度々このブログで触れているように、私はカトリックの信徒です。敬虔でもなく真面目でもない不良信徒ですけれど、日曜日朝のミサには、だいたい毎週参加しております。カトリックの洗礼を受けた経緯は、以前詳しく書きましたので、ご興味のある方は、こちらをどうぞ。
ミサでは聖書の朗読が付き物。読む箇所は毎回決まっていて、全世界共通です。昨日の福音朗読は、マタイによる福音書の第6章24節から34節でした。この一節、いつも読むたび、聞くたびに考え込んでしまいます。全部引用するとかなり長いので、最後の部分だけご紹介しましょう。
明日のことまで思い悩むな。明日のことは、明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
日々の仕事に追いまくられている、現代日本人のためのような言葉。でも当の日本人にそう語りかけたら、「明日のことを心配せんで済むんやったら、誰も苦労はせんわ!」とたちまち反論の嵐になりそうです。
日本人ほど将来のことを深刻に悩んでいる国民は、世界中探しても他にいないかも知れません。職場がどんなに辛くても、そう簡単には辞めない、辞めさせないのは、路頭に迷うことを異常なほどに恐れるから。(でも実際に辞めてしまった経験のある人ならば分かるように、意外になんとかなってしまうものです。)
私が今住んでいるフィリピンの人達は、ある意味、日本人とは対極のメンタリティを持っています。わざわざ聖書の言葉に学ぶまでもなく、明日のことを真剣に思い悩んでいる人は、あんまりいない。もちろんこれは程度の差であって、まったく何も考えていなければ、いくらフィリピンでも生活ができません。ただ、日本人のように、神経をすり減らして夜も眠れない、なんて人は珍しい。
その証拠に、仕事でも遊びでも、何週間も先の約束をすると忘れてしまうことが多いし、日本人に比べると時間もかなりアバウトにしか守らないのが多数派。とことん思い詰めるのは、恋愛のことぐらいなんじゃないでしょうか。
と書くと、フィリピン人の悪口を言っているようですね。そうではなくて、私は心底フィリピン人が羨ましい。早期退職後フィリピンに移住して、ストレスになるようなことは、極力自分の人生から排除したつもりなのに、やっぱりあれこれ先のことを心配している自分がいます。いくら日本から離れても、50年も培った日本人の感覚は、そう簡単に捨てられるものではありません。
思い悩まないのは、カトリック信仰が原因だと、宗教に縁遠い日本人はつい考えがち。でも私はそうとも思わない。一時期、仕事で頻繁に訪れた東南アジアの国では、大なり小なり同じような感じでした。タイは仏教国だし、マレーシア、インドネシアはイスラム教徒が多い。どの国でも、道行く人の表情には日本のような緊張感がないし、実際に話してみても、思い悩んでいるような人に会った記憶がありません。
国民性や文化に一番影響を与えるのは、やはり気候風土。東南アジア諸国が一様にゆったりと見えるのは、一年に二度も三度も米が収穫できて、適当に作った家でも、凍え死ぬこともない。つまりちょっとぐらい失敗しても、なんとか生き延びることができる場所だった。こう言う環境に何世代も暮らせば、将来のことを思い悩む必要もないでしょうね。
フィリピンの場合、永年にわたって育まれた国民性に、キリスト教がうまくフィットして、今でも人口の9割がクリスチャンという状況を生み出したと、考えた方が良さそうです。
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