2016年6月30日木曜日

テニスができない雨季のネグロス


日本では本格的な梅雨を迎えているようで、ネットの天気予報を見ると「激しい雨に警戒」とか「土砂災害に注意」などいう恐ろしげな見出しが躍っています。

フィリピンでは、真夏がゴールデンウィークの頃だったり、年間最低気温が平地では20度以下にはならなかったりで、日本とは、いつも全然違う天候のイメージがあるかも知れません。ところが、6月〜7月だけは、ここネグロスでも雨季の初めで、日本と同じような感じ。

今年は台風の発生が遅く、幸いにして数日に渡るような集中豪雨は、まだありません。しかし、朝晴れていても、午後からは連日の夕立。これこそ本家ゲリラ豪雨で、短時間でも相当な雨量です。室内にいても、会話ができないほど雨音になることも。

去年までは「ああ、雨が多くて鬱陶しいなぁ」で済んでいたのですが、今年の3月頃から、パートナーが見つかって、ほとんど毎日のテニス。もっぱら近所の屋外市営コートなので、雨が降ったり、晴れていても前日の午後以降に夕立があると、コートが湿ってプレーすることができません。

そして、せっかく小麦色に焼けたのに、2週間もすると、ほとんど元に戻ってしまいました。まぁ肌が丈夫だということなので、悪いことではないんでしょうけど、買い物の時にフィリピン人に間違えられる楽しみがなくなってしまった。ついこの間など、レジで早口のイロンゴ語(西ネグロスの方言)で話しかけられました。「イロンゴ喋れません」と片言のイロンゴで返したら「じゃぁ、セブの人ですか?」。
韓国人や中国人に間違われるより、こっちの方が楽しいんだけどなぁ。

今朝は、久しぶりに地面があまり湿っていないようで、7時前に、子供を学校へ送って行った帰りにコートに寄ってみました。お世辞にも綺麗とは言えない市営コートですが、一応管理人がいます。コートの裏でサリサリ・ストア(雑貨屋さん)を営んでいる、私と同年代の50過ぎぐらいのおじさん。

英語で「今日はテニスできるかなぁ?」と聞くと、イロンゴで捲し立てられました。この人、いくら英語で話してかけても絶対イロンゴしか返ってこない。それでも犬か猫でも追い立てるような仕草だったので、言いたいことは理解。「バサ、バサ」と繰り返してたのが、やたら耳に残りました。

帰宅して家内に尋ねると「バサ」とは「湿ってる、濡れてる」の意味。こんなに具合に覚えると、外国語の単語って忘れないですね。


昼過ぎには、東の空に決まって入道雲


2016年6月28日火曜日

人生からの脱線力を鍛える


フィリピンに移住して4年目に入り、小学生になって以来、学校にも行かず就職もしていない期間の記録更新中の日々を送っています。とは言っても、子供の学校への送り迎えや、食事の用意、買い物など、限定的ながら主夫業はやっているので、働いていないわけでもない。

「ネグロス島永住日記」なるブログのタイトルからして、これから海外移住する人が参考にしそうですが、実は定年退職者向けのつもりで書いています。私自身へのインパクトを考えると、住む場所を日本以外の場所に移したことよりも、会社を辞めて、給与生活者でなくなったことの方が遥かに大きい。

いわゆる「悠々自適」とも言えるのですが、有り体には、預金を切り崩していく生活。ただ65歳以降は、年金生活者になる予定なので、日本の経済と年金システムが崩壊していなければ、あと十年と少しで、今度こそ名実共に「定年退職者」になるはずです。

思い返せば移住直前には、会社の同僚や先輩社員、親戚からも、散々「仕事辞めてどうするんだ?」的なことは言われました。「毎日何をするつもりだ」とか「働かないと、すごにボケる」「男は仕事してこそだ」などなど...。こうして書くと、まるで何年か仕事をしない生活を送った人からのアドバイスのようです。実際こう言ったのは、それこそ大学や高校を卒業以来、働きづめに働いた経験しかない人ばかり。

2012年の年末以来、丸三年半の間の就職してない生活を送ってみて、やることはいくらでもあるし、今のところボケそうな様子もなく、男であることにも変化はありません。

俗に「寝て暮らせる」なんて言い方がありますが、もしそんな生活をイメージしたいたのなら、確かにボケるだろうし、3年どころか1か月もすれば飽き飽きしてしまったでしょう。現実には会社を辞めて、健康で、充実感のある生活を維持するには、それなりの努力と知恵が必要です。

雨季に入って少々ご無沙汰ながら、家内に呆れられるほど毎日テニスをやっていたり、筋トレに励んでいるのもそうだし、イラストを描いたり、せっせと写真を撮ってフェイスブックに投稿しているのも、さらにはこのブログを書くことだって、心と体の健康を保つための大切な活動。一番効果があるのは、毎日の料理かも知れません。

並べてみると、何でもないことに見えますが、50歳過ぎて続けるには、少なくとも何年か前からの準備や、興味を持ち続けられるだけの知識、スキルがないと難しい。もちろん、若い頃から早期退職を目指していたわけではなく、結果的にそうだったというだけ。だからこそ、仕事以外に何もしない(できない)ような人生を送ってこなくて、本当に良かったと思うのです。

現時点で確定している年金の内容で、65歳以降暮らせる見込みなのも、28年間も日本で働いてきたからこそなので、働くことを否定したり見下したりするつもりは、全然ありません。仕事に熱中した経験もあるし、生涯現役で本当に自分も家族も幸せだと言えるなら、それは羨ましい限りです。しかし、誰もがそんな人生を死ぬまで続けられるわけでもない。

最近ツィッターで、ホリエモンこと堀江貴文さんをフォローして、いろいろ良い言葉に接しています。中でも気に入っているのが「人生からの脱線力を鍛える」。こう書くと、堀江さんからは「それはちょっと意味が違うよ」と言われそうですが、今の自分と、家族との生活があるのは、知らず知らずのうちに「人生から脱線」に備えていたからだと感じています。


最低のアップル・フィリピン

三日前の金曜日の夕方、突如として愛用のiPhone6plusの電源が入らなくなりました。ホーム・キーとオン/オフ・キーの長押しでダメ。充電してもダメ。さらにはMacにつないでiTunesからの「復元」を試みても、散々待たされた挙句に「ディバイスを認識できません」と突き放される。

このiPhone、私にとっては、記念すべきフィリピンで初購入のアップル製品。日本から持って行ったiPhone 4Sのバッテリーがヘタっている上に、がっちりSIMロックがかかっていて、携帯電話としてフィリピンでは使えない。移住後に買ったノキアと二つ持ちが不便なので、1年ちょっと前に州都バコロドで手に入れました。

私たちの住むネグロス島には、Apple StoreではなくiStore(アイ・ストア)というアップル専門店があります。なぜApple Storeではないかというと、直営店ではなくフランチャイズだから。日本やアメリカにあるApple Storeに比べると、規模も小さく品揃えも限定的。ただ、フィリピンのパソコン関連の店の中では際立って綺麗だし、それなりにアップルらしい内装設計。これならば、商品も日本のアップルと同じだと思ったんですけど...。


最初の「異変」は、まるで狙い澄ましたかのように、購入後1年と1日が過ぎた日に起こりました。フェイスブックに毎日表示される「過去のこの日」で、新しいiPhone買って、ちょうど1年かと思ったところ。その時も今回と同じように、落としたりぶつけたりした覚えはないのに、急に電源が入らなくなり、何をしても無反応。

そこで、購入元のバコロドのiStoreに持ち込み。日本のApple Store並みの丁寧さと、知識を持っているスタッフがいるとの期待は、ものの見事に裏切られました。まず、絶対に謝らない。忘れもしない、買った時はあんなに嬉しそうな顔してた若い女のスタッフ、不具合が出たとなると「面倒なことを言ってきやがって」と露骨に態度に出す。

まぁ、そのスタッフが製造責任者ではないので、自分のこととは思わないというのは、フィリピンの小売店ではよくある話。それにしても価格を考えてほしい。4万ペソ以上なので、日本円で約10万円。(アップル製品は、日本よりフィリピンの方がやや割高)どう考えてみても、このスタッフの2か月分以上か、ヘタすると半年分の給料と同額。それが、保証期間が過ぎた直後に使えなくなってるのに、きみには、想像力がないのか? 

しかも、不具合に関しては、まったくの素人。当たり前のように、サポートセンターの住所と電話番号をコピーした紙切れを手渡すだけ。これには、フィリピン慣れした私も、かなり頭に血が上りました。「二度と来るか!」とばかりに、店を後に。

その時は、自宅に持ち帰った後にもう一度Macで「復元」を試してみたら、なぜか何もなかったかのように完治。ああよかったと胸を撫で下ろしたところだったんですけどね。

しかし、今回は3日経っても改善の兆しがないので、小売店ではなく、以前にもらった紙切れに書かれた住所の、サポートセンターへ持ち込み。パソコン関連の販売店が集まったテナントビルの一角で、細々とやっている感じの場所で、見るからに頼りになりそうにない。案の定、ソフトの対応ではダメで、ハードに問題があると分かった途端、あっさりと「シンガポールの修理工場に送って、中身を入れ替えるしかない」と言い放ちました。



そうか、フィリピン国内ではハードの故障に対応できる場所がないのか。それでよく、こんな高価な製品を販売するなぁ。そして戻って来るまで最長で1か月もかかって、費用が2万4千ペソ(約6万円弱)って...。それやった新しいのを買うって。しかも、やっぱり一言も謝らないし。

日本にいる頃から、アップル製品は使い勝手の品質は最高でも、すぐに不具合を起こすし、何か起こっても、冷たい対応しかしてくれないとは思ってたけど、フィリピンのアップルは、それに輪をかけて最低のサービスですね。

私は二回目ということもあり、呆れ返るだけでしたが、同行した家内がカンカンになり、新しいiPhoneを購入したiStore(バコロドではなく、隣のタリサイ)で、これまた若い女のスタッフを相手に怒りが爆発。恐れをなした彼女が、文句を言ならこっちにとばかりに、アップル・フィリピンのホットラインの電話番号(フリーダイヤル)を教えてくれました。

昔、バブル期に大ヒットした、ソニーの世界初ヘッドホン・カセットプレーヤー「ウォークマン」が、1年過ぎたら決まって故障すると言われ、「ソニー・タイマー」と、不名誉なアダ名で呼ばれたのを思い出しました。

ということで、また10万円。家内の手前、少しでも安いのをとiPhone 6Sに格下げで、画面が小さく。新品購入の高揚感は皆無。今日は「腹立ち日記」になってしまった。



2016年6月27日月曜日

ユニクロがネグロス島に


隣街の州都バコロドにある、ネグロス島最大のショッピングモール、SMシティ・バコロド。そこ中の、しばらく前から「Coming Soon」の表示が出ていた場所に、2週間前、ちょうど私が一時帰国から戻った翌日に、ユニクロがオープンしました。

フィリピンでユニクロを展開する、ファーストリテイリング・フィリピンは、2012年の1月に設立。2016年6月現在で、すでにフィリピン国内に32店舗があります。ほとんどはマニラ首都圏周辺や、ルソン島内ですが、最近ではセブ島に2店舗と、ビサヤ地方にも進出。そしてついに、隣島パナイの州都イロイロに次いで、我がネグロスにもやって来ました。

オープン二日後の父の日に、早速トライ。母の日に比べると、何となく影が薄い日本での父の日とは違い、家族を大切にして、それをちゃんと態度や言葉で表現する国フィリピン。さすがにショッピングモールは、家族連れで大賑わい。

人出は多く、オープンしてからの最初の日曜日。しかし店内のお客さんは、それほどでもない。車や家電ではお馴染みの日本ブランドも、アパレル系では珍しいのと、日本での価格がほぼスライドしているので、こちらでは高級品。そんな事情もあってか、地元のお客さんも、やや様子見している感じ。


実は、一時帰国からの帰り、関西空港内のユニクロでお土産にTシャツ数枚を買ったばかり。ひょっとして同じものがあるかもと探してみたら、きっちりありました、息子のために買ったドラえもん。値段もだいたい同じで苦笑いです。


もう移住して3年で、日本のユニクロをずっと見続けてきたわけではありませんが、品揃えや店内のレイアウトは、私の知るユニクロとそんなに違わない印象。ただし真冬に着るようなアイテムはないし、色使いは若干派手なものが多いような気がします。


レジのある一角の壁面には、数台の液晶ディスプレイがあって、ユニクロのグローバル・キャラクター錦織圭くんのイメージ動画が流れていました。当然なんですが、やっぱりいいですね。ちょっぴり日本人であることが嬉しい感じ。


さて、これでバコロドに来た時の投錨地が一つ増えました。一ヶ月に一度ぐらいは覗きに来てみようと思ってます。


フェイスブックで大統領になった男ドゥテルテ


出典:Inquirer.net

またもや次期大統領のドゥテルテのお話。
この投稿を書くにあたって、当選後のドゥテルテについての日本語記事をざっと読み直してみました。「暴言」「犯罪撲滅」「対中国政策」などなど、いろいろ書かれているものの、正直に言って本当のところの政治手腕は「未知数」と言う感じ。

しかし、聞く所によると、すでに一部では犯罪率が下がり始めているらしく、ダバオ市長時代の荒っぽい業績の抑止効果が見えてきている。その他にも、警察官の給与アップの取り組みや、旅客鉄道敷設の計画(現在フィリピンには、マニラ首都圏以外に旅客鉄道は営業されていない)も取り沙汰されています。

「経済発展をもたらしたが、退屈」と評された前アキノ政権と違い、何かにつけ派手で記事になりやすいせいか、フィリピンの大統領にしては珍しく、日本でも話題になっているドゥテルテ。しかしフィリピン人の家内が言うところの、ドゥテルテの大統領選勝利のメソッドには、あまり触れられていないようです。

それはフェイスブック。
実際にフィリピンにいると、まるで全員がアカウントを持ってるのかと思うほど。ビジネスのためのページを開設するのも一般的だし、知り合いの知り合い程度のつながりでも、ガンガン友達申請が来ます。今回の選挙でも、老いも若きも政治絡みの投稿が本当に多かった。この国民的コミュニケーション・ツールを、最も有効に活用したのがドゥテルテなんだとか。

ドゥテルテが他の候補と比べて際立っていたのがメディア戦略で、伝統的にフィリピンでは、政治家が放送局や大手新聞に多額の賄賂を払って、好意的な報道をさせるのが当たり前。ところがドゥテルテは、この賄賂支払いを断固拒否。当然、テレビなどでは、対ドゥテルテのネガティブ・キャンペーンが溢れることになりました。

それとは裏腹に、フェイスブックでの有権者への訴えかけは熱心で、選挙の終盤、私のニュースフィードには、フィリピン人の友達にシェアされた、ドゥテルテ支持の投稿がずらりと並ぶことに。そして6月30日の大統領就任式。ドゥテルテが放送局追っ払っちゃったので、テレビは国営放送のみオンエア。でもフェイスブックでは、きちんとライブ中継予定。

乱暴で強権的な独裁者というイメージに偏り過ぎだったのは、お金を貰えなかった従来メディアの嫌がらせで、実はドゥテルテという人物、相当な切れ者だったようですね。


2016年6月24日金曜日

3年目の一時帰国 世界一清潔で便利だけど...。

一時帰国の投稿はこれでおしまい。最後にまとめみたいなことを書いてみます。まぁ、移住前から分かっていたことではありますが、3年間フィリピンに住んでから、生まれ育った街、尼崎に帰ったり、東京に一泊しての実感。

間違いないのは、大阪も東京も世界で一番清潔で、世界で一番便利な場所だということ。大阪が清潔か?と疑問を持つ方もおられるかも知れませんが、どんな細い裏道を歩いても、ゴミだらけで悪臭が漂うような所は、滅多にありません。手前味噌ながら、尼崎の実家の周囲など、タバコの吸殻一本を探すのにも努力が必要なほど。

買い物しても店員さんの対応は、こちらが恐縮するほど丁寧だし、包装は念入り。交通機関の便利さに至っては、朝夕の混雑さえ無ければまさしく世界一。愛する阪急電車の素晴らしさは別格としても、関西圏も首都圏も、電車の本数は多いし、時間通りに運行されるし、車内も駅構内も掃除が行き届いている。

そして忘れてはならないのは、電気も水道もガスも超安定供給。停電の心配がない生活が当たり前だなんて。何より水道水が飲めて、そのまま煮炊きに使えることの便利さ。

フィリピンだけでなく、他の東南アジア諸国や南アジア、西ヨーロッパ、アメリカなど二十数か国を旅しましたが、こんなに綺麗で整備された国は見たことがありません。比べられるのは、私の知る限りシンガポールぐらいでしょうか。

ことほど左様に、清潔で便利な国なのですが、思い起こすのは、ここで働いて生活することの息苦しさや窮屈さ。世界一丁寧な接客や、正確無比な電車の運行も、それを支える側に立てば、毎日が緊張の連続。私も28年間も電気製品の開発に携わり、お客さんからのクレームの嵐を経験してきたので、容易に想像できます。

特に最近は、運転手が朝寝坊して始発電車が遅れたとか、どこかのレストランで店員の態度が酷かったとか、簡単にネットで晒し者にされて、場合によっては職を失ったりもします。フィリピンでは、考えられないほどの不寛容さ。それに加えて異常なほどの長時間労働。

蓄えに余裕があったり、年金生活に入って、毎日あくせく働く必要がなければ、日本は本当に住みやすい国なんでしょう。しかし残念ながら私の世代では、悠々自適の生活ができるほどの年金は貰えません。今回何度かタクシーに乗りましたが、どの運転手さんも私よりずっと年上。それでも働き続けないと、お孫さんにお小遣いも上げられない。寂しいことですが、これが今の日本の現実なんですね。


友達に案内してもらった、大阪駅ビル屋上の空中庭園



2016年6月23日木曜日

3年目の一時帰国 ネグロス島観光の勧め

一時帰国についての5回目の投稿です。
短期間の割には、とてもたくさんの懐かしい人たちと再会しました。そこで決まって出る会話は「一度フィリピンに遊びに行きたいですね...。」「是非、来てください。」

海外からの一時帰国者ならば、大抵こういう話の流れになると思います。ちょっとした知り合いだと、その場の雰囲気で言ってしまうことあるでしょう。しかし、今回会った人の中には、本当にフィリピンへ、しかも片田舎のシライにまで来てくれた人が何人かいるので、まったくのリップ・サービスというわけでもなさそうです。

私も、できればたくさんの友達や親戚に来てもらいたいので、旅行代理店の担当者のように、シライやネグロス島を熱心にアピール。特に東南アジア諸国やフィリピンを旅行した経験のない人にとっては、フィリピンに行くと言うより、私の家に来て頂くことに興味があるかどうかだろうと思い、私自身が出来るだけ良い印象を持ってもらえるよう努めました。(もちろん、それが目的で帰国したわけではありませんが。)

我が家へのお客さんや、NGO関連のインターンで知り合った学生さんのことを振り返ってみると、シライが良かった、フィリピンが楽しかったと言う人は「パッケージツアーで、何もかもお任せ、上げ膳据え膳でないとダメ」ではなく、自分から面白そうなことを見つけに行こうというタイプばかり。

今回会ったのも、そんな感じの人が多かったので、わくわくしながら、でも焦らず気長にお越しをお待ちしたいと思います。

とは言っても、ビジネスではないので、無制限に誰でも来てくださいという意味ではありません。以前にも投稿しましたが、SNSでたまたま私の投稿を読んだ見ず知らずの他人からいきなり「ホームステイさせてください。もちろん宿泊含めて全部面倒見て。」という、甚だ常識のないメッセージを貰ったことがあります。

当たり前のことですが、別に海外在住ではなくても、自宅に誰をお招きする場合、特にお泊まり頂くとなると、お互いによく知っている人であることが前提。招く側はもちろん、来る人にとっても、フィリピンで、会ったこともない人を信じるのは、かなりリスクが高いですよ。特に妙に馴れ馴れしく声をかけてくる日本人が一番危ない...。


今朝、自宅の庭にて


2016年6月22日水曜日

3年目の一時帰国 ちょっとだけ浦島太郎

私の父は、1970年代に足掛け七年に及ぶドバイでの単身赴任の経験者。当時はもちろんインターネットはなく、国際電話もとんでもなく馬鹿高いので、そうそう使えない時代。最後には日本の親会社が倒産して、自力で現地で仕事を見つけて、帰国の飛行機代を稼いで帰って来たという苦労人です。

おそらく帰国後は、何から何まで変わってしまい、浦島太郎状態だったでしょう。息子である私が、小学生から高校生になっていたので、それが一番の変化だったかもしれません。

そんな時代に比べると、今ではフィリピンにいても、ほとんど日本にいるのと同じぐらいに情報が入ってくる。しかもフェイス・ブックやツィッター、LINEなどなど、動画で会話もできる。日々の近況など私が福岡に住んでいる時より、関西在住の友人知人とは連絡が密になっているぐらい。

とは言っても、前回の投稿のように、食べ物の味はその場に行かないと分からないし、親戚の子供の成長具合や、街並みの変化については、やはりちょっとだけ浦島太郎気分。

今回は、東京へも足を伸ばし、同窓会や旧知の人たちとの再会の合間に、大型の電気製品量販店へ。中国・韓国からの観光客が多いとは聞いてましたが、噂に違わぬとはこのこと。平日の朝、開店時間にはもうたくさんのお客さんが並んでるし、聞こえてくるのは中国語や韓国語ばかり。そういえば、前日待ち合わせをした品川駅でも似たような雰囲気でしたね。


昔も繁華街では時々中国からの団体客を見たものですが、失礼ながら当時は服装もダサく、見るからに田舎者丸出しの人が多かった。ところが、今では見た目は日本人の家族連れと大差がない。(友人に言わせると女性のメイクが違うらしいんですが。)

電気店でも駅でも、案内表示は日英に加えて中韓の4ヶ国語表記が当たり前。私は有楽町のビックカメラで少し買い物をしましたが、フィリピンでやたら韓国人に間違われるので、日本人と思ってもらえるか、ちょっと緊張してしまいした。



地元では、万博公園にできたエキスポシティが
一番変化が大きかった場所でした



3年目の一時帰国 世界最強の食事

一時帰国の投稿、三回目です。
帰国前に「食べたいものリスト」など書いたように、海外在住の日本人は、大抵日本食を恋しく思うもの。フィリピンのように、多少割高でも日本の食材がかなり入手できて、その気になれば、あんまり国内にいるのと変わらない食生活ができるとはいえ、やはり日本での食事、特に外食産業の圧倒的な質の高さは、格別。

極端な話、コンビニ弁当や、おにぎりですら驚くほど美味しく感じられます。これは、私が特別に敏感になっているというだけでなく、例えばフィリピン人の家内が、18年前の初来日時、何を食べさせても美味しい美味しいと言っていました。それもファミリーレストランとか、普通に駅前にある蕎麦屋さん。餃子の王将、天下一品、家族亭は、家内の大のお気に入りで、フィリピンでも絶対売れると力説していました。

そして、スーパーの品揃えもすごい。もちろんフィリピンのスーパーも大きいところだと、品数は日本に比べて遜色はないのですが、生鮮食料品、特に野菜の種類の豊富さは、フィリピンで暮らしてみて分かりました。これに関しては、自分で毎日食事を作るようになってから、実感してます。

ということで、今回はたくさんの友達や親戚に食事をご馳走になりましたが、メインはフィリピンではなかなか食べる機会がない、お寿司や刺身が中心。それ以外にもうな丼やら、鯛の煮付け。中華料理もすごく美味しかったし、ご自宅で頂いた、手作りの家庭料理も涙が出るほどでした。





要するに何を食べても感動レベル。もちろん天下一品と家族亭も制覇。心残りだったのは、王将に行けなかったことと、あんまり出歩いてばかりで、母親の手料理をほとんど口にできなかったことぐらいでしょうか?



とはいえ、滞在期間が一週間そこそだったので、これほど幸せに感じられたのかも知れません。ものの一ヶ月も居れば、それが当たり前になってしまうんでしょうね。


大阪福島のカレー専門店「パンニャ」も最高でした。


2016年6月20日月曜日

3年目の一時帰国 聖歌爆唱 武庫之荘教会


一週間ちょっとの一時帰国で、ちょうど真ん中あたりが日曜日。素行不良の信徒ではありますが、これでも一応カトリックなので、やはり日曜の朝はミサに与ります。日本にいる頃、最後に所属していたのは福岡の西新(にしじん)教会。今回は関西と一泊だけ東京というスケジュールだったので、地元、尼崎市内の教会に足を運びました。

この日にお邪魔したのはカトリック武庫之荘教会。高校の同級生で、割と最近になって再会したK君が所属する教会で、私にとっては初めての場所。それほど大きくはないけれど、日本の教会らしく清潔で掃除が行き届き、何よりも明るい。フィリピンの教会は、スペイン統治時代のスタイルそのままで、大抵は薄暗く、大きな聖堂になるほど、埃っぽいところが多い印象です。

K君曰く「プロテスタントの教会みたいやろ」とのことですが、フィリピンの教会を見慣れた私にとっては、典型的な日本のカトリック・チャペル。

そして小規模な日本の教会ではよくあるように、信徒さん同士がお隣さんのように、親しくご挨拶。ただ、やはり日本のカトリック全体と同じく、平均年齢はかなり高め。もう50代の半ばである私やK君が、まだまだ中堅に感じられます。

さて、いよいよミサの始まり。三年ぶりの日本語でのミサに備えて、この日に歌われる聖歌の番号をK君に教えてもらって、フィリピンで練習してきました。我ながら気の小さいこと。

練習の甲斐あってか、気持ち良く歌うことができましたが、変に目立ってしまいました。以前にいた西新教会とまったく同じ状況で、高齢の方が多く、どうしても歌声は控えめ。しかも、十名ほどおられた聖歌隊のメンバーは大半が女性で、バリトンの男性がお一人。テナーで声量だけはある私の声が浮くのは、仕方がないですね。

早速ミサの最後に、フランス人の神父さまに、聖歌隊へのお誘いが。身に余るお言葉でしたが、残念ながらフィリピンに住んでますとお伝えすると、苦笑いされてました。

実は、この教会とのご縁は、友達のK君がいただけではなく、何とK君の友人で、フィリピンのネグロス島(!)在住のMさんの所属教会だったということもありました。このMさん、娘さんの留学のために、親子で東ネグロス州に住んでおられます。私たちの住む西ネグロス州からは、島の反対側。こんな偶然もあるんですね。世界も狭くなりました。

当日は、これまた偶然にも同じ時期に、Mさんと娘さんも一時帰国されていて、ミサの後、お昼ご飯をご一緒させていただきました。これも神さまのお導きということでしょうか?


2016年6月18日土曜日

3年目の一時帰国 ほんとに少子化?

一週間ちょっと、日本に帰っていました。三年ぶりの日本。日頃、もう日本に住みたくないとか、散々ほざいておりましたが、こうして観光客っぽく訪れる日本は、殊の外いい国だったりします。何が良かったかは、追々書いていくとして、まずは第一印象。

私が移住する前から、日本では少子化・高齢化が深刻な社会問題だと、テレビでもネットでも大騒ぎしてました。しかし、私の子供は離日時に小学校1年生を終えたところで、家に子供の友達が遊びに来たり、近所に小学校や幼稚園があって、ちっとも子供が少ないという感じがしません。

フィリピンに来て、道端でも子供が溢れるような状況で、さすがに日本よりは圧倒的に子供が多いと思ったものの、またこうして日本に戻ると、空港でも実家の周囲でも、当たり前に子供はいます。

今回は、十三組もの親戚や友達と会って、お宅にお邪魔したり、一緒にちょっとした観光をしたりしましたが、そのうち七組がお子さん連れ(それもほとんどが小学生以下)。生後1年ちょっとの赤ちゃんが一人、二人兄妹が二組、二人姉妹と二人兄弟が一組づつの二組、三人姉妹が二組。なんだか、ずっと子供と一緒にいたようでした。
正直、事前知識なしだったら、日本が少子化なんて嘘やろ?と思ったでしょう。

実は私、若い頃は大の子供嫌いで、電車内で赤ちゃんが泣きだしたりしたら、迷わず次の駅で降りてしまうほどの脆弱さ。ところが自分が父親になってからというもの、すっかり人変わり。さらに子供がウジャウジャのフィリピンで三年間を過ごして、いつの間にやら、子供大好きのオッさんになってしまいました。

日本で会った子供たちも、親御さんに「この子が初対面の人に、こんなに懐くなんて見たことない」と嬉しいことを言ってもらえるほど。これは、日頃たくさんの子供たちと接している方ならばお分かりのように、相手と同じ目線になって、相手を大人扱いというか、同い年の友達に話すように接するのがコツ。

関西人的にいうと、恥じらわず大胆にボケて、躊躇わず全力でツっこむこと。まず、親を笑わすぐらいの勢いでないと。

そんなこんなで、昔からの友達や、久しぶりの親戚に会うのと同じぐらい、子供たちにはパワーを分けてもらい、実に幸せな一週間を過ごすことができました。みんな次は、フィリピンにおいでな。オっちゃん、待ってるで。


日本はちょうど紫陽花が見頃の季節でした


2016年6月4日土曜日

読んだはずだった「精霊の守り人」

少し前、NHKで「精霊の守り人」が実写ドラマ化されました。まだ本編を見てませんが、主演の綾瀬はるかさんの演技も含めて、なかなか好評だったようですね。

最初、この話を聞いた時、てっきりシリーズ最初の一冊だけだと思い込んでましたが、なんと3年かけて、全10巻の全部を映像化するんだとか。これは快挙というか、無謀というか、よく企画が通ったと思います。しかし、原作の上橋菜穂子さんが関わっていて、シーズン1の出来栄えにかなり満足されているようなので、いずれはDVDで大人買いして、じっくり見てみたい。

私は、この作品に神山健治監督のアニメ版で出会いました。(こちらもNHK製作)主人公の短槍使いバルサが、攻殻機動隊の素子のイメージに被り過ぎの感はありましたが、神山さんらしい、背景と設定の隅々まで丁寧に創られた素晴らしい作品で、とても気に入ってます。

そして、原作にも興味を持ち、移住前にシリーズ前半の5作品、「精霊の守り人」「闇の守り人」「夢の守り人」「虚空の旅人」「神の守り人(前/後編)」を購入。一気読みした、と思い込んでたら....。

フィリピンに移住して3年。小学生の息子が、だんだんと日本語を読み書きする機会から遠ざかってきたので、児童文学としても名高いこのシリーズを読ませてやろうと、久しぶりに手に取って読み返してみました。ところが2冊目以降、全然覚えてない。あれぇ、まるで初読みたいだと思いつつ、それでも作品世界にぐいぐい引き込まれるように、一気読み。

やっぱり移住前に読んだのは、1冊目だけだったようです。最近、年齢のせいか、以前に読んだことをすっかり忘れて、同じ本の2度買いとか3度買いなんて、情けないことやってますが、これほど面白い内容を、いくらなんでもそう簡単には忘れません。まぁ、読んだのを忘れるのも、読まなかったのを忘れるのも似たような事ですけど。

そんなこんなで、読み終わった分を片っ端から息子に「払い下げ」。息子も面白かったようで、私とそう変わらないスピードで、どんどん読んでいきます。本当にちゃんと読んどるんか?と思って、筋書きを尋ねたら、一応は理解している模様。

予定していたよりずっと早く手持ち作品を読了してしまい、先月、日本に出張した家内に頼んで、後半の「蒼路の旅人」「天と地の守り人(三部作)」を買って帰ってもらいました。

残りが減っていくのを惜しみながら読むという感覚は、学生時代以来。実に面白かった。しかも息子とほぼ同時進行で楽しみをシェアできるとは。移住先で、しかも日本語の作品で、こんなに幸せな時間を過ごせたのは、予想外の喜びでした。


ところで、この作品にはいろいろな架空の国が登場します。中でも4冊目の「虚空の旅人」に出てくる、南国の島嶼国家「サンガル」が私のお気に入り。熱帯に位置し、国王より妃が、王子よりも王女が国の実権を握っているという描写が、なんとなくフィリピンみたいで、サンガルの女性たちが、顔見知りのフィリピーナとダブって、仕方ありませんでした。文化人類学者の肩書きも持っている上橋さん、そんな事情もちゃんと分かって、執筆されたのでしょうか?


2016年6月3日金曜日

大河ドラマの最高傑作「黄金の日日」


今年NHKで放送中の大河ドラマ「真田丸」。先日、この真田丸の劇中人物として呂宋(るそん)助左衛門が登場し、松本幸四郎さんが演じるという記事を読みました。若い人には何のことやら分からんでしょうけど、呂宋助左衛門といえば、ほぼ40年前の大河ドラマ「黄金の日日」の主人公。それを演じたのが、松本幸四郎さん(市川染五郎)です。

黄金の日日は、1978年(昭和53年)放送で、戦国時代の堺とフィリピンのルソン島を舞台に活躍した商人、助左こと呂宋助左衛門の半生を描いた物語。当時高校生だった私は、毎週ワクワクしながら見たものです。思えば、フィリピンという国を意識したのは、このドラマがきっかけ。もちろん、その後フィリピン女性と結婚し、ついにはフィリピンに住むことになるとは夢にも思いませんでしたけれど。

大河初の海外ロケで大きな話題になり、視聴率は、歴代大河の第3位。そして今見ると、ものすごい配役。緒形拳(豊臣秀吉)、高橋幸治(織田信長)、鶴田浩二(千利休)、丹波哲郎(今井宗久)、児玉清(徳川家康)、宇野重吉(小西隆佐)、津川雅彦(天王寺屋)、十朱幸代(ねね)、桜木健一(秀次)、近藤正臣(石田三成)、鹿賀丈史(高山右近)、根津甚八(石川五右衛門)、川谷拓三(善住坊)、栗原小巻(美緒)、島田陽子(細川ガラシャ)、夏目雅子(モニカ)、竹下景子(桔梗)、名取裕子(梢)...。

根津甚八さんや鹿賀丈史さんは、当時はまだそんなに知られてませんでしたが、存在感ありましたね。特に根津さん演じる五右衛門が最後に捕らえられて、釜茹でにされる直前の一人芝居は、鬼気迫るものがありました。

これに加えて、フィリピン側の配役も、当時のそうそうたる俳優が起用されたらしい。助左衛門がルソン島で出会う、トンド族の族長を演じたビック・バルガスは、後で家内に聞いたら、なんと家内の母、つまり私の義母が若い頃の憧れだったんだとか。

真田丸の脚本家、三谷幸喜さんは私と同世代。やはり「黄金の日日」にハマったそうです。三谷さんにとっても、私と同様、この作品は大河の最高傑作の一つだったんでしょうね。最近は、大河ドラマを見なくなり、移住後は、まったくのご無沙汰の私ですが、呂宋助左衛門登場の回だけは、ぜひ見てみたいものです。


フィリピンまで持ってきた
黄金の日日 DVD BOX


フィリピン式ご近所トラブル解決法


3か月ほど前に、隣の養鶏場の騒音について投稿しました。鶏の鳴き声ではなく、闘鶏の訓練用とかで、早朝や深夜にディスコのような轟音で、音楽を流していた件。その後は、それほどの音量ではなくなり、平和な日々が戻ったかと安堵していたら...。

3週間ほど前から、またまた始まってしまいました。それも今度はスピーカーの性能が上がったのか、音量の割には低音がズンズンと響く。これを朝5時前から夜暗くなるまで、毎日。無指向性の音なので、養鶏場方向の窓を閉めても、ちっとも遮音できない。

例によって、同じ敷地内のサリサリストア(雑貨屋さん)のおばちゃん経由で、静かにするように頼んでも、完全スルー。さすがに精神的に参ってきて、ついに先週の早朝、警察に通報しました。

ところが、その返事は「それは、バランガイ・キャプテン(町内会の会長)に文句言ってくれ」でおしまい。仕方がないので、バランガイの事務所に行ってみてもキャプテンは不在で、いつ戻るか分からない。数日待って、やっと電話で話し、養鶏場に電話してみると言われましたが、その後、何の音沙汰もなしで、騒音は相変わらず。

できるだけ事を荒立てたくない家内の意向で、我慢してきたものの、不眠症寸前まで追い詰められて、とうとう家内が行動を起こしました。意を決して、その養鶏場に直談判。私が同行するとケンカになりかねないので、家内一人。

朝9時頃に出かけて、昼前に帰宅した家内。時間はかかりましたが、かなりの収穫はあったようです。まず、養鶏場の扉を叩いたけれど、オーナーは不在。そこで家内が顔見知りの、養鶏場の隣のお宅を訪問。その家もかなりの資産家で、シライ市内のあちこちに土地を持っています。そして奥さんが私たちのチャーチ・メイト。つまり同じ教会に通うお仲間。

事情を話すと、やっぱり奥さんもうるさいと思っていたとのこと。さらに、養鶏場のオーナーとも友達で、いろいろ内輪話を教えてくれました。

それによると、養鶏場のオーナー夫妻は不仲で、妻は別居中。旦那さんはパーキンソン病で、ほとんど身動きできない状態。養鶏場は、使用人に任せて放置されているらしい。なるほど、だから使用人連中で、好き放題にやってるわけですね。結局、教会友達の奥さんが、オーナーに電話して、静かにするよう頼んでくれることになりました。

さて、翌日。
ピタッと騒音がおさまりました。もう、お見事としか言いようがないですね。これがフィリピン式のトラブル解決法ということか。要するに、お金持ちの友人に頼めばいい。そういう友人がどれだけいるかで、フィリピンでの住み心地が変わってくる。この国では、警察やお役所、法律は守ってくれないということが、改めてよ〜く分かりました。