2023年12月14日木曜日

お試し介護移住 その4「誰にでもお勧めではないけれど」

 これまで3回に渡って投稿してきた、両親のお試し介護移住シリーズ。今回は最終回です。

いろいろあった15日間のフィリピン・ネグロス島滞在ですが、通しで見ると、まぁ上出来だったと思います。暑さには少々文句も出ましたが、父母のために用意したゲストハウスは、居心地が良さそうだし、食事も特に問題なし。毎日、お気に入りの嫁や孫と話ができて、若干の認知症気味の母も、明らかに表情が豊かになり、笑顔が増えました。これは私の感覚だけでなく、日本から付き添ってきた弟もそう思ったようです。

滞在中、たまたま家内の誕生日が重なり、例によって親戚を招いてのホーム・パーティ。ある程度の予想はしてたものの、家内の父、弟とその家族、叔母、従弟、誰もが母を見る目の実に優しいこと。特に比較的年齢の近い、70代の叔母には、数年前に夫を亡くしているせいか、母の食事の介助をする父の姿が、何とも微笑ましく見えたらしい。

ちなみに、一日だけ州都バコロドに出掛けて、外食やショッピングをした際に使った車椅子は、従弟のパウロが手配してくれました。彼は本職の看護師なので、そういう分野でも頼りになります。また、レストランやショッピングモールでも、店員の対応がとても手厚い。やっぱりフィリピンの良さは、なまじっかのお金を持っていたり、若くて元気な時より、他人の助けが必要になってから、実感しますね。

そんなこんなで、帰りの飛行機も遅延や欠航もなく、往時と同じく家内が同行して無事帰国。その家内も、数日の日本観光を楽しんで、12月の始めにネグロスへ戻ってきました。心配していたマニラでの乗り換えもスムーズだったとのこと。

さて、80代になってからの海外移住。一般論としては、もちろん誰にでも勧められるわけではありません。まず、飛行機に乗ることすらできないほど認知症が進んでいたり、完全に寝た切りになってからは、まず無理でしょう。そして、本人たちがそれを望まないことには、何も始まりません。

事の経緯をまったく知らない人からすれば「そんな高齢の日本人が海外移住なんて不可能」と決めつけそうです。実際、この話を日本でしたら、大抵の人はそういう反応。それどころか、高齢者ではない普通の海外移住でも、足下に「不可能」と断じてしまう人が多いのも事実。私も40代の頃に、散々言われたものです。かつての上司など「出来もせんことを吹聴するな」と怒り出したほど。

しかしながら、少なくとも飛行機に乗るぐらいの体力が残っていれば、いくつかの条件をクリアすることで、日本よりも快適な余生を送れそうというのが、今回のお試しを通じての私の感想。

快適な住まい、食事、介護する側との良好な人間関係さえなんとかなれば、寒い冬がなく、社会全体として高齢者に優しいフィリピンは、老後を過ごすには悪くない場所。もちろん経済的な裏付けは重要ですが、現在70〜80代で、それなりの年金を貰ってる世代なら、少なくとも物価の安いネグロス島なら大丈夫。

唯一のリスクは、容態が急変したような場合。残念ながら、生死にかかわるような状況だと、日本には比ぶべくもないフィリピンの医療レベル。両親の場合は、もう十分に生きたから、延命治療など不要と明言しているので、その点は「これも寿命」と割り切れます。そもそも、お金がかかりすぎて、植物状態で生かし続けるなんでできないでしょう。

というわけで、まだ詳細な時期は未定ながら、おそらく来年2024年には、両親の本格移住という運びになりそうです。



2023年12月11日月曜日

お試し介護移住 その3「やっぱりストレス」

 前回からの続きで、両親の介護移住について。

お陰さまで無事、日本からフィリピン・ネグロス島の家に到着した父母。かつて住んでいた日本の実家を再現した、一戸建ての2LDKも気に入ってもらえたようです。再現したとは言え間取りのみなので、木造の安普請だったオリジナルに比べると、鉄筋コンクリートだし天井も高め。建築が仕事の父は、すぐに意図を理解しましたが、それでなくても認知能力がやや下がり気味の母は、イマイチ分かっていないらしく「えらい豪邸や」と感心するのみだったのには、一抹の寂しさ。

さて、住まいに関しては、一応の合格点だったと思いますが、問題は気候や食事、その他の細々とした日常生活について。

寒くなってきた11月の日本から、日中の最高気温が普通に30度を超えるネグロスだし、飼い犬のゴマは無駄吠えが多い。体調崩すんじゃないか、眠れないんじゃないかとの私の心配を他所に、二人ともよく食べるし、睡眠も問題ない様子。もちろん80代の後半なので、食べる量は大したことはないけれど、肉・魚・野菜。皿に取った分はきれいに平らげ、好き嫌いがないのは助かります。さすが子供の頃に食糧難を体験した昭和十年代生まれ。

まぁ食事に関しては不肖の息子である私が、それなりに日本的な献立を毎日用意しているので、大丈夫だろうとは思ってました。食事の次に気になってなのは、NHKを始めとする日本のテレビ放送が視聴できないこと。NHKの日本語放送が受信できるスカイ・ケーブルが来ているのは、隣街の州都バコロドまで。

ところが昨年の私の一時帰国の際、実家のテレビにクロームキャストを接続しておいたのが功を奏して、父はユーチューブのニュースや、ネットフリックスの映画などは、自力で見ることができる。むしろ、同じ機材が揃っているテレビを見て、大喜びしたぐらい。母も最近はNHKの朝の連続テレビ小説も見ないし、紅白にも興味なし。

他には、シャワーで使うようにと、わざわざ日本のアマゾンで購入した、浴室専用の椅子も結局不要だったりで、事前にあれこれ悩んでいた件は、概ね杞憂。危うくトイレに手摺りを取り付けてしまうところでした。

たった2週間余りの滞在だったので、本格的な移住となったら、これ以外の問題がいろいろと顕在化するんでしょうけど、どっちかと言うと大変だったのは、受け入れる側の私の方。よく二世帯居住では、水回りを分けることが肝要なんて話を聞きます。我が家の場合は、水回りどころか、完全に分離独立した家二軒。ここまでやっても、やっぱり私にはストレスがかかりました。

まぁ、ほぼ10年も家族三人だけで、一般的な日本の住宅に比べれば、かなり広い家に慣れてしまったせいでしょうか。実の親であっても、自分のテリトリーに二人が加わるだけで、心理的には負担があるものらしい。さらに、「美味しい美味しい」と食べてくれる食事も「きちんと用意しないといけない」なんて変な義務感が生じてしまい、最後の方はちょっと疲弊気味でした。う〜ん、これは力み過ぎたようです。

このブログの読者の中には、身内の顔さえ分からなくなったガチの認知症や、まったくの寝たきりになってしまった親御さんを、介護されている方がいらっしゃるかも知れません。たとえ健康だったとしても、人間関係が上手くいかず、精神的に疲れ切ってしまうケースもあるでしょう。それに比べれば私の両親は、はるかに扱いやすいと言えそうです。

ただ、子供の頃から圧倒的に接する機会が多かった、元来すごいお喋りだった母は、会話を成り立たせるのが困難な状況。素直に言うことは聞いてくれるし、自分の置かれた状況は理解しているとは思うものの、向こうから話しかけることはありません。

これに対して、身体も頭もまだまだ大丈夫な父。弱ってしまった母を積極的に面倒を見てくれるのは大助かりな反面、若い頃から相変わらずのコミュ障ぶり。例えば、一言「散歩に行ってくる」と言えばいいのに、黙って一人で出掛けて小一時間も帰ってこなかったり。職場ではちゃんと会話していたのに、なぜか家族を相手にすると、コミュニケーション能力が半減しちゃうようです。

こういう状況について、その都度目くじらを立てていては身が持たないし、今頃になって父の性格が変わるはずもないので、こちらの対応を改めるしかなさそうです。つまり、自分でできることはやってもらうということ。独立した台所もあるので、朝食ぐらいは両親で完結してもらうほうが良いでしょう。毎度の上げ膳据え膳では、私も疲れるし両親も居心地が良くなさそう。これは夫婦でも同様で、同居していても、それなりの距離を取るのは、とても大事なんですね。

そして大きいのは、家内の存在。平日の昼間は働いているけれど、夕食は全員一緒。自分から両親へ話題を振る配慮があり、両親もそんな義理の娘に心を開いています。一般的にフィリピンでは、年寄りに優しく介護も自宅でというのが当たり前とされてますが、家内の態度を見ていると、なるほどなぁと感心します。もちろんフィリピンでも、不仲な嫁姑はいくらでもいるので、これは持って生まれた、家内の人徳なんでしょうね。

ということで、まだまだ改善の余地が大有りのお試し介護移住。それでも来年以降(時期は未定)の本格移住に向けて、だいたいの感触がつかめました。次回も続きます。



2023年12月5日火曜日

お試し介護移住 その2「問題は飛行機」

 前回の続きで、今回は高齢両親のフィリピンへの渡航について。

まだ母が元気な頃から言ってたのが「飛行機に乗る体力が残っているうちに、移住してや。」ということ。空港に到着さえしてくれたら、どうにでもなるし、もう両親専用の一軒家も竣工済み。介護士や看護師を、何なら住み込みで雇っても、日本に比べればまだまだ人件費の安いネグロス島。ちなみに今働いてもらってるメイドのグレイスおばさんは、看護学校を卒業してます。

逆に言うと、飛行機に乗ること自体が最大の難関。遅延さえなければ、朝に関空を出発して、夕方には西ネグロスの玄関口バコロド空港に到着までの道のり。健常者ならちょっと疲れる程度でも、長時間ベンチで待たされたり、介助が必要なトイレ使用のことを考えると、なかなか難しいことが想像されます。

そこで最初に弟が出したのが、豪華客船に乗せる案。これなら数泊かかってもホテルに泊まってるようなものだからと思いついたらしい。でも考えてみれば、そんなに便数があるものでもないし、最寄りのバコロド港に着く船なんて、フィリピン国内のフェリーか貨物船ぐらいのもの。おそらくマニラからは飛行機になるので、これではあんまり意味がない。

結局は、当たり前にマニラ経由の飛行機になったものの、せめて少しでも快適にと、国際・国内共にPAL(フィリピン航空)のビジネスクラスを予約。そうすれば、サービスの質が世界最悪レベルのマニラのNAIA(ニノイ・アキノ国際空港)でも、荷物の乗せ替えは楽だし、マブハイ・ラウンジが使える。国内便延着で、とんでもなく待たされたりすることもありますからね。

さらに手厚く、往復をフィリピン人の家内が母に付き添うことに。というのは、トイレの介助となった場合、いくら息子とは言え、私や弟よりも女性の方がいいだろうし、実は以前、母が骨折して入院した際、入浴の手伝いに、家内が毎日病院に通ったという経緯がありました。この時までは「フィリピン人の嫁なんて」と嫌悪感を露わにしてた母が、「うちの嫁は、ええ嫁や」と急転直下の手のひら返し。以降「癒し系嫁」などと呼んで、ずいぶんな可愛がりようなんですよ。

とまぁ、みんなで散々心配しまくって用意した、日本〜フィリピンの往復飛行。最終的には、弟まで同行した気の使いようなのに、蓋を開けてみれば、ほとんどこれと言ったトラブルもなく、あっけなく完遂。何と言ってもどっちの国でも助かったのが、車椅子利用者への優遇ぶり。「いつも最初に乗り降りできるので、楽ちんだったよ。」とは、家内の弁。

トイレも母一人で済ませたようだし、元々食べ物の好き嫌いがまったくない。案ずるより産むが易しとは、まさにこのこと。バコロド空港に車で迎えに行ったら、母は、車椅子に座ってはいても、実に元気そうに笑っていて、ちょっと拍子抜けです。

ただ後で聞いた話では、日本では父以外、誰とも顔を合わせず会話もない生活で、ずいぶんとショボくれてたらしい。それが家内が到着した途端、表情が明るくなったんだとか。有難いというか、分かりやすいというか。

ということで、なかなかいい感じで滑り出したお試し介護移住。さらに続きます。



2023年12月2日土曜日

お試し介護移住 その1

 もう1ヶ月以上もブランクを空けてしまいました。ざっと40日なので、まるで日本の夏休みですね。申し訳ない。結局11月は完全スルーで、気が付いたらもう12月。まぁフィリピンにいると、寒くなるわけでもなく、クリスマスの飾り付けは下手すると9月からやってるので、まったく師走という感じはないですけど。

なぜこんなに長くブログを書かなかったかと言うと、実は日本から高齢の両親が来て、しばらく滞在していたんですよ。執筆の時間を捻出できなかったわけではないけれど、やっぱりいろいろ疲れてしまって、なかなかブログを開けないまま、ズルズルと。

さて、父は87歳で母は86歳。後期高齢者もいいところ。最近の日本では元気な爺さん婆さんが多く、人によっては元気過ぎて「老害」「迷惑老人」なんて呼ばれても、さすがに90が迫った両親は、見た目も振る舞いも正真正銘の老人。

この両親をフィリピンの我が家に受け入れて面倒を見ようという計画は、ずいぶん前から練っておりました。そのための2LDK、通称ゲストハウスを自宅敷地内に建てたのが、もう4年前。ご丁寧にも、両親が新婚当時の60年以上前に住んでいた家の間取りを再現し、少々ボケても大丈夫なように配慮した一軒家。

ところが、皆さまご存じのコロナ禍の襲来。飛行機は飛ばなくなり、移住どころか、日本でもフィリピンでも、高齢者は外に出ることすら御法度。まるでそれにタイミングを合わせたかのように、それまでうるさいぐらい元気で、父と一緒にゴルフを楽しんでいた母が、急激に弱ってしまいました。とうとう歩行さえままならぬ状況になって、介護施設に入所したのが、2年前の冬。

この間、私もフィリピンから出られなかったので、身の回りの世話は、文字通り老老介護で父が行い、その他の段取りはすべて弟に任せっきり。もちろんLINEなどで頻繁に連絡は取り合っていたとは言え、この隔靴掻痒感は並大抵ではありませんでした。だから、足腰の立つ間に、早くフィリピンに来てと頼んでたのに。

このまま寝たきりになって、結局、母のために用意したゲストハウスにも住めないままかと、半ば諦めていた昨年(2022年)、ちょっとした奇跡が起こりました。

何と、要介護3(着替えや入浴、トイレに助けが必要な状態)から、施設を退所しても大丈夫なレベルまで回復したというのです。聞くところによると、ゆっくりながら歩くこともできて、食事の量が足りないと文句を言うほど。これにはケアーマネージャーさんも「こんな人は初めて見ました」とのこと。

その年末、つまりちょうど1年前に、ようやく私は久々の一時帰国を果たし、退所直前の母と面会。まだコロナが予断を許さない時期だったので、ガラス扉越しの再会となりましたが、思った以上の回復ぶり。私の冗談に笑顔を見せる余裕もあって、カップ麺やスナック菓子を差し入れて来ました。

その後、弟の尽力もあって、段差を無くしたり手摺りを設置するなど、自宅のバリアフリー工事を経て、めでたく帰宅した母。食事や洗濯は父が引き受けているものの、これで何とかフィリピン渡航の目処が立ちました。いきなり完全移住は無理でも、まずは「お試し」として11月後半の2週間強、両親にフィリピン・ネグロス島での生活を体験してもらおうという運びになったわけです。

前振りだけで長くなってしまいましたので、以降何回かに分けて、15日間に渡ったお試し移住について、投稿しようと思います。ということで、次回に続きます。