2024年7月31日水曜日

騒音の内憂外患

 もう7月も終わって明日からは8月。フィリピンでは、学校にもよりますが、8月から新学期がスタート。本来の夏休みは、乾季で一番暑くなる4〜5月だったはずが、4年経ってもコロナ禍の影響で2ヶ月ずれたまま。かわいそうに学童・学生たちは、体感温度が40度前後だった猛暑の中を登校させられて、せっかくの休みは連日の雨。これはアカんと気付いたのか、来年から元の日程に戻しますと、教育省からのお達しがありました。

高校三年生の息子の通う、ネグロス島シライ市内の私立高では、一足早くこの月曜日から新学年。最近、ヒョロっという感じで背が伸びた息子も、以前と変わらず飄々と毎朝登校しております。

さて今日の本題は、フィリピンに移住した多くの日本人が悩まされるであろう、近隣からの騒音について。もうすぐ62歳になる私より一回りぐらい先輩の、ある邦人女性は、フィリピンで悠々自適の引退生活を楽しむはずが、連日の隣近所からの大音量音楽に悩まされて、残念ながらの帰国に至ったとのこと。そこまでいかなくても、ストレスを抱えながら日々を過ごしている人も多いでしょう。意外とフィリピン人でも、そいうい人は一定の割合でいるようです。

移住11年を迎えた私の場合、騒音を出さないことがルールの宅地内に家を建てたはずが、そんなことお構いなしの住民たちの騒音との戦いの連続。最初は、夜な夜な、宅地では禁止されている闘鶏を開催してた裏の大金持ち。そのオーナーが病気で寝たきりになって静かになったと思ったら、隣で新築工事が始まって、大工が大音量の音楽を流しながらの作業。何度苦情を入れても元の木阿弥で、ついに現場監督相手に大喧嘩。

工事が終わったら、次は向かいのオバはんが、これまた禁止されてる養鶏場を始めました。それもただの雄鶏ではなく、闘鶏用のを多数。深夜の2時3時に一斉に時を告げるもんだから、こちらは毎日寝不足。私が出るとまた喧嘩になるので、家内に間に入ってもらい、何とか養鶏は断念させました。

そしてコロナ禍。養鶏オバはんとは反対側の隣家の小学生の兄弟二人が、毎朝私の寝室の前を絶叫しながら自転車遊び。その次は、その隣の空きロットで、オーナーのオっさんが畑を始めました。ただ畑仕事するなら構わないんですが、野外ディスコに使うようなでっかいスピーカーで、終日大音量の音楽。宅地の警備員経由で苦情を入れたら、バランガイ訴訟に。いや、話が逆でしょ?

さすがにこれは、オッさんの言い分に無理があって、軽くバランガイ・キャプテン(町内会長みたいな役職)にいなされて、事無きを得ました。

直近が、新築工事の時に揉めた家。引越してからオーナーと直接話したことはなく、何となく嫌な感じながら平穏だったところ、わざわざ私の寝室の前の路上で、子供二人とバスケットボール。まだバトミントンなら良かったんですが、あのドリブルの音と振動って、頭に直接響くんですよね。それも1回だけじゃなく、二日続けてだったので「頼むからやめてくれ」と言った瞬間に、オーナーの男性(多分30代後半ぐらい?)がいきなりのブッチ切れ。

「ここはお前の道路じゃな〜い」と叫び出しました。一緒に遊んでた女の子二人はドン引き。まるでダダっ子。このまま怒鳴り返したら、拳銃でも持ち出しそうな勢いだったので(フィリピンでは民間人でも銃所持OK)、努めて冷静に「もちろん私の道路じゃないけど、あなたのバスケットボールコートでもないでしょ?」と理詰めの説得モード。しばらく話して、最後は握手で別れることができました。やっぱり子供みたい。

ここまでなら「またか」なんですが、さらに今回は、先月から介護移住で同居している高齢の父が、戦線に加わってきました。88歳のこの爺さん、若い頃から建築現場で仕事をしていてやや難聴。加齢で拍車がかかって、テレビを見る時の音量が半端ではありません。日本にいる頃から、ネットフリックス用にと買い与えたクロームキャストが、思いの外お気に入りで、こっちでも毎日「大谷選手」と「嫌韓・嫌中・日本すごい」番組のユーチューブ。わざわざ一軒家の離れまで用意したのに、それでも全開した窓から、フィリピン人もびっくりの大音量。

前回の投稿でも書いた通り、元々あまり仲が良いとは言えない親子の私たち。うるさすぎるからテレビ見るんなら窓閉めてエアコン使えを言ったら、例によっての逆ギレ。

実は、これ以外にも、ネガティブな出来事が立て続けだった7月。2週間ぐらい雨ばかりで気圧も低かっただろうし。かつて日本のサラリーマン時代に10年以上も苦しんだ鬱が、またぞろ頭をもたげて来て、一時はちょっとヤバかった。

しかしながら、分かりやすいというか現金なというか、雨季の中休みのように青空が広がり出すと、精神状態は一気に上向き、それとシンクロするように、周囲の状況も少しづつ好転。ということでやっと更新する気になった今日のブログは、愚痴大会になってしまいました。


2024年7月15日月曜日

高齢両親、再びネグロス島へ

 前回の、ネグロスの主峰カンラオン山噴火の投稿から、もう1ヶ月以上の間が空いてしまいました。その末尾にも記したように、私の両親が、昨年11月に続いて再びこのネグロス島の自宅に滞在しております。お陰さまで、その後カンラオンは平静を保っていて、最寄りのバコロド・シライ空港が閉鎖になることもなく、予定通り無事ゲストハウス到着して、かれこれ3週間が経過。

何度か投稿したように、この離れ家は、兵庫県尼崎にあった実家の間取りを再現したもの。小ぶりながら寝室二つとリビング・ダイニング、トイレとシャワーに加えて、湯船のある浴室も用意しました。二人で住むには十分な広さがあります。


到着早々、父のボストンバッグの鍵の紛失騒ぎや、母がまったく着替えの準備をしていなかったことなどが発覚してバタバタとしたものの、何とか当日はぐっすり寝てもらいました。連日猛暑日が続いた6月初旬までの乾季が終わっていて、心配していた暑さもそれほどではなくひと安心。

翌日は、同行した弟の提案で、すでにリビングにあるテレビとは別に、母の寝室専用のテレビと、それを視聴するための安楽椅子を購入。ついでに母の衣類も家内に付き添ってもらって、上から下まで全部調達。下着も靴下もない状態だったんですよね。まるで着の身着のまま難民状態。

一旦は要介護3で施設に入っていた87歳の母。ケアマネージャーさんも驚く、奇跡の回復を遂げて昨年実家に帰宅。入浴や排泄など最低限の身の回りの事は大丈夫で、話しかけたらそれなりの反応は返っては来ますが、認知症の症状はジワジワ出ているらしく、旅行の準備のような、ちょっと込み入ったタスクは、もう無理なようです。

とは言え、88歳の父はまだ頭もはっきりしていて、日本にいた時同様、トーストと卵、ハムの簡単な二人分の朝食の準備は任せています。日中はテレビを見たり、趣味の模型作りで世話要らず。何よりも助かるのは、二人とも年齢の割には旺盛な食欲で、私が作る昼と夜の食事は、毎回完食。それも炒め物や揚げ物、何でも「おいしい、おいしい」と平らげます。

言葉は通じなくても、メイドのグレイスおばさんとも上手くいっている様子で、たまにグレイスのサポートで、母は車椅子、父は徒歩での散歩に出たり。こう書くと、介護移住は順風満帆のようですが、万事順調・めでたしめでたしにはならないのが現実。

実は前回も、誰もいない部屋のエアコン・扇風機・照明の全部つけっぱなしやら、水道の締め忘れなどがあって、何度か注意。今回はさらに輪をかけて、窓を全開にしてエアコン稼働。それが三日続けてあったんですよ。実際にエアコンをオンにしているのは母なんですが、隣室の父はそれに気づかない。それでなくても物価に比べて電気代が高いネグロスなので、再三父に苦言を呈しました。ただ残念ながら、昔から私との関係が良好とは言えなかった父。身内に対して素直に謝るということができない性格。

冷静に考えてみれば、すっかり耳が遠くなった父なので、もうちょっとソフトに対応すればいいのは分かっているけれど、父も「金やったら払う」「そんなに文句言うなら日本へ帰る」と逆ギレ状態。売り言葉に買い言葉で、どうしても私の言い方もキツくなりがち。元気な時は、クッション役をしてくれてた母も今は半分寝たきり。ある程度想定はしてましたが、老齢の親との同居って、肉親であるが故の難しさがあるものです。

しかしながら、さすがに今回は、しばらくして自分の立場に気づいたのか、おそらく私が生まれて初めて、父の方から謝ってきました。かつては家族全員に大迷惑をかけた父。その時も、一度たりとも頭を下げなかったことを考えれば、ずいぶんと変わったとも言えるでしょう。

そして最大の功労者がフィリピン人の家内。図らずも、母に代わってクッション役になってくれています。日本に限らずフィリピンでも、義理の仲は拗れがちなもので、私たちの結婚には大反対だった母。ところが母が足を骨折して入院した際には、毎日病院に通って入浴の介助をした家内。よく言われる「フィリピノ・ホスピタリティ」を体現するような働きでした。それ以来、両親共々、このフィリピン嫁に心酔して、今回の介護移住も「嫁がいてくれるなら」との思いもあったからでしょう。

ということで、孝行息子とは程遠い私ですが、家内やメイドさんの助けを借りながら、なんとか親との毎日を過ごしております。この件は、同じく介護な必要な身内がおられる方々には、何かの参考になるかも知れませんので、時々経過報告しますね。ちなみに両親、観光ビザでの入国なので、年内には一時帰国の予定です。


2024年6月6日木曜日

ネグロスの主峰カンラオン噴火


噴煙を上げるカンラオン山 出典:CNN

 最近あんまり使わない言い回しかも知れませんが、青天の霹靂とはまさにこれ。今週の月曜日6月3日の夕刻、私たち家族の住むフィリピン・ネグロス島。その中央部にあるカンラオン山が突如噴火しました。

ネグロス「島」と言っても、サイズは日本の四国より少し小ぶりな程度だし、自宅のあるシライ市からは、ざっと50kmも離れています。音がしたとか火山灰に気付いて...ということではなく、それを知ったのは、地元新聞のフェイスブックへの投稿を見て。それも最初は、上空5,000mまで達したという噴煙の写真を、またウクライナかガザの記事かと勘違いするほど、まさかカンラオンが噴火とは想像もしていませんでした。

ちなみに50kmというと、関西ならばだいたい大阪〜神戸の距離。風下でもなかったので、報道がなければ、まったく知らないままだったでしょう。

このカンラオンという山、北のシライ山、マンダラガン山、南のタルニス山と並んで、ネグロスの背骨を形成するような島の最高峰。「突如噴火」なんて書いてしましたが、以前から時々軽い水蒸気爆発を繰り返していて、1996年には、たまたま山頂付近にいた外国人登山客を含む3名が亡くなる事故が発生。決して侮れない活火山なんですよ。

今回は水蒸気ではなく、大量の火山灰を噴出する爆発的な噴火で、小規模ながら火砕流も発生したのこと。幸い人的な被害はなかったそうなんですが、翌日の午前中は、近くのバコロド・シライ空港発着の29便が欠航。5段階の下から2番目の警戒レベル2の発令で、火口周辺の2,800名が避難を余儀なくされました。折りからの雨季で、周辺の河川には火山灰が流入して泥流状態。道路にまで溢れて、一時周辺の道路が閉鎖されるという被害も。


出典:Inquirer

さて火砕流というと、奇しくも噴火のあった6月3日は、1991年に長崎県の雲仙・普賢岳の大火砕流で、43名もの方々が犠牲になった日から33年目。当時、長期の東京出張中だった私は、宿泊先のウィークリー・マンションの一室で、小さなテレビの前に釘付けになっていました。

映像を通じてのみとは言え、あの惨状をリアルタイムの報道で見ているだけに、火砕流が発生するような火山がある島に住んでいたのかと、今更ながら空恐ろしくなりました。カンラオンの山頂に登ったことはないものの、山腹にある温泉リゾートのマンブカルには、移住前から泊まり掛けの2回を含めて、家族で何度も遊びに行ったことがあります。

ということで、この投稿を書いている6月6日現在、それ以降の噴火はなく、シライ市内は全く平穏。ただ今月の末には、昨年に続き高齢の両親が半年ほど滞在する予定なので、空港が封鎖されたりすると少々厄介なことになります。島全体の経済や観光へのダメージを考えても、なんとかこのまま沈静化してほしいところです。



2024年5月29日水曜日

待望の雨季

今年(2024年)は、3月の初め頃から厳しい陽射しと暑さが続いたフィリピン。かれこれ3ヶ月続いた旱魃は、5月の最終週になろうかと言う先週末になって、ようやく終焉を迎えたようです。

そのきっかけとなったのが、台風1号、フィリピン名「アグホン Aghon」の接近。フィリピンの気象庁であるパガサ(PAGASA)は、たまたま台風による降雨で、これをもって直ちに乾季の終わりは宣言しないと、慎重な姿勢を崩してません。しかしながら、台風であろうが梅雨前線であろうが、雨は雨。金曜日の早朝、本当に久しぶりの本格的な雨が降り始めた時は、ずいぶんホっとしたものです。 

それと言うのも、今回の熱波。ネグロスでの最高気温の数字だけなら35℃前後で、大阪や東京の一番暑い時期より多少マシなぐらいなんですが、さすがに3ヶ月続くと心身共にダメージが大きい。途中3〜4回は夕立ちはあっても、まさに焼石に水のお湿り程度。5月に入ってからは、胸に圧迫感があったり、しつこい便秘状態だったりで、明らかに体調もおかしくなってました。

ネグロス島に引っ越して12年目で、ここまで連日のエアコン稼働は初めて。就寝時に室内温度が30℃あっては、エアコン無しでは眠れません。しかも最近は、私と家内、息子が別々の寝室なので単純に3台分。2万円越えの電気代請求に、目玉が飛び出そう。

それにしても、室内で話し声も聴き取りにくいほどの雨音が、これほど心地よく感じるとは。何時間でも一晩中でも聴いていられるのは、かなりの倒錯心理ですな。当然ながら、実際の気温も体感温度も一気に下がり、エアコンどころか扇風機さえオフのまま眠れる夜が戻って、ご飯も美味しくて、天高く馬肥ゆる「雨季」。

とりわけ暑さに弱い、私のイロンゴ語(西ネグロスの方言)家庭教師のバンビ。土砂降りの翌日の授業には、「昨夜は本当によく眠れました」と、実に爽やかな表情。バンビだけでなく私の体調も、自分で呆れるぐらいに分かりやすく復調しました。

とまぁ、ここまでなら万事めでたし良かった良かったで終われるんですが、そうは問屋が下さない熱帯気候の極端さ。今度は降り過ぎて、ルソン島の南部辺りでは、洪水被害が出たようです。さらに身近では、バンビの姉で我が家のメイドのグレースおばさん。可哀想なことに、ちょうど二泊三日の予定でビーチリゾートへの旅行が、台風接近にぶち当たってしまいました。

初日はほぼ終日の豪雨で、それ以降も時折陽射しは戻ったものの、楽しみにしてた休暇とは程遠いイメージだったでしょう。尤も、高校時代の親友たちと連れ立っての旅行だったので、宿泊先でオバちゃんトークを楽しんだろうとは思います。

ということで、これを書いている時点で、台風1号はフィリピンから遠く離れ、九州の南海上に。本土への上陸はないとしても、まだ5月なのに日本に大雨を降らせるなんて、異常気象ここに極まれり。

肝心の雨季が来たかどうかは、まだ判断が難しいけれど、少なくとも雨季恒例の羽虫の大発生はあったし、全天雲のないピーカンのカンカン照りはなくなったので、一応普通の天候に戻ったと見て良さそうです。



マニラで日本人オフ会3連発

 前回から3週間も間が空いてしまいましたが、引き続き4月中旬のマニラ滞在のお話。

マニラに限らず何泊かするような遠出になるとよくあるのが、SNSで知り合った地元に在住の日本人の方々とのオフ会。もうミクシィ華やかなりし20年以上前から時々やっていて、初対面なのに、長年の友達付き合いのような気軽さで話し始められるのが楽しい。気が合うかどうかは、年単位の交流で確認済みなので、変な緊張感がありません。

今回は、私のフィリピン移住直後ぐらいから、フェイスブック経由で知り合った同年代の男性お二人と、比較的最近やり取りを始めた30代の女性のお三方。

まず一人目は、前回に少し触れた、エルミタでラーメン屋さん「グルメ・ラーメン」を開店したばかりのNさん。Nさんとは、配偶者がフィリピン人というだけでなく、同じデザイナー職出身でカトリック信徒。しかも日常的に料理もこなすという、ちょっと驚くほど私との共通点が多い方。しかもお店のコックさんが、私の住むネグロス島シライの隣町、州都バコロド出身者。ただでさえ、勝手知ったるFB友達なので、話が弾まないはずがありません。

せっかくなので、マニラ初日のお昼時にお邪魔して、ご自慢のラーメンを頂くことにしました。ランチタイムに店を開けてはおられますが、稼ぎ時は夕食から深夜の「締めのラーメン」が中心のようで、私が行ったときは他にお客さんが1組のみ。お味の方は、さすが日本人経営でかつ日本で修行したコックさんの調理なので、近所だったら通うだろうなぁというレベル。

Nさんは、ガンガン経営を広げて...という感じではなく、この一店に集中して行くとのこと。これなら、フィリピンでの日本人経営の飲食店でありがちな、ローカルスタッフに任せきりにするうちに、味もサービスも劣化という心配もなさそう。何より腰の低いNさんの接客ぶりに好感が持てました。こういうところはネット経由だけでは分からない部分。

そして二人目は、同じくフィリピン女性と結婚して、マニラのコンドミニアムにお住まいのMさん。Mさんの暮らしぶりは、ある意味理想的なセミ・リタイア生活で、若干の仕事は日本に残しつつ、日比の両方にあるご自宅を行ったり来たり。SNSで拝見していると、どちらの国のご家族や親戚とも良好な関係を保っておられるし、早朝のジム通いも欠かさないご様子。

私の場合は、マニラのような大都会は人も車も多過ぎて疲れてしまうので、今のネグロス暮らしが性に合ってますが、定年を迎えても、やっぱり便利な都会の方が良いという人ならば、間違いなくこのライフスタイルには憧れるでしょう。もちろんここに至るまでは、いろんな苦労もあったのでしょうけど、少なくとも今はたいへんリラックスされてる印象。フィリピンの友人・知人が、Nさんが実年齢よりずっと若く見えると言うのも「然もありなん」な感じです。

そして三人目は、マカティにあるリトル・トーキョーで、今回唯一の女性と夕食。唯一と言っても、最近は女性の日本人移住者もまったく珍しくなくなったフィリピン。ツイッターでのハンドルネーム、まーさんは、そんな在マニラ邦人の中でもかなり異色の経歴をお持ち。

なんとフィリピン大学の獣医学部を卒業し(ということは、家内の後輩)、格闘技が趣味で、なぜかグラフィックデザイナーとバンドのボーカルを兼務している、超多彩な才能の持ち主。性別も住んでる国も関係なく、こんなにマルチタレントな人物って、そうそうお会いしたことがありません。その上「私、頑張ってます」みたいな悲壮感もなく、実際お会いしたら実に自然体でチャーミングな人。


家内とリトル・トーキョーにて

リトル・トーキョーの「相撲茶屋・関取」で、久しぶりの日本食を堪能した後が、その日のメインのカラオケ。さすがに初対面の女性と二人だけでカラオケはいろいろ差し障りがあったので、まーさんにお願いして他にお二人の日本人に参加いただきました。日本人にもフィリピン人にも、交友関係の広いまーさんに感謝です。お陰さまで何の気兼ねもなく、例によってマイク無しの地声で、大爆唱させていただきました。

ちなみに、カラオケの曲目が無い時のために持って行った、ブルートゥースのスピーカーを店に忘れてきちゃった粗忽者の私。まさーさんが機転を利かせて、バイク便でホテルまで届けてくれました。素晴らしい判断力と行動力。

ということで三者三様、いろんなフィリピン移住のかたちを垣間見ての実感は、それぞれに幸せを成就されてるなぁ、ということ。もちろん皆さん心配や悩みが皆無ってことはないでしょうけど、それぞれのスタイルで生き々きとしてました。お会いできて本当に良かった。



2024年5月11日土曜日

四半世紀ぶりにマニラ・エルミタを徘徊

 もう1ヶ月近く前の4月中頃、久しぶりに家内と連れ立ってマニラに二泊の小旅行をしました。同じフィリピン国内と言っても、マニラ首都圏とネグロス島シライ市。東京と四国とか九州の、しかも県庁所在地でもない地方都市ぐらいの差がある上に、通じないぐらいに方言が違います。心理的な距離感は、ほとんど外国と言ってもいいぐらい。

退職して隠遁生活している私は、一時帰国のフライト乗り換えで空港経由はあっても、フィリピン移住後12年目でマニラに宿泊したのはたったの3回。前回は確か2019年だったので、かれこれもう5年前。(懐かしのザ・ペニンシュラ

今回の目的は、私の事ではなく家内のビザ更新手続き。それも日本ではなくアメリカの入国ビザ。実はまだ日本に住んでいた2000年に、家内とアメリカ旅行をした際に取得したもの。翌年に9.11のテロがあったので、もし1年ズレていたら、フィリピン人がアメリカのビザ取ろうなんて、最初から諦めてたでしょう。

その後、シカゴ在住の親戚を訪ねて再渡米したのが2004年。「来年も来るよ〜」と言って別れたんですが、その年の年末に家内が妊娠して2005年に出産。なんやかんやで、今まで使うことがなかったビザ。放置すれば今年(2024年)中には無効になってしまいます。それは勿体無いので、アメリカ旅行の予定はないけれど、延長申請のために在マニラのアメリカ大使館に予約を入れたというわけです。

前述の通り、何か所用でもない限りマニラに行くことは滅多にない私たち家族。なので私も同行して土日を絡めての二泊三日となりました。ちなみに高校生の息子は学校があるので、お留守番。さすがにちょっと心配なので、親戚やメイドさんに順番で泊まってもらいました。

御上りさん気分で宿泊先に選んだのがマニラ・ホテル。戦前から経営している老舗で、マッカーサー将軍やケネディ大統領、ビートルズが泊まったことでも有名で、日本の占領時代には軍の司令部が置かれていたそうです。ただ、宿泊料で言うとペニンシュラやマンダリンなどの最高級ホテルほどではないし、最近できたオカダ・マニラに代表されるような、ベイエイリアにあるカジノ併設の場所に比べれば、高嶺の花と言うほどでもありません。


重厚で歴史を感じる
マニラ・ホテルの1階ホール

それに何より便利なのが、エルミタ地区にあるアメリカ大使館のすぐ近く。4月はフィリピンの真夏で、特に今年はエル・ニーニョの影響の酷暑なので、さすがに家内はタクシーを使っていたものの、それさえなければ私なら歩こうかという程度の距離。

それにしても、エルミタのホテルに泊まるなんて、四半世紀以上ぶり。実は家内と出会う前の30代になりたての頃の私は、マニラに住んでいた彼女との逢瀬で、数ヶ月毎のフィリピン通い。リサール公園のすぐ隣にあって、今は閉鎖されてしまったホテルを常宿にしていました。そこも決して安宿ではないものの、当時は歓楽街の様相を呈していたエルミタ界隈で、宿泊客は夜遊び目当てのオっさんが多かった。まぁ私も人のことは言えないんですが、ロハス大通りを隔てただけなのに、見るからに「上流階級向け」に見えたマニラ・ホテルは憧れだったんですよね。

さて、マニラ到着翌日の日曜日。ずっとフェイスブックで交流のあったマニラ在住の日本人の方が、同じくエルミタにラーメン屋さんをオープンしたというので、お昼を食べに行く予定を入れていたところ、その前に買い物をしたロビンソンズ(ショッピングモール)で、急に家内が体調不良。病院に行くほどではないけれど、先にホテルに戻って横になるとのこと。仕方がないので、ロビンソンズから数ブロック離れたラーメン屋さんには、一人で徒歩となった次第。

午前中でも間違いなく体感温度は40度前後で、家内が一緒ならタクシーだったであろう道のり。暑さでちょっとふらつきながらも、実に懐かしかった。基本、変わってないんですよね。ちょうどお昼前なので、歩道にまではみ出した椅子やベンチには、トロトロ(一杯飯屋)で食事をする老若男女。心なしか昔の荒れ果てた感じは影をひそめ、庶民的で楽しそうな食事風景に見えました。

実際、この10年ぐらいでフィリピン経済は大成長を遂げ、1990年代の絶望的な状況は、改善されました。まぁこっちもそれなりの年齢だし、将来に対する不安を抱えていた30代と比べたら、心に十分な余裕があるからというのも大きいでしょう。

ということで、ものの30分程度のセンチメンタル・ジャーニーでしたが、どっちかと言うとやや暗めの色彩に塗り潰されていたエルミタの記憶が、南国の日差しがさんさんと降り注ぐ明色に上書きされたような、ちょっと幸せな気分に浸ることができました。

マニラ旅行については、次回も続きます。


2024年5月3日金曜日

暑すぎるフィリピン

 またまた1ヶ月のご無沙汰となってしまった当ブログ。この文章を書いているのは2024年の5月3日で、日本では憲法記念日でゴールデンウィーク真っ只中という頃。そしてフィリピンの4月〜5月は、毎年乾季で暑くなる季節。タガログ語でもネグロス島の方言イロンゴ語でも、乾季や夏を指す言葉は、タグ・イニット(Tag Init)。イニットは、「暑い」だけでなく、「日差し」「直射日光」も意味します。そして、その通りに今年の夏は連日の強い日差しのネグロス島。

実はこの暑さ、もう3月の初旬から続いていて、途中で2〜3回ほど数時間から半日程度の降雨はあったものの、5月に入って時点ですでに2ヶ月も真夏状態。1日の最高気温は33〜36℃程度なので、大阪や東京の都心部の一番暑い時期と同じか、ちょっとマシな程度。ところが、暑さの中休みがなく、ほぼずっとよく晴れて暑いので、さすがにバテてきました。

これは、最近数年毎に発生するエル・ニーニョの影響だそうで、一般的な日本人よりも暑さ慣れしているはずの地元の人たちでも、熱中症と見られる症状でダウンするケースが相次いでいます。バイクを運転中に意識が朦朧として転倒したり、頭痛がひどくて仕事を休んでしまったり。バイクで転けたのは、私のイロンゴ語の家庭教師バンビの知人で、頭痛は週一でマッサージに来てくれてるラケルおばさん。二人とも命に関わるようなことにはならなかったけれど、屋外の仕事や肉体労働に従事している人たちは、本当に大変。

とは言え、緑が多くて土が露出している面積が多い田舎のネグロスは、コンクリート・ジャングルのマニラ首都圏に比べれば、これでもまだ凌ぎやすい。何と言っても、夕方になれば屋外はス〜ッと涼しくなって、早朝は空気がヒンヤリ。先月末に2泊3日でマニラに行ったのですが、日中エアコンの無い場所にはとても居られない、40℃前後の暑さで、深夜になっても蒸し暑い。マニラ滞在については、別途詳しく投稿します。

さて、この異常気象レベルの暑さの中、驚くことに学校は夏休みではありません。本来ならば4月〜5月、子供たちは家にいるはずが、コロナ禍以降、約2ヶ月の遅れが生じたまま。もう4年も経って、さっさと元に戻せば良いものを、海外の(主にアメリカ?)学校に合わせて、このまま行った方が便利だと、教育大臣兼務のサラ・ドゥウテルテ副大統領の強い主張で、真夏に登校させて、雨季と共に夏季休暇。

確かにフィリピンからアメリカの大学に進学するなら、数ヶ月も待つ必要はなくなるけれど、そんな子供は数が知れてるでしょうに。

案の定、暑過ぎて、コロナ時代のオンラインや宿題形式のモジュール授業に逆戻り。息子が通うシライ市内の私立高校では、PAGASA(フィリピンの気象庁)の翌日の気温予測で、体感温度が40℃を目安に、対面授業とオンラインを使い分けてます。その都度、対応が変わる先生たちは、振り回されていることでしょう。

ちなみに、なぜか実測値ではなく、ネット上でもテレビのニュースでも、暑い時には体感温度しか使わないフィリピン。スマホのお天気アプリでの最高気温予測は35℃で、PAGASAの発表は42℃。これって必要以上に煽り過ぎだと思いますよ。まぁ実際、暑いことは暑いんですけどね。

ということで、頑固なサラ女史も異常気象には勝てないらしく、再来年度までをメドに、夏休みを従来の時期に戻すことが発表されました。