2018年2月28日水曜日

フィリピン・オーディオ事情

前回は、フィリピン美女図鑑に名を借りて、30年前のオーディオについてノスタルジックに語ってしまいました。ほとんどフィリピンとは無関係な話になってしまったので、今日は、フィリピンの現在のオーディオについて。

オーディオ機器の音質を表現する時に「ドンシャリ」なんて言い方をします。低音がドンドン、高音がシャリシャリの、ディスコやポップス向きのサウンド。昔のオーディオマニアのように、クラシックやジャズを好み、原音再生を理想とする人からは、中音域が貧弱で、子供っぽくて低俗と言われてしまうような音作り。

このドンシャリこそが、典型的なフィリピンのオーディオ・スタイル。だいたい、ディスコ・ミュージックやポップス以外の音楽を、フィリピンで聴いている人がいるのかと思うほど。ちなみに私は、クラシック大好き。ドビュッシー、ラヴェル、ラフマニノフにチャイコフスキーなど、ピアノ曲もシンフォニーも、わりと頻繁に聴いてます。

でもクラシックを居間や車の中でかけると、フィリピン人の家内からは大ブーイング。特に声楽をずっと聴かせたらイライラしだして、マジ切れされてしまいます。最近では家庭の平和のために、自室で一人の時にしかクラシックは聴きません。

これは家内だけではなく、私が知る限り、クラシックを愛好するフィリピン人は少数派。ジャズ好きは、そこそこいるようですが、外を歩いていて聴こえてくるのは、ディスコで流れるような曲ばかり。それも、大音量。

かつて、東南アジア向けテレビの商品開発に携わっていた頃、マニラの電気屋さんで、実際にお客さんがテレビを購入する場面を見たことがあります。画質の確認だけでなく、ほとんどの人がボリュームを最大まで上げて、音割れしないかどうかをチェック。

日本だったら、まずあり得ないような使い方。テレビにしてもオーディオ機器にしても、一般の住宅で、音量マックスの聴き方をする人が、かなり多いんですよ。そう言えば、我が家の新築工事の時も、大工さんが一日中でっかい音で音楽を聴いてましたね。

まさにノーミュッジック・ノーライフな人たち。しかもドンシャリ命。そんな場所で人気のあるオーディオといえば、やっぱりデカい方がいい。近頃のものは、小さい製品でも十分な音質も音圧もある。でも本気で自宅の庭でディスコやカラオケ大会をやろうかという使い方だと、それでは満足できない人もいるようです。

こっちで見かけたソニーの製品。現地テーストに合わせて、ちょっとした金庫ぐらいありそうなサイズに、機能的にあまり意味があるとは思えない電飾付き。音も外観も実に派手。何となく暴走族とか、トラック野郎のセンス。


ここまで大きくなくても、昔ながらの大きなラジカセと似たサイズ、英語ではブーンボックス(Boom Box)と呼ばれるスタイルも、根強い人気があるようです。もちろんカセットデッキはなくて、スマホから再生できるブルートゥース対応のものが主流。


シャープ製のブーンボックス
衝動買いしそうになりました

こうして見ると、フィリピンでは今でも、オーディオ機器は十分ステータスシンボルになり得る、憧れの商品なのかも知れませんね。


2018年2月27日火曜日

私的フィリピン美女図鑑 憧れのラジカセ・ガール

今回の美女図鑑は、1980年代に青春時代を過ごした人々に捧げます。
テーマはラジカセ。ラジオカセットテープレコーダー。この30年間で、電話と並んで、まったく有り姿が変わってしまったオーディオ機器。もうカセットを見たことない人も多いでしょうね。

私が高校生の頃、オーディオといえば憧れのアイテム。音源はレコードとFMラジオぐらいしかなかった。ちょうどレンタルレコードのビジネスが始まったばかりで、貧乏学生は、レンタルしてきたレコードを、カセットにコピーしたり、ラジオで流れる曲をエア・チェック。

エア・チェックという言葉も死語ですな。本来は、ラジオ番組のスポンサーのために、ちゃんとCMがオンエアーされているかどうかを、録音してチェックしたことが語源。いつしかラジオを録音すること自体を、エア・チェックと呼ぶようになりました。

あのころはFM番組の専門雑誌があって、1ヶ月先までの番組表と、流される予定の曲名がびっしり。タイマー録音もないし、人気アーティストの新譜が発表される時など、何日も前からテープを用意して、放送当日を待ち構えたものです。AMと違って、FMではDJが曲のイントロに言葉を被せないのは、当時の習慣が残っているからかも知れません。

音楽を再生するのも、今と比べればずいぶん手間が多かった。LPレコードは、直径が30センチ以上もあり、かさばるし傷がつきやすく、静電気を帯びてすぐ埃だらけ。ディスク上に金属針を落として聴くものなので、再生すればするほど音質は劣化。なので、レコードを持っていても、通常はカセットのコピー版を愛聴。それも擦り切れるほど聴き倒しました。

そんな接し方をしたオーディオ機器。どれだけ貴重で愛情を込めたか。おこずかいを貯めて初めて買ったラジカセは、今でも細かい部品の手触りや操作感まで覚えています。完全に恋人。

価格が下がるにつれて、女の子向けの可愛い色やスタイルのものも出てきましたが、当初は「男の子アイテム」。黒いボディに金属パーツやメーター、ぴかぴかのLEDをふんだんに使った外観は、車やバイクの世界に通じるものが。

私がデザイナーとして家電メーカーに入社したのも、そんなオーディオへの憧れが高じた結果。ところが配属先ではコンピューターやテレビの担当で、結局本格的なオーディオは手がけることなく終わってしまいました。

というわけで、現実にはもうありえない新発売の高級ラジカセが、フィリピン市場に投入されたという妄想を、架空のメーカーからのカタログという形で、絵にしてみました。モデルさんは、フィリピンのナンバーワン女優、エンジェル・ラクシン嬢。本当にキャンペーンガールとして雇ったら、ものすごいギャラになるでしょうね。



過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

2017年

2018年


2018年2月26日月曜日

旅人の木


バコロド市内の観光地 ルーインズ にて

旅人の木(たびびとのき)、旅人木(りょじんぼく)、扇芭蕉(おうぎばしょう)、英語名 Traveler's Palm(旅人の椰子)、そして西ネグロスの方言、イロンゴ語では Saging Saging(サギン・サギン)。

これは全部、同じ植物の名称。
原産はマダガスカル。成長すると高さ7メートル、幅は3〜4メートルほどにもなる木。孔雀が羽を広げたような、独特の美しいシルットを持つため、ここネグロスでも観賞用に庭に植えられているのを、時々見かけます。

とは言え、旅人の木。ずいぶん大きいので、それなりの広さの庭が必須条件。苗木は高価なものでもなく、育てるのに特別な手間は必要なくても、やっぱり場所は限られてしまいます。私の感じでは、お金持ちのシンボルのようなもの。

先週の土曜日。寝坊できるはずの朝に、6時ごろから起きだした家内。メイドのネルジーを連れて、いそいそとどこかへ出かけました。30分ほどして、バカでっかい苗木を積んだトライシケル(サイドに台車を付けた自転車)を引き連れて戻ってきた。

一体何が始まるのかと思ったら、我が家の庭に、旅人の木を植えるんだそうです。苗木でも優に3メートルはありそうな大物。トライシケルを運転してきたオっちゃんも協力して、植樹予定の場所まで運びこみました。ちょっとデカすぎないかぃ?

自宅が完成してから、もうすぐ丸4年。ブーゲンビリアやハイビスカス、イエローベルにポインセチアなどなど。庭に少しづつ樹木や花を植えてきた家内。やっぱり自分の家に旅人の木を植えるのは、夢だったようです。

それはいいんですが、力自慢のネルジーが、シャベルで穴を掘り始めた途端に大粒の雨。お構いなしに作業を続けようとするのを止めて、先に朝ごはんを食べなさいと言い付けました。そのまま午前中は雨模様。続きは午後に延期として、私は書斎へ、家内はバコロド市内のショッピングモールへ買い物へ。


留守番の私は、昼食後少しウトウト。2時間ほども眠ってしまって、雨が止んだかと窓の外を見てびっくり。2階まで届くほどの旅人の木が、庭にそびえ立っていました。え〜、ネルジー、一人で植樹したんかいな? 前から腕力がすごいのは知ってたけど、ここまでとは思わんかった。


帰宅した家内も、相当驚いてました。当のネルジーは、妙に照れてモジモジ。リアクションだけは乙女チック。

その夜は、また土砂降りで、植えたばかりの旅人の木には、ちょうどいい水やりになりました。さて、新しく我が家の庭木に加わったこの1本。うまく根付いてくれるでしょうか。わくわくしながら、成長を見守りたいと思います。


2018年2月25日日曜日

においの記憶


匂い・臭い、日本語では同じ読みでも、良いものと悪いものを漢字で区別するようになっています。ところが、ネット上の文章でよくあるのが、悪臭を指しているのに「匂い」と書いてしまう例。「腐った卵の匂い」とか。逆はあまり見たことがないですね。「彼女の髪は良い臭いがした。」なんて、字面が明らかに変だからでしょう。

今日は「におい」のお話。
日本に住んでいた頃、仕事でもプライベートでも、海外に出ることが多かった私。アメリカに入国して何泊かした後に、車で国境を越えてメキシコへ行ったり、オランダからヨーロッパに入って、鉄道でベルギー、ルクセンブルグへ旅したりというのは、比較的珍しいケース。大抵は、空港がその国の玄関口。

つまり、空気ごと日本から運ばれて、飛行機の扉が開いた瞬間に、いきなり「外国」の空気にさらされる。そうすると、とてもよく分かるんですよ、その国の「におい」が。例えば、インドネシアのジャカルタ。特産の香料入りタバコの強烈なにおいが、渡航者をお出迎え。インドならばカレーのような香辛料。

においの元がはっきり特定できる場合は、わりと少なくて、生まれて初めての海外旅行だったロンドンは、確かに独特のにおいを覚えているけれど、さて何のにおいかと言われると、答えられない。悪臭ではないにしても、良い匂いとも言えない。

これはフィリピンも同様で、あの熱帯独特のムワっとした空気は、間違いなくいつでも同じにおい。汗臭いような、何かの調味料のような。敢えて言うなら、コリアンダー(パクチー)のにおいに似ている? フィリピンだけでなく、マレーシアやタイでも同じような感じだった気がします。私は勝手に「熱帯臭」と命名。

その逆に、何年も海外に住んで、久しぶりに日本に戻ると、空港でお醤油のにおいがすると言った人がいました。一昨年、3年ぶりに帰国した時、本当にそうなのかと待ち構えてましたが、関西空港では何のにおいも感じられなかったですね。ちょっと残念。日本のにおいが分かるまでは、もっと年月が必要なんでしょうか。

ところが10日間の日本滞在を終えてフィリピンに戻ると、今度は熱帯臭も感じない。嗅覚に関してだけ、私は日比ハーフの息子と同様の、二重国籍者になったいたようです。どちらにも慣れてしまった。

さて、ここネグロスにも、特有のにおいがあります。いつもにおっているわけではないけれど、年に数回、サトウキビ畑の刈り取りが終わる頃の焼畑から発する、焚き火のにおい。フィリピンの田舎では、枯葉やゴミを庭や道端で燃やすのが普通なので、どこでも焚き火のにおいはしますが、全島サトウキビ畑のネグロスでは、ひどい時など早朝から街中うっすらとモヤがかかったようになり、焦げ臭い空気が充満する日もあるほど。

現地生まれの人には、この煙にアレルギーがあって、花粉症のような症状が出る人もいる。私もそれにやられたらしく、ここ数年は、ちょうど今頃の1月から2月にかけて、軽い蓄膿症みたいになります。

くしゃみはそれほどでもなく、鼻づまりもないのに、鼻腔の辺りが重くなり、においが感じられなくなる。何が困るといって、食べ物の味がほとんど分からない。味覚と嗅覚がどれほど深く関係しているか、思い知らされます。特に料理担当としては、相当つらい。死ぬまで、このままだったらどうしようと、毎年心配になります。

今年もその時期を迎え、数日前からようやく嗅覚が戻り始めました。朝起きて、犬のゴマと、猫のチャコ美に餌をやろうと近づくと....動物ってこんなに臭かったのか。最近生まれて、目が開いて、今が可愛い盛りの仔猫たちも、めっちゃ臭い。別に初めて嗅ぐにおいでもないのに、数週間もにおいのない世界にいると、思った以上に敏感になっていたんですね。


2018年2月24日土曜日

流行ってるの?マッサージチェア


ここ数年ぐらいでしょうか、ネグロス島内の大きなショッピングモールなどで、やたらマッサージチェアが置いてあるのを見かけます。実際に使ったことがないので、詳しいことは分かりませんが、コインを入れて動かすタイプらしい。さすがに順番待ちはないけれど、土日などは、そこそこ人気があるようです。

私が見た限りでは、機械だけポンと放置ではなく、必ず係の人がついていますね。トラブル対応もあるでしょうけど、放っておくと、無料の安楽椅子とばかりに、いつまでも座って喋り込む人が続出しそうなので、タダ座り防止でしょう。

だいたいどこでも、リゾートにはマッサージが付き物の、フィリピンを含めた東南アジア諸国。マニラなど、ホテルの部屋にセラピスト(マッサージャーのこと)を呼んでの施術は、売春の温床になることあって、あまり良いイメージを持たない人も多いかも知れません。

でも、こちらで暮らしてみると、いかがわしいものではない普通のマッサージが、現地の人の生活にかなり浸透しています。私たちが移住した翌年には、シライにも「ロイヤル・スパ」というマッサージ屋さんがオープン。規模の大きなチェーン店らしく、州都バコロドにもあります。もちろんこの一軒だけではなく、バコロド市内には他にも何十軒。

当初は、平日昼間の割引タイムを利用して、週一で通ったシライのロイヤル・スパ。内容は顔や足の部分的なものから、全身マッサージまで。オイルに、ノーオイルの指圧(そのまんま Shiatsu と表記)、温めた石によるストーンマッサージや、ガラスカップで吸い出すカッピング。タイ式もある。だいたい一通り揃っている感じ。

最近では、店に出向くのも面倒になり、毎週出張マッサージを依頼。セラピストは、一時期マッサージビジネスをやっていた、家内の従弟ラルフの紹介で、シャロンという30代の女性。家族は旦那さんと子供が一人。時々その旦那さんが運転するバイクの後ろに乗ってくることも。

女性とは言っても、なかなかガッチリした体格で、腕力も握力も相当あります。いつもフットマッサージを30分、全身のオイルを1時間で頼んでいて、仕上げのストレッチでは「ぎょえ〜〜」となる程パワフル。血行がよくなって、その晩はぐっすり快眠。

そういうマッサージ文化があるので、出かけた先にマッサージチェアがあれば、15分とか30分ちょっと休憩のついでに...となるのも分かります。

日本だと、昔は銭湯の脱衣場に、揉み玉タイプが1台あって、近所のオっちゃんがコーヒー牛乳を飲みながら、なんて光景をよく見ました。今ではマッサージチェアを自宅に置いている人もいますね。ヨドバシのサイトで調べたら、安いものだと3〜4万円から。業務用レベルだと10万円以上から、中には50万円近くする本格的なものまで。

フィリピンの場合、自宅に来てもらっても1時間300ペソ(約700円弱)なので、わざわざ購入するのは、よほどの金持ちで物好きな人ぐらいでしょう。少なくともネグロスでは、売っているのを見た記憶がない。

というわけで、今日は、フィリピンでちょっとした流行りのマッサージチェアの話題でした。


2018年2月23日金曜日

画像の暴力


フィリピンではこのところ毎日のように報道が続く、中東・クウェートへの海外出稼ぎ労働者(OFW Overseas Filipino Workers)虐待と、それに伴う渡航禁止措置、緊急帰国の一連の事件。クウェートに限らず、昔からOFWは、劣悪な労働条件や犯罪の被害、その逆に犯罪者として処罰されるなど、ずいぶんと苦しい状況に置かれてる人が多いと言われています。

今回のケースが異例だったのは、フィリピン人家政婦が、レバノン人雇用主宅の冷蔵庫から遺体で発見されたという残虐性。レイプや殺人だけでもひどい話なのに、これは耳を塞ぎたくなります。ドゥテルテ大統領が「フィリピン人は奴隷ではない」と激怒して、すぐに同国からの帰国用チャーター便を、無償で用意したのも当然の反応。

先日、四旬節(イースター46日前から始まる準備期間)最初の日曜日、私たち家族で与ったミサの最後でも、神父さまがこの話題に触れ、OFWを祝福するため、家族に該当者がいる人は祭壇の前へと促したところ、何とチャペルに集まった信徒の半数以上が進み出ました。

家内の親戚や友達など、私が知っている人で、昔外国で働いてたとか、今も現役のOFWは何人もいる。しかし、実際にこういう光景を目にすると、フィリピンの海外出稼ぎへの依存度の大きさを、改めて思い知らされます。

私のようにフィリピンに住んだり、フィリピン人配偶者を持つ人ならば、こうした出来事に憤りを覚え、OFWの悲劇を一人でも多くの日本人に伝えたいと思うでしょう。その気持ちは分かるのですが、勢い余って、負傷者や遺体の写真をSNSに投稿してしまうのは、ちょっと待ってほしい。

たまたま私が閲覧していた、フィリピン関係の掲示板。いきなり目に飛び込んできたのは、激しい暴力を受けたと思われる、顔じゅうアザだらけのフィリピン女性の写真。起き抜けにこれは勘弁願いたい。お陰で、その日はずっと気分が落ち込んでしまいました。

報道を制限しろとか、現実から目を背けろと言っているのではありません。文章だけならば、まだ心の準備もできるし、途中で読むのを止めることもできるけど、ニュースサイトでもないのに、警告なしで残酷な写真アップは、いくらなんでもマナー違反。出合頭の交通事故に遭った気分です。

テレビにしてもネットにしても、この種の画像を使用する場合、必ずワンクッション置いて、見たくない人はチャンネルを変えるなりの選択の機会を提示するのが、当然のルール。誰がどういう状況で見ているか分かりませんからね。

実は私、小学4年生の時に、中沢啓治さんのマンガを見て、強烈なトラウマを抱えてしまった経験があります。広島で被爆した中沢さんが、自らの体験を元に描いた、反戦・反核マンガとして有名な「はだしのゲン」。私がたまたま目にしたのは、その前に描かれた「ある日突然に」という短い作品。はだしのゲンと同様、原爆投下後のむごたらしい描写の連続。単行本ではなく、雑誌に掲載されたものでした。

40年以上経ったのに忘れもしない、友人宅でそれを読んだ直後から気分が悪くなり、その日は晩ご飯も食べられず、眠ることもできず。母親にずいぶん心配させてしまいました。以後数年は、子供なのに時々不眠に悩むほど。大人になってからも何年かに一度は、悪夢にうなされます。

今思えば、あの内容が少年誌にそのまま載ってしまうのは、問題だったでしょうね。原爆体験の手記は、文章だけでも衝撃が強い。ましてや絵や写真になれば、閲覧者はせめて高校生以上に限定して、さらに見る前の確認は必須だと思います。

知る権利があるのと同時に、見たくないものを見ない権利もある。不快感をもたらす画像は、見せ方を間違えると暴力になってしまう。SNS上で、それが理解できない人とのお付合いは、とても無理。従って、前述の写真投稿者は、即刻ブロックするしかありませんでした。


2018年2月22日木曜日

英語留学生のホームステイ


今年の初め頃に投稿した、近所の日本人向け英語学校「アクティ・ラボ」。まだ開校してから半年弱ながら、生徒さんは途切れず、順調なスタートを切ったようです。同じネグロス島で、バコロドやドゥマゲテでは、何年か前から、主に韓国資本の英語学校が相次いてオープンして、留学生もかなりの数。マニラやセブに比べると、物価も安いし治安も良いことが売り。年々競争が激化しています。

人口50万都市の州都バコロドよりも、物価や治安で、さらにアドバンテージがある、ここシライ市。遊ぶ場所があまりないのも、学習に集中できる環境と言えます。バコロドへはトライシクルとバスで30分程度の距離なので、週末だけ観光モードすることも可能。この場所に目をつけた、アクティ・ラボの若き二人の経営者は、なかなか慧眼の持ち主。

同じ日本人ということで、私も昨年末からいろいろと協力しているアクティ・ラボ。また、シライ市の教育員会に相当する DepED / Department of Education(ディプエデ)に、家内が勤めていることもあり、家内を通じて学校の正式な許可取得の橋渡しをしたり、市内の高校生との交流プログラムをお手伝いしたり。

そして2週間前から、日本人留学生を、我が家のゲストルームに受け入れる、ホストファミリーみたいなことを始めました。日本人同士だし、3度の食事は学校で用意してくれるので、ホームスティと言うのも少々大げさですが、1ヶ月も同じ家で寝泊まりするので、やはり家族に準じる対応。

学校にも宿泊できる部屋はあるものの、二段ベッドを並べた相部屋。今回の人は個室要望なので、一部屋貸してもらえませんかと、アクティ・ラボさんからオファーがありました。もちろんボランティアではなく、光熱費プラスα程度の謝礼が条件。どんな人が来るか分からないので、最初は迷いもありました。結局、家内もOKだと言うし、何とかなるだろうと、受け入れ決定。

2週間前の木曜日、深夜のフライトでシライに到着したのは、30歳を少し過ぎた女性の方。本職はパティシエ(菓子職人)さん。礼儀正しくてフレンドリーな人でほっとしました。

せっかく英語の勉強に来たのだから、私はあまり喋らず、家内と息子に英語で対応してもらおうか、と話していたけれど、実際には朝から夕方までずっと英語漬けなので、部屋に戻ってからは日本語が話したいとご所望。これまた安堵。

元々、一組ぐらいのお客さんは長逗留ができるようにと、日本の押入れのような大きなクローゼットを設置した八畳間ぐらいの客間。私たち夫婦のものとは別に、シャワー・トイレもあります。掃除と洗濯はメイドのネルジーに頼めるし、ホテル並みとまではいかなくても、そこそこ快適に過ごせる環境。

いつもはメイド部屋(贅沢!)に使っている客間。チェックイン当日の昼間に、模様替えと大掃除。仕事から帰った家内はそれを見て、私が住みたいなぁ、とボソリ。



ホームステイが始まって数日後、まさかの台風直撃なんてアクシデントもありましたが、幸い大事には至らず。ここ1週間ぐらいは、すっかり天候も安定して、連日爽やかな初夏のような陽気。雨さえ降らなければ、我が家からアクティ・ラボまでは徒歩10分。夜でも警備員が常駐する宅地内なので、よほど遅くならなければ大丈夫です。

それにしても移住前は、シライに日本人がいることすら期待してなかったのに、自宅で初対面の日本人留学生の受け入れるなんて、まったく想像もしませんでした。実は、我が家の当初プランでは、もう一部屋ベッドルームの予定が。

結局家内の親は同居しなくなり、建築費の高騰もあって、スケールダウン。今思えば、無理してでもプラン通りにした方が良かったのかも知れませんね。


2018年2月21日水曜日

昔は日本も汚かったんやで


ボラカイ島

先日、ドゥテルテ大統領についての投稿で触れた、フィリピンのビーチリゾート、ボラカイ島の水質問題。ドゥテルテ大統領にすれば当然のごとく、フィリピンの今までの常識からすれば、異例の早さで、具体的な進展の報道がありました。

名称こそ未公表ながら、51の施設に対して、処理せずに汚水を垂れ流していると指摘。数日中に返答がなければ、上水供給を止めると警告しました。脅しではなく、ドゥテルテ大統領なら間違いなく実行するでしょうね。同じやり方で、何十年も空港ターミナル使用料を滞納していたフィリピン航空に、60億ペソ(約130億円)を支払わせましたから。

環境汚染の話はともかく、それに歯止めをかけようというのは、喜ぶべきこと。私も家内との新婚時代に行ったことがあるボラカイ。あの美しいビーチと海が、いつまでもきれいに保たれること心から願っています。

しかしこのニュースがフェイスブック内でシェアされると、だからフィリピンはダメだ、自然保護の意識が皆無だと、ディスるコメントがたくさん。そういう反応があるだろうとある程度の予想はしてたものの、あまりにも思った通りで嫌になります。

これは、フィリピンに対してだけでなく、中国や韓国での公害や事故のニュースに、必ずついてくるコメントと同質のもの。日本は街並みはきれいでマナーも世界一、フィリピンも中国、韓国もまったくの後進国。日本はスゴい、日本はエラい...。

ロクに歴史も学ばず、ネット上のフェイク記事を鵜呑みにしている若い連中が言うのなら、まだ分からなくもない。ところがコメントした人のプロフィールを見ると、私と同世代か、少し上の人までいる。

昭和50年代の前半、西暦ならば1980年頃までは、日本もたいがい汚かったですよ。特に私が少年時代を過ごした1970年代の尼崎は、夏場は光化学スモッグで外で遊ぶことを制限されたし、市内の河川は全部ドブ川状態。神崎川なんて、鉄橋を渡る時の電車内にまで異臭が。日本全体でも、水俣病イタイイタイ病四日市喘息など、公害病が大問題で、サリドマイドスモンといった薬害もありました。

マナーも最低で、駅の周辺なんてゴミだらけ。映画館に入れば小便臭いし、公衆トイレは、どこでも悪夢の汚れ方。エエ歳した大人が、道に痰を吐くわ、ガムは捨てるわ、立ち小便するわ、本当にひどかった。「民度が低い」とは、日本人を指す言葉だったと感じるほど。

それだけではなく、その頃、建築関係の仕事に従事していた父によると、工事認可の手続きでは、市役所の担当職員が公然と賄賂を要求してきたそうです。そういえば役所の窓口対応も、ゾンザイなのが多かった。

つまり、40年前には、日本も同じか、場所によっては、もっとひどい状態。多少なりとも当時の惨状を知る世代ならば、とてもフィリピンの環境汚染を非難できないと思うんですけど。

その上最近では、日本人はサムライの末裔だから、昔から優れた国民だったなんて、子供みたいなことを真顔で言う人までいる始末。明治初期の調査によると、士族は全人口のたった7パーセント。幕末に日本へやって来たヨーロッパ人に言わせると、武士階級は誇り高くて、礼儀も教養もあったそうですが、それ以外は同じ民族とは思えないほどレベルが低く、まったく信用できなかったらしい。

しかも武士にしたところで、江戸時代の末になれば、200年以上も実戦経験のない、名前だけの有閑階級。家名を守ることだけが重要な、見栄っ張りで事なかれ主義者が多かった。もちろん中には、優れた事績を残した人もいたけれど、それはごく一部であって、ほとんどが凡人だったのは、今の日本人と変わらなかったでしょう。

要するに、現在の日本は、それなりに自慢できる部分もいっぱいあり、世界的に見てそんなに悪い国ではないにしても、決して昔からそうだったわけではなく、これからもずっと変わらないという保証もない。優秀な人もいればロクデナシもいる。

歴史というもは、どうやら全世界が均等に推移ものではなく、何年、何十年のタイムラグがあるようです。そして進歩だけでなく退化もある。いちいち他国民を蔑んだり羨んだりするのは、あまり賢明なこととは言えないですね。


2018年2月20日火曜日

黄昏時の屠殺場

以前にも少し書いた、屠殺のお話。ネグロス島に移住してまだ間もない頃、知り合いが家で飼っている豚をさばいて、肉を売るというので少し購入し、ついでに屠殺・解体を見せてもうらうことになりました。

日本人の感覚では、ずいぶん趣味の悪いことだと思われそう。でもこれは、結婚式のパーティなどで、豚の丸焼き、レッチョン・バボイを供する時に、「確かにケチらず、お客様のために1頭丸ごと用意しました」の意味で、出席者に見せるのが、昔ながらの伝統なんだそうです。


場所は、自宅から徒歩10分ぐらいの、建て込んだ貧民街。一人ではとても怖くて、足を踏み込めないでしょう。今は無き香港の九龍城ってこんなだったのかなぁと思わせる、迷路のように入り組んだ路地を歩いて、ちょっとした中庭みたいなスペースに出ました。そこで件の豚さんは、もう縛り上げられた状態で、死刑執行の待機中。もうすぐこの世におさらばと悟ったのか、ぴぎゃ〜、ぴぎゃ〜、と大騒ぎ。

そこへ現れたのは「いかにも」という感じの、痩身だけど引き締まって筋肉質なおじさん。出刃包丁みたいなナイフで、特に表情を変えることもなく、今まで生きてもがいていた豚を、あっと言う間に食肉へ。

あまりにもグロになってしまうので、詳細な描写は避けますが、気の弱い人なら、しばらく豚肉は食べられなくなりそうな光景。一緒に見に来た、近所で活動するNGOに、インターンとしてネグロスに滞在中だった大学生の女の子は、ショックで泣きだしてしまうほど。

こういうのを見ると、よくある感想ながら、やっぱり食べ物は粗末にしたり、残したりしてはいかんなぁと思います。動物にしろ植物にしろ、命を頂いている感覚は、大事にしなければ。平素はそんな高尚なことより、お茶碗やお皿にやらた食べ残しが多い人を見ると、洗う人の手間を考えろよと言いたいのが先立ちますが。

さて最近、フェイスブック上での投稿がきっかけで、友達になったばかりの人が、豚をさばくところが見られるのなら見てみたいとコメント。それならばということで、以前のような個別案件ではなく、日常的に豚をさばいている、屠殺場みたいな所がないか、シライ市内の公設市場で、肉屋のオッちゃんに訊いてみました。

教えてもらったのが、車で5分ほど離れたシライ漁港。おそらく港町としてシライが栄えた頃は、ここから船荷を陸揚げしたんでしょうね。今では、貧困層が固まって住んでいるバランガイ(町内)の奥。車で乗り付けることができず、バランガイの入り口付近に路駐して、そこからは先はトライシクル(輪タク)。前日の大雨で、未舗装の道は泥んこ状態。




小さな漁船が停泊する岸壁沿いに、集会場のような大きな建物があり、そこが豚の屠殺場。幸か不幸か、たまたま行ったのが夕方で、もう仕事は終わったあと。日曜日を除く毎日、早朝から午後3時までが業務時間なんだそうです。




すぐ傍で、魚の水揚げをやっているようで、言ってみればここは、シライ市民のタンパク源の一大供給基地。と書くと聞こえはいいですが、悪臭が立ち込めて、道は悪いし、お世辞にも衛生的とは言えません。

日本と違って、食肉処理への忌避感みたいなものは少ないフィリピン。それでも屠殺は、職場環境も賃金も、あまり恵まれた職業とは言えないようです。やっぱり誰もが憧れる、というものではありません。

ところで、日本ではどうやって処理してるんでしょう? 少なくとも大都市近辺では、あんまり見たことがないですね。社会見学とかでも聞かない。本当は、こういうプロセスは、隠さずにオープンにした方がいいように思います。小さな子供や、見たくない人に無理やり見せろとは言いませんが、日常的に口にするものがどんな経路を通って来るかを知るのは、決して悪いことではないですよ。


2018年2月19日月曜日

私的フィリピン美女図鑑 FHMガール

FHMという雑誌をご存じでしょうか?
フィリピンに住むか、足繁くフィリピンに通っている人、特に男性ならスーパーのレジ付近や空港の売店で、一度は手に取ってパラパラとページをめくったことがあると思います。

日本で言うと、10年ほど前に廃刊になってしまった、月刊プレイボーイ(集英社の週刊プレイボーイではなく、アメリカPLAYBOYの日本版)のような、セクシーな女性モデルが、刺激的なポーズで表紙やグラビアを飾る、男性向けの月刊誌。とは言うものの、完全なヌードではなく、せいぜいセミヌード。かつてのPLAYBOY誌や、競合するPENTHOUSE誌に比べると、かなりソフトタッチ。

もともとFHMは、1985年にイギリスで発行された、男性ファッション誌。当初は季刊だったそうで、For Him Magazine が正式名称。1994年に月刊誌となり、今のスタイルへ。「100人の最もセクシーな女性」という毎年行う企画が大当たりして、イギリス国内でベストセラー雑誌となり、ヨーロッパ諸国やアメリカ、オーストラリア、そしてフィリピンを含むアジア各国に販路を拡大。

今では、フィリピンで、FHMのカバーガールに選ばれるのは、モデルや女優にとってはかなりのステータス。男性だけでなく、女性の憧れの的にもなっているようです。普通の女の子が、フェイスブックのタイムラインに、セクシーな女性の写真を投稿することは、それほど珍しくありません。

この国は、人口の9割近くがカトリック信徒なのに、女性も男性も、性的魅力を強調することに対して抵抗感が少ないようです。そう言えば、私が家内と付き合い始めた頃、シライ市内の実家のダイニングルームには、フィリピーナの水着ポスターがデカデカと貼ってありました。家内の母、つまりその後、私の義母になるおばちゃんが、いかにフィリピン女性が魅力的かを、熱心に語ってくれたのを思い出します。

ということで、今日の美女図鑑は、フィリピン版FHMのトップモデルの一人、アン・マテオ嬢。24歳で、中国系の血筋を感じさせる顔立ち。もちろんスタイルは抜群で、笑顔がキュート。同じくトップモデルのエンジェル・ロクシンが、完璧に整った容姿の正統派美女だとすると、アン・マテオは、親しみやすい Girl Next Door (隣の女の子)タイプ。日本でも人気が出そうです。気になる方は、Ann B. Mateo で画像検索してみてください。


FHMの表紙風に仕上げました。




2018年2月18日日曜日

飼い猫チャコ美の分割出産

猫のチャコ美が、フィリピン・ネグロス島の我が家に来てから、もう3回目の出産です。ネズミ算よりネコ算というほど、猫は多産。年に3回は妊娠して、その度に4〜5頭の仔猫。話には聞いていましたが、本当にその通り。

飼い猫と言っても、家の中に閉じ込めているわけではなく、基本は野良の時と変わらぬ行動範囲。毎日朝夕の2回、餌を食べに来るというだけの関係の半野良状態。近所に獣医はいないし、そもそも周囲に、犬猫にそれほどお金をかける人が、あんまりいない。当然のように去勢手術なんてしておりません。そりゃ増えますね。

この調子だと、数年のうちに我が家は猫屋敷化するのではないかと思いきや、チャコ美は育児が下手なのか、それとも遺伝的に何か問題でもあるのか、過去2回の出産で生まれた、合計7頭の仔猫は、1ヶ月も保たずに全部死なせてしまいました。

最初は4頭。野良猫など絶対家に入れないと、家内の拒否権発動で、ほとんど放ったらかしにしていました。発電機の裏側で育て始めたのはいいけれど、雨を防げない場所だったのが悪かったようで、1頭減り2頭減りで、あっという間に全滅。

次の出産では、2頭生まれた仔猫を、車のエンジンルームで育てようとしたチャコ美。よっぽど愛車のトヨタ・アバンザが気に入ったのか、何回外に出しても、すぐに連れ戻す。しばらくイタチごっこをした挙句に、私が根負け。この時は何とか家内を説得して、乳離れするまではと、屋内の廊下に洗面器にボロ布を敷いた簡易育児室を用意しました。

やれやれと安心していると、2頭産んでから数日もして、3頭目を出産。ネットで調べても、こんなに日を空けて分割で産むなんて、どこにも書いてなかった。それで元気だったらよかったのに、やっぱり異常分娩だったらしく、仔猫は一度も鳴き声を上げることなく、そのまま天国へ行ってしまいました。

1頭犠牲になったんだから、兄弟の分も頑張って生きなアカんぞと、関西弁で励ます毎日。そろそろ生後1ヶ月で、もう大丈夫だろうと、三毛猫にはミーチャ、トラ猫にはトーチャと名前まで付けたのに、またまたあっけなく相次いで昇天。

そして迎えた3回目の正直。
今度はいつになく、デっかく膨らんだボテ腹のチャコ美。こりゃ、5頭ぐらい入ってるんじゃないかとビビってました。でも生まれたのは1頭。でもまだお腹はパンパン。案の定、またもや分割出産で、約12時間後にもう一頭。今度はちゃんと生きてた。

2頭でお終いとも思えない大きなお腹。2日経った今朝、3頭目が。残念ながらこいつは死産。チャコ美よ、いくら産んでもいいから、死なすなよ。頼むわ。

さて、生まれたての2頭の仔猫。チャコ美と同じくキジトラ模様。育児は、たまたま家内がしばらく前に倉庫から引っ張り出していた古タイヤの中。本能とはいえ、実にうまいこと仔猫を隠せる空間を見つけたものです。早速中に、使い古した足拭きマットを敷いてやりました。

これから暑くなる季節。雨も少ないし、子育てには悪くない条件だろうと思います。今度こそ、1頭でもいいからちゃんと育ってほしい。がんばれ、チャコ美。




2018年2月17日土曜日

再逆転 日本・フィリピン交流史 最終回



出典:CNN Philippines

約400年に渡る、日本・フィリピン交流の歴史を、駆け足で振り返ってきたこのシリーズ。読者の方から、かなりの反響をいただき、私自身にもたいへん勉強になりました。私には少々肩の荷が重かったし、十分に意を尽くせたかどうかも分かりませんが、書いて良かったと思っています。

ひとつだけ残念だったのは、この投稿のために読んだ、ネット上での記事やブログの中に、時々ひどい内容のものがあったこと。特に明治以降の記述に関しては、読むのが憂鬱になったことも。

例えば、ベンケット移民。明治時代、マニラ〜バギオ間の道路建設には1500名もの日本人労働者が従事しました。その部分だけを切り取って、すべては日本人だけで完成したかのように書いたブログ。さらには「中国人にはできないことを、優秀な日本人はやり遂げた」みたいな、日本スゴイ論に仕立て上げている。なんでもかんでも嫌・中韓に結びつける連中はどこにでもいますね。

信頼できる複数の記事によれば、労働者の半数以上がフィリピン人で、工事を立案して資金を出したのはアメリカ人。道路完成後に建てられた記念碑にも、米・比・日、三つの旗が刻まれています。

また、太平洋戦争での日本のフィリピン侵攻も、白人(アメリカ)による支配からの解放のためで、フィリピンから飛び立った特攻隊を、今でも現地では英雄視しているという、一体何を根拠にしているのか理解できない記事。

戦後、戦犯として勾留中だった元日本兵に恩赦を与えたキリノ大統領は、ただの傀儡で、アメリカが命じたことを行っただけだとする、忘恩甚だしいものもありました。そうした思い込みと欺瞞に満ちた文章から、一貫して読み取れるのは、日本優越とフィリピン人を含む他のアジア諸民族への露骨な差別意識。

投稿の中で何度か触れたように、1980年代以降の経済的な傾斜では、たまたま日本が優位に立っていたかも知れないけれど、明治から昭和初期や、戦後しばらくの間は、そうではありませんでした。なのに、まるで日比交流が始まった400年前から、この関係は変わっておらず、未来永劫変わらないと信じる人がいるようです。

現実には、バブル崩壊からの30年間、ずっと不調の日本経済に比べ、ここの数年のフィリピンの成長率は明らかに日本のそれを凌駕。労働人口の推移は言うに及ばず、貧困の問題にしても、フィリピンに比べればまだマシとは言え、日本も決して胸を張れるような状況ではない。

もちろん、あと数年で日本は最貧国になり、フィリピンが先進国の仲間入りするといった、極端なことは考えにくいですが、日比の地位が、分野によっては再逆転することも十分あり得ます。今フィリピンに住んでいて、現状を知りすぎている在留邦人の方には、言下に否定されそうですが。

人の流れでいうと、1980年代のように、フィリピンから日本へ一方的な労働力の移動に代わり、英語教育やビジネスチャンスを求めて、若い世代の日本人がフィリピンに新天地を目指すという動き。あるいは、安定した老後の暮らしを求めての、中高年世代の移住。(つまり私のような人たち)

少し前までは、とんでもなくリスクの高い、無謀な冒険のように思われたことも、格安航空券やインターネットの普及で、単なる選択肢の一つと言ってもいいぐらい、ハードルが下がりました。そして、社会インフラにしても、規制でがんじがらめの日本と違い、コストさえ下がれば、驚くほどの早さで変わっていくフィリピン。

いい例が、携帯電話の普及と低価格化。我が家のメイドさんだって、スマホ2台持っている。最近では、ウーバー(Uber)・グラブ(Grab)など、タクシーに代わるライドシェアサービス。片田舎のネグロス島でも数年前から、グラブは利用可能に。ひょっとすると、AI(人工知能)導入による大規模な変革も、日本より早いかも知れないと、私は見ています。

もう一つ忘れてならないのは、ドゥテルテ大統領の登場に象徴される、長年に渡ってフィリピン政治の宿痾だった、汚職体質に国民がノーを叫び始めたこと。

と、かなり楽観的な未来も含めて、これからの可能性についての一端を語りました。しかし、私がフィリピン人の家内と一緒になった20年前には、このシライ市内で、多少遅くてもインターネットが使えて、ショッピングモールテーマパークができるなんて、当時はどんなに楽観的になっても、想像すらできなかった。

私の息子が社会人になる頃には、過去の不幸で歪な関係を乗り越えて、従来とはまったく違った、日本・フィリピンの新時代が来ていることを切に願います。できれば、私が生きている間に。


2018年2月16日金曜日

すぐやる大統領


出典:philstar

1969年(昭和44年)、千葉県松戸市の市役所に「すぐやる課」が創設されました。横連携がなく、責任逃ればかりで、なかなか物事が前に進まないのが「お役所仕事」。そんな旧弊を変えようと、ドラッグストアで有名なマツモトキヨシこと、当時の松戸市長の松本清氏が考案した、市長直轄の部署。

「すぐやらなければならないもので、すぐやり得るものは、すぐにやります」をモットーに、当初は課員2名でスタート。これは当時、テレビや新聞で大きく取り上げられ、小学生だった私に、「すぐやる課っちゅうのができたんやて〜」と、さも面白そうに母が教えてくれました。

その話題性と効用から、国内の300以上もの自治体で、同様の部署が立ち上げ。その後、縦割り構造の改善が進んだとして、廃止されるケースもありましたが、元祖である松戸市では今も健在。スズメバチの巣の撤去など、年間1000件以上を処理しているそうです。

唐突にすぐやる課の話を持ち出したのは、他でもない、我らが大統領ドゥテルテさんのこと。この人の就任以来の業績を見ていると、「すぐやる課」ならぬ、「すぐやる大統領」と呼びたくなる。

最近の事例では、中東クウェートで、同胞の海外出稼ぎ労働者が虐待を受けているとなったら、あっと言うまに渡航禁止を言い渡し、帰国用のチャーター便を無償手配。フィリピンに戻ったって仕事はないだろう、なんて訳知り顔連中の戯言には耳も貸さず、まずはフィリピン人の命を守ること最優先で、電光石火の早業。

つい先日も、観光地で有名なボラカイ島で、海の汚染が目に余るとして、半年以内に状況が改善されなければ、島を閉鎖すると宣言。こういうのは聞いていて惚れ々れしますね。

麻薬戦争は言うに及ばず、ジプニーの近代化地下鉄建設、警官の給与アップに、事故が相次いだ年末年始の花火・爆竹対策禁煙の徹底、フィリピン航空の空港ターミナル使用料未払い問題の解決...。私が知っているだけでも、ざっとこれぐらいは、すぐに出てきます。

どれもこれも、何年も、あるいは何十年も、何とかしないといけないと叫ばれていた事案ばかり。歴代大統領が、「やるやる詐欺」を繰り返していたことを思えば、同じ国の同じ政府とは思えない変わり方。

こう書くと、日本でもドゥテルテさんみたいな指導者が現れないものか、と溜息混じりの声が聞こえてきます。それも分からなくはないけれど、大統領一人に相当な権力が集中している、フィリピンの政治体制なればこその側面もあります。そもそも、日本の現政権に同じ権限を持たせれば、間違った方向に変革が進みそうで怖い。(今でも相当ヤバいのに)

また、こうした流れは、ドゥテルテさん個人の能力だけというより、フィリピン国民が渇望していたリーダー像に、彼がぴったり当てはまったから。シンガポールやマレーシアに遅れること30年以上。いまやインドネシアにすら追い越されてしまったフィリピン人からすれば、少々やり方が荒っぽくても、本当にやるべきことをやってくれる政治家を、歓迎する雰囲気が醸成されていたと見るべきでしょう。

とは言え、一部で多少改善の気配が見えても、全体で見れば相変わらずの、「すぐやる課」とは程遠い、お役所仕事のフィリピン省庁とその下部組織。ドゥテルテさんが任期満了の頃には、どれぐらいマシになっているでしょう。期待しすぎずに、その動向を見守りたいと思います。


2018年2月15日木曜日

私的フィリピン美女図鑑 フィリッピーノを愛した女たち

1989年に出版された、久田恵さん著のノンフィクション「フィリッピーナを愛した男たち」。80〜90年代に数多く書店に並んだ「ジャパゆきさん」物の中でも、1992年の山谷哲夫さんの「じゃぱゆきさん – 女たちのアジア」と並んで、先駆け的な存在。今ではフィリピンにハマった日本人のバイブルと言ってもいいぐらい。

つい「日本・フィリピン交流史」みたいなノリで書き初めてしまいましたが、こちらはフィリピン美女図鑑。今日は少し趣向を変えまして、フィリピーナではなく、日本人女性お二人に、モデルになっていただきました。

冒頭の無粋な説明書きからお察しの通り、このお二人は、ネグロス島で知り合ったフィリピン人のボーイフレンドと交際中。フェイスブック内のフィリピン関連の書き込みで知り合いました。そしてわざわざここで取り上げるぐらいなので、お二人ともたいへん魅力的。

ということで、有名な著作のタイトルをもじって「フィリピーノを愛した女たち」としたわけです。書き間違えたわけではありません。でも久田恵さんが書かれたような、ややこしい愛憎劇とはまったく違う、ごく普通の恋愛をされている人たち。好きになった男性が、たまたまフィリピン人だったというだけ。

ボーイフレンドたちとも何度か顔を合わせてます。すっごい美男子、というわけではないけれど、二人ともちょっとシャイで純朴そうで、父親目線で見たら、なかなか好感の持てる兄ちゃんたち。

さて、女性二人を一枚のイラストに描くのは、考えてみれば初めて。ポーズ決めと衣服選びが、ずいぶん難しい作業でした。画像検索で「two girls pose」とググると、何やら意味ありげな、妖しい写真ばかりが引っかかります。そういうのも嫌いではないけれど、リアルな友達の似顔絵にしたら、ドン引きされること間違いなし。

悩みに悩んで、仲良さそうだけど、変な密着はしないポーズを探し出し、衣服もショートパンツに白いシャツという、とてもオーソドックスなスタイルでまとめてみました。背景は当然のように南国をイメージ。描いてみたら、なかなか健康的な色気が表現できているんじゃないかと自画自賛。ブログへの投稿前に、モデルさんへの確認をしたところ、予想以上に喜んでいただきました。






2018年2月14日水曜日

バレンタインデーの三角関係


今日2月14日は、聖バレンタインのお祝い。日本でもバレンタインデーとして、女性から男性へ、愛の証のチョコレートを贈る日として、すっかり定着しました。もうこのブログでも何回か書いたように、日本ではチョコレートの販売促進日みたいになっているけれど、フィリピンを含めた諸外国では、男女どちらからでもOKで、家族や友達、先生と生徒など、幅広い愛情表現の日。

そして同じ時期に巡ってくるのが、春節(中国正月)。春節は旧暦に準拠するため、太陽歴では例年1週間から10日程度のズレが生じます。今年(2018年)は2月16日ですが、来年は2月5日という具合。この日はフィリピンの国民の祝日。

同様に、やっぱり2月中旬から3月初旬には、宗教行事である「灰の水曜日」があります。これは、カトリックで最も重要な復活祭(イースター)の46日前の節目。この日からイースターまでは四旬節(レント)と呼ばれ、イエス・キリストの荒野での40日間の断食を偲び、自らの信仰を省み、来るべき主の復活に向けて、心の準備をする期間。

復活祭は「春分の日から最初の満月の次の日曜日」で決まるので、連動する灰の水曜日も毎年日付が変わります。なお、四旬節が40日ではなく46日間なのは、途中の日曜日はカウントしないから。

飲めや歌えのお祝いであるお正月と、愛の告白をするバレンタイン。それと相反するように、断食をしたり、そこまではいかなくても肉断ちや、食事を1回だけにするなど、まるで喪に服するような灰の水曜日。それぞれ性格がまったく異なるこの3つが、年によっては同日になるのはよくあること。

3年前(2015年)は、春節の前日、つまり大晦日が灰の水曜日。大晦日に飲み食いできないなんて、敬虔なカトリックにして中国系のフィリピン人は、一体どう落とし前をつけるんでしょうか。そして今年は、バレンタインデーと灰の水曜日が重なりました。この場合、恋人同士の豪華なディナーとかは、やっぱりNGなのか?

そう言えば、本日付のまにら新聞の記事に、フィリピンのカトリック司教協議会の関係者が、恋愛ではなく信仰に集中せよとの発言があったそうです。まぁ、立場上はそう言うしかないでしょうね。

さらに今年は、このタイミングで台風まで来てしまった。ミンダナオ島の北端に上陸後、ビサヤ諸島の南を横断した、2号台風バシャングは、それほどの勢力ではなかったものの、フィリピンの中・南部に豪雨をもたらしました。このためミンダナオでは土砂崩れのため3人が犠牲になり、ビサヤ諸島全域で大雨警報。ここ西ネグロスでも、昨日と今日、州内の学校が臨時休校。

今日の朝には、台風はスールー海に抜けて、ここネグロスでは3日ぶりに日差しが戻りましたが、避難したり被害を受けた人たちは、とてもバレンタインデーを祝うどころではないでしょう。

さて、我が家の2月14日。学校が休みで息子が家にいるので、昼食は十分な量にして、夕食はそばか素麺で軽く済ませる予定。でもバレンタイン対策も怠りなく、近所のケーキ屋さんでスイーツを買い込み、裏庭に咲く花を集めた花束を用意して、家内の帰りを待っています。我ながらどっち付かずで中途半端な、バレンタインデー & 灰の水曜日になりそうです。


2018年2月13日火曜日

からゆきとジャパゆき 日本・フィリピン交流史7


前回投稿した、キリノ大統領による、モンテンルパ刑務所に戦犯として収監されていた、元日本兵105名への恩赦が行われたのが1953年。この頃には、フィリピンはアメリカからの復興支援を受けるなどして、年平均6%の経済成長を遂げ、ビルマ(現ミャンマー)やスリランカと並んで、アジア期待の星でした。60年代には、一人当たりの国民所得が、日本に次いでアジア2位。今では信じがたいことながら、当時フィリピンは「アジアの優等生」と呼ばれたそうです。

そうした状況を暗転させたのが、マルコス大統領による20年間の独裁政権。同じ独裁でも、マハティールリー・クアンユーらの、優れた指導者によって大いに経済を発展させた、マレーシアやシンガポールとは対照的。リー・クアンユーが「私なら3年でフィリピンをシンガポール並みにしてみせる」と言ったのに対し、マルコスは「私なら3ヶ月でシンガポールをフィリピン並みにしてやる」という小咄もあったぐらい。

マルコスはフィリピンを私物化し、長期に渡る政治腐敗は、自由競争を妨げ、貧困は蔓延しました。その結果、国民の1割に当たる1000万人が、職を求めて国外へ。優等生から一転して、1980年頃のフィリピンは「アジアの病人」と揶揄されるまでになってしまいました。

その時期に、バブル経済を謳歌していた日本を目指して、フィリピンから大挙押し寄せたのが、エンターティナーの名目で入国ビザを取得したフィリピン女性たち。日本の流行語にまでなった、いわゆる「ジャパゆき」です。

1980年、私は高校3年生。ジャパゆきの語源である「からゆき」の意味は、明治から昭和初期に、主に九州出身で、マニラを含む東南アジアの港湾都市に娼婦として売られていった日本女性のことだと知っていました。笑えないジョークだけど、ずいぶん上手いネーミングだと感心したことを覚えています。

日本・フィリピン交流史の第三回「ベンゲット移民」でも触れたように、日本からフィリピンへ労働者を送り出していたのが、約100年の時を経て、立場が逆転したわけです。

からゆきさんから、100年後のジャパゆきさんたちも、実際にはセックスワカーへ流出するケースが多発。大金を稼いで帰国する女性がいる一方で、暴力団の介在などもあって、不法滞在の上に強制労働や売春強要など、悲惨な状況に陥る女性も少なくなかった。

しかし、負の側面ばかりではなく、意外なと言うか当然にと言うか、数多くのフィリピン女性と日本男性のカップルが生まれることに。現在フィリピンに住む日本人男性の中には、80年代にフィリピン女性と結婚した人もおられます。ある意味、戦後の日比交流のパイオニアと言ってもいい。

また、水商売関係だけでなく、当時日本でデビューした正真正銘のフィリピン出身のエンターティナーがいましたね。ジャズシンガーのマリーンさん、女優のルビー・モレノさんなど。ちなみに私の家内は、モレノさんと同い歳。(顔は全然似てませんが)

今では、90年代生まれの日比ハーフのタレントがたくさん活躍されています。大相撲の高安関もお母さんがフィリピン人。

その後、日本国内の人権活動や、入国審査の厳格化により、以前のような被害者は減り、「ジャパゆき」は死語と化しつつあります。最近、英語留学でネグロスにやって来た若い人の中には、この言葉を知らない人もいるぐらい。生まれる前のことだから、仕方ないですね。

次回は、日本・フィリピン交流史の最終回「再逆転」を投稿する予定です。


参考文献:
ニューズウィーク日本版「アジア経済の落ちこぼれ、フィリピン
日経ビジネス「アジアの病人の目覚め
ウィッキペディア
 「からゆきさん
 「ジャパゆきさん


2018年2月12日月曜日

キリノ大統領の決断 日本・フィリピン交流史6

前回の、戦時下の日本人移民についての投稿に続き、今日は、戦後、拘留されていた日本兵への恩赦で有名な、キリノ大統領のお話。実はこのエピソード、半年ほど前に別の主題で、すでにこのブログで取り上げております。しかし、日比交流を語る上では、どうしても省略することができないと思い、若干構成を変えて、再投稿することにしました。


日本にもフィリピンにも、戦争の傷跡がまだ生々しく残る、1948年(昭和23年)。エルピディオ・キリノ氏が、第6代フィリピン大統領に就任。1945年のマニラ市街戦で、彼は妻アリシアと子供たちを失いました。日本兵に殺害されたとも、米軍の爆撃の巻き添えになったとも言われています。いずれにしても、日本軍のフィリピン侵攻がなければ、起こらなかった悲劇。



第6代フィリピン共和国大統領
エルピディオ・キリノ Elpidio Rivera Quirino
出典:Lahing Pinoy

1953年(昭和28年)キリノ大統領は、日本からの助命嘆願の中、国内のモンテンルパにBC戦犯として収監されていた、元日本軍兵士105名に恩赦を与えました。国全体が反日感情に煮えたぎっているような時期、これは驚くべきことだったと思います。

その背景には、朝鮮戦争で日本の協力を得るため、アメリカからの政治的な圧力もあったかも知れない。しかし私は、聖書にある「主の祈り」の一節「我らが人を許す如く、我らの罪をも許し給え」こそ、キリノ大統領の決断に最も大きな影響を及ぼしたと信じます。

それにしても、これは苦渋の選択だったでしょう。生半可なカトリック信徒である私には、とても真似ができません。この恩赦と同時に、キリノ大統領からフィリピン国民に、次のようなメッセージが発せられました。

自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に末長く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために、これを行うのである。


戦勝国が敗戦国のリーダーや兵士たちの罪状を、「人道に対する罪」として裁いたことは、茶番に過ぎないし、非戦闘員である女性や子供まで焼き殺した、アメリカを含む連合国側に裁く資格があったとは到底思えません。とは言え、何の非もない肉親や友人を殺されたフィリピン国民には、日本人の存在自体が憎しみの対象だったことでしょう。それを考えるとキリノ大統領の行為は、もう神の領域。

キリノ大統領については、これだけネットに情報が溢れているのに、現在日本での知名度は高いとは言えません。そして日本国内で顕彰の碑が建立されたのが、なんと一昨年(2016年)6月。恩赦から60年以上も経過しています。

幸いなことに、現在フィリピンでの対日感情は、すこぶる良好。こうした状況の源流を作ったのがキリノ大統領。彼が、後世での栄誉を期待したはずはないと分かっていても、この忘却ぶりは、日本人としては寂しい限り。カトリックの教えに基づく、フィリピン人の許しの精神は、私のようなフィリピン在留邦人も、その恩恵に浴しているのです。


主の祈り 全文

天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように
御国が来ますように
御心が天に行われるとおり
地にも行われますように
私たちの日毎の糧を今日もお与えください
私たちの罪をお許しください
私たちも人を許します
私たちを誘惑に落ち入らせず
悪からお救いください

国と力と栄えとは、永遠にあなたのもの

アーメン


次回はさらに時代を下って、1980年代。日本の社会問題にまでなった、フィリピンからの出稼ぎ女性労働者「ジャパゆき」について投稿します。

参考文献
ウィッキペディア「エルピディオ・キリノ
まにら新聞「日本人戦犯帰国60周年


2018年2月11日日曜日

ゴマのダニ退治

我が家の飼い犬、ゴマ。生後8ヶ月の雄。自宅から、徒歩10分ぐらいの場所で活動している、日本のNGOのオフィス兼宿舎で飼われている雌犬、チキがお母さん。このチキは、もうかなりの年齢なのに、まだまだ女盛りのようで、頻繁に出産。フェイスブックで里親募集の投稿があったので、乳離れしてから仔犬を1頭もらうことになりました。それがゴマです。

模様がゴマっぽいからゴマ。安直ですが分りやすい命名。ゴマが我が家に来たのは、去年(2017年)の7月。もう半年以上も経ってしまいました。当初まるっきりの仔犬だったゴマもかなり大きく育ち、仔犬と成犬の中間、人間で言うと中坊ぐらいの感じ。

空腹で餌をねだるときは「きゃんきゃん、くぅ〜んくぅ〜ん」。でも、知らない人が家の前を通ったりしたら、もうオっさん犬になって「うぉんうぉん」。いっぱしの番犬気取り。

フィリピン人は一般的に動物好きが多いらしい。特にネグロス島のシライ市内では、市街地を歩いていても、鶏・水牛・山羊・犬・猫などの家畜や野良をいっぱい見かけます。取り分け犬は人気のペット。ゴマを飼い始めてから、我が家に来るお客さんの多くが、ゴマを見ると目を細めるし、大人も子供も「Puppy!」と叫んで、少々臭くても全然気にせずに頭を撫でたり抱っこしたり。

ゴマから仔犬っぽさが抜けてからは、それほどの人気もなくなり、特にこの年末年始は忙しさにかまけて、週一のシャンプーも滞りがち。そんなある日、近くでゴマを観察してみると、「おでき」のような豆粒ほどのブツブツが。何これ?

プチッと取って地面に捨てると、モゾモゾ動いとる! ぎょえ〜〜〜、とばかりにゴマの全身をチェックしたら、肩にも背中にも、顔面や耳たぶの周囲にまで。犬を飼った経験がある人には、もうお分りですね。はい、これはダニ。ネットで調べると、マダニという奴。犬にたかるダニとしては、最も一般的な種類とのこと。

写真を見ると、放置するととんでもない密集状態になり、血を吸われすぎて、成犬でも貧血を起こしたり。その上いろんな病気を媒介。そう言えば、近所で見かける野良犬の中には、全身の皮膚がボロボロにただれたようになっているのがいますね。全部が全部そうではないでしょうけど、ダニが原因のケースが多いのかも知れません。

本当は、ダニを素手で引き離すと、犬の地肌に炎症を起こしたりして、あまりよくないそうですが、近所に獣医もいないし、犬に慣れたメイドのネルジーは、当たり前とばかりに指でつまんでプチプチ。

できる範囲でダニを除去したあとは、フェイスブック友達からの助言に従い、シライ市内のスーパーに走って行って、ダニ取り用の石鹸とダニ除けの首輪を購入。

水をかけられるのが大っ嫌いなゴマ。「ゴマ洗い」の気配を察知すると、全力で逃走・抵抗。そのため、いつもはちょっと濡らすだけで終わっていたシャンプーの時間。今回ばかりは徹底するため、散歩に使っているリードで、ぐるぐる巻きにガレージの門扉に固定。情け容赦なくゴシゴシと洗いました。

石鹸箱の説明書きによると、泡だらけ状態で5分放置。常夏フィリピンでも、この時期は曇るとあまり暑くない。尻尾から水滴を落としながら、小刻みに震えるゴマ。かわいそうだけど、ちょっとだけ我慢しなさい。





ゴマ洗いを傍観する猫のチャコ美

というわけで、それからはダニと縁が切れたゴマ。週一のゴマ洗いの時も、ずいぶん大人しくなりました。洗った後は、気持ちがいいというのを理解した模様。

ところでゴマよ、お前よく見ると、なかなか男前になってきたの〜。仔犬の頃から使っているケージも小さくなったし、そろそろちゃんとした犬小屋を作るか?


2018年2月10日土曜日

5分で済ませるアニュアル・レポート



今年も、フィリピンで暮らす外国人には恒例の、アニュアル・レポート(年次報告)の時期がやってきました。アニュアル・レポートと言っても、何かを報告するわけではなく、ビザの更新のようなもの。毎年、年初から60日以内(つまり1月〜2月)に、ちゃんとフィリピンにいますよと、役所に確認に行く作業。

私の場合、13aと呼ばれるフィリピン人の配偶者資格での、永住ビザを支給されている身分。具体的には、パスポート、アイ・カード(I Card / 外国人登録証に相当)とそのコピー、それに昨年の手続き時に支払った手数料の領収書を持って、最寄りのイミグレーション(入国管理局)の窓口に行きます。

本当は早めに、1月中には済ませておきたかったけれど、メイドのネルジーがクリスマスからずっと不在。平日、家内はオフィス、子供は学校で、お弁当の配達やお迎えなどがあり、あまり長時間家を空けるわけにもいかず、今年はネルジー復帰を待って、2月の最初ということになりました。

それだけではなく、平日の昼間、州都バコロドに出かけるのはイマイチ気がすすまない。というのも、道路は混むし、相変わらず交通マナーは最低。役所の周囲には駐車場もなく、毎回車を駐める場所を探すのに、ちょっと苦労する。すっかりシライの田舎暮らしに適応してしまったせいか、人混みや渋滞への拒否反応が顕著になってます。

とまぁ、重い腰を上げて行ってきました、イミグレーション。案の定すごい渋滞。ただ車が多いからだけではなく、シライ〜バコロドの幹線道路、ラクソン・ストリートは、昨年から続く、排水管敷設工事のために車線規制中。それでも、ジプニーもバイクも強引に割り込んでくるし、対向車はウインカーも出さずに曲がりたい放題。頭を冷静に保つのが至難の状況です。

それに追い打ちをかけるように、イミグレの隣もビルの建設工事中。何ができるんでしょう? 新しいコンドミニアムか、ショッピングモールか。ここ数年、工事ラッシュのバコロド市内。聞くところによると、最近、建設現場の一つでかなり大きな事故があって、作業員が何人か亡くなったそうです。

イミグレ到着までに、相当疲れてしまいましたが、手続きそのものは拍子抜けするほど、あっさり完了。お昼時を狙ったので、他に待っている人もいないし、ホームページに書いてあった書類のコピーと領収書も不要。パスポートとアイ・カードを渡し、ものの5分ほどでおしまい。手数料の310ペソ払って、受け取りにサインするだけ。

これって、どこのイミグレでも手続きが簡素化されたんでしょうか? それともバコロドだけのローカル・ルール? 遅いしいい加減だし、賄賂を平然と要求するフィリピンのお役所仕事は、誰に聞いても最低の評価。ところがバコロドの窓口のお兄ちゃんは、とてもフレンドリーで、軽いジョークなど飛ばしながら、なかなかいい感じの仕事ぶり。「それじゃ、また来年会いましょう」だそうです。

こういう対応が当たり前になったら、フィリピンもずいぶんと住みやすくなるんですけどねぇ。外国人だけでなく、フィリピン人にとっても。


2018年2月9日金曜日

戦火に引き裂かれた絆 日本・フィリピン交流史5


今日は、前回のダバオでの日系移民についての投稿に続き、日本・フィリピン交流史の5回目です。


あの戦争が終わって、すでに今年(2018年)で73年。当時小学生だった、私の親の世代も80代。マニラ市街戦レイテ沖海戦に次ぐ、太平洋戦争でのフィリピン第三の激戦地と言われたネグロス島も、そんなことがあったとは思えないほど平和。

息子が通う現地の小学校には、日系、アメリカ系、中国系...。さまざまな国籍の親を持つ子供たちが、何のわだかまりもなく、毎日の勉強やクラブ活動に勤しんでいます。私の祖父母が若かった頃、双方の国が敵味方に分かれて殺し合っていたとは、とても信じられません。

戦争当事国ではなかったフィリピン。まだ独立も果たせず、アメリカの統治下で、日本に対しては何の恨みもなかったでしょう。国内には、ダバオやマニラなどに、3万人近い日本人移住者も暮らしていました。

日本軍の奇襲による最初の標的は、ハワイのオアフ島・真珠湾に停泊中だったアメリカ海軍の太平洋艦隊でしたが、これは完全に意表をついた作戦。日本が仕掛けるなら、最初はフィリピンだというのが、開戦前の大方の予想。この攻撃の第一報がワシントンに届いた時、真珠湾ではなくフィリピンの間違いだろう、と疑いの声が上がったほど。

そして日本軍は、宣戦布告の約2週間後の1941年(昭和16年)12月22日、ルソン島上陸。さらに10日後の1942年1月2日に、首都マニラを占領しました。その後、バターン半島、コレヒドール島、ミンダナオ島での激戦を経て、当初見込みの3倍以上の150日もの時間を費やして、同年6月フィリピン全土を制圧。

マニラ陥落時の日本の第14軍司令官の本間雅晴中将(戦後「バターン死の行進」の責任を問われ、戦犯として銃殺)は、「焼くな。犯すな。奪うな。」を徹底し、違反者は厳罰に処すとの訓示を行ったにもかかわらず、その直後に、占領下のマニラ大学で女子学生たちが、日本人将校によって強姦されたとの日本側の証言が残っています。

1945年(昭和20年)の日本の無条件降伏までの3年余り。ゲリラ討伐に名を借りた、日本の兵士による組織的な虐殺や、暴行・略奪が相次ぎます。ネグロス島でも、80歳以上の人々の中には、家族や親戚、友人を日本人に殺害された、忌まわしい記憶と共に生きる人も。太平洋戦争中、100万とも110万とも言われるフィリピン人が命を落としました。

家内の叔母と結婚し、私と家内の橋渡し役をしてくれたMさん。Mさんはネグロス生まれの日比ハーフ。戦前に出稼ぎで日本からネグロスに渡ったお父さんと、フィリピン人のお母さんの間に生まれました。

フィリピンでの戦争は、Mさんの運命を大きく狂わせることに。愛する妻も、営々と築き上げた財産もすべて捨て、Mさんのお父さんは、小学生だったMさんを連れて敗戦国日本へ引き揚げ。これが夫婦の今生の別れとなりました。帰国した時には日本語が話せなかったMさん。当時の話をすると、今でも目に涙を浮かべます。

一方、フィリピンに留まった日本人は、ジャングルや山中など、人目につかない場所での生活を余儀なくされました。その子供たちは、日本人を父に持つことを隠すため、両親の婚姻証明や出生証明を焼き捨て、母方の姓を名乗り、国籍も取得できない状態になった人も多く、その数、現在生存している人だけでも1,200名を数えます。

中には、自分が生きていたら家族の迷惑になると、手榴弾で自爆した日本人もいました。家族は墓を建てることすらできず、バラバラになった遺骸を自宅の床下に埋めたと言います。


一昨年(2016年)1月。今上天皇がフィリピンをご訪問された際、約90名のフィリピン残留日本人の方々を接見されました。そこには、今なお無戸籍のまま放置された方もおられ、陛下が一人づつ手を握られて、「大変でしたね」とのお言葉に号泣する人も。先の大戦は、日本とフィリピンの国同士の絆だけでなく、両国にまたがる家族の絆も容赦なく引き裂きました。現在に至るまで、癒えることのない傷を残したまま。


次回は、戦後間もない頃、歴史的な決断を下したことで有名な、キリノ大統領について投稿します。


参考文献:
ウィッキペディア
 フィリピンの戦い(1941-1942年)
 フィリピンの戦い(1944-1945年)
まにら新聞「自爆で家族を死守した父」
現代ビジネス「陛下の前で涙を流した彼らは何者か」


2018年2月8日木曜日

懐かしい板張り廊下


先週の土曜日、小学校で学期初めに行われる、保護者ミーティングがありました。この日、家内は珍しく休日出勤なので、私が初参加。

フィリピンの学校が、すべてそうなのかは分かりませんが、息子の通う私立の聖テレシタ学院は、年間4学期制。夏休みを除いて、だいたい2ヶ月半ごとのミーティング。学期毎の成績表も、この時に手渡しです。

集合場所は体育館、と言っても周囲に壁はなく、コンクリート打ちっ放しのフロアに、大屋根を掛けた建物。冬がなく年中暑いフィリピンならでは。ただし、みすぼらしい感じではなく、バスケットなどの屋内スポーツもできる仕様で、数百人は座れるような観覧席もあります。当然、舞台も設置。



ここで校長先生や、主任シスター(カトリック系の学校なので)のお話を、親たちが神妙に拝聴するわけです。と書くと何やら説教か講話みたい。そうではなく、この日のお題は、学費の値上げ。

フィリピンの公立小学校から高校までは、制服や教科書費用を除き、学費は無償。つまり、わざわざ有料の学校へ通っているので、貧困層の親はいないけれど、全員が金持ちというわけでもない。値上げされて嬉しい人はいません。

シスターは、この値上げがいかに妥当で、日割りにするといかに負担が小さいかを、延々と語ってました。そして、やっぱり滞納者もいるようです。その場合、子供はテストを受ける資格を失い、学期終了と同時に退学になるとのこと。また、毎月ではなく、年度の最初に一括払いすると1ヶ月分の割引があったり。お金が絡むと、何かとたいへんなんですね。

全体のミーティングが終わった後、息子が所属する小学5年生の保護者は、来月の催事の説明のため、教室へ移動。私は初めて、校舎の2階へ上がりました。すると何とも懐かしいことに、階段も廊下もすべて板張り。足を踏み降ろす度に独特の軋み音。久しぶりに体感する響き。



この校舎、元々鉄筋コンクリートで、しかも最近増改築したばかりの新品。ところが2階の床だけは板張りなんですよ。これだと子供が走ったり転んだりしても、衝撃が吸収されて、膝や腰に優しい感じ。そう言えば、20年前に、フィリピンへ業務出張した際に、マニラ近郊タガイタイの現地事業所「テクニカルセンター」が木造でした。名称と建屋があまりにアンバランスだったので、今でもよく覚えています。

私が兵庫県尼崎市内の上坂部小学校に入学した1969年(昭和44年)には、まだ一部に木造校舎が残ってました。2年生の時に取り壊されてしまったのは、今考えたら、惜しいことをしましたね。文化財保護の名目で保存すれば良かったのに。

実は、ネグロスでの自宅プランを練り始めた頃、木造にしようと考えた時期も。昔の住宅だと、1階だけコンクリートで、2階は木造というスタイルもあります。でも現地の誰に聞いても、シロアリにやられるから、止めておいた方がいいとのアドバイス。確かに乾季の後の最初の雨が上がると、恐ろしいほど羽アリが大量発生。床だけ板張りが、精一杯なんでしょうね。


2018年2月7日水曜日

薬害 デング熱ワクチン


出典:ロイター Reuters

昨年(2017年)12月1日、フィリピン保健省は、前年から実施していたデング・ウィルスに対するワクチンの接種を中止したと発表しました。理由は、ワクチンを開発した、フランスの製薬メーカー、サノフィが、接種によって深刻な症状が出る可能性があると警告したため。

この記事を読んだ時、これはヤバい、大変なことになるんじゃないか、と直感しました。フィリピン政府のトップである、ドゥテルテ大統領は、どんな状況でも歯に衣着せず、ストレートな発言で有名で、たまには歯に衣を着せろよ、と言いたいぐらい。

しかしドゥテルテはフィリピンの政治家としては、例外中の例外。彼以外は、自分に都合の悪いことは、何でもはぐらかし、イエス・ノーが極めてあいまい。まぁ、これはフィリピンに限ったことでは、ないかもしれませんが。

特に今回のデング熱ワクチンに関しては、世界で初めて大規模な公的接種に踏み切ったフィリピン。自信があったんだろうし、プライドもあるでしょう。そんな背景にもかかわらず、いきなりきっぱりと中止宣言。これはよほど重大な危険性があったのかと思われても仕方がない。

悲しいことに悪い予感は的中し、ここ最近、夕食時に家族で見るテレビのニュースでは、ワクチンの接種が原因で亡くなったと疑われる子供のことばかり。子供を持つ身としては、悪夢のような出来事。号泣する親たちにカメラやマイクを向ける無神経さは、どの国のテレビ局も同じで、見るに忍びなく、途中でチャンネルを変えることもしばしば。

2月3日付けのBBCの記事によると、ワクチン接種後に亡くなったとされる子供は14名。製薬会社とフィリピンの関係者は、子供の死亡とワクチン接種に関係があるという証拠はないとしています。

これは、私がかつて見聞きした日本の薬害事件で、被害が発覚した時点で、常に当事者が言うセリフ。うんざりします。まだ黒白がはっきりしていないから、公式発表ではこうなってしまうのかも知れませんが、子供を亡くした親の立場からすれば、もうちょっと違う言い方はないものかと思う。

蚊が媒介するデング熱。毎年フィリピンでは多くの感染者が出ます。私がネグロスに移住してからだけでも、姪っ子のジャスミンを含む家内の親戚で、数人が入院。幸い全員回復しましたが、中には重篤化して、点滴だけでは追いつかず輸血が必要になってしまったことも。

我が子がデング熱に罹ったらと心配するのは、誰でも同じ。ワクチンが開発されたとなれば、すぐにでも子供に、という気持ちはよく分かります。実際、中止されるまでフィリピン国内で、80万人以上が接種を受けました。

そして、このデング熱ワクチン薬害の影響で、その他の予防可能な疾病のワクチン接種率が大幅に低下。騒ぎの中、関係者は責任の押し付け合い。住まわせてもらっている、外国人の立場で言いたくはありませんが、こういうフィリピンの一面を見ると、絶望的な気持ちになってしまいます。


2018年2月6日火曜日

ダバオ産のマニラ麻 日本・フィリピン交流史4

今日の投稿は、日本・フィリピン交流史の第4回。

ルソン島のマニラ首都圏、ビサヤ諸島のセブ・マンダウエ・ラプラプ各市で構成されるメトロ・セブ、そしてミンダナオ島にあって、フィリピン第三の人口を擁する経済圏がダバオ市です。イスラム教徒が多い地域として知られ、16世紀から始まったスペインの侵略に最後まで抵抗。19世紀まで独立を守り続けました。

その結果、皮肉なことに、近代化が遅れてしまったダバオ。そんなダバオの発展のきっかけになったのが、20世紀初頭の日本人開拓者によるマニラ麻(アバカ)栽培の農園経営だったと言われています。

その原産地から名付けられたマニラ麻は、バナナ同様の多年草。その葉柄(葉を支える柄の部分)から採取される繊維は、植物繊維としては最も強靭。1800年代から船舶用のロープの材料として用いられてきました。また、現在の日本の紙幣は、マニラ麻などの繊維を特殊加工して作った和紙が使われているそうです。


遠目にはバナナと見分けがつかないマニラ麻
手前には乾燥中の繊維
出典:Wikipedia

このマニラ麻に目をつけたのが、明治時代、マニラに住んでいた日本人実業家の太田恭三郎という人物。彼は、相当な先見の明があったんでしょうね。前回投稿したケノン道路建設のために来比した日本人労働者(通称ベンゲット移民)。道路完成後に失業し、帰国する旅費もない困窮邦人となってしまいます。太田は、そんな彼らを率いて1905年(明治38年)にダバオへ移住。同胞救済と新規事業立ち上げの一石二鳥を狙いました。結果から言うと、この目論見は大成功。

もちろん最初からトントン拍子ではありません。当初、約200ヘクタールの土地を買収し、そこでマニラ麻の植え付けを始めようとしたところ、外国人であることを理由に耕作が許されず、州から退去命令を受けてしまいました。そこで太田は一計を案じます。

土地を無償で政府に還付し、収穫物の10パーセントを政府に納付する耕地請負制度を提案。官有地を租借するという形で、ダバオでのマニラ麻栽培開始にこぎ着けました。

その後、日本人移民によるダバオでのマニラ麻事業は軌道に乗り、約30年後の1939年(昭和14年)には、フィリピン全体の在留邦人2万9千人のうち、ダバオ在住者は1万8千人にまで増加。そしてその多くがフィリピン人女性を妻に迎え、フィリピン生まれの移住2世は、1万人を数えました。

1937年(昭和12年)のダバオ州での国籍別農業投資額を見ると、フィリピン人の約3200万ペソ(65.6%)を除けば、日本からの投資額は約1000万ペソ(20.7%)でダントツの2位。3位のアメリカ、約285万ペソ(5.9%)を大きく引き離しています。マニラ麻の生産量は、フィリピン全体の半分強をダバオ産が占め、さらにその7割が日系事業者によるもの。

こうして、ベンゲット移民から約30年。フィリピンの日本人移民たちは、成功者として確たる地位を築くに至りました。

最近でこそフィリピンで日本人が多いのは、マニラやセブですが、明治以降の日比交流の源流は、バギオやダバオへの移民。特にダバオでは、今でも日本に親近感を持つ人が多い。以前ダバオ市長を務めたドゥテルテ大統領も大の親日家。私たち現代のフィリピン在留邦人は、はるか明治時代の先人たちが築いた、遺産の余光に与っているとも言えます。

しかし、日比の蜜月時代は長続きはしませんでした。1941年(昭和16年)12月、日本はフィリピンの宗主国だったアメリカに奇襲攻撃を仕掛け、太平洋戦争が勃発。フィリピンへ移住した日本人とその家族には、過酷な運命が待ち受けることに。

次回は、戦場となったフィリピンでの日本人について投稿します。


参考文献:
戦前日本企業のフィリピン進出とダバオへのマニラ麻事業進出の歴史と戦略


2018年2月5日月曜日

40日間のバカンス


クリスマスイブ以来、ず〜っと田舎に帰ったままになっていた、我が家のメイド、ネルジー嬢が昨日(2月4日)やっと復帰しました。あと数日で、雇用満2年を迎える直前のこと。

一般的にフィリピンのメイドさんは、長い休暇の後は里心がついてしまうことが多いらしく、家族が引き止めることもあって、数日〜1週間ぐらい、戻ってくるのが遅くなるのが恒例行事。前任のアミーの場合、クリスマス休暇の後そのまま何の連絡もなく、荷物も放置したまま辞めてしまいました。こっちからの問い合わせメッセージの返信が「お母さんが辞めろと言うから辞めます」。

今回のネルジーも、復帰予定だった2月1日になって、「両親がセブに行っちゃったので、もう1週間休みます。」とイマイチ意味不明なテキストが、家内の携帯電話に。ちゃんと連絡するだけマシとも言えるけど、これにはさすがに家内も怒りのテキスト返し。3日遅れただけの復帰となりました。

ネルジーは真面目に働くし、言われたことだけではなく、気がついたら自発的にいろいろやってくれる。しかも鍵を預けたり、数日留守番を頼んでも間違いがないという、フィリピンにあっては、ちょっと得難い人材。この実績と信頼感がなければ、1ヶ月休みたいと言って時点で、別のメイドさんを探していたでしょう。

1月の初め頃、ネルジーの不在を埋めるため、臨時雇いを募集している旨、投稿しました。ネルジーを紹介してくれた、友達のクリスティンや、週一でマッサージに来ているセラピストのおねえさんに頼んでみたけれど、結局はいい人が見つからず。その間、家事は私と家内で分担。

特に相談したわけでもなく、何となく食事(食器洗いを含む)と掃除は私が、洗濯は家内が、と作業範囲をシェア。もちろん、必要に応じて、役割は交代することもありました。

ただ、家内が食事の後の洗い物をすると、食器や調理道具の置き場所がコロコロ変わり、食事時になって、シャモジどこへ隠した!とか、しなくてもいい夫婦喧嘩になったり。昔は「男子厨房へ立ち入るべからず」なんてことを言いましたが、実は男尊女卑ではなく、他者の専門領域には軽々しく立ち入るべきではないというのが、真意だったのでは?

それにしても、料理のように、どちらかと言うと価値を創る系統の仕事は、比較的モチベーションを維持するのが楽なのに対して、食器を洗ったり、掃除したりの、マイナスをゼロに戻すのは、徒労感があるのは否めません。もちろん創造性がまったく不要なのではなく、それなりに工夫の余地もあり、やり方次第では楽しめるんでしょう。でも毎日のことですからねぇ。

そして約40日間という「君はフランス人か?」とツッコみたくなるようなバカンスを終えて、昨日の夕刻、ようやくネルジーが戻ってきました。あれ、ちょっと太った?

ということで久しぶりに、夕食は作るだけで、食べ終わったら洗い物はお任せ。朝目が覚めたら、もうネルジーは居間と台所の大掃除をほぼ完了。買い物も、家内と息子の弁当の配達も、二つ返事で「イエッサー」。これがどんだけ楽なことか、日本での主婦・主夫の経験者なら、羨ましく思うことでしょう。

ところでネルジー、休暇前は、結婚の話をチラつかせてたけど、あれはどうなったのかね?


2018年2月4日日曜日

ベンゲット移民 日本・フィリピン交流史3

第3回の日本・フィリピン交流史は、前回の高山右近から一気に時代を下って、明治時代のお話。

ベンゲットは、ルソン島の中央付近、観光地として有名な「夏の首都」バギオが位置する、フィリピン国内の州(プロビンス)の一つ。ただし、バキオ市はベンゲット州には属さず、独立した行政区分なんだそうです。

「ベンゲット移民」は、1903年(明治36年)、マニラ〜バギオ間の全長41キロの道路建設のため、フィリピンに渡った日本人移民のこと。土木作業者・石工・現場監督・通訳を含む、総勢5,100名が、この工事に参加しました。江戸時代初期の鎖国令以来、閉ざされていた日本・フィリピンの交流は、このベンゲット移民で約260年ぶりに再開したというわけです。

当時フィリピンは、スペインから独立したのも束の間、わずか数年でアメリカの植民地となってしまいました。そして首都マニラの暑さを嫌う、新しい支配者のアメリカ人が、バギオを避暑地とするために直通道路の建設を計画。延べ3万人の労働者を動員。その半数がフィリピン人で、日本人は全体の2割。その他アメリカ人や中国人、インド人、イギリス人が作業に従事。

着工から5年、日本人が参加してから2年後の1905年(明治38年)に道路は完成し、アメリカによるフィリピン統治政府の代表者、ケノン少佐に因み、ケノン道路と命名。しかし、技術的な準備不足、過酷なジャングルでの労働環境などが災いし、日本人労働者の半数近い700名が、事故や病気で命を落としました。

現在のケノン道路(日本の占領時代にベンゲット道路と改名)の写真を見ても、山肌を這い回るような姿から、建設は困難を極めたことが容易に想像できます。110年前の、フィリピンへの移住者としては私の大先輩たち。家族を祖国に残し、異郷の地で亡くなった方々の心中を察すると、涙が出そうになりますね。


出典:まにら新聞

ところで、明治36〜38年というと、日本はまさにロシアとの戦争の真っ最中。対外輸出できる製品といえば絹糸や工芸品ぐらいしかなく、貧しい農家では口減しのために、娘を売春宿に売り渡す人身売買が、公然と行われた頃。

軍艦すら国内で造れず、イギリスなどに発注。欧米列強に追いつこうと必死になっているものの、まだまだ国力は貧弱で、三等国の扱いを受けていました。つまり、現在とは逆で、仕事を求めて日本人がフィリピンへ出稼ぎに。しかも命懸けの厳しい労働に就くしかないような時代だったのです。

そして、難工事をやり遂げて生き残った人々には、その後も苦難が続きます。工事が終わって失業者になっても、貯金すらないケースが多かった。彼らは、帰国しようにも旅費がなく、言わば「元祖・困窮邦人」となって、マニラに残留するしかありませんでした。

それにしても、現在の日本では、同時期のハワイやアメリカ、南米への移民について、多少知る人はいても、フィリピンへの移民、ましてやベンゲット移民の名を聞くことさえ稀。かく言う私も、フィリピンに縁があり、この地に移り住むことがなければ、関心も持たなかったでしょう。

さて、マニラに残された困窮邦人。その窮状を救ったのが、後に「ダバオ開拓の父」と呼ばれた、太田恭三郎という兵庫県出身でマニラ在住の日本人実業家でした。次回は、ダバオでの日本人移民について投稿します。


ケノン道路の展望台にある記念プレート

参考文献:

戦前日本企業のフィリピン進出とダバオへのマニラ麻事業進出の歴史と戦略
まにら新聞 「移民1世紀」


2018年2月3日土曜日

私的フィリピン美女図鑑 峰不二子

昨年末に「フィリピン美女図鑑」で投稿した、トライシクル・ガール。バイクにセクシーな美女とくれば、私の世代で連想するのは、峰不二子だろうなぁと書きました。実はその後、自分の文章に妄想を刺激されて、リアル峰不二子を描きたくなってしまった。

ルパン三世のことを下手に語ると、いろんなコメントが殺到しそうで、ちょっと怖い。特に峰不二子については、50代前後の男性が、熱くなるかも知れません。タイトルにも「私的」とある通り、これは私個人の感想ですので、どうか冷静な対応をお願いします。

モンキーパンチ原作のルパン三世が、初めてブラウン管に登場(これも古い表現になりましたね)したのが、1971年の第1シリーズ。大阪万博の翌年だったんですね。私がまだ小学校の3年生ですよ。放送時間は日曜日の夜7:30からでした。

それにしても、子供が見る時間のアニメ(当時は「まんが」と呼んでました)なのに、完全に大人向け。よくあんな企画が通ったものです。しかもあの時代としては、画期的にリアルな表現。

銃器はワルサーやマグナムの特徴がちゃんと分かるほど描き込まれている。ルパンの愛車は、凝った造形のアルファロメオ・グランスポルト・クアトロルオーテ。不二子の完璧なまでに大人の女の体型。ルパンの手の甲には一本づつ描かれた体毛。作画も動画もさぞやたいへんだったでしょう。

音楽は、第2シリーズ以降の大野雄二さんではなく、山下毅雄さん。普通のアニメだったら、歌詞のテロップが流れて、子供が一緒に歌うのがオープニングテーマの定石だった頃に、チャーリー・コーセイがボーカル担当のブルース風楽曲。歌詞は「Lupin the third」(それも、ちゃんとした英語の発音)の繰り返しだけ。

ストーリーがこれまた常識破りで、後年の劇場版「カリオストロの城」とは別モノのように、ハードボイルドでエロチック。ルパンが片手で車のハンドルを握りながら、もう一方の手で不二子の太ももを触ったり、敵役は何の躊躇いもなく射殺したり。今だったら、深夜枠か、OVA(オリジナル・ビデオ・アニメ)でなければ到底ありえない。

特に第9話「殺し屋はブルースを歌う」では、峰不二子の昔の恋人が登場する、大人のラブストーリー。二階堂有希子増山江威子ではなく)が声を演じる不二子が、物語の終盤、声を殺しながらむせび泣くシーンの情感と官能性は、ほとんど成人映画並みのインパクト。当時は子供心に、なにやら見てはいけないものを見たような、罪悪感に襲われました。

とまぁ、いつになく前振りが長くなってしまい、申し訳ありません。要するに、そんなアダルトなルパン三世の第1シリーズの峰不二子を、リアルな映像に、しかもフィリピン女優が演じたらという、50男の妄想を絵にしたというわけです。

不二子と言えば、抜群のプロポーションにレザーのボディスーツ。髪の色は、ちょっと赤毛でナチュラルウェーブ。そのスタイルは守りつつ、今フィリピンで大人気の、以前一度描いたジュリア・バレット嬢に再登場願いました。


アニメのキャラクターを実写化すると、絶対に「これじゃない」コールの嵐になるものなので、言いたいことはたくさんあるでしょうけど、最初にも書いたように、飽くまで私個人のイメージ。そこはどうか、大らかな気持ちで見てやってください。

ちなみに、この第1シリーズ。視聴率は6〜3%と惨憺たるもので、途中から高畑勲・宮崎駿が演出に参加してテコ入れを図ったものの、結局半年、23話で打ち切り。後番組は「超人バロム・1」でした。




2018年2月2日金曜日

毎日ブログ


3回連続で投稿してきた「日比交流史」は休憩して、今日はちょっとした雑談です。お気づきの方もおられるかも知れませんが、今年(2018年)になってから1ヶ月間、毎日ブログを更新してきました。

2013年の10月末から始めたこのブログ。当初はフィリピンでの自宅建設の記録がメイン。その頃は日々の進捗を記すだけで、毎日でも書く事がありました。なので、月に20本〜25本のほぼ毎日のペース。さすがに工事も中盤以降に差し掛かって見た目の変化が減り、ネグロスでの生活も慣れ、そうそう頻繁に更新もしなくなりました。それでも平均すると2日に1本程度は書き続け、工事完了後もその頻度は維持。

ネグロス永住日記〜フィリピン・ネグロス島に家族で移住した、関西人のつぶやき〜」と題しているので、フィリピンと無関係なことは書かないのが基本方針。2〜3年もすれば、根気は続いても、ネタがなくなるだろうと予想。ところが意外にも、アイデアは途切れない。最近では、書くスピードが追いつかず、思いついたことを、下書き保存している草稿が、常に15〜20本。数ヶ月も放置して、時事ネタのはずが賞味期限切れで結局仕上げることなく消去することも。

そこで、年が変わったタイミングに、在庫一掃を期して、1月だけ毎日更新にトライしてみたわけです。ところが皮肉なことに、そうなる火山の噴火やら、誘拐騒ぎやら、ネタが向こうから振ってくるような状況。その上、フィリピン美女のイラスト(美女図鑑)もあるし、日比交流史を書こうと思い付いたり。

気がつくと、目標だった1月は終わり、自己新記録の月刊更新数「31」は難なく達成。それなのに、下書き草稿は23本と、一掃どころか年末時点より増えてしまいました。とは言え、これは悪いことではないし、書く事も楽しんでいます。何よりも、力を入れて投稿したものに、多くのページビューがあるのは、とても嬉しい。やっぱり素人であっても、読者の存在を意識することは、強力な動機付けになるものですね。

ということで、2月も引き続き毎日更新を続けたいと思います。仕事ではないし、ストレスを感じるほど頑張るつもりもないので、いつ途切れるかは分かりませんが、しばらくは温かい目で見守ってやってくださいませ。


2018年2月1日木曜日

ユスト高山右近 日本・フィリピン交流史2


高槻市 城跡公園に建立された右近像

前回に引き続き、日本・フィリピン交流史です。今日はその第2回。
少々ヒネりが効きすぎだった第1回の杉谷善住坊に比べると、ご存知の方も多いと思われる、高山右近(たかやま・うこん)のお話。

またまた、昔のNHK大河ドラマ「黄金の日日」を持ち出して申し訳ないことながら、私が、この有名なキリシタン大名のことを知ったのは、この番組を通じて。DVDで見直してみると、登場した時は「高山重友」になってたんですね。


「右近」の名前が浸透していますが、その諱は、友祥、長房、重友、などが伝わっていて、右近は本名ではなくニックネームとか芸名みたいなものなんでしょうか。この投稿では右近で通します。

10歳でカトリックの洗礼を受け、霊名ユスト(またはジュスト)を名乗った高山右近。神さまにも人にも、とことん真面目な態度で接し、物事を突き詰めて考える性格だったらしい。その右近が、与力(厳密な主従ではなく、補佐役か客将みたいな関係)として仕えていた荒木村重が、主君・織田信長に対して叛乱を起こした時のこと。

従わなければ、当時の領地、高槻(現・大阪府高槻市)を焼き払い、キリシタン信者を皆殺しにすると、信長からの脅しを受けた右近。村重への忠義と板挾みになった彼は、周囲の反対を押し切って、領地を信長に返上。領民の命乞いのため、単身出頭するという、ちょっと信じられない行動に。

ドラマでは、舞台俳優でテレビ初出演だった鹿賀丈史さん演じる右近が、白い死装束に身を包み、闇に紛れて一人歩く姿がとても印象的でした。完全に殉教者のイメージ。今でも右近を思う時、私の頭の中のスクリーンに映し出されるのは、若い頃の鹿賀丈史さん。

私は、30歳を過ぎてからカトリック信徒になり、にわかに興味を持って、高山右近関連の書籍を読み始めました。実は、フィリピンに移住する少し前まで、右近所縁の高槻市内の教会に所属。また住んでいた茨木市(高槻市と隣接)や、私のカトリック入信のきっかけとなった教会がある伊丹など、すべて右近と深い関わりのある土地。

徳川家康の世になってからの右近は、キリシタン禁制下で棄教を拒み、ついにはフィリピンへ亡命。400年の時を隔てながらも、とても偶然とは思えないほど、右近と私の行動範囲は重複。信仰の篤さでは比べものにならないものの、やっぱり親近感を覚えてしまいます。

さて、フィリピンでの高山右近。1614年12月、当時スペインの占領下だったマニラに到着。カトリック関係者には、すでに有名人だった彼は、熱狂的な歓迎を受けました。民間でここまでの国賓待遇だった日本人は、90年代フィリピンで大ヒットしたアニメ「超電磁マシーン ボルテスⅤ」の主題歌を歌った、堀江美都子さんのフィリピン渡航まで、例がなかったかも。

しかし、フィリピンへの長旅と酷暑の気候は、63歳の右近には厳しすぎたようで、マニラ到着後わずか1ヶ月余りの、翌年2月3日に病死。右近の死後24年経った1639年、徳川三代将軍・家光の時代に南蛮船入港禁止令(いわゆる鎖国)が発せられました。その後200年以上、オランダ・清国との限定的な接触を除き、外国との交易は禁じられ、始まったばかりの日本・フィリピン交流も完全に途絶。

時は移って1976年(昭和54年)、高山右近が結んだ縁により、マニラ市と高槻市は、姉妹都市となり、かつて日本人町のあったマニラ市内パゴ地区に、日比友好公園と高山右近の像が建設されました。一時は廃墟同然となったものの、アロヨ大統領時代に再整備され、現在に至っています。

そして一昨年(2016年)、日本カトリック信徒の長年に渡る活動が結実し、ユスト高山右近は、バチカンによって「福者」(聖人に次ぐ、カトリックでの徳と聖性を持つとされる人物の称号)に列せられました。


次回は、一気に時代を下って、明治時代の日比交流について投稿します。