2025年6月30日月曜日

箸でカレーを食べる高齢両親

 今年の3月に再び我が家にやって来た、もうすぐ90歳の高齢両親。今回は12月初旬まで滞在予定で、その半分ぐらいの日程が終わりました。

両親のためにわざわざ建てた2LDKの一戸建て。その値打ちが発揮されてる感じで、すっかり生活も安定した今日この頃です。相変わらず半分寝たきりの母ですが、食事の時には自分の足で歩いて母屋にやって来ます。特別にお粥などの流動食は用意せず、もうすぐ20歳の息子(つまり母にとっては孫)と同じ献立を、88歳という年齢の割には、毎食きちんと食べています。

それに比べて父はかなり元気で、暇つぶし用に日本から持って来た、大きなジグソーパズルに取り組む毎日。日に一回は、家の周りをややよたつきながらも歩行訓練。相変わらず照明や扇風機の消し忘れはあるし、窓全開でエアコンを回すスカタンはやりながらも、一応の意思疎通はできている。

ただ、二人ともアルツハイマーの兆しが出ているのは間違いなさそうで、食事時のふとした行動に違和感を覚えることもしばしば。最近気になってるのは、なぜか頑なにスプーンを使わないこと。明治や大正ではなく、ギリギリとは言えレッキとした昭和二桁生まれの両親。子供時代から普通にスプーンやフォーク・ナイフは使ってた世代だし、それしかなければ、今でもそれで食事はします。

ところが、フィリピン式の食事作法に則ってスプーンとフォークを並べると、なぜかフォークだけで食べようと頑張ってしまう。私はよくチャーハンを作るんですが、まるで親の仇のようにフォークだけしか使わない。それでキレイに食べられれば良いんですが、案の定、食後の皿にはご飯粒がポロポロ残ってる。「スプーンの方が食べやすいやろ?」と言うと、スプーンを使うものの、翌日にはネジが巻き戻るように元の木阿弥。

別に残したって構わないんですが、かつて弁当箱の蓋の裏に、ほんの少し米粒を残したら、烈火の如く怒った母なので、子供の立場としては、なんだか悲しくなってしまいます。おそらく認知能力が下がっただけでなく、目もよく見えてないんでしょう。

父に至っては、カレーを箸で食べようとする始末。もちろんカレーだけなら箸は出しませんが、たまたま野菜サラダも作ったので、箸の方が取りやすいかとの配慮の追加。ところが一旦箸を持ったら、食べ終わるまでスプーンには触るものか!みたいな勢いです。そして食べ終わった後の皿は、ものすごく汚い。変なところだけ、一般的なフィリピン人に似てしまってますねぇ。(ちなみにフィリピンでは、食べ終わってお皿がきれいな人の方が珍しい。)

まぁ、多少食べ方が汚くても、私の作る料理が口に合ってるようで、食事前は、10分か15分も前から、食卓のある母屋の部屋が見える場所で「メシはまだか」とばかりに待機状態。何だか、親子の立場が逆転しちゃったみたいです。

と、衰えてしまった両親をあげつらうような書き方をしてしまいました。しかし車椅子が必要で、毎回弟が付き添いをしながらも、飛行機に乗って外国のフィリピンまで来るだけでも、年齢を考えればずいぶんと活動的。気候への順応力も大したものです。英語は二人とも全然ダメで、父など1970年代にはオイルショックの煽りで、ドバイで出稼ぎ労働してたのに、結局英語はモノにならなかった。それでも掃除や洗濯してくれるメイドのおばさんには、分からないながらも優しく対応。これは面倒を見る側にすると、たいへん助かる。

最近つくづく思うのは、介護移住という観点では、フィリピンの地方って本当に適地。住む場所もそこそこ広くて、完全ニ世帯住宅(狭い敷地に上下で分けるのではなく、別棟を建てられる)も可能。メイドさんや介護士も、必要なら住み込みで雇えるし、寒い冬もない。

ということで、これから親の介護に直面しようという、私と同世代の人々へ。フィリピンへの介護移住は、真面目に選択肢の一つとして検討するに値しますよ。


フィリピンで教える難しさ

 ぼやぼやしてたら、あっという間に今年も半分終わり。もう6月の30日になってしまったので、駆け込みで何本か投稿します。

まずは先月(2025年5月)から始めた、オンラインでの日本語教師。なれない教職で、かつ生徒がフィリピン人。難しいことはあるだろうと予想はしてたものの、やっぱりいろいろ起こってます。

本来は、日本での就職希望者を募って、20人ぐらいに対面授業をする計画で、隣街の州都バコロドに小ぶりながら学校まで建設中。日本在住のフィリピン人経営者で、私の10年来の友人でもあるダイアナ女史が、かれこれ1年ぐらい前に声をかけてくれて、今の仕事をしているわけです。日本とフィリピンを往復して頑張っているダイアナなんですが、これが、なかなか順調...というわけには行きません。

学校の工事は遅れまくってるし、何社かある、交渉中の日本のクライアントとも、話がまとまりそうでまとまらない。ようやく動き始めたのが、ダイアナの知り合いで、日本で小さな会社の管理職をしている、某フィリピン女性からのオファーによる今の仕事。彼女の親戚でマニラ在住の20代女性に、日本での仕事を手伝ってもらうということで、それに先立って、基本的な日本語を教えてほしいという内容。

記念すべき私の生徒さん第一号は、日本語会話経験がほぼゼロ。私はフィリピンの言葉はイロンゴ語(私が住む西ネグロスの方言)しか解さないので、当然のように、英語で日本語を教えております。まぁ、それは大きな問題ではないんですが、困ったのは、この生徒さんの学習モチベーションの低さ。

もう半年もしないうちに、日本に渡って仕事を始めるというのに、予習・復習はしてくれないし、平仮名すら、まったく覚えようとしない。平日は自宅からマニラの職場へバス通勤で、オンライン授業は帰宅後の7時半から。朝も早いので、この時間には疲労困憊なのは仕方ないですが、ちょっとこれはマズいんじゃないか?

教科書は「みんなの日本語」を使っていて、これは版を重ねた初心者向け日本語教育のバイブルのような本。内容は充実しているものの、最低でも平仮名と片仮名は読める人向けに作られているので、毎回の授業では、アルファベットでルビを振った教材を、用意しないといけません。これが相当な仕事量。今回だけお終いではなく、今後も使い回しができるとは言え、今もらってる給料とは、とても釣り合いません。

なのでこのままでは、労力だけかかって、半年たっても片言レベルにしかならない。危機感が募り、ほぼ私に仕事丸投げ状態だったダイアナに「これヤバいよ」と伝えました。その回答が「大丈夫、仕事でほとんど日本語を使わないから」。何じゃそりゃ〜。

日本での仕事というのは、日本へのフィリピン商品の輸入関連。職場では基本英語だけだし、小売のお客さんは在日フィリピン人がほとんど。こちらはタガログが喋ればそれでOK。日本語は、買い物や交通機関での移動など、生活で必要な最低限の日本語ができれば良いらしい。生徒さん本人もそういう意識。そういう大前提は、授業が始まる前にしてくれよ〜。

ただ、そういった学習意欲の問題だけでなく、フィリピンあるあるの「今日は頭が痛いから」「飼い猫の具合が悪いので獣医に行きます」「大渋滞で時間までに帰宅できません」などなど、言い訳オンパレードで、やたら欠席が多い。どれも嘘ではないようなんですが、それにしても、ちょっと休み過ぎですねぇ。

そして極め付けが「ネットが死んでて授業受けられません」。この投稿を執筆中の6月末日がこの状況で、かれこれ1週間もネット不通。これは実際フィリピンのネット事情からすると、まさに「あるある」で、広範囲のネット障害も頻繁だし、今回のように特定の回線だけ不通になることも、実によくある。キャリアに連絡しても、何日も修理に来ないし、来ても「原因不明」で何の対策もなく業者が帰っちゃったり。我が家もこれが原因で、キャリアを替えましたから。

ということで、一体いつ再開できるのか見通しが立たないまま、7月を迎えようとしております。


追記:と書いた直後にWiFiの修理が終わったとのことで、久しぶりの授業がありました。大雨で帰宅が遅れて短縮授業の上に、隣家のパーティでカラオケ騒音がすごかったですけど。



2025年6月6日金曜日

フィリピンの大学で奨学金


「サクラサク」ならぬ「カエンジュサク」
の季節のフィリピン

「結果が分かり次第、報告します。」と書いてからすでに1ヶ月強。本日(6月6日)早朝、やっと息子が受験したセント・ラ・サール大学から、奨学金受け取り許可の連絡が来ました。それも郵送や電子メールでさえなく、該当者の名前をフェイスブックのホームページでシェアするという方法で。

合理的だし間違いが少ないし、FB普及率は九割以上の、いかにもフィリピンらしいやり方なんですが、同じこと日本でやったら、確実に炎上案件でしょうね。

それはともかく、まずラ・サール大学の合格は数週間前に分かっていて、息子が言うところの試験の感触からは、おそらく問題なしと思っていました。なので、飛び上がって大喜び...ではなかったものの、今日の奨学金に関しては、学費を支払う側からすれば相当嬉しい。そりゃそうでしょう。一時はマニラで一人暮らしの支援まで覚悟してたのが、バスで通える近場の大学に無料で通えることになったんですから。

しかも私たちが住むシライ市では、先月2選を果たしたガレゴ市長の政策で、シライ市内から隣市のタリサイやバコロドの学校に通う学生のために、無料送迎バスが運行されてます。これは本当に助かります。

これで昨年8月のフィリピン大学を皮切りに、4校の受験と最後の奨学金まで全勝でパスした息子。まぁ本当にたいへんなのは、大学出てからなんでしょうけど、親の責任範囲でここまで好成績なのは、素直に喜び、褒めるべきところ。この週末は、ちょっと美味しい晩御飯でも作りましょう。

さてここからは親馬鹿モード全開で失礼します。

この奨学金の難度なんですが、新入生が約1,000名に対して、受け取ることができるのは息子を含めて60名。奨学金のために別のテストがあったわけではなく、高校での成績がトップ数名に入っていて、入試の成績が優秀なことが条件。さらに最終考査は一人一人に面接となります。そのために先週、大学の先輩でもある、息子の従兄アンドレの運転する車で、ラ・サール大学に面接を受けに行ってました。

「うちは貧乏やから、奨学金がないと大学行けないんですぅ」と言ってこいと冗談を飛ばしてたものの、もちろん質問内容はそっちじゃなかったと思います。おそらく学業に対する意識の高さの確認みたいな事だろうと推測。もちろん受け答えは英語なので、それは息子の得意分野。帰宅後「たぶん大丈夫」との言葉通りとなった次第。

そして前回も少し書いたように、学びたいのはコミュニケーション。当初は言語学に興味があると言ってたし、フィリピン大学もガチの言語学専攻にトライだったのが、最終的に選んだのが、同じ「コミュニケーション」でも、商業寄りな分野。映画やテレビ、印刷媒体について学ぶんだとか。「で、何の仕事をしたんや?」と訊いたら、コンピューターゲームの製作者になりたいとの返事。つまり、何らかのエンターティンメントを作る側に行きたいらしい。

本人はマインクラフトから入って、多少のプログラミングはできるようで、そこからコードがりがりのプログラマーより、もうちょっと全体を俯瞰する立場を狙ってるということか?

まぁ、大学に入る時の希望と実際の就職では違っていて当たり前で、それはこれから息子がどんな人や世界と出会うかで、まったく変わってくるでしょう。かつてアートを目指して芸大に入ったけど、工業デザイナーとして家電メーカーに就職した私なので、その辺りは楽観的に眺めております。

何をやるかも大事なんですが、それよりも私の関心事は、どこで働くか。そもそも国外に働きに行く事自体のハードルがめちゃくちゃ低いフィリピン。むしろ、自国内で待遇の良い職場を探す方が難しいぐらい。それなら英語はできて、専門能力さえあれば、英語ベースの外国の方がはるかに良い暮らしができて、面白い仕事もできる。

極端な人物がリーダーになってしまい、移民に対してひどい対応を始めたアメリカは別としても、シンガポールやオーストラリア、ニュージーランドに中近東などなど。中近東で労働と聞くと、肉体労働者やメイドを思い浮かべがちですが、数は少ないながら、企業に就職して管理職に就くフィリピン人もいる。何を隠そう我が家のご近所さんは、サウジアラビアでボーイング社の部長だった人で、数年前に定年退職して悠々自適の暮らしをしてます。

何なら日本語マルチリンガルの能力を生かして、日本の外資系企業で働くという手もある。

ということで、先走った馬鹿親の皮算用になってしまいましたが、大学の4年間って本当に楽しい時期。新学期は周囲の公立校より少し遅めの7月1日からで、まずは、いろいろと満喫してほしいものです。