もう1ヶ月近く前の4月中頃、久しぶりに家内と連れ立ってマニラに二泊の小旅行をしました。同じフィリピン国内と言っても、マニラ首都圏とネグロス島シライ市。東京と四国とか九州の、しかも県庁所在地でもない地方都市ぐらいの差がある上に、通じないぐらいに方言が違います。心理的な距離感は、ほとんど外国と言ってもいいぐらい。
退職して隠遁生活している私は、一時帰国のフライト乗り換えで空港経由はあっても、フィリピン移住後12年目でマニラに宿泊したのはたったの3回。前回は確か2019年だったので、かれこれもう5年前。(懐かしのザ・ペニンシュラ)
今回の目的は、私の事ではなく家内のビザ更新手続き。それも日本ではなくアメリカの入国ビザ。実はまだ日本に住んでいた2000年に、家内とアメリカ旅行をした際に取得したもの。翌年に9.11のテロがあったので、もし1年ズレていたら、フィリピン人がアメリカのビザ取ろうなんて、最初から諦めてたでしょう。
その後、シカゴ在住の親戚を訪ねて再渡米したのが2004年。「来年も来るよ〜」と言って別れたんですが、その年の年末に家内が妊娠して2005年に出産。なんやかんやで、今まで使うことがなかったビザ。放置すれば今年(2024年)中には無効になってしまいます。それは勿体無いので、アメリカ旅行の予定はないけれど、延長申請のために在マニラのアメリカ大使館に予約を入れたというわけです。
前述の通り、何か所用でもない限りマニラに行くことは滅多にない私たち家族。なので私も同行して土日を絡めての二泊三日となりました。ちなみに高校生の息子は学校があるので、お留守番。さすがにちょっと心配なので、親戚やメイドさんに順番で泊まってもらいました。
御上りさん気分で宿泊先に選んだのがマニラ・ホテル。戦前から経営している老舗で、マッカーサー将軍やケネディ大統領、ビートルズが泊まったことでも有名で、日本の占領時代には軍の司令部が置かれていたそうです。ただ、宿泊料で言うとペニンシュラやマンダリンなどの最高級ホテルほどではないし、最近できたオカダ・マニラに代表されるような、ベイエイリアにあるカジノ併設の場所に比べれば、高嶺の花と言うほどでもありません。
重厚で歴史を感じる マニラ・ホテルの1階ホール |
それに何より便利なのが、エルミタ地区にあるアメリカ大使館のすぐ近く。4月はフィリピンの真夏で、特に今年はエル・ニーニョの影響の酷暑なので、さすがに家内はタクシーを使っていたものの、それさえなければ私なら歩こうかという程度の距離。
それにしても、エルミタのホテルに泊まるなんて、四半世紀以上ぶり。実は家内と出会う前の30代になりたての頃の私は、マニラに住んでいた彼女との逢瀬で、数ヶ月毎のフィリピン通い。リサール公園のすぐ隣にあって、今は閉鎖されてしまったホテルを常宿にしていました。そこも決して安宿ではないものの、当時は歓楽街の様相を呈していたエルミタ界隈で、宿泊客は夜遊び目当てのオっさんが多かった。まぁ私も人のことは言えないんですが、ロハス大通りを隔てただけなのに、見るからに「上流階級向け」に見えたマニラ・ホテルは憧れだったんですよね。
さて、マニラ到着翌日の日曜日。ずっとフェイスブックで交流のあったマニラ在住の日本人の方が、同じくエルミタにラーメン屋さんをオープンしたというので、お昼を食べに行く予定を入れていたところ、その前に買い物をしたロビンソンズ(ショッピングモール)で、急に家内が体調不良。病院に行くほどではないけれど、先にホテルに戻って横になるとのこと。仕方がないので、ロビンソンズから数ブロック離れたラーメン屋さんには、一人で徒歩となった次第。
午前中でも間違いなく体感温度は40度前後で、家内が一緒ならタクシーだったであろう道のり。暑さでちょっとふらつきながらも、実に懐かしかった。基本、変わってないんですよね。ちょうどお昼前なので、歩道にまではみ出した椅子やベンチには、トロトロ(一杯飯屋)で食事をする老若男女。心なしか昔の荒れ果てた感じは影をひそめ、庶民的で楽しそうな食事風景に見えました。
実際、この10年ぐらいでフィリピン経済は大成長を遂げ、1990年代の絶望的な状況は、改善されました。まぁこっちもそれなりの年齢だし、将来に対する不安を抱えていた30代と比べたら、心に十分な余裕があるからというのも大きいでしょう。
ということで、ものの30分程度のセンチメンタル・ジャーニーでしたが、どっちかと言うとやや暗めの色彩に塗り潰されていたエルミタの記憶が、南国の日差しがさんさんと降り注ぐ明色に上書きされたような、ちょっと幸せな気分に浸ることができました。
マニラ旅行については、次回も続きます。
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