ダバオ市街地 出典:ダバオ市公式サイト |
目的地は、このダバオからさらに車で3時間ほど西の、キダパワン市にある「ミンダナオ子供図書館(Mindanao Children's Library 略称MCL)」。およそ20年も前に作られた施設で、創設者はなんと日本人。図書館と名付けられていますが、貧困や家庭の事情で学校に通えない地元の子供たちを支援する、寄宿舎というか学生寮のような場所です。その詳細は後述するとして、ますはミンダナオについての予備知識。
多少フィリピン事情を知っている人なら「ミンダナオ=危険」のイメージが先立つでしょう。実際、数年前のドゥテルテ大統領の治世時には、イスラム系反政府勢力との紛争激化を理由に、約二年半に渡り一部の地域に戒厳令が布告されていたし、それよりはるか以前のスペインによる植民地時代から、難治の島とされてきました。
もちろん難治というのは、飽くまでも支配者側のスペインや、スペインに続いてフィリピンを占領したアメリカ側の見方。要するにカトリックでもプロテスタントでもない、14世紀から連綿と続くイスラム文化の地で、16世紀(日本の戦国期)に、あっけなくスペインに併呑された北部のルソンや中部ビサヤ諸島とは異なり、19世紀半ばまで徹底抗戦して独立を守り続けました。
ところがそれが裏目に出て、20世紀以降の近代化に遅れを取ってしまい、結果的にアメリカ資本による大規模な農業搾取を受けることになったのは、歴史の皮肉というしかありません。また、比較的台風被害が少なく、バナナなどの栽培の最適地だったのも一因。ちなみに、ダバオは、明治時代に多くの日本人が移住し、マニラ麻の栽培で富を築いたのは有名な話。私も以前の投稿で書いておりますので、興味のある方はこちらをどうぞ。(ダバオ産のマニラ麻 日本・フィリピン交流史4)
そして第二次大戦後も、ミンダナオ先住民の苦難は続きます。
統治者側の都合で、クリスチャンの数を増やしてガバナビリティを高めようと、ビサヤの各地から多くの移民がやって来た結果、今では半分以上がセブ発祥のセブアノ(ビサヤ)語話者。さらにそれに続いて、今私が住んでいる西ネグロスなどからの移住もあって、場所によってはイロンゴ(ヒリガイノン)話者も多く、先住民の言語であるマギンダナオなど諸語は、マイノリティとなってしまいました。
つまり、かつてのスペイン・アメリカの支配から脱したはずが、今度は同じフィリピン人から支配されているに等しい状況。また、大規模なプランテーションの大多数の労働者は、低賃金で酷使され、いつまでたっても貧困から抜け出せない。この辺りの事情は、同じくサトウキビのモノカルチャー経済に依存するネグロス島とも似ています。
こんな具合に、何世紀も押さえつけられていれば、武装蜂起して独立しようと思う人が出てくるのも仕方ないでしょう。私が訪問したMCLは、まさにこうした地域に近く、紛争や長年の搾取の影響による貧困で、修学機会に恵まれない子供たちのための施設です。
ただ、ドゥテルテさんの登場で、事態は好転の兆しを見せているのも事実。まず1988年から断続的に合計7期ダバオ市長を務めたドゥテルテさんは、フィリピンでも最悪レベルの治安だったダバオを、まるで映画「アンタッチャブル」のエリオット・ネス捜査官の如く、拳で殴りつけるような改革を進め、今では東南アジアでもトップクラスの治安の良い街に変身させました。
さらに大統領就任後の2017年には、反政府武装勢力と政府軍が5ヶ月に及ぶ激しい戦闘(マラウィの戦い)を経て、ほぼ反政府側を掃討。前述の戒厳令の理由がこれ。この時、私たちはすでにネグロス島で暮らしてましたが、毎日のようにテレビ報道で政府軍の戦死者の顔写真と名前が公表され、戦地に我が子を送り出した父母の心中を想って、とても辛かったのを覚えています。
こうした経緯で、現在のミンダナオはかなり平静を保っていて、島内各地の空港にも普通に旅客機が発着。特にダバオを中心とした島の東南部は、他のフィリピンの多くの地域同様、日本の外務省が出している「危険レベル」は一番低い1。なので私も渡航ができました。とは言えキダパワンを含むコタバト州は渡航中止勧告のレベル3。「死んでも知らんぞ」と脅かされて、何かあっても日本お得意の「自己責任」。
このためダバオから先、MCLの敷地の外は、MCLのスタッフが必ず同行し単独行動禁止。これは5日間厳守しました。まぁ実際は、キダパワンの市街地や市場に行っても、ネグロスとほとんど変わらない平和な場所でしたが。これは昼間しか見てないからかもしれません。
ということで、肝心のミンダナオ子供図書館の話になる前に、前置きがすっかり長くなってしまったので、続きは次回の投稿とさせていただきます。
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