者さんになるそうです。すごい。

今回の一時帰国は、ジェネリの高齢のお父さんが危篤状態になって、急遽決まったもの。結局、シカゴに戻る前にお父さんは亡くなり、死に目には会えて、葬儀も済ませることができました。それにしても、急にアメリカから戻れるなんて、経済的にそこそこの余裕があるんでしょうね。

滞在中、我が家にも二度来てくれて、家内と喋りこんでいました。若いケビンは、フィリピンの言葉は、聞けば分かるけれど、喋ることはできないそうで、会話はもっぱら英語。そこまでアメリカに溶け込んだのなら、そのまま永住するつもりなのかと思ったら、やっぱりいずれは、生まれ故郷のネグロスに戻りたい。ジェネリだけでなく、ケビンもそう考えている。

私のように、祖国を飛び出して、フィリピンの土になるつもりの人間にとっては、あまりピンと来ないけれど、やっぱり生まれ育った場所がいいんですね。特にケビンは、浅黒くマレー系の特徴がはっきりした顔立ち。何かにつけて、肌の色で差別を感じることがあるらしい。「結婚式は、ネグロスの教会で挙げるの!」と意気込んでいました。(まだ相手はいないけど)

ネグロスには、まだ家内の叔母が一人と、その息子ラルフ、奥さんのエリアンがいます。30歳になったばかりラルフも、学生時代は同じようにアメリカ移住を考えて、看護士の勉強をしていました。ところが最近は、フィリピンも景気が良くなり、新婚当初はマニラのカジノで働いていたものの、ここ数ヶ月は夫婦でネグロスに戻り、飲食店のビジネスを開始。話を聞くと、仕事が軌道に乗ったら、ずっとフィリピンで暮らしたいとのこと。

外国語にコンプレックスがあって、未だ海外で就職するのは「冒険」という感覚の日本人。それに比べたら、国民の10パーセントが国外で働く出稼ぎ大国で、多くが英語ネイティブに近いフィリピンでは、若者は誰でも国の外に住みたがるのかと思ってました。

考えてみれが、祖国でちゃんと仕事があり普通に生活できるのなら、わざわざ家族や友達と離ればなれになって、遠い外国に住む必要はない。生また場所で育ち、働き、子どもを作って、やがて死ぬ。それが人間にとっての自然な姿、ということなのかも知れません。



2016年10月17日月曜日

奥さまはフィリピーナ...か? その10「クリスマスの奇跡」

前回の続きです。

フィリピン人の家内と一緒になって、日本で暮らし始めたのが1998年の秋。お互いにもう30歳は過ぎていて、早めに子供が欲しいと思ってました。折しも20世紀の終わろうとしていた時期。できれば西暦2000年生まれの、ミレニアム・ベイビーだったらいいのに...。

ところが、こればかりは、思うようにいかないもの。二年経っても三年経っても、まったく音沙汰がない。ついに目標の2000年になってしまい、産婦人科で不妊治療も。別に双方とも問題はなかったようなのに、結局うまくいかず。諦めたわけでもないけれど、いつとはなしに産婦人科からも足が遠のき、なんとなく忘れてました。

2004年も残り一週間となった頃。
それまで住んでいた大阪府茨木市の賃貸マンションを引き払い、尼崎の実家で両親と同居し始めた年。三階建二世帯住宅の最上階が私たちの生活エリア。そろそろ寒くなってきたので、いつも使っていた石油ファンヒーターを引っ張りだして、シーズン初運転をしたところ、なぜか家内が、灯油の臭いが気持ち悪いと言い出しました。

今までそんなこと一度もなかったのに、と訝しく思いながらも、仕方がないので、それまで実家の納戸の中で埃を被っていた、電気ストーブが現役復帰。

そして忘れもしないクリスマスの翌日。もしかして...と、買ってきた妊娠チェッカーに、ものの見事な陽性反応が。二回やって二回とも「当たり」。その日は、母親がゴルフのクリスマス・コンペで初めてのホールインワンを記録したり、インドネシアのスマトラ島で大地震と大津波があったり、いろんなことが一度に起こりました。

翌日、私の母に付き添われて、近所の産婦人科で診察してもらった家内。間違いなく妊娠でした。その後、男の子だとわかった時は、父が大喜び。私の弟には、二人の娘がいて、父にとっての初孫ではないけれど、やはり最初の男の子の孫というのが嬉しかったらしい。日頃、日本語を忘れたんちゃうか?と思うほど、家族の前ではしゃべらない父が、珍しく饒舌に。

それにしても母親ですら、すぐにはそれと気づかぬほどだったのに、神さまは、ちゃんと覚えておられたんですね。一日遅れとは言え、私たち夫婦にとっては、奇跡のようなクリスマス・プレゼント。数ヶ月後、私は横浜へ転勤になり家族で引っ越し。息子が生まれたのは、翌2005年8月。横浜市内の産婦人科病院でした。


生後三ヶ月の頃

孫が生まれたと聞いて、私の両親だけではなく、フィリピンの義母もやって来ました。こちらも初孫ではないものの、フィリピン人らしく人目を憚らない愛情表現。実はこの時、義母はガンに罹患していることを知っていて、かなり無理しての渡航。結局、息子の一歳の誕生日の直後に亡くなりました。まさしく一生分を一度に、可愛がってくれたんでしょうね。

というわけで、子供が生まれて、このシリーズ投稿も10本目。キリのいいところで一旦終了とします。読んでいただき、ありがとうございました。ブログ自体は、まだまだ続きますよ。


2016年10月14日金曜日

奥さまはフィリピーナ...か? その9「孝行嫁」


前回の続きです。

来日当初の秋冬、街路樹の落葉を見て「木が枯れていく!」と騒いだり、生まれて初めてのアカギレを盛大に痛がったり。それ以外にも、お風呂が大変。

湯船に浸かるという習慣がない熱帯のフィリピン。ちょっと高級なホテルならばお湯は出るけれど、大抵の家では水シャワーが普通。最初の入浴で、あまりに気持ちがいいと長風呂して、すっかり湯にのぼせてしまいました。もう泥酔したみたいになって、ほとんど抱きかかえるように風呂場から救出。びっくりしたぞ〜。

そして、家内にとって最大の難関は、姑との関係。実は私の母、最初は家内との結婚に大反対でした。当時日本に蔓延していた、フィリピーナへのネガティブ・イメージを盲信し切っていて、家内の人柄も何も、まだ顔を見ていないのに完全に敵視状態。私の弟二人が間に入ってくれたお陰で、何とかマニラの日航ホテルでか会って話をして、やっと態度を軟化させたという経緯があります。

正式な嫁になった後も、母の前では少々緊張感があった家内。ところがある日、この母が、ゴルフ場で大怪我を負いました。50歳を過ぎてから、ベテラン・アマチュアゴルファーの父と一緒に、コースを回るようになった母。当時で既に60を幾つか過ぎていたはず。そして、いつも通っている宝塚市内のゴルフ場で、カートに接触して足の骨を折ってしまった。

幸い命に別状はなかったものの、そのまま搬送先の病院に入院。父と息子三人の男ばかりの家族の中で、介護役を買って出たのが家内でした。たまたま専業主婦で、昼間は時間が取れるし、何よりフィリピンの一般的な感覚として、たとえ義理の仲でも老人を労わるのは、ごく自然なことだったようです。

歳取ってからの骨折は、回復に時間がかかる。結局家内は、三ヶ月ほど阪急電車に乗って、住んでいたマンションの最寄り駅の茨木市から、病院のある宝塚南口まで毎日「通勤」。実の息子が、土日しか見舞いに行かなかったのに比べると、実に献身的。まぁ、息子とは言っても私や弟たちに、入浴や着替えの手伝いはしてほしくなかったでしょうけど。

それ以来、結婚前の逆上ぶりは嘘みたいな、嫁の可愛がりよう。こういうのを「手のひらを返した」というんでしょう。今思えば、家内が私の家族に受け入れられたのは、実質的にあの事件がきっかけだったと思います。これも神さまの思し召しだったのかも知れません。

次は、いよいよシリーズ最終回です。


タイ国王 崩御


今日はフィリピンではなく、同じ東南アジアの国、タイの話題。

昨日、2016年10月13日、タイの国王ラーマ9世が亡くなりました。日本では「プミポン国王」と呼んでいますが、タイ語では「プーミポンアドゥンラヤデート」 "ภูมิพลอดุลยเดช" (Bhumibol Adulyadej)となるとのこと。ただし、この投稿では、日本で一般的な「プミポン国王」で通したいと思います。

国王崩御の報から一夜明けた今朝、タイ人の女友達のフェイスブックのプロフィール写真が、真っ黒なものに差し替えられていました。彼女だけではなく、他のタイ人のプロフィールも軒並み真っ黒。カバー写真も同じく黒無地を背景に、タイ語の文字が。恐らくプミポン国王への哀悼の意を表した内容だと思われます。

このタイの友達は、愛称「マイさん」。正確には家内の友達で、日本の大阪府茨木市に住んでいた頃、市が運営していた、ボランティア日本人講師による日本語教室のクラスメート。他にも台湾やスリランカなど、たくさんの在日外国人の方々と友達に。特に家内は、このマイさんと親しくしていました。今でもフェイスブックを通じてのお付合い。

日本の関西在住が長いマイさん。家内が来日してすぐの頃、すでに関西弁を流暢に喋っていました。英語はダメなので、家内との会話はすべて関西弁。フィリピン人とタイ人が、関西弁で意思疎通しているのは、なかなか不思議な光景。この間もフェイスブック・メッセンジャーで、昔と同じように「関西のオバちゃんトーク」をしてました。

日本語を日常的に使う、家内に対してもそうですが、マイさんも時々外国人だということを意識しなくなります。たまに母国語を喋ると「マイさん、タイ語上手やなぁ」と感心したり。なので、マイさんのプロフィールが黒になったのを見た瞬間は、ちょっと戸惑ってしまいました。そしてすぐに、マイさんのような、国外にいる市井の民までが悲しみに暮れるほど、プミポン国王は、国民に慕われていたのだと実感。

この感覚は、日本人が皇室に寄せる感情と、相通じるものがあるように思います。特に27年前、昭和天皇崩御での、国を挙げての服喪ぶりを思い出してしまいますね。


2016年10月11日火曜日

奥さまはフィリピーナ...か? その8「やっぱり冬は苦手」

前回の続きです。

やっと日本での、普通の結婚生活が始まりました。とは言っても、日本への渡航どころか、それまでフィリピン国外へ出たこともなかった家内。英語はTOEFL(世界標準の英語能力試験)で満点取るほどでも、日本語能力はまったくゼロ。最初は、日本での暮らしを手取り足取りで教えることに。

そこで、まず当時勤めていた大阪府の茨木市内にある会社へ、徒歩で通える場所に3LDKのマンションを借りました。駅からは少し遠く、路線バスが最寄り交通機関。ちょっと不便でしたが、通勤時間が片道15分。これなら何かあったら、すぐに帰宅できます。(首都圏で働いている人に比べたら、夢のような環境ですね。)

来日から数日は休みを取って、近所のスーパーや、クリーニング屋さん、バス・電車の乗り方等々、日々の暮らしをレクチャー。やはりかなりのカルチャーショックがあったようで、まず驚いたのが日本の食品の品揃えの豊富さ。鮮魚や果物ならば、フィリピンの方がすごいけれど、野菜に肉類、調味料、レトルト食品...。さほど広くもない店内に、ぎっしりと、しかも整然と美しく包装された食材が並んでいるのは、家内の目には目新しかった。

最近では、ネグロス島のシライのような田舎街でも、同じレベルのスーパーが出来ましたが、20年前だと州都(県庁所在地みたいな感じ)のショピングモールぐらいしかない。それが、周囲にまだ田んぼが残っているような場所でも、歩いて行ける場所に。

さて問題は、お買い物。あんまりたくさんの現金を渡してしまうと、すぐに全部使ってしまうんじゃないかと、多少の心配も。ところがそれは、すぐに杞憂だとわかりました。別に教えたわけでもないのに、自分で安い八百屋さんを探して来たり。面倒がらないので、やり繰りは私よりも上手いぐらい。財布丸ごと預けても大丈夫。

たまに高級輸入食材で、マンゴーを売ってるのを見ても、ペソに換算したら「その値段は犯罪だ!」と言って手を出さない。まぁ一個がフィリピンでの1キロと同じ値段でしたから。

数ヶ月もすると、私が持っていた「フィリピーナ」という言葉への偏見が、すっかり崩れました。たまに衝動買いする私が怒られるぐらい、金銭にはシビア。誰かの家に行くとなったら、約束の時間より少し早目に出かける。騒々しいのは好まず、私が音楽聴いてると、黙ってボリュームを絞ったり。

相手がフィリピーナだと感じるのは、意思疎通に英語を喋る時ぐらい。それも1年も過ぎると、毎日「公文」の日本語プログラムに通わせた成果で、日常会話はもちろん、敬語や大阪弁まで喋れるように。こうなると、国際結婚という意識すらなくなります。この頃になると、外を歩いていて、よく道を訊かれたりしてましたね。あんまりエキゾチックな顔立ちではないので、普通に日本人だと思われたようです。

予想より遥かに早く、日本の生活を楽しめるようになった家内。それでもやっぱり、クリスマスや正月になるとホームシック。喧しいのは嫌いでも、年末の深夜に静まり返っているのは、家内の感覚だと寂しいもの。確かにフィリピンだと、年末の半月間ぐらいは、町中で爆竹が鳴り、カラオケに野外ディスコで大騒ぎですから。

そして、もう一つフィリピーナらしいのは、冬が苦手なこと。連日10度以下の寒さなんて、人生初体験だったのもありますが、木々の葉が散ってしまうのが、何とも悲しいらしい。最初に街路樹が葉を落とし始めた時は「たいへん!木が全部枯れていく!」と大騒ぎになりました。映画のシーンとかでは知っていても、実際に見ると、かなりのインパクトだったんですね。

次回に続きます。



大阪の平野部でも年に数回は降雪


2016年10月9日日曜日

奥さまはフィリピーナ...か? その7「配偶者ビザ取得顛末」


前回の続きです。

ようやくフィリピン人の家内と結婚式も済ませたのに、一緒に日本には帰れないつらさ。事情が許すならば、日本へのビザが取得できるまでは、フィリピンで暮らしたかった。まるで、遠距離恋愛をテーマにした、JR東海のCM「シンデレラ・エクスプレス」(1987年)の気分。今でもこの曲を聴くと、泣きそうになります。

当時の私は、ごく普通のサラリーマン。家内はフィリピン大学で働く研究員。犯罪歴や不法滞在の記録があるのなら仕方がないけれど、何の問題もない男女でも、1990年代当時は、日比国際カップルというだけで、偽装結婚とか人身売買を疑うのは、当然だったのか。

マニラの日本大使館でも、日本の入国管理局でも、係員の態度は、まさにそんな感じでした。さすがに「容疑者」とまではいかなくても「無駄な仕事を増やしやがって...。」とでも言われているようで、とにかくその場にいることすら不愉快。今思い出しても気分が悪くなります。

それだけでなく「これが本当に日本の行政サービスか?」と言いたくなるほど、ビザの発給まで待たされる。帰国したのが5月の中頃。すぐに国内での婚姻手続き(フィリピンでの結婚を日本の市役所に届け出)をして、配偶者ビザの申請が、6月初旬だったでしょうか? 結局、家内が日本に来ることができたのが、その年の9月末。丸4か月経過していました。

因みに移住後、同じ配偶者の条件で、私のフィリピン永住ビザが発給されるまで、約5か月。フィリピンのお役所仕事を馬鹿にする日本人は多いですが、日本の外務省や法務省も大差はないですね。

それでも、知り合いの複数の日比カップルからは「画期的に早い」と羨ましがられたのは驚き。申請時に4か月かかると知っていれば、そうかも知れないけれど、ビザ発給がいつになるか、それどころか、ビザが本当に発給されるのかどうかすら分からない状態で、延々と待たされるのは、やはり体に良くありません。

ある時など、入国管理局担当者の、冷淡極まりない電話口調に腹が立って、「あなた、待ってる者の気持ちを、ちょっとぐらい想像できませんか? 何月何日にビザが出ると約束せぇ言うてるわけやない。いつ頃かの見込みぐらい教えてくれても、罰は当たらんでしょ?」と訴えたこともあります。

この投稿をするに当たって、もう一度フィリピン人との国際結婚の手続きについて、調べてみました。基本の流れは、変わっていないようですね。特に面倒なのは、日本の役所は、たとえ外務省であっても、日本語以外の書類は一切受理しないというところ。つまり、フィリピンで発行された出生証明書や結婚証明書は、英語でも全部和訳しないとダメ。

こういうことするから、悪質な手続き代行業者が蔓延る。ネットで「フィリピン、国際結婚」で検索かけると、この手のサイトばかりヒットしてウンザリ。書類の翻訳だけで10万円とか。本当に20年前から、何の改善もされていないようで、ため息が。

私たちの場合、書類集めも翻訳も全部自分たちで済ませました。代行業者に30万円も支払ったのに、結局ビザが下りなかった、なんて話を散々聞かされていましたから。

こういう経緯で、やっと家内が、マニラ発フィリピン航空のフライトで、関西空港の到着ゲートから出てきたのが、9月30日。ゴールデン・ウィークに結婚式を挙げて、できれば気温差の少ない夏頃には来日を、と思ってましたが、もうすっかり秋。私にも家内にも、本当に大仕事でした。

やっとは、日本での新婚生活のお話です。




2016年10月7日金曜日

フィリピンで夢見る阪急電車


一時帰国の時に梅田駅にて撮影

関西地方に生まれ育った人には、阪急電車好きが多い。正式名称「阪急電鉄株式会社」によって運営されるこの鉄道は、1907年(明治40年)、小林一三さんによって創業されたそうで、大阪の梅田ターミナルを拠点に、宝塚・神戸・京都を結ぶ関西屈指の私鉄です。

関西には他にも、日本最長の路線を有する近鉄や、阪急神戸線のライバル阪神、京都〜大阪を結ぶ京阪、大阪〜和歌山の南海の大手5社を始めとして、合計20社もの私鉄がしのぎを削る「私鉄王国」。その中でも特に阪急電車の人気が高いように思います。

私は、「撮り鉄」とか「乗り鉄」と称される鉄道愛好家ではありませんが、阪急電車は大好き。もう愛していると言ってもいいぐらい。生まれ育った家の最寄り駅が、阪急神戸線の塚口駅で徒歩10分ほどの距離。物心つく前から、お出かけというと塚口駅。私にとっては、梅田の阪急百貨店でおもちゃを買ってもらったり、ご馳走を食べに連れて行ってもらったり、おばあちゃんの家に遊びに行ったり...楽しいこと嬉しいことは、ほとんどすべて塚口駅が起点でした。

それだけならば、阪急電車に限らず、幼い頃から慣れ親しんだ鉄道に、誰でも愛着は持ちますが、阪急が特別だったのは、子供心にも憧れた高級志向。

まず、車両そのものが美しい。「阪急マルーン」と呼ばれる褐色のボディカラーは、昔から変わらない阪急の色。聞くところによると、元々は汚れや錆びが目立たないから採用されたらしいですが、そんなことは想像もできないほど、上品に見えます。

阪急電鉄の創業者・小林一三さんは、住む人の少ない僻地にばかりに鉄道を敷き、嘲笑されたそうです。でもそれは先見の明。敢えてそういう場所に駅を作り、宅地を造成して沿線開発。今では、阪急沿線の、特に急行停車駅近辺と言えば、高級住宅地のイメージが定着するほど。30年前に亡くなったおばあちゃんが、よく言ってました。「阪急は、客層がええ。国鉄と比べたら、お客さんの履きもんからして全然ちゃう(違う)。」

また、宅地だけでなく、宝塚歌劇場や、かつての阪急ブレーブスの本拠地だった西宮球場などの娯楽施設も建設。関西人にとっての阪急電車は、単なる移動手段をはるかに超えた、高級ブランドそのものでした。最近では「阪急電車」という小説が出版され、映画にまでなりましたね。

私の場合、大学は京都市内だったし、就職先も大阪。かなり最近まで通学・通勤は毎日阪急電車という生活が続きました。フィリピン人の家内と一緒になった後、引っ越し先も阪急沿線。結局ほぼ50年近くも、この電車にはお世話に。

そしてフィリピンへの移住。愛しの阪急電車とは、残念ながら縁切れ。ところが、時々夢に見る日本の風景。なぜか阪急電車に揺られていることが多い。時々、今住んでいるネグロス島とごっちゃになって、塚口駅から輪タクでシライ市の自宅に帰る夢も。そういう夢から覚めた朝は、ちょっぴり感傷的になったりします。

ということで、夢に見た情景を、想像力を目一杯膨らませて、イラストに描いてみました。阪急神戸線が、南に3000キロ、ネグロス島シライ市まで延伸され、始発駅の塚口から「阪急シライ市駅」に、国際特急が到着したところです。


直接日本と線路を結ぶのはありえないにしても、いつの日かネグロスに旅客鉄道が開通し、払い下げで阪急電車の中古車両が走らないものでしょうか? 夢と言うより妄想ですが...。


2016年10月6日木曜日

奥さまはフィリピーナ...か? その6「ついに結婚」

前回の続きです。

1998年4月25日、私たちは、フィリピンのネグロス島・西ネグロス州の州都バコロドにある、ルピット教会(Lupit Church)という場所で結婚しました。4月末と言うと、フィリピンでは最も暑い季節。昔ながらのカトリック教会の聖堂には、冷房もなく、扇風機と扇子で何とか熱気を凌ぎながらの結婚式。

ミサを執り行っていただいたのは、前年、私に洗礼を授けてくれたスペイン国籍のパラシオス神父。式には総勢200名ものお客さんが来てくれて、そのうち日本人の出席者は、両親と弟2人に加えて、当時私が勤務していた会社のフィリピン法人に所属する2人の先輩社員、そして私を入れて7名でした。

親も来ているので、神父さまには、日本名で呼んでくださいとお願いしてました。でも式が始まると、そんなお願いも頭から消えたのか、神父さま自身が名付けた霊名「フランシスコ」で通してしまわれたのは、ご愛嬌。「お前のどこがフランシスコやねん?」と、母親には死ぬほど大笑いされてしまった。


バコロド市内にあるルピット教会

この結婚式に至るまでは、いろいろありました。
フィリピン滞在時には別荘に泊めてもらい、さらに家内を紹介してもらった家内の叔母夫婦。残念なことに、その人たちと絶縁状態に。しかし家内の両親には、思いの外気に入られた私。以後、家内の実家近くのペンション・ハウス(下宿)みたいな、小さなホテルに宿泊しながら、家内とはデートを重ねました。

そして一番たいへんだったのが、この両親に向かっての「お嬢さんをください」スピーチ。以前にも少しこのブログで触れましたが、ちゃんと原稿を用意して英語でのプレゼンテーション。海外市場向け電化製品のデザイン開発という仕事柄、英語での売り込みには慣れていましたが、あんなに緊張したことは、後にも先にもなかった。

当時住んでいた尼崎市内にあった、ショッピングモール「つかしん」の西武百貨店。そこで、小粒ながらもダイアの指輪を買い込んで、プロポーズの時には、ちゃんとプレゼントしましたよ。今でも正装の時、家内は結婚指輪とダブルで指にはめています。

それから直前には、カトリックの洗礼前の私の離婚歴に、式を挙げる教会から物言いが付いて、当時マニラにおられた、日本人の西本神父さまに助けを求めたりもしました。

さて、結婚式と披露宴の段取りはと言うと...。
私がしたのは、日本から現金30万円を持って来ただけ。場所の予約、衣装や食事の依頼、出席者への招待状、教会から式場のホテルへの移動手段など、すべて完璧に家内が仕切ってくれました。日本だったら当たり前でも、フィリピンでこんなに(日本人の感覚で)滞りなくセレモニーが進行するなんてのは、ほとんど奇跡。それは、だいぶ後になって、親戚や友人の結婚式や葬式に参列しての実感。この時が、家内の「フィリピン人離れ」した実務能力を目の当たりにした最初でした。

因みに、フィリピンならではの結婚式アイテムは、完全オーダーメイドの花嫁衣装。一生に一回しか着なくても、作るのが女性の夢なんだそうです。今でも実家のワードローブには、保管されているはず。それと欠かせないのが、豚の丸焼き「レッチョン」。私たちの披露宴では、さらに張り込んで、仔牛のレッチョンが用意されました。残念ながら新郎新婦は、ゆっくり食べてる間がなかったですが。

そして、フィリピン側の出席者が全員白の衣装。男性はバロン・タガログという麻で仕立てた襟のあるシャツ。女性もこれまた見事なまでに白のドレス。私も事前に「白かベージュ」と家内から教えられて、ベージュのスーツを持って行きました。結果的に、私の日本の家族だけが、日本スタイルの略礼服で真っ黒けということに。暑かったやろなぁ。知らなかったとはいえ、とても気の毒なことになってしまった。

結婚式の一週間後、新婚旅行先の隣島パナイから帰ってから、ネグロス島のバゴという街の市役所で婚姻届を提出。フィリピンでの手続きは、思ったより呆気なく完了しました。ところが情けないことに、フィリピンの法律では正式な夫婦なのに、日本での手続きは、これから。当然ビザもなく、家内はフィリピンに足止め。私は、新婚ホヤホヤの新妻を残して単身帰国です。マニラのニノイ・アキノ国際空港で、またもや「涙の別れ」となりました。

半年がかりの入国ビザ手続きの顛末は、次回に。


2016年10月3日月曜日

奥さまはフィリピーナ...か? その5「超遠距離恋愛」

前回の続きです。

性懲りも無く、またもや始めてしまった3000キロの超遠距離恋愛。フィエスブックやスカイプ、LINEもない1990年代。インターネットそのものが、まだ本格的に普及する前で、日本ですらダイアルアップが主流の時代でした。そもそも相手に個人アドレスがなく、ようやく勤め先のフィリピン大学の研究室に、共用のアドレスが10人に一つあるという状況。

携帯電話と安いカード通話は、私たちが結婚してから爆発的な普及拡大。ほんの少しの差で、手間もお金もずいぶんかかりました。本当に今、海を越えて恋愛しているカップルが羨ましい。

国際電話はとんでもなく高くついて、もし1時間も喋ったら関空〜マニラの往復航空券が買えるほど。どうしてもメインのコミュニケーション手段は、古典的ながら手紙になってしまいます。フィリピンでは今に至るも信頼度ゼロの普通郵便。届くのがいつになるやら、神のみぞ知るという国なので、毎回EMS(国際スピード郵便)のお世話に。

そして共通の言語は英語だけ。グーグル自動翻訳がない時代、便箋数枚の手紙を書くのも半日がかり。その代り英作文の能力は飛躍的にアップしました。以前にも投稿したことがありますが、外国語を勉強するなら、国際恋愛ほど強力なモチベーションはないでしょう。


分厚い透明ファイル二冊分のラブレター
よく書いたもんだ

これだけだったら単なる手間の問題だけだったのが、少々厄介な事が持ち上がりました。家内を紹介してくれたMさん。ある時期から明らさまに私のことを煙たがるようになり、ついには完全シカト。教会で会って挨拶しても、無視して目も合わしてくれない。フィリピン人で、家内の叔母でもある、Mさんの奥さんも同様の態度。

あまりに唐突だったので、何が起こったのか分かりません。考えてみるに、それ以前にMさん夫妻が面倒を見たのが、言葉すら満足に通じないカップルばかり。手取り足取りの世話を焼くのが当たり前。ところが私は当時でもすでに三十代半ばの大人。仕事で海外経験もかなり積んで、英語もネイティブには遠く及ばないものの、意思疎通には苦労しません。

いくら紹介してもらった恩人と言っても、男女の間のことまで微細に報告するのも変だと思ってました。不義理なことをした覚えは全くなかったけれど、どうも蔑ろにされたと感じたらしい。いきなり絶交状態になってしまったMさん。屋根に登ったのに梯子を外されたとは、このことです。

なかなか結婚まで話が進みませんね。次回に続きます。