2014年9月29日月曜日

アリさんパニック ふたたび

半年ほど前、まだ仮住まいの借家にいた頃、本棚のDVDにアリさんが巣を作って、大騒ぎになったことを投稿しました。新居に引越ししても、熱帯のフィリピンでは、虫たちから逃れられるとは思ってませんでしたが、一昨日また襲撃に合ってしまいました。

今回は、こちらの落ち度と言うべきか?
土曜日なので子供を学校に送っていくこともなく、朝寝坊をした私の朝食だけが、9時過ぎまで食卓に置かれてました。虫除けに上から別のお皿で蓋をした状態。眠い目をこすりながら、その蓋を取ると…。

家内が作ってくれたガーリックライスは、無数の小さなアカアリがたかって、地元のブラウンシュガーをまぶしたようになってました。う〜〜む、ちょっとぐらいだったら、そこだけ除けて食べるところだけど、さすがにここまでだと捨てないとしょうがない。あ〜もったいない。



いつもだったら、少し大きめの皿に水を張り「堀」を作って、その中に日本のお城のように、食べ物が入った容器を置くのですが、家内は私がすぐ起きてくると思って、油断したようです。まったく、短時間に何千というアリが集まるのは、考えてみるとすごいですね。

太平洋戦争の頃、つまり70年ぐらい前は、沿岸部を除く全島がジャングルに覆われていたそうで、今住んでいる所は、その後サトウキビ畑になって、さらに十数年前に宅地になりました。更地にした裏庭では、工事が終わって数ヶ月もしないうちに、樹木の芽を含むいろいろな植物が、雨後の筍のごとくニョキニョキ生えてきてます。

虫も来るし、虫目当てのヤモリやゲッコー、小鳥も集まってきて、瞬く間に家の敷地には新しい生物の食物連鎖ができました。すべての窓と扉には網戸を付けて、防虫対策はしているものの、元ジャングルのこの場所で、完全に防ぐのは土台無理というもの。

昨夜も、浴室に紛れ込んだ小指の先ほどの赤ちゃんヤモリに、家内が金切り声を上げてました。私が捕まえてベランダへ放り出しましたが、ヤモリと共生できないとフィリピン暮らしは難しいかも。

ゴキブリさえいなければ、私にはそれなりに快適な住空間です。いつヤツらの侵略が始まることやら…。


2014年9月26日金曜日

お金貸してよ



フィリピンという国と付き合いだしてから、もう何回目になるか覚えてませんが、今日、知り合って間もない人から、お金の無心をされてしまいました。何でもおばあちゃんが事故に合ったそうで、病院から携帯テキスト。それも返事を待てないように3本連続。書き出しが「お願い、助けて」だったのでびっくりしましたが、要するに薬代を立て替えてくれということ。

う〜ん、お金貸すような関係でもないし、第一そのおばあちゃんに会ったこともなければ、話にすら聞いたことないよ。ということで、金額も聞かずに断りの返信したら、梨の礫。ちょっとそれは、なんぼなんでも失礼やろ。

でも、こういう感覚の人は多いですね。
つい1年ほど前も、仮住まいのお隣さん。お母さんがガンで末期医療を受けてるけれど、お金がなくなって「昨日からご飯食べてません。お願いですから3000ペソ貸して」と、涙ながらに頼みにきました。

日本円で8000円ほど。何とも微妙な額ですが、物価が日本の約1/5ぐらいのなので、4万円ぐらいになりますか。決して安くはないですね。この時は、家内が可哀想だからと私に相談してきました。これで貸したら、まずお金は帰ってこないだろうと思ってましたが、家内の顔を立てて、返さなかったら次はないとハッキリ伝えることを条件に貸しました。
結局返されないまま、しかも黙って引越し。(というか、家賃が払えずに追い出されました)

もう20年ほど前ですが、家内に出会う前に付き合っていたフィリピン人のガールフレンドに、いきなりお金貸してと言われたのが多分最初。結婚してしばらく後には、家内の親戚から相当な金額の借金の頼みがありました。この時は、何十万円という単位で、フィリピン人にしてはすごく真面目なことに、自分名義の土地の権利書を差し出してきました。

何だか、時代劇に出てくる悪役の高利貸しになったような気分。そこまでされて嫌だとは言えないし、よく知っている人だったので、言われた金額を用立てました。そして権利書はまだ手元にあります…。
フィリピンでは土地買うのは、現金があれば拍子抜けするほど簡単ですが、売るのは尋常ではないほど難しいと知ったのは、こちらに移住してからです。

まぁ、とにかく人からお金を借りることに斟酌がないと言うか、相当気軽に「お金貸して」と言う人が多いですね。それを呼応するように、街を歩いているとやたら目に付く質屋さん。場所によっては何軒も並んで立ってます。質草は貴金属や宝石の類い。

全員がそうということでもないでしょうが、目先の贅沢を我慢して、少しづつ貯蓄するのが、からっきし苦手な国民性だという気がします。多くの人が貯金できるほどの収入がないこともあるかも知れません。それにしても、あったらあるだけ使うしなぁ。

財布ごと渡しても、ちゃんとやりくりして、その中からお金を貯めて、義父に中古とは言え車を買ってあげた家内。彼女がどんだけフィリピン人離れしているか、つくづく感心してしまう昨今でした。


2014年9月24日水曜日

完成しない家

フィリピンの建築工事のエエ加減さは、自宅を建てる前から、日本人からもフィリピン人からも散々聞かされ、実際に自分が施主になってみてさらに思い知らされました。工期はあってないようなもの、仕事ぶりは厳重に監視しないと図面は無視(と言うよりキチンと図面が読めない)、資材は絶対施主が自分で買い付けないと、お金をドブに捨てることに。

任せて放っておくと、工期は伸びまくり、手抜きでガタガタ、予算使い切っても住める状態にはほど遠い…。そうさせないために、心血を注いだものです。まず、基本設計は信頼できる日本人の建築士 にお願いして、二度もフィリピン出張してもらい、現地の気候風土と私たち家族の要望を十分理解してもらってから、図面を描いていただきました。施行は、工務店を経営しドバイでの業務経験のある父に、工期の八割ほどの約半年間こちらに滞在して現場監督をやってもらい、届け出関係は市役所に勤める家内の弟に頼みました。

後から考えて一番重要だったのは、その義弟による現地の大工さんの人選 。多い時で20名を越える大工さんたちが集まったので、中には「ハズレ」な人もいましたが、まとめ役のリーダーのリトや、何でもこなすトニオ、仕事が早いレイ…。全体的に見て、いい大工さんが集まってくれたと思います。

技術的なことと工期は、父が きちんと管理してくれた一方、予算は何と言っても家内。最初から具体的なお願いをしたわけではないですが、家計簿のごとく細かく出納管理。ほぼリアルタイムで使った金額が掴めるので、本当に助かりました。

しかし、ここまで理想的な環境を整えられたのは、ほとんど奇跡的だったような気が。先日、自宅の祝福パーティで知り合った、ノルウェー人のヤンさん。彼の隣家が、今新築工事中なのですが、彼から話を聞くと、ずいぶん悲惨な状況になっているようです。

施主はおばあさん。フォアマン(請負の現場監督)に前金を払うパッキャオ・システムらしい。ところが払ったお金を使い切っても、全然完成しない。どうやら、フォアマンに任せっきりにしていたようです。

可哀想なことに、お金がなくなった時点で工事は否応なく中断し、一部屋だけ何とか住める状態にして引越してきたとのこと。今日、見に行って来ましたが、未完成というより廃屋のように見えました。玄関の扉も付いておらず、これでは夜は 怖い だろうなぁ。ちょっと強い夕立があったら、室内は吹き込んだ雨でびしょぬれになりそうです。



実際、こういう家は多いんですよ。
どう見ても未完成なのに、工事中でもなく普通に人が住んでいる。家内に聞くと「途中でお金がなくなったんでしょ。」と涼しい顔で答えたのには、ずいぶん驚いたものです。日本でも予算切れで工事がストップということもあり得るでしょうが、同じ市内に何十軒も完成しない家があるというのは、考えられない。

今回、いろいろあったとは言え、何とかマトモな家が建ったのは、私が頑張ったというより、偶然家族や親戚に頼れる人が何人もいたこと、有能な人たちとの出会いがあったことに起因したんだと、しみじみ思います。
これを神さまに感謝しないで、誰に感謝するべきや?


2014年9月23日火曜日

誰でも英語喋れるだろ?



先日の我が家の祝福パーティの時、家内の高校の後輩が、その旦那さんを連れてパーティに参加してくれました。私たちの住む住宅地「セント・フランシス・ビレッジ」は、外国人オーナーが多く、そのほとんどが男性で奥さんがフィリピン人というパターン。家内の後輩とその旦那さんも私たちと同様の国際結婚カップルで、同じ宅地内に住んでいます。

後輩の名前はグレース。旦那さんはノルウェー人でもう60過ぎ。お嬢さんが一人、息子と同じ歳で同じ小学校に通っています。ヨーロッパ系のハーフで、背が高く顔立ちも目立つので、以前から私も息子を迎えに行った時、何度か見かけた覚えがあります。

その旦那さんとは、祝福パーティの時が初対面。「ヌッ」という感じで家に入って来ました。身長187センチ。後で聞くと、兄弟の中では一番背が低いと言ってましたが、170センチの私ですら、あまり自分より背が高い人とは会わないフィリピン。ものすごく巨大に見えました。

名前はクリスチャン。グレースは「ヤン」と呼んでます。もう初老と言っていい外見ながら、すごく気さくでフレンドリー。でもアメリカ人によくある馴れ馴れしい感じではなく、適度な遠慮と含羞があり、好感が持てました。しかも聞きやすい英語を喋るので、最初から話し込んでしまった。

今年の6月に引越してきたばかりのニューカマーのヤン。話題はやっぱり似たような境遇にある者としては、どうしてもイロンゴ語(この地域でのフィリピンの方言)のことになります。目下イロンゴ勉強中の私としては、つい習得を勧めてしまいます。

ノルウェーを含むスカンジナビア諸国では、母国語以外に主要なヨーロッパ言語を複数喋れないと、仕事に就けないそうで、3〜4言語の習得が必須。英語、ドイツ語、スペイン語を喋れるので、もう十分だと言われてしまいました。その上、フィリピンでは、ほとんど誰でも英語喋れるだろ? だから何も困らない。

仰せごもっとも。
"なんちゃって"バイリンガルになるだけでも、すごく苦労したのに4言語とは想像を絶します。日本語を母語にするより、比較的よく似たヨーロッパ内の言葉なのでまだマシかも知れませんが、それだけ分れば、便利だと思います。でもよく考えたら家内も、英語、タガログ語、イロンゴ語、セブアーノ語、日本語…5つもできますね、すごい。


2014年9月22日月曜日

我が家の洗礼

昨日、延び延びになっていた、神父さまによる新居の祝福がありました。カトリック信徒の間では一般的な行事で、神父さまに来てもらい、お祈りをして家中に聖水をかけてもらう、言わばお家の洗礼式みたいなもんですね。



フィリピンでは、だいたいどんなお祝い事でもそうなんですが、それに付随するパーティがメインです。誕生日でも結婚式でも子供のデビューパーティ(成人式?)でも、結局やることはみんな同じ。

先月、お隣さんがやはり新築で、この祝福のお祝いがあって、その時は業者を呼んでに食事のケータリングサービス。すごい本格的でした。ウチはどうしようかと、家内に相談しましたが、自前+持ち寄りなどで質素に済ますことに。
質素と言っても、やっぱり30〜40人はお客さんを呼びましたが…。



 豪華な食事が用意されていたお隣さん宅の祝福パーティ


料理は全部で10品ぐらい用意したでしょうか? 2品は、家内の実家で用意してもらい、もう2品は注文、残り半分ぐらいを自分たちで作りました。午後2時からのミリエンダ(おやつ)パーティでも、結局思いっきり食事の用意になります。当日は、朝からメイドさん二人で大掃除と料理の準備。私も1品担当して、合間を縫ってレンタルのテーブルと椅子の搬入作業とかなり忙しかった。


神父さまは、近所の神学校付属の教会にお願いして、来ていただきました。時々、日曜日のミサでお会いする若い神父さま。聞くと正式に司祭職に就いてまだ4ヶ月なんだそうです。中国系っぽくて、パっと見は日本人と言っても通る感じの人。

定刻は2時でしたが、そこはフィリピンなので、お客さんが集まって祝福の儀式が始まったのは、2時半に過ぎていたでしょうか? キャンドルサービスをして型通りに聖書の一節を朗読。お祈りをした後、一部屋一部屋、トイレもクローゼットも裏庭の隅まで、丁寧に小さな瓶に入った聖水をかけて回ります。面白かったのは、神父さまが「きれい寝室だ!」とか「こんな吹き抜けは初めてみた!」と感想を言いながら歩いていたこと。




仕事柄、いろんな家を見ておられるそうですが、やっぱり間取りが珍しかったようですね。扉を開けていきなり居間というのが多いフィリピンで、日本式の玄関ホールは滅多にない。基本設計の時からこだわって、内装材や塗装は、ほとんど全部自分達で段取りをしただけに、素直に褒めてもらうと嬉しいものです。

さて、その後のパーティ。最後に驚かされたのが、私の名前が書いてあるバースデイケーキが用意されていたこと。息子の友達のお母さんが作ってくれた手作りケーキ。まだ私の誕生日まで二週間あるんですけど…。祝い事なので、まぁいいか。




2014年9月21日日曜日

セブ、第三の故郷

先週の木曜日から昨日の土曜日までの2泊3日、またまた隣島のセブに行ってました。目的は、ようやく承認された私の永住ビザの手続き。要するにパスポートにスタンプ押してもらうためだけに、飛行機に乗って出かけたのです。

前回は、後だしでいろいろ言われて、朝から夕方まで待たされました。今回はスムーズ(それでも3時間はかかりました)で、わざわざブログでぼやくほどのこともありません。ただし、これだけで帰っては飛行機代がもったいないので、先月、日本のNGO主催の体験ツアーでホームステイしたスラムを、もう一度訪ねることに。

さすがにアポなしでブラっと...というのは危ないので、事前に連絡を入れて、近くのショッピングモールまで、前回友達になった住人の一人に迎えに来てもらいました。この人、若いのに三人の子持ちのお母さん。「インダイ」と呼ばれてますが、これは本名ではなく、地元の言葉で「お嬢さん」というぐらいの意味。家内も父親や兄弟からは「ダイ」と呼ばれてます。多分こっちのインダイさんも、小さかったころの愛称がそのままになってるんでしょうね。

このインダイさんのお陰で、やってきました懐かしのスラム。実はこの日の2日前、台風16号の影響で、セブ市内外の学校が臨時休校になるほどの大雨が降り、このスラムの周辺も膝の高さまで水が来たそうです。私が着いた時も、水はけが悪い場所なので、まだ大きな水溜りがいっぱい残ってました。



みんな元気か、ちょっと心配してたのですが、嬉しいことに私のことを覚えていてくれた子供たちとそのお母さんが、いっぱい集まって来てくれました。「フランシスおじさ〜ん、歌ってよ〜。」タガログ語のカラオケ大会の印象がよっぽど強烈だったのね。



先月、家に泊めてもらったアナベル姉さんに、また昼ご飯をご馳走になってしまいました。自宅でおかず屋さんを営んでいるアナベル、商売の品なのに「好きなもの食べて!」と勧められ、代金を払おうとしても、笑って受け取ってくれません。かたじけないこと、この上なし。

永住ビザの手続きは、もう終わりですが、まだアイ・カード、日本で言うと外国人登録書に相当する身分証明書の発行と受け取りが残っていて、年内ぐらいにはもう一回来ることに。こんなに歓迎されると、やっぱりまた来なくっちゃと思います。生まれ育った兵庫県尼崎、今住んでいるネグロス島に続いて、セブは第三の故郷になってしまいました。


2014年9月17日水曜日

熱帯植物、増殖中

十数年前に購入した宅地が全部で600平米。そして紆余曲折の結果、半分の300平米分で家を建てて、残りの半分は竹材のフェンスで囲って裏庭にしました。家の工事中は資材置き場や作業スペースになっていて、毎日大工さんたちが踏んづけていたので、土が剥き出しだったのですが、工事が終わって2ヶ月半、ものすごい勢いで植物が増殖してます。
やっぱり熱帯地方は、植物の楽園なんですね。年中暑くて雨が多い。高温多雨とはよく言ったもの。



芝生は、造園業者に頼んで植えましたが、実は元々こちらに自生している「カラバオ・グラス」という種類。やっぱり野生のものは強いようで、場所によっては敷地から溢れんばかり。

その他に後付けの植物は、最初は高さ1メートルにも満たなかったバナナの木。今では私の身長をあっさり追い抜き、葉っぱの先端まで2メートルにはなったでしょうか? 成長のスピードが早過ぎて、台風でも来たら根こそぎにぶっ倒れそうで、ちょっと怖いぐらい。



家庭菜園向けに、工事中に植えた、カボチャとナスビ。ナスビの方は生育がイマイチですが、カボチャは1個収穫したら食事2〜3回分は使えるほどでっかいのが成ります。



勝手に生えて来た植物で、一番目立っているのがタロ芋。どこから種が来たのか分かりません。最後に入れた庭土の中にでも紛れ込んでたような気もします。これが芝生の真ん中だろうが、日の当たらないじめじめした所だろうが、お構いなしに芽を出してます。大きくなったら、根を掘り出して食べてやろう。




そして楽しみなのが、木になると思われる植物。
実は我が家で一番大きな木は、宅地を買った時、既にかなりの大きさに育っていた野生のもの。これ以外にも、ここ3年ほどで2階建ての家より大きくなった木がありました。「あっれ〜、この間見た時には、何にもなかったのに。」とい感じ。結局工事の邪魔で伐採してしまいましけど。





ということは、あちこちで芽吹いているのが、数年もすると木陰を作る大きさにまで成長するかも知れません。これは裏庭がこんもりとした鎮守の森のようになる? まるで「となりのトトロ」ですね。


2014年9月16日火曜日

血まみれの磔刑像

先週、自宅の祭壇に聖マリア像を置いた時の投稿でも触れたように、フィリピンのイエスさまや聖人の像は実にリアルに作られています。特に十字架に架けられたイエスさまのお姿、磔刑像は傷口から血が流れ、お顔は苦悶に満ちた表情。





日本の教会にもリアルなものもありますが、数は少ないでしょうね。大抵の教会、特に新しい場所では祭壇の後ろの壁面には象徴的な十字架だけとか、磔刑像があったとしても、ずいぶん単純化されていて、見た目にはとても静かで清らかな印象になっています。


大阪在住時に通った カトリック茨木教会にて

それに比べて、フィリピンのスペイン統治時代に建てられたような聖堂内は、とことんまでにリアルで、まるで余白を怖がるかのように、多数の聖人の像や肖像画で満ちあふれています。建物内部も暗く、静かで清らかどころか、おどろおどろしい情念の世界。

同じカトリックなのに、この差はどこからくるのかと思ってましたが、今日久しぶりに読み返した司馬遼太郎さんの本で、なるほどと思う記述がありました。以下引用します。

鴨長明は仏教的な随筆を書いた。ということになっていますから、仏教なんでしょうけれど、どうも本来の仏教とはちがう。「平家物語」も、栄枯盛衰とか、会者定離とか諸行無常とか、仏教的な気分のなかで書かれたものだ、と言われてますが、それが仏教なのかどうか。
あの荒くれた自然のなかで生まれたインド宗教としての仏教なのか、ということになると、やはりずいぶん違うものです。みんな日本にくると”美”に転化されてゆくわけですね。
司馬遼太郎 著「手彫り日本史」より

私はカトリックの洗礼を受けているので、間違いなくカトリック信徒なのですが、本来の神との厳格な契約で成立した信仰というより、キリスト教世界を構成するいろんな要素に美を感じ、それに憧れて慕っている、という方がしっくりくる気がします。

例えば新旧の聖書に何度も出て来る「生贄」とか「子羊」という表現、実際動物を殺して食肉にする行為というのは、戦慄を伴います。フィリピンに引越してすぐの時に、豚の屠殺を見ましたが、創世記に出て来るアブラハムが幼い我が子を屠って神に捧げる場面をこの屠殺のイメージに重ねると、恐ろしいですね。

元来、遊牧民の宗教だったユダヤ教と、それを母体にしているキリスト教の核になる部分は、日本人の「宗教=清浄」という気分とは相容れないものなのかも知れません。私自身も、大人になって洗礼を受けたので、それなりに重たい体験があったものの、こういう即物的で荒々しい契約だとは考えていませんでした。

そう考えていくと、私が信じている神さまとフィリピン人である家内の神さまは、実は微妙に違うのかも知れませんね。


2014年9月14日日曜日

メイドがいる生活 その後



我が家に住み込みのメイドさんが来て3ヶ月余り。そろそろメイドがいる生活に慣れて来ても良さそうなもんですが、まだそうとも言えません。以前にも書いた通り、家族に混じって他人が住んでいるのは、子供の時からそういう環境で育った人でもない限り、そう簡単に慣れるものではないようです。

18歳のカトリーナ嬢。
なかなか愛嬌があって可愛らしい子です。真面目だし、別にメイドさんにならなくても、他に就職先はなかったんかいな? とも思いますが、高卒で特技もないとやっぱりフィリピンでは難しい。

最初はいろいろありました。週末の夕方に、ちょっと友達に会ってきます、と言ってそのまま翌朝まで帰ってこなかったことが2回。1回目は、話に夢中になって遅くなってしまい、携帯で連絡取ろうとしたけど、バッテリーがなくなったそうです。こちらでは夜の8時を過ぎると交通機関もなくなり、危なくて女の子の一人歩きはできないので、多分本当だったろうと思います。

2回目の時は、さすがに家内が怒ってしまい、朝早く戻って来たのを閉め出し。しかし、小学生の息子が「カトリーナ姉ちゃん、ドアの外で待ってるよ〜。」と泣訴して、何とかその場はおさまりました。しばらくしてから家内は、カトリーナのお父さんも呼んで説教してましたが...。(お父さんより、私たちの方が年上なんですよ。)

その後カトリーナの素行はすっかり改まり、よく家内と笑いながらお喋りしてます。どうやら労使の関係も安定してきたようで、やれやれという感じ。

最近私は、ほぼ毎日料理をします。私が厨房に立つと、後ろからじ〜〜っと注目するカトリーナ。ちょっとした動作で要望を察して、冷蔵庫から食材を出してくれたり、食器を取ってくれたり、まるで忠実なアシスタントのようです。洗い物などは、調理の最中でも手が空くとすぐに片付けてくれるので、すごく助かる。

現地の言葉のイロンゴで話しかけることもありますが、会話の大半は英語。こちらは雇い主なので当たり前なんですが、カトリーナは私に「サー」と呼びかけます。これがどうしても慣れない。毎日顔合わせてるんだから、もうちょっと気さくにしてもらえないかなぁ?

私の感覚では、使用人というよりただの若い女の子なので、関西人のサガか、それともバカな男の習性か、ジョークの一つも言って笑わせたくなります。(実際は、私のくだらない冗談に付き合って、無理に笑ってくれてるだけかも知れませんが…。)

しかし、家内がいる手前、あんまり打ち解けすぎるのも、問題があるのかも知れません。この辺りのさじ加減が実に難しい。う〜ん、ちょっと気にし過ぎかな?


食器洗い中のカトリーナ


2014年9月12日金曜日

9.11に思う

2001年と言えば、私たちはまだ新婚と言ってもいい時期。あの年は、偶然にも8月に夫婦でアメリカを旅行しました。仕事で世界のあちこちへの出張が多く、ちょうどお盆休みの直前にアメリカでの仕事があって、当初の出張期間が終わってから自費で家内を呼び寄せて、新婚旅行気分のニューヨーク観光を楽しんだのでした。

その前年の仕事で、ニューヨーク在住の日本人夫婦のNさんと友達になって、奥さんには家内の観光ガイドみたいなおもてなしをしていただき、とても楽しい休暇を過ごせました。生まれて初めてのニューヨークで、家内は大はしゃぎ。

帰国して、盆休みが明けてしばらく後の、あの日の夜。10時からの報道番組にチャンネルを合わせた瞬間に、黒煙を上げる世界貿易センタービルの映像が目に飛び込んできました。まだその時は、それほどの大事件だとは知らず、セスナでも突っ込んだのか?という感じでしたが、2機目がビルに激突した瞬間を見て、ただ事ではないと気付きました。機影がどう見ても大型の旅客機。

その後、当時契約していたCNNに切り替えましたが、日本語の同時通訳が何を言っているか分からないほどパニック状態で、英語音声に切り替えて家内と一緒に画面に見入ってました。

そしてビルの倒壊。ニューヨークを案内いただいたNさんが、ブルックリンの自宅からちょうど貿易センターの下を通る地下鉄に乗って、毎朝通勤しているのを思い出し、血の気が引く思いがしました。国際電話やメールで安否を確認しようとしましたが、まったく不通。後で聞いたところ、幸運にも通勤時間の前だったので、自宅で待機していて無事だったとのこと。

そのうち日本時間では夜も更けてきましたが、どうすることもできないので、動揺が収まらない家内を促して、ベッドに入ったのを覚えています。

世界中にフィリピン人の出稼ぎ労働者は多いですが、あの時ほどそれを実感したことはありませんでした。しばらくの間家内は、ABS-CBS(CS経由で日本でも視聴できるフィリピンの放送局)で、事件に巻込まれたフィリピン人の情報について、毎日一生懸命見ていました。家内の友人、知人で亡くなったりした人はいなかったのが、救いでした。

もうあれから13年が経ちます。
会社も辞めてしまったので、恐らく私はアメリカに渡航することは当分、ひょっとすると二度とないかもしれませんが、今でも時折当時一緒に仕事をした、現地スタッフの人たちのことを思い出します。Nさんとは、それからも何度かお会いして、たまにメールのやり取りも。

9.11を知らない息子が、先月でもう9歳。早いなぁ。



事件の前年、出張の時に撮影した世界貿易センタービル


2014年9月11日木曜日

マリアさま、ご光臨


フィリピンの家には、だいたい祭壇が設けられます。家の中だったり、庭に作った祠だったり。そこには聖人の像や肖像が飾られるわけですが、サント・ニーニョ(幼きキリスト)か聖母マリアが選ばれることが多いようです。

日本のカトリックでは、あんまり馴染みのないサント・ニーニョ。フィリピンではとても親しまれていて、隣島のセブは守護聖人がサント・ニーニョ。その名前を頂いた教会がセブ市内の一大観光スポットになっています。


サント・ニーニョ教会

さて、我が家の祭壇。
設計の初期から設置することは決めていました。一家全員がカトリックの信徒だし、フィリピンなので当然でしょ?という感じ。しかし、詳細は工事が始まってから場所や形が二転三転。一時は玄関ホールの壁をくり抜いて作ろうとしてましたが、その隣の子供部屋を変更したので、そこに設置するのは中止。

結局、ダイニングの四隅の一カ所にしました。デザインも、タイルを張り始めてから気が変わって、そこだけレンガ風の設えに。で、出来たのが下の写真のような祭壇。
引越ししてから三ヶ月以上、肝心の主役の聖人が不在のままでした。本当はもっと前に何とかしようと、家内と話はしていましたが、雑務に取り紛れて放置されてました。



そろそろ、神父さまに来てもらって、家の祝福のパーティ(これはカトリックの行事で、家を新築したら盛大にやります。)をしないと…となって、昨日とうとう家内が隣街の州都バコロドに行ってサント・ニーニョではなく、聖母マリア像を買ってきました。それは、私のたっての希望だったからです。


自動車購入後、神父さまの祝福を受ける様子

私は留守番でお店は見てませんが、カトリック関係の品物がいっぱい置いてあるところらしく、マリアさまも大小様々おられる。中でも一番の美人を選んだと言ってました。どのマリアさまも手作りのようで、一つ一つお顔の造形が違うとのこと。他のは不美人だったということではなく、何となくお顔が怖かったんだそうです。

さてやって来られたマリアさま。私の好みから言うと、石膏像のように白無垢がよかった。日本人なら理解されると思いますが、ギリシャ彫刻のような感じ。でも、フィリピンではそうはいかないんですよ。教会の壁におられるイエスさまの磔刑像でもヨセフさまでも、極彩色に着色されていて、肌は肉色で生々しいお姿。
実は、本家のギリシャ彫刻もパルテノン神殿のレリーフは、完成直後は、塗装されたド派手なものだったと最近分かったと聞きました。

我が家のマリアさまは、思ったほどすごい色でもなかったんですが、やっぱりリアルな色でした。身長は50センチちょっとぐらい。なかなか品のある表情をされています。



夕方になって、いよいよライトアップ。このために祭壇を照らすスポット照明を取付けていたのです。やっぱりいいですね。こうやってセッティングすると、自然と手を合わせたくなります。
どうか、末永くお住まいいただき、私たち家族をお守りください。+


2014年9月10日水曜日

平和な楽園 早期退職という選択

今フィリピンは雨期で、ほとんど毎日のように一日のどこか、あるいは終日雨。昨日は、早起きして全米オープン・テニスの決勝見てましたが、残念ながら錦織くん負けちゃいました。朝から夕刻まで雨で、これは悔し涙雨か?

今朝は久しぶりに寝室に差し込む朝日で目覚めました。涼しいし爽やかだし、南国なのにまるで日本の初秋のような天気。青空を見上げると、気分も晴れやかです。この陽気に満を持したように、家内は昼からメイドのカトリーナをお伴に、州都バコロドにお買い物に出かけました。これまた久しぶりに一人で留守番。



南国の昼下がり。自宅は「セント・フランシス・ビレッジ」という広大な住宅地にあって、周囲を壁で囲まれ、いくつかあるゲートはすべて24時間態勢で警備員が常駐してます。騒音を撒き散らす車も入ってこないし、時折鶏の声が聴こえるぐらい。

これこそ平和な楽園。
移住して1年半が経過しましたが、日本にいた時に望んでいた暮らしが、まさに実現したと思える瞬間です。正直言って、50歳で退職し働かなくなることは、自分でもかなり冒険でした。金銭的には十分見通しを立てていたとは言え、会社にも学校にも行かない生活は、物心ついて以来まったく未知の領域。



しかし、今のところ思ったより上手く順応できているようです。子供の頃から時折悩まされていた、朝起きた時の「どよよ〜〜ん」とした感じがまったくなくなりました。普通に日本で生活していて「会社行きたくない」「学校行きたくない」と感じたことがない、どんな感じか分らない、という人は、よっぽど幸せだと思います。

サラリーマン生活の最後の10年間は、これが高じて薬頼りの生活に。突き詰めてしまえば、そんな日本の生活から逃げ出すのが、この移住の目的だったと言ってもいいぐらいです。

南の島で一日中、ぼ〜〜っとして過ごしたい。身の回りにもそう言う人がいっぱいいました。一時そうは思っても、実現しようとするととても難しい。国内から、資産をフィリピンに移す時に、銀行の担当の人が、「思い切りましたね〜。羨ましいです。」と業務用ではない言葉をかけてくれました。

それから、小学生の子供の送り迎え、料理、ジム通い、晴れた日はサイクリング、読書、他にも絵を描いたり、歌の練習をしたり…仕事以外の引き出しをたくさん用意しておくことが、どれだけ大事か、よく分ります。

最近、マンションで騒音のトラブルからの傷害や殺人事件のニュースが、ネットを通じて伝わってきます。もうそんなストレスに満ちあふれた場所に戻りたいとは、まったく思いません。


2014年9月7日日曜日

南国テニス <錦織選手 祝決勝進出>

日本にいたころはテニスが大好きで、そんなに上手くもないくせに週に2〜3回はコートに出ていました。真夏でも真冬でも、土日など朝から夕方までプレーしてたことも。それだけテニス仲間に恵まれていたんですね。テニスそのもの楽しいのですが、やはりワイワイやりながら汗をかいて、プレー後に食事やお茶をするのが格別。

その頃から錦織選手はすでに頭角を現していて、確か全豪オープンだったか、ツォンガに勝った試合などは、テレビの前に釘付けになっていた記憶があります。フィリピンではケーブルテレビが主流でチャンネル数が100近くもあり、スポーツ専門チャンネルも多い。当然、テニスの4大大会は放送されています。

昨夜は、錦織選手が全米オープンの準決勝進出で、しかも相手がランキング1位のジョコビッチということで、深夜、試合の最初から見ていました。第1セットを思ったよりあっさりと取った後の第2セット。何だか一方的な展開で1−6で落とした時、眠気に勝てず寝てしまいました。頑張って最後まで見て、フルセットで錦織が負けたりすると、翌朝の疲れがたいへんだと、つい弱気になって…。

それでも朝6時に目が覚めて、慌ててスマホで確認すると「日本人選手初の快挙」の見出しが目に飛び込んできました。やりましたね〜。正直、まさかという感想でしたが、いつの間にかそこまで強くなっていたのですね。もう一つ驚いたのは、次の試合でフェデラーがストレート負けしたとのニュース。ちょっと前まで「絶対王者」と呼ばれ、試合に負けるどころか、セットすら滅多に落とさない強さだったのに。時代の移り変わりを感じました。

さて、フィリピンでのテニスの話。
こちらでメジャーなスポーツと言えば、何と言ってもバスケットボール。ちょっとした空き地や路地の奥などには、バスケットボードが設置されていて、子供も大人もヒマさえあれば遊んでます。それに比べるとテニスはお金持ちがする、やや特別なスポーツと思われているようです。

どこのコートでも1面に2〜3人ボールボーイが付いて、20〜30円程度のチップで数時間は、ボール拾いをしてくれます。これだけでも「上流階級のスポーツ」な雰囲気。こっちで慣れている人は、よほど足下に転がってこない限り、自分で拾いません。失敗して遠くへ飛ばしてしまったのを、走って行って拾ってもらっても、礼を言うわけでもなく謝りもしない。

マニラやセブの高級住宅地やリゾートホテルならば、大抵はテニスコートがあるようですが、そこは田舎のネグロス島。特にシライ市内では知ってるだけでも2カ所。うち1カ所は公共の体育館に隣接して便利な場所にあっても、プレーする人いるのかなぁ。

移住当初は、こちらで知り合った日本人の女性と、もう1カ所の砂糖の精製工場の敷地内にあるコートで、たまにプレーしてたんですが、この人が恐ろしく時間にルーズで、あんまり度々すっぽかすものだから、1年ほど前に絶縁。それ以来コートから足が遠のいてしまいました。

隣のバコロド市内まで行けば、有料のヒッティング・パートナーがいるコートで、安くプレーできるけれど、日本のように仲間と一緒に楽しむことができないので、何となく敷居が高い。それに自宅の工事が始まったこともあり、結局このところラケットも握ってません。

家もできたし、日本人選手も世界レベルで活躍しているので、そろそろテニス再開してみようかなぁ? 日本から引越す時、高校時代の友達から餞別に頂いたテニスシューズ、いい加減にコートの中で履いてあげないと…。



2014年9月6日土曜日

危険を感じる昼下がり

残念なことながら、一般的に日本でのフィリピンのイメージは、まだまだ良くない。はっきり言うと相当悪いと思います。犯罪、売春、貧困、事故、災害…。そういう出来事以外、あまり日本では報道されないので、実際にフィリピンに来たことがなければ、良いイメージを持つのは難しいでしょう。

フィリピン人の家内と一緒になって、日本・フィリピン間を足繁く往復するようになってからもう16年。移住してから1年半ですが、そんな一般的なイメージとは裏腹に、一度も身の危険を感じたことはありませんでした。

まず、酒を飲まないせいか、夜一人で出歩くというのは、ほぼ皆無。どうしても夜間外出しないといけない時は、自家用車か、フィリピン人の同行者と一緒を徹底してきました。また、昼間でも知人のいないスラムなどの、危ない場所にも立ち入ったこともない。

友人、知人からは、タクシー強盗にあったり事故にあったりという話は多く聞いていましたので、決して「自分だけは大丈夫」と高をくくることもありませんでした。

しかし、と言うか、とうとうと言うべきか、今日はちょっと怖い目に合いました。
私は、昼間に限ってのことですが、15〜20分ほど距離で雨が降っていなければ、できるだけ歩くように心がけています。これは運動不足の防止と、ついこもりがちになる生活なので、気分転換の意味もあります。

いつも歩く住宅地の中の道。静かですが、人影が絶えるというほどでもない。雨続きで久しぶりに晴れたので、いつも通っているジムへの道すがら、周囲の景色を写真に撮りつつ歩いていました。



途中で背後から一台の車が、歩く速度に合わせるようについてくるのに気付けました。最初は偶然かなと思いましたが、二度三度と角を曲がってもその車は付かず離れず。とうとう路地に入って待ち伏せするように様子を伺っていると、その路地も曲がってこようとしました。

私は、意を決して逆戻り。その車と鉢合わせするように歩き出したところ、車は停止。車内には、特に怪しげな感じでもない男が二人乗っていました。よっぽど「何か用でもあるんか?」と凄んでやろうかと思いましたが、さすがに無意味に相手を刺激するのは、よくないと思いとどまり、ただ視線だけは外さずに車の前を通り過ぎました。薄気味悪いことに、男二人も車内からじ〜〜っとこっちを睨んでました。

ただ、それだけのことで、その後はもう車が追いかけてくることもありません。あれは、なんだったんでしょうか? マニラとかでは、金持ちが営利誘拐される事件は時々聞きますが、家内によるとシライ市で、そんなことは今までないとのこと。別に恨みを買うようなこともしてないし、金銭の貸し借りもありません。

う〜ん、気色悪ぅ。しばらくはゲートにガードマンがいる宅地の外に徒歩で出かけるのは、控えたようが良さそうです。


2014年9月5日金曜日

女子大生のお客さん

私が初めてフィリピンに来たのは、もう20年ほど昔になります。業務出張でマニラに数日滞在したのが1995年の11月。あの頃は、関空発マニラ行きのフライトに乗っている日本人と言えばビジネスマンか、露骨に風俗行きますっ、みたいなオッちゃんの団体ばかり。
お盆や暮れの時期には、フィリピン人の女性とその配偶者と思しき日本人男性が、子供を連れての里帰りが多くなる。

まぁだいたいこんな感じでした。ところが最近は、普通に若い人が多い。特に二十代の女性がネグロス島に来ることが、そんなに珍しいことではなくなったようです。これは、英語留学の影響が一番大きいんでしょうね。

マニラやセブに比べると物価は安いし、治安の面でも比べるとかなり安全。日本人や韓国人向けの英語スクールは繁盛しているようだし、地元の大学が日本人の英語留学生を受け入れてたりもするらしい。

いつ頃から、こうなったんでしょうか。
ネグロス島への移住を考え始めたのは、かれこれ十年以上も前なのですが、当初は移住してしまえば、出会う日本人はフィリピン人と結婚したジィさんばかりだろうと想像してました。まぁそういう人が多いのは間違いないんですが、実際には、州都バコロドのショッピングモールを歩いていても、日本語が聞こえると思ったら、若い人たちの団体だったりすることが結構あります。

そして記念すべき、新居への最初の日本人のお客さんは、女子大生お二人でした。(こういう書き方する所が、我ながらオっちゃん…。)シライ市内で活動している日本のNGOが縁で、去年しばらく滞在していた時に知り合って、嬉しいことにちゃんと覚えていてくれました。

家に来てくれると連絡があったので、張り切っていっぱい料理作りましたよ。
カレーにマカロニ&ミートソースとカルボナーラ。家内にはパエリアを頼みました。



このお二人、フィリピンでは、観光というよりボランティアをされていた影響か、新居を見て開口一番「想像していたより、ずっとキレイ」「フィリピンじゃないみたい」とのこと。設計は日本人建築士で内装も私が自分でデザインしたので、フィリピン離れしてはいるけど、本物のフィリピンの金持ちの家は、もっとずっとすごいんですよ〜。

でも、褒めてもらうとやっぱり気分いいですね。
日本人の私が快適に暮らせるように造った家なので、とても正しく評価してくれた気がします。また来てくださいませ〜。


2014年9月3日水曜日

教科書のない勉強 <イロンゴ講座 その2>



前回に続いて、フィリピンの方言イロンゴ語学習について。
昨日から本格的に再開した勉強。このイロンゴ、ヒリガイノンとも呼ばれる言葉は、フィリピン国内で約700万人が母語として使い、第二言語としては400万人、合わせて1000万人を越える人が喋れるそうです。

この数字からすると、決してマイナーな言語とは言えませんが、新規の学習者にとっては、なかなか難しい言葉。すこしかじった程度の印象では、文法が特別複雑だとか、発音が特殊ということもないけれど、どうもわざわざ教科書を作るほどの需要もないらしく、参考にできるテキストがほとんどない。

探し当てたものも、英語、タガログ語対応の薄っぺらい辞書と、単語帳程度の対訳テキストぐらいでしょうか? 体系的に文法や動詞の活用ルールなどを網羅したものは見た事がありません。仕方がないので、イロンゴのネイティブ・スピーカーから、聞き取りに近い状況での学習になります。

もちろん、基本的なルール、例えば動詞の時勢変化などは比較的簡単なので、別に専門の教師でなくても教えられます。ルート・ワード(語幹)の前にnag を付けると過去形とか、ma を付けると未来形だとか…。

しかし、今日気付いたのは、前回も書いた「si」。私の勝手な思い込みで、てっきり英語のbe動詞に相当するものと勘違いしてました。実は冠詞らしい。言語学的にそういう解釈が正しいのかどうか分りませんが、固有名詞を主語にするときにも Si Francis nagkato sa Hapon. (フランシスは、日本へ行った。)のように、その前に置くと教えられて、分った次第。

最初から人名だけに使う、英語のtheみたいなもんだと言ってくれれば、誤解も生じなかったのに…。今後もこの調子で、時々遠回りをしながらの勉強になるんでしょうね。これを機会に日本人のためのイロンゴ学習教科書を作ってやろうかと、一瞬思いましたが、どう考えても需要はほとんどなさそうです。普通に英語が通じるし、本当に必要とする人が多ければ、今頃、日本語/イロンゴ語の辞書や教科書が、たくさん出版されているでしょうからね。


2014年9月2日火曜日

フィリピン言語事情 <イロンゴ講座 その1>



イロンゴ語とは、フィリピンのビサヤ諸島の中で、私の住むネグロス島の西半分や、パナイ島などで使われている方言です。家内によると、フィリピンには85〜87もの方言があるそうで、しかもそれぞれが語彙をかなり共用していても、意思疎通が不可能か困難なレベル。

日本でも明治以前の方言の隔たりは、おそらくこれに近かったと想像します。江戸時代には、江戸住まいの大名の世嗣と国元の家来が言葉が通じないなんてことがあったらしい。同じように、マニラで生まれ育った人は、日常会話ではタガログ語を使っていますが、ネグロスのイロンゴ語は全然別の言葉というほど違う。
例えば「おはようございます」。
タガログ: マガンダン・ウマーガ
イロンゴ: マアヨン・アーガ

公用語はタガログ語をベースとしたフィリピノ語と英語の二つ。公用語が二つあるというだけで、日本人には相当ハードルが高いですね。しかしこれが理解できないと、ローカルのAMラジオ局以外は、テレビのニュースもドラマも映画も何にも分かりません。そもそもハリウッドの映画などは、最初から字幕がついていない。だから公開も早くて、先日のゴジラも5月には上映されていました。

さて、移住を決めてから、いずれは英語に加えてフィリピンの言葉を習得しないといけないと思ってました。タガログもイロンゴも…と言いたいところですが、さすがに50歳すぎてから二つ同時は無理なので、まず家内と家族や友達との会話に参加できるようにイロンゴだけでも何とかしたい。

もちろん家内、その家族、友達もほとんど全員英語はできるけど、やっぱり私以外がみなフィリピン人で、会話の中心が私ではないと、どうしてもイロンゴになってしまいます。この「取り残された感」は、なかなか辛いものです。

そこで、こちらに引越してから約半年ほど、たまたま知り合いになった地元の女性に先生をやってもらってました。この先生、とても優しくて面倒見がいい人なんですが、日本語はできないので、英語でイロンゴを教えるというスタイルにならざるを得ません。私が英語をネイティブ並みに喋れるならば、これでも何とかなったんでしょうけど、込み入った話になると、イロンゴを教わる前に英語の辞書引かないといけない状態でした。これはちょっと厳しかった。

そうこうしている間に、自宅の工事が始まり、気分的に落ち着いていられなくなったので、それを言い訳にしてイロンゴ講座は無期延期になってしまいました。しかし、その言い訳の自宅も完成してしまい、もう2ヶ月経過。

月も改まって9月になったのを区切りにして、イロンゴ語の勉強を再開することにしました。今回の先生は家内。身内に先生やってもらうのは難しいんですよ。遠慮がないから、すぐ喧嘩になってしまう。それは分かってるんですが、家が出来てお互いにヒマだというのもありまして…。

ということで、今朝から始めたイロンゴ講座。最初は「私の名前は○○です。」「私は日本人です。」からやり直し。こんな簡単な文章でも、日本語にも英語にもない独特の文法があります。人やペットの名前を言う時だけに使う単語があって、実はこれを誤解したまま覚えていたのが、今日分かりました。

アコ・シ・フランシス(私の名前はフランシスです。)
アコ・ハポン(私は日本人です。)

この「シ」si の後に来るのは名前だけ。それを間違えて「私は日本人です」をアコ・シ・ハポン、とやっていたのでした。

新しい言語習得の道は遠いなぁ。