2016年7月31日日曜日

ネルジーのトラウマ


お肉がまったく食べられない、我が家のメイド、ネルジー嬢。先日、その理由がやっと分かりました。例によって夕食後、ケラケラと笑いながら家内と地元の方言での雑談。あんまり楽しそうだったので、後になって何の話題だったのか家内に訊いてみると、これがまた、エラい深刻な話。

ネグロス島、山岳地帯出身のネルジー。8歳の頃に殺人事件を目撃してしまったそうです。酒に酔った男5人が蛮刀で斬り合って、3人がその場で即死、残りの2人は搬送先の病院で死亡。凶器に使われた蛮刀は、草刈りによく使われているものだったんでしょうね。市街地でも、空き地を放っておくと、あっという間に草ボウボウになる気候なので、どこの家でも1本や2本はある代物。我が家の物置にも1本あります。

可哀想に、血まみれの惨殺死体をまともに見てしまったネルジー。それからというもの、この惨劇を連想させる肉類が、まったくダメになってしまったそうです。

詳しい原因は分かりませんが、ひょっとするとこれは、「アモック」だったのかも知れません。フィリピンをはじめとする、マレーシア、インドネシアなどで見られる、このような激情的な無差別殺傷は、一種の精神疾患の症状とされていて「アモック」Amok と呼ばれています。(詳しくはこちら

アモックは、英語にもなっていて、「Run Amok」で「逆上して暴れる」という意味になるそうです。私も調べてみるまで知りませんでした。

このアモックが多かったのは、昔のことで、現代ではほとんどなくなったと言われています。しかし、フィリピンに住んでみて、地元の人からは、殺人にまでは至らずとも、発作的に暴れて大喧嘩になったり、相手に怪我をさせてしまったりという話は、時々聞きます。

平素、穏やかで大人しい人が多い印象のフィリピン。特に、田舎町のシライにいると、人々が大声で口論したり争ったりする姿は、滅多に見ません。それだけに、日頃抑えている感情が何かのきっかけで表面化すると、コントロールできない爆発になってしまうのでしょうか? 

日本人がよくやる「人前での叱責」。相手がフィリピン人の場合、いくら言っても表情を変えないことが多いので、堪えていないのかと思っていると、いずれ大変なことになりかねませんね。


2016年7月29日金曜日

フィリピン ラン活事情

「ラン活」って何のこっちゃと思ったら「ランドセル活動」のことなんですね。ネットで見ると、最初は意味が分からなかったと書いている人がいるようなので、それほど普及した言葉でもないようです。

「○○活」スタイルの造語が、最近は大流行り。多分就職活動を略した「就活」からでしょうか。「婚活」「終活」ぐらいまでは、自分で使わないまでも見聞きはしてましたが、「妊活」「離活」「朝活」「転活」...。日本人って、こういう言葉遊びの流行が好きなのか? ちょっと前、養老孟司さんの「バカの壁」がベストセラーになった時には、「○○の壁」があちこちに氾濫してました。

さて、フィリピンの場合、日本のランドセルに当たるのが、トローリー・バッグ。フィリピンでは「トローリー」と呼ばれています。ちょっと馴染みの薄い名称ですが、要するに底の部分に小さな車輪が付いた鞄で、旅行鞄としては、日本でも使っている人が多い。

フィリピンの小学生向けのトローリーは、それほど大きいものではなく、容積だけだと、日本のランドセルより少し大きい程度。フィリピンでは一冊の教科書がやたら大きくて、しかも分厚い。それを毎日全教科持って行くのが普通なので、小学生では、とても背負えないほどの重さになってしまいます。なので、コロコロ転がすという訳。



それだけでなく、小さな子供を徒歩で学校に通わせる習慣がないフィリピン。暑さもあるし、野犬が多くて、小学生だけで歩かせると危ない。自家用車がある家庭なら、車での送り迎え。なければ、トライシクル(輪タク)での移動が基本です。自分で持ち運ぶというより、荷台に積みやすい形状優先。そういう事情で、子供の通学鞄は、トローリーが定着したらしい。

フィリピンの新学期は六月。それに先立つ夏休み中の四月・五月には、こちらのデパートや玩具売り場では、新作トローリーがずらりと並びます。その半分ぐらいが、アニメや特撮のキャラクター物。男の子だとニモやトイ・ストーリー、女の子だとプリンセス・ソフィアやアナと雪の女王などが人気。


ただ日本のように、半年も前から人気のバッグを購入するために、親や祖父母が血眼になるなんてことはありません。

小学校4年生の私の息子も、こちらの学校に転入する時に、トローリーを買い与えました。だいたい登校には、これを使っていますが、たまに授業が少なかったり、特別授業で教科書不要の日には、日本で買ったランドセルも。他の子供たちも、そういう時は小さなバックパックを担いでいるので、さほど好奇の目では見られませんね。


もう4年生ですが、あまり使わないので
きれいなままのランドセル


2016年7月28日木曜日

ネグロス蟬しぐれ

もうすぐ八月。今頃日本では、セミの大合唱となっていることでしょう。私が生れ育った関西地方では、昔は午前中にクマゼミ、午後にはアブラゼミと、時間差で鳴き声が変わったのが、移住前の10年ほどはクマゼミがアブラゼミを圧倒して駆逐してしまい、一日中クマゼミの「シャ〜、シャ〜、シャ〜」という威勢のいい声だけに。

温暖化で真夏の気温が上がったからでしょうか? セミの数も昔より随分増えた感じで、こいつらが一斉に鳴き始めると、頭の中に熊手を突っ込んでかき回されるようで、ただでさえ耐え難いのに、さらに2〜3度気温が上昇したような気がしたものです。

年中夏のフィリピン。さぞやセミたちは繁栄していることだろうと想像していましたが、一番暑い時期の四月から五月になっても、自宅のあるネグロス島のシライ市内で聞こえるのは、鶏が時を告げる声ばかり。

真夏も終わって雨季になり、連日雨が降り続くようになって、まるで待っていたかのようにセミの声(らしきもの)が聞こえてきました。ちょうど今頃、六月から七月がネグロス島ではセミの季節ということらしい。


盛夏の日差しの下、ヤケクソのように鳴く日本のクマゼミと違い、ネグロスのセミは実に控えめ。日が陰ったり、黄昏れ時に「ジィ〜〜」っと染み入るように鳴きます。まるで、梅雨時のニイニイゼミや、ヒグラシ、秋口に鳴くツクツクボウシみたい。

移住して季節は三巡り目になり、今年はセミの声を聞いて「真夏も終わったなぁ」と感じています。しかし、一般的なフィリピン人の感覚としては、セミの声が聴こえたからと言って季節を感じないらしい。子供がセミを捕まえたりしてるのを見たこともないし、セミに関心がない。セミについて尋ねても、誰も詳しく知らない。


本当に鳴いているのがセミなのかどうか、最初は分からなかったのですが、自宅の網戸にセミがやってきて、やっと鳴き声の主はセミだと確信できたのが1年前。見たところ、東日本に多いミンミンゼミみたいな緑色の体と、透明な羽をしてました。これは、間違いなくセミ。

セミ以外にも、チョウやカミキリムシ、カマキリなど、いろんな昆虫が見られるネグロス島。植生は日本とまったく異なりますが、虫の姿は、意外にも日本のものと似ていますね。



鬼門除け

もちろんフィリピンでは鬼門なんて、普通は誰も気にしないし、まず誰も知りません。急にこんなことを書き始めたきっかけは、今住んでいる自宅の、基本設計をしていただいた日本人建築家が、たまたまフェイスブックでアップされた「鬼門除け」についての投稿。

その投稿を目にした時に、そう言えばウチの敷地の北東の角っこが、まるで鬼門除けしたように欠けてると気付いたのでした。厳密には、きっちり北東ではなく、ちょっとずれた東北東ぐらいの方向。

これは、鬼門を気にして意図的にしたのではなく、元々の敷地が角地で、偶然この角が直角ではなく、欠けた形状になっていただけの話。鬼門は、玄関や水回り(台所やトイレ、浴室)を避けるものらしいのですが、我が家の場合は、一階には台所に浄化槽、二階には浴室にトイレを配置しているので、敷地の形が鬼門除けになっていても、あまり意味がないかも。

さらに裏鬼門にあたる南西の角には、ポンプ室があって、思いっきり「水回り」。だからでしょうか、この家は建てて一年もしないうちに、雨漏りしたり、落雷があったり。メイドさんが半年以上居つかないのも、気にならないこともない。

とは言っても、家族の誰かが大病したり大怪我したりはなかったし、概ね移住後の暮らしは順調。この程度のことは、どの家にもあることなので、気にしだしたらキリがないですね。

鬼門のことなど何も知らない、フィリピン人の家内。この角にいろんな植物を植えて、ちょっとした花壇にしています。ブーゲンビリアに日日草、最近はココナツの苗を植えました。魔除けの効果はないでしょうけど。


鬼門思想は、中国でできたものだそうで、北東は騎馬民族が侵入してくる方位だったことが元になったらしい。フィリピンの北東と言えば、海を隔てた日本の方角。そうか、日本は、フィリピン人にとっての鬼門だったのか...。


2016年7月26日火曜日

南国映画館「スタートレック・ビヨンド」


日本では、10月21日の公開が決まった、スタートレック・シリーズ最新作「スタートレック・ビヨンド」。フィリピンでは、アメリカでの公開と同日の7月22日に上映が始まり、昔からのトレッキー(深みにハマったスタートレック・ファンの俗称)である私は、翌日23日の土曜日、家族で州都バコロドのシネマ・コンプレックスに足を運びました。

息子は、「英才教育」の甲斐あって、立派なチビ・トレッキーに育ち、全シリーズのDVDボックスを、親子で毎日少しづつ鑑賞中。この頃は、息子ではなく家内のために購入した「スタートレック・コンパニオン」(スタートレック・テレビシリーズのエピソードを1話づつ解説した、百科事典のような書籍)の英語版を、ベッドに持ち込んで毎晩読むほど熱が入ってます。



このブログでも、何度も投稿しているスタートレック。移住後に劇場で観るのも、前作「スタートレック・イントゥ・ダークネス」に続いて2回目です。フィリピン移住を思い立った十数年前、すでに私は年季の入ったトレッキーだったのですが、まさかフィリピンに住んで、しかも息子と一緒にスタートレックを観続けているとは。さらには、劇場版の新作をバコロドの映画館で観るとは、まったく想像もできませんでした。

さて、「スタートレック・ビヨンド」の内容。出演者が一新された前々作からはっきりと方針が変わり、アクション主体に。この最新作では、それに磨きがかかった感じです。カーク船長が、バイクに乗って敵地に乗り込むシーンは、すごい迫力。宇宙船による戦闘シーンも、昔のスタートレックからは考えられないような、派手なぶっ壊し方。

ただ、それだけではなく、オリジナル・シリーズで「スポック」を演じ、昨年惜しくも亡くなったレナード・ニモイが、意外な形で登場。これが、実に昔からのファンの気持ちを理解した心憎い演出で、思わずほろっとさせられます。こういうのを見ると、監督をはじめとする新しい製作陣の、旧作への敬意と愛情を感じますね。

それにしても字幕なしというのは、いくらアクションが多くても、私にはイマイチ分からない部分が多かった。日本でDVDが発売されたら、また誰かに買って来てもらわないといけません。




被害はバナナ二房

最近は、日本は他の国に比べて治安が良くて...というのは昔話になりつつあるようです。今朝も、日本での無差別殺傷事件が報じられたばかり。

それでも、実際にフィリピン・ネグロス島に住んでみての日常感覚としては、日本はまだ比較的治安は良い。よく言われるように、日本では落し物、それも現金が入った財布でも、見つかることがあるけれど、フィリピンでは99パーセントないでしょう。

ここシライでは、マニラ等の大都会とは異なり、殺人や重傷を負わせるような傷害事件は、あまり耳にしませんが、窃盗や空き巣の類は、頻繁に起きます。この頻度は、日本の比ではありません。今年に入ってから、私たちの住む宅地、セント・フランシスでも、深夜に車で乗りつけた複数の男が、門扉をこじ開けようとしていたそうです。たまたま物音に気付いた家の人が、灯りを点けたところ、何も盗らずに逃走。

セント・フランシスは、周囲をフェンスで囲まれ、三ヵ所あるゲートには、24時間体制で拳銃を携帯した警備員が常駐。しかし、実は抜け穴があって、サトウキビ畑に面して、まだ造成途中の反対側からは、ノーチェックでいくらでも入れる道があります。こういうあたりが、フィリピンらしい間抜けぶり。さすがにこの事件があった後は、その抜け道にも簡易ゲートが設けられ、住民以外の人を入れる時には、運転免許や身分証明書を預けるルールが徹底されました。

これで、無断での車両進入は、まず無理に。でもやっぱり事件は起こる。それは、今月の初め頃で、我が家の筋向いで、家内の高校以来の友達ナンシーの家でのこと。ちょうど、サウジアラビアで働くナンシーのお兄さんが一時帰国していた時。

徒歩で宅地に入ったと思われる賊が、庭に植えていたバナナを盗もうとしていたそうです。それも夜間の暗闇ではなく、もう明るくなった朝5時頃。今回も賊にとっては不運なことに、向かいのアメリカ人宅に雇われたプライベート・ガードが気づき、空に向かって拳銃を一発。発砲に驚いた賊は、持っていたバナナ二房を捨てて逃走しました。

この話をナンシーから聞いた時は、大笑い。直接木からもいだバナナの房なので、20〜30本はついていたにしても、売ったって数百円。空腹のあまり犯行に及んだのかも知れませんが、バナナのために撃ち殺されるのは、割に合わなさすぎですね。

フィリピンでも凶悪犯罪は多く、いくら田舎のシライでも、深夜に一人で出歩くなんて真似は、とてもできません。しかし、殺人や銃器を使った強盗、麻薬関係の事件は別にしても、どうもフィリピンの犯罪者というのは、ドジで間抜け。全然計画性がなく、妙に人間臭くて、怪我人や深刻な被害が出なければ、つい笑ってしまう事件が多いように思います。


犯行現場...
というには長閑なナンシーのバナナ畑



2016年7月23日土曜日

電気代が4万円!

ネグロス島での生活費は、安い。食費は日本のざっと1/5程度だし、住んでいる土地や家屋にかかる税金は、年間1万円にもならない。年に一度の自家用車のエミッションテスト(車検のようなもの)も、だいたい1万円以下。その他にも子供の学校やら、健康・火災・自動車の各種保険などなど、全部ひっくるめても、年間100万円もあればお釣りが。

日本並みというと、ガソリン代と電気代。ガソリンの価格はグローバルに連動しているので、仕方がないけれど、意外にもフィリピンは、アジアでもっとも電気代が高い国。(何と日本より高い!)「フィリピン」「電気代」でググって出てくる日本語のサイトでは、高い電気代の理由は、システム・ロスつまり「盗電」で説明しています。

ところが実際には、盗電ではない本当のロスを含めても、せいぜい電気代の6パーセント程度なんだそうで、真相は、請求書には表れない中間搾取がひどいという事らしい。これはフィリピンのニュース配信サイト「ラップラー」(Rappler )が作った動画で詳しく解説されています。


とにかく高いだけでなく、やたら停電が多く、顧客満足度は著しく低いフィリピンの電力サービス。我が家で支払っている月々の電気代が、親子3人+住み込みメイドで、だいたい2500ペソ(約6000円)。水圧を上げるためのポンプや、電気湯沸かし器を使っているので、同規模の一般的なフィリピン家庭より、やや高いぐらいでしょうか。

ところが先日、自宅に届いた電気料金の請求書を見てびっくり。なんと15000ペソ(約4万円弱)! 家内が貧血で倒れそうになる金額です。何も特別はことをした覚えはないし、30時間以上もの停電があったりして、いつもより安くなりこそすれ、一気に6倍になるなんてあり得ない。メイドのネルジーに話したら「きゃ〜」と絶叫。そりゃ、月給3000ペソだもんなぁ。

早速、家内は、今月と先月の請求書を持って、電力会社セネコ(CENECO)の事務所に駆け込みました。どうやらこれは、よくあることらしく、翌日にはセネコの作業員が二人やって来て、電気メーターを点検。

すると、メーターの中から、黒焦げになったヤモリの死骸が出てきました。しかも、部品の一部が溶けていて、作業員のオっちゃん曰く「最近停電が多かったので、サージ(瞬間的な高電圧状態)があったようです。これはメーターの部品を交換した方がいいですね。」

そこまで言うので、交換もしてくれるのかと思いきや、メーターの修理や交換は利用者負担で、ウチは手出しできません、と冷たい態度。ただ、その後セネコから電話があって、前月と同額の2500ペソで大丈夫とのこと。やれやれ、家内と二人で胸を撫で下ろしました。

ここからがフィリピンらしい展開。家内のママ友の旦那さんが、たまたまセネコに勤めているそうで、家内は、そっちから情報収集。近所で部品を売ってる場所を教えてもらった上に、旦那さんの友達という、電気修理の業者さんまで手配してもらいました。

翌日、自宅を建てる時によく通った、シライ市内の建材屋さんで、購入した部品の代金が200ペソ(約500円)。そんなに安いものだったのかと拍子抜け。さらに部品の交換に来てくれた業者さんは、友達の頼みだからと、工事が終わると工賃も受け取らずに、さっさと帰ってしまいました。

結果的には、大した出費にもならず良かったのですが、高額な電気料金を払わせるのに、金額を決める根本の部分で、こんなに信頼性が低いとは、信じられませんね。我が家の場合、極端に高い請求が来たので発覚したけれど、気づかずに割高な請求額を支払い続けるケースは、たくさんありそうです。


交換したメーター(円筒形の部分)



2016年7月20日水曜日

私的名曲選3 ドナ・クルーズ「Habang May Buhay」


フィリピンの公用語は、英語とフィリピノ語。フィリピノ語とは、もともとマニラ首都圏を含むルソン島南部で話される言語で、日本ではタガログ語として知られています。

第二次大戦後、フィリピンでポピュラー音楽と言えば、もっぱらアメリカの楽曲ばかり。ところが1970年代以降、音楽の世界でも自国の誇りを取り戻そうと、フィリピン人が作詞作曲したフィリピノ語の歌「OPM」(Original Philipino Music)が、爆発的に広がりました。

日本で唯一有名なフィリピンの歌「ANAK(アナック) 息子よ」がヒットしたのが1977年。今ではANAKを歌った歌手フレディ・アギラーは、OPMの父と呼ばれています。

そんなOPMのCDを、私が初めて購入したのは、1995年、出張先のマレーシア。クアラルンプール空港の免税店でジャケ買いしたのが、フィリピン人歌手ドナ・クルーズのアルバム「Habang May Buhay(ハーバン・マイ・ブーハイ)」でした。


内容は全然知らず、お土産代わりに買っただけだったのですが、聴いてみるとこれがなかなか良い。すっかりハマってしまい、会社の行き帰りの車の中で、何度も繰り返し聞きました。ついにはタイトル曲のハーバン・マイ・ブーハイを、暗記してしまうほど。(このエピソードは以前、このブログで少し触れました。)

ところで、当時は、フィリピノ語とマレー語の区別もつかなかった、東南アジア初心者の私。ずいぶん長い事ドナ・クルーズは、マレーシアの歌手だと思ってました。何度目かのマニラで、偶然タクシーのFMラジオから流れていて、やっとフィリピンでも超売れっ子の国民的歌手だと分かった次第。

このアルバム、OPMセールスの記録を作るほどの売り上げで、ハーバン・マイ・ブーハイは、フィリピンでは知らぬ人がいないほど有名な曲。フィリピンのカラオケで歌うと、人気者になれること間違いなしです。

そしてその数年後、今の家内と知り合いました。何がきっかけだったのかは、忘れてしまいましたが、家内が一番好きなOPMがハーバン・マイ・ブーハイだと知った時は、びっくり。その後、一生懸命練習して、デートの時、家内にフルコーラス歌って聴かせましたよ。因みに歌詞の日本語訳は、こんな感じです。(かなり意訳)
Habang May Buhay 〜命の限り〜
あなたのそばにいられるならば
それが続く限りずっと
永遠の命がほしい 
私の命
私の命
すべてをあなたに捧げたい 
私を愛して
それだけが私の祈り
心の中のともし火は、決して消えない 
命ある限り
命ある限り
血潮の流れが絶えるまで
あなただけにすべてを捧げる 
ただあなたのことが知りたい
この世界の隅々まで
私の夢は、あなただけに

当時は、意味も分からず丸暗記で歌ったのですが、内容を理解してたら、ちょっと歌うのをためらったかも知れませんね。 日本語にすると、ずいぶん大上段に振りかぶったラブソング。最近では、聴き飽きたようで、私が歌ってても「シカト」する家内なのでした。


2016年7月19日火曜日

私的名曲選2 布施明「シクラメンのかほり」

前回取り上げた「五番街のマリーへ」に続いて、切ない切ない恋の歌。1975年に発売され、布施明さんの代表作となった「シクラメンのかほり」。これも私の世代ならば、誰もが知る名曲と言えるでしょう。

作詞作曲は、小椋佳さん。「現代の吟遊詩人」と呼ばれるほど、心に深くしみる美しい詩を数多く作られています。ウィッキペディアによると、この曲、ご本人はあまり気にいらなかったそうで、自分ではレコーディングせず、しばらくお蔵入りになっていたとか。

ところが、布施さんが歌って大ヒット。その年のレコード大賞を始め、各音楽賞を総なめに。私の両親も早速レコードを買ってきて、よく聴いてましたね。その影響で、当時中学生だった私は、今でも歌詞を見ないでカラオケで歌うことができるほどです。

それをきっかけに、一時期、小椋佳さんの楽曲にハマり、下手くそなギターを弾きながら歌ったりしてたことも。でも中学、高校の頃には「小椋佳が好き」とは言い出しにく雰囲気が満ちていました。やっぱりクィーンとか、レッド・ツェッペリンのファンの方が、女の子にモテそう。

社会人になってから、すっかり忘れていた「シクラメンのかほり」。意外な場所で再会することに。1995年の11月、仕事で初めて訪れたフィリピンのマニラ。現地法人の日本人マネージャーの方々に、夕食をご馳走になったスペイン料理の店でのことでした。

高級レストランならではの、バンドによる生演奏。日本人ばかりの私たちのテーブルの前で、ギター2本とパーカッションをバック歌い始めたのが、なんと懐かしい「シクラメンのかほり」。それも日本語の歌詞そのまま。

演奏してくれたフィリピン人ミュージシャンたちは、日本語を一切話せず、意味も分からず歌詞を丸覚えだと、歌った後で知りました。でもそんな風には全然聴こえない、感情をたっぷり込めた歌いっぷり。当時は、日本人客が多く、日本語の歌を歌えば、チップがたくさん貰えたんでしょう。

それにしても、この選曲でこの完成度。誰が教えたのかは分かりませんが、素晴らしいセンス。もう30を幾つか過ぎた頃の私でしたが、不意打ちを食らった格好で、不覚にも涙がこぼれてしまいました。

 疲れを知らない子供のように、時が二人を追い越して行く
 呼び戻すことができるなら、僕は何を惜しむだろう

今聴いてみると、久しぶりにこの曲に出会って涙した、30代の前半の時を呼び戻したくなります。齢を重ねるほどに、じんわりと効いてくる歌詞ですね。そう言えば、付き合っていた頃の家内に、この曲の良さを何とか伝えようとして、自分で英訳した「シクラメンのかほり」の歌詞を、ラブレターに書いたりしました。あの手紙、どこへしまったかなぁ?


オフ会@ネグロス島


オフ会、正式には「オフライン・ミーティング」と言うそうですね。10年ぐらい前から、言葉は知ってましたし、実際にミクシィなどで知り合った人との飲み会に参加したことも何度か。この投稿を書くにあたって、言葉の意味をちゃんと調べてみたら、男女の出会いのことが最初に出てきました。やっぱりそっちか。

私の場合は、SNSでもツィッターやブログでも、実年齢は公開してるし、妻子持ちであることもバラしているので、出会い系には最初からコミットできません。だいたい住んでる場所がフィリピンのネグロス島なので、変な気を起こしても、簡単に会いに来てはくれないでしょうけど。

とは言っても、たまに訳の分からないメッセージやコメントもあります。このブログでも一度書いたように、マニラにフィリピンパブをオープンするから来てくれだとか、会ったこともない人にホームステイさせて欲しいと言われたりとか。まともな文面ならば、それなりの対応はするのですが、礼儀も何もあったもんじゃない場合は、即ブロックか完全スルーのポリシーを貫いております。

ブログを書き始めた頃は、そんな困ったメッセージが時々ありました。最近は、めっきりコメント自体がないなと思ってたら、立て続けに二件。それも変な内容ではなく、礼儀も常識もある書き方で「会って話をしませんか?」。つまりオフ会のお誘い。結果から言いますと、お二人ともお会いして、とても有意義な時間を過ごすことができました。

お一人はネグロス島在住の日本人男性Aさん。フィリピン人の奥さんと、ハーフのお子さんが二人。かなり以前から、ブログを読んでいていただいたらしく、近々自宅を建てるかも知れないので、話を聞かせてくださいとのことでした。

ご家族で我が家に来られたAさん。私よりも一回り年配の方で、フィリピン暮らしも大先輩。相談に乗るどころか、こちらがいろんな話を聞かせていただきました。奥さんは我が家のリビングやキッチンをとても気に入って下さり、小学生の子供たちは、息子とすっかり仲良しに。夕飯に作ったカレーも好評でした。

もうお一人も日本人男性で、同じくフィリピン女性を伴侶にするBさん。やはり私より年配の方。こちらは、生活の基盤は日本に残しながら、頻繁に日比を往復というスタイル。もうすぐ最初のお子さんが生まれるそうで、実に幸せそうでした。ネグロス島に、ご家族一緒に住む家を建てるのが夢なんだそうです。

AさんとBさん、ご両名共、ずっと年下の私に対して丁寧な言葉使いをされるし、私が言うのも僭越ながら、夢は語りながらも、地に足の着いた堅実な考え方をされている。何よりも、お二人とも経験豊富で話が面白い。

書き始めて3年近いこのブログ。ネグロス島について日本語による情報の絶対量が、もともと少ないというのもありますが、ネグロスに関心や関係を持つ人にとっては、それなりに貴重な情報源になっているようです。同時に、私にも新しい出会いのきっかけになりました。



2016年7月15日金曜日

私的名曲選1 ペドロ&カプリシャス「五番街のマリーへ」



私の世代(1960年代生まれ)ならば、知らない人はいないと思う名曲「五番街のマリーへ」。1973年の発売で、今は亡き阿久悠さんによる歌詞が素晴らしい。おそらく五番街というのは、ニューヨーク五番街(5th Avenue)からの着想だろうと思います。

実際の五番街は、エンパイヤー・ステート・ビルやロックフェラー・センターなどの超有名な建築物が並ぶ華やかな通り。しかし、歌詞に「五番街は古い街で、昔からの人が、きっと住んでいると思う」とあるので、繁華なところではなく、1970年代のハーレム近辺のイメージだったんでしょう。

この曲を初めて聴いたのは、父が買ってきたペドロ&カプリシャスのレコード。33回転のEP版で、17cmのディスクに4曲収録されていました。「五番街のマリーへ」「ジョニーへの伝言」「イエスタディ・ワンス・モア」(カーペンターズのカバー)「別れの朝」。

まだ小学生だった私ですが、生意気にもこのレコードが大のお気に入り。特に最初の「五番街のマリーへ」に惚れ込んで、カセットにコピーして日に何度も聴いたものでした。

それから二十数年後、私は本物の「マリー」に出会いました。最初の結婚生活に失敗した直後で、今の家内と知り合う以前。人生の谷間のような辛い時期でした。その頃は、東南アジアを中心にした海外出張に明け暮れた日々。

出会った時のマリー、マリー・アン・サンホセは、25歳で、マニラ首都圏のマカティに住む女性。丸くて大きな黒い瞳に、「五番街で住んだ頃は、長い髪をしてた」の歌詞の通りの長い黒髪でした。もっとも、フィリピン女性のヘアスタイルと言えば、昔からロングのストレートが定番。取り立てて珍しいわけでもありません。

フィリピン美人と聞くと、スペインの血が入ったメスティーソかと思う人も多いけれど、マリーは、どちらかというと中国系の顔立ち。時々ベトナム人に間違えられることも。童顔で「愛くるしい」という形容がぴったりくるタイプでした。今だったらMNL48(フィリピン・マニラで活動予定のAKB48の姉妹グループ)のセンターを取れたかも知れません。

見かけは、ティーンエイジャーのようだったマリー。実は3歳になる娘を持つシングルマザー。父親は、やっぱり日本人だったそうです。妊娠が分かった途端、マリーの前から姿を消しました。あまりにもお決まりのパターン。

アホのように真面目だった当時の私は、本気でマリーと結婚し、その娘も自分の子供として育てようかと、どこまでも直線的に悩みました。離婚の痛手、仕事の重圧、さらに自分で背負い込んだ苦しい恋愛。最初の「抑うつ状態」に陥ったのもこの時期です。

そして結局、出会って1年半ほどで、国際電話でマリーにさよならを言う羽目に。あのまま続けてたら、私は、精神的に持たなかったでしょう。電話口で泣きじゃくるマリーの声は、今でも耳から離れません。最後まで歌詞の通り「悲しい思いをさせた」結末に。

「五番街で噂を聞いて、もしも嫁に行って、今がとても幸せなら、寄らずに欲しい」
小学生の頃には、漠然としか理解していなかったこのフレーズ。最近になって、痛いほど胸に迫ります。

「五番街は近いけれど、とても遠いところ、悪いけれどそんな思い、察して欲しい」
今住んでいるネグロス島シライからだと、マニラまでは飛行機で、ほんの1時間の距離。でも20年もの時が隔てる、遠い遠いところになってしまいました。


高層ビルが林立する現在のマニラ首都圏マカティ市
出典:PILIP TOURS


2016年7月13日水曜日

朗らか乙女 ネルジーの受難

このところ少し重たい投稿が続いたので、今日の話題は、久しぶりにメイドのネルジー嬢のこと。我が家の住み込みメイドとしては、三代目になるネルジー。過去の二人、カトリーナとアミーは、まるで申し合わせたように、ちょうど半年過ぎたタイミングでいなくなってしまいました。カトリーナは家内が解雇、アミーは正月の帰省でそのまま失踪。どちらも後味の悪い結果に。

いよいよネルジーも後三週間ほどで、半年目。最初は本当に顔見知りの恥ずかしがりだったのが、今では嘘のよう。英語がイマイチなのは相変わらずですが、地元の方言イロンゴ語で家内と会話してる時など、何がそんなに面白いの?というほど、終始笑いっぱなし。

「箸がコケても笑う」女子高生のごとくです。声だけ聞いてると、かなりハイ・キーなので、高校生どころか小学生の息子の友達が、遊びに来てるみたい。

その上、家内のことを「マム」(奥さま)ではなく「タ〜」と呼ぶ。これはフィリピンで、年上の女性に話す時の、親しみと敬意を込めた呼び方「ティタ」を縮めた言い方。例えば姪っ子が叔母に話しかけているような感じ。日本語の「おばさん」や「おばちゃん」に近い意味ですが、年齢を揶揄するようなニュアンスは、まったくありません。

以前の二人とは、ほとんど接触がなかった息子も、ネルジーとは仲良しになったようです。食事時には、台所で忙しくしているネルジーの腕を引っ張って、一緒に食べるよう食卓まで連れてきたり。ネルジーもそれが嬉しいらしく、息子が寄ってくると満面の笑顔です。前に働いていた家の子供は、ネルジーを叩いて泣かせるほどの乱暴者。よほど落差が大きかったんでしょうね。

こういう調子なので、私たち家族との関係は、とても良好。今回ばかりは半年で辞めるような気配は、微塵もありません。唯一の問題は、ネルジーの体調。

びっくりするほどの少食ネルジー。最近では、かなり食べるようになったとは言え、それでも24歳の女性にしては、食べる量は少ない。そのせいか、たまに丸一日寝こんだり。大抵、生理が始まる時期にツラくなるようです。

数日前も、朝からベッドに横になったまま起きられない。またいつもの体調不良かと思いきや、今回は耳の具合が良くないとのこと。「耳に水が入ったみたいで、気持ち悪いんです。」それは、初めて聞く症状ですね。大丈夫かいな。

結局二日も寝込んでしまい、三日目の昼過ぎ、お姉さんと一緒に近くの診療所に行くことに。出かけてから約五時間、薄暗くなって、そろそろ夕飯の支度に取り掛かろうかという頃に、トライシクル(輪タク)で帰宅したネルジー。すっかりいつもの「朗らか乙女」に戻っていました。

どうだったのかと聞くと、「耳掃除して、耳垢をいっぱい取ってもらったら、良くなりました〜。」 自分で自分のことが可笑しかったのか、大笑いしながら話してくれました。お医者さん慣れしてないので、耳掃除中、緊張のあまり息もできなかったとか。

昔、寝ている間に耳の中にゴキブリが入ってしまい、かなり大事になったことがあるそうで、それ以来、自分の耳の中を触るのが怖くなってしまった。だからと言って、もう大人なんだから、耳掃除ぐらいしなさい。

それにしても、実に愛すべきキャラクター。今度という今度こそ、せめてお嫁に行くまでは、ウチで働いてほしいものです。


家内と庭の手入れをするネルジー


2016年7月12日火曜日

歴史を学ばない国の未来

ここ最近、私たちの住むネグロス島の、シライ市内で活動する日本のNGOに参加したり、近隣の州都バコロドに短期英語留学に来ている、若い人たちと接触する機会が増えました。一緒にテニスを楽しんで、その後、自宅に招いてお昼を食べて、時間があればDVDで映画を見たり。

映画の内容は、日本語のものか、洋画でも日本語の字幕付きで、当然ながら私のコレクションの一部。私の好みなので、どうしても歴史物や戦争物が多くなります。特に第二次世界大戦を舞台にした映画。

ところが大学生ぐらいの人と映画を見ていると、時代背景をある程度説明してあげないといけません。これは少々愕然としたのですが、その戦争が第一次大戦なのか第二次なのか? 戦っているのは、どの国の兵士なのか? 私にとっては常識と思っていたことが、分からない。

我が家に来てくれた学生さんは、どの人も礼儀正しく、社会常識はちゃんと身につけた人ばかり。特別変な人たちという訳ではありません。いろいろ話を聞いてみると、どうやら高校で、歴史をきちんと勉強していない。

確かに私が高校生だった30年以上前から、高校の歴史教育、特に日本史はひどかった。何がひどいって、一番重要な近代以降、日本で言うならば明治維新以前に学年が終わってしまい、時間切れで教えられないなんてアホな事が、日常的に起こっていました。

最近ではさすがにこれはイカンと思ったのか、日本史AとBに分けて、近代だけAで教えているそうですが、大学受験に関係なくて履修しないこともあるらしい。いや、それはダメでしょう。

グローバル化が必要と言われて久しい日本。実際私が仕事をして海外に出た時や、国内でも日本人以外の人と仕事をした時に痛いほど感じたのは、自分の国の歴史や文化を、ちゃんと自分の言葉で語れることの大事さ。例えばシンガポールでは「私たちの国は、かつて外国の植民地になってしまったのに、なぜ日本は明治維新を起こすことができたのですか?」と真面目に質問されたことがあります。

これが「自分の国の歴史も知らずに恥ずかしい」ぐらいのことならば、もう一度ネットで調べてでも勉強しておけばいいのでしょうが、どうも自国の歴史の知識不足が、政治への無関心につながっているのではないかと思えてなりません。今自分たちが生きている時代に、直接つながる経緯の知識が欠落してたら、そうなっても仕方がない。

フィリピンの場合、つい最近、それこそ私が高校生だった頃に、マルコス独裁という苦い歴史を経験しています。私の家内など、ピープル・パワーと呼ばれる革命運動に参加した経験も。このブログで何度か触れた、フィリピン人の政治への熱心さは、そんな生々しい過去や、300年以上に及ぶスペインの支配、さらにそれに続くアメリカ、日本による占領という、辛い民族の記憶があるからなのでしょう。当然、子供たちには、きちんと教育をしています。

今回の参議院選挙。憲法の改正に進むべきかどうかという、とてつもなく大事な争点があったはずなのに、相変わらず50%台の投票率。私は、与党による改正案、特に気になっている「第9章 緊急事態の宣言」を家内に説明してみたら、「それは、マーシャル・ロー(戒厳令)のことや!」とただちに理解。マルコス時代に、フィリピン国民が苦しめられましたからねぇ。

この選挙の結果で、日本が三十数年前のフィリピンのようになると決まったわけでもなく、実際には憲法を改正するとなったら、いろんな改正案が出て、それなりの議論が為されるのだろうと思います。ただ、どの道を進むにしろ、もうすぐ11歳の誕生日を迎える私の日比混血の息子が、成人する時に胸を張って「日本国籍を選ぶ」と言える国になっていることを、切に願わずにはいられません。


2016年7月6日水曜日

日本人の面倒臭さ

移住するずっと前から、時々私は「日本人離れしている」と言われてきました。例えば、誰かの講演や何かのセミナーで、質疑応答の時間になった途端、真っ先に質問をする。また、教会のミサなどで、座席がずらりと並んだところで、一番前に座る。会社の会議で、回りくどい発言に対して「で、何が言いたいんですか?」と突っ込む。

私にしてみれば、それほど変わった行動だとは思わない。お金を払ってわざわざ誰かの話を聞きに来ているのに、何も質問しないなんて勿体ない。前に席が空いているのに、前から詰めずに、わざわざ後ろに座るのも意味が分からない。時間の無駄遣いして理解不能の発言している人に真意を確かめて、会議時間の節約するのが、いけないことか?

万事そういう調子だったので、「KY」などと言われると、本気で怒ったり。周囲からは面倒臭い奴と思われていただろうし、私自身も窮屈で仕方がない。私の母親という人もこんな感じで、嫌なものは嫌、おかしいことはおかしいと、相手が誰であってもはっきり言ってしまう。それでずいぶんと敵を増やしていたようです。こんな母親の最初の子供として生まれたせいか、その影響を思いっきり受けてしまいました。

周りの雰囲気を過剰に察して、自分の言動を規制する。だから日本の大企業では、物事を決めるのが異常なほど時間がかかるし、いざ決まってみても、誰が責任を持って決定をしたのかが、本当に分かりにく。これは最近の話だけではなく、有名なところでは、先の世界大戦への日本の参戦を決めたのが、結局誰だったのが分からないらしい。

これに加えて、日本人は細かいことを気にしすぎる。誰かが言ったことの言葉の端々まで気を遣い、それを気に病んだり、ちょっとした言い方に腹を立てたり。これは自分自身がそうなので、余計に嫌になってしまいます。しかも、直接顔を合わせての会話だけでなく、ネット内では、これがより拡大されてしまう傾向が大きい。

そこへ行くと、フィリピン人相手の付き合いは、実に気楽。たまたま私の周囲に、そんな人しかいないだけかも知れませんが。ちょっと考えてみても、根に持ったり、誰かの言ったこと(書いたこと)に、いつまでもネガティブな感情を抱いたりする人って、本当に見当たりません。だいたい楽観的で、先のことをあんまり本気で心配する人が少ないしなぁ。嫌なことはすぐ忘れ、将来のことを思い悩まない。

これがあまり極端なので、初めてフィリピンに来た日本人には「雑」としか見えないことも。それでも私は、胃を痛くするような「気遣い」より、はるかに居心地がいい。
今、気がつきましたが、「きづかい」と「きづかれ」って一文字しか違わないんですね。


一時帰国で買ってきた日比の国旗




2016年7月5日火曜日

シライ市大停電

度々このブログで取り上げている、フィリピンの停電。実は、この投稿を書いている今、私たちの住むネグロス島のシライ市は、24時間以上に及ぶ停電の真っ只中です。

発生は一昨夜の未明、午前3時前。変圧機がぶっ壊れてしまったそうで、シライ市の人口密集地、市域のおおよそ半分への送電が停止しました。当然大多数の人は就寝中で、私たちも停電に気付いたのは、起床後の朝5時半。

フィリピンで「ブラウンアウト」と呼ばれる小規模停電は、よく起こります。数ヶ月ぐらい大丈夫でも、起こるとなると一週間ぐらい連日というパターン。今回も数日前から、ほとんど毎日2〜3時間、不定期の停電が頻発していたところでした。

しかし、これほど長くて広域に及ぶ「ブラックアウト」は、3年前の超大型台風ヨランダの影響で大被害が出た時以来。あの時はまる二日間も停電。それに懲りて、昨年は発電機を購入したので、多少の騒音と給油の手間さえ気にしなかれば、電気が止まっても日常生活には何も変化はありません。

その発電機、朝から晩まで運転したのは、購入後初めて。夕方頃に一度止めて給油したものの、1日での運転時間の記録ができてしまいました。今は雨季で、それほどの暑気もなく、昼間は電気がなくてもあんまり大きな問題はないのですが、冷蔵庫だけは長時間止めてしまうと、食中毒の原因になったり。また電話は繋がってもルーターが停止するので、インターネットも使えません。

今回は、本当にずっとなので、途中シャワーで給湯器を使ったり電子レンジも使いました。その度に発電機の回転数が「ぶぅ〜ん」と音を立てて上がるのが分かります。やっぱり電熱系は消費電力が大きいんですね。家内は、発電機が壊れやしないかと、心配ばかり。

さて、ここまで書いたところで、ようやく電気が復旧しました。結局30時間に及ぶ大停電。電力会社のCENECO(セネコ/ネグロス島の電力供給を管轄)のホームページによると、変圧器そのものを交換したそうです。こまめにメンテナンスせず、ぶっ壊れるまで使って、壊れてから慌てて総替えというのも、フィリピンらしい。

日本ならば、災害があったわけでもないのに、これだけ市街地で電気止めたら、電力会社の責任問題になって、損害賠償やら何やらの大騒ぎになるのは必至でしょうね。記者会見で、経営責任者がテレビカメラに向かって、一斉に頭を下げる構図が思い浮かんでしまいます。

ところが、我らがシライ市民。今朝の通勤通学の様子を見ても、普段と何も変わらず。当たり前のように1日が始まってました。なるほど、フィリピン人の忍耐強さって、こういう具合に培われているのか。


電気はなくても朝は来る
久しぶりによく晴れて涼しいシライ市



2016年7月3日日曜日

台風が来ない今年のフィリピン



私たちがフィリピンに移住した2013年から、昨年2015年までは、毎年ほんとうに台風が多かった。特に2013年には、上陸した台風の中では史上最強・最悪の台風30号がフィリピン中部を直撃。私たちの住むネグロスの近隣、レイテ島の州都タクロバンをはじめとして、高潮により壊滅的な被害を出したのは記憶に新しいところ。

2014年など、年の瀬に台風が来たりして、年中台風シーズンの様相を呈してました。ところが今年2016年は、6月が終わっても台風が一つも来ない。本日7月3日付けで、やっと台風1号発生のニュースが。

太平洋上で発生する台風は、ご存知のように、日本の気象庁は番号で呼んでいます。ところがアメリカ統治時代の名残なのか、フィリピンでは、フィリピン周辺に接近した台風のみ、独自のフィリピン名を付ける習慣です。例えば台風30号は、フィリピン名「ヨランダ」。偶然にも、義母の名前が付いてしまった。

ややこしいことに、これとは別に東〜東南アジア、南太平洋、アメリカなどの15か国で、持ち回りで国際名をつけているそうで、ヨランダは「ハイエン(海燕、中国名)」と命名されています。そういうことで、今年の1号台風は、「ニパルタック」となりました。フィリピンから遠く離れているので、フィリピン名はまだ無し。(その後「ブッチョイ」と命名されました。)

今年のフィリピンの真夏(乾期)は、例年になく長くて暑く、3月から5月は旱魃状態でした。いくら乾期と言っても、台風が接近すれば雨は降るもの。その台風が一つも来なかったのだから、旱魃になるのも当然ということなんでしょう。ネットによると、これはエルニーニョの影響で、太平洋高気圧が強すぎて、台風ができにく状態になっていたんだとか。

毎年フィリピンに、そして日本を含めた周辺諸国にも、大きな被害をもたらす台風。それが減るのはいいことのはずなんですが、半年も全然ないという極端なことになると、それはそれで悪影響も出てくる。そして、来なかった分、今度は強烈なのが来るんじゃないかと、いらぬ心配までしてしまいます。



2016年7月1日金曜日

家族でセルフィ 大統領就任式


出典:philstar

昨日6月30日、フィリピン第16代の大統領に、ロドリゴ・ドゥテルテ氏が就任しました。マラカニアン宮殿で行われた式典は、事前の通告通り国営放送とネットだけのライブ配信という異例のスタイル。

シライ市内でも、朝から市役所前の広場で花火が打ち上げられ、学校は休みにならなかったものの、終日祝賀ムード。雨季真っ只中で、時折降る雨の中、深夜までカラオケ大会やら野外ディスコで盛り上がりました。

式典は、お昼時を挟んで行われ、我が家でも家内とメイドさんがテレビの前に釘付け。私もお弁当や昼食の準備の合間にチラチラと観てました。ちょっと意外だったのは、想像してたよりもはるかに厳粛なムードだったこと。人口1億に迫ろうかという国の、大統領が就任する儀式なので当たり前なんですが、フィリピンでの公式行事というと、何となくだらし無く、私語が多かったり列がバラバラだったりという印象が強かったもので...。

式典の最初から最後まで、きちんと見たわけではないけれど、パッと見では、カトリックのミサのようでした。儀仗兵を前にした前大統領アキノ氏の退任と、それに続くドゥテルテ氏の宣誓は、型が決まってるんでしょうね。ミサの中で司祭が、聖餅や聖杯を決まった所作で扱うような美しさがありました。


出典:ABS-CBN News

式典のクライマックスは、カトリック司祭による祈り。まさしくミサそのもの。「我々が選んだ、新しい指導者をお守りください」という意味だったようです。その後、最高裁判事を前にしての宣誓。誠に古めかしいことながら「大命降下」なんて言葉を思い出してしまいました。

中でも一番記憶に残ったのは、国歌斉唱。十名程度の混成合唱のアカペラ。最近は、パッキャオの試合前に国歌のアカペラ独唱が定着した影響でしょうか? これが実に良くて、聴き惚れてしまいました。まさに音楽大国フィリピンの面目躍如。

さらにフィリピンらしいと思ったのは、式典後フェイスブックに投稿された写真。出席したドゥテルテの家族が、新大統領の姿を背景に自撮り。なんぼフィリピンでもこれはアカんやろ〜という気もしますが、考えようによっては、こういう人が政治のトップにいるのは、安心できることなのかも知れません。