2024年7月31日水曜日

騒音の内憂外患

 もう7月も終わって明日からは8月。フィリピンでは、学校にもよりますが、8月から新学期がスタート。本来の夏休みは、乾季で一番暑くなる4〜5月だったはずが、4年経ってもコロナ禍の影響で2ヶ月ずれたまま。かわいそうに学童・学生たちは、体感温度が40度前後だった猛暑の中を登校させられて、せっかくの休みは連日の雨。これはアカんと気付いたのか、来年から元の日程に戻しますと、教育省からのお達しがありました。

高校三年生の息子の通う、ネグロス島シライ市内の私立高では、一足早くこの月曜日から新学年。最近、ヒョロっという感じで背が伸びた息子も、以前と変わらず飄々と毎朝登校しております。

さて今日の本題は、フィリピンに移住した多くの日本人が悩まされるであろう、近隣からの騒音について。もうすぐ62歳になる私より一回りぐらい先輩の、ある邦人女性は、フィリピンで悠々自適の引退生活を楽しむはずが、連日の隣近所からの大音量音楽に悩まされて、残念ながらの帰国に至ったとのこと。そこまでいかなくても、ストレスを抱えながら日々を過ごしている人も多いでしょう。意外とフィリピン人でも、そいうい人は一定の割合でいるようです。

移住11年を迎えた私の場合、騒音を出さないことがルールの宅地内に家を建てたはずが、そんなことお構いなしの住民たちの騒音との戦いの連続。最初は、夜な夜な、宅地では禁止されている闘鶏を開催してた裏の大金持ち。そのオーナーが病気で寝たきりになって静かになったと思ったら、隣で新築工事が始まって、大工が大音量の音楽を流しながらの作業。何度苦情を入れても元の木阿弥で、ついに現場監督相手に大喧嘩。

工事が終わったら、次は向かいのオバはんが、これまた禁止されてる養鶏場を始めました。それもただの雄鶏ではなく、闘鶏用のを多数。深夜の2時3時に一斉に時を告げるもんだから、こちらは毎日寝不足。私が出るとまた喧嘩になるので、家内に間に入ってもらい、何とか養鶏は断念させました。

そしてコロナ禍。養鶏オバはんとは反対側の隣家の小学生の兄弟二人が、毎朝私の寝室の前を絶叫しながら自転車遊び。その次は、その隣の空きロットで、オーナーのオっさんが畑を始めました。ただ畑仕事するなら構わないんですが、野外ディスコに使うようなでっかいスピーカーで、終日大音量の音楽。宅地の警備員経由で苦情を入れたら、バランガイ訴訟に。いや、話が逆でしょ?

さすがにこれは、オッさんの言い分に無理があって、軽くバランガイ・キャプテン(町内会長みたいな役職)にいなされて、事無きを得ました。

直近が、新築工事の時に揉めた家。引越してからオーナーと直接話したことはなく、何となく嫌な感じながら平穏だったところ、わざわざ私の寝室の前の路上で、子供二人とバスケットボール。まだバトミントンなら良かったんですが、あのドリブルの音と振動って、頭に直接響くんですよね。それも1回だけじゃなく、二日続けてだったので「頼むからやめてくれ」と言った瞬間に、オーナーの男性(多分30代後半ぐらい?)がいきなりのブッチ切れ。

「ここはお前の道路じゃな〜い」と叫び出しました。一緒に遊んでた女の子二人はドン引き。まるでダダっ子。このまま怒鳴り返したら、拳銃でも持ち出しそうな勢いだったので(フィリピンでは民間人でも銃所持OK)、努めて冷静に「もちろん私の道路じゃないけど、あなたのバスケットボールコートでもないでしょ?」と理詰めの説得モード。しばらく話して、最後は握手で別れることができました。やっぱり子供みたい。

ここまでなら「またか」なんですが、さらに今回は、先月から介護移住で同居している高齢の父が、戦線に加わってきました。88歳のこの爺さん、若い頃から建築現場で仕事をしていてやや難聴。加齢で拍車がかかって、テレビを見る時の音量が半端ではありません。日本にいる頃から、ネットフリックス用にと買い与えたクロームキャストが、思いの外お気に入りで、こっちでも毎日「大谷選手」と「嫌韓・嫌中・日本すごい」番組のユーチューブ。わざわざ一軒家の離れまで用意したのに、それでも全開した窓から、フィリピン人もびっくりの大音量。

前回の投稿でも書いた通り、元々あまり仲が良いとは言えない親子の私たち。うるさすぎるからテレビ見るんなら窓閉めてエアコン使えを言ったら、例によっての逆ギレ。

実は、これ以外にも、ネガティブな出来事が立て続けだった7月。2週間ぐらい雨ばかりで気圧も低かっただろうし。かつて日本のサラリーマン時代に10年以上も苦しんだ鬱が、またぞろ頭をもたげて来て、一時はちょっとヤバかった。

しかしながら、分かりやすいというか現金なというか、雨季の中休みのように青空が広がり出すと、精神状態は一気に上向き、それとシンクロするように、周囲の状況も少しづつ好転。ということでやっと更新する気になった今日のブログは、愚痴大会になってしまいました。


2024年7月15日月曜日

高齢両親、再びネグロス島へ

 前回の、ネグロスの主峰カンラオン山噴火の投稿から、もう1ヶ月以上の間が空いてしまいました。その末尾にも記したように、私の両親が、昨年11月に続いて再びこのネグロス島の自宅に滞在しております。お陰さまで、その後カンラオンは平静を保っていて、最寄りのバコロド・シライ空港が閉鎖になることもなく、予定通り無事ゲストハウス到着して、かれこれ3週間が経過。

何度か投稿したように、この離れ家は、兵庫県尼崎にあった実家の間取りを再現したもの。小ぶりながら寝室二つとリビング・ダイニング、トイレとシャワーに加えて、湯船のある浴室も用意しました。二人で住むには十分な広さがあります。


到着早々、父のボストンバッグの鍵の紛失騒ぎや、母がまったく着替えの準備をしていなかったことなどが発覚してバタバタとしたものの、何とか当日はぐっすり寝てもらいました。連日猛暑日が続いた6月初旬までの乾季が終わっていて、心配していた暑さもそれほどではなくひと安心。

翌日は、同行した弟の提案で、すでにリビングにあるテレビとは別に、母の寝室専用のテレビと、それを視聴するための安楽椅子を購入。ついでに母の衣類も家内に付き添ってもらって、上から下まで全部調達。下着も靴下もない状態だったんですよね。まるで着の身着のまま難民状態。

一旦は要介護3で施設に入っていた87歳の母。ケアマネージャーさんも驚く、奇跡の回復を遂げて昨年実家に帰宅。入浴や排泄など最低限の身の回りの事は大丈夫で、話しかけたらそれなりの反応は返っては来ますが、認知症の症状はジワジワ出ているらしく、旅行の準備のような、ちょっと込み入ったタスクは、もう無理なようです。

とは言え、88歳の父はまだ頭もはっきりしていて、日本にいた時同様、トーストと卵、ハムの簡単な二人分の朝食の準備は任せています。日中はテレビを見たり、趣味の模型作りで世話要らず。何よりも助かるのは、二人とも年齢の割には旺盛な食欲で、私が作る昼と夜の食事は、毎回完食。それも炒め物や揚げ物、何でも「おいしい、おいしい」と平らげます。

言葉は通じなくても、メイドのグレイスおばさんとも上手くいっている様子で、たまにグレイスのサポートで、母は車椅子、父は徒歩での散歩に出たり。こう書くと、介護移住は順風満帆のようですが、万事順調・めでたしめでたしにはならないのが現実。

実は前回も、誰もいない部屋のエアコン・扇風機・照明の全部つけっぱなしやら、水道の締め忘れなどがあって、何度か注意。今回はさらに輪をかけて、窓を全開にしてエアコン稼働。それが三日続けてあったんですよ。実際にエアコンをオンにしているのは母なんですが、隣室の父はそれに気づかない。それでなくても物価に比べて電気代が高いネグロスなので、再三父に苦言を呈しました。ただ残念ながら、昔から私との関係が良好とは言えなかった父。身内に対して素直に謝るということができない性格。

冷静に考えてみれば、すっかり耳が遠くなった父なので、もうちょっとソフトに対応すればいいのは分かっているけれど、父も「金やったら払う」「そんなに文句言うなら日本へ帰る」と逆ギレ状態。売り言葉に買い言葉で、どうしても私の言い方もキツくなりがち。元気な時は、クッション役をしてくれてた母も今は半分寝たきり。ある程度想定はしてましたが、老齢の親との同居って、肉親であるが故の難しさがあるものです。

しかしながら、さすがに今回は、しばらくして自分の立場に気づいたのか、おそらく私が生まれて初めて、父の方から謝ってきました。かつては家族全員に大迷惑をかけた父。その時も、一度たりとも頭を下げなかったことを考えれば、ずいぶんと変わったとも言えるでしょう。

そして最大の功労者がフィリピン人の家内。図らずも、母に代わってクッション役になってくれています。日本に限らずフィリピンでも、義理の仲は拗れがちなもので、私たちの結婚には大反対だった母。ところが母が足を骨折して入院した際には、毎日病院に通って入浴の介助をした家内。よく言われる「フィリピノ・ホスピタリティ」を体現するような働きでした。それ以来、両親共々、このフィリピン嫁に心酔して、今回の介護移住も「嫁がいてくれるなら」との思いもあったからでしょう。

ということで、孝行息子とは程遠い私ですが、家内やメイドさんの助けを借りながら、なんとか親との毎日を過ごしております。この件は、同じく介護な必要な身内がおられる方々には、何かの参考になるかも知れませんので、時々経過報告しますね。ちなみに両親、観光ビザでの入国なので、年内には一時帰国の予定です。