2020年1月30日木曜日

再読「復活の日」


このタイトルを知ってる人には、何を不謹慎なことをしていると、お叱りをいただきそう。バブル期に青春を送った私たちの世代なら、多分覚えておられるであろう「復活の日」。1980年に、角川映画によって映像化された、小松左京さんのSF小説。

何が不謹慎かって、事故により拡散した細菌兵器「MM-88」によって、南極大陸にいた僅かな人間以外、全人類が滅びてしまうという内容だから。選りに選って、新型コロナウイルスによる肺炎の世界的大流行の最中に読まなくても。

いちびり関西人の私も、さすがにそこまで趣味の悪いことは考えません。実は、新型肺炎の騒ぎが起こる前から、読み始めておりました。何度目か分からないほど、再読を重ねているので、少しづつじっくり読んでたら、現実世界が追いついてしまったという次第。

この小説が発表されたのが、驚くことに1964年(昭和39年)。東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが開催された年なんですよ。そんな世相を反映してか、冒頭では、かなりバラ色の近未来(1970年代直前)描写。

ガンの特効薬発明。米ソ冷戦の雪解けを受けて、パリ〜モスクワ間に開業する「ユーラシア・ハイウェイ」。それに向けて、時速200キロのガスタービン自動車が実用間近。南極観測船は、旧式船の宗谷から、一気に原子力船になってたり。そんな前途洋洋たる人類が、70年代を迎えようとしたある日「突然死」してしまった、という流れになるわけです。

細菌の流出から、人類滅亡のプロセスについては、もう往年の小松さんにしか書けない、膨大な知識と驚異的な想像力による、詳細に及ぶリアルさ。この10年後に、歴史的なベストセラーになる「日本沈没」と比べても、まったく見劣りしない迫力。当時、小松さんは30代の前半。長編はこれが2作目とは思えない成熟した筆力。

そんな、今読んでも全然古臭くない内容なので、どうしても現在進行形の新型肺炎のニュースに重ね合わせてしまいます。小説では、当初は細菌兵器とは誰も気づかず、新型インフルエンザ「チベット風邪」の流行とされます。不気味なのは、同時に鶏ペスト(現在の鳥インフルエンザ)が猛威を振るい、ワクチン作りのための鶏卵が不足するという件。

偶然なんでしょうけど、新型肺炎に先立つ2018年から、中国で豚コレラが発生。豚肉価格の高騰を招ねき、2020年になっても、まだ収束したという話は聞いていません。「復活の日」に影響されたとは思えませんが、ネット上では「アメリカ謀略説」のデマが流されてます。

とは言え、小説に登場する細菌 MM-88は、潜伏期間がたった十数時間(新型肺炎は1〜2週間)の、現実にはあり得ない爆発的な感染力。小松さんも、自然に発生させるには無理があると思ったのか、人工衛星に付着して地球に到達した細菌に、人間が手を加えたという設定。

MMとは、マーシアン・マーダラー(火星の殺人者)を意味し、88とは88世代目の試作。あまりに毒性が強すぎて兵器として使えないため、毒性を弱めるはずが、誤って87の二千倍の強毒菌に。

ということで、小松左京さんの構想と描写に感心し、リアルタイムの感染爆発にビビりながら、南国フィリピンでの読書は、佳境を迎えております。


2020年1月29日水曜日

ヤクルトがない!

まず前提として、フィリピンでもヤクルトは売ってます。ただ売ってるだけでなく、フィリピン人の生活に浸透していて、大きなスーパーだけでなく、シライのような地方都市でも普通に店頭に並んでいます。

つい最近、甥っ子が消化器系の感染症(深刻な病気ではない)に罹った時には、町医者から母親に「ヤクルトを飲ませなさい」と言われたほど。

ウィッキペディアで調べてみたら、ヤクルトの歴史は1930年(昭和5年)まで遡り、京都帝大(現在の京都大学)の医学博士、代田稔という人が、ヤクルトの元になった乳酸菌の培養に成功。1935年(昭和10年)に、福岡市でヤクルトの製造販売を開始。私の両親が生まれる前から、売ってたんですね。

名称の「ヤクルト」は、エスペラント語でヨーグルトを意味する「ヤフルト(Jahurto)」からの造語。いかにも京大の学者が発案したっぽい由来。

最初は瓶詰めで、お馴染みの樹脂製の容器は、1968年(昭和43年)に登場。持ちやすく倒れにくく、子供が一気に飲める量を勘案した、プロダクトデザインの傑作。2008年に、日本のグッドデザイン(Gマーク)で、ロングライフデザイン賞を受賞しました。


そして、ヤクルトのホームページによると、アフリカを除くほぼ全世界に事業展開。フィリピンでは、1978年から営業が始まっているので、もう40年以上が経過。そりゃ、フィリピン国民の認知度は高くて当然。


フィリピン向け
ヤクルトのテレビCM

ちなみにヤクルト以外で、フィリピンで一般的に販売されている日本発の食品には、味の素、キッコーマンなどがあります。最近では、キユーピーのマヨネーズとか、抹茶味キットカットなどが、じわじわ人気が出ている感じ。料理好きの従弟のパウロに言わせると、キユーピーは「世界一」美味しいマヨネーズ。マヨラーの私は、激しく同意します。

さて、そんなヤクルトが、最近なぜかシライ市内のスーパーから忽然と消えてしまいました。最初は最大手の「セーブモア」で品薄に。しばらくすると、ロプェスやガイサノでも、商品棚からなくなって、もう半年以上は経つでしょうか。

最初はネグロス島への供給自体が、何らかの原因でストップしたのかと思ったら、隣街の州都バコロドでは、普通に売ってる。我が家では、子供が小さい時から毎朝飲んでいるヤクルト。仕方がないので、たまにバコロドに出かける時に、20本ぐらい買い置きしてます。

最初に書いた、医者からヤクルトを勧められた甥っ子の母も、わざわざヤクルトを買いにバコロドへ。

ということで、もしヤクルト関係者の方が読んでおられましたら、シライ市への商品供給を、よろしくお願いします。


2020年1月27日月曜日

二泊の料金で生活費一週間分


この週末も、日本からのお客さまをお迎えしたゲストハウス。1泊2,000ペソ(約4,300円)で2泊いただき、夕食2回、朝食1回を付けて合計5,000ペソ(約1万円ちょっと)。この料金が安いのか高いのか、ネグロス島シライでの相場を知らない人には全然分からないでしょうね。

シライで思いっきり安く泊まろうと思えば、ペンションハウスと呼ばれる宿泊施設があります。例えばシライ市内の目抜き通りにある、ウィンベル・ペンションハウスだと、1泊600(約1,300円)ペソから、高くても1,500ペソ(約3,200円)。割と清潔だし、それほど狭いわけでもないけど、やっぱり値段相応のサービス。学生さんがお金を節約するために泊まる感じ。

一応ホテルと言えるクオリティで市内唯一なのが、私の住む宅地から歩いていける距離のリッチモンドホテル。開業して10年ぐらいしか経ってないので、まだまだ建物も新しい。こちらは、一番安い部屋が、ちょうどウィンベルの高い部屋と同額の1,500ペソ。きれいだけど、ちょっと狭い感じ。スイートで2,200ペソ(約4,700円)となります。

もう一つの選択肢が、スペイン統治時代の富豪宅を利用した宿泊施設で、最近営業を始めたジャーマン・ウンソン・ヘリテージ・ハウス。ペンションほど安っぽくないし、リッチモンドよりはるかに広々。趣もあるし、朝食も付いている。お値段は1,800〜2,300ペソ。(約3,900円〜4,900円)

というような、シライ市の宿泊事情。もちろん大都市の州都バコロドなら、1泊4,000ペソ(約8,600円)もするような、高級ホテルはいくらでもあります。

そんな状況で設定したのが、1泊2,000ペソという金額。ベッドルームは2つあって、日本人でも普通に快適な湯船付きの浴室。リビング・ダイニングがあって自炊もできる。ただし、ゲストが二組の場合は、寝室以外は共用。この内容でバコロドに住む、家内の叔母に聞いてみたら、すっごく安いと言われました。

実際に泊まっていただいた、先日のマニラからの日本人とフィリピン人の奥さん、その親戚も「本当にこの値段でいいの?」と心配されるぐらい。つまり、フィリピン人の感覚でもコストパフォーマンスはきわめて良好。

もちろん投資額から考えてこの価格では、回収するまで軽く10年はかかりそうですが、元々、いずれ日本に住む両親を引き取ることに備えた家。さらに将来的には、子供が世帯を持った時にも使えると考えています。別に儲けが出なくても、お金に困るわけではありません。

ちなみに、今回いただいた5,000ペソ。これだけあれば、私たち家族3人の一週間分の生活費に相当します。一ヶ月に、のべ10泊していただければ、それだけで暮らしていけますね。

ということで、今日はシライでの宿泊費用について語るつもりが、ゲストハウスの宣伝みたいになってしまいました。


2020年1月25日土曜日

フィリピンの水際対策


カリボ空港
出典:Business World

つい3日前に投稿した、新型コロナウイルスの件。事態は一気に悪化して、中国国内の感染者は1200名を超え、死者はすでに41名。武漢とその周囲、人口4,000万の地域が封鎖されるという、前代未聞の強硬策が取られました。

それでも、遅きに失っしたようで、既に日本、アメリカ、ベトナム、タイ、シンガポール、韓国、フランスそしてオーストラリアなど、13カ国で感染者が確認され、人から人への二次感染と見られる事例も。どうやら、武漢の市当局が最初に感染を知った際に、中央政府に対して隠蔽を行ったことが、初動の遅れにつながったらしい。

中国の周辺国では、2003年のSARSでの教訓を活かしたシンガポールが、かなり厳格な入国管理を行なっているとのこと。そしてフィリピンでは、有名観光地であるボラカイ最寄りのカリボ空港に、1月24日、武漢から到着した中国人観光客の464名を、症状の有無に関係なく全員送還すると発表されました。

実際のところ、潜伏期間が1週間から12日もある新型コロナウイルス。中国や上海で感染が確認されているし、マニラやセブ経由で感染者が入国してしまっている可能性があるものの、少なくとも現時点で取れる最大限の措置と言えるでしょう。

もちろん、現地の商業施設には打撃だし、送還と簡単に言っても、3便に分けてということで、フライトやそれまでの滞在などの費用は発生します。中国嫌いな日本人の中には、無責任に快哉を叫ぶ連中もいるようですが、フィリピン側からしても、痛みを伴う決断だったことは間違いない。こういう素早いアクションが取れるのも、ドゥッテルテ効果なんでしょうか?

正直に言って、今のフィリピンの医療体制下で、ワクチンも特効薬もない新型ウイルスの感染爆発が起こったら、国中がパニックになるかも知れません。この国に住んでいる者としては、想像するだけで背筋が寒くなります。最初に「全員送還」のニュースに接した時は、思い切ったことをやったもんだと唸りましたが、冷静に考えれば止むを得ない判断。

また、この措置は、これからフィリピンに渡航しようとする、中国以外からの観光客にも影響が大きいでしょう。私にとってはすごく身につまされる話で、ちょうどこの2月から、ゲストハウスに、日本から長期滞在のお客さんを迎えようというタイミング。

それでなくても、タール火山の噴火があったばかり。さらにフィリピンの水際対策が不十分などいう情報が流れれば、直前のキャンセルがあっても仕方がない。

ということで、まだ楽観を許さない情勢ながら、今回のフィリピン政府の対応に関しては、かなり高い評価ができると思います。


2020年1月22日水曜日

フィリピンで検出、新型コロナウイルス


出典:CNN

しばらく前から、ネット上で話題になっている、中国・湖北省の省都、武漢で発生した新型コロナウイルスによる肺炎。1月21日時点の情報では、北京・上海・深圳を含めて、患者数が291名、死者6人とのこと。すでに、日本、タイ、台湾、韓国、アメリカでも患者が確認されています。

そして、セブに渡航した中国人旅行者の5歳児から、同ウイルスが検出されたと、フィリピン保健省が発表。春節をこの土曜日(1月25日)に控え、タイミングは最悪。聞くところでは、この時期、のべ30億もの人が移動するんだとか。

NHKのニュースによると、2003年に同じく中国から世界中に広がったSARSコロナウイルスに比べると、感染力も致死率もかなり低いようです。とは言え、患者数の増加でウイルスの世代交代が進むと、遺伝子が変異して、より毒性が上がる懸念も。

フィリピンの場合、寒くて乾燥した冬がないので、日本と違って、毎年インフルエンザが流行するようなことはありません。ただ、少しぐらいの体調不良なら、なかなかお医者さんに診てもらったり、薬を買うことができない貧困層では、風邪の類いはすぐに広まってしまいます。因みに、結核で亡くなる人も多い。

5年前には、ここネグロス島のシライ市内で、水疱瘡が爆発的に流行。(蔓延!水疱瘡)この時は、医師に掛からないことだけでなく、感染症予防に対する知識の欠如が、感染の拡大を招きました。熱が下がったからと、水泡のある状態で子供を通学させる親がいましたからね。

今のところ、新型コロナウイルスに関しては、一通りネット上の記事を読んでみても、緊急事態という感じではありません。ただ、これからフィリピンに渡航しようとしている人は、当たり前のことながら、食事前の手洗い(できればアルコール消毒)やうがいをした方がいいでしょう。特に空港などでは要注意かと。

ということで、セブでの感染者確認の報道を受けて、速報的に投稿しました。

【追記】
などと、のんびりしたこと書いてたら、実際に武漢にいた人の話によると、かなりヤバいことになっているらしい。「コロナウイルスと闘う医師が伝える武漢の惨状


2020年1月20日月曜日

飲酒のお話


出典:Rappler

私は、日常的にアルコールをほとんど摂取しておりません。ドクターストップで断酒してるとかではなく、若い頃から飲めない体質。無理すれば、ビールをコップ二杯程度は飲めますが、即効で顔は真っ赤で、頭はガンガン。ワインならばグラス半分ぐらいで、睡魔に襲われます。

最近でこそ日本では、飲酒を無理強いするような習慣はなくなったようだし、会社などでは、忘年会・新年会などの「職場の飲み会」自体が敬遠される傾向なんだとか。正直に言って、アルコールに関する限り、私は早く生まれ過ぎたのかも知れません。

私が若い頃には、大学の部活の一気飲みで、死ぬかと思うような目に遭ったし、下請け会社の社長に、嬉しくもない接待で飲まされて、帰宅時の電車のホームで盛大に嘔吐したり。40代ぐらいの頃に、ようやく酒席を断れるポジションになってからは、自分が飲まないだけでなく、上司や同僚に付き合うことも無くなりました。

今から思えば、自腹を切ってまで、別に取り立てて仲がいいわけでもないのに、たまたま同じ場所で働いている他人と、飲食や旅行を強制されるって、実に不可解なカルチャー。男の私ですら嫌だったんだから、若い女性が、オっさんの集団に同行させられてたのは、拷問に等しかったでしょう。

私自身は、フィリピン移住後、どこかのオフィスに勤めたりした経験はありませんが、今もフルタイムで仕事をしている家内や、その友人・親戚、あるいは自宅を建ててくれた大工さんの仕事振りを見る限り、日本のような習慣はありませんね。

もちろん、飲んで騒ぐのが好きな人が多いこの国なので、職場でバースデー・パーティ(しかも就業中)があったりしても、嫌ならば参加しなくてもいい。終業後の飲食も、飽くまで「有志」が基本。上から下まで全メンバーの参加が義務なんてのは、聞いたことがない。

そんな、どちらかと言うと、飲酒に対して嫌悪感を抱いている私が「やっぱりそうやったんや」と思ったのが、2年ほど前(2018年)に発表された記事。アルコール摂取は、少量でも健康リスクがある、というもの。

ネット上で、同じ情報ソースを元に繰り返しアップされているので、ご存知の方も多いでしょう。試しに「アルコール、適量なし」で検索すれば、たくさん出て来ます。

「一滴でも飲んだらガンになる」みたいな極端な話ではないけれど、従来、適量とされてきた摂取量でも、やっぱり何らかのダメージはあるということらしい。

詳しくはググって頂くとして、飲めない私にすれば、今更驚くこともないぐらいの実感そのもの。ちょっと飲んだだけで、頭は痛いし吐き気はする。少なくとも私の体には、良いはずがないと思ってました。

その記事を読んでから、偶然にも、身近にいる同年代で、重病で入院したり、あるいは急逝した人は、ことごとく日常的に飲酒。これは日本人、フィリピン人に関係ありません。実はつい先ほど、家内に連絡があって、高校時代の同級生(なので50代前半)が脳梗塞で半身不随になったとのこと。やっぱり酒飲みだったそうです。

私の同郷、兵庫県尼崎市生まれの作家、中島らもさんの著作に「今夜すべてのバーで」という自伝的小説があります。まさに「アル中」をテーマにした内容で、大量飲酒、連続飲酒に陥ってしまうプロセスを淡々と描写。私には長年の謎だった「なぜ健康を害するほど酒を飲んでしまうのか」という問いに、正面から答えてくれた傑作。

まぁ、らもさんほどのレベルにハマってしまう人は、そんなにたくさんはいないでしょうけど、酒そのものが目的ではなく、手段になったら危ない。つまりストレス発散のためだけとか、眠れないから飲むとか。

だから飲酒を控えましょうなどと、説教じみたことを言う気はサラサラなくて、ここまで読んだ酒好きな人も、これを機会に断酒とは、絶対にならないのは分かっております。

だた、還暦近くまで生きて多少分かったのは、どうも人間というのは、何かに依存しないと、生きるのが難しい生き物らしいということ。私の場合は、一時期まではタバコでした。今では、もう少し健康的な趣味や習慣にハマって(つまり依存して)いますが、それが、たまたまアルコールではなかっただけ、なのかも知れません。


2020年1月18日土曜日

1.17に思う25年の距離感

今年(2020年)の1月17日で、阪神淡路大震災から25年。当時私は、両親と弟、前の妻と一緒に、兵庫県尼崎にある私の実家、三階建て二世帯住宅に住んでいました。

鉄骨造りの、細長いペンシルビルのような構造だったので、倒壊は免れましたが、私がいた三階では、揺れがすごかった。食器棚、本棚、洋服ダンスはすべて倒れ、ダイニングは割れたガラスや陶器の破片で、足の踏み場もないほど。

大阪市に隣接する尼崎市では、神戸や西宮のような壊滅的な被害レベルではなかったとは言え、市域の推定震度は6。死者49名、負傷者7,145名の大惨事となりました。(図説 尼崎の歴史「阪神・淡路大震災がもたらしたもの」

実家はたまたま震災の2年前に、以前の木造平家から上記の三階建に建て替え。もしそれがなければ、終戦直後の住宅難時代に急ごしらえで作られた家は、ペチャンコだったかも知れません。実際に尼崎市内では、木造老朽化住宅にかなりの被害が出ました。

とまぁ、ほとんどの家具や食器はダメージを受けたものの、家族5人はかすり傷程度で全員無事。本当に神さまに感謝です。(私がカトリックの洗礼を受けたのは、この2年後ですが)

少なくとも自分が生きている間には、関西地方に大きな地震は来ないと、今にして思えば何の根拠なく信じていた私。その時までに経験した最大震度は、せいぜい3ぐらい。立っていられない、というか、地震発生時刻が、まだ薄暗い早暁だったので、起き上がれないぐらいの激しい揺れは、まったく初めての経験。布団の中で、これで人生終わりかと観念するほど。

その後、確か夕方ぐらいに電力が復旧して、地震後初めて見たテレビからの映像が、あの衝撃的な、阪神高速がぶっ倒れている場面。自宅の屋上からは見える六甲山の山並みは、大火災の煙に霞んでいるし、家の上空には、報道関係や自衛隊のものと思われるヘリコプターがひっきりなしに飛来。これが終末の風景というものか。



出典:神戸新聞

軍用ヘリが低空で飛ぶと、下っ腹に響くような振動を伴うことを、その時初めて知りました。

あれから25年。その間、私の人生はずいぶんと大きな変化が。

まず、まるで震災がその引き金になったかのように、その年(1995年)の11月、勤務先の会社から東南アジア担当を任じられ、1ヶ月に及ぶ6カ国の市場調査。これが私のフィリピン初渡航になります。

その後、離婚、カトリック入信、フィリピン女性との再婚、度重なる転勤、鬱病、早期退職にフィリピン移住。それまでがずいぶんと平坦で、誰かが敷いたレールの上を走っているような歳月だったのが、突然アップダウンの激しいオフロードになったみたい。

最近ふと気づいたのは、この25年という時間的な距離って、ちょうど1945年に太平洋戦争が終わり、戦後復興と経済成長の象徴だった、大阪万博が開催された1970年の間と同じという事。万博当時は小学校2年生だった私なので、当然、戦争については親や祖父母を通じてしか知りません。

子供には遠い昔の話ですが、その時の両親にすれば25年前の戦争は、まだまだ記憶も生々しい、ついこの間の出来事だったんだと、今更ながらに実感。

いくら社会の価値観が根こそぎ変わるぐらいの大きな出来事でも、25年もすれば、それを体験していない世代は、もう大学を卒業して社会に出るぐらいに育つもの。当たり前ですけどね。

真っ暗闇の中の激震。震災後間もない神戸や西宮で見た、見慣れたビルやマンションが倒壊した現場。何よりも塵芥や腐敗物が入り混じった臭気。あの強烈で全感覚を通じた印象を、言葉や映像だけで伝えるのは、かなり難しい。

つまり、親の世代が経験した戦争は、私には、本当の実感としては伝わっていないんでしょう。伝える側の真剣さと、受け取る側の感受性も大いに影響することでもあるし。

日本のテレビや新聞などのメディアでは、過去の大災害や戦災について報道する際、お決まりのセリフとして「記憶を風化させない」なんて、簡単に言ったり書いたりします。でも、身近に体験者が生きているうちはともかく、自国の歴史すらロクに教えていない国では、ただのお題目としか思えませんね。


2020年1月15日水曜日

ご近所の日比ハーフ姉弟

「灯台下暗し」とは、よく言ったもので、同じ宅地内の歩いて10分ぐらいのところに、お母さんがフィリピン人、お父さんが日本人の日比ハーフ姉弟がいました。それも中学2年生になる私の息子と、それほど年齢の違わない小学校の高学年。

知り合ったきっかけは、これまた同じ宅地内にある、日本人向けの英語学校「アクティ・ラボ」で催されたクリスマスパーティ。以前から我が家に、アクティ・ラボの生徒さんを、ホームステイで受け入れたりしてたし、年末からは、新築のゲストハウスを使っていただいている関係で、私たち家族で参加しました。

そこに来ていたのが、この姉弟とそのお母さんクリス。私がゲストハウスを始めたのと同じ発想で、自宅の敷地に小さなカフェ・レストランを営業しているとのこと。日本から引っ越して来て、もう1年近くなんだそうで、目と鼻の先なのに全然気が付きませんでした。

シライ市の教育委員会みたいな組織である、DepED(フィリピン教育省)のシライ・ブランチに勤める家内によると、日本の学校からの転入手続きに関わり、名前だけは知ってたらしい。

本当は、息子が通う私立の小・中・高一貫校の聖テレシタ学院(STA)に入学希望だったのが、日本の転出元学校の書類の英訳が間に合わず、市街地から少し離れた、山間部の別の学校に入学。STAに日本からの生徒さんが入れば、私の耳にも届いていたでしょう。

日本にいた頃は、居酒屋で働いていたというクリス。根っから接客業が大好きらしく、自分の店を持つのが夢だったんだとか。日本語は流暢だし、フィリピーナ気質満載の明るさ。それでいて、自然な品の良さがあります。

日本暮らしの共通体験もあって、相性が良かったのか、たちまち家内と意気投合。「それじゃ一度、私のお店に遊びに来てね。」と誘われて、日曜日のミサ後にお邪魔したのが、数日前。

自宅のガレージをちょっと改装した程度で、カフェやトロトロ(簡易食堂)を始める人が多いフィリピン。営業許可がどうとか、衛生管理が云々は、あまり厳しくないこともあって、すごく気軽な感じ。そのかわり、やっつけ仕事丸出しの雑なお店が多いのも仕方ない。

ところが、クリスのお店は、相当気合の入った本格的なもの。フィリピンらしく、竹で作ったバンブーハウスながら、鉄筋コンクリートの柱を使った二階建て。仕上げもキチンとしてる。メニューは、日本仕込みのカレーに豚カツ、餃子などなど。値段は安くて、常連さんもいるそうです。



なるほど、これは英語学校の日本人生徒にもウケるでしょうね。だから、クリスマスパーティに参加してたわけだ。

そしてその翌日の月曜日。私も明るいクリスが気に入って、お子さん二人と一緒に我が家での夕食にご招待。コロッケやスパゲティサラダ、豆腐の味噌汁などを用意。嬉しいことに、三人とも美味しい美味しいと、たくさん食べてくれました。

特に12歳のお姉ちゃんは、食べ盛り。クリスが心配するほどの食欲。食べるだけでなく、なかなか聡明な子で、私の書斎に並んだ大量の日本語書籍に興味津々。それじゃ、読みたい本を貸してあげるから、週末にまたおいで。

ということで、息子に同じ日比ハーフの友達ができた...と思ったら、夕食後は、一緒に遊ぶでもなく、全員自分のスマホに集中。まったく、今時の子供やのぉ。


2020年1月13日月曜日

火山の噴火で全便欠航



出典:CNN Philippines

晴天の霹靂(へきれき)とは、まさにこの事。一昨日(2020年1月12日)、マニラ首都圏の南、約50kmの距離にあるタール湖。その中央に浮かぶタール火山が、突如噴煙を上げました。

と書くと、まったく活動してなかった死火山みたいですが、歴史的には何度も爆発的な噴火を繰り返し、周辺住民に多くの犠牲者が出ていたそうです。特に1911年には、死者1,355名、負傷者199名(実際にはさらに多数との情報も)の大惨事。

その後も1960〜70年代まで活動は続き、21世紀になってからも、時折火山性地震が観測されてきました。このことから、現在では、火口のある島への定住は禁止。ただし、農耕に適した火山性の土壌が豊富なため、住み続ける人もいるようです。

今回の噴火は、大規模に噴煙を上げる活動としては、1977年以来の沈黙を破るもの。こうして見ると、フィリピンの首都マニラって、本当に災害リスクの多い場所に建設された都市なんだと、改めて実感。やたら台風は来るし、地震もある。それは東京も同じなので、偉そうに言えることではないけれど。

昨日の日曜日からは、テレビやネットを通じて、物凄い噴煙と稲妻の映像が多数紹介され、日本でも報道されているようです。風向きの関係で、首都圏でも降灰を観測。さらに火口に近い、コーヒーの産地として有名なバタンガスなどの周辺地域では、惨憺たる状況。灰まみれで避難する人々の映像を見ると、胸が痛みます。

以前にも書いたように、ここネグロスにも、今も水蒸気を上げるカンラオン火山が島の中央にあります。まったく他人事ではありません。

さて、今のところ直接の影響はないネグロスですが、噴火の影響でマニラのニノイ・アキノ国際空港(NAIA)発着のフライトが、バコロド行きを含めて全便欠航。火山灰はジェットエンジンに深刻なダメージを与え、最悪の場合、全エンジン停止の事態にもなりかねない。これは1982年にインドネシア上空で、飛行中のジャンボ機で実際に発生した事故。(ブリティッシュ・エアウェイズ9便エンジン故障事故

幸いにして、あわや海上に不時着の直前にエンジン再始動に成功し、ジャカルタ空港へ緊急着陸。乗員・乗客合わせて263名は無事でした。そんなわけで、NAIAの事実上の閉鎖は当然の措置。

こうなると、ここネグロス島シライ市にある日本人向け英語学校は死活問題。ほとんどの生徒さんは、日本からマニラ経由で飛行機を乗り継いで来るし、直前にセブ経由へのフライト変更は、かなり難しいでしょう。

特に2月、3月は、春休みを利用した学生さんの利用が多い時期。実は我がゲストハウスも、1月末から3月一杯、英語学校からの予約で満室。下手すると全部キャンセルです。痛いなぁ。

この投稿を書いている1月13日(月)の午後2時前、NAIAでの発着便の一部が再開されたとのニュースがありました。取り敢えずは良い知らせなんですが、何せ相手は活火山。今後どうなるか、まったく予想がつきません。


2020年1月10日金曜日

私的フィリピン美女図鑑 大人のメルモ

2020年最初の美女図鑑は、ミクロイドSのアゲハ(可憐な少女アゲハ)以来、2回目の手塚作品からのモチーフ。昭和30〜40年代生まれの世代にすれば、なかなか衝撃的だったアニメ「ふしぎなメルモ」に登場する、大人になってしまったメルモちゃん。

若い人たちのために説明すると、小学3年生(なので9歳)のメルモは、幼稚園児と1歳の弟がいる女の子。父親のいない母子家庭。その母が交通事故で亡くなるところから物語が始まります。

三人の幼子を残して、天国に召されたメルモのお母さんは、神様の助けで幽霊となり、メルモに瓶入りミラクルキャンディを手渡します。赤・青二種類の色のキャンディは、食べると瞬時に、十歳づつ若返ったり年老いたり。

メルモは、このキャンディで、大人になったり子供に戻ったりしながら、いろんな事件を通じて成長していく、というストーリー。一足飛びに成人女性(それもモデル並みに超ナイスボディの美人)になることで、性にまつわる知識を、視聴している子供と一緒に学んでいく「性教育アニメ」。

今にして思えば、よく放送できたなぁ。もちろん放送コードに引っかかるような露骨な描写はなく、それこそ「オシベが...メシベが...」的な間接的表現ばかり。それでも、劇中のメルモとほぼ同い歳だった私には、十分な刺激。このアニメがきっかけて、性に目覚めたと言ってもいいぐらい。

何よりも強烈なビジュアルインパクトだったのが、9歳児の身体が19歳のサイズになる変身の場面。メルモの名前は「メタモルフォーゼ」に由来するんだとか。着ている服が同じなので、長袖シャツは肘ぐらいまでになるし、スカートでは隠しきれない下着がちらり。ヘアスタイルまで変わるのは、手塚治虫さんの趣味でしょうか?

今回は、そのピッチピチ・ルックのメルモを、オっさんの妄想力全開放で、イラストにしてみたわけです。

1971年の放送当時には、大人の女が子供の服を着てるなんて、あり得なかったけれど、あれから50年が経って、そのまんまなファッションがあるんですよね。膝上どころか、パンティを見せることを前提にしたような、「絶対領域」強調のマイクロ・ミニ。へそ出しも珍しくなくなったし。

最重要なモデルさんは、久しぶりにフィリピンの有名女優の中から選んだ、イローナ・ガルシア嬢(Ylona Garcia)。グールグ画像検索で見つけた瞬間に一目惚れ。丸顔にぱっちりな目、キュートな童顔は、私のイメージする手塚美人そのまま。鉄腕アトムのウランとか、リボンの騎士のサファイア王女でも似合いそう。


というわけで、このモデルにこのコスチュームなので、こんなポーズになってしまったわけです。何だかメルモちゃんと言うより、小川ローザさんみたい。例えが「モーレツ」に古過ぎて申し訳ありません。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

2017年

2018年

2019年


2020年1月8日水曜日

ブブゼラ禍


出典:Depositphotos

騒音については、フィリピンに住む日本人なら、多かれ少なかれ悩まされる問題。このブログでも何度も投稿した、近隣からの大音量の音楽。特に繁華街ではなく、私が住んでいるような「ビレッジ」と呼ばれる住宅地だと、なまじっか静かなだけに、かなり離れた場所の音が聴こえてしまう。

さすがに移住8年目に入った今は、以前ほど神経質ではなくなったものの、すぐ隣の工事現場、しかも私の部屋から10メートルもない距離で繰り返し鳴らされた、ボリュームマックスのラジオには、キレてしまいました。

こんな具合で、週末などにバランガイ(町内会)毎のフィエスタで催される、屋外ディスコや、歌が可哀想になるほどヘタクソなカラオケ大会など。これは、フィリピンに安く住まわせもらう代償だと思うようにしてます。

もちろん対策もいろいろ講じていて、暑い時期なら窓を締め切ってエアコン使用。また最近のヘッドホンは耳の中にぴったりフィットで、外部の音を遮断。さらに就寝時には耳栓も。

ところが数日前、これまでの騒音とは次元の違う、超絶的大音量の音源が登場。日本の皆さんもサッカーの応援でご存知の「ブブゼラ」。

この楽器(というか騒音発生器)、発祥は南アフリカなんだそうです。元々は金属製だったものが、1990年代頃に今ある樹脂製に変わり、南アフリカ国内に広く普及。2010年以降は中国製が爆発的に増えて、現在世界中に出回るブブゼラの9割が、メイド・イン・チャイナ。

その特徴は、とにかく音がデカいこと。観客が熱狂するサッカーの国際試合ですら喧しすぎて、ブブゼラの使用を制限することが議論されています。ワールドカップでは、国歌斉唱のタイミングで吹き鳴らす、アホな観客までいる始末。

これが、最近のフィリピンでは、大晦日の夜に、爆竹や花火、自動車のクラクションと並んで、ノイズ・メーカーの仲間入り。まぁ、年に一回だけ、町中が戦場のような状態なので、これはこれでいいかと思います。

多分、その時使ったものなんでしょうね。新しい年も一週間が過ぎているのに、向かいのバアちゃん宅で、3歳ぐらいの男の子が朝から「ブァ〜〜〜」。少しぐらいなら笑って済ませられるけど、何時間経っても、まるで取り憑かれたように吹き続け。

窓を閉めようが耳栓しようがダメ。音に反応して犬が吠え出すので、イライラ度が倍増。遂に昼過ぎ、我慢の限界を超えて苦情を言いに行きました。我ながらよく耐えたもんだ。

とは言え、相手は年端もいかない幼児と、耳の遠いバアちゃん。怒鳴りつけるわけにもいかず、強い口調の英語で「頼むからやめてくれ。それ吹いていいのは、大晦日だけや」。こちらが怒っているのは十分伝わったようで、それ以降は静かになりました。

それにしても、他の家から文句が出なかったのが凄い。反対側の家など、もっと至近距離で何時間もブブゼラの音を聴かされ続けているのに、我慢強いのか気にならないのか。こればかりは、いくらフィリピンを愛する私にも、理解の範囲を超えてますね。


2020年1月6日月曜日

満員御礼ゲストハウス


大晦日、ゲストハウスにかかった虹

ネット上で宣伝した訳でもなく、Airbnb(エアービーアンドビー / 宿泊の仲介サービス)の登録もしてないけれど、今年(2020年)の正月三が日明け、1月4日からいきなりゲストハウスが満員になりました。

近所にある、日本人向け英語学校の生徒さんは別として、昨年11月からのお客さん4組は、すべて私の友人と、そのまた友人のつながり。フェイスブックと口コミのおかげです。

記念すべき最初の宿泊客は、ゲストハウス竣工1週間後に2泊された、セブに住む日本人のMさん。このブログが縁となって知り合い、たまたま私の住むシライで開催された、ダンス大会に参加するために、ご利用いただきました。

クリスマスに来られたのが、Yさんのダンス仲間でマニラ在住のMさん。この方もやはり当ブログの愛読者で、休暇をネグロス島で過ごそうと、ご宿泊になりました。

その関係とは別で、年末ギリギリに来てくれたのが、セブでフィリピン人の婚約者と住んでいる日本人女性のSさん。数年前にネグロスに居たころからの友達付き合い。今回は、婚約者のネグロスへの里帰りのついで、という感じ。

そして年明け早々、マニラからお越しいただいたのが、Mさんの友人のTさん。日本人で奥さんはフィリピーナ。ネグロス島のサンカルロスという、我が家からは車で4時間ぐらい離れた街で、親戚の結婚式に出席。シライ・バコロド空港のすぐ近くということもあり、わざわざのお立ち寄り。

当初はご夫婦だけの予定が、前日になって、親戚も一緒に泊まりたいとのこと。総勢7名で、どうですかねぇ?との問い合わせ。ちょっと狭いけど、フィリピンの人たちなら、大丈夫だろうと受け入れを決めました。

結局、当日来られたのは1人減って6名さま。それでもベッドルーム二つに、リビングをアコーディオンカーテンで仕切った仮寝所が満室。ありがたいことです。

さてこうなると、たいへんなのは食事。チェックインは夕方5時頃なので、夕食と翌日の朝食を追加料金で提供することに。

とは言っても民宿のノリ。時々自宅で開くホーム・パーティの要領で、基本は手料理でのおもてなし。献立もごく普通に、カレーや肉じゃが、ポテトサラダに、家内が買ってきてくれたレッチョンマノック(鶏の丸焼き)。

幸いお口に合ったようで、かなり多めに用意した食事はほぼ完食。さらにTさんには、ゲストとして初めて、浴槽付きのバスルームを使っていただき、次回は入浴剤持参で来たいと言うほどご満足。

ちなみに気になる宿泊料ですが、二つのベッドルームは各2〜3名まで、一泊2,000ペソ。リビングの仮寝所は、その半額の1,000ペソ。2食付けて全員で1,000ペソ。お風呂は一回300ペソに設定。

この料金で、約1ヶ月の間に、家内の月給に匹敵する売り上げがありました。これは、たまたまピークの時期だったからというのを考慮しても、上々の滑り出し。

ということで、少し間を置いて、1月の後半から3月までは、すでに予約が埋まりつつあるゲストハウス。今朝は、たまたま我が家の前を散歩していた、ご近所さんのアメリカ人牧師が、ゲストハウスについてお尋ね。

「ネットで予約できる?」「すみません、まだそっちの準備はできてないので、私に直接言ってください。」みたいなやり取りがありました。思った以上に、近隣では噂が広がっているようです。これは本格的に営業許可の取得をしなくっちゃ。


2020年1月3日金曜日

新年会は、タコ焼き実演

あっと言う間に2020年も3日目。皆さま、明けましておめでとうございます。フィリピンに移住して、今年で8年目に突入です。

さて最近の年末年始というと、クリスマスは州都バコロド市内の家内の叔母宅、元日は我が家で親戚集合がお決まりのパターン。多少の変動はあるものの、ここ数年のレギュラーは以下の通り。

家内の実家から、義父と義弟夫婦ロイとジーナ、その子供、男の子アンドレと女の子ジャスミン。二人の叔母マミー・スモールとアンティ。叔母の息子たち、つまり家内の従兄弟、パウロ、ラルフ、カルロ。ラルフの奥さんエリアン。

4年前まで、家内の叔父、パパ・ボーイと3人の娘、ダリア、ミニー、ダリルも来てたんですが、パパ・ボーイ急逝後、兄ボンボンと二人の姉ディアンとドリセルが住むマニラへ引っ越し。年末年始だけでなく、イースターも万聖節(11月1日フィリピンのお盆に相当)のお墓参りにも、顔を見せなくなりましたね。

そして2020年の1月1日。例によって炊き込みご飯やカレーを用意していたお昼時。フィリピン人には珍しい、時間はちゃんと守るオフィレニア一族(家内の母方の苗字)がやってまいりました。

今年は、いつもとちょっとだけ趣向を変えて、タコ焼きを追加。それもできたものを出すのではなく、テーブルの上で実演調理することに。こういう日に備えて、関西人の嗜みであるタコ焼きプレートは、ちゃんと日本で買って、持って来てあります。

プレートと言っても、コンロは別のフライパンのようなもの。サイズも小振りで4×4の16個用なので、フィリピンで売ってるカセットコンロで十分調理可能。さらに、いつもの母屋ダイニングではなく、ゲストハウス竣工祝いを兼ねて、駐車スペースとバンブーハウスを使ってのガーデンパーティにしてみました。


フィリピン在住の方なら、少し大きめのショッピングモールで、屋台風のたこ焼きブースを見たことがあるでしょう。寿司やラーメンに比べると認知度はまだまだながら、人気日本食の仲間入りしつつあるタコ焼き。

実は本当にタコを入れてる店は少ないようで、他の食材で誤魔化しているらしい。フィリピンでタコを食べないわけではなく、探せば売ってるんですが、あまり一般的でもない。ここネグロス島・シライの公設市場やマーケットは、残念ながら置いてません。

なので私の場合は、茹でて皮をむいたエビを使った、「エビ焼き」にしてます。本来なら安い食材で作るファーストフードのはずが、ちょっと違うやろと言われそう。それでも、調理の手順はタコ焼きと何も変わりません。細かく刻んだ生姜とネギ、輸入品のオタフクソースとキューピーマヨネーズ。これでほぼ完璧。



狙い通り、フィリピンの親戚たちには、物珍しさも手伝って大人気。2回目には、オフィレニア一家で料理の腕前ナンバーワンのパウロくんがトライ。私が作っていたのを一度見ただけで、器用にひっくり返していきます。なかなか筋がいいですね。

ということで、例年と同じく全員満腹。2020年もハッピーな滑り出しになりました。それでは本年も「ネグロス島 永住日記」を、よろしくお願いします。