2016年3月31日木曜日

テニスの相棒

かれこれ半月ほど前になりますが、家内が日本のNGOの仕事の関係で知り合いになった、シライ市内の高校のレイという先生がいます。年齢は50歳でなかなかの男前のレイ。話をしていると、偶然お互いテニスをしていることが分かり、それが縁で時々一緒にコートへ。

さらにレイの従兄弟つながりで、ババロというオっちゃんともテニスするようになりました。ババロは40歳で独身。一体何の仕事をしているのかよく分かりませんが「いつでもテニスできるよ」とのことなので、この2週間ぐらい、本当にほぼ毎日テニスしてます。

ババロのお父さんが、シライ市郊外にあるサトウキビの精製工場「ハワイアン・フィリピン会社」に勤めていた関係で、工場の敷地内にあるテニス・コートで毎日遊んでいたらしい。小柄で細い手足の外見からは想像できないほどのテニスの腕前。

レイもかなりのレベルですが、年上のレイにテニスを教えたのがババロなんだそうです。多分、若い頃は、暇に飽かせて毎日テニスしてたんでしょうね。強打と言うよりボールのコースと強弱で、実に上手いテニスをします。ところが最近はレイも忙しくて、相手をしてる時間がないので、私がちゃっかりコーチになってもらったような感じ。

私がテニスを始めたのは、もう社会人になってから。それも50歳過ぎの今まで、ずっと続けていたのではなく、数年やってはブランクの繰り返し。初心者に毛の生えた程度の腕でずっと止まってました。実のところ毎日テニスなんていう環境に身を置くのは、生まれて初めて。

やっぱり毎日やると、今までにはない気付きがいっぱいです。さすがに日に何時間も動くほどの体力はないけれど、1時間だけでもシングルスで打ち合いをやれば、結構ボールを芯で捉えられるようになってきます。これは1年も続けられれば、多少はモノになるかも?

ただ難点は、練習場所。実は自宅から自転車で10分ほどの場所に、シライ市営のテニスコートがあります。無料で使えて、ボールボーイも付いてくれる。(ボール・ボーイへのチップは、1時間で50円ほど)。すごく便利なので、文句を言ったら罰が当たりそうですが、土のサーフェイスが荒くて、バウンドが変わりすぎ。


レイが言ってましたが、次の市長選挙でレイのテニス友達の候補者が当選したら、コートを新しくしてくれるんだそうです。ありがたい話だけど、思いっきり公私混同ですね。


酒好きのババロ。二日酔いですっぽかされたことも。



サングラスとハンチング。中島らもさんみたい。


2016年3月28日月曜日

卒業式はアカデミック・ドレス


イースターも終わり3月も終盤。日本では「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」なんて言い方をしたものですが、フィリピンに移住してからも不思議とこの感覚はそのまま。年度末という考え方はしないフィリピンでも、3月で学年が終わるのは日本と同じだからでしょうか?

この時期、フィリピン人のフェイスブック友達が多いと、かなりの頻度で卒業式の写真が投稿されます。日本でも同じと言えばそうなんですが、こちらでは日本の着物のような民族衣装とか、スーツ姿ではなくて「アカデミック・ドレス」。欧米の映画の卒業シーンではよく見る衣装ですね。多分、アメリカの影響なんだろうと思います。

大学生や高校生は、アカデミック・ドレスを着て卒業式に出席するのが、フィリピンのスタイル。そして記念写真大好きの国民性なので、着飾ってお澄まししたアカデミック・ドレスのポートレイトが、フェイスブックにずらりと並ぶのが3月末。


家内の従妹 正統派フィリピン美人のディアン

フォト・スタジオで撮影するんでしょうね。背景のパターンもだいたい決まっているようです。学校によっては、卒業生全員の写真を巨大なビニールシートに印刷して、道に面した壁にデカデカと貼り出したりしてます。

このアカデミック・ドレス、元々は在学中はずっと着る制服だったのが、本家の欧米でも卒業式だけの衣装になってます。当然フィリピンでも事情は同じ。まぁ、こんなに暑苦しい服を、熱帯のフィリピンで始終着るわけもないですね。それにしても一生に一回だけのために新調するとは、もったいない気がします。ひょっとしたらレンタルとかあるのかな?

学年が終わるのは3月でも、フィリピンでは、4・5月の2か月がまるまる夏休みで、新学期は6月の最初から。今年のように3月の半ばに聖週間がかかると、実質2か月半ぐらいの休みになる学校もあります。しかも宿題などなし。私もフィリピンで子供時代を過ごしたかった。


2016年3月27日日曜日

今年も復活祭


毎年の恒例行事は、日本でもフィリピンでも似たような感じがします。例えば日本のお正月とフィリピンのクリスマス。たいていの家庭では、就職や結婚などで遠く離れて暮らしていても、年末年始ばかりは実家に集まり、大晦日はみんなで紅白歌合戦見たり、除夜の鐘聴いたり。元日の朝には初詣。

フィリピンではクリスマス。海外出稼ぎやマニラ首都圏に住んでいる親族も、クリスマスシーズンは帰って来る。再会を祝いパーティをして、クリスマスイブにはみんなで教会のミサ。気候や食べ物は違っても、本当によく似た雰囲気です。

日本のお盆とフィリピンの万聖節・万霊節(ハロウィンの翌日、11月1日・2日)も、亡くなった家族やご先祖の霊が年に一度帰宅すると信じられる日。どちらもお墓参りの季節ですね。

しかし復活祭(イースター)とそれに先立つ聖週間だけは、日本に似たような休日がありません。時期的にはゴールデン・ウィークに近く、年によって日付が変わるイースターは、たまに4月末になったりすることもありますが、クリスマス以上に宗教行事の意味合いが強いので、雰囲気はまったく異なります。

聖週間には、イエス・キリストの十字架での死を悼み、イースターの日曜日には復活を祝う。元来クリスチャンは少数派だった日本で、クリスマスもハロウィンも宗教関係なしに立派なセールス・シーズンに仕立て上げた、商魂たくましい日本のマーケッター諸氏。さすがに復活祭だけは、生半可に騒ぐわけにいかないと悟ったのか、「イースター大売り出し」みたいなことはできないらしい。

そう言えば、クリスマスソングは、たくさんのポップソングになっているのに、イースターを歌ったのは、ユーミンがまだ荒井由美だった頃の「ベルベット・イースター」ぐらいしか知りません。とてもいい歌ですが、歌詞はキリストの復活とは無関係です。

さて、今年もイースターがやってきました。
イエスさまが磔刑に処せられたとされる聖金曜日の夜には、シライ市の中心部にあるサンディエゴ大聖堂から、マリアさまやいろんな聖人をモチーフにした電飾満載の山車が、市内各所をゆっくり行進。市民はロウソクを片手にその後に続きます。去年に続いて、私たち家族も参列。



そしてイースターの日曜日。それまでFMのラジオ局まで停波して歌舞音曲を控えていたのが、満を持していたように朝から花火は上がるわ、町中に響き渡る音量でカラオケ大会は始まるわの大騒ぎ。我が家でもお昼ご飯は、聖週間はあまり食べなかった「お肉」。1キロぐらい鶏の唐揚げを作りました。毎年決まり切ったことの繰り返しですが、やはり家族みんなで恒例行事というのはいいですね。





2016年3月25日金曜日

フィリピンの茅葺


我が家の裏庭に設置してあるバンブーハウス。「設置」と書いたのは、ここで建てたのではなく、竹製品を扱う竹屋さんで完成したものを、トラックで運んで来て置いたからです。このバンブーハウス、運送費込みの約四万円で2年半ほど前に購入したもの。当ブログを書き始めた頃に投稿

ちょうど家を建て始めた時期で、工事中は現場事務所として活用。建材や施工業者さんとの打ち合わせや、休憩所として活躍しました。竣工後は、裏庭のセカンド・ダイニング。たまにお昼を食べたり、お客さんが来た時には「喫茶店」に。

ところが去年あたりになると、あまり使わなくなり、買って2年が経過した昨年の後半頃から、屋根のあちこちに隙間が出来始め、雨漏りが常態化。ほとんど鶏舎状態。

床や壁は全部竹で組まれているバンブーハウス。屋根はまるで日本の茅みたいだと思ってました。あの屋根の草は、なんという名前?と家内に尋ねてみると、地元の言葉で「コゴン(Cogoan)」とのこと。調べてみたら英語で、しかも意味は「茅」そのもの。なんや、茅葺屋根やったんや。

そいう言えば、自宅周辺の空き地には、ススキそっくりの草がたくさん生えてます。多分、日本の茅と同じか、近い種類の植物がフィリピンにもあるんでしょうね。ひょっとしたら、大昔に茅葺の技術を持った人たちが、海を渡って移住したのが、日本の茅葺の始まりなのかと想像してみたり。

そう考えると、なかなかロマンチックだったりしますが、現実問題として茅葺というのは手入れをしないとすぐにダメになります。鳥が巣を作ったり、雑草が生えたり。特にフィリピンでは、日本と違って年中寒くならず、雨が多いので腐るのも早い。しばらく考えていましたが、竹の塀の修理で、竹材を買いに行った時に、バンブーハウスの修理もお願いしました。




修理費用は約一万円。職人さんが二人来て、三日で屋根の葺き替えと、竹部分のニスの塗り直しが完成。こうなると新品とまったく変わらないですね。いろいろ不便もありますが、昔ながらの素材と工法を使った住まいは、メンテナンスさえしっかりすれば、長く使える一生モノだと実感しました。


2016年3月22日火曜日

ネルジー・スペシャル

相変わらず肉類がまったく食べられない、我が家のメイドのネルジー。先代二人のメイドさんに比べて、仕事ではまったく見劣りしない...どころか掃除・洗濯・庭の手入れ、何をやらせても失敗はないし、日本人の私が見ても隅々まで手抜きをしない徹底ぶり。唯一残念なのは食事時です。

カトリーナもアミーも我が家で働いていた時は18歳。さすがに食欲は旺盛で、何を作ってもだいたい美味しい美味しいと、残さず完食。時にはお替りもしてました。メイドがあんまり大食らい過ぎるのも問題ですが、日々の料理をしている者にとっては、気持ち良く食べてくれると、相手が誰であっても嬉しいものです。

ところがネルジー、肉がダメなだけでなく大柄な割には小食で、小学校4年生の息子よりも食べる量が少ない。働き者なだけに、これで体が保つんかいなと、心配になってしまいます。フィリピンでは3時のおやつを「ミリエンダ」と称して、結構な量のお菓子や軽食を摂るのが一般的なのに、ネルジーは一切完食なし。コーヒーや紅茶も飲まない。

こういう状態なので、ネルジーが我が家で住み込みを始めてから、毎日の献立がちょっとした悩みの種に。家族とまったく別の料理を用意するのも面倒だし。そこで最近よくやるのは、最初に肉なしで作ってしまい、ネルジーの分だけ皿に分けた後、肉を追加するというやり方。私はこれを「ネルジー・スペシャル」と呼んでいます。

鍋やフライパンを一つ余分に洗う手間が増えますが、それぐらいはネルジーにやってもらうとして、この肉別調理は案外うまくいってます。カレーやシチューなどの煮物も、焼きそばや八宝菜などの炒め物、ほぼ問題なし。ネルジーもこれだと責任を感じるのか、以前よりは多めに食べてくれるようになりました。

ただ、ハンバーグや麻婆豆腐、ロールキャベツといった、肉がないと成り立たないような場合は、もう一品、魚や野菜のメニューを用意しないと仕方ありません。

疲れてる時や時間がない時は、どうしても肉なしでそのまま、ということになりがち。結果としてお好み焼きも豚玉ではなくエビでとか、鶏肉入りのオムライスではなく、カニカマボコ使って天津飯にという具合に、図らずも我が家の食生活は、少しだけヘルシーな方向に寄って来ました。



最近は魚と野菜が主体のおかずが増えました。


2016年3月20日日曜日

眉間にシワが寄る「枝の主日」


今年のイースターは3月27日。カトリックにおいて最も意味深い、イエス・キリストの復活を祝う日。それに先立つ1週間前の日曜日は「枝の主日」と呼ばれ、イエスのエルサレム入城を、当時の人々がナツメヤシの枝を持って迎えたことに起因する行事です。

去年は、シライ市内最大のサンディエゴ大聖堂でミサに与り、その様子をこのブログでも投稿しました。今年は、自宅近くの神学校付属のチャペルでのミサ。大聖堂では省略していた、ミサ冒頭の屋外での聖書朗読と、持ち寄った枝(フィリピンでは、パーム・サンディの名前通り、ヤシの葉)への神父の祝福(聖水を振り掛ける)の儀式に参加することができました。

日本では、どの教会でも必ず行われていると思いますが、私はフィリピン移住後初めて。ちょっと感じが違ったのは、日本だと桜の咲く時期の枝の主日が、こちらでは真夏になります。今日もよく晴れて、南国の太陽が燦々と照りつける中のミサでした。



前回の大聖堂でのミサは、全部地元方言のイロンゴだったのが、今日のチャペルでは、神父さまの説教以外は全部英語。このチャペルは、通常のミサも基本は英語で行われ、月に一回ぐらいが「イロンゴ・ミサ」になります。もう移住して3年になろうかとしているのに、私はイロンゴはまだまだ片言しか分かりません。息子も、通っている小学校が英語での教育を信条にしているので、私よりはマシとは言え、ミサの進行はほとんど理解できない。やはり何を言ってるか分かる英語は、助かります。

さて、ミサの中で「答唱詩篇」という箇所があります。これは聖書の一部にメロディを付けて、先唱者が一節を独唱し、続く一節を信徒全員で答唱する、掛け合いの節付き聖書朗読のようなもの。日本にいた頃は、聖歌隊に所属していたので、私も時々先唱の役を仰せつかりました。特に枝の主日での先唱は、十字架上のイエス自身の言葉で綴られ「私の神、どうして私を見捨てられるのか?」という痛々しい内容。

こういう悲痛な歌詞の答唱詩篇は滅多にないので、結構難しい。さすがに笑顔で歌えるような歌詞ではなく、意識しなくても眉間にシワが寄ります。今日の先唱者は神学校の生徒さんで、やっぱり悲しそうな顔で歌ってました。それを見て、やっぱりどこへ行っても同じなんだなぁと、つい笑いそうになってしまった。



2016年3月19日土曜日

シライ名物 海上レストラン

静かで、のんびりするにはいいフィリピン・ネグロス島のシライ市。地元のサイトを見ると「ネグロス島のパリ」などと、ちょっと盛り過ぎちゃうか?というようなキャッチフレーズ。スペイン統治時代の古い建造物が、一部に残ってたりするからなんでしょうけど、正直に言って、わざわざシライ市内観光だけに、日本からはるばる来るほどではありません。

そんなシライ市でも、私が「ここは、ちょっといいかも」と思うのは、海に面したバラリン地区にあるレストラン群。元々はマングローブが生い茂る海岸だったのを、マングローブを伐採して魚やエビの養殖池にしてしまった一角。そこを利用して、海上に竹で作った建屋が並んでます。名付けて「フローティング・レストラン」。


少なくとも20年以上前、すでに何軒かは営業してましたが、ここ数年で新規の開業や、リニューアルが相次いで、週末は市外からのお客さんも多く、とても賑わっています。数えたことはありませんが、もう10軒以上はあるかも知れません。

出てくる料理はといえば、魚のステーキや、イカに野菜を詰めて蒸し焼きにしたもの、エビ入りの酸味を効かせたスープのシニガンなどなど。牡蠣もありますが、海産物を生食する習慣のないフィリピンなので、生牡蠣はなく、きっちり火は通してあります。

比較的素朴なメニューばかりとは言え、素材が新鮮なのと、海風か吹き抜ける情緒たっぷりのローケーションなので、シーフード好き・南国好きの人には堪らない場所。当然シライ市民にも人気で、誕生日のパーティにもよく利用されています。



昨夜は、義理の父と妹のダブル誕生日。最近内装を新しくした「シーサイド・フローティングレストラン」でバースディパーティがありました。ここは西に面した海岸なので、夕暮れ時には、なかなか素晴らしい景色が楽しめます。かつてマニラ湾は、世界で一番美しい夕日が見られる場所と言われたそうですが、すっかり汚れた首都圏周辺に比べると、今ではこのシライのバラリン地区の方が、ずっと素敵な夕日見物の名所だと思うほど。

久しぶりのバラリンなので気分が良くなり、日頃滅多に口にしないビールも飲んでしまいました。フィリピン特産ビールのサン・ミゲール。シーフードにはぴったりですね。



2016年3月16日水曜日

シライで拳銃強盗? 【追記】あり


つい最近、私たちの住む宅地から、ほんの徒歩15分ぐらいの場所で、拳銃強盗事件が発生しました。やっぱりフィリピンは物騒...と思われても仕方ないような話ですが、ここはネグロス島で、しかも片田舎のシライ。マニラ首都圏や大都市セブならば、いかにもありそうな事でも、この街でそんな凶悪犯罪は滅多にない。家内も初めて聞いたそうです。

事件があったのは、比較的裕福で大きな住宅が立ち並ぶ地域。ただし、すぐ裏手がスラムで、壁で囲まれてゲートに警備員が常駐する「サブ・ディビジョン」とか「ビレッジ」と呼ばれるエリアに比べると、やや不安が残ります。

しかし、仮にスラムの住民が金に困っていても、こんな近隣で、顔見知りがいっぱいの場所では強盗はしないでしょう。だいたい本当に貧しいならば、拳銃を入手できるわけがありません。マニラなどで発生する拳銃がらみの犯罪は、私が知る限り、観光客を狙った常習犯か、身代金目当ての金持ちの中国系住民の誘拐。他には怨恨で殺し屋を雇っての殺人とか、日本人が被害者になることの多い保険金殺人。(この場合は依頼主も日本人のケースが多いらしい)

つまり、少なくとも拳銃を入手するよりも多額の現金が手に入らないと、普通は起こりにくい犯罪と言えます。シライ市の場合、地主階級の富裕層が誘拐されるのならば、考えられなくはないですが、私がシライに関わるようになってからの、この20年。営利誘拐があったという話は、聞いた事がありません。

今回被害にあったのは、当地で活動している日本の某NGOの事務所兼マネージャーの自宅。地主に比べれば、そんなに裕福でもないし、盗られたのはパソコン数台にテレビなど比較的高価な家電製品、たまたま手元にあった現金。犯行当時、子供一人が留守番だったそうで、最初は男が一人で「お父さん、お母さんはいる?」と知り合いを装い、扉を開けさせた後に拳銃を突きつけ、さらにもう二人の男が押し入ったとのこと。

いくら宵の口とは言え、メイドも使用人も置かず、子供一人に留守番させるなんて不用心過ぎ。しかし、周囲の家に比べてここが特別な豪邸でもなく、一番手薄な時を狙われたのが、何となく偶然には思えない。このNGOのマネージャー、極めて評判の良くない人物で、恨んでいるフィリピン人はいっぱいです。誰かに頼まれたか、そこまではいかなくても、手引きをする人がいたとしても驚きません。

やはり、それでなくても何かと目立つ、フィリピン在留の日本人。ご近所付き合いは大切にして、敵を作ったりせず、困った時には助けてもらえるようにするのが肝要。もちろん自分の身は自分で守るという緊張感も、忘れてはいけないですね。

【追記】同じネグロス島でも、人口50万都市の州都バコロドでは、拳銃による犯罪が発生しているそうです。「銃乱射後に自殺」


2016年3月12日土曜日

竹塀バッタン

フィリピンのネグロス島で、1ロット150平米の土地を4っつ、合計600平米購入したのが、もうずいぶん前。日本の建築家に設計を依頼してからでも、今年で10年経過します。当初の計画では、4ロットをフルに活用してのデザインでしたが、義父との同居が取りやめになったり、施工費用の高騰などのいろんな理由から、規模を半分サイズに縮小。

それでも延べ床面積180平米の、日本の庶民感覚からするとかなり大きな家が完成。結局2ロット分は丸々空き地で残り、図らずも300平米の「裏庭」ができました。日本だったら、高級住宅地にこんな広さの土地を遊ばせていたら、固定資産税が大変そうですが、フィリピンではほとんど無税。土地より上物の方が、はるかに資産価値が高いぐらいです。

とは言っても、草茫々のまま放置するわけにもいかなかったので、周囲に竹塀を巡らせて、バンブーハウスを設置したり、芝を植えたりして、一応それなりの体裁にはしました。

家ができて1年半以上が経過した先月のこと。別に台風が来たりしたわけでもないのに、この竹塀がバッタンと倒れてしまいました。実は倒壊は初めてではなく、昨年、本当に強風が吹いた後に一度同じ箇所が倒れて修理したところ。また、同じ大工さんにお願いしたのですが、その大工さんが「もう塀全体が腐ってボロボロですよ」。


そう言えば、このブログやフェイスブックで写真を見た何人かの友達から、竹だと年に一回はメンテナンスが必要と指摘されてましたね。それを考えると、熱帯で雨が多い場所にしては、よく保ったものです。

同じように作り直して、また1年半後に倒れるのも芸のない話。そこで今回は少しだけコンクリートの基礎を追加して、下からの湿気や虫食いを少しでも防げるよう、大工さんに頼みました。図面も何もなしでの口頭指示の割りには、こういう仕事は慣れているようで、数日後にはほぼイメージ通りの竹塀が完成。

ところで、この塀の位置。倒れる前より1メートルほど手前に移動させました。つまり少し裏庭が狭く。塀を最初に作った時、当時の大工さんたちがかなりエエ加減に測量してたので、少々心配でした。今回は基礎を作ることもあり、家内も気にしていて、念のため管理事務所に再測量を依頼したら、案の定の結果だったというわけです。こういう所は、さすがのフィリピンですね。






2016年3月11日金曜日

マルコスの娘?

前回の投稿では、今年5月に投票日を迎えるフィリピンの大統領選の候補者、グレイス・ポー女史について書きました。孤児〜有名俳優の養女〜アメリカ移住〜帰国・上院議員当選〜大統領に立候補。まるで小説かドラマのような半生ですが、これは表向きの経歴。

実はグレイス・ポー女史は1986年に失脚・亡命した元大統領、フェルディナンド・マルコスの娘だとする噂が、まことしやかに囁かれています。本当は捨て子ではなく、養父のフェルナンド・ポー氏の妹で俳優だった女性と、時の権力者マルコスとの間に生まれた非嫡出子だと言うのです。

これが本当だとすると、マルコス失脚後「アキノ王朝」と揶揄されてきた現政権に対して、一種の挑戦みたいなことにもなります。もちろん私には事の真偽を確かめるすべもありません。しかし絶大なる人気を誇った俳優フェルナンド・ポー氏が、わざわざ身寄りのない赤ん坊を養女として引き取ったり、その子をアメリカに渡航させたりした理由の説明にはなりますね。

あまり興味本位で、ただの居候外国人が首を突っ込むような話題でもありませんが、フィリピンの場合、得てして政策や政治家としての適性以外のことで票が集まりやすい。典型的なのが、俳優のエストラーダを大統領にしてしまったこと。その後不正蓄財が発覚して市民革命が起きたのは、記憶にも新しいところです。
さて、今回の選挙でフィリピン国民は、どんな判断を下すのでしょうか?


クリーンなイメージが売りのポー候補
出典:PhilStar


マルコス元大統領と妻イメルダ

2016年3月10日木曜日

ドラマチック大統領選

前回に続いてフィリピンの選挙について。

1965年から1986年の約20年間、事実上マルコス大統領の独裁政権が続いたので、その間は大統領選など無きに等しかったフィリピン。それ以前のことはよくわかりませんが、それ以降の歴代大統領の顔ぶれを見ると、叩き上げのプロの政治家というのはいなくて、軍人や学者、俳優などから転身した人ばかり。それだけでなく、みんな何かしら劇的なバックストーリーを持っている。

マルコス政権打倒後に大統領になったコラソン・アキノ女史は、マルコスに暗殺された夫の復讐に立ち上がった、悲劇の未亡人。立候補前は、政治経験がないどころか、ただの主婦だったそうです。次のラモス氏は革命の趨勢を決定付けたとされる元国軍参謀次長。

エストラーダ氏は国民的な人気を誇る俳優でした。この人は大統領になってからの方が劇的で、不正蓄財が発覚して「ピープル・パワー2」と呼ばれる市民革命で失脚。逮捕・勾留されたはずがいつの間にか恩赦で出獄し、2013年の選挙で現マニラ市長の椅子に。

その次のアロヨ女史は、アメリカの大学で学んだ経済学博士で、マルコスの前の大統領だったマカパガルの娘でもあります。劇的な経歴というより、生まれの良さと学歴、そしてなかなかの美貌の持ち主でした。在任中に来日し、家内もレセプションに出席して直接見たことがあります。この人も退任後、汚職で逮捕されてしまいました。

そして現職の「ノイノイ」こと、ベニグノ・アキノ大統領。前述のコラソン・アキノの息子で、母が大統領だった頃にクーデター未遂事件に巻き込まれ、銃撃を受けて瀕死の大怪我。5発も被弾しながら生き延びたそうです。

さて、こうなると次期大統領には、どんなドラマチックは半生を歩んだ人が立候補するかと、無責任な期待をしてしまうところ。そう次々とそんな人は出ては来ないだろうと思っていたら、いたんですよ、ものすごい人が。

候補者の一人、グレース・ポー女史は、何と教会の前に置き去りにされた捨て子だったそうです。孤児だったグレースの養父となったのが、これまたフィリピンでは超人気俳優で、アロヨ女史と大統領選を戦ったこともあるフェルナンド・ポー氏。それだけでも十分劇的なのですが、選挙後に病気で急逝した父の意志を継いで上院議員になり、昨年大統領に立候補。

フィリピンではフィリピン国籍を有するだけでなく、10年以上はこの国に住んでいないと、大統領にはなれない決まりがあります。長くアメリカに住み、アメリカの市民権も持つポー女史は、この資格を満たしていないと選挙管理委員会から失格を言い渡されましたが、先日最高裁判所がこの決定を覆す判決を出しました。

いよいよドラマチックな展開になってきましたね。私の完全なる独断によると、ポー女史が当選間違いなし。でも家内に言わせると「フィリピンから一度逃げ出したような人はダメ」なんだそうです。う〜ん、そう言うと私も国外逃亡した同類なんやけどなぁ。


今大統領選の有力候補 中央がポー女史
出典:Batangas Today


2016年3月9日水曜日

混沌 フィリピン総選挙

月曜日から風邪を引いてしまったらしく、微熱やら咳やらでブログの投稿が滞っておりました。まだ多少、喉がイガイガしてます。

今年はフィリピンで6年に一度の大統領選。そして同時に3年に一度の、バランガイ・キャプテン(町内会の会長)から、市長、市会議員、州知事、上下院議員(議席の半数)などの改選が行われます。私にとっては移住後初めての大統領選。5月9日の投票に向けて、そろそろ選挙戦も盛り上がってきました。

とは言っても私自身は、選挙権の無い外国人なので、実際はあまり関係はありません。もっと言ってしまうと、選挙の結果で一般市民・国民の暮らし向きが良くなるとは思えない。しかし、多少なりともお役所関係者と利権を共有している人たちにとっては、誰が権力者になるかは一大事らしい。

これは日本でも同じなのでしょうけど、この国の場合はそれが露骨。例えば市の公共事業の発注先など、市長の親戚縁者・友人関係で独占されるのは当然のことで、誰もそれを不審には思わない。選挙前になると有力者の誕生日パーティなどの祝いには、続々と候補者が詰めかけるそうです。

市長が変わると、この勢力地図が一変するのもフィリピンでは当たり前。実際に金品の授受を私が見聞きしたわけではありませんが、家内を含めて多くのフィリピン人が「政治家=泥棒」と決めつけるのは、故なきことではないんでしょうね。

こんなお国柄なので、選挙に関するルールも至ってええ加減。例えば選挙ポスターなど、貼る場所や期間など何の制約もないようです。空港への抜け道沿いに延々と貼ったり、交通標識と並べたり、しかも市長も議員も大統領も同じように貼る。もう混沌(カオス)状態。これって、場所争いで喧嘩になったりしないのか心配になります。



実際に各陣営同士での争いは頻繁で、選挙戦も終盤になると本当に傷害や殺人事件になることも。前回の2013年の総選挙の時は、フィリピン人の友人から、選挙前後の1週間は夜間の外出は控えた方がいいと忠告されてしまいました。

さて、我がシライ市の現市長は「オティ(Oti)」ことホセ・モテリバーノ氏。名前も外見もスペイン系メスティーソ。もう2選され6年の任期が満了なので次の選挙には出られません。しかし抜け目なく奥さんを次期市長候補に送り込んでます。

この市長さん、私たちの住むセント・フランシスを夕方よく散歩してるのを見かける。それだけだったら親近感を抱くところなんですが、どう見てもヤクザ者にしか見えない男たちを、用心棒よろしく常に10名程度従えている。マフィアのボス以外の何物でもないなぁ。


現シライ市長のオティ
市が発行する公式文書にも顔写真載せるのがフィリピン流
強烈な自己顕示欲ですね。


2016年3月4日金曜日

久しぶりのフィリピン旅行?


前回前々回と在セブ日本領事館での息子のパスポート更新手続きについて、愚痴日記みたいな投稿をアップしてしまいました。手続きは面倒でしたが、日帰りとは言えセブへの旅行自体はかなり楽しかった。

まずネグロス島の外に出るのが、去年5月のマニラ行き以来。隣街のバコロドですら数週間に1度ぐらいしか出かけず、軽い引きこもり。ただ、それが嫌だということではなく、自宅をかなり居心地良く作った結果もあります。またネットは普通につながり、映画やドラマ、音楽に書籍と、日本語コンテンツにも事欠かない生活なので、あまりフィリピンにいるという自覚がなくなる。

そんな日常から、飛行機に乗ってリゾートで有名なセブ・マクタン空港に降り立つと、まるで海外旅行の気分。たまたま天気が良くて、これから真夏を迎えようという時期だったこともあるでしょう。しかも、自宅のあるイロンゴ語圏の西ネグロスとは言葉が違って、セブはセブアーノ語圏。

日本領事館のあるオフィス街と、そこに隣接する巨大ショッピングモール「アヤラ・センター」に来ると、いよいよ異国情緒満載。どっちを向いても観光旅行客ばかりだし、ネグロスではほとんど見かけない高層ビルがいっぱい。フィリピン人の家内ですら「まるでフィリピンじゃないみたい」と呟いていました。


こう開発が進むと、街の佇まいは世界中どこに行っても変わらなくなるという見本みたいなもの。レストランやカフェの中だと空調も効いているし、東京や大阪と大差ありません。コーヒー一杯の値段が、ネグロス島のシライ市内なら十分満腹になる料理とライス分ぐらいもする。でも、たまにはそういうのも悪くない。



すっかり家内とデート気分を満喫して、午後からはこの旅行のメイン、日本食材店の「町屋マート」というお店へ。セブ島やその周辺に滞在している日本人にはかなり有名な場所で、「セブ」「日本食材」でキーワード検索かければ一発で当たります。どんな店かというと、日本の狭いコンビニがそのままフィリピンに引っ越してきた感じ。

生鮮食料品がないぐらいで、レトルトやインスタント食品、お菓子にペットボトル飲料に胃薬・風邪薬などの常備薬もあります。ただし当然ながら価格はペソで、しかもかなり割高。でも、こっちに長期滞在してると大喜びで、一種の興奮状態になるのは、間違いなし。

私より家内がはしゃいでしまい、あっという間に3000ペソ分(約8000円)も購入。私たちの前にレジに並んでいた日本人らしきお客さんは、5000ペソ支払ってましたね。もしこの店が近所にあったら、1か月に1回ぐらいは買い出しに来そうです。

さて、戦利品をバックパックに詰めて、夕方のフライト目指して少し早めに空港へ。空港内の店で土産物を物色していると、何だかこのまま日本へ帰国するような錯覚を起こしてしまいました。20年前のハネムーンはセブでしたからね。



2016年3月3日木曜日

日本語が不自由な日本領事館員


息子のパスポート更新のため、ようやく申請書と写真を揃えて、やって来ましたセブ市内にある日本領事館。約1年半ぶりのセブ。今回はフィリピン人の家内と一緒で、リゾート地のマクタン島あたりで数日宿泊してゆっくりしたいところですが、家内は仕事があるし息子を置いて来ているので、もったいないけど日帰り出張。

朝7時バコロド・シライ空港発のセブ行き便で、たった30分のフライト。天気も良く順調な滑り出しと思ったら、空港からの幹線道路が拡張工事中やら事故やらで大渋滞。1時間半以上もかかって、ようやく日本領事館のあるセブ市中心部のオフィス街に着きました。ちょっと嫌な予感。

お馴染みのビルの7階にある領事館。狭いのは仕方ないにしても、内装も、椅子・テーブルも安っぽいのは相変わらず。まるで田舎の公民館みたいな佇まい。入居しているビルが立派なだけでに、貧相さが際立ちます。一応世界第3位の経済大国を代表する場所なんだから、もうちょっと何とかならんものかと、いつも気になる。些細なことかもしれませんが、一事が万事、在留邦人に対する日本政府の冷たい態度がよく分かる風景ですね。

さて、肝心の手続き。さほど待たされることなく窓口へ。何度か見たことのある若い女性が対応。ストレートの長い髪にポロシャツという、一見典型的なフィリピン女性のスタイル。肌はやや浅黒く、どうやら日比混血のようです。「おはようございます。」と日本語で挨拶してくれましたが、イントネーションはネイティブではありません。

苦労して作成した書類を見せると、いきなりサイズが違うと言われてしいました。持って行ったのはフィリピンでは一般的な「リーガル・サイズ」。こちらではA4での紙ってあんまり売ってないんですよ。申請用紙だから少々サイズが違っても大丈夫だろうとタカをくくっていたのが間違いだったようです。

さすがに飛行機に乗ってわざわざ来たので、サイズが違うと受理できない理由を訊いたら、受付嬢の日本語が途端に分かりにくくなってきました。やっぱり日本語は母語ではないんでしょうね。型通りの受け答えから外れると、語彙の少なさを露呈してしまう感じ。

仕方がないので、私が英語に切り替えてよ〜く訊いてみると、用紙にあるQRコードのサイズが変わってしまうと、スキャナで読み取れるかどうか分からないとのこと。私は用紙サイズは違っても(A4よりリーガルの方が少し大きい)同じスケールでプリントアウトしたつもりだったのですが、慣れないWindowsパソコンだったので、知らない間に自動でリサイズされていたようです。たったこれだけの話を理解するまで10分以上かかってしまった。

そういう理由ならば、ホームページに書いておいて欲しかった。それにしてもまた飛行機で出直しか?これは困った。しかしさらによ〜く聞いてみると、12歳未満の子どもの場合の署名は親の代筆でも大丈夫。息子はまだ10歳なので、その場で申請書の書き直しができます。そんなこと、どこにも書いてなかったぞ〜!それなら最初から自分でダウンロードなんかしなかったのに。

まぁ結果オーライで、無駄足を踏むことなく手続きが終わったのは良かった。それにしても、この領事館に足を運ぶのは、ほとんどが日本人のはず。その対応窓口に日本語能力がイマイチの人を配置するのは問題ですね。

それでなくても物事が思った通りには進まないフィリピンで、お役所スタイルの四角四面を押し付けるのなら、少なくとも日本語はネイティブレベルで、もうちょっと臨機応変な実務対応能力のある人を雇って欲しいものです。


パスポート申請書ダウンロード


この4月1日に息子のパスポートの期限が切れます。タイミングが悪いことに、フィリピンでは学校の夏休みは4月から。4月になってからだと、いつでも息子を連れて行けるのですが、期限切れの後に申請すると、日本から戸籍謄本を取り寄せる必要があってとても面倒なことに。お役所は当然のように土日や(フィリピンの)祝祭日には一切対応してくれません。

厄介なのはマニラの大使館やセブ、ダバオの領事館に行かないと、申請用紙が入手できないことです。自分のことならばとっとと出かけて行って、その場で用紙に記入すれば何も問題ないけれど、息子のパスポートなので息子の署名が必要。つまり私たちのように、大使館・領事館がない島に住む日本人は、とても不便なことに。「学校ぐらい休ませろ」ってことでしょうか?

ところが偶然にも、つい最近外務省が「パスポート申請書ダウンロード」なるサービスを開始しました。この投稿を書いている2016年3月3日現在、日本国内での申請にはまだ使えないようですが、海外の大使館や領事館では受付できる。これは助かったと思って早速試してみたら...。

PDFのファイルはあっさりダウンロードできたのに、なんとMacではプロテクトがかかって開かない。Windowsマシン限定って、何のためにこんなことするの? 仕方がないので家内のWindowsで試してみましたが、日本語OSが入っていないので、これもダメ。

そこで日本語OS搭載のWindowsを持っている日本人の友達にお願いして、わざわざ自宅にパソコンを持って来ていただきました。慣れないWindowsと悪戦苦闘して、1時間ばかりでようやく2枚プリントアウト。

次は、パスポートに貼る写真。これは日本にいる時から知ってましたが、撮影された顔の大きさがプラスマイナス2ミリ以内の誤差で決まっている。日本の写真屋さんなら簡単にできるかも知れませんが、少なくとも田舎町のシライでは、できる場所があるとは思えない。仕方なしに隣街の州都バコロドのパスポート写真を撮ってくれるスタジオへ。

かなりの労力を消費して準備が終わり、やっとセブの日本領事館に行ったのが昨日でした。ところがそこでもすんなりとは終わってくれません。長くなりそうなので、次回に続きます。