2022年4月30日土曜日

トリッキーなイロンゴ語

 早いもので、もう明日から5月。日本ではゴールデンウィークの真っ最中という時期になりました。幸いにもフィリピン〜日本の渡航には、ワクチン接種を済ませていれば、何日間にも及ぶ隔離は不要。その結果、在比邦人の方々が3年ぶりに一時帰国という知らせも、SNS経由でちらほら。

オミクロン株の新種に感染した事例が、ルソン島のバギオで確認されるなど、まだまだ油断はできないにせよ、去年の今頃の「お先真っ暗」な感じに比べたら、どれだけ気持ちが軽くなったことか。

さて今日は、まだしつこく学習を続けている、西ネグロスの方言、イロンゴ語について。

2020年6月から21年の11月まで、私の家庭教師だったアン先生が考案してくれた、イロンゴによる日記形式の作文スタイルは、今も健在。それに加えて、昨年末からのバンビ先生には、日本の歌をイロンゴに翻訳してもらい、それを練習、というのもやってます。


その結果として、単語帳 兼 備忘録としてネット上に整備中の「日本語 / イロンゴ語時辞典」には、ずいぶんと言葉数が増えました。嬉しいことに、誰かが使ってくれているらしく、少しづつですがアクセス数が増加中。

と書くと、ずいぶんと喋れるようになったと思われそうですが、実は会話がイマイチ。読み書きは我ながら上達したと思えるし、メイドのライラおばさんに家事の指示するぐらいは大丈夫になっても、聴き取りがダメ。

考えてみれば、受験勉強の英語みたいな学び方をしてるから、それも仕方がないのかも知れません。基礎の語彙は身に付いてきたので、そろそろ日常会話の訓練への舵取りが、必要なようです。

そしてもう一つの壁が、イロンゴ語独特の用語。差し当たっては「sang」の使い方。

これが実に多くの意味を併せ持つ変幻自在の単語で、英語の「when」と同じく「〜する時」になったかと思えば、日本語の助詞「を」に近い使い方だったり。他には、英語の「of」や日本語の「の」のような用法も。例えばシライ市、City of Silay は、Syudad sang Silay。

絶望的にややこしいのは、助詞としての「sang」が、先立つ動詞の活用によっては前置詞の「ang」に置き換わったりする。

Luto-e ko sang panyaga.    私に昼食を作ってください。
Luto-a ang panyaga.            昼食を作りなさい。 

変わるのはいいんですが、どういうルールで変わるのか、歴代の先生や家内に聞いてみても、分からないという答えしか返ってきません。ネイティブ話者なら、入れ替わっているとおかしいと気付くので、必ずルールはあるはずなのに。

ちなみに、フィリピンの第一公用語である、タガログ語を母語にする人にとっても、これがなかなかマスターできないらしい。家内曰く、セブアノの「ug」がイロンゴの「sang」に相当するので、ビサヤ系言語の特徴なんでしょうか?

兎にも角にも、タガログのように外国語としての学習者が多いメジャーな言語ではなく、マイナーな方言の悲しさ。以前にイロンゴを流暢に話す日本人に会ったことがありますが、どうやって勉強したんでしょうねぇ?

最近では、フィリピンの小学校の1〜2年生にMother Tongue(母語)と称して、それぞれの方言を教えているそうですが、この教科書が噴飯物。「一体誰がこんな喋り方するんや?」みたいな、古式ゆかしい表現ばかりで、しかも間違いが多い。最初は、息子の教科書借りようかとも思ったんですが、これもダメのようです。

ということで3年前、家庭教師を雇って本格的に勉強し始めた頃に比べると、だいぶ上達したとは言え、まだまだ試行錯誤が続く私のイロンゴ語学習なのでした。



カオハガン島のこと


出典:Caohagan Island - Home | Facebook

「 知る人ぞ知る」という形容がぴったりなのが、フィリピンにある小さな島カオハガン。1995年に出版された著書「何もなくて豊かな島」で日本でその存在が知られるようになり、私も以前から何となく、名前だけは聞いたことがありました。

その著者である崎山克彦さんが、1987年に偶然の成り行きで購入してしまったカオハガン島。ご本人の語るところによると、功利的な動機はまったくなく、一目惚れの衝動買いだったそうです。これはには驚きました。(詳しくはカオハガン島オフィシャルサイトを参照ください。)

ちなみに本が出たのが、ちょうど私がフィリピンに初渡航したのと同じ年。崎山さんのお生まれが1935年(昭和10年)なので、私の両親より一つだけ上の同世代。だからどうってことはありませんが、何となく親近感を覚えます。

ところで島を購入と言っても、フィリピンの法律では、外国人による土地所有は認められていません。聞くところによると、個人で買ったのではなく、フィリピン人と共同設立した法人の名義だとか。つまり私が、家内の名前で、今住んでいる宅地を買ったのと同様に、パートナーが裏切ったら、いくら全額支払った出資者でも、追い出されてしまうリスクが伴います。

実際、フィリピン妻と住むために建てたはずの自宅を、妻とその浮気相手に乗っ取られて、路頭に迷う困窮邦人の話も時々耳に入ります。それを考えると、家内を全面的に信頼して、何の縁もなかったネグロス島に、老後の全生活を託した私には、崎山さんの選択にそれほどの違和感はありません。

さて、突然冒頭から長々とカオハガンについて書いたのは、近々、この島に行くことになったから。小さな島と聞くと、何やら絶海の孤島のように想像されがちですが、実はリゾートで有名なセブのマクタン島から、小舟で1時間弱の距離。

もちろん無人島などではなく、700名もの島民が生活していて、宿泊客用のゲストハウスも完備。「カオハガン」でググれば、ちゃんと宿泊プランも出て来ます。

今回、私が訪問を決めたのは、この島に住む日本人女性と、SNSを通じて知り合いになったのがきっかけでした。本来ならば昨年には、息子のパスポートを更新すべきだったところへ、このコロナ禍。未成年だったので外出できず、ようやくワクチン接種も済み、規制が緩まったのを機にセブの日本領事館へ。

せっかくなので、きれいなビーチに息子を連れて行こうと思い立ったのが、日本人の知り合いがいるカオハガンだったというわけです。

ということで、本当に久しぶりの遠出。指折り数えたら、ネグロス島外に出るのは2019年の8月に、永住ビザ更新で隣島パナイに日帰りして以来。実に3年近くも、この島に篭ってたんですねぇ。



2022年4月28日木曜日

迷い込んだ仔犬・命の軽さ

 水曜日の早朝、飼い犬のゴマの無駄吠えで目が覚めました。

ロクに躾もせずに放置した結果、朝の散歩で家の前の道を人が歩くだけで、猛然と吠えまくるゴマ。もともとあんまり頭が良いとは言えず、相手が犬だろうが人だろうが、果ては水牛にまで喧嘩を売るアホ犬。(隣の空きロットで、畑の耕作用に水牛がいるんです。)

ところがその日は少々様子が違っていて、ゴマの鳴き声が威嚇の「ウォンウォン」ではなく「ワンワン」と「キャンキャン」の中間のような、なんとも微妙な声色。それだけでなく、明らかに仔犬の「キュ〜ンキュ〜ン」が混ざってます。

もしかしてと思って、起き抜けにゲートを開けたら、まだ乳離れも終わっていないような仔犬。門扉の隙間からスルスルと家の敷地に入って来ました。私の足にじゃれつく人間に慣れた仕草を見ると、どうやらどこかの飼い犬のようです。

このまま放り出して、自動車やトライシクル(輪タク)に轢かれると可哀想なので、取り敢えずは台所の勝手口の三和土(たたき)に保護。日本風に作ってもらった家が、変なところで役に立ちました。


さて、仔犬を抱えて「母を訪ねて三千里」。すぐ近所に捜索に出ようかとも思いましたが、8時半には出勤する、メイドのライラおばさんに任せることにしました。その間に朝食を準備して、息子を起こして...。

ところが食べ終わると、仔犬のキュン鳴きが聴こえません。慌てて見に行ったら、四肢を弛緩させてピクリとも動かない。見つけた時からちょっと弱ってる感じもして、あっという間に天国に行っちゃったようです。そうこうしているうちに、ライラおばさんがやって来ました。

死んでしまったのは仕方ないので、ライラに頼んで埋葬しようと持ち上げたら、まだ生きてました。息があるとかじゃなくて、飛び起きて走り回る。文字通り「死んだように」眠ってただけ。やれやれ。

予定通りに仔犬をライラに任せて、まずは一番近いお隣さんに連れて行ってもらったら、いきなりの当たりで、最近生まれた6頭のうちの1頭だったそうです。しかもすでに3頭は死んじゃったとか。

それにしても、仔犬が死んだと思った時に、我ながら冷静だった私。実はフィリピン・ネグロス島に移住してから、犬・猫・鶏を飼って、その大半を死なせてしまったせいか、ペットの死に慣れてしまったようです。最初の仔犬2頭の時はかなりのショックで、しばらく引きずったんですけどねぇ。

ここフィリピンでは、犬や猫の飼い方が野放図。放し飼いが基本のお国柄。避妊もせずに放置する人が多く、これではネズミじゃなくても増えまくる。当然の帰結として、逃げ出したり捨てられた野良が街中にいっぱいで、病気や事故で死んでしまう犬・猫は数知れず。

そもそも、ちゃんと飼われているペットでも、具合が悪くなったからと言って獣医に診せるとは限らない。お金がない飼い主の人間様が、生き死にレベルでも我慢してしまうぐらいなので、いくらペットを可愛がっていても、手厚い看護は無理でしょう。

考えてみればフィリピンでは、ペットも人間も、相対的に命が軽く扱われている気がします。もちろんこれは、死を悲しまないという意味ではありません。一つには経済的な理由で、満足な医療を受けられないこと。もう一つは、知識の欠如から来るもの。

例えば、現代では治せる病気である筈の結核を、不治の病だと思い込んだり、職を失うのを恐れて、治療もしないまま亡くなったり。心臓疾患や糖尿病患者が多いのも、極端な野菜嫌いをそのままにしてしまう、フィリピン特有の子育てが起因していると思います。

もっと言うなら、避妊なしの性行為による多産も、私からすれば、無意識ながら命を軽んじているとしか見えない。乳幼児の死亡率も高いし。結果として、人口が多く寿命が短いので、親戚や友人関係での葬儀に出席する機会が頻繁なのがフィリピン。

ということで、迷い込んだ仔犬の騒動で、いろんなことに思いを馳せてしまった一日でした。



2022年4月26日火曜日

24回目の結婚記念日

 昨日4月25日(2022年)は、私たち夫婦の24回目の結婚記念日でした。

「あの日も朝から真夏の日差しが照りつけて...」なんて書き出すと、まるで終戦記念日みたいだし、「また、4月25日が巡ってきました...」では、17年前に私の実家である尼崎での鉄道事故を思い出してしまいます。

実際、フィリピンでこの時期は乾季の暑さ真っ盛りだし、あの悲惨な事故は、偶然この日だったんですよね。

何回かこのブログでも書いたように、真夏の結婚式になったのは、当時、日本のサラリーマンだった私には、まとまった休みが取れるのが盆暮とゴールデンウィークしかなく、さすがに8月までは待てず、ゴールデンウィークの前に年休をくっつけての日程。

披露宴はホテルだったので、それほどではなかったものの、挙式は西ネグロスの州都バコロド市内の古いカテドラル。当然冷房は無く、カトリックの本格的なミサは、たっぷり1時間。緊張してたので、暑さでツラかったという記憶はないですが、日本から黒の礼服で参加してくれた、両親と二人の弟には、悪いことをしました。

フィリピンの慣習として、花嫁以外の女性が白いドレスを着てもいいし、襟があるシャツとスラックスで十分礼装になるので、知ってればそう伝えたんですけどね。

さて今までは、特にお客さんを招いてのパーティはやったことがなく、せいぜい、ちょっと贅沢なレストランで食事をする程度。大抵は、ケーキと花を用意するぐらいで済ませてきました。ところが来年は、25周年の銀婚式。

銀が過ぎると、5年毎に、真珠・珊瑚・ルビー・サファイアと続いて、50年目が金婚式。金婚式の頃には、私が85歳で、家内が82歳という勘定になるものの、これはちょっと難しいかも。銀婚式は少しは奮発して、ホテルの宴会場を借りてパァ〜っと行こうかと企んでおります。

昨日は至極質素に、小さなケーキを二つ買ってきて、私は、フィリピンのお祝いの定番スパゲティを作り、家内には近所の宅配ピザの手配を頼んだ次第。これを夕食にありがたくいただいて、ついでにメイドのライラにもお裾分け。



ちなみにケーキを買ったのは、約四半世紀前、家内と初めてデートした、バコロド市内の地元では有名なカフェ・レストランのボブズ(Bob's)。今でこそ、甘過ぎず日本人が食べても美味しいケーキは、ネグロスでも普通に出回っていますが、当時は、上品な甘さを味わえる貴重なお店でした。

ということで簡素ながら、それなりに思い出に浸って、良い記念日を迎えることができました。

2022年4月22日金曜日

義妹の誕生日にボルテスVを歌う

 台風停滞のための洪水とか、イースターとかでバタバタしている間に、もう3週間も経ってしまいましたが、4月の最初に義妹ジーナの50歳の誕生日パーティが開催されました。

日本ならば50歳で盛大なお祝いをするなんて、よほど金持ちとか有名人ぐらいでしょうね。ところがここフィリピンでは、誕生日はビッグイベント。それほどお金はない市井の人々でも、10年刻みの節目ともなれば、レストランなどのパーティスペースを借りて、たくさんのお客さんを招くことも珍しくはありません。

特にジーナの場合は、本人が地元公立小学校に長く勤める、子供たちにも同僚にも人気のある先生。さらに夫である、家内の実弟ロイは、シライ市役所で建築部門のトップにいる偉いさん。野心家からはほど遠い性格ながら、貧困層の多い地区で、道路の補修などの地味な仕事をしているせいか、意外なほどの人望がある。我が家のメイドのライラおばさんなど、「サー・ロイ」と呼ぶほど。

そんな、ちょっとした地元の名士なので、シライで一番の老舗レストラン、フード・パークで開かれたパーティには、ざっと100名以上のお客さんが集まりました。

例によって、最近の流行に則って、パーティの服装にテーマ・カラーを設定。今回はブラック&ゴールド。ゴールドと言っても、本当のキンキラキンではなくイエローでも可。わざわざそのためにドレスを新調したりする人もいるぐらい、みんな気合いが入ってます。

さて、会場のフード・パークとは、西ネグロスの家庭料理を食べさせるお店。老舗と言っても、そんなに大したものではなく、1,000ペソも出したら家族3〜4人が十分満腹になる程度。ところが、ここ10年来の好景気のお陰で、ずいぶん内装がきれいになり冷房も完備。店の裏にあったパーティ・スペースは、結婚披露宴ができるほどのレベルになってました。

開宴は金曜日の夕方6時。スーツを着込んだプロの司会者を雇って、パっと見は本格的な感じ。バイキング形式の料理は、お祝いでは定番の豚の丸焼き「レッチョン・バボイ」がメイン。まぁ、フィリピンの田舎なので、進行がダラダラのグダグダなのはご愛嬌。

いつもなら私は、ひたすら食べるだけのオーディエンスに徹しているのですが、今回は珍しく余興に参加しました。演目はもちろん歌唱。2年以上に及ぶコロナ禍の間、毎日親の仇のように続けた、ボイストレーニングの成果を発表というわけです。

2曲歌ったのは、両方日本の歌。最初はサザン・オールスターズ初期の名曲「いとしのエリー」。実はこの曲、タイトルを「Honey, My Love」に変えてタガログ語でカバーされて、フィリピンでは誰もが知るポピュラーソング。

私は、そのタガログ版ではなく、1980年代に日本のCM用に、かのレイ・チャールズが歌った英語版「Ellie My Love」の、Ellie を Gina に変えて歌いました。


フィリピンの片田舎で爆唱する日本人

そして2曲目が「ボルテスVの歌」。言うまでもなく日本アニメの主題歌で、フィリピンでは1980から90年代に放送され、今の30〜50代のフィリピン人とっては愛唱歌。前説で「次は、1980年代の超有名な日本のアニメソングを...」と言った途端に「ボルテスV!」と掛け声が上がるほど。

ジーナはもちろん、お客さん全員が大喜びで、大ウケでした。話にはよく聞きましたが、本当にフィリピンでボルテスVは、カラオケの鉄板曲なんですねぇ。

それにしても、コロナ禍発生から丸2年以上。まだ飲食時以外はマスク着用ながら、こうした大パーティができるまでになったことは、感慨無量。出し物も好評だったし、とても幸せな時間を過ごすことができました。




2022年4月20日水曜日

聖金曜日の渡米〜フィリピン人海外労働者の話〜

 OFW(Overseas Filipino Workers)。フィリピンに住んでいたり、フィリピンと何らかの関わりを持つ人なら、OFWという言葉は、必ず耳にしたことがあると思います。海外フィリピン人労働者の略称で、家族や親戚、友人・知人の中に、OFWが一人もいないという人の方が珍しいぐらい、この国ではありふれた存在。

家内の親戚でも、叔母が日本で働いてたし、従弟たち3家族が今もアメリカ在住。このブログに度々登場するメイドのライラおばさんは、クウェートで2年働いたバリバリの元OFW。家内自身も、働くことが目的だったわけではなけれど、私と日本に住んでいた頃には、子供向け英会話教室のピジョンキッズに在籍して、せっせと実家に送金してました。

そして先週、ホーリーウィークの聖金曜日に、新たに家内の従弟ラルフ君とその妻エリアンが、看護士としてアメリカ・シカゴに旅立ちました。


出典:Time Out

すでにラルフの姉ルビーとレイチェル、叔父のノノイが同じくシカゴで看護士職に就いて、もう約20年。全員それぞれの家族がいて、ノノイの娘ケビンは、めでたくアメリカでお医者さんになりました。

つまりラルフとその母テレシタ叔母は、シカゴからの仕送りが十分にあって、特にお金に困っているわけでもない。それでも敢えてアメリカを目指したのは、ここネグロスでの職場(病院)の労働環境が劣悪で賃金が安過ぎるから。

貧困層の中には、OFWの家族からの送金に全面依存して、まったく働かない人々も多いそうですが、そこは元大学教授だったテレシタ叔母を始め、高校教師だった私の義母など、才女揃いのオフィレニア姉妹。子供の教育も厳しくて、何もせずに遊び暮らしている従姉妹兄弟は、見事なまでに誰もいない。

ラルフにしても、ネグロスで十分な稼ぎがあれば、わざわざOFWになることもなかったんでしょうけど、前述のように真面目に看護士をやってても、貯金もできないし自家用車の購入夢のまた夢。そうした不満が溜まっていたところへ、2年前から始まったコロナ禍。

給料の額には全然見合わない、感染リスクの高い危ない仕事。しかも医療崩壊が起きて、恐ろしいまでの荷重労働。多少なりともやる気と能力のある人は、海外に出るのが当然という状況。

ちなみに、フィリピンの医療レベルが、お世辞にも高いと言えないのは、コロナ以前から、海外への人材流出が続いているのも大きいでしょうね。でも考えてみればもう日本は、フィリピンを上から目線で見られる時代ではなくなってます。

意外にも自覚のない人が多いのですが、日本の賃金レベルは世界に比べてまったく優位性がない。優位性どころか専門職の間では、わざわざ言葉や文化の障壁が高い日本を選ぶ必然性が皆無なほど、働く国としては魅力がない。

そして、こんなにストレスいっぱいで、面倒な上司が待ち構えている日本に早々に見切りをつけて、海外に飛び出す若い人が増えています。統計的にどうかはさて置き、ツイッターで交流のあるフィリピン在住の日本人には、そういう人がとても多い印象。

ゼロリスク信奉者で、石橋を叩いても渡らない人もいるけど、英語留学やボランティアで、一度フィリピンなり海外に、ある程度まとまった期間滞在してみると「こっちの方が自分に向いてる」「日本より楽しい」と気づく人が増えたんでしょうね。

そう考えると、単純労働のみで、雇用主からの虐待リスクを押してでも海外に出るしかない貧困層を除けば、フィリピンは個人の海外進出では先進国だと言えるでしょう。

実際、医療関係者として頑張っている家内の従弟たちや、友達にもサウジアラビアで航空会社のマネージャーになったり、ニュージーランドで教授職を務める人など、経済的に成功を収めたOFWは身近でよく聞きます。

ということで、シカゴのオヘア空港に到着したラルフ夫妻は、姉ルビーの家族に迎えられて、早速フェイスブックに写真アップ。二人とも希望に満ち溢れた、満面の清々しい笑顔が印象的でした。



2022年4月13日水曜日

Uターンした迷走台風


冠水した自宅前の道路

 先週からほぼ毎日降り続いていた雨が、やっと止んだ今日4月13日。これは、私たちの住むネグロス島を含むビサヤ諸島の東海上に、ずっと停滞していた2号台風、フィリピン名アガトン(Agaton)の雨雲の影響。

ちなみにフィリピンでは、台風は番号ではなくアルファベットの並び順に名前を付けていく習慣。Agaton なので今年最初の台風だと思いきや、日本の気象台はそれに先立って発生した台風を1号としました。なぜかというと、台風になったのは1号が先ですが、フィリピンの観測範囲に入らないとフィリピン名は付かないから。

遅れて近づいてきた1号は、フィリピン名バシャン Basyang と名付けらた後、すぐ範囲外へ抜け、これが現在日本に向かって北上中という次第。幸い本土への上陸はなさそうですが。

さてこのアガトン。本来ならば台風が来ない、来ても上陸することはまずないフィリピンの真夏である4月に襲来。それだけでも珍しいのに、レイテ、サマールの近海で何日も停滞。さらに奇妙なことに、やっとレイテに上陸したかと思ったら、踵を返して元来た経路を逆走するという超迷走台風。

2016年に日本でも、通常とは逆に西へ向かって進んだ後に、Uターンして東に向かった台風10号がありました。おそらくそれと同様に、アガトンも高気圧に行手を阻まれてたんでしょうね。

勢力はそれほどでもなく、台風になったと思ったら、すぐに熱低に格下げになったものの、何しろ1週間もほとんど同じ場所での降雨。レイテ島では地滑りなどで死者22名、行方不明者27名の大きな被害が出てしまいました。(2022年4月13日現在の報道

昨年末のスーパー台風オデットは、警戒する間も無く、いきなりのカウンターを顎にキメられて、一撃でダウンみたいな感じだとすると、アガトンは弱いパンチを何度もボディブローされて、ダメージが蓄積するパターン。

ここネグロス島シライでも、マンブラック、ギンハララン、イーロペス、ランタッドなど、もう洪水の常連というべきバランガイの各所で冠水。例によって市立体育館などに住民が避難し、今も水が引かず、自宅に戻れない人がいるらしい。家内によると、今までになかったような場所まで浸水しているとのこと。

ギンハララン在住の我が家のメイド、ライラおばさんも月曜日から欠勤続きで、そのままホーリーウィーク休暇に入ってしまいました。

そうなんですよ。今週はホーリーウィーク。例年ならフィリピンでは一番暑い時期のはず。昨年のクリスマス直前のオデットに続き、このところフィリピンには台風の呪いがかかってるんじゃないかと訝しむほど。

それにしても、何日もダラダラ続く長雨って、精神衛生上、実によくない。この時期だと、最低気温が28〜30℃ぐらいのネグロスで、最高気温が25℃前後。日本人としては25℃で寒いとは言いたくないですが、日差しがなくて風が吹いてこの気温では、さすがに肌寒く感じてしまうのも仕方がありません。

しかも、気圧がやや低めなので、特にメンタルに問題を抱えていなくても、気分が落ち込むのは当然。フィリピン人の家内ですら、かなり参っている様子でした。

そして迎えた、聖水曜日の今日。やっとアガトンが東海上に去って、台風一過のピーカン...とはならないまでも、雨が止んで薄日も差した今朝。3日に渡って冠水していた自宅前の道路も、ようやく水が引きました。やれやれ。





2022年4月10日日曜日

50ペソのヒューズが火災を防ぐ

 前回の、我が家のゲストハウスだけ、朝起きたら停電してたお話の続報です。

当初はCENECO(ネグロス中央電力)の問題なのか、こちらの敷地内での不具合かが分からず、CENECOと電気屋のサルディーの両方に連絡をしました。というのも、数軒だけ送電が止まる事故が、時々あるんですよね。

広い範囲で停電になれば、黙っていてもCENECOのスタッフが動くのですが、この手の局所的ブラウンアウトの場合は、当事者が連絡しないと放置されるだけ。

さて、日頃は忙し過ぎて、なかなか電話にも出てくれないサルディーが、ラッキーにもこの日は一発で繋がって、午前中に来てくれました。ただ、他の現場に行く途中で時間が無かったのと、断線箇所を調べるためのチェッカーを持ってきてなかったので、下見だけして出直し。

そして翌日、約束通りに来てくれたサルディーがまず疑ったのが、電柱から家に電線を引き込むボックス内のヒューズ。さすが(フィリピンにしては)腕のいい電気屋サルディー、勘が当たって、案の定ヒューズが切れてました。

これで終わればメデタシメデタシ...とはやっぱり行かず、敷地内のどこかでショートしているらしい。その証拠に、メインスイッチを入れるとオーバーロードで落ちるし、発電機始動しても同様にブレーカーがダウン。

そこから場所の特定までが数時間。

2LDKのさほど大きくもないゲストハウスとは言え、コンセントを一つづつ全部開けて点検し、さらには天井裏の配線もすべて確認。そして最後に辿り着いたのが、庭のバンブーハウス。

その屋根が古くなって屋根材の茅(かや)がズレて、ここ数ヶ月は盛大に雨漏りしているバンブーハウス。実はのその中にも照明を入れていて、それに付随するコンセントに浸水してショートしていたことが発覚。

別にケチって、雨漏りをそのままにしていたわけではありません。もう何度も、バンブーハウスを購入した竹屋さんに連絡していたものの、なぜか茅が入荷しないとのこと。雨が多過ぎて、茅が不作だったのかなぁ?

結局、しばらく屋根修理の見込みも立たないので、バンブーハウスの配線はシャットダウンすることにしました。

それにしても、考えてみれば危ない話。フィリピンで火災が多いのは、こういう原因もあるんでしょうね。我が家の場合、ちゃんとライセンスを持っているサルディに一任して、ヒューズやブレーカーは然るべき場所にキチンと設置。

そんなの当たり前、と言われるかも知れませんけど、意外と雑な配線が多いフィリピン。盗電目的で、素人が適当に配線したりする。昨年末の台風で、多数の電柱が強風で倒れて、電力会社による復旧工事の際に、隣家から電気を盗んでたのがあちこちでバレて、大揉めになったりしたらしい。

今回の場合、煎じ詰めれば、たった一個のヒューズが火災の危険を未然に防いだとも言えます。サルディーが交換したヒューズは、わずか代金50ペソ。(百数十円)やっぱり家を建てるなら、マトモな電気屋さんに頼まないと、恐ろしいことになります。

ということで、お昼前には完全復旧で、前日に母屋に避難させていたパソコン関連や寝具一式をお引越し。やれやれ。

...と、それで済まないのがフィリピン。昼食を済ませてのんびりしてたら、今度はCENECOが送電を止めてくれました。ここシライ市の隣のタリサイやビクトリアス、マナプラを含んだ広域停電が7時間。もう勘弁してくれ〜。



2022年4月8日金曜日

乾季なのに洪水、しかも停電

 ほんとに何とかなりませんかねぇ、洪水と停電。

マニラやセブなどの大都市では、1980年代とかに比べればずいぶんと停電は減ったそうですが、私が住むネグロスのネグロス中央電力管内では、1ヶ月に1度は半日計画停電だったり、数時間にも及ぶ計画外停電も多い。

洪水に関しては、フィリピン全土で年に何回も大被害。もうすぐ任期の終わるドゥテルテ大統領がぶち上げた「ビルド・ビルド・ビルド」キャンペーンで、鉄道や道路、橋などがガンガン建設されて、大物ではネグロスと隣島パナイ、セブを橋で陸続きにする計画も進行しているそうです。

ところが堤防作るとか、大規模排水溝敷設といった治水のビルドの話は、あんまり聞こえてきません。シライ市では、あからさまな選挙対策で、3選目を狙う現市長のマーク・ゴレツ氏の旗振りで、新市庁舎が起工したばかり。そんな金があるんなら、ちょっと降っただけで水浸しになる住宅地のための、治水工事をすればいいのに。

そして変なのが今年の乾季。

例年フィリピンでは、3月の終わりから4月にかけて、日本で言うところの「梅雨明け」の如く「乾季入り」が宣言されます。今年も順調に乾季が訪れて、コロナの規制も緩くなってきたのと合わせて、3年ぶりにバカンスシーズンかと喜んでたら、まさかの長雨。


雨雲のかかり方がどう見ても雨季

この時期には来ないはずの台風(まだ熱帯低気圧)が、フィリピンの東海上にあって、まだ距離はあるのに、まるで強力なダイナモのように、大量の雨雲を南部のミンダナオや、ネグロスを含むビサヤ諸島に送り続けています。

そのお陰で、もう丸三日も降ったり止んだり、時折雷をともなって叩きつけるような豪雨。すでにミンダナオやレイテの一部では洪水や土砂崩れの被害が出ているそうで、昨夜の大雨で、我が家の前の道路も冠水。さらに厄介なことに、朝起きたら停電。

いつもと勝手が違うのは、この停電が超ローカル...というか、現在私が寝起きしているゲストハウスだけ電気が止まってしまいました。

自宅を建てた時に配線を担当してくれた電気屋のサルディに見てもらったところ、どうやら送電の問題ではなく、敷地内のどこかで接触不良が起こっている模様。超多忙なサルディくんは、4件の仕事を掛け持ち中だそうで、明日、ちゃんと工具を揃えて出直しますとのこと。

なので、復旧は早くても24時間先になってしまい、仕方がないので、パソコンやらベッドだけ母屋の書斎に戻して、そこでこのブログを執筆している次第。


ということで、毎度のことながら、フィリピンの貧弱なインフラに対する愚痴ブログになってしまいました。



2022年4月6日水曜日

大統領選の投票まで1ヶ月のフィリピン

 6年に1度の大統領選の投票日まで、あと約1ヶ月となったフィリピン。私たち家族がネグロス島に引っ越してから、3年に1度の総選挙は4回目で、大統領選も既に2回目。

日本の場合、地方自治体の首長や参議院・衆議院の議員などの任期は連動しておらず、解散時期も決まっていないので、たまに統一選などはあったとしても、基本は都度バラバラに行われる選挙。

ところがフィリピンの場合は、最小行政単位であるバランガイから、市町村、プロビンス(日本の都道府県に相当)、上院・下院議員のすべてが3年ごとに同時改選。6年ごとにはこれに正副大統領選が加わって、文字通りのお祭り騒ぎとなります。

日本に住んでいる頃から、その騒がしさだけでなく、対立候補のそれぞれの支援者が、近所同士で反目して、時には流血の惨事にまで至るとは聞いておりました。そして実際その通りで、私が住んでいる田舎街のシライでも、今ぐらいの時期になると、あまり出歩かないように気をつけているほど。

「田舎街」と書きましたが、実際のところ山間部や離島などの方が、選挙を巡る諍いは激化しやすいかも知れません。特に市長選ぐらいだと、争点が超現実的・具体的になって、それぞれの利害関係が露骨に衝突。一票が千円〜二千円ぐらいの相場が囁かれ、盛大に金がばら撒かれる。

そして今年、2022年の大統領選。

フィリピン国内の報道では、現大統領ドゥテルテの娘サラ(副大統領候補)と、悪名高いかつての独裁者の息子ボンボン・マルコス(大統領候補 / 略称BBM)のコンビが過半数を超える支持率なんだそうです。ところが私の親戚、友人、知人が、なぜかほとんど現副大統領で次期大統領を目指すレニ・ロブレドの支持者ばかり。

両者とも、ここネグロスに遊説に来て大観衆に迎えられたものの、人の集まり方はロブレドの方が上回った印象。沿道や集会場所のスタジアムなどが、彼女のキャンペーンカラーであるピンクに染まる様子は、なかなかの壮観でした。


出典:Daily Tribune

ちなみに首都圏の大学生に限ると、支持は9割がロブレド候補なんだそうです。そもそもフィリピンの調査は、まったく当てにならないとの話も聞こえてきますけど。

インテリ層ほどロブレドを支持するのは、外国人の私にも理解できて、人権すら無視したドゥテルテの、反ドラッグや反汚職政策を評価はしつつも、その強引さに嫌気がさしての反動があるんでしょう。

ところが、それに対するサラ・BBM陣営が、なぜか公開討論会にすべて欠席。サラは父のやり方を踏襲するのは分かりますが、何が政策の目玉なのか見えてこないがBBM。


出典:Journal News Online

おそらく、その出自やら、最近になって指摘され始めた2,000億ペソを超えると言われる脱税疑惑など、ツッコミどころが満載過ぎて、危なくて討論などできないというのが本音なのかも知れません。下手に反論すると、独裁者の再来と思われるでしょうし。

結局のところBBMはドゥテルテの操り人形で、大統領職の名をもらう代わりに、実質的はドゥテルテ父娘が2期12年に渡って国政を支配する、そして次の大統領選にはサラが立候補して、18年に及ぶドゥテルテ王朝...が狙いなのは、私にだって容易に推測できるシナリオ。

いずれにしても、選挙権のない私には見守るしかできなフィリピンの国政選挙。1ヶ月後フィリピン国民は、どんな判断をするんでしょうか?



2022年4月3日日曜日

10年目に突入フィリピン移住生活

2013年4月に、家内と当時小学校1年生の息子を伴って、ここフィリピン・ネグロス島で始めた移住生活が、遂に10年目となりました。「あっと言う間だった」と書きたいところが、意外とそんな感じでもないんですよね。

大抵の場合、10代よりは20代、20代より30代と、歳を重ねるにつれて月日の経過が早まっていくものが、移住後の50代は、ひょっとすると20代に匹敵するかと言うぐらい、持ち重りがしております。

おそらく理由はシンプルで、40代での何倍、何十倍もの新しい経験を積んだからでしょう。今思いつくだけでも、移住してから始めたことって、本当にたくさん。

まず大工さんを雇って自宅の新築。ただ建てるだけでなく、それに付随して、電気・ガス・水道に通信関連が、日本では考えられないほどの不便さ。学生が社会人になるが如く、何もかも一からの学習。

永住ビザ然り、運転免許然り。お役所が絡む事柄は、時間も手間もかかること夥しい。

そうした生活の基盤が整ってからは、家内が就職して、予想外の成り行きで私は主夫に。主夫と言ってもメイドさんがいるので、私は専ら食事担当。それでもほぼ毎日3回、家族のために料理をするのは、今までまったく経験のなかったこと。

最初は、自分が日本食を食べたい一心だったのが、それなりに家内も息子も喜んでいるらしく、結構な楽しみになったのは、自分でもちょっと驚きました。

移住前の見方では、忙しく充実した生活は、おそらく最初の3年ぐらい。多くの定年後のフィリピン移住の先輩たちが語ったところでは、それ以降、持て余す暇との戰いになるだろうと踏んでました。なので、大量の書籍や音楽CD、DVDを持ち込んだところ、全然そうはならなかった。

まずこのブログ。

何度も書いた通り、自宅新築の推移を記録するためのもので、家が建ってしまえばそれまでのつもりが、思いの外ネタは尽きず。最盛期に比べるとアクセス数は減ったものの、今も100人ぐらいの読者がおられるようです。

そこからの派生で「ブログ読んでます」と、リアルな友達付き合いが始まることもしばしば。途中で喧嘩別れの相互ブロック、みたいなケースもありましたが、もしブログを書いてなかったら、フィリピン関連の日本の友人は、ほとんどいなかったろうと思います。

そして趣味のイラスト。

昔からきれいな蝶々や熱帯魚を描いたりしてたのが、人物画、と言うより似顔絵にトライしてから世界がど〜んと広がりました。特にフィリピンの親戚や友人に、誕生日祝いで描いたものが、こっちの想像を遥かに上回る好評を得て、今ではライフワーク。

もちろん嬉しいことばかりではなく、移住してからスーパー台風の直撃を2度経験。最初は移住半年で襲来した、2013年のヨランダで、2度目が昨年末のオデット。さらに極め付けが、もう足掛け3年目に入ったコロナ禍。どれも、人生に一回あるかないかレベルの災害でした。

最後は、比較的最近始めた、毎日のボイストレーニングと、家庭教師を招いてのイロンゴ語(西ネグロスや隣島パナイの方言)。歌唱に関しては、日本のカトリック教会で聖歌隊に所属するなど一応の素地はあって、コロナで出歩けなくなって週一のミサでの聖歌も歌えないことを解消するためでした。

それが、やってみると声も出るようになって、試しに親戚や友達の前で歌ってみたら、これまた予想を上回る反響。今年に入ってからは、イロンゴ語学習と組み合わせて、イロンゴに訳してもらった日本の歌を歌って、ユーチューブにアップしたりしてます。

ということで、50歳で早期退職しての移住だったので、10年経てば当然60歳。今年の10月にとうとう還暦を迎えます。まだ半年もあるんですが、せっかちで嬉しがりの関西人としては、フェイスブックに「60歳の誕生日パーティに来てくれるかな?」と投稿して、早々と気分の盛り上げております。

まぁ、これだけ新しい経験てんこ盛りだと、長く感じても不思議ではないですね。