2020年10月31日土曜日

台風オンドイの悪夢

これを書いている2020年10月31日、ハロウィンの午後。マニラ首都圏のあるルソン島に19号台風ローリー(フィリピン名 Rolly)が接近中です。中心気圧915hPa、中心付近の最大風速が秒速60メートル、瞬間最大風速が秒速85メートルの「猛烈な」強さ。

観測史上初めて、7月の台風発生がなかった今年。その後8月にはその帳尻合わせのように、10個の台風が発生して、日本にも大きな被害が出ましたが、不思議なことにフィリピンにはほとんど影響がなかった。

ところが10月の後半、立て続けにフィリピンに上陸する台風が続いたと思ったら、ハロウィンから万聖節(All Saints Day)という、この国では、死者のために祈る祭日を狙って、今シーズン最強の暴風雨が。

フィリピン中部ビサヤ地方のネグロス島に住む私としては、猛烈な台風というと、移住した2013年にビサヤを横断した、スーパー台風ヨランダを思い出さずにはいられません。あの時は、レイテ島東岸の州都タクロバンが、高潮のために壊滅的な被害を受け、死者6,300名、行方不明者1,062名、負傷者28,688名という、フィリピン史上最悪の台風被害。

私の住むシライでは、比較的被害は軽かったとは言え、土地の低い場所に住む貧困層の人々の多くが、強風や洪水で家財を失いました。我が家のメイド、ライラとその家族も被災者。なんと、今年になってようやく被災者救済のために作られた公共住宅が、やっと完成したそうです。復興に丸7年もかかったんですね。今はそこに、ライラの80代のお母さんが暮らしているんだとか。

それ以外にも、この時の洪水で、写真やアルバムが全部流されてしまい、2013年以前の子供時代や家族の思い出がなくなったという人の話も聞きました。つらいことです。

今回の台風ローリーは、風速や気圧の点でヨランダほどではないけれど、その進路が、2009年に首都圏を中心に甚大な被害をもたらした、台風オンドイ(Ondoy)に酷似。まだ私は移住する前でしたが、私の10年先輩で、早期退職してフィリピン人の奥さま、ハーフのお子さんたちとマニラ近郊のマリキナに住んでおられた日本人の方が、被災されました。

マリキナ川の氾濫などで、首都圏全体の交通網が麻痺状態となり、一時は空港も閉鎖。フィリピン全体で、464人もの犠牲者が。

ちなみに、秒速85メートルの強風って、どんなものか。陸上でこれほどの風が吹くことって滅多にないし、ヨランダの時も、シライではそこまでひどくはありませんでした。そこでYouTubeで検索したら、実験で80メートルの風を再現した動画がありました。


いやもう、恐ろしいとしか言いようがありません。大人でも風に押されて転がってしまうほど。子供だったら、本当に吹き飛ばされてしまうでしょうね。80メートルまでいかなくても、60メートルで木造家屋が倒壊し、鉄塔が変形すると言われています。フィリピンで家を新築すると、デフォルトが鉄筋コンクリートなのは当然ですね。


2020年10月29日木曜日

「おっちゃん・おばちゃん」をイロンゴ語で

最近あんまり、イロンゴ語(西ネグロスの方言)について、ブログでは取り上げてませんが、ちゃ〜んと勉強してますよ。

この6月から、私のイロンゴ語の家庭教師を務めてくれている、アン嬢。本職は高校の英語教師で、オンライン授業やら、オンラインに参加できない生徒のための紙に印刷した宿題やら、コロナ前より多忙な中、毎週のレッスンの準備を欠かさないのがエラい。

この頃は、土曜が勤務日なので、毎週水曜日の午後に2時間、我が家に来てもらってます。授業料は1回400ペソ(約1,000弱)。平均すると一月に4,000円ぐらい。日本の感覚からすると、安過ぎると思われるかもしれませんが、高校教師の月給が30,000円ちょっとで、田舎のお母さんに仕送りしているアンとしては、そこそこ家計の助けになってると思います。

それにしても、毎回飽きないように、いろいろと工夫をしてくれるアン。おそらく、地元の小学生向けのマザータング(母語)用の教材なんでしょうね。塗り絵やらパズルやら、ユーチューブに投稿されたイロンゴ語のショートプラグムやらを織り交ぜてのレッスン。

先日のテーマは、家族や親戚の呼び方。父母・祖父母・兄弟姉妹・伯父伯母・叔父叔母・従兄弟姉妹...を、イロンゴ語で何と言うか。前回、私がアンにお願いした内容。

フィリピンに住んでいる人は、よくご存知の通り、兄弟姉妹が6人や8人ぐらいは、さほど珍しくないこの国。特に経済的に余裕がない層や地方で、子沢山の傾向が強く、少し前に投稿したように、我が家のメイド、ライラは12人の下から2番目。

さらに、祖父母やおじ・おば、いとこと同居している大家族も多くて、それぞれの呼称を覚えておくと、ネグロスでの親戚や友達との会話で重宝します。

さすがに、移住して8年目なので、兄貴がクーヤ(Kuya)/マノン(Manon)で、お姉ちゃんがアテ(Ate)/マナン(Manan)、おじさんがティト(Tito)で、おばさんがティタ(Tita)、ぐらいは分かります。私自身がマノン・フランシス(私のカトリックの洗礼名がフランシスコ・ザビエル)とか、ティト・フランシスと呼ばれてますから。

お父さんがタタイ、お母さんがナナイ。そしてお祖父ちゃんがロロ(Lolo)で、お祖母ちゃんはロラ(Lola)。ちょっとフォーマルな言い方の兄弟姉妹は、性別関係なくウトッド(Utod)。兄・姉には、マグラン(Magulang)が付いて、マグラン・ンガ・ウトッド(Magulang nga utod)。弟・妹は、マングフッド・ンガ・ウトッド(Manghod nga utod)になります。

日本語の長男・長女や末っ子を意味する言葉もあって、長子はスバン(Subang)、末っ子がアゴット(Agot)。ただ、次男次女のような、兄弟姉妹の順番までは、あまり気にしないのか、特定の呼称はないようですね。

いとこはパカイサ(Pakaisa)、甥・姪はヒナブロス(Hinablos)。ここら辺までは、日本語でも英語でも、普通に使うとして、さすがフィリピンと思ったのは、義理親同士、つまり私の両親と家内の両親の間柄にも、バライー(Bala-e)という呼称があること。

そして、日本語でのまたいとこ(はとこ)は、イロンゴ語でパカドゥハ(Pakaduha)で、さらにその子供同士が、パカタトロ(Pakatatolo)。最近の日本だと、いとこぐらいなら、比較的頻繁な交流はあっても、その子供同士になると「遠い親戚」になってしまって、滅多に会わないし、名前も知らなかったり。またいとこの子供に及んでは、呼び方すら見当たりません。

ところが、フィリピンでは冠婚葬祭以外でも、誕生日とかクリスマスパーティなどで、やたらこのレベルまで顔を合わせることも。特にネグロスのような地方だと、またいとこぐらいなら、かなり近くに住んでるですよ。なんだか、金田一耕助の映画に出てくる、戦前の日本の田舎みたい。

笑ってしまったのが、おじさん・おばさんのカジュアルな呼び方のティヨ・ティヤ(Tiyo / Tiya)。これは、「おっちゃん」「おばちゃん」みたいな響きになるらしい。ティト・ティタ(敢えて対比して訳すと「おじさま」「おばさま」?)が、都会っぽく洗練されて聴こえて、ティヨ・ティヤは田舎もんの言葉使いというイメージ。もっとぶっちゃけて言うと、金持ちと貧乏人の違い。

なのでアンは、友達の前で甥っ子や姪っ子から「ティヤ!」と大声で呼ばれたりすると、恥ずかしいそうです。確かに、もし私が、梅田のお高いホテルのロビーとかで、「おっちゃん!」と言われたら、ちょっと恥ずかしいかも。


2020年10月27日火曜日

お墓参りの前倒し

 コロナ禍が原因で、またもやフィリピンの年中行事がひとつ、取り止めになってしまいました。この時期の行事というと、最近の日本人はハロウィンかと早合点しそうですが、フィリピンの人々には、それよりもっと大切な行事、万聖節(11/1)〜万霊節(11/2)のお墓参りです。

このブログで、毎年のように書いている万聖節(All Saints Day)。万聖節は少々古めかしい呼称で、今では「諸聖人の日」と和訳されているこの日の宵祭が、ハロウィン。日本ではすっかり、仮装して騒ぐ日として定着しちゃったハロウィンが添え物で、翌日がメインの祭日なんですよね。

祭日と言っても、フィリピンでは日本の盂蘭盆会に相当する行事。亡くなった人の魂が家族の元に帰る日とされ、万聖節と万霊節だけは、日頃の歌って踊っての騒ぎは鳴りを潜めて、親族一同が、静かにお墓の前で一夜を過ごします。

このために、わざわざ遠方から里帰りする人も多く、例年、交通機関も墓地も、たくさんの人出がある季節。いまだコロナ禍の真っ只中にあるフィリピンでは、やっぱりこれはマズい。案の定、大統領からのお達しで、今年の万聖節前後は、全国の墓地が閉鎖されることとなりました。

それでも家族の結びつきが強いフィリピンの国民性。まぁ日本人の私からすると、生きてる時も死んでからも、ちょっとベタベタし過ぎじゃないかと思うぐらい。墓の前で死者のバースデーパーティしたりする。なので、閉鎖される前に、前倒しのお墓参りをするのは仕方がないところ。

私も、家内やその親戚と一緒に、先日の日曜日、接近中の18号台風クィンタ(フィリピン名)の影響で小雨が降る中、義母とその弟が埋葬された墓場へ行ってきました。

本来なら、食事や飲み物を持ち込んで、深夜のピクニックになるのですが、夜間はゲートが閉まるので、昼間だけ。天候のこともあって、ほんの30分ほどで早々に引き上げました。

ただ、考えることはみなさん同じで、早めのお墓参りに訪れる人たちもいました。もちろん、例年とは違って、屋台や出店もなく、人の数はまばらな感じ。実に寂しい限り。



お墓参りにもマスク着用

さて、私が住むネグロス島の地方都市、人口12万人のシライ市。一時期に比べると、陽性患者はかなり減ったようです。半年前のようなガチガチの都市封鎖はなくなって、未成年者と高齢者以外は、ほぼ自由に動ける状況。

とは言え、クリスマスのミサには与れそうにないし、パーティも無理。聞くところによると、1月にマニラで行われるブラックナザレの祝祭は、結局中止になったそうで、この調子では、4月のイースターも危ない感じ。

さすがにその頃には、ワクチンが開発されているかも知れませんが、赤十字への支払いが滞って、PCR検査を停止されているような状況なので、フィリピンにワクチンが供給されるのは、何ヶ月も遅れると思われます。

まだまだ先は長い。



2020年10月24日土曜日

ローマ教皇の発言について考える


 いやぁ、これは驚きました。全世界人口の18%、13億人を超えるカトリック信徒のトップであるローマ教皇フランシスコが「同性愛者には、家族の一員になる権利がある」と発言したそうですね。私自身がカトリック信徒であり、アジア最大のカトリック国、フィリピンに住む身としては、なかなか衝撃的なニュース

ただ、これによってカトリック全体が、同性愛行為を公式に認めたということではありません。神父によって同性カップルの婚姻を行うのではなく、甚だ微妙な表現ではありますが、「法的に保護される、婚姻に準ずる権利が必要」と述べているだけ。

実は、ローマ教皇がまだブエノスアイレスの大司教だった頃に、同性カップルの婚姻は認めないが、法的保護を与えるための「シビル・ユニオン法」を教会が推奨すべきとの立場だったとのこと。教皇になっても、その考えは変わっていないと表明したわけです。

シビル・ユニオンとは、1989年にデンマークから始まった、同性間カップルに対しても、異性間の結婚と同様の法的地位を付与する制度。現在、欧州諸国と、アメリカやカナダ、オーストラリアのいくつかの州、そして南米でも、名称や内容の差異はありつつも、この制度が実施されています。

ご存知の通り、日本ではまだ国の法整備までは至らないけれど、東京の渋谷区、世田谷区、兵庫県宝塚市などで、「男女の婚姻関係と異ならない程度の実質を備える関係」と定義したパートナーシップを、同性間カップルに認め、アパートへの入居や病院での面会を拒絶されないための条例を成立させています。

ところが、広く世界を見渡すと、法的制度どころか同性愛行為そのものが違法で、終身刑や死刑となる国もあります。

さて、私の住むフィリピン。多くのLGBTの人々が、その性的指向を公言して憚らないイメージがあって、シビル・ユニオンなどとっくに実現しているのかと勘違いしてましたが、全然そんなことはなくて、むしろ今回の教皇の発言で、カトリック関係者や政治家の間で騒ぎが起こっている。

この国では、明らかにLGBTと分かる服装や態度、言葉遣いであっても、それを理由に差別されることは、少なくとも私が知っている範囲では聞いたことがない。学校の先生や、オフィス勤務、スーパーのレジ係、セールスパーソンに至るまで、彼・彼女らは普通に仕事をしています。

とは言っても、カトリックが圧倒的大多数のフィリピン。やっぱり結婚や性にまつわる事柄に関しては、保守的なんですよ。実際のところ、いくらセックスワーカーや未成年の妊娠などが社会に溢れていようとも、メンタリティの核になるのはカトリック的道徳観。

そして教皇フランシスコの発言は、飽くまでもドキュメンタリー映画の中での個人の意見。バチカンの公式発表とはまったく意味合いが違います。ドゥテルテ大統領は、支持を表明しているそうですが、案の定、政治家や司祭は猛反発。「あきれて物が言えない」とする司教までいます。

ということで、私の見るところ、いくらパパさま(教皇)がそう仰っても、国の法律としてのシビル・ユニオンが、近いうちにフィリピンで実現する可能性は、とても低いでしょうね。



2020年10月22日木曜日

洪水で怖いのが感染症

月曜日、ネグロス島に豪雨をもたらした、17号台風フィリピン名ペピートは、火曜日に首都マニラがあるルソン島に上陸。洪水や地滑りがあったそうですが、幸い死傷者は出なかったようです。

水曜日まで続いた雨も、今日の木曜日にはすっかり上がり、朝から熱帯の日差しと青空が戻って久しぶりに真夏日。スーパーの輸入食材コーナーで買った日本製の麦茶が美味しい一日となりました。


台風一過の青空

さて、先週木曜日からずっと欠勤だったメイドのライラおばさん。月曜日は私たちの住むシライ市内の各所で小規模な道路の冠水があり、そのせいでライラも出てこれないだろうと思ってましたが、水が引いた火曜日も連続で休んでしまったので、少々心配しておりました。

若干疲れ気味の表情で、ようやく水曜日に出勤してくれたライラ。川沿いの低い土地にある自宅は、案の定くるぶしぐらいまで浸水したそうです。その上、足の甲に負った傷が化膿して発熱。またもや寝込んだとのこと。9月は散々だったライラの受難は、まだ続きがありました。

確か去年だったと思いますが、日本での洪水直後に、小学生ぐらいの子供たちが、水浸しになった家屋の片付けや掃除の手伝いをする姿が、美談のように報道され、「危険だ」との非難が殺到したことがありました。あれは本当に危ないですよ。

洪水の時に流れている水って、下水やらゴミ、その他の廃棄物など、人体に入ったら間違いなくヤバいものが混ざっているのは、日本でもフィリピンでも同じ。しかもガラスなどの破片で怪我をする可能性も高いし、大人でもかなり危険。

特にフィリピンでは年中暑いので、短パンにサンダルが標準仕様。冠水や屋内への浸水に慣れっこになっていて、膝下ぐらいの水嵩だったら、そのままの格好でザブザブ歩いている人も多い。

それだけに特化した調査や統計って、あまり見ませんが、フィリピンの洪水時の負傷者の中に占める感染症患者の割合は、かなり高いんじゃないでしょうか。

傷口から病原菌が入って感染する病気というと、私が真っ先に思い浮かべるのが破傷風。ネットで調べてみたら、やっぱりフィリピンに渡航する前に推奨される予防接種の中に、肝炎や麻疹、狂犬病に並んで、破傷風もありますね。重篤化すると、強烈な全身の筋肉痙攣のために、舌を噛んだり骨折することもあるという恐ろしい病気。

さすがにフィリピンに住んでいても、身近で破傷風に感染したという話は、聞いたことはありません。しかし、我が家の建設中に、大工さんが現場で古釘を踏み抜いて負傷、それが膿んで一週間ぐらい休むというケースは3回ぐらいありました。その度に、破傷風と違うやろなぁと気を揉んだものです。

ということで、何とか仕事に戻ったライラおばさん。いつもと同じように、掃除や洗濯、犬の散歩をこなしてくれました。最近は、ライラが帰宅する時に、明日も元気に来てくれるかと、祈るような気持ちになっております。



2020年10月20日火曜日

体調不良と冠水と

 10月の後半の今頃というのは、例年、ネグロス島では天候が不安定になる時期。言うまでもなく、その一番の原因は、雨季であることと、それに被さるようにやって来る台風です。今年はいつになく、フィリピンに接近したり上陸する台風が少なく、慢性的な水不足に悩むマニラ首都圏では、まだ半年も先の乾季に向けて心配する声が上がるほど、降るべき時に雨が降らない。

ところが、さすがにいつまでも平穏な日々は続かないようで、ついに昨日(10月19日)の月曜日、未明からの土砂降りで、自宅前の水捌けの悪い道路が、久しぶりの冠水となりました。もう退職して8年目の私も、やっぱり週明けにこの天気だと、少々気分も塞ぎ込むというもの。

フィリピン教育省勤務の家内はというと、この悪天候をものともせず、オフィスの同僚に車で迎えに来てもらい、ちゃ〜んと出勤。「トライシクル(オート輪タク)が拾えないから、今日は休みます。」が、普通に通用してしまうこの国にあっては、なかなか珍しいメンタリティと言えるでしょう。

ちなみに私の日課である、毎朝のサイクリングは中止。そのまま二度寝してしまい、ストレッチと筋トレまでサボってしまいました。さらに我が家のメイド、ライラおばさんも欠勤。実は、先週木曜日のお姉さんの葬式以来、ずっと休んでいます。川沿いの土地が低い場所で暮らしているので、ひょっとして自宅に浸水でもしたのかも。

さて、フェイスブックに表示される「思い出」。過去の同月同日に自分がどんな投稿をしていたかを、ご丁寧に見せてくれます。それによると、ネグロスに移住してからだいたい毎年、この時期には、家族の誰かが体調を崩している。

やっぱり雨が続いて気温が下がり、寝冷えをしてしまうことが多い。そして日本の梅雨と同じく、食当たりのリスクも増すようです。今年は私が、きっちり風邪を引いてしまいました。

コロナ禍の真っ只中なので、発熱とか咳があったらヤバいのですが、そちらは全然何ともなくて、ひたすら鼻水とくしゃみ。花粉症ほどひどくはないけれど、ボイストレーニングや料理の最中だと、鬱陶しいことこの上なし。仕方がないので、日本から持ち込んだ虎の子のコンタック600を2カプセル服用。

そして今日、またもや朝から激しい雨で目が覚めた火曜日。どうやらこれは、フィリピンの東海上から接近中の17号台風、フィリピン名ペピートの影響らしい。進路は北寄りで、ネグロス直撃コースではないものの、明日にはルソン島東岸に上陸する模様。

このブログを書いている、フィリピン時間の夜10時前。ネグロス島から台風が遠ざかりつつあるようで、ようやく雨がやんで、外はカエルの大合唱。コンタックが強烈に効いていて、鼻水も治まった代わりに襲ってくる睡魔。ということで、今日は早めに寝ることにします。



2020年10月18日日曜日

フィリピンで癌になったら

今日のタイトル、 あんまり考えたくはないのですが、やっぱり還暦間近になると、考えてしまいますわなぁ。日本人の二人に一人が罹り、三人に一人の死因になっているという癌。

私の祖父母や叔母がそうだったし、家内の母親は14年前に癌で亡くなってます。義父も同じく癌でしたが、幸い早期発見だったらしく、抗癌剤治療の結果、元気になりました。

実は最近、日本から持ってきた蔵書の中にあった、立花隆さん著の「がん 生と死の謎に挑む」というノンフィクションを読みました。一度は読了したと思ってましたが、全然内容に覚えがないので、未読だったんですね。

2009年にNHKスペシャルで放送された番組の取材内容を、きわめて丁寧に解説し、しかも番組では語り切れなかった情報を深掘りした著作。最近この本を読んだという放射線医の方によると、もう10年近い時間が経過しても、十分通用するそうです。と言うことは、この10年でも、画期的な治療法や予防法は、残念ながらまだ見つかっていないということ。

2020年現在でも、Kindle 版が購入可能ので、詳しく知りたい方は、是非そちらを読んで頂きたい。

この本は、立花さんご本人が膀胱癌の手術をしたことがきっかけで書かれました。加えて、立花さんの前の奥さんが癌で亡くなっていて、その最後を看取ったことも。

知の巨人と呼ばれ、医学に関しても深い知識と洞察がある立花さんですら、自身が癌患者となって知ったという、癌治療の最前線。実際のところ、なぜ人は癌になるのかも、大まかな輪郭がようやく分かってきたレベルだと言います。

私も含めて、一般の人が漠然と考えているのは、何らかの発癌物質を体内に取り込まれてしまい、それが原因で癌ができる...みたいな感じでしょう。確かにダイオキシンやアスベスト、喫煙などが関連しているらしいのですが、どの物質を、どれぐらい摂取したら癌になるかは未解明。

最初の癌細胞が発生して、自覚症状が出たり、診察によって見つかるのは、10年から20年も経ってから。長年にわたって、細胞分裂時の遺伝子コピーミスが何千回、何万回と繰り返されることで、発症するのが癌。

つまり、今、癌が見つかっても、その原因は10年20年前から蓄積されたものであり、多くの場合、単一の発癌物質や、生活習慣だけとは考えられないらしい。ただ、何年間も大量飲酒をしたり、毎日の喫煙は、発癌リスクを高めるのは間違いなさそう。過労やストレスなどで免疫力を落とすのもマイナス要因。

さらに、その人がどんな遺伝子を持っているか、どのような生活をしてきたかで、どの部位に癌ができるか、どの治療法が有効かが、ガラリの違ってくるのが厄介なところ。なので、どんな癌にでも効く夢の新薬、新治療方は、そう簡単に現れそうにない。

とは言え、私の祖父が癌になった1970年代に比べれば、完治は無理でも、寛解(再発の可能性があるものの、症状を押さえ込んだ状態)に持ち込む可能性は上がっているし、たとえ末期でも、ギリギリまで苦痛を和らげて、QOL(生活の質)をある程度保ったまま、余命を生き切る選択肢もある。

この本を読んで、もし私が癌になっても絶対に避けたいなと思ったのは、無理な延命治療と怪しげな代替療法。

癌とは、元々自分の細胞だったものが、遺伝子に異常を来して暴走し、増殖が止まらなくなった状態。抗癌剤が健康な細胞まで殺傷してしまうのは、止めようがないんだそうです。強い吐き気や倦怠感、脱毛、免疫機能の低下、などの副作用が出るのはこのため。

寛解の見込みがあるのならまだしも、ただ数ヶ月程度の延命のため、人生の最後に、行きたいところにも行けず、食べたいもの食べられない、残った仕事にも手をつけられないのは勘弁してほしい。

最悪なのは、代替療法。効果が証明されていない、民間療法や食事療法の類。一回の治療や投薬に何十万円なんてのも珍しくないらしい。何をやってもダメで、すっかり絶望し、藁にもすがる気持ちで...というのは理解できますが、家族に意味のない負債を残すことはしたくない。(この辺りの感覚は、幡野広志さんの影響も大きいです)

この本では、アメリカにあるナチュラル・プロダクト・レポジトリーという国立の研究機関が紹介されいて、ここでは何百万種類もの有機物質の抗癌効果の有無を確認し、全サンプルを保管しているとのこと。この物質リストは公開され、営利目的でなければ、注文すればサンプルを取り寄せることができる。

タツノオトシゴやオウム貝の殻まで調べているそうで、およそ考えられる物は、すでに誰かが試していると思った方がいい。本当に効果があるなら、遠の昔に標準療法に取り入れられているはず。

とまぁ、本の紹介に延々と文字数を費やしてしまいましたが、タイトルにある、もしフィリピンで癌になったらどうするか。実際に、近所に住んでいた私と同世代の日本人の知り合いが、別の病気の診察で癌が見つかり、ネグロスでは治療できないと言われ、帰国して入院というケースがありました。

癌の進行具合や種類によっては、ネグロスの総合病院で何とかなるかも知れませんが、おそらく私も、帰国しての治療の選択をするでしょうね。一応はアクサの保険に加入していても、カバーできるのは、100万ペソ(約220万円)まで。レベルの割には、恐ろしく高額なフィリピンの医療費なので、日本に戻って、国民健康保険再加入になりそうです。まだ飛行機に乗るだけの体力が残ってたらの話ですが。

ということで、いざとなった時に、あんまりみっともなくジタバタしないように、調べられることや、頭の中でできるシミュレーションは、今のうちにやっておこうと思っております。それから、コロナ騒ぎが終息したら、せめて数年に一回は、日本での癌検診も。



2020年10月16日金曜日

2男10女の兄弟姉妹

 またもや我が家のメイド、ライラおばさんのお話。

9月は、たったの2日しか勤務しなかったライラ。10月は、それほどではないけれど、やっぱり欠勤が多い。というのも9月の末に、お姉さんが心臓発作で急逝されたとのこと。

兄弟姉妹が多いのは、以前に聞いてましたが、何と12人。そのうち女はライラを含めて10人で、男が2人。亡くなったのが、上から2人目の次女で、享年64歳。下から2人目のライラからは20年も年上で、姉妹なのにほとんど親子の年齢差。

この12人の子供を一人で産んだお母さんは、太平洋戦争時の日本兵を父に持つ、日比ハーフのジャピーナ。もう80代なので、私の両親と同世代の人。そして結婚したのが15歳の時なんだそうです。ほぼ四半世紀にわたって、出産と育児を続けたわけで、旦那さんを含めて、たいへんなご苦労だったろうと思います。

ちなみに、私の母方の祖母は、8回妊娠して、早逝の長男と1回の流産を除く、6人の子供を育て上げました。そして父方が8人兄弟姉妹。これは昭和初期の1930〜40年代頃のことですが、ネグロスの田舎では、今でも子沢山の大家族が多くて、およそ1世紀前の日本と同じ。それでも12人というのは、ちょっと珍しい。

長女だった私の母は、ライラの家族ほどではないけれど、末の弟・妹(つまり私の叔父・叔母)とは、10歳以上違う。共働きだった祖父母に代わって、毎日のお弁当作りやら父兄参観など、ずいぶんと面倒を見たそうです。結婚した時には、面倒見の対象が一人だけになって、とっても楽になったと言ってました。

なので、ライラも子供の頃には、上のお姉さんたちには、世話をしてもらっただろうと推測。家族が亡くなって悲しいのは当たり前ですが、それ以上に胸に迫るものがあったでしょうね。

前置きがエラく長くなりましたが、お姉さんの葬儀が営まれたのが、昨日(10月15日)。亡くなってから2週間以上も経過しています。亡骸にすぐ防腐処置(エンバーミング)を施し、棺を自宅や葬儀会場に安置して、交代で不寝番をしながら延々と通夜を行うフィリピンでも、普通は1週間後ぐらい。2週間は少々異例。

どうやら、このコロナ禍で、マニラやミンダナオなど全国に散らばる親族が集まるのに、それだけの時間がかかってしまったらしい。一応、厳しい検疫は終わっているので、まだ集まれただけ良かったと言うべきか。

ということで、もう葬儀は終わった今日なのに、またもやライラは出てきません。実は、月曜日も子供の学校でミーティングがあって欠勤。結局今週は、稼働日数2日になってしまった。たぶん、親類縁者の対応やら何やらで、どっと疲れが出て寝込んでいるのかも知れません。



2020年10月14日水曜日

フィリピンの教師はつらいよ


フィリピンの 公立学校で、ようやく授業が再開したのが、先週の10月5日。これについて日本では、NHKを始め、いくつかの報道機関が短いニュースを発信しています。(フィリピンの公立学校オンラインで授業再開も6割が受けられず)「教育格差につながる恐れがある」と結んでいるのが、いかにも日本的。

まるでコロナ禍以前は、格差がなかったような書き方ですが、昔からはっきりとありますよ、フィリピンの教育格差。公立の学校は一律、授業料がタダでも、登校のためのわずか往復50円にも満たない、トライシクル(輪タク)代や、制服や教科書を買うお金がなかったりして、学校に行けない子供がいるのが、この国の現実。

もちろん、そういう子供達を救うために、それぞれの地方自治体で、僻地に教師を派遣して特別授業をしたり、制服・教科書の再利用を進めたりの努力はしていますが、日暮れて道遠しの感は否めない。また学校に通ってはいても、家計を助けるために、帰宅後は働いているとか、隣近所のカラオケの騒音で、宿題もできないなんていう、ハンディがあるケースも多い。

その上、オンライン授業を受けられるはずの、インターネットが使えて自宅にWiFiがある家庭でも問題はいっぱい。私たちが住むネグロス島など、調子がいい時で、下り速度の実測がせいぜい5Mbps。(快適にSNSに投稿したり、YouTubeを見るには最低5Mbpsが必要)

常時このスピードならばまだしも、時間帯によっては1Mbpsぐらいまで落ちるし、日本なら通信障害だとニュースになるような状況が、頻繁に起こる。追い討ちをかけるように、多発する停電。

実際のところ、オンライン授業で全生徒をカバーできるなんて、私の家内が勤務する、フィリピン教育省の現場スタッフも、最初から思っていません。完璧を期していたら、いつまで経っても何もできない。たとえ見切り発車でも、授業再開の決断をしたドゥテルテ大統領に、私は賛辞を送りたい。一部の日本人のように、ゼロリスクを求めて自縄自縛になるよりずっといい。

さて、こうした中で、学校教育の最前線にいる教師の方々。私のイロンゴ語の家庭教師アン嬢も、地元の私立高校で英語を教える先生の一人。私立では、一足先に8月の末から授業は再開済みで、この10月初旬に、再開後初めての定期テストでした。

先週はテストの準備や実施で超多忙だったそうで、イロンゴ語レッスンは1週間スキップ。実は今日、久しぶりにアンが来てくれて、レッスンの合間に、学校の実情について教えてもらいました。


本業が多忙でもレッスンを手抜きしないアン

それによると、オンライン授業は、想像以上にたいへん。自宅からパソコンで教える時など、隣りの犬が吠え出したり、行商の魚屋さんが来たりで、なかなか集中できないんだとか。笑ってしまったのは、私立校なので、生徒には裕福な家の子供が多く、それに比べて自分の部屋が見すぼらしくて恥ずかしいので、わざわざ背景用にピンクのカーテンを吊ったんだそうです。

そしてやっぱり愚痴ってたのが、ネット回線の不安定さと停電。

たいへんなのは、それだけではありません。オンライン授業だけでなく、自宅にインターネット環境がない生徒のために、プリントを配布して宿題形式で行う「モジュール授業」も同時進行。毎週、100部ものテキストを印刷してホッチキスで留めて、提出された内容をすべて添削。

以前に比べると、相当な作業量の増加なのに、給料は変わらず15,000ペソ(約32,000円)。ネグロス島の生活費は、私の感覚からすると、ざっと日本の1/5程度。つまり、日本ならば手取り16万円ぐらい。確かにこれは安過ぎますね。

なので、かなり真面目に転職を考えている様子のアン。先生を辞めて何をするのかと訊いたら、消防士になりたいそうです。給料がいいらしい。ただ、トレーニングにかかる費用が高いのが難点。それにしてもなぜ消防士なんでしょうか?



2020年10月12日月曜日

豊かな緑は貧困の象徴?

 フィリピン・ネグロス島へ移住してから、日本から大量に持ち込んだ蔵書を、時々思い出したように読み返しております。本に関しては物持ちの良い私は、学生時代に読んだ小説やノンフィクションを40年ぶりに再読したり。

そんな中で目についたのが、アニメ映画監督の宮崎駿さんに関する書籍の一節。宮崎さんは、若い頃(というか子供の頃?)に、緑が豊かな環境を、貧困の象徴のように感じておられたそうです。

もちろんこれは、現在とはまったく状況が異なり、1945年の敗戦からまだ間もない時期。日本全体が貧しくて、緑の多い田舎ほど貧乏という印象だったんでしょう。

その後の高度経済成長で、右肩上がりの豊かさと引き換えに、都心部を中心に、自然環境が徹底的に破壊されてしまいました。一級河川までもドブ川になり、夏場は光化学スモッグで子供が外で遊べない。特に私が生まれ育った兵庫県尼崎市なんて、それはそれはひどいもの。

幼少期に公害がピークで、近所の遊び場だった雑木林や、メダカが泳いでいた小川が潰され、どんどん新興住宅地に変貌するのを見てきた私たちの世代。緑は守るべき自然の象徴だと、刷り込まれたのも当然のこと。

そう言えば、1970年代には、公害を憎むべき怪物に見立てた映画「ゴジラ対ヘドラ」とか、毎回公害怪獣が登場する「スペクトルマン」なんて特撮番組まであったぐらい。1999年に人類が滅ぶと煽った「ノストラダムスの大予言」が流行ったのも、環境破壊が進んだ上にオイルショックによる深刻な不況で、国民意識の根底に大きな不安を抱えていたからでしょうね。

とまぁ、ネグロス島に移り住む前の私なら、豊かな緑が貧困の象徴だなんて、そんな時代もあったのかと思うだけで、とても共感はできなかったはず。

ところが、熱帯の緑に囲まれて暮らすこと丸7年半。当初は、自宅新築時に、元々生えていた樹木一本を伐採するのにも罪悪感があったのに、最近は、鉢植え以外の庭の植物を、目の敵にして引き抜いている私がいます。

少なくとも、フィリピンの地方都市のシライにいると、日常の感覚として、緑は守るべきものとは思えなくなる。だって、草にしても樹木にしても、すごい勢いで育つんだもの。

交通量の少ない自宅周囲の舗装道路は、両側の空き地から雑草が蔓延って来て、場所によっては、数ヶ月に一度除草しないと車が通れなくなるし、育ち過ぎた木は、台風でも来ようものなら、倒れて家屋にダメージを与えかねない。


自宅の周囲は、こんな感じ

平野部の住宅地ですらこれなので、道路が未整備な山間部では、密生した樹々が人を容易に寄せ付けない場所がいっぱい。戦時中に、敗走する多くの日本兵が、飢えや熱帯の感染症で落命したのも分かります。ジャングルを切り開いて、新しい自動車道を作っているのを間近に見ても、私は、全然心が痛まない。むしろこれで、便利な生活を享受できる人が増えてめでたいぐらい。

今では、「豊かな緑が貧困の象徴」は、実感として理解できます。

とは言え、これは飽くまでも感覚のお話。現実のネグロス島は、平野部のほとんどがサトウキビ畑。また沿岸部のマングローブを伐採して養殖池を作ったので、海が汚れて漁獲高が激減したり。ぱっと見には緑に覆われた島でも、背後では凄まじいまでの自然破壊が進行しています。

つまり問題は、木を切ること自体に人々の抵抗感が少ないこと。せっかく海岸にマングローブを植えても、煮炊きするための薪にしちゃう住民もいる。

なので、ここでは環境教育がとっても重要になるわけです。数年前に、家内もスタッフの一員として参加していた、日本のNGO「森は海の恋人」。そのネグロスでの活動目的が、まさにそれ。

NGOの日本人マネージャーが、私に語った言葉を今でも印象深く覚えています。「経済的支援だけが目的なら、工場でも誘致するのが早道。でも私たちは、環境教育ができる教師を育てることが、長い目で見て、この国を助けることになると信じています。」


2020年10月9日金曜日

受難の9月・我が家のメイド


 もう10月も半ばに差し掛かかるので、少々旧聞で申し訳ないことながら、先月の9月、我が家のメイド、ライラおばさんが出勤したのは、たったの二日間でした。

これはフィリピンでありがちな、突然これと言った理由もなくバックレた...のではありません。中近東でのOFW(海外フィリピン人労働者)の経験があり、年齢的にも安定感のあるライラ。日頃の働きっぷりは素晴らしくて、特に指示をしなくても、家中がいつも清潔。

時間があれば、ざっと100平米はある庭を、隅から隅まで掃き清めてくれるし、最近は私が買い物のメモに書き漏らした食材も、気を利かせて買って来てくれる。もう雇って、かれこれ2年以上ですからね。ところが、9月は悪いことが重なりました。

まずは、8月末から始まった、西ネグロス州全体の封鎖(ロックダウン)。これは四日間だけでしたが、その間にライラのご近所さんが、検査の結果コロナ陽性と判明。ライラの家を含む周辺の世帯がまとめて2週間の隔離措置の憂き目に。

それがようやく終わった月曜日、やっと出て来たを思ったら、掃除中に指を怪我して、それが化膿。そのままその週は全休となってしまいました。ここまでは、以前にこのブログで投稿した通り。(自宅隔離の連鎖

その週明けの月曜日。今度は、朝から嫌ぁ〜な感じの咳が止まらないライラ。この時期、ネグロス島では、ほぼ全島を覆うサトウキビ畑の刈り取りが終わり、焼畑作業が始まります。実はライラ、どうやらこの煙にアレルギーがあるらしい。

去年の今頃も、咳がひどくて一週間の欠勤。ピンチヒッターでライラの近所に住むという女の子が来てました。この子がまだ二十歳なのに3歳の子供を同伴。仕事の合間に、リビングで授乳して、しかもおっぱい出したまま居眠り。強烈な印象が残ってます。(おっぱいポロリのメイドさん

結局ライラは、翌日の火曜日からまたもや欠勤で、残念ながら今年は、助っ人も無し。

ということで、9月は出勤日数が二日のみとなってしまった次第。当然ながらその間、掃除・洗濯・炊事は、全部自分たちでやりました。こうなると、しわ寄せが来るのが掃除。最近は私がゲストハウスに住んでいるので、ただでさえ3人家族には無駄に広い居住面積が5割増。どうしても手薄になる部屋がいくつかあります。庭なんて、ほとんど放ったらかし。

もちろん、私たち以上に困ったのはライラでしょう。二人いる息子さんのお兄さんは、もう親元を離れていても、下の子が食べ盛りの中学生。しかも旦那さんとはずいぶん前から別居状態で、80代のお母さんの面倒まで見ているとのこと。

住み込みではなく、通いメイドのライラなので、働いた日数に応じて、毎週水曜日に支払っていて、9月の給与は1,000円にも届かない。物価の安いネグロス島でも、これはいくらなんでも厳しい。そういう状況だったので、今週は、月曜日から金曜日までフル出勤してくれて、私もホッとしています。

ちなみに、本日(10月9日)付けのCNN日本版の記事によると、今回のコロナ禍の影響で、全世界の極貧層が、1億5千万人も増える見通しだと、世界銀行が発表したそうです。1日当たり、1.9米ドル(約200円)未満での生活を強いられている層を、「極貧」と定義しているので、フィリピンで言うと、だいたい1日100ペソ未満。月にすると3,000ペソ未満。

ネグロスでは、3,000ペソぐらいの収入で家族を養ってる人は、少なくないでしょうね。ライラには、それよりは多く払ってるし、土曜日には洗濯屋さんのアルバイトもあって、極貧ではありません。ただ、雇い主の収入が減って、クビになっちゃうメイドさんもいるでしょうから、確かに極貧に転落する人はかなりの数になると、容易に想像できます。

さて、久しぶりに5日連続で働いたライラ。今日の退勤時には、ずいぶんくたびれた様子。この土日は、ゆっくり休んで、来週もよろしくお願いしますね。



2020年10月7日水曜日

ヤバい卵

私は、昔から、あまり腸が丈夫だとは言えない体質。日本にいる頃から、食べ過ぎたりしなくても、時々下痢をしてました。ストレスがお腹に来ることもあり、ちゃんと朝お通じがあるのに、出勤途中の電車の中で「危機」に見舞われることも。

フィリピン移住後、8〜9割ストレスが軽減されたので、下痢は減るかと思いきや、むしろ少し頻度が上がりました。やっぱり熱帯だし、食べ物は傷みやすい。旅行や移住してすぐの人には「ウェルカム・ダイアリア」があったりもするし。

頻度が上がったと言っても、体感的には2ヶ月に1度ぐらい、1日3回ぐらい緩めのお通じになる程度で、生活に支障を来すほどではありませんが、やっぱり外出しにくくなるのは困り物。年に1回は、数日から一週間も続くことがあり、日本から持参した正露丸も効果なし。そうなってしまうと、診療所に行って、抗生物質を処方してもらうことになります。

下痢の原因は、ほぼ間違いなく食べ物。スーパーで売ってる食材ですら、鮮度という点では、物流の問題で、日本と比べ物にならない。それは地元の人もよく分かっていて、生食するのは、ほぼ果物のみ。それ以外に火を通さずに食べるのは、レタスやきゅうり、トマトぐらいじゃないでしょうか。

こちらへ来て、初めてトンカツを揚げた時、付け合わせにキャベツの千切りを出したら、家内が全然食べてくれない。やっぱり寄生虫が怖いんだそうです。

ちょっと驚いたのはにんじん。土がついたまま、八百屋の店先に山積みなので、買う前から一部が黒く変色してたりカビが生えてたり。できるだけきれいなものを選んでも、帰ってすぐ洗って皮をむき、冷蔵庫にしまわないと、2〜3日で腐って、ドロドロになることもあります。

そして一番ヤバいのが卵。多くの日本人が愛する「卵かけご飯」なんて、フィリピンの人からすれば自殺行為に近いらしい。それどころか、茹で卵でも危ない。

結婚して間もない頃、家内の里帰りで、隣島パナイに行った時に、市場で買った紫色に塗られた塩漬けの茹で卵(ソルティ・エッグ、またはイトログ・ナ・マアラット/Itlog na maalat)を食べたところ、これが見事に大当たり。滞在先の家内の友人、フィリピン大学の教授のお宅で、丸一日寝込むことに。


それでも卵が大好きな私なので、朝食には目玉焼きが欠かせません。ところが、調理しようと生卵を割ると、半分か、それ以上の確率で、黄身がデレ〜ンとなっている。つまり古いんですよ。一つ一つの卵に、生産日を記したスタンプが押してあっても、それが正しいとは限らないのがフィリピン。

暑い盛りなどは、黄身の形が少し崩れているぐらいならまだしも、完全に茶色くなって悪臭を放っていることがある。20個買って7個が腐ってたなんてこともありました。これでは、文字通り、煮ても焼いてもどうにもならない。さすがにこの時は、買った八百屋さんに苦情を言って、新しいのをタダで貰いましたけどね。

さて、どうやら卵がヤバいらしいと気づいて、今年(2020年)になってからは、卵を食べる時は、加熱を徹底することに。本当は黄身が半熟ぐらいの目玉焼きが好みだけれど、フライパンに蓋をして蒸し焼きにしたり、ひっくり返してよく焼いたり。

そうしたら、案の定、明らかな改善。ちょっと下り気味かなと思っても、翌日に持ち越すことがない。実は、先日の誕生日、夕食後に不調で、これは久しぶりに来てしまったかと思いましたが、翌日にはあっさり復調。

ということで、コロナ禍が終息したら、日本に一時帰国して、卵かけご飯をお腹一杯に食べたいと熱望している、フィリピン在留邦人なのでした。


2020年10月4日日曜日

58回目の誕生日


コロナ禍で、気忙しい日々を送っているせいか、今年は自分の誕生日が巡ってくるのが、いつになく早かった気がします。昨日の10月3日で、私は58歳。50とか60の節目でもないし、お客さんに来てもらえる状況でもない。例によって、家族だけでこじんまりとお祝いをしてもらいました。

来客がなければ、自分で食事の用意をする気にもならず、昨日は、まるっきり家内にお任せ。近所の惣菜屋さんで、パンシット・マラボック(パンシット・マラボンとも呼ぶ)と、鶏の丸焼き、レッチョン・マノック、そしてケーキを買ってきてもらいました。

フィリピン在住か、フィリピンに足繁く通っている人にはお馴染みの、パンシット・マラボック。ライスヌードルに少し酸味とトロみのあるソースを加えた、フィリピンでも最もポピュラーな料理の一つ。場所によってはスパイシーな味付けもあるそうです。

そして、ケーキ。実は昨年まで、アンコ・ケーキ(餡子ではなく、中国系のAnn Coさんのお店)という、数年前にシライ市内にオープンしたカフェで買ってました。日本で店を出しても、普通に美味しいと思えるような、甘さを抑えた味が魅力。フィリピンの安いケーキって、色はどぎつく、ベタベタに甘いのが多いんですよ。

2ヶ月前の息子の誕生日のこと。息子の好きなチョコレートケーキを買おうと、いつものようにアンコさんに行きました。そこでちょっと考えたのは、家族3人以外に誰も来ないし、丸ごと1個は持て余しそう。なので、切り売りして半分になったもの選びました。

さて、この半分というのが失敗の元。持ち帰り用の箱が、丸ごとか小さく切って2〜3ピース入れるものしか用意されていない。どうするのかと見ていたら、ウェートレスのお姉さん、小さい方の箱に、無理やり半分のケーキを詰め込もうとしている。

せっかくのクリームのデコレーションは崩れるし、ふたが閉まらない。これを売りもんにするか? 値段も決して安くなく、半分でも1,000円以上はします。さすがにこれはひどいので、支払い前に「ノーサンキュー」と店を出ました。

仕方がないので、アンコの筋向かいにあるショッピングモールの「ガイサノ」1階のフードコート脇にある、ゴールディロックス(Goldilocks )というケーキ屋さんで買うことに。

このゴールディロックスは、かなり名前の通ったケーキのチェーン店。ただし高級志向ではなく、至って庶民的な品揃え。安かろう悪かろうで、安っぽく甘ったるいケーキばかりかと、今まで敬遠しておりました。

結果を言うと、全然そんなことはなかった。しかも、事前に頼んでたわけでもないのに、ちゃんと息子の名前を入れてくれるし、サイズも手頃。アンコで買おうとしてた半分のケーキより、さらに安い。ということで、昨日のケーキは、このゴールディロックスご指名で、家内に頼んだ次第。

さて、私が50歳の時に引っ越してきたので、これでネグロス島で迎える誕生日は8回目。いよいよ還暦が迫ってまいりました。今年はいずれにしてもパーティは無理でしたが、2年後には赤いジャケットでも用意して、久しぶりに派手なパーティをしようかと目論んでおります。


2020年10月2日金曜日

熱唱、昭和歌謡

フィリピンにまで来て、何やってんだかと思われそうですが、もうかれこれ半年以上ハマっているのが、自宅での一人カラオケ。家内や友達には、もっともらしく「ボイストレーニング」などと称してますが、実態は誰がどう見ても(聴いても?)カラオケでしょうね。

日本だったら、隣近所への迷惑になるからと、田舎の大きな家とか、本気で防音設備でもしないと、そうそうは使えない家庭用のカラオケ機器。ところが、そんなことは誰も気にしないフィリピンでは、一家に一台あるかと思うほどの普及率。

そもそも歌や踊りが、遺伝子に組み込まれているかの如く、ノーミュージック・ノーライフが徹底しているお国柄。下手でも何んでも、人前で歌うことを躊躇する人の方が少ないぐらい。

幼い頃からちょっとしたお祝いとか、学校の催事で歌い慣れているので、それだけアマチュア・シンガーの層が厚い。なので、少し大きなレストランなら、週末のランチやディナータイムに、キーボードやギターをバックに生の歌を聴かせる場所も多い。こんな場末の地方都市シライでも、何軒かそういう飲食店があります。

だからというわけではありませんが、これもこのブログで何度か書いたように、日本にいる時から、カトリック教会の聖歌隊の一員として、歌うことは好きだったし、毎週わりと真面目に練習してました。この頃には、正真正銘のボイストレーニングも。

さて、コロナ騒ぎで外出の機会が激減し、教会のミサにも出られなくなって半年以上。カラオケだけは1時間以上欠かさずに続けている毎日。一時は、ビデオチャットで友達や親戚にミニコンサートを披露したこともありました。最近はそれも億劫になり、ひたすら自分の世界に浸っております。

私の場合カラオケと言っても、日本の規模の小さなチャペルなら、マイクを通さず十分に響かせる程度の声量はあるので、マイクは使いません。またバックは、ユーチューブで探してきた、ボイスパートがない、純然たる伴奏ばかり。そういう需要が多いらしく、スタンダードな曲ならば、ピアノやアコースティック・ギターだけで演奏したものが、たくさん投稿されています。

しかも嬉しいことに、オリジナルを女性歌手が歌っていても、男性用にキーを変えたバージョンも多数。日本語でも英語でも、何でもあり。これらを手持ちのスマホにダウンロードして、ブルートゥースのスピーカーで流しながら、歌っている次第。

近所に聴かせるつもりもないので、練習する時は、アルミサッシを締め切って冷房かけて、不完全ながらも密閉状態で孤独にやっております。

今凝っているのは、中学・高校の頃に聴いていた懐かしの昭和歌謡。ざっと並べてみると、荒井由美時代のユーミンの「やさしさに包まれたなら」「ひこうき雲」とか、イルカの「なごり雪」、中島みゆきのデビュー曲「時代」。河島英五「酒と泪と男と女」、ダウンタウン・ブギウギバンド「身も心も」、上田正樹「悲しい色やね」、サザンオールスターズ「いとしのエリー」。極め付けは、かぐや姫の「神田川」などなど。

キリがないので、この辺で止めときますが、本当はこの倍以上のレパートリーはあります。まぁ、私と同世代の人ならば、大抵歌える曲かも知れません。

ここまで深みにハマると、コロナ禍が終わって、お客さんを呼んだり、どこかのパーティに出かけられるようになっても、フィリピンの友達や親戚は、誰も知らない曲ばかり。無理に歌ったら、みんな退屈しちゃうでしょうね。

ということで、いくら早くても来年の後半以降になるでしょうけど、もし日本からのお客さんで、1曲か2曲ぐらいなら、聴いてやってもいいよという、奇特な方が来られたら、その人のために、歌ってみたいと思ってます。