2026年4月23日木曜日

日本のトイレは美しい

 早いもので、この2月(2026年)に一時帰国してから、もう丸2ヶ月が経過しました。前回投稿した通り、年老いた両親に代わって実家の大掃除を済ませた後は、暇に飽かして毎日出歩いております。

どこへ行くかと言うと、移住前に住んだ場所や職場、昔通った学校などなど。要するに還暦過ぎたオッさんが感傷に浸ってるわけです。実家の周辺は、これまでの一時帰国時に回ったりもしましたが、その時は滞在期間がせいぜい1週間か10日。ほとんどの時間を、親戚や友達との再会や、久しぶりの日本食の食べ歩きに費やしたので、ゆっくりあちこち歩いたりしませんでした。

住んだことがある場所なら、転勤で引っ越した横浜や福岡もあるものの、さすがにそこまでは無理。結局、実家のある尼崎を中心に、関西圏に限られます。とは言え、50年近くも暮らしたので、歩くとなると尼崎市内だけでもかなりの数。まずは、幼稚園、小学校、中学、高校の学校巡り。

ずっと日本に住んでいたら、別にどうってことは無い散歩なんでしょうけど、13年もフィリピン・ネグロス島の環境を刷り込んだので、とにかく普通の街並みがキレイに見えて仕方がない。まず全然ゴミが落ちてないし、公共の交通機関が整備されまくっている。しかも、どこにでもソメイヨシノが植えられているので、この時期は、わざわざ名所とされる場所に行かなくても、町内を小一時間も歩けば、堪能できるほどの桜を見ることができます。

桜だけじゃなくて、普通の民家の植え込みにあるツツジとか椿の花が、なんと美しいことか。ネグロスにいる友人・知人に、桜や花壇の写真をSNSでシェアしたら、「いいね」の嵐。15年も日本に住んでた家内も、スイセンの写真がえらく気に入ったようで、プロフの背景写真に使ってました。

それに加えて、フィリピン目線的に驚くのが公衆トイレ。電車の駅、しかも梅田や神戸などの大きなターミナル駅だけじゃなく、急行も停まらない支線の小さな駅ですら、洗浄便座は当たり前。そして清掃が行き届いているし、トイレットペーパーも完備。あまつさえバリアフリーの個室まである。ショッピングモールやデパートのトイレも同様。

これがフィリピンだったら、便座がなかったり水が流れなかったり。例えば大小いずれも便器が三つあったら、必ず一つは壊れていて使えない。ペーパーなんかあるわけない。日本の公衆トイレの写真を見たフィリピン人が、まるで判で押したように「ここに住めるよ!」と反応するのも分かります。

ダメ押しなのが、公園などのトイレ。というのも、年齢的に小用が近くなるので、何時間も外を歩いていると、何にもない場所で尿意を感じたり。仕方なしに目についた児童公園のトイレを拝借するんですが、これが昔に比べると隔世の感。さすがに洗浄便座はないけれど、どこも普通に安心して用を足せる清潔さ。ちゃんとペーパーもある。

私が子供の頃、公園の公衆便所なんて悪夢の汚さでしたからねぇ。

やや例外的だったのが、大阪城公園。聞きしに勝る「インバウンドの聖地」状態で、もう最寄駅から歩くだけで、聴こえてくる言葉の8割ぐらいは外国語。しかも英語以外のヨーロッパ諸国やアジア系の言語が圧倒的多い。時々タガログ語が聴こえてきて、思わす振り返ったり。

案の定、トイレはちょっとがっかり。まぁ、観光地で桜の名所である大阪城に、4月の満開の時期に行ったんだから、外国人ガーじゃなくて日本人観光客だけだったとしても、それなりに汚れちゃうかも知れません。それも便器の汚れより、弁当の容器の類のゴミが個室内に捨てられているのが多い。これは、外にゴミ箱が無さすぎるからでしょうね。

とまぁ、トイレの話ばかりになっちゃいましたが、改めて歩いてみると、日本って小さな児童公園だけじゃなく、そこそこ大きくて、ちょっとした散策ができる規模の公園が多い。首都圏に比べて、緑や公園が少ないと言われる関西ですら、フィリピン・ネグロス島と比べればすごい数です。実家から歩いて行ける範囲だけでも、上坂部西公園、近松公園(近松門左衛門ゆかり)、尾浜公園などなど。

今、フィリピンで私が住んでるシライ市と隣の州都バコロドの景色を頭に浮かべてますが、市街地で公園と呼べるような場所って、市役所前のプラザ(広場)ぐらいしか思い当たらない。そもそも年中暑いので、炎天下に散策しようと思う酔狂な人は、あんまりいないでしょうね。

ということで、花見とトイレはこれぐらいにして、まだあと1ヶ月ほどは日本にいますので、次回も引き続き、日本滞在記を投稿したいと思います。



2026年4月10日金曜日

親の終活のお手伝い

 2月にフィリピンから、現地で介護している両親と共に一時帰国して早や2ヶ月近く。かなり長めに設定した予定も、残り1ヶ月余りとなりました。計らずも、一番寒い時期から徐々に暖かくなるタイミングで、この2週間ほどは、13年間ご無沙汰だったお花見を満喫。大阪城公園や、かつて長く住んだ大阪の茨木市内の、その名も「桜通り」なる名所を散策したり。なるほど、定年退職後の悠々自適の醍醐味とは、こういうことなんですね。

ただし、今回のメインの目的の一つは、実家の片付けと掃除。こちらは2月中に終えたので今は、それなりに快適な住環境になっているんですが、帰国当初の10日間ほどは、本当にたいへんでした。

母は痴呆状態ではなく、食事時には自力で立ち上がりダイニングまで歩いてこれるし、トイレも自力で済ませられるものの、それ以外はほぼベッドに横になったきり。日がな一日、大音量のテレビだけが生き甲斐という状況。父は90歳のわりには元気で、母の食事や買い物、洗濯と簡単な掃除ぐらいはできてるます。ただ、もう大掃除をするような体力はありません。

そもそも、若い頃から片付けのセンスが欠落しているような人で、それに加えて、終戦直後の貧しさを経験しているだけに、モノを捨てることができない世代。私が帰宅した時には、どの部屋もモノが溢れかえり、使っていない何室かは、ほぼ「ゴミ屋敷」か、その一歩手前。特に服と食器、布団と書籍が凄まじい量でした。

本来なら、業者を呼んで何万円か払って引き取ってもらってもいいぐらい。でも、捨てる前に両親の確認・許可が必要という枷がかかっていました。もし真面目にその要望を守っていたら、3ヶ月いても分別さえ終わりそうにありません。仕方がないので、片っ端から箱詰めにして、押し入れやクローゼットに収納するという戦術で挑みました。

約30年前に建築士の父が自分で設計・施工した我が家。当時はまだ珍しかった3階建て住宅で、日本の一般住宅としては、決して狭くはないし、部屋数も収納量も十分。今数えてみたら、11部屋とLDK2セットで風呂場が2つトイレが3つの、2世帯を想定した住宅。うまくやれば、大規模断捨離せずに済むだろうとの見込みです。

結果的には、私が今回の居室に使っている部屋とリビング、ダイニング、それに玄関、台所、洗面所は、見違えるようにモノの圧迫感がなくなりました。というのは、もう後から取り出すことは考えず、押し入れにギチギチに詰めていくだけ。強烈な筋肉痛と戦いながらの、立体ジグソーパズル。実は私、この手の整理整頓は嫌いじゃないんですよ。かつての職業だったデザイン業務も、例えて言えば一種の整理整頓。ひょっとすると私の天職だったのかも。

これは親が果たせなかった、終活のお手伝いですね。両親の他界後は、おそらく私か私の兄弟が、今度こそ業者を呼んで、後顧の憂いなく捨てられるよう、その前準備を終わらせたようなものです。それにしても、どの棚、どの引き出し、どの扉を開けても、これでもかこれでもかと出てくるモノの洪水は、ちょっとした悪夢でした。さすがに、もう使えなくなったバカでかいブラウン管テレビ2台は、電気屋さんに来てもらって処分。

そこまでやっても、寝室の一つだけは「物置部屋」とせざるを得ませんでした。面白いのは、上記の大片付け作業完了後、父親が感化されたのか、自分の書斎と寝室を整理し始めたこと。自分の持ち物を、残った段ボール箱やクリアボックスに詰めて、物置部屋に片付けてました。

ということで、冒頭に書いたように、大仕事を終えた後の花見三昧となったわけです。それについては、次回の投稿で詳しく述べようと思います。



2026年4月1日水曜日

もう4月なんですが、今年最初の投稿です。

 まったく申し訳ないことに、気がついたら最後の更新から丸3ヶ月も経ってしまいました。2013年にこのブログを始めてから、ここまで放置したのは初めてです。

実は今この文章は、私の生まれ故郷の尼崎の実家で書いております。昨年末に申し上げた通り、本当に日本に帰って来てしまいました。とは言え、フィリピンに愛想を尽かして見切りを付けたわけではなく、ネグロスの自宅で介護している実の両親の一時帰国に、たまたま時期が重なり、それに同行しているだけ。

この4月で移住後13年が経過して、14年目に入るタイミング。今までの一時帰国が1週間からせいぜい10日程度だったので、もうそろそろ本格的に「日本成分」を補給しても良いだろうという判断でした。早い話が、自分のメンタルを労ってのガス抜き。

これは、日本で生まれ育ち、年単位で海外在住の方には、実感として理解いただけると思うんですが、理由は何か嫌なことがあったというよりも、溜まりに溜まった心の澱、と言うか、塵も積もれば...的な、押し殺してきた不満を解消するような感じ。ただ一つの大きな理由というわけでもないんですよ。そもそもそんな大きな問題があれば、最初から移住という選択はしてなかっただろうし。

まぁ敢えて言うなら、隣人の騒音で揉めたとか、日本語教師の仕事が上手くいかなかったとか、あるいは台風被害で1週間の停電とかが、たまたま昨年(2025年)に相次いだってのはあります。それが直接のトリガーと言えなくもない。でも、それがなくても、来年(2027年)には、年金の受け取りが始まる都合で、長めに帰国しようかなと思ってました。

そういう流れで、最後のブログを書き上げた数日後の年始早々には、隣街の州都バコロドで、関空までの片道チケットを購入し、2月の中旬に約3年ぶりの一時帰国とあい成った次第。正直に言うと、こんな真冬でなく、4月以降にしたかったっんですが、そこまで都合良くはいきませんでした。

ただ、今シーズン一番の寒波だった、バレンタインデー前後は運良く外れて、セブ空港経由で夕暮れ関西国際空港に降り立ったのが2月18日。この日は「灰の水曜日」と呼ばれる、カトリックでは重要な日で、4月のイースター(復活祭)に向けての準備が始まるとされます。(移動祝日なので、毎年日付は違います)なので本当は、断食とか、それが無理でも3食中の2食は質素な献立が奨励されます。ところが私は、朝昼を空港でガッツリ。夕食は帰国直後に我慢できず、大好きな天下一品の豚骨ラーメンを炒飯セットで食べちゃいましたけど。神さまごめんなさい。

とまぁ、ここまで書いただけで、すでにバレてしまいましたが、フィリピン暮らしで最大の欲求不満要素の一つが食事。何もフィリピンの食べ物がマズいと言いたいのではなく、おそらくどんな国に住んでいようとも、慣れした親しんだ故郷の味から10年以上も遠ざかれば、日本人に限らずそうなるでしょう。

特に、最近はグルメ大国として世界中の旅行者たちにその名が知れ渡った日本食。何がすごいって、純和食だけでなく、日本風にアレンジした外国料理でも、そのオリジナルの国から来た人が驚くほど美味しいこと。最近のユーチューブで定番になってるのが、イタリア人にナポリタンとか、インド人にカレーとか。自国の料理とは別物と言いつつも、美味しい美味しいと食べてしまうんですよね。

そう言えば、まだ家内と日本に住んでた頃、梅田のホテルのレストランで「フィリピン料理フェア」なる催事があって、夫婦で出かけた時のこと。材料や基本的な調理方法は、間違いなくフィリピンのそれなんですが、おそらく日本のシェフが日本人の舌に合わせてアレンジしたんでしょうね。かなりのお値段だったこともあり、フィリピン人の家内が「フィリピンで食べるより美味しい」と太鼓判。

プロの料理人には遠く及ばないながら、この13年間、一応自分で日々の料理をこなしてきた私。当然実家でも、自分の食べる分は自分で用意。今回は数ヶ月の滞在予定なので、そうそう外食ばかりという訳にもいかないし。

ネグロスでの朝食は、判で押したようにトースト2枚に目玉焼きとハムだったのが、さすがの日本。納豆はあるし、卵は生食できる。フィリピンでは輸入食材で高かった味噌も梅干しも当たり前に売ってる。ついでに焼き魚や野菜の煮物なども、スーパーのお惣菜で安くに買える。これでは朝から、つい二品・三品とおかずを増やしてしまいます。まるで久しぶりの海外旅行でテンションが上がり、朝からホテルのビュッフェで料理を山盛りにしてしまう、アホな観光客みたいなことを、毎日やってます。ゲプ。

ということで、まずは食べる話から入ってしまった、今回の長期一時帰国。次回からは、その詳細について、日本のフィリピンを比較しながら、13年がかりで半ばフィリピン人化した視点で書いていきたいと思います。