2025年7月1日火曜日

7名死亡の大事故発生


出典:Negros Now Daily

 7月の投稿は、たいへん痛ましく残念な話からになってしまいました。

先週の金曜日(2025年6月27日)、我が街シライの市役所職員を乗せた車が横転し、7名が死亡19名が負傷するという、私が知る限り、シライ史上最悪の交通事故が発生。事故現場は、市役所から山間部へ通じる幹線道路で、山の中腹とは言え見通しの良くそれほどの急坂でもない場所。しかも晴れた午前中なので、最初に聞いた時は「なぜ?」というのが率直な感想でした。

第一報では、トラック絡みの事故とのことで、てっきり市の職員はマイクロバスに乗っていて、猛スピードのトラックと正面衝突でもしたのかと想像しました。ところが実際は、職員が乗っていたのがトラック。しかも本来、人が乗ってはいけない荷台に、30名近い人が立ったまま乗車していたらしい。さらに運の悪いことに、途中でブレーキが効かなくなり、コントロールを失って横転。

おそらく、よほどのスピードが出ていたんでしょうね。事故直後に報道された写真を見ると、亡くなった方々は、道路に叩きつけられたように横たわり、ムシロの代わりにバナナの葉が被せられていました。

まず、これだけの大人数をトラックの荷台に乗せて山道を走るなんて、日本では考えられない状況ですが、フィリピンではよくある話なんですよ。一般的に交通安全への意識が低すぎる。例えば、軽トラや中型トラックの荷台に人を乗せて走るなんて日常茶飯事。さらに驚くのは、バイクに家族4〜5人で乗ってたりする。これがサイドカータイプのトライシクルじゃなくて普通の二輪。お父さんが運転して、前に4〜5歳ぐらいの子供、後ろには赤ちゃんを抱いたお母さん、みたいな要領で。

こんな危険運転が普通なので、いつも「これは事故ったら大惨事やろなぁ」という思いでした。まさにその危惧が現実になってしまったわけです。

なぜ平日の昼間に、市の職員が大挙して山間部へ向かっていたかと言うと、これは定期的に行われている、市が主催の植林事業の一環。フィリピンというと、どこも緑豊かで、熱帯雨林に覆われているイメージですが、実は7〜8割、下手すると9割が伐採されてしまい、危機的な森林破壊が進行してるのが実態。このため山の保水力が低下して、土砂崩れなどの災害が多発。海では、かつて沿岸部に広がっていたマングローブの森も同じ状況になっています。

「アジアの病人」と揶揄されていた1980〜90年代を経て、今世紀に入った頃から経済成長著しいフィリピン。さすがに懐に余裕が出てくると、これまで放ったらかしていた環境破壊にも目が向くようになったのか、2000年代になってからは、あちこちで植林して緑を取り戻そうという機運が盛り上がってきました。

ここネグロス島のシライでも、一時期日本のNGOが協力もあって、今では市役所独自で植林運動を行なっています。まぁ元はと言えば、高度経済成長時代に日本への輸出用に樹木を切りまくったのが発端なので、ちょっと遅すぎる罪滅ぼしみたいなものですが。

そのような、より良きフィリピンの将来を作ろうという活動の途中で、こんな事故が起こるとは、まったく悲しい限り。目的は何であれ危ないことを続けてたら、いずれ事故になるのは、単に確率の問題でしかなかった。

さて、日本人的発想ならば、これから事故の責任追求が始まるところ。市役所の管轄部署の部課長や、場合によっては市長まで首が飛んでも、まったく不思議ではない。ところがフィリピンの場合は、そうはならないでしょうね。トラックの運転手には何らかの刑事罰があるかも知れませんが、役人が責任を感じて辞任するなんて光景は、下はバランガイ(町内会)から上は国政に至るまで、少なくとも私は見たことがありません。

おそらく被害者やその遺族への補償も微々たるもので、そもそも保険に入っていたかも疑わしい。ちなみに家内の弟、つまり義弟は市役所の職員で部長クラスの管理職。直接知っている方が亡くなっているそうです。

細かいことに拘らない大らかさは、この国に暮らす上での大きな魅力とは言え、人命にかかわる事へのいい加減さ、雑なところだけは何とかならないものかと思いますね。差し当たっては、息子に「友達に誘われても、トラックの荷台に乗ったりするなよ」と諭すことぐらいしかできませんけど。



2025年6月30日月曜日

箸でカレーを食べる高齢両親

 今年の3月に再び我が家にやって来た、もうすぐ90歳の高齢両親。今回は12月初旬まで滞在予定で、その半分ぐらいの日程が終わりました。

両親のためにわざわざ建てた2LDKの一戸建て。その値打ちが発揮されてる感じで、すっかり生活も安定した今日この頃です。相変わらず半分寝たきりの母ですが、食事の時には自分の足で歩いて母屋にやって来ます。特別にお粥などの流動食は用意せず、もうすぐ20歳の息子(つまり母にとっては孫)と同じ献立を、88歳という年齢の割には、毎食きちんと食べています。

それに比べて父はかなり元気で、暇つぶし用に日本から持って来た、大きなジグソーパズルに取り組む毎日。日に一回は、家の周りをややよたつきながらも歩行訓練。相変わらず照明や扇風機の消し忘れはあるし、窓全開でエアコンを回すスカタンはやりながらも、一応の意思疎通はできている。

ただ、二人ともアルツハイマーの兆しが出ているのは間違いなさそうで、食事時のふとした行動に違和感を覚えることもしばしば。最近気になってるのは、なぜか頑なにスプーンを使わないこと。明治や大正ではなく、ギリギリとは言えレッキとした昭和二桁生まれの両親。子供時代から普通にスプーンやフォーク・ナイフは使ってた世代だし、それしかなければ、今でもそれで食事はします。

ところが、フィリピン式の食事作法に則ってスプーンとフォークを並べると、なぜかフォークだけで食べようと頑張ってしまう。私はよくチャーハンを作るんですが、まるで親の仇のようにフォークだけしか使わない。それでキレイに食べられれば良いんですが、案の定、食後の皿にはご飯粒がポロポロ残ってる。「スプーンの方が食べやすいやろ?」と言うと、スプーンを使うものの、翌日にはネジが巻き戻るように元の木阿弥。

別に残したって構わないんですが、かつて弁当箱の蓋の裏に、ほんの少し米粒を残したら、烈火の如く怒った母なので、子供の立場としては、なんだか悲しくなってしまいます。おそらく認知能力が下がっただけでなく、目もよく見えてないんでしょう。

父に至っては、カレーを箸で食べようとする始末。もちろんカレーだけなら箸は出しませんが、たまたま野菜サラダも作ったので、箸の方が取りやすいかとの配慮の追加。ところが一旦箸を持ったら、食べ終わるまでスプーンには触るものか!みたいな勢いです。そして食べ終わった後の皿は、ものすごく汚い。変なところだけ、一般的なフィリピン人に似てしまってますねぇ。(ちなみにフィリピンでは、食べ終わってお皿がきれいな人の方が珍しい。)

まぁ、多少食べ方が汚くても、私の作る料理が口に合ってるようで、食事前は、10分か15分も前から、食卓のある母屋の部屋が見える場所で「メシはまだか」とばかりに待機状態。何だか、親子の立場が逆転しちゃったみたいです。

と、衰えてしまった両親をあげつらうような書き方をしてしまいました。しかし車椅子が必要で、毎回弟が付き添いをしながらも、飛行機に乗って外国のフィリピンまで来るだけでも、年齢を考えればずいぶんと活動的。気候への順応力も大したものです。英語は二人とも全然ダメで、父など1970年代にはオイルショックの煽りで、ドバイで出稼ぎ労働してたのに、結局英語はモノにならなかった。それでも掃除や洗濯してくれるメイドのおばさんには、分からないながらも優しく対応。これは面倒を見る側にすると、たいへん助かる。

最近つくづく思うのは、介護移住という観点では、フィリピンの地方って本当に適地。住む場所もそこそこ広くて、完全ニ世帯住宅(狭い敷地に上下で分けるのではなく、別棟を建てられる)も可能。メイドさんや介護士も、必要なら住み込みで雇えるし、寒い冬もない。

ということで、これから親の介護に直面しようという、私と同世代の人々へ。フィリピンへの介護移住は、真面目に選択肢の一つとして検討するに値しますよ。


フィリピンで教える難しさ

 ぼやぼやしてたら、あっという間に今年も半分終わり。もう6月の30日になってしまったので、駆け込みで何本か投稿します。

まずは先月(2025年5月)から始めた、オンラインでの日本語教師。なれない教職で、かつ生徒がフィリピン人。難しいことはあるだろうと予想はしてたものの、やっぱりいろいろ起こってます。

本来は、日本での就職希望者を募って、20人ぐらいに対面授業をする計画で、隣街の州都バコロドに小ぶりながら学校まで建設中。日本在住のフィリピン人経営者で、私の10年来の友人でもあるダイアナ女史が、かれこれ1年ぐらい前に声をかけてくれて、今の仕事をしているわけです。日本とフィリピンを往復して頑張っているダイアナなんですが、これが、なかなか順調...というわけには行きません。

学校の工事は遅れまくってるし、何社かある、交渉中の日本のクライアントとも、話がまとまりそうでまとまらない。ようやく動き始めたのが、ダイアナの知り合いで、日本で小さな会社の管理職をしている、某フィリピン女性からのオファーによる今の仕事。彼女の親戚でマニラ在住の20代女性に、日本での仕事を手伝ってもらうということで、それに先立って、基本的な日本語を教えてほしいという内容。

記念すべき私の生徒さん第一号は、日本語会話経験がほぼゼロ。私はフィリピンの言葉はイロンゴ語(私が住む西ネグロスの方言)しか解さないので、当然のように、英語で日本語を教えております。まぁ、それは大きな問題ではないんですが、困ったのは、この生徒さんの学習モチベーションの低さ。

もう半年もしないうちに、日本に渡って仕事を始めるというのに、予習・復習はしてくれないし、平仮名すら、まったく覚えようとしない。平日は自宅からマニラの職場へバス通勤で、オンライン授業は帰宅後の7時半から。朝も早いので、この時間には疲労困憊なのは仕方ないですが、ちょっとこれはマズいんじゃないか?

教科書は「みんなの日本語」を使っていて、これは版を重ねた初心者向け日本語教育のバイブルのような本。内容は充実しているものの、最低でも平仮名と片仮名は読める人向けに作られているので、毎回の授業では、アルファベットでルビを振った教材を、用意しないといけません。これが相当な仕事量。今回だけお終いではなく、今後も使い回しができるとは言え、今もらってる給料とは、とても釣り合いません。

なのでこのままでは、労力だけかかって、半年たっても片言レベルにしかならない。危機感が募り、ほぼ私に仕事丸投げ状態だったダイアナに「これヤバいよ」と伝えました。その回答が「大丈夫、仕事でほとんど日本語を使わないから」。何じゃそりゃ〜。

日本での仕事というのは、日本へのフィリピン商品の輸入関連。職場では基本英語だけだし、小売のお客さんは在日フィリピン人がほとんど。こちらはタガログが喋ればそれでOK。日本語は、買い物や交通機関での移動など、生活で必要な最低限の日本語ができれば良いらしい。生徒さん本人もそういう意識。そういう大前提は、授業が始まる前にしてくれよ〜。

ただ、そういった学習意欲の問題だけでなく、フィリピンあるあるの「今日は頭が痛いから」「飼い猫の具合が悪いので獣医に行きます」「大渋滞で時間までに帰宅できません」などなど、言い訳オンパレードで、やたら欠席が多い。どれも嘘ではないようなんですが、それにしても、ちょっと休み過ぎですねぇ。

そして極め付けが「ネットが死んでて授業受けられません」。この投稿を執筆中の6月末日がこの状況で、かれこれ1週間もネット不通。これは実際フィリピンのネット事情からすると、まさに「あるある」で、広範囲のネット障害も頻繁だし、今回のように特定の回線だけ不通になることも、実によくある。キャリアに連絡しても、何日も修理に来ないし、来ても「原因不明」で何の対策もなく業者が帰っちゃったり。我が家もこれが原因で、キャリアを替えましたから。

ということで、一体いつ再開できるのか見通しが立たないまま、7月を迎えようとしております。


追記:と書いた直後にWiFiの修理が終わったとのことで、久しぶりの授業がありました。大雨で帰宅が遅れて短縮授業の上に、隣家のパーティでカラオケ騒音がすごかったですけど。



2025年6月6日金曜日

フィリピンの大学で奨学金


「サクラサク」ならぬ「カエンジュサク」
の季節のフィリピン

「結果が分かり次第、報告します。」と書いてからすでに1ヶ月強。本日(6月6日)早朝、やっと息子が受験したセント・ラ・サール大学から、奨学金受け取り許可の連絡が来ました。それも郵送や電子メールでさえなく、該当者の名前をフェイスブックのホームページでシェアするという方法で。

合理的だし間違いが少ないし、FB普及率は九割以上の、いかにもフィリピンらしいやり方なんですが、同じこと日本でやったら、確実に炎上案件でしょうね。

それはともかく、まずラ・サール大学の合格は数週間前に分かっていて、息子が言うところの試験の感触からは、おそらく問題なしと思っていました。なので、飛び上がって大喜び...ではなかったものの、今日の奨学金に関しては、学費を支払う側からすれば相当嬉しい。そりゃそうでしょう。一時はマニラで一人暮らしの支援まで覚悟してたのが、バスで通える近場の大学に無料で通えることになったんですから。

しかも私たちが住むシライ市では、先月2選を果たしたガレゴ市長の政策で、シライ市内から隣市のタリサイやバコロドの学校に通う学生のために、無料送迎バスが運行されてます。これは本当に助かります。

これで昨年8月のフィリピン大学を皮切りに、4校の受験と最後の奨学金まで全勝でパスした息子。まぁ本当にたいへんなのは、大学出てからなんでしょうけど、親の責任範囲でここまで好成績なのは、素直に喜び、褒めるべきところ。この週末は、ちょっと美味しい晩御飯でも作りましょう。

さてここからは親馬鹿モード全開で失礼します。

この奨学金の難度なんですが、新入生が約1,000名に対して、受け取ることができるのは息子を含めて60名。奨学金のために別のテストがあったわけではなく、高校での成績がトップ数名に入っていて、入試の成績が優秀なことが条件。さらに最終考査は一人一人に面接となります。そのために先週、大学の先輩でもある、息子の従兄アンドレの運転する車で、ラ・サール大学に面接を受けに行ってました。

「うちは貧乏やから、奨学金がないと大学行けないんですぅ」と言ってこいと冗談を飛ばしてたものの、もちろん質問内容はそっちじゃなかったと思います。おそらく学業に対する意識の高さの確認みたいな事だろうと推測。もちろん受け答えは英語なので、それは息子の得意分野。帰宅後「たぶん大丈夫」との言葉通りとなった次第。

そして前回も少し書いたように、学びたいのはコミュニケーション。当初は言語学に興味があると言ってたし、フィリピン大学もガチの言語学専攻にトライだったのが、最終的に選んだのが、同じ「コミュニケーション」でも、商業寄りな分野。映画やテレビ、印刷媒体について学ぶんだとか。「で、何の仕事をしたんや?」と訊いたら、コンピューターゲームの製作者になりたいとの返事。つまり、何らかのエンターティンメントを作る側に行きたいらしい。

本人はマインクラフトから入って、多少のプログラミングはできるようで、そこからコードがりがりのプログラマーより、もうちょっと全体を俯瞰する立場を狙ってるということか?

まぁ、大学に入る時の希望と実際の就職では違っていて当たり前で、それはこれから息子がどんな人や世界と出会うかで、まったく変わってくるでしょう。かつてアートを目指して芸大に入ったけど、工業デザイナーとして家電メーカーに就職した私なので、その辺りは楽観的に眺めております。

何をやるかも大事なんですが、それよりも私の関心事は、どこで働くか。そもそも国外に働きに行く事自体のハードルがめちゃくちゃ低いフィリピン。むしろ、自国内で待遇の良い職場を探す方が難しいぐらい。それなら英語はできて、専門能力さえあれば、英語ベースの外国の方がはるかに良い暮らしができて、面白い仕事もできる。

極端な人物がリーダーになってしまい、移民に対してひどい対応を始めたアメリカは別としても、シンガポールやオーストラリア、ニュージーランドに中近東などなど。中近東で労働と聞くと、肉体労働者やメイドを思い浮かべがちですが、数は少ないながら、企業に就職して管理職に就くフィリピン人もいる。何を隠そう我が家のご近所さんは、サウジアラビアでボーイング社の部長だった人で、数年前に定年退職して悠々自適の暮らしをしてます。

何なら日本語マルチリンガルの能力を生かして、日本の外資系企業で働くという手もある。

ということで、先走った馬鹿親の皮算用になってしまいましたが、大学の4年間って本当に楽しい時期。新学期は周囲の公立校より少し遅めの7月1日からで、まずは、いろいろと満喫してほしいものです。



2025年5月29日木曜日

家庭教師バンビ 奇跡の人生大逆転

 フィリピンの総選挙や私の日本語教師デビュー、そして向かいの家の騒音で揉めた5月も、あっという間に残り数日。私の引退生活では珍しく、かなりの多忙感がある1ヶ月でしたが、最後はちょっとハッピーな話題を。

2021年の12月からなので、かれこれ3年半も私のイロンゴ語の家庭教師をしてくれているバンビ。現役の高校教師で、家庭の事情や病気などで教育機会を逸してしまった生徒さんへの、出張授業を専門とするALS(Alternative Learning System)の専任者。加えてギターやピアノが弾けるので、所属するプロテスタント教会では、讃美歌の伴奏したり行事のスタッフになったり。その忙しい合間を縫って、週一回、私の家で2時間のイロンゴ・レッスンをお願いしてます。

そんな彼女も不惑を過ぎて、体調にいろいろ問題が出てくる年頃。生理不順で、時々とてもしんどそうにしてましたが、昨年末、勤務先の教育省シライ分室にて、大量の不正出血。救急車で病院に搬送されるほどで、そのまま数日間の入院となってしまいました。クリスマスには、バンビの生徒さんと一緒にクリスマス・キャロルを歌おうという計画もすべてキャンセル。ようやく職場に復帰して、私に家に来てくれたのは、その数週間後でした。

バンビの不運はこれだけではありません。数年来シライ市内で同棲していた彼氏との関係が破綻。聞くところによると、この男性は既婚者でマニラに妻子がいるんだとか。バンビは辛抱強く、彼が結論が出すのを待っていたんですが、優柔不断な態度を続ける彼に嫌気がさして、とうとうお別れになったそうです。

それだけでなく、職場でもいろいろ問題が発生。仕事の内容にはいつも真面目に取り組むんですが、どうも時間や予定のマネージメントが不得手。イロンゴ・レッスンもよく遅刻したり、直前になって別の日に変更になったり。まぁバンビに限らず、フィリピンあるあるとは言え、おそらく体調不良とも重なって遅刻が続いたんでしょうね。上司との関係がかなりこじれちゃったらしい。

なぜそんなことまで分かるかというと、バンビは教育省で働く家内の職場の同僚。家内とは昔からの知り合いで、いろいろ相談もされる仲。つまりその縁で、家庭教師になってもらったわけです。

こういうことが同じ時期にどっと押し寄せてきたので、私も家内も気の毒に思い、バンビのレッスンの後、昼ごはんや夕食を一緒に食べたり。「この後、ご飯食べる?」と聞くと、たいていすごく嬉しそうに「ありがと〜」と返ってきます。こういうところが、8人兄弟姉妹の末っ子らしく可愛げがあるんですよね。上司とは上手くいかなくても、生徒さんには人気があるわけです。

さて、そんな災難続きのバンビ先生。ここ数ヶ月ほどは、週末、子供にギターを教えることになったとかで、ずっとバックアップ要員の姪っ子、エイプリルが私の家庭教師。エイプリルも気立てが良くてインテリ、しかも美人なので、私にとっては悪いことではないものの、やっぱりちょっと寂しい。


昨年(2024年)の誕生日に贈った
バンビの似顔絵イラスト

ところが週末に忙しいのは、ギターを教えることだけが理由じゃなかった。バンビの姉で、我が家のメイド、グレイスおばさんによると、何とバンビに新しい彼氏ができたんですよ。しかも、そのお相手は、ずっとバンビを心配していた牧師さんによる紹介。ということは、同じ教会所属で同じ信仰を持つチャーチメイト。

まだ会ったことはないですが、バンビと同世代の40代で、子供はいるけど未婚のシングル・ファーザー。ただし飲料水店の経営するまじめな自営業者で、大金持ちとまでは行かなくても、収入は安定しているようです。なるほど、どおりで最近になって急に、自宅のフェンスの修理をしたり、エアコンを購入しようなんて話が出てきたわけだ。以前は、すいぶん前に亡くなった父親の借金返済や、前の前の彼氏に買ってあげたバイクのローンやらで、いつも金欠病だったんですよ。

さらにめでたいことに、近々結婚まで考えてるとのこと。裕福な結婚相手を見つけたからといって「人生の大逆転」なんてタイトルをつけたら、まるで金目当てみたいで失礼ですが、今までのバンビの受難を思うと、そうも言いたくなります。何より、エイプリルやグレイスによると、今とても幸せそうなんだとか。

信心深くて、フェイスブックにやたら新約聖書の一節を投稿したりするバンビ。長い試練の時を経て、ようやく神さまの祝福が、我が家庭教師の上に降り注いだようです。日取りは未定ながら、結婚式にはぜひ呼んでもらいですねぇ。




2025年5月25日日曜日

AIで書いた苦情申し立て

 前回からの続きで、向かいの家との騒音紛争に、ようやくケリが着いたお話です。

4ヶ月続いた向かいの家のリノベ工事も、5月の半ばにやっと終わったようで、久しぶりに窓を開けて涼しい風を室内に送り込めるようになりました。...と思ったら、今度は、まるで狙ったように、我が家に一番の至近距離の角で、雄鶏を飼い始める始末。こいつが、朝の4時とか5時に鳴き始めて、私を叩き起こしてくれます。こうなると、もう年齢的に二度寝ができず、昼寝をしようにも、明るいうちは15分から30分間隔で時を告げるので、寝付くことができない。

さらに追い討ちをかけるように、まだ若干の仕上げの残り作業があるらしく、時々数人の大工がやってきて、またもや大音量音楽。ある日の午後、ついにブチキレて直接大工に「止めてくれ」と言ったら(一応英語で「プリーズ」はつけました)「文句があるなら警察を呼べ」と逆ギレ。

ここまでの4ヶ月、苦情を入れるにしても、一般的なフィリピン人の騒音に対する感覚の違いを理解した上で、私なりに紳士的に対応してきたつもりでした。ただ、ここに家を建てたのは、静かな暮らしが売りの宅地だったし、ちゃんとルールもあります。残念ながら、ここまで敵意・悪意を剥き出しにされたら、しかるべき筋に訴え出るしかありません。

ということで誠に遺憾ながら、バランガイ訴訟に踏み切る前の最後の手段で、クラブハウスのマネージャーからのアドバイスに従って、英文書簡による苦情申し立てをすることにしました。ほんと、やりたくなかったんですけどね。

さて、仕方なく書くことになったとは言え、どうせやるなら当てつけのように格調高い英語でビビらせてやろうと、まず日本語でそれなりの文章を自作。それを今流行りのAI(無料)に「丁寧な英語で」と但し書きを入れて翻訳してもらいました。瞬時にそれらしい英文が出てきたので、AIさんお礼を言って、今度はそれを、ほぼ英語ネイティブの息子に校正を依頼。進学先の大学が決まって、この7月1日まで余裕かまして夏休み中だし、もともと英語は得意中の得意なので、AI並みに直しの入った文章が完成。ここまで2時間もかかってません。

ちなみにこの文章を、私のイロンゴ語の家庭教師のエイプリルに見せたら、きれいな英語に驚いてました。

それを3通印刷して署名し封筒に入れて、一通は翌朝家内に頼んで向かいの家の住人へ、もう一通はクラブハウスのマネージャーへ、最後の一通はそのマネージャーに頼んで、マニラに住む宅地のオーナーに宅配便での送付をお願いしました。

結局そこまでしなくても、向かいの住人(オーナーの息子)が、手紙を受け取ったその場で、びっくりして家内に謝罪。前日、私に悪態をついたのは、貧乏大工かと思ったらその住人の従兄弟だったそうです。要するに、工事中の昼間は住人が不在で、事情を知らない従兄弟が一人で作業してたとのこと。当然、宅地のルールなんて知らないだろうし。

さらに、翌日から雄鶏の鳴き声もピタリ。どっかへ売ったのか、シメておかずにしちゃったのか。その鶏を直接飼育していた庭師だか使用人だかのおじさんも、それから姿を見なくなりましたね。夜間は明かりがついているので、住人はいるんでしょうけど、昼間はまるで廃屋のような静けさ。

ということで、結果オーライのめでたしめでたしだったんですが、改めて思ったのは、この国で静かに暮らすって、単に場所にお金をかけるだけでなく、場合によってはそれ相応の努力が必要なのだということ。聞くところによると、この宅地に500軒もある家のオーナーの名義って、ほとんどがOFW(フィリピン海外労働者)なんだそうです。

つまり、昔ながらの富裕層や外国人が住むようなビレッジと違い、成金の小金持ちが住民の大部分。まぁ私も似たようなものなので、偉そうには言えませんが、何代も高級住宅地に住み、マナーやルールを身につけた住民は、まずいないってこと。

もうひとつ後日談めいた話をすると、最近、私が始めたオンライン日本語教師。現在3人の生徒さんがいるんですが、どの家も、背後で犬が吠えたり鶏が鳴いたり。果ては隣家の子供の泣き声で、時々生徒さんが何を言ってるか聴き取りにくかったり。

やっぱりフィリピンの一般庶民の感覚では、音楽がうるさいと苦情を言う日本人の方が、常識外れで厄介な存在なんでしょうかね?(溜息)



隣家との騒音紛争の結末

 今年の1月中旬から続いていた、向かいの家との騒音紛争(?)が、先日ようやく収束しましたので報告します。

まぁ他人さんからすれば、まったくどうでもいい話だし、こんなことでストレスを溜めるのも馬鹿馬鹿しいんですが、当事者の私にとっては、一時的とは言え不眠による体調不良にまで追い詰められたので、かなり深刻なお話。

もう一度背景をおさらいしますと、私の住んでいるのは、フィリピンでも比較的高級住宅地の部類に入るセント・フランシスという名前の、ビレッジとかサブディビジョンと呼ばれる場所。500世帯もの人々が暮らすと言いますから、人口は数千人にもなるちょっとした街。そして、ひとつの区画は150平米(約45坪)もあって、家によっては2〜4区画を買って家を建てています。我が家も4つ分の土地なので、600平米。普通に日本の宅地だとすれば「豪邸」レベルでしょう。

つまり、一軒一軒の間隔が広くて、人口が多くても敷地全体が広大なので、普通に住めば隣家の騒音など気にならないはず。サブディビジョンのローカル・ルールでも、屋外でのカラオケなどの大音量音楽や、雄鶏の飼育は禁止されています。日本に比べれば格安の地価ながら、ネグロスの物価からするとやっぱり高嶺の花なので、連日連夜庭でカラオケするような、どっちかと言うと貧乏人っぽい人はいません。

ところが厄介なのは、今回のお向かいさんのような、工事で大工が入ってくる場合。すごく差別的な書き方になってしまいますが、フィリピンの大工さんって基本的に貧乏人ばかりなんですよ。というのは、総じて肉体労働の価値は低く見られるフィリピン社会。日本のような、腕の良い職人さんは尊重されるような文化があまりない。そもそも給料が安すぎる。ぶっちゃけ高校も出たかどうかみたいな、教育がなくて、騒音に対する感覚がまったく異次元の人が多い。

なので、わざわざバイクに大きなスピーカーを積んで来て、作業中に頭が割れそうなボリュームで音楽をかけるのが、彼らにすれば当たり前。もちろん私だって、パソコンで作業する時などBGMを流したりしますが、室内かヘッドフォンで聴くか、それなりの周囲への配慮はします。一般的な日本人が相手なら、言うまでもない話。

こんな感じで、狭い道一本挟んだだけの10メートルも離れない場所で、朝から夕方までディスコミュージックみたいなのを聴かされたら、そりゃ病気になっちゃいますよ。ただでさえグラインダーやドリルの騒音がすごいのに。

なのでその都度、宅地の警備員やメイドさんに頼んで、音楽を止めてもらうようにお願いし続けてたわけです。もっとも当座は静かになっても、翌日とか数日後には、忘れちゃうのかワザとなのか、また同じことの繰り返しですが。途中からは、宅地の管理事務所に相当する、通称「クラブ・ハウス」のマネージャーの協力も仰ぎ、事態は鎮静の兆しを見せてきたのが、前回までの投稿の経緯でした。

ということで前振りだけで、結構な量になっちゃったので、この話は次回に続きます。



2025年5月21日水曜日

日本語の先生を始めました

なんと、62歳のジィさんになって、先生の仕事を始めてしまいました。

実は以前、ボランティアで地元の大学生にちょっとだけ日本語を教えたり、隣街の大学で日本での就職について1時間だけ講義をしたり、という経験があるので、まったくの初めてではないものの、レギュラーで毎日は人生初。ただ、元々日本ではデザイナーをやってた関係上、プレゼンテーションは必須業務でした。人前で何かしらの説明をして、ご理解をいただくことに関しては、一応プロ。加えて関西生まれの「人を笑わしてナンボ」のサービス精神も旺盛なので、教師に不向きなわけでもありません。

さて、どうして日本の企業を早期退職して、10年以上も経ってから再就職に至ったのか? これは、昨年の11月にちょっと書いた(62歳の再就職)通り、日本に長く住み、日本人の旦那さんとの間に4人の子供もいる、10年来の友人ダイアナさんからのオファー。生まれがネグロス島のバコロドのダイアナ女史。日本での幅広い業務経歴を通じて、多くの会社経営者との人脈があり、昨今の日本の労働力不足から、フィリピン人就労の斡旋を依頼されたのが事の発端です。つまり、日本で働きたい人に、基礎の日本語を教えるのを手伝ってほしいという内容。

11月の投稿では、もう最初のクライアントさんが決まっていたはずが、その後、二転三転。何社さんかとは話がまとまったものの、すぐに人を集めて日本語クラス開始...とはならないのがフィリピンの難しさなんですよ。

フィリピンと多少でも縁のある方ならよくご存知の通り、フィリピン経済はOFW(Overseas Filipino Workers 海外フィリピン人労働者)に大きく依存じています。特に中近東へのOFWが多く、我が家のメイドさんも2代続けて元中近東OFW経験者。当然のようにトラブルもあって、賃金未払いや過重労働などが後を絶たない。ひどい場合には、OFWが虐待で殺されたり、性的暴行を受けたりの報道も、時々見聞きします。

さすがにこれはヤバいということで、最近はフィリピン政府の対応も厳格になりました。外国への就労斡旋には、非常に厳しい資格審査があり、許可が出るまで何ヶ月もかかる。当然、就労先の企業との契約内容もチェックされるので、雑なことやってると、普通にフィリピン国内の事務所が閉鎖されたり。つい最近もマニラやダバオで、日本への就職を前提とした日本人経営の語学学校が、この処分を喰らったところ。

なので、ダイアナの方針としては、フィリピン国内での応募者への日本語教育は基本的にタダ。費用は、私のような教師への報酬も含めて、全額クライアントの日本企業に請求するスタイルです。これなら安全な反面、許可が下りるまでずいぶん待たされるのが痛し痒し。昨年末にオファーがあって、授業開始まで半年近くかかったのは、こういう理由からです。

先週の金曜日(2025年5月13日)、ようやく始まったレッスンも、ダイアナがバコロド市内に建てた、生徒さんの宿泊施設まで兼ねた学校ではなく、まずはオンライン授業。しかも生徒さんはたった一人。というのはこの方、先行的に管理職に就こうという28歳の女性なんですが、マニラ在住でオフィス勤務中。寮に入って毎日、日本語一筋、とはいかない事情があります。なのでダイアナの配慮で、いきなり初対面の教師と1対1もやりにくかろうと、臨時でダイアナの妹と姪っ子が生徒として参加。二人ともいずれは日本で働きたいと思っているらしいので、一石二鳥の作戦です。

報酬は最初の提示の1/4で、毎晩7時頃から2時間半の週5日。週末だけ昼間に4時間というスケジュール。まぁ、ほぼ教師歴ゼロの私の実地研修で、最初はダイアナ先生のアシスタントみたいな感じ。土曜日の4時間をいきなり「私は東京出張なのでよろしく」と丸投げされた時は焦りましたが、やってみれば何とかなりました。まだまだ疲れますけど。

ということで、ついに始まってしまった私の再就職。一般的に初心者がN4(初級)レベルになるまで、300時間が必要とのことで、今のペースだと今年の10月まで、ざっと半年ぐらいはかかりそう。少なくともその間は、仕事にあぶれることはありません。とりあえずは、できる範囲で全力投球という感じです。



2025年5月19日月曜日

選挙が終わって1週間

 早いもので、三年毎に行われるフィリピンの総選挙が終わって1週間。実はその間、私は日本語教師の仕事が始まって、何かとバタバタしておりました。それ以外にも、いろんな出来事が重なって大忙し。そっちはそっちで傍目には面白いネタなので、次回・次々回に投稿するとして、今回は選挙結果のお話。

さて前回、殺人事件にまでなってしまった、ここネグロス島シライの市長選。地主階級の金持ちで前職のゴレツ氏と、貧困層に生まれ、砂糖工場の警備員から身を起こし、市会議員を経て当選した叩き上げの現職ガレゴ氏。この二人の一騎打ちとなりました。対立の構図が実に鮮明で、それぞれの支援者も行動が過激になった結果なんでしょうね。投票当日の朝、ゴレツ氏の選挙事務所前で、買票行為を監視していたガレゴ氏側のスタッフ数名が銃撃を受け、2名が死亡。犯人として逮捕されたのが、ゴレツ陣営に与していた、市内のバランガイ・キャプテン(町内会長)でした。

このような、一触即発の状況下での投票なので、下手に僅差だったりしたら、さらに流血の惨事が拡大しないかと、たいへん不安でした。私自身には投票権はなくても、家内と息子が、事件現場近くの投票所へ投票に行きますからね。小学校の先生で義妹のジーナも、とても怖かったとのこと。

ちなみに、シライ市の場合、投票所は市内各所の小学校が利用されます。投票所には、両陣営から、不正を監視するスタッフが配置され、我が家のメイドのグレイスおばさんと、私の家庭教師でグレイスの妹バンビが、ボランティアで参加。この二人名字がゴレツ。つまり候補者の親戚なんですよ。

当日は月曜ですが、ほとんどの会社やオフィスはお休み。早朝はシニア専用で、その後一般有権者を受付。昼食後に投票した家内によると、多くの人々が午前中に済ませてしまって、家内と息子が行った頃には、もうガラガラだったそうです。いずれにしても、混乱がなくて良かった。

投票用紙は、日本と違って候補者名を書くのではなく、印刷された候補者の横の丸印を塗りつぶすマークシート方式。間違いがないように、ちゃんと説明員も傍に待機。そして最近では、専用の読み取り機が各投票所に設置されているので、日本並みとまでいかなくても、ひと昔まえに比べれば、結果判明までの時間は画期的に早まってます。

ところで、数日前から投票所で準備していたバンビによると、この100万ペソもする読み取り機が、毎年新品になっていて「税金の無駄遣いだ」と憤慨してました。フィリピンのことなので、毎回多額の賄賂が、動いているんでしょうね。

ということで当日の深夜には、公式結果が発表されて、前評判通り、ガレゴ氏が大差で当選となりました。圧勝と言うほどではないですが、4万6千対3万だったので、さすがに負けたゴレツ陣営も、騒ぎ出すことはなかった模様。フィリピンでは大統領選と同じく、副市長への投票もありますが、こちらもガレゴ側の勝利。

こうして2連敗となったゴレツ氏。すっかり気落ちしたらしく、アメリカで看護師として働く奥さんを頼って、渡米するんだそうです。それにしても元市長でも、奥さんが出稼ぎするんですね。

一方、フィリピン全土の注目が集まる、ドゥテルテ一族。現大統領ボンボン・マルコスと深刻な対立中で、上院の過半数を抑えなければ、弾劾の憂き目を見る副大統領サラ・ドゥテルテ。投票結果はボンボンが優勢となりましたが、旗色を明確にしていないボンボン側の議員がいて、結局まだ、どうなるかは分からない。

それより驚いたのが、現在オランダ・ハーグの国際刑事裁判所に身柄を拘束されている、サラの父ドゥテルテ前大統領が、なんとダバオ市長に当選。有罪の確定前ならば立候補できるし、副市長に次男のセバスチャン・ドゥテルテが選ばれたので、市長不在でも代理として職務を行えるとのこと。こっちは、新たな争いの火種が撒かれたような状況になっています。

さて、めでたく二度目の当選が決まったシライ市のガレゴさん。副市長も市会議員も全部総取りになって嬉しくてしょうがない。毎晩花火は上がるは、大音量の音楽が響き渡るはの、祝勝会が続いてます。選挙運動は夜10時までの制限があったのに、祝勝会は無制限デスマッチ。うるさいこと、この上なし。おかげで、このところ寝不足なんですよね。



2025年5月12日月曜日

選挙で殺人

 長い長い選挙戦が一昨日で終わり、昨日の日曜日は、大音量の音楽を流す選挙カーから、ようやく解放されました。相変わらず、向かいの家が工事を継続中なので、まったく静かになってないんですけど、まぁ、多少はマシになったと言うことで。

その空白の24時間を経て、本日5月12日(2025年)は、3年に一度のフィリピン総選挙の投票日。今回は中間選挙なので大統領選はなく、中央や地方の各議会議員や首長の改選が行われます。

現在中央は、波乱の政局真っ最中。ボンボン・マルコス大統領と大喧嘩中の副大統領サラ・ドゥテルテ。その政治生命が、上院の議席をどっちの陣営が過半数取るかで左右される一大決戦。もしサラ側が負ければ、上院によって決定される弾劾によって、副大統領職を追われるだけでなく、3年後の大統領選にも立候補できなくなります。

サラの方が、金に清潔イメージがあって、犯罪や麻薬に対して毅然とした対応ができそうなので、一般のフィリピン国民の支持率が高い。やっぱり、フィリピの憲政史上最大と呼べる大改革を成し遂げた、父ロドリゴ・ドゥテルテの再来を待ち望む人が多いんでしょうね。(その副作用も甚大でしたが)

とは言うものの、ここフィリピンでは一介の居候外国人に過ぎない私。選挙権はないし、今後帰化しようとも思わないので、国全体の政治の行方には関心はあっても、それほど真剣に考えてるわけではありません。

ところが市政となると、地方在住者への影響が大きい。市長の個性で良くも悪くもいろいろ変わるんですよ。良い方向だと、近所の土剥き出しだった道路が舗装されたり、州都バコロドの学校へ通う、シライ市民向けの無料送迎バスのサービスが新設されたり。日本でも最近は、兵庫県明石市の泉房穂前市長や、福岡市の高島宗一郎市長のように、はっきり分かる改革をする人が出てきましたのは、良い兆し。ちなみ、例として上げた件は、現シライ市長のガレゴさんの功績。

そのガレゴ市長と、対立候補のゴレツ前市長の一騎打ちで迎えた市長選の朝、なんと選挙絡みの殺人事件が起こってしまいました。

このガレゴ市長、フィリピンでは非常に珍しい貧困層出身の政治家で、前回の選挙では、買票に頼らず僅差でゴレツ氏を破って初当選。当初は有力支持者(要するに地主などの富裕層)の顔色伺いの朝令暮改連発で、市政の行く末が案じられましたが、最近はかなり安定してきて、貧困層向けの政策が支持されているようです。

ところが、同じ西ネグロス州のバコロド市長やその他の有力市長が結託した「金持ち市長連合」みたいな連中とは、はっきりと距離を置いたため、銀行からの融資停止という、明らかな嫌がらせを受けて、新市庁舎建設工事がストップしたり。

さすがにシライの有権者も馬鹿じゃないらしく、どっちが市民の方を向いて政治してるかは、理解している。選挙活動も清潔路線のガレゴ市長が優勢に展開。焦ったゴレツ陣営か、あるいは背後にいると噂される影のキングメーカーからの指示なのか、まだ分かりませんが、投票日当日の今朝早く、ガレゴ市長のボランティア選挙運動員2名が射殺されました。

速報でフェイスブックに投稿された、地元マスコミの記事によると、買票阻止のために、ゴレツ氏の選挙事務所前で監視活動をしていた、ガレゴ側のスタッフ数人が、乗りつけたバンからの発砲で死傷。なんと、まだ救急車も来ていないタイミングで、大量に出血して路上に倒れている被害者を写した動画まで公開されてました。


警察によって封鎖された事件現場 出典:Bombo Radyo Bacolod

すでに明るくなってからで、目撃者も多かったらしく、数時間で犯人は逮捕。驚くべきことに、同じシライ市内のバランガイ・キャプテン(町内会長)の犯行だったそうです。

それにしても、仮にゴレツ側が仕掛けたとしても、なぜこんな、どう考えても得票を有利にできるとは思えないやり方をしたんでしょう。しかもすぐに足がついちゃう杜撰この上ない始末。すごく穿った見方をして、ガレゴ市長の自作自演と考えてみても、選挙戦で有利だったガレゴさんには、まったくメリットがありません。

ところで、私にとってこの事件が生々しいのが、現場の選挙事務所が、家内の実家のすぐ近く。私も何度も前を通ったことがある、よく知っている道路。何なら、自宅から歩いて行ける距離。さらに我が家のメイドさんや、その妹の私の家庭教師が、ゴレツ側の監視員として、投票所に詰めています。もちろん午後からは、家内と息子も投票へ行きました。

ということで、ドゥテルテ前大統領の治世では、マニラ首都圏を始め治安が良化したと言われるフィリピン。ところが現大統領になってからは、主に日本人を狙った悪質な拳銃強盗が多発したりしてるし、地方でも、今回の事件は、まるで1960〜70年代のマルコス時代に戻ったような犯罪。毎回、選挙翌日は、その結果をめぐって騒動になるのが常ですが、今回は、それを上回る大騒ぎが起こるかもしれません。


2025年4月30日水曜日

昭和は64年もあったんやで

 もう過ぎちゃいましたが、今年も日本はゴールデン・ウィークで、「昭和の日」を迎えました。昭和37年生まれの私には、やっぱり今でも「天皇誕生日」と言った方が、なんとなく馴染む感じがしますね。生まれてから30歳近くになるまで、ずっとその呼び名だったもので。1989年の昭和天皇崩御の後、一旦は「みどりの日」なる、意味不明な位置付けになって、その後2007年に今の名前に落ち着きました。つまり、21世紀生まれの若い人たちにすれば、昭和の日が刷り込まれているんでしょう。

その「昭和」なんですが、フィリピン在住の身の上なので、ネット上の話題を見てそう思うだけながら、最近やたら「昭和」って言葉を目にする気がします。特に今年は昭和100年。余計にそうなんでしょう。私がまだ保育園児だった1968年が明治100年で、記念切手が発行されたのを覚えています。明治帝の誕生日だった11月3日は、今でも「文化の日」として、国民の祝日の地位を保持。大正は短過ぎたのと、いろいろ事情があるらしく、明治や昭和のような記念碑的痕跡がありません。

それはともかく、昭和のお話。一番頻繁に引き合いに出されるのが、セクハラ・パワハラの犯罪報道や、犯罪まで行かなくても、嫌がる若手社員を無理やり飲み会や社員旅行に連れて行く慣習についての記事。つまり、これらすべてが昭和的な悪しき伝統、みたいに語られるわけです。ポジティブな方向の代表格が「バブル期」や「高度経済成長」のイメージ。今開催中の万博や数年前の東京オリンピックは、良くも悪くも昭和の成功体験の再現。

ただ、私と同世代か少し上の人たちが、同じような違和感を持つと思うのが、64年間もあった昭和を、あまりにステレオタイプに語り過ぎという点。

例えば戦前と一括りにしても、昭和元年(1925年)から10年辺りまでは、まだ日中戦争前で、大正時代の大恐慌からの回復期。電気が普及し始めたり、ラジオ放送が始まったりで、意外と明るい時期だったようです。そこからの変わり目が、二・二六事件。以降、軍部への傾斜が進み、昭和20年(1945年)の敗戦までが、映画やドラマでお馴染みの、軍人や憲兵が威張り倒した暗黒時代。それも極端になるのは、最後の数年だけかも知れません。ちなみに私の両親は、共に昭和11年(1936年)生まれです。

この時代を描いた映画として、私が出色の出来だと思ったのが、アニメ「この世界の片隅で」。太平洋戦争が激化した昭和18〜9年以降でも、庶民はしかめっ面して、四六時中、我慢してわけはなく、時には大笑いもし、痴話喧嘩もして、普通に生きていました。もちろん私が生まれる前の話なんですが、大阪の下町暮らしだった母や親戚が戦後語った当時の話が、まさに「この世界の片隅で」のイメージで、広島弁を大阪弁に置き換えれば、よく似た雰囲気。ただ小学生で食べ盛りだった母は、いつも空腹だったとこぼしてましたけど。

敗戦直後の10年間となると、食糧危機やインフレで生活は決して楽じゃなかったんでしょうけど、戦争からの解放感で、全体としては明るい時代だったようですね。6人兄弟姉妹だった母もご多分に漏れず貧乏でしたが、周囲がほとんど同じような貧乏人ばかりだし、日々の生活に一生懸命で、自分たちが不幸だとは思わなかったそうです。

その次の、昭和30〜40年代(1960年代)が、前述の高度経済成長時代。映画で言うと「三丁目の夕日」。この映画と原作のコミックが、昭和の「正のイメージ」を作っちゃったと思われます。まぁノスタルジックに描けば、昔は良かったってことになるし、物語としてはその方が面白い。でも実際に当時を生きた私にすれば、嫌なこともいっぱいありました。

特に私は、公害や交通戦争で有名な兵庫県尼崎市に育ったので、友達が交通事故にあったり、メダカ採りをしてた小川がドブになったり、夏場、光化学スモッグで外で遊べなかったり。もっと身近な話だと、便所が汲み取り式で、今思えば臭気がすごかった。

一番暗かったのが、1970年代のオイルショックの頃。私が小学生から高校生になるぐらいまで影響が続きました。その不況の真っ只中、建築業界で働いていた父は、国内の仕事に行き詰まりドバイへ海外出向。ドバイと言っても、今の未来的な街並みが出現する、はるか前で、その基礎を作りに行ったようなもの。現地でも苦労したそうですが、ドバイにいる間に日本の会社が倒産してしまい、残された家族は、社宅から追い出されそうになったりしました。この経験があるので、フィリピンで家族の残して中近東へ出稼ぎするOFW(海外フィリピン人労働者)の話には、つい過剰反応してしまいます。

私も子供ながら、この時期は毎日すごく不安で、世間で流行っているのはパニック映画や「ノストラダムスの大予言」に代表される、この世の終わりや人類滅亡の大合唱。私が初めて自分の小遣いで観た映画が「タワーリング・インフェルノ」ですからね。「宇宙戦艦ヤマト」の第一回が、小学生の私に衝撃的だったのは、ガミラスの遊星爆弾、つまり核攻撃で人類が滅亡の危機に瀕しているという描写が、当時の子供向けマンガ(アニメというジャンル名が定着したのは、ヤマト以降)にしては、あまりにリアルだったから。

こういう比較は、就職氷河期世代に配慮を欠きすぎるかも知れませんが、世の中の不況感、不安感、名状しがたい不穏な雰囲気は、失われた30年よりずっと深刻だった記憶があります。

そういう経緯なので、私が大学に進学する頃のバブルの浮かれ騒ぎは、リアルタイム的には自然な反作用でした。就職した頃なんて、週に2回ぐらい終業後にディスコやビリヤードに行ってたし、数年上の先輩は、車を毎年買い換えると豪語。1年落ちぐらいなら、そこそこの値段で売れるので、ちょっと上乗せするだけでグレードアップできると言うわけです。私だけでなく、父は黒のベンツSDLというバカデカい外車に乗り、母でさえ株に手を出してたほど。

まさに、あの時代の「イケイケドンドン」感覚を体現してたのが、今袋叩きに遭っているフジテレビというわけです。フジの企業体質はちょっと極端に過ぎますが、今ならセクハラで糾弾される行為も、表立って認められていないにせよ、ことさら珍しくもありませんでした。ただ、アルコールがダメな私は、飲み会や社員旅行の強制参加は本当に嫌でした。その分の手当が出るならまだしも、プライベートな時間を潰される上に費用が自腹って、どんな罰ゲームなんだ。

そんな一種の狂騒状態のピークで、昭和が終わりました。1989年の1月7日の天皇崩御の報を聞いたのは、当時付き合っていた彼女のアパートの部屋。土曜日の早朝で、前夜から泊まっていた私は、まだ彼女とベッドの中。我ながら、若気の至りでしたね。

ということで、いかに昭和が長く変化に富み、単一のイメージでは語り尽くせない時代かを書こうとして、結局、自分史になってしまいました。今回は、あんまりフィリピンは関係なくて申し訳ありません。


新幹線と侍とガンダム

 ここ最近、フィリピン・ネグロス島に住んでるのに、日本のアニメや映画を一生懸命観ております。というのは、日本や諸外国に比べて、ほとんど10年か、それ以上遅れて、ブロードバンド化を果たした西ネグロスの州都バコロドとその周辺。バコロドの隣街である、ここシライ市でも、やっと数年前に光ケーブルが敷設され、現在、我が家の通信速度は、200〜300Mbps程度。時々止まったり、停電もあるものの、やっと本来のパフォーマンスで、ネットフリックスやアマゾン・プライム、ユーチューブの高画質映像が楽しめるようになりました。

単に、絵と音がきれいになっただけでなく、2020年代に入った頃から、日本製コンテンツが俄然面白くなってきた印象。アニメに関しては、もっと以前から日本国外からの評価も高く、ここフィリピンでも「ONE PIECE」や「鬼滅の刃」「進撃の巨人」に「薬屋のひとりごと」「SPY×FAMILY」「葬送のフリーレン」などなど、私が観てる番組だけでも枚挙に暇がないほど。ネトフリ経由でフィリピンでも視聴できるので、地元の友人や親戚とも、共通の話題で盛り上がることができます。

もう一作品、「宇宙戦艦ヤマト」と並んで日本アニメのバイブル的存在の「機動戦士ガンダム」。最新作の「ジークアクス」が、第1作の本歌取りのようなストーリーなので、今頃になって、比較的若い人たちが、テレビシリーズのファースト・ガンダムを観始めたらしい。私もそれにちゃっかり便乗して、ほぼ半世紀ぶりに再視聴。まぁ、技術的なこと言い出せばツッコミどころは満載ながら、今では伝説になってしまったセリフが多いぐらい、脚本が素晴らしい。

とまぁ、ガンダムを語り出すとキリがないので、今回は、実写の日本映画やドラマが面白くなってきたというお話。

言うまでもなく、この流れはネットフリックスの影響が大きいでしょう。まず予算とスケジュールの感覚が、昔ながらの日本の放送局とは桁が違うレベル。それにスポンサーの意向や芸能プロダクションの思惑に縛られないので、作り手が本当にやりたいテーマで、最適な俳優を選べるのもある。実際、実力はあっても、スキャンダルで干されていた人が、重要な役所で出演してますからね。

もちろん、このような条件が揃ったから、いきなり質の高い映画やドラマができたわけではなく、長年に渡って培われてきた、日本の映像作りの下地があったからこそ。今まで、せっかくの世界レベルだったポテンシャルが、抑圧されてたんだ思います。敢えて書くまでもなく、例えば黒澤明さんや伊丹十三さん、宮崎駿さんなど、どの国に持って行っても、絶賛されるクリエーターは存在してますから。

さて、そのネトフリでの日本作品ですが、ネットで見ている限り、大きな話題になり始めたのは、コロナ禍前の「全裸監督」、その後の「サンクチュアリ」辺りじゃないでしょうか? ネトフリ制作ではないですが、それと並行するように、庵野秀明監督の一連の「ゴジラ」「ウルトラマン」「仮面ライダー」の「シン」シリーズ。そして一番最近で、私がドハマりしたのが「地面師たち」。

ただフィリピンでは、どれも日本国内ほどの話題にならなかったようです。と言うのは、とてもエロティックだったり暴力的だったり。あるいは、1950〜70年代の人気映画や番組のリメイクのため、オリジナルをまったく知らないフィリピンの若い世代には、とっかかりが無さ過ぎた。つまり分かりやすくて、家族で観られるというのが、とても大事な要素。

ところが、これを一気にひっくり返しそうなのが、つい先日、配信が始まった「新幹線大爆破」。内容的には「シン新幹線大爆破」(語呂は良くないけど)と呼びたいほど、旧作への敬意と愛に溢れつつ、新解釈と新表現で、フィリピンの観客にも十分アピールできる仕上がりになってます。

それだけでなく、外国から熱い視線集める、日本観光のシンボルともいうべき新幹線が主役だし、すっかり有名になった、日本的な時間厳守・高品質のサービスが、そこかしこに登場する。しかも旧作同様にJRの運転士や車掌が、英雄的に扱われてますからね。パニック映画でありながら、これほど日本や日本人をポジティブに描いた作品も珍しい。

これなら、JR東日本が全面協力したのも頷けます。CGやセットが上手く組み合わされてたそうですが、やっぱり本物の質感は素晴らしい。正直、旧作では、ストーリーがシリアスで緊迫感に溢れていただけに、ミニチュアだと気づいた瞬間に、ちょっと冷めてしまったものです。少なくとも新作では、どこまでが本物でどこからが作り物か、判別できませんでした。

案の定、ユーチューブに投稿された、英語字幕付き予告編を、私のイロンゴ語の家庭教師のバンビやエイプリルに見せたら、大喜びのテンション爆上がり。「絶対観ま〜す」だそうです。

他には、これまた日本ではたいへんな話題になった「侍タイムスリッパー」。ネトフリとは違い、予算の少なさをアイデアと情熱でカバーした佳作。ある意味、「ゴジラ-1.0」も、そういう側面があったそうなんですが、いずれにしても、フィリピンの人たちに自慢できるような日本の作品が続けてヒットする状況は、喜ばしい限り。

唯一残念なのは、VPNを使わずに、普通にフィリピンで鑑賞できるコンテンツの数が、まだまだ十分とは言えないこと。ネトフリでも、ファーストガンダムは地域限定だし、侍タイムスリッパーやシンゴジラは、今の所、アマプラなどでしか観られません。

ということで、いろいろ書きたい放題に書きましたが、フィリピン移住直後の12年前は、これほど夢のような環境が実現するとは、想像もできませんでした。本当に、良い時代になったものです。



フィリピンの大学受験

2013年4月に、家族でフィリピン・ネグロス島に移住した私たち。今月(2025年4月)でちょうど干支一回りの12年が経ちました。当時7歳だった息子も、もうすぐ二十歳。いよいよ高校を卒業して、大学入学という時期に差し掛かっています。

息子は、移住時に小学1年生だったので、そのままいけば、地元の小学校に2年生に編入のはず。家内が選んだのが、私立の英語で授業をする小中高一貫の学校。移住早々に編入試験を受けに行きました。

すでに英語は、家内の絵本読み聞かせなどのお陰で、そこそこ話せたし、他の教科も問題ないと思っていたら、フィリピノ語にまったく歯が立たない。日本では優等生だった負けず嫌いの息子は「難し過ぎる!」と途中で泣き出しちゃったらしい。まぁ、いくら小2レベルとは言え、よく考えたら、今までほとんど接点のない言語。日本でも友達や親戚が来たり、電話で家内が話すのは、ネグロス島の方言のイロンゴ語だったしなぁ。

そこで校長先生の提案は、フィリピノ語以外は大丈夫だから、1年遅らせて1年生からやり直しではどうですか?というもの。実はフィリピンでは、それぞれの子供の家庭の事情や、発育状況に合わせて、入学時期が1年ぐらい前後するのは、よくある話。日本でも最近は、早生まれは何かと不利で、その後の人生にも影響が出るなんて、脅しのような風説が流布されているので、こういう柔軟性は大いに結構。

さて、ここからは親馬鹿の自慢話になってしまうんですが、その後メキメキと頭角を現した息子。年に4回ある定期考査では、毎回、英語や科学(理科)、算数などの主要教科で、学年1位とか2位の賞状やメダルを貰ってくる。全教科の平均点が90点台を下回ったことがありません。唯一フィリピノ語だけは7〜80点台で、一度だけ追試があったものの、それもご愛嬌という感じ。

勉強ができるからか、あるいは、数少ない日系の子供で珍しいからか、小学低学年の頃は、やたら女の子にモテました。拙い手書きの、メモみたいなラブレターを貰ったりしたことも。その後も、州都バコロドで定期開催される、学校対抗のクイズ大会(一種の模擬試験みたいなもの)に何度も出場。そんな感じの12年間で、特に反抗期のようなものもなく、気がついたら、もう高校の卒業式も終わりました。

次が、大学受験となるわけですが、まず目指したのが、フィリピンの最高学府と言われる、国立のフィリピン大学(通称UP)。なぜかラテン語やモンゴル語、韓国語にロシア語などを、ユーチューブで「自習」するのが大好きで、フィリピン大学で言語学を勉強したいとのこと。以前に、セブに家族旅行した際に泊まった韓国系ホテルの館内で、ハングル表記をすらすら読んだのには驚きました。

UPの入試というのは、ちょっと変わっていて、10カ月も前の前年8月に、各地に設けられた特設会場で1日だけの試験があります。ちなみにUPのキャンパスは、マニラ首都圏、セブ、イロイロ、ダバオなど、各地に点在。家内は、マニラで4年学んだあと、イロイロに隣接するミアガオのキャンパスで、私と結婚するまで研究員として働いていた、UPの卒業生です。

さらに変わっているのが、UPの試験結果が判明するのは、半年以上も後の4月。競争率10倍の難関だったし、息子も「半分ぐらいしか分からんかった」。なので、年が明けてからは、地元の公立・私立合わせて3校を受験することになりました。

そのうち二つの国立のフィリピン工科大学と、州立のカルロス・ヒラド記念大学は、すでに合格が判明。四つ目の私立セント・ラサールは、2段階式で一次試験はオンラインで選抜。今、息子は一次を通過して、二次試験の開催を持っているところです。他にも別に、奨学金の試験もあったので、全部で6回のお受験。もうベテランの域ですね。

そして、まだ最後のラサールが終わっていない時点で、UP合格の嬉しい知らせが届きました。板書された合否発表を見に行ったり、郵送での通知ではなく、登録したアドレスにメールが来るんですね。最近は、日本でもそうなのか?

こうなると、当然UPに行くのかと思って、マニラでの一人暮らしをどうサポートしようかと思い悩んでいたら「ラサールに合格したら、そっちに入学したい」んだそうです。何でも、UPの言語・文化学部より、ラサールのコミュニケーション学部の方が、息子の学びたいことのイメージに合っているらしい。UPを蹴って地方の私立校を選ぶなんて、勿体無いなぁと思い、今流行りのAIさん(ツイッターのGrok)にお伺いを立てたら、UPが東大ならば、ラサールは早稲田・慶應に匹敵する名門私立校との回答。へぇ〜、それは知らんかった。


バコロド市内にあるセント・ラサール大学

ということで、次の注目は、ラサールの二次試験結果と奨学金が貰えるかどうか。フィリピンでは国公立なら基本、授業料はタダなんですが、私立だとお金がかかります。もちろん日本の私立大に比べれば大した金額ではないものの、そりゃ安いに越したことはありません。

現在フィリピンは2カ月間の夏休み中。6月にはすべての学校で新学期が始まりますから、それまでには、息子の進学先も確定する見込み。結果が分かり次第、このブログでも報告しますね。


2025年4月26日土曜日

バランガイ訴訟寸前、隣の騒音

 まだやってんのかいな?と言われそうですが、今年1月から始まった、向かいの家のリノベーション。そこから出る騒音で、延々と揉め続けております。

これは、お隣さんが土地と家を売り払って、その後の新しいオーナーが元凶。普通に工事の騒音だけなら(それでも相当うるさいですが)まだしも、作業用BGMとばかりに、大きなスピーカーで連日の大音量音楽を鳴り響かせる。折しも乾季真っ只中で、真夏のような暑さなのに、窓も開けられない。私が使っている書斎は、運悪く工事現場の真正面。昼間は締め切って、エアコン全開するしかありません。

以前も投稿したように、メイドさんや宅地の警備員にお願いして、何度も苦情を入れてもらいました。その都度、一旦(音楽だけは)静かになるものの、翌日には元の木阿弥で同じ事の繰り返し。さらに、庭の整備と周囲のフェンスだけで終わりかと思ってたら、なんと離れを新築し始めました。あと1〜2週間の我慢だと自分に言い聞かせてたのに、それから1カ月以上経っても、まだまだ終わりそうにないのが、現時点の4月末。とうとう工期が3カ月を超えてしまいました。

ところでこの話、一般的なフィリピンの住宅地ならば、音楽を鳴らして何が悪い?というフィリピン的常識が通用するんでしょうけど、ここは、1区画が数百万円もするお高〜いサブ・ディビジョン。フェンスで隔離され、十人以上の警備員が常駐し、住民は、決して安くはない管理費を支払っています。そしてサブ・ディビジョンのルールとして「大音量の音楽は禁止」が謳われている。実際、工事でもない限り、訪ねてきた友人や親戚が驚くほど、フィリピン離れした静けさ。私の購入動機の一つが、この静かな環境なんですよ。

こんなイタチごっこが続き、とうとうセント・フランシス・サブ・ディビジョンの管理事務所である、通称クラブハウスに直訴。幸いなことに、ここの責任者である40代ぐらいの女性マネージャーは、私の窮状を理解し、とても親身になって相談に乗ってくれました。

向かいのロットの新オーナーは、マニラ在住で休暇用の別荘代わりにここを買ったという大金持ち。マネージャー女史は、マニラまで何度も電話して私の代わりに苦情を入れたり、時には自ら現場に足を運んで大工と直接話してくれたり。そのオーナー自身がここに来た時には、私との直接の話し合いをアレンジしてくれました。

さて、その新しいお隣さんなんですが、おそらく私と、そう年も違わない初老の男性。これが実に嫌なオッさんで、フィリピンの金持ちによくいるような、尊大で冷笑的で、自分より裕福でないと値踏みした相手には、敬意のカケラも見せないという手合い。なまじっか頭が良くて、言葉使いは丁寧なだけに、余計ムカつきます。

最初は全然話が噛み合わなくて、自分の家で音楽を聴くのは私らの権利でしょ? 全然うるさいと思いませんけどね。もっと高い二重窓でも付けたら? そんなに静かなのが良いなら、墓場に住んだらどうですか? なんて具合。そもそも、私の方を見ない。同席したマネージャーの方だけを向いて喋ってる。こんなあからさまな侮辱は、さすがに初めてです。

ところが、どうやらサブ・ディビジョンのルールは知らなかったようで、クラブハウスの壁にデカデカと貼られている箇条書きを指差されて、しばらくバツの悪そうな顔。そこから態度が一転して、ちゃんとこっちを向いて「ごめんね、できるだけのことはするから。」となり、交渉は終わりました。

ちなみに私は、終始低姿勢。もう移住以来最大の忍耐力を行使。というのは、話がもつれた時は、ここからバランガイ(町内会)訴訟、場合によっては裁判所へ、なんて事になる可能性もあるので、少なくともクラブハウスのスタッフは、「被害者」であることを強調し、味方につけておくのが得策、という考えがありました。

それにしても、この気分の悪さは初めてじゃないなと思ったら、昔いた大企業の部課長で、これとよく似た奴が何人かいたんですよね。下手に金や権力を握ると、人間というのは、どこに住んでいても、同じようになってしまうらしい。

これが4月中旬の聖週間前。このまま終われば、めでたしめでたしだったのが、イースター明けで工事再開して、そこから数日したら、以前にも増して大音量BGMまで再開してしまいました。それに苦情を入れたら、今度はオーナーの息子が、何をトチ狂ったのか、爆音エレキギターでヘタクソなヘビメタっぽい演奏を始める始末。これは明らかに意趣返しですね。しかもかなり子供っぽい。

さっそくまたもやクラブハウスのお世話になって、マネージャーからマニラのオーナーに電話。現場には警備員が駆けつけて、地獄の演奏会はお開きとなりました。

その時のマネージャーさんからのアドバイスは、まず書面でもう一度苦情を入れて、それでもだめだったらバランガイ・オフィスに行くべきです、とのこと。今これを書いているのは土曜日の午前中で、音量はだいぶ控えめになったとはいえ、相変わらず音楽は流れてる。一応様子見の格好ですが、ひどくなるようなら、月曜日はバランガイ・キャプテンに相談になるかも知れません。あんまり気は進みませんけどね。


2025年4月24日木曜日

私的フィリピン美女図鑑 美貌のシングルマザー

 約半年ぶりに、美女図鑑の新作です。

今回のモデルは、私のイロンゴ語(西ネグロスの方言)の家庭教師、エイプリル嬢。名前の通り4月生まれの彼女の誕生日プレゼントで、似顔絵イラストを描いたわけです。ちなみに前作のモデル(やはり誕生日祝い)が、エイプリルの叔母で、同じく私の家庭教師バンビ。元々バンビは、フィリピン教育省・シライ事務所で働く家内の同僚で、現役の高校教師。勤務のない週末を利用して、週に2時間、私にイロンゴ語を教えに来てくれてます。

ただ、とても多忙なバンビ先生。時々時間外勤務もある上に、隣街タリサイ市にあるプロテスタント教会の熱心な信徒。ギターやピアノが弾けて、催事があるとスタッフとして招集されるので、頻繁に私の授業が飛びます。そのためのバックアップとして、エイプリルにお声がかかったという次第。

今年(2025年)に入ってからは、ただでさえ忙しいバンビは、教会の子どもたちにギターを教え始めたとのことで、週末が塞がってしまいました。なので私のイロンゴ語レッスンが、平日の業務終了後になり、授業のあとに私が作った晩ご飯を、家族と一緒に食べたりしてましたが、さすがに毎週これだと大変。結果的にここ1カ月ぐらいは、毎週エイプリル先生のお世話になってます。

さて、エイプリルは、今年の誕生日で29歳のシングルマザー。結婚して男の子一人を授かったものの、旦那さんのメンタル・ヘルスに問題が生じて、同居が難しくなり別居。フィリピンでは法的に離婚が認められていないので、別居(セパレート)と呼んでますが、これは事実上の離婚。その後、中近東に出稼ぎに行くというプランもありましたが、諸般の事情で断念。年齢のわりには、いろいろ苦労してるんですよね。

ここまでなら、フィリピーナあるあるなお話。ところがエイプリルの場合、フィリピンでは比較的めずらしい読書家のインテリ。私の授業でも、事前の入念な下調べを欠かしません。その上、毎日ランニングをして健康維持をする努力家で、さらになかなかの別嬪さん。父娘ほど歳の離れたオッさん生徒としては、なんとか幸せになってほしいと、祈らずにはいられません。

そして以前にも投稿しましたが、叔母のバンビは男運が悪くて、つい最近、二度目のパートナーとの生活が破綻。亡くなったお父さんの借金や、なぜかその前の彼氏のバイクのローンまで背負って、経済的もずいぶん苦しいようです。ついでに書くと、バンビの姉でエイプリルの母親であるグレイスは、我が家のメイドさん。グレイスも、早くに夫に先立たれ、海外出稼ぎでエイプリルを含む二人の子供を大学卒業まで育て上げた苦労人。

つまり、このゴレツ一家の3人の女性へ日頃の感謝の意味で、昨年10月のバンビの誕生日から、今回のエイプリル、次の予定がグレイスと、3連作の2作目というわけです。

イラスト似顔絵は、相変わらずの着物か浴衣を着てにっこりのパターン。これって、フィリピンでは、100%の確率でモデルさんが大喜びなんですよ。そもそもセルフィー大好きなフィリピン女性。さらにアニメの影響で、日本的なものには興味津々。まぁ一種のコスプレみたいな受け止めなのかも知れません。京都を訪れる外国人観光客に、着物や浴衣のレンタルサービスが大人気なのと同じ感覚なんでしょう。

ということで、たまたま誕生日前日に授業があったので、イラストをプリントアウトして額装したものを、エイプリルに手渡し。予想通りの大ウケでした。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

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2025年4月23日水曜日

炊飯器と発電機2台を買い替えた話

 先月(2025年3月)は、何かとモノがぶっ壊れた1カ月でした。数日前に投稿した自転車の買い替えもそうだし、その直後には、もっと生活に密着した製品が次々と不調。

まずは炊飯器。これは10年前に、家内が仕事で日本出張した際に、関西空港の免税店で買って来てもらった五合炊き。主に爆買い中国人を当てこんだと思われる、パナソニック・ブランドの「日本製」。当時は、ネグロスの家電量販で並んでる炊飯器って、どれも安物ばかり。それに比べればタイマー炊飯や、白米以外にお粥で玄米などの炊き分けもできるし、一番助かるのは早炊き機能。まぁ日本なら当たり前なんですけどね。

それから10年。さすがの日本製も内釜のコーティングが剥がれてきて、炊き上がったご飯の一部が固くバリバリに。炊飯の機能自体は問題ないだけに勿体無いけれど、相変わらずダメダメなフィリピンのアフターサービス。マニラとかセブならおそらくパナソニックのサービスセンターがあるんでしょうけど、僻地ネグロスでは、まず無理。調べてはみたものの、そもそも日本製なので、フィリピンでサービスパーツが入手できないようです。買えたとしても、内釜って結構高いんですよね。

まぁ10年も使ったし、本来の使命は果たしてくれたと割り切って、新しい炊飯器の購入となった次第。でもネグロスでマトモなのがあるか? 結果から言うと、州都バコロドの一番大きな量販店で、パナソニック・ブランドのものを見つけました。やっぱりフィリピン経済が好調で、コロナ禍からも完全復活した結果か、これ以外にも、それなりに高級・高機能な製品が並んでました。フィリップスの五合炊きなんてのもあって、ちょっと悩んだんですが、結局家内と相談の上、店頭では一番高価だった十合炊きに決定。ちょうど自転車と同じ10,000ペソ(約2万5千円)也。


早速買ったその日からフル稼働で、見るからにハイテクな外観は格好良いものの、操作が全部タッチパネルで文字表示も小さい。日本国内市場では「ユニバーサル・デザイン」を標榜していた会社のわりには、私のような老眼持ちに優しくないですね。ちなみにフィリピン移住前は、パナソニックでユーザーインターフェイスのデザイン担当だったので、ちょっとびっくり。案の定、メイドのグレイスおばさんに操作方法を教えるのも一苦労。

とは言え、ご飯の炊き上がり具合はまったく問題なく、さらに内釜のコーティングがずいぶん進化していて、ご飯のこびり付きがほとんどない。洗うのも楽だし。テレビや携帯では、中国/韓国メーカーの後塵を拝している日本ブランドですが、この手のハード・ウェアでは、まだまだ頑張ってますね。

それとほぼ時を同じくして、母屋と離れで2台使っている発電機が両方とも不調。まだ購入後6年ぐらいしか経ってないのに、電圧が不安定で炊飯器が使えないし、一旦エンジンを止めると、半日ぐらい間を置かないと再起動できない。ついに一台がガソリン満タンなのに、停電の真っ最中に動かなくなりました。実はこれまでも、ガソリン漏れやら何やらで、何度も修理してたんですよ。ちょうど真夏に差し掛かり、日本から高齢両親を受け入れようという時期だったので、2台とも思い切って新しいのを買う事しました。

ちなみに、ネグロスでの電力事情は、これほど経済事情が好転しても、私が初めてこの島に来た四半世紀前とほぼ同じ。30分から数時間の停電は頻繁にあるし、一月に一度ぐらいは、メンテナンスと称した12時間もの計画停電。発電機がないと、相当不便なことになってしまいます。

ということで、こちらは昔から充実した品揃えの、前回購入したのと同じ店で、同じメーカーのものを選びました。ただ、それなりの技術革新があったようで、発電量はちょっと大きめでエンジン音は小さめ。ついでに値段も上がっていて、2台で10万円近い出費になりました。痛たた...。


そしてお約束のように、新しい発電機を設置してから1カ月も経つのに、これを使うような停電は、まだ発生していません。



2025年4月22日火曜日

教皇フランシスコ死去


出典:PGurus

 何度もこのブログに書いて、一部の読者の方には鬱陶しがられるぐらいですが、私はカトリック信徒でございます。それも30歳をいくつか過ぎてフィリピンと縁ができてから、今私が住むネグロスの教会で洗礼を受けたという変わり種。そんな俄か信徒のせいか、カトリックの総本山であるバチカンの体制や、日本の高齢化が著しい教団に対しては、少々斜に構えて見る癖が抜けない。そんな私でも、全世界のカトリック14億6千万人のリーダーたる、教皇死去のニュースには、粛然とせざるを得ません。

もうご高齢だし、何度も入退院を繰り返しておられたのも周知の事実なので、正直なところ「来るべき時が来てしまった」感はあります。しかし教皇フランシスコは、清貧を貫いたアッシジの聖フランシスコの名を継いだ方であるだけに、私のような末端の不良信徒ですら親しみを覚えるほど。まさに信徒うちでの愛称である「パパさま」に相応しい、飾らないお人柄でした。私だけでなく、おそらく世界中の信徒から愛惜の念が寄せられていることでしょう。

当然、人口の八割がカトリックのフィリピンでは、死去の知らせと同時に、各種の報道だけでなく、フェイスブックでも個人からの哀悼の投稿が溢れました。

ところで、キリスト教にあまり馴染みのない方には、意外に思われるかも知れませんが、少なくとも私の知る限り現代のバチカンは、過去を反省し自己変革をしようとする姿勢があります。その動きは決してスピーディとは言えないし、顕著になったのは1960年代前半の第2バチカン公会議や、1978年即位のヨハネ・パウロ2世以降ですが、亡くなったフランシスコ教皇は、その流れを汲む方だったと思います。

古くは地動説を唱えたガリレオへの迫害について、あるいは第二次大戦中、ナチスの残虐行為の黙認などには、公式に過ちを認めて謝罪しています。まぁ何十年、何百年も経ってからの謝罪に意味があるのか、という批判はもちろんありますけど。

最近の事例で言うと、世界各地で発覚したカトリック聖職者による信徒(特に未成年者)への性的虐待や、同性カップルへの対応などが、ずいぶんと物議を醸しました。残念ながら、こうした問題は解決には程遠い時点で、教皇は天に召されてしまいました。おそらくパパさまは、苦悩されたんじゃないでしょうか。公式のご発言内容が揺れ動いたのは、その裏返しなのかも知れません。

対照的にカトリックに比べて、日本では明るくて開明的なイメージのあるプロテスタント。フィリピンではマイノリティながら、確固たる地位を占め教会の数も多い。私のイロンゴ語(西ネグロスの方言)の歴代6人の家庭教師のうち、今お世話になっている2人を含め、なんと4人がプロテスタント。どの人も決して石頭ではないんですが、こと性的少数者や進化論、ビッグバンのような宇宙論になると、途端に話が噛み合わなくなります。

つまりカトリックが、このようなイシューに柔軟な姿勢を取っているのに対し、聖書の記述を文字通りに信じる、いわゆるファンダメンタリストの立場。もちろん一口にプロテスタントと言っても、宗派・会派によってすごく幅があるので、たまたま私が知り合った人たちがそうだったんでしょうけど。おそらくフィリピンのプロテスタント信者の方々は、カトリックに失望して改宗、というケースが多いので、教義や信仰がより先鋭化する傾向があると思います。

ちなみにフランシスコ教皇が、先代のベネディクト16世の生前退位を受けて即位されたのが、2013年の3月。私たちがフィリピンに移住したは、その数週間後の4月初旬だったので、偶然ながら、私たちのフィリピン暮らしは、パパさまと共にあったことになります。つまりちょうど12年の在位期間。即位当時、すでに76歳になっておられました。さらにただの偶然ながら、今ネグロスの自宅で同居中の、私の両親と同い年なんですよね。あの年齢で死の間際まで、現代のローマ教皇という激務にあったというのは、ものすごい精神力と言う他はありません。

ということで俗世の関心事は、次の教皇はどなたに?となってしまうんですが、有力候補と目される4人の中に、ルイス・アントニオ・タグレというフィリピン出身の枢機卿がいます。年齢は、私より5歳上の67歳。実は、前回のコンクラーヴェ(教皇選挙)でも有力視されていたとのこと。私個人の希望としては、ぜひアジア出身者初の教皇になっていただきたいと思っています。


2025年4月21日月曜日

新しい自転車がいきなりトラブル

 またまたぼぉ〜っとしてる間に、今年の聖週間とイースターが終わってしまい、4月も残り10日。日本では、来週がゴールデンウィークという時期になってしまいました。

多少なりとも、フィリピンに関わりを持つ方ならご存知の通り、今(4月〜5月)フィリピンは真夏。一般的には乾季と呼ばれるように、雨が極端に少なくなって、連日強い日差しが照り付けます。ただエル・ニーニョの影響で、記録的な暑さになった昨年に比べると、暑いとは言え例年並み。

なぜかフィリピンの報道では、体感温度(Heat Index)を使うので、40度越えだと騒いでますが、ネグロスでのお天気アプリの気温は、せいぜい33〜4度。ここ最近の大阪や東京の異常な蒸し暑さを知っている身としては、まだ、それほどの暑さとは思えません。

さらに、コロナ禍のせいで約2カ月遅れていた新学期が、今年はようやく2週間程度もズレまで回復し、暑さのための授業のオンライン化や臨時休校連発が解消。高校生の子供を持つ親としては、やれやれという感じです。

さて、この3月以降、滞っていたブログですが、何も書くことがなかったわけではなく、結構いろんな事件(?)がありまして、何とか4月中には報告しようと考えてます。取り敢えずはその第一弾として、新しい自転車を購入したお話。

「新しい」ということは古いのがあったわけで、こちらは、かれこれ20年近くも前、まだ日本に住んでいた頃に買った代物。昔の職場の近く、大阪・門真市にあるイオンで入手したマウンテンバイク。当時は同じく大阪・茨木市内の賃貸マンション住まい。自転車置き場はあったものの、盗難やいたずらのリスクがあったので、折りたたみ式を選び、狭い玄関に置いてました。

まだ40代だった私は、これに乗って毎週末、豊中や吹田のテニスコートまで、片道10キロぐらい走ってました。車や電車だと気づかないでしょうけど、この北摂周辺って、かなりのアップダウンがあるんですよね。それこそ真夏にはちょっとした苦行でした。ちなみにこの時期は車を手放していて、電車で行くと、どこも駅から遠かったりします。

2万円程度の中国製ですが、この調子で使っていて愛着も湧いたので、フィリピンへの引越しでは日本から移送。こっちでも10年以上乗ってました。

以前にも何回か投稿した通り、意外にもサイクル野郎が多いネグロス島。10万円近くするようなロードバイクも売ってるし、ヘルメットやウェアなど、かなり専門的なアクセサリーも充実。特に最近では、こんな田舎の地方都市シライでも、日本製のシマノの部品を置いているような、「パラダイム・バイク」という自転車の店がオープン。

こういう環境が整うのを待っていたかのように、長年乗り続けていた愛車が、遂に寿命を迎えました。というのは、車輪が歪んでしまい、走っているとホイールの一部がブレーキパッドに触れて異音が生じます。乗って乗れないこともないんですが、遠の昔に減価償却はしてるだろうし、あちこちサビも目立ったので、思い切って新車購入となった次第。

例のパラダイムバイクでは、お高いロードバイクも並んでましたが、今からレースに出ようなんて気もないし、週に数回、運動不足解消に午前中4〜5キロ軽く流すだけなので、またもや中国製の、そこそこの値段のマウンテンバイクにしました。今回は折りたたみではないので、旧車に比べるとずいぶん軽い。それでも追加部品込みで1万ペソ(約2万5千円)にはなりましたが。


ということで、機嫌良く1カ月ぐらい朝のサイクリングを楽しいでいたところ、数日前、なんと走行中にペダルが脱落。車がほとんど走らない宅地の中だったし、それほどスピードも出てなかったので、転倒などはしなかったものの、かなりびっくりしました。幸い、自宅からそれほど遠くない場所で、片足漕ぎで無事に帰宅。帰ってよく見ると、スパナで固定おくべき所が、ずいぶんと緩んでいた模様。もう片方も危なかったので、両側とも親の仇のように、手持ちの工具で締め上げておきました。

ついでにパラダイムバイクに、フェイスブック・メッセンジャーで苦情を入れたら「メーカーの責任で、私らは悪くないよ〜。でもペダルは買い替えた方がいいよ〜。」みたいな返信。まぁ、この自転車屋に限らず、家電量販でもデパートでも、製品の初期不良に店員が謝るという習慣がないフィリピン。(というか、日本の「バカ」がつくほどの丁寧さが、世界的には珍しい)軽くムカつきましたが、しょうがないですね。


2025年4月14日月曜日

帰って来た高齢両親

 何となくバタバタしてたら、もう1ヶ月以上も、このブログを放置しておりました。読者の方々、申し訳ありません。その間、私の周囲でいろいろあっただけでなく、世界中でいろんなニュースが駆け巡りましたねぇ。

まず、気が狂ったような、矢継ぎ早やのトランプ米大統領の政策発表。著名人の中には、新しい時代の流れだとか、深謀遠慮だと深読みする向きもありますが、私には、行き当たりばったりの思い付きとしか思えません。またウクライナやガザでは、停戦の動きが垣間見えたと思ったけど、結局戦火は止まず。フィリピンの近隣諸国のミャンマーやタイでは、大地震で甚大な被害。そして、ここフィリピンでは、ドゥテルテ前大統領が、マルコス現大統領によって国際刑事裁判所に引き渡されるという、前代未聞の大事件が進行中。まさに怒涛の年度末でした。

そんな騒々しさに比べれば、以下、実に平和な話題について。

昨年(2024年)、約半年間のフィリピン・ネグロス島、つまり私の自宅に滞在していた高齢の両親。実家の片付けや検診・各種の治療などのために12月初めに一旦帰国していました。片付けと言っても、二人とも来年90歳の後期高齢者。ほぼ「終活」のようなもの。さらに、年齢的に身体のあちこちがガタガタなので、次回のフィリピン滞在に向けて、日常服用する大量の薬も仕入れました。ついでに父が歯の治療を始めてしまい、これが長引いて、再渡航が当初の予定より1ヶ月ぐらい遅れ、3月の前半となった次第。

どうせなら、フィリピンの真夏である4〜5月を外して、6月にすれば良かったんですが、諸般の事情で一番暑い時期になりました。とは言っても大阪の真夏に比べれば、はるかに凌ぎやすいですけど。

さて、我が家の離れ、2LDKの通称「ゲストハウス」に、再度、両親を迎えるわけですが、前回の反省を踏まえて少し工夫をしました。まず、母の寝室を移動。母屋のリビング・ダイニングに面した八畳ぐらいの部屋に、ベッドとテレビを置いてたのを、その反対側、母屋から一番遠い部屋に替えました。というのは耳が遠くて、ものすごい音量でテレビをつけっぱなしにする。うるさいので、窓を閉めてエアコン使ってと何度頼んでも、翌日には頭のネジが巻き戻ってしまって、同じことを繰り返すので、仕方なくこの処置。


もう一つは、窓全開放でのエアコン使用。こちらは根本的な解決は難しく、考えた末に「アホに指示するんか?」みたいなデカい文字でエアコン本体に張り紙をしました。この件では、前回「金なら払う」と逆ギレした父と口論になってしまったので、効果の有無はともかく、何もしないわけにもいかず。

とまぁ、実はちょっと気が重かったりしたんですが、一応、両方とも効き目があり、連日の真夏日ということもあって、テレビ視聴時は奥の部屋で窓や扉を閉めて、エアコンを使うという習慣が、定着しました。

実はもう一件、気になっていたのが、父の食事時(正確には食事直後)の悪い癖。入れ歯を使うようになって、歯の間に挟まった食べ物を舌で取るため、盛大に音を立てる。ネットで時々見かける、食べる時にクチャクチャの「クチャラー」ではないけれど、あまり気持ちの良い音ではありません。しかも、食後、これを延々とやるので、お客さんがいたり、外食する時には、恥ずかしくて仕方がない。

最初は、もう年寄りのことだし、しゃあないかと思ってましたが、どうやら本人は周囲に不快感を与えてる自覚がない。とうとう先日、指摘したところ、若い頃はダンディを気取っていた父(平たく言うと「エエ格好しい」)なので、「恥ずかしい」の一言が効いた模様。それ以来ピタリと、この悪癖が治りました。

こうやって文章にすると、我ながら口うるさい小姑みたいですね。ただ、別棟ながら同居する家族。毎日のことにストレスを溜めると、いずれ思わぬタイミングで感情が爆発しかねないので、嫌なことは嫌だとはっきり言うのはとても大切。まだ10年ぐらいは死にそうにないし。

ちなみに私は現在62歳で、どこから見ても立派な「老老介護」。ただ、フィリピンでの介護移住の利点として、まず十分な広さの家があって、掃除や洗濯をしてくれるメイドさんが雇えて、しかも高齢者との同居を苦にしないフィリピン人の家内。私がやっているのは、日々の食事作りだけなので、これで文句を言ったらバチが当たりそうです。

ということで、この介護生活。今回は8ヶ月強で、また年末までの滞在となります。


2025年3月10日月曜日

またもや騒音と戦う日々

 向かいの家で、騒音大会が始まったのが、ちょうど私のミンダナオ滞在から帰宅した頃なので、かれこれ2ヶ月近く経ちます。騒音大会なんて大袈裟に書いてますが、要するに向かいの家のオーナーが代わって、リノベ工事が始まったということ。

以前のオーナーは、夫が「サトウさん」という日本人。ただしかなり高齢だったようで、若いフィリピン人妻にお金だけ出して家を建てて上げたはいいけど、結局一度も住むことなく他界したらしい。私も会ったことがありません。

その若かった奥さんも、娘が高校を卒業するぐらいなので、すっかり中年女性。その後再婚して、いろいろ商売をやってたようなんですが、コロナ禍やらがあってお金に窮して、結局は前夫の遺産である家を売っぱらってしまった次第。

実を言うと、このオバさんはかなり迷惑な隣人でした。元々山間部の出身らしく、フィリピンの田舎の人あるあるで、頻繁に親戚を呼んでの大宴会。それが週末の深夜に及び、閑静な住宅地の真ん中で下手なカラオケはガナる。養鶏業を営む新しい旦那さんが来てからは、庭で大量の雄鶏を飼って、喧しいことこの上なし。

せめて敷地の周囲に壁でも作ってくれればマシなものを、お金がないので庭が剥き出し。その庭も手入れもせずに放置して、完全にジャングルに戻っている有様。さらに、そこから出る落ち葉で焚き火をするもんだから、風向きによっては、こちらにも煙もくもく。もう、これ以上はないというほど迷惑千万なので、出ていってくれてホっとしてます。

問題は、次のオーナーがどんな人物かというところ。さすがに600平米ほどの家付のロットを買ったぐらいなので、それなりに裕福で、おそらく前のオーナーよりはマシだろうと思います。ただ差し当たって困っているのは、リノベ工事の騒音。

まず工事は、ジャングル状態の雑木の伐採から始まりました。これが丸三日間チェーンソー使いまくり。ただ切り倒すだけじゃなく、運び出しができるように、細かく切断するのですごく時間がかかります。その間、脳みそを掻き回されるようなエゲつない騒音。

それが終わったと思ったら、チェーンソーほどではないけれど、グラインダーやらハンドドリルの轟音。それだけなら、我慢するしかないと諦めもつきます。ところが、わざわざデっかいスピーカーを持ち込んで、朝から夕方までディスコ並みの大音量BGM。フィリピンなら珍しくもないとは言え、ここはサブディブジョンとかビレッジと呼ばれる、それなりにお高い高級住宅地。宅地のルールでも「大音量の音楽は禁止」となっています。

極め付けは、ステイ・インつまり工事の敷地内に住み込みの大工さんなので、夜も音楽流すんですよ。それだけでなく、カラオケまで始める始末。これはアカんやろ。

この手のトラブルは初めてではなく、向かいとも裏とも両隣とも、一通り揉めてきた移住13年目の私。こういう時は、外国人である私が直接文句を言うと、確実に相手が感情的になって大喧嘩になるので、今回は、メイドさんや家内、二人が不在の時は、宅地のガードマンに頼んで、音楽を止めるか音量を下げるように「お願い」してもらいました。

ツラいのは、ただうるさいだけでなく、家内が私の不快感をまったく理解してくれないこと。他のことに関しては、日本とフィリピンの感覚差をあまり感じたことがないし、なかなかのインテリの彼女。むしろフィリピン人離れしている性格のはずが、騒音に関しては、以前から平行線なんですよね。

それでも苦情申し立ては効果的で、少なくともその日のうちは、音楽「だけ」は静かになります。ところが、学習能力がないのか、記憶力が希薄なのか、翌日から数日後には同じことの繰り返し。仕方がないので、こちらも同じ対応。どうやら、ずっと同じ大工ではなく、メンバーの入れ替わりがあるようで、イタチごっこが延々と続く有様。

それにしても、一から建て直すわけではないのに、ずいぶんとチンタラ仕事やってますね。時々観察してみると、頭数が多い日は、とかく私語が増えます。それも、まるで酔っ払いの集会か?というような大声で怒鳴り合っているみたいに。音にダラシ無い大工は、あまり技能も高くない感じ。あるいは日当仕事で、長引けば長引くほど、手取りが増えるのかも知れません。冗談みたいですが、日曜日まで出てきてるのを見ると、案外これは当たってる気が。

ということで、そろそろ乾季に入り、晴天が続いて暑くなってきたネグロス島。間の悪いことに、工事現場の真正面に私の書斎があるので、日中は締め切ってエアコン使うしかありません。壁は仕上げ段階なので、せいぜいもう2〜3週間程度でおしまいなんでしょうけど、とにかく一日も早く、以前の静けさが戻ってほしい。騒音に対してだけは、私のフィリピン移住で持った、後悔に近い感情です。



2025年3月2日日曜日

飼い犬ゴマの受難

我が家で「ゴマ」と名付けた犬を飼い始めたのが2017年。生まれたての仔犬だったゴマも、もう8歳。 人間ならば立派な中高年で、下手をするとアラ還の私と同世代なのかも知れません。何度もこのブログで取り上げているので、犬好きの方は、こちらから過去の投稿をご覧ください。

そのゴマが、先日、急に餌を食べなくなりました。気が向かないと朝ごはんをスキップすることがあっても、夕方には何もなかったかのように、ガツガツと完食するのが常。なので「ああ、またか」程度で特に気にも留めてなかったのが、今回は丸二日も絶食のハンガーストライキ状態。それだけでなく、なにやら出血してる。よく見ると、睾丸の一部が腫れて、そこから血が滲みだしています。そして明らかに元気がない。

いつもなら、家の前を人や他の犬が通っただけで、ものすごい勢いで吠えまくり、庭の端から端まで全力疾走する奴が、その日は、ずっとヘタリこんだまま。う〜ん、これはヤバいかも。

びっくりして「犬」「睾丸」「出血」でグーグルさんにお伺いを立ててみたら、中高年で去勢をしていないオス犬は、生殖器周りの病気になりやすいとのこと。恐ろしいことにガンの可能性もあるらしい。

特に自慢できるような犬でもない、どちらかと言うと、あまり賢いとは思えない駄犬のゴマ。ただ健康だけが取り柄で、たまに変な咳したり、食べた餌を吐いたりすることはあっても、すぐに回復。数年前には近所の犬と大喧嘩して、流血の惨事になったものの、1年後には同じ犬とリターンマッチで、今度はリベンジを果たしたり。そんなゴマなので、今まで一度も獣医さんの世話になったことがありません。

もともと私たちの住むネグロス島のシライ市内には、信頼できるペット・クリニックがなかったのもありますが、最近ようやくマトモなクリニックができたんですよ。義妹のジーナのペットで、小型犬の「コフィ」が病気になった時、きちんと治療してもらって快癒したそうです。なので、さすがに今回は、ゴマを獣医さんに診てもらわないとダメな状況。

そんなこんなで、明日は病院へ連れて行こうという晩は、朝になって冷たくなってたらどうしようなんて、悪い想像ばかりしてました。心配になって、頻繁に撫でてやったりしたものです。死にそうになったからと、急に優しくするなんて、あまり良い飼い主とは言えませんね。

明けて、ピカピカの青空が広がる土曜日の朝。お〜い、生きてるか〜?とばかりに窓を開けたら、気のせいか妙に元気になってる。(ちなみにゴマは外飼いです。)もしかしてと思い、試しに餌を少量与えてみたら、以前のようにアッという間に完食。病院に連れて行かれるのが嫌で、カラ元気を装ってるのかと思うほど。


まるで、コメディのような展開ですが、念のために股間を確かめたら、まだ腫れてはいるものの出血は止まった様子。正直なところ、私も家内もできれば病院には行きたくなかったので、しばらく様子を見ることにしました。

ところが様子を見るも何も、朝からムダ吠え全開で走り回り、すっかり以前のやかましさに戻ったゴマ。夕方には元気に散歩して、ちょっと多めに盛った餌も平らげました。前日までの弱った姿はなんやったんや?

ということで、それから1週間が経過して、睾丸の腫れもほぼ治り、食事も散歩も通常運転。この話を私のイロンゴ語の家庭教師バンビにしたら、腹を抱えて大笑い。ほんと、病院嫌いの子供のような反応でしたからね。とは言え、健康になったのはおおいに結構。おかしなもので、それ以降、あれほど鬱陶しく感じていた深夜や早朝のムダ吠えも、あんまり気にならなくなりました。




2025年2月24日月曜日

近所のリゾート・ホテル

 今日は、このブログでは珍しく、観光情報っぽいことを書きます。

そもそも、海外からの観光客にアピールするような観光地があんまり無い、ネグロス島の西側、私の住むネグロス・オキシデンタル(西ネグロス州)。もちろん皆無というわけではなくて、とびきりきれいなビーチのあるラカウォンとかダンフガンや、温泉リゾートのマンブカルに、おらが街シライの山間部には、マウンテンリゾートのパタッグもあります。

ただ、どこも規模は小さくて、フィリピン国内ではそこそこ有名でも、日本では「知る人ぞ知る」的な場所ばかり。さらに州都バコロドとなると、マスカラ・フェスティバルは全国区レベルで、毎年10月ごろには国内からの観光客がたくさん来るものの、場所ではなく行事。

もちろん人口50万人を数える地方都市バコロドなので、ホテルはたくさんあります。移住前に定宿にしていたルクソール・プレイス(ここは潰れちゃいました)とか、私たちが結婚披露宴を催したシュガーランド。最近ではエル・フィッシャーにセダ、ラディソンなど、マニラやセブにもあるチェーン・ホテルもバコロドに進出。どこも設備もサービスも悪くない3〜4つ星。プールや大きなパーティ会場もあります。

とは言えどこもアーバンホテル。日本にある、そこそこ良いホテルと大差はありません。かれこれ10年以上も西ネグロス在住の私も、バコロドにはリゾートと呼べるホテルは、無いもんだと思い込んでおりました。ところがあったんですよ、絵に描いたようなリゾートホテルが。

場所はバコロドのやや南寄りにある、現在は廃港になった旧バコロド空港のすぐ近く。海に面したパルマス・デル・マール・カンファレンス・リゾート・ホテル。ずいぶん長ったらしい名前ですが、地元では「パルマス」で通っているようです。「カンファレンス(会議)」と入っているのは、純然たる観光客よりも、公的機関が会議やセミナーに使われることが多いから。何を隠そう、フィリピン教育省勤務の家内も、仕事で何度か泊まったことがあります。ただ私は、そんな近くではなく、もっと遠くだと思ってました。まさかバコロド市内だったとは。


なぜ私が、パルマスを知ることになったかと言うと、日本在住のフィリピン人でバコロド生まれの友人、ダイアナ・ハバ女史の誕生日パーティがここで行われたから。1970年代生まれなので、今年63歳の私より10歳若いだけながら、日本とフィリピンを股にかけて多種多様なビジネスを展開。時々失敗して痛い目も見てるそうですが、日本でのフィリピン人支援や、フィリピンを紹介するいろんな催事にも参加していて、その人脈の広さは、ちょっと驚くほどです。

このダイアナさん、弱い立場の人を放っておけない、フィリピノ・ホスピタリティを体現したような人。すでに関係が破綻した日本人パートナーの高齢両親を、何の見返りもなく介護し続けたり、東日本の震災で困窮する在日フィリピン人を助けたり。それでいて明るいし常に前向き。側から見ていても、フィリピンと日本のどちらでもファンが多い。彼女のことについては、以前にも何度かこのブログで触れています。

実は今回、ダイアナさんの誕生日だけでなく、日本から視察に来られた三人のクライアントさんの歓迎会も兼ねています。実はこの仕事に私も関わっておりまして、フィリピン側のスタッフ紹介的な意味もあったんでしょう。こちらについては、実務が動きだしたら詳しく書きたいと思ってます。

パルマス・リゾートでのパーティに話を戻します。

このホテルは、今年が創立20周年とのことなので、それほど古いわけでもありません。ちょうど私の息子と同い歳。今ではプールが三つもあって、いかにも南国風なバーやレストランがあり、客室は3棟もありますが、当初は今の1/3ぐらいのサイズだったらしい。パーティは、新しい方のプールサイドで、約30人ほどのお客さんが集まりました。ほとんどがダイアナと同世代のオバちゃんばかり。まぁ賑やかなことこの上なし。

フィリピンのパーティには欠かせない豚の丸焼き「レッチョン・バボイ」が食卓に上り、私は例によって歌唱担当。70年代なので最初にアバの「ダンシング・クイーン」を歌ったら、すごく盛り上がりました。最後は金髪のウィッグとセクシーな衣装に身を固めた、トウの立った三人娘(?)が、マドンナの「マテリアル・ガール」を踊ってお開き。ホテルの敷地内なので、午後10時には撤収です。

私は、その夜のうちに帰れない距離ではなかったものの、深夜にバコロド市内を運転するのも面倒で、一泊して翌朝帰宅に。当然自分で払うつもりが、ダイアナが気を使って、先払いで一番良いスイーツを取っておいてくれました。一人で寝るには広すぎるなぁと思ってたら、一緒に来てたダイアナの妹二人とその娘さんが一人が一緒。なんだ、そういうことか。

誤解のないように書き添えておきますと、さすがのスイート・ルームなので、部屋は二つに仕切れる作りになっていて、ベッドも私が使ったダブル以外に、シングルが三つ、ちゃんと用意されてました。




翌朝は前夜に続いて良い天気で、プールサイドでゆっくり朝ごはん。海がすぐ近くなんですが、残念なことにバコロド周辺ってきれいなビーチがないんですよ。なので海沿いなのにプール・リゾート。それでも雰囲気はすっかりトロピカル。お腹いっぱいになって、大ぶりのカップでコーヒーを飲むと、ここが自宅から車で1時間もかからない場所とは、ちょっと信じられない感じでした。次回は、カミさんを連れてきましょうかね?


2025年2月18日火曜日

なぜかミンダナオ 最終回 MCL創設者・松居友さんのこと


松居 友 著「サンパギータの白い花

 前回の更新からちょっと間が空いてしまいましたが、引き続き、ミンダナオ島滞在について。今回は、私が4泊5日でお世話になったミンダナオ子供図書館(MCL)創設者の松居友(まつい とも)さんについて。

実は私、ツイッター経由で知り合った日本人スタッフの梓さんの伝手で、MCLを訪問するまで、日本人が立ち上げたNGOだとは、まったく知りませんでした。てっきりフィリピン人が自ら作った組織に、梓さんがその趣旨に共感して参加したのだと思い込んでいた次第。確かに今現在は、フィリピンのNGOとなっているものの、そもそも松居さんが、ミンダナオの先住民のマノボ族の困窮を見るに見かねて、親を亡くしたり家庭が崩壊して学校に通えない子供たちを、奨学生としてご自分のアパートで世話をしたのが事の始まり。詳しくは「松居友プロフィール」をご覧ください。

最初に私が松居さんと、MCLのダバオ事務所でお会いした時には、そんな予備知識ゼロ。ただ、たいへん穏やかな人柄の中に、ただならぬ「凄み」のようなものを感じ、深夜にもかかわらず話し込んでしまいました。後になってMCL創立の経緯を知り、そりゃ凄いはずだと膝を打ちつつ、失礼なことを言っちゃったんじゃないかと、冷や汗を流してしまいました。

松居さんは「創設者」と呼ばれることを潔しとはされないようで、図書館の運営は、すべてスタッフのお陰と仰います。しかし松居さんがいなければ、MCLは存在していません。その功績で、マノボ族の酋長に選ばれたとのことですから、人々の信任の厚さはたいへんなもの。

さて、そんな松居さんにお会いした時に思い出したのが、私が敬愛して止まない司馬遼太郎さんのエッセー集「以下、無用のことながら」に収録された「並外れた愛 柩の前で」の一節。これは、ジャーナリストであり、ノンフィクション作品「サイゴンから来た妻と娘」で知られ、1986年に夭折された、近藤紘一さんへの弔辞として書かれた文章です。以下少々長くなりますが、引用します。


君は、すぐれた叡智のほかに、並はずれて量の多い愛というものを、生まれつきのものとして持っておりました。他人の傷みを十倍ほどに感じてしまうという君の尋常ならなさに、私はしばしば荘厳な思いを持ちました。そこにいる人々が、見ず知らずのエスキモー人であれ、ベトナム人であれ、何人であれ、かれらがけなげに生きているということそのものに、つまりは存在そのものに、あるいは生そのものに、鋭い傷みとあふれるような愛と、駆けつい抱きおこして自分の身ぐるみを与えてしまいたいという並はずれた惻隠の情というものを、君は多量にもっていました。それは、生きることが苦しいほどの量でした。


私は、近藤さんの全著作を繰り返し読むようなファンだったので、おそらく近藤さんの人となりは司馬さんの描写した通りなのだろうと思う反面、正直なところ、そんな人が実在するのか?司馬さんの盛りすぎじゃないとかとの疑念もありました。ところが、ほぼその描写通りの方がおられたんですよね。

私は常々、ボランティアという行為は自分のためにするもの、と考えております。身も蓋もなく言ってしまうと「褒められたい」からする。でもそれが悪いということではなく、困っている人を助けたい、悲しんでいる人を喜ばせたい(たとえそれが束の間であっても)と思うのは、人間の本能に近い感情。そのためには、喜ばせるための技術が必要だし、それをちょうど良いタイミングと量で提供しないと、しばしば逆効果にもなる。

つまり、単に自分がやりたいからやる、ではなく、それなりの知恵や経験が必要で、決して簡単なことではありません。継続的にやるなら尚更です。そこまで考えてやるなら、自己満足も売名行為も大いに結構。

ところが松居さんのマノボの人々への思いは、司馬さんの言葉を借りれば「生きるのが苦しくなるほどの、並はずれた惻隠の情」。やりたいからやるなんて、生ぬるい気持ちではなく、人々を見捨てれば、自分の身が焼かれるほどの感情が激っているんだろうと推測します。もちろんこれは、私のような凡人が真似ることができない領域。神さまは、ごく稀に、このような魂を持った方を、この世にお遣わしになるようです。


ということで、9回に渡って投稿してきた、私のミンダナオ滞在シリーズはこれで終わりです。ここまで読んでいただいた方、長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございました。


2025年2月13日木曜日

なぜかミンダナオ その8 ビサヤ語は侵略者の言葉

 前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。今回は、ミンダナオ島の複雑な言語事情の話です。かなり刺激的なタイトルですが、実際にこう語る、ミンダナオの先住民の方がいるそうなんですよ。

このシリーズ投稿の最初に、ミンダナオの歴史について簡単にたどった通り、ざっと島の3/4を占めるビサヤ語やイロンゴ語話者がマジョリティの地域。これは歴史的には新規入植者。第二次大戦後と言いますから、せいぜい80年しか経っていません。実は以前から、なぜフィリピン中央部の言葉であるビサヤやイロンゴを話す人たちが、南部のミンダナオに多く住むのか疑問に思っていました。ちなみにミンダナオの最大の都市ダバオの市長を長く務めた、ドゥテルテ前大統領もビサヤ語が母語。家内によると、彼の喋る英語やタガログ語は、ベタベタのビサヤ訛りなんだとか。

こういう経緯があるので、ビサヤ語ほどではないものの、私が訪問したミンダナオ子ども図書館(MCL)周辺には、私が住む西ネグロスの言葉であるイロンゴを解する人が多い。なので、イロンゴに訳した日本の歌を歌ったわけです。まぁ言葉がどうこうより、子供たちにすれば聴き慣れないメロディだったので、ノリはイマイチでしたけど。

とは言え、一緒に食事の用意をした時には、私のイロンゴが結構通じて面白かった。お互いに第二・第三言語なので、かえって分かりやすいし聴きやすい。これは以前に仕事でヨーロッパに行った時、イギリス人とより、ドイツ人やイタリア人との英語会話が通じたのと似てます。ただ、最初はイロンゴで話しかけても、ところどころでビサヤ語が混ざり、聞き返しているうちに結局英語、なんて感じにもなりました。

ところでミンダナオのビサヤ語って、発祥の地であるセブやその周辺のビサヤ(セブアノ)とは、語彙や言い回しがかなり違うそうです。と言うのは、入植者は必ずしもセブからだけではなく、フィリピンの他地域からの人もいるので、タガログやその他のフィリピンの諸言語が混ざっている。私にはまったく分かりませんが、同じ言葉を話してるはずのセブから来た人が、戸惑ったりすることも。

このようにミンダナオは、いろんな意味での多言語地域なんですが、少なくとも私が滞在したMCLでは、ビサヤ、イロンゴ、ミンダナオ土着の言葉でMCLの子供たちが話すマノボなど、どの言語を母語としていても、みんな平和に暮らしています。食材の買い出しに行った公設市場では、私がイロンゴを話すとみんな面白がって、周囲にいた人たちがすぐに言葉をスイッチしてました。

ところが残念なことに、ミンダナオ全島がそうではなく、今も地域によっては、言葉の違い、あるいは宗教の違いを理由にする争いが続いてるとのこと。他島の住民かつ外国人である私には、それについてどちらにも批判的なことは言えませんし、ビサヤやイロンゴを「侵略者の言葉」として忌み嫌う先住民の人がいるのも、仕方ないのかも知れません。

それだけでなく、私がたいへんだなぁと思うのは、こういう環境で勉強する子供たち。特にマノボ出身だと、まず普通に街へ出て買い物をするだけでも、ビサヤ語を覚えないとなりません。さらに学校ではフィリピンの公用語である英語とタガログ(フィリピノ)語を教科としての学習が必須。教科書は公用語で書かれているので、それが不得手だと全教科で成績が悪くなる。いやもうこれは、虐待に近い。せめて公用語は英語だけにしてあげてよと、お願いしたくなります。実際、小学校一年からフィリピンで育った息子など、幸い英語は問題ないけれど、フィリピノ語には悪戦苦闘の12年。

この状況を間近に見ていると、日本語だけで高等教育が受けられるのは、なかなか素晴らしいことだと再認識。日本が明治時代以降いち早く近代化に成功し、20世紀初頭にヨーロッパ諸国に列するところまで行けたのは、母語か比較的母語に近い単一の共通語で、教科書を編纂できたのが大きかった。おそらくどんな方言であっても、書き言葉の漢字を共有してたのも重要だったでしょう。

ということで今日は、言葉の観点からミンダナオ滞在を振り返ってみました。次回は遂に最終回、MCL創設者の松居友(まつい とも)さんについての投稿です。



2025年2月12日水曜日

なぜかミンダナオ その7 タガログ語で歌う

 前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。今回は、ミンダナオ子供図書館(MCL)の子供たちの前で、日本人である私がタガログ語の歌を歌ったというお話。

急に思いついたわけではなく、30代の頃からカトリック教会の聖歌隊の一員として、ずっと歌ってはいたんですよ。それだけではなく、一時はアマチュアコーラスグループに所属して、クラシックの声楽曲を練習したり。一応ホールを借りて、ハイドン作曲の「テレジア・ミサ」を人前で披露するところまでは演りました。もちろんソリスト(独唱者)ではなく、バックコーラスの一員で、当たり前にノーギャラですが、一回でも聴衆を前に歌う経験があると、病みつきになるもんですね。「役者と乞食は三日やったら止められない」なんて言いますが、多分、歌手とかミュージシャンも同じなんでしょう。

その後も日本にいる間は、所属教会で歌い続け、月に一回ぐらいは「答唱詩編」も担当。これは何のこっちゃというと、その週の聖書の一部を朗読した後、そこにメロディをつけて歌う。これが、先唱のソロと出席者全員の掛け合いみたいに歌います。小さなチャペルでも100人ぐらいは集まるので、先唱者になるとなかなか緊張するんですよね。そのおかげで、人前で歌う度胸は鍛えられたというわけです。

そしてフィリピン移住。さすがに人口の八割以上がカトリックなので、ミサで少々大声で歌っても「聖歌隊へ是非!」なんて声は掛かりません。ものすごく信者層が厚い上に、歌うのが大好きな国民性。大聖堂で歌ってる人など、その中から手を挙げた、ほぼプロのレベルの歌い手ばかり。日本だと、そもそもの信者数が少ない上に高齢化が進み、聖歌隊の成り手が少なくて、転勤先で新しい教会に行くと最初のミサの後に100%の確率でお声えがけがあったものなんですが。

それでも毎週のミサでは、英語やタガログ語、時には地元の方言イロンゴ語の聖歌も、耳で覚えて歌ってました。ちなみに私、歌が好きなわりには楽譜が読めないんですよ。その上日本と違って、全員に「典礼聖歌集」みたいな歌詞と楽譜が記された冊子があるわけでもなく、事前練習もできない。ミサ当日にひたすら聴いて覚えるしかないわけです。さすがに最近では、オーバーヘッドプロジェクターで、歌詞だけは見られるようになりました。

ところが5年前のコロナ禍。ミサに行けなくなっちゃったので、週一の歌う機会が奪われてしまい、仕方なくYouTubeでカラオケ音源を集めて歌詞を印刷し、一人で「ボイストレーニング」と称して歌の練習を始めました。

なかなか孤独な趣味なんですが、始めてみると面白く、何より毎日1時間近くも歌ってると声も出るようになる。最初は途中で息切れしたり、高音部で声がかすれてた曲が、普通に歌えるようになると、ではもう少し難しそうな曲に...とチャレンジ。そうこうしているうちに、レパートリーは100曲以上になりました。日本語・英語だけでなく、タガログ語によるOPM(オリジナル・フィリピノ・ミュージック つまりタガログ語の歌謡曲)や、ラテン語のミサ曲やイタリア語、さらには、家庭教師にイロンゴ語の訳詞を書いてもらった日本の流行歌。

コロナ禍が下火になった後も、習慣になったボイトレはずっと続けていて、今では親戚や友達のパーティで歌ったりしてます。その話は何度もこのブログでも取り上げました。これって日本で同じことしようとしたら、それこそ落語の「寝床」に出てくる、義太夫を無理やり聴かせる長屋の大家さんみたいに、迷惑がられるかも知れませんが、フィリピンではとにかくウケる。まぁ私が歌い出さなくても、パーティがカラオケ会場になっちゃうのはよくあるパターン。



ミンダナオまで持参した愛用の譜面台
楽譜ではなく歌詞カードですが

延々と書いてきましたが、そんな背景があったので、今回のMCL訪問に際しても、夕食後の歓迎会と送別会に思いっきり歌いました。曲目は英語や日本語、タガログ語に前述のイロンゴ語訳の歌などなどでしたが、結果的に一番盛り上がったのは、みんなが知ってるアップテンポな曲。特にビートルズの「オブラディ・オブラダ」と、アバの「ダンシング・クーン」が全員で合唱になるほどの大騒ぎ。私はマイクを使わず歌うスタイルなので、自分の歌声が聴こえないほどでした。なぜかフィリピンでは、すごく若い世代でも1970〜80年代のポップスをよく知ってるんですよね。

あと、日本人スタッフの梓さんにいただいたのが「日本人がタガログやイロンゴで歌うと喜びますよ」というアドバイス。イロンゴ訳の歌はイマイチでしたが、タガログ語の「マイ・ブーカス・パ(フィリピン版 明日があるさ)」は、しんみりと聴き入ってくれました。

ちなみに夕食後のミニ・コンサート。私が一方的に歌うのではなく、子供たちもギターの伴奏で歌ったり踊ったりしてくれました。元々それがメインで、ゲストがこんなに歌い倒すのはわりと珍しかったようです。

ちょっと失敗したのは、歌う前に喋りすぎちゃったこと。MCL創設者の松居さんやそのご子息、スタッフの梓さんに、たまたまMCLに滞在中だった日本の学生さんたちと、久しぶりのまとまった日本語会話。こうなるとつい喋り続けてしまうんですよ。何時間ものお喋りの後に歌うのは、喉への負担が大きかった。

というわけで、やや「日本爺さんの自己満足」の気配があったものの、全体的には子供たちが楽しんでくれたようなので、まぁ上手くいったかなと思います。

次回は、ミンダナオ島の複雑な言語事情についてのお話です。



2025年2月5日水曜日

なぜかミンダナオ その6 フィリピンの食生活

 前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。5日間にわたって、ミンダナオ子供図書館(MCL)の子供たちと、食事を一緒に作って食べるという経験しました。日頃、フィリピンの家族のために、地元の食材を使った食事を毎日用意しているので、料理したり食材を買い揃えるという行為は、特別新しい経験ではなかったのですが、日々の食事を支えるスタッフや子供たちのリアクションには、いろいろと考えさせられました。

まず前々回にも書いた通り、決して潤沢な予算があるわけではないMCLで、何十人もの食べ盛りの子供たちに食べさせるためには、いかに安く食材を入手するかが一番の課題。そのために、寮母さんたちは毎週の買い出しに市内の市場やスーパーを駆けずり回っておられます。それでも、食卓に並ぶおかずを見ていると、品数も量も十分とは言えないなぁというのが、私の率直な感想。

もちろん、子供たちが生まれた環境からすれば、とにかく三度の食事にはありついているので、もし食事内容について質問したとしても、少なくとも不満はないし、文句を言ったらバチが当たる...という感じなんだろうとは思います。日本人スタッフの梓さんによると、1日1度の食事さえ難しいような家庭から、新しく入ってきた子供の場合、最初のうちは食べきれないほどのご飯を自分の皿に盛ってしまう。そして他の子供が食べ終わった後も、黙々と食べ続けるなんてことも。

ちなみにフィリピンでは、貧困層とまではいかなくても、経済的に余裕ない人は、僅かなおかずでたくさんのご飯を食べるスタイルが一般的。以前の我が家のメイドさんが典型的にこれ。通いなのでお昼だけは、私が家族に作ったものを一緒に食べてましたが、例えば前夜のカレーの残りを出すと、山盛りのご飯に、ちょっぴりのカレー。時々食べすぎて、午後からの仕事に支障が出るほど。

なので、私が追加で作った料理を、みんながすごく喜んでくれたのは、料理の出来や味つけ以前に、単純に食べられる量が増えたというのも大きいでしょう。さらに、日頃なかなか口にできない食材、例えばシチューに入れたマッシュルームとか、お好み焼きにトッピングした刻んだエビなどが嬉しい。朝食に出したサンドイッチでは、中身の卵よりパンそのもの。MCLでは3食とも米が基本ですからね。一緒に食べててそう言われると、心の中で「そこか〜い」ってツッコみつつも、なんだ不憫になってしまいました。

蛇足ながら、最後の昼食に作ったスパゲティ・ナボリタン。寮母のジョイさんが「テースティング(味見)」と称して、食事前にけっこうな量を食べてたのが可笑しかった。



市場にてジョイさんとツーショット

その反面、バリエーションの幅が少なくても、MCLでは野菜や肉のバランスも、それなりに考えられた献立なので、まだ救われてます。かつて私が接したことのある貧困層の食生活は、まったくお話になりません。

そもそも食育どころか、親がまともな教育を受けていないこともあり、子供が好むものだけを与えるなどして、虫歯だらけだったり、極端な偏食家に育ってしまうケースがとても多い。つまり、肉と白米だけしか食べない、逆ビーガンな人たち。なので、お金に困っているのに肥満だったり、糖尿病や心臓発作で亡くなる人がどれだけ多いか。平均寿命が日本より約15年から20年も短いのは、新生児の死亡率の高さや医療の不備もありますが、日頃の食生活が影響している側面も無視できないと思います。

ちなみに、おかず少なめでご飯大盛りって、なんだか既視感があるなと思ったら、私の母がよく話してくれた子供時代の食生活。それも、戦時中や終戦直後の食糧配給制の時代ではなく、かなり食料事情が改善してきた昭和20年代の後半から30年あたり(1950年頃)。まずは米増産!ということで、白いご飯だけは腹一杯食べられるようになったけど、毎日お肉とか毎朝卵はまだちょっと届かず。たまに「今日はすき焼き」なんて言われると、みんな大喜び。子沢山も今のフィリピンに似ていて、母は6人、父は8人の兄弟姉妹だったそうです。

意外なところで、父母が子供の頃、毎日食事を作っていたであろう祖母たちの苦労に思いを馳せてしまいました。ということで、MCLでの料理編はこれで終わり。次回はフィリピンの子供たちの前で、変な日本人がタガログ語の歌を歌った話です。