2018年3月11日日曜日

積み重なる「運命の日」


今年も3.11が巡って来ました。あの大津波と原発事故からもう7年。当時はまだ大阪にいて、鬱病による休職中だった私。自室に置いてあったテレビから流れる、信じられないような映像の前に釘付けになっていたのを、今も鮮明に覚えています。

被災して、身内を亡くしたり、住む場所を追われた人たちにとっては、まさしく運命の日。これを境に、人生が大きく変わってしまったことでしょう。3.11のような、大きな災害が起こった日を迎えて、いつも感じるのは、こうした運命の日が、年々積み重なっていくこと。

私が生まれたのは、先の大戦が終わってから17年後。まだ両親や祖父母、親戚にとって生々しかったであろう戦争の記憶。母は親元を離れ、空襲を避けて長野へ集団学童疎開。父は大阪大空襲を目の当たりに。

その両親から戦争のことを聞かされて育った私には、終戦記念日の8月15日、大阪大空襲の3月13日、広島と長崎に原爆が落とされた8月6日と9日が、運命の日として心に刻まれました。

成長して年月を重ねるうちに、自分自身がリアルタイムで経験する、大災害・大事故も加わります。最初は、大阪万博が開催された1970年(昭和45年)4月8日の、母の実家近くで起こった、地下鉄工事現場での天六ガス爆発事故。ちょうどこの日の昼間、まだ20代だった母方の叔母が、私の住む尼崎の家に遊びに来ていて、帰路についた直後に、テレビ報道でこの事故を知りました。

爆発に巻き込まれたんじゃないかと、生きた心地もしないほどの心配。幸いにも叔母が大阪市バスに乗ったのは、事故の後だったので、経路を変更して迂回運転。大火災のため、空が真っ赤だったそうです。

時代は下って1985年の、私が就職した年。初めてのボーナスを貰い、当時のガールフレンドと連れ立って、オープン直後の東京ディズニーランドに遊びにいった時。家族には「飛行機で東京に行ってくる」とだけ言い残し、ディズニーランドからホテルに戻った夜、羽田発・伊丹往き日航ジャンボ機(123便)消息不明の報道に接しました。(その後、群馬県の御巣鷹の尾根への墜落を確認)それが、忘れもしない8月12日。

慌てて自宅に電話を入れると、母はほとんどパニック状態。本当はその翌日に戻る予定だったのですが、ちゃんと伝えていなかったものだから、ひょっとして息子があれに乗っていたら...となっていたわけです。

その10年後、1995年1月17日の阪神淡路大震災。この時住んでいた尼崎の実家が、かなりの被害を受けました。幸いにも家族や友人、会社の同僚はみんな無事だったものの、真っ暗な中での突き上げるような衝撃を感じた瞬間には、もうこれで終わりかとの思い。生まれからあれほどの恐怖は、後にも先にもありません。

そして直近では、2013年のフィリピンに移住した年の11月8日。史上最強と言われた30号台風ヨランダ(フィリピン名)が、ネグロス島を含むビサヤ地方を直撃。竜巻並みの強風と大津波に匹敵する高潮で、6200名もの死者を出しました。

比較的被害が小さかったシライ市内も、電気・通信が丸2日間ストップ。復旧の見込みはない状況で24時間以上停電というのは、阪神淡路大震災時の尼崎市内でも経験したことないもの。あれは実に心細い2日間でした。日本にいる家族や友達に連絡を取る手段が皆無なので、ずいぶん心配させてしまったようです。

こうして書いてみると、いろいろあった割には、自分自身も家族にも、大きな怪我もなく無事に切り抜けてきたんですね。もう幸運以外の何物でもなく、今はただひたすら、神さまに感謝するだけです。


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