2014年9月16日火曜日

血まみれの磔刑像

先週、自宅の祭壇に聖マリア像を置いた時の投稿でも触れたように、フィリピンのイエスさまや聖人の像は実にリアルに作られています。特に十字架に架けられたイエスさまのお姿、磔刑像は傷口から血が流れ、お顔は苦悶に満ちた表情。





日本の教会にもリアルなものもありますが、数は少ないでしょうね。大抵の教会、特に新しい場所では祭壇の後ろの壁面には象徴的な十字架だけとか、磔刑像があったとしても、ずいぶん単純化されていて、見た目にはとても静かで清らかな印象になっています。


大阪在住時に通った カトリック茨木教会にて

それに比べて、フィリピンのスペイン統治時代に建てられたような聖堂内は、とことんまでにリアルで、まるで余白を怖がるかのように、多数の聖人の像や肖像画で満ちあふれています。建物内部も暗く、静かで清らかどころか、おどろおどろしい情念の世界。

同じカトリックなのに、この差はどこからくるのかと思ってましたが、今日久しぶりに読み返した司馬遼太郎さんの本で、なるほどと思う記述がありました。以下引用します。

鴨長明は仏教的な随筆を書いた。ということになっていますから、仏教なんでしょうけれど、どうも本来の仏教とはちがう。「平家物語」も、栄枯盛衰とか、会者定離とか諸行無常とか、仏教的な気分のなかで書かれたものだ、と言われてますが、それが仏教なのかどうか。
あの荒くれた自然のなかで生まれたインド宗教としての仏教なのか、ということになると、やはりずいぶん違うものです。みんな日本にくると”美”に転化されてゆくわけですね。
司馬遼太郎 著「手彫り日本史」より

私はカトリックの洗礼を受けているので、間違いなくカトリック信徒なのですが、本来の神との厳格な契約で成立した信仰というより、キリスト教世界を構成するいろんな要素に美を感じ、それに憧れて慕っている、という方がしっくりくる気がします。

例えば新旧の聖書に何度も出て来る「生贄」とか「子羊」という表現、実際動物を殺して食肉にする行為というのは、戦慄を伴います。フィリピンに引越してすぐの時に、豚の屠殺を見ましたが、創世記に出て来るアブラハムが幼い我が子を屠って神に捧げる場面をこの屠殺のイメージに重ねると、恐ろしいですね。

元来、遊牧民の宗教だったユダヤ教と、それを母体にしているキリスト教の核になる部分は、日本人の「宗教=清浄」という気分とは相容れないものなのかも知れません。私自身も、大人になって洗礼を受けたので、それなりに重たい体験があったものの、こういう即物的で荒々しい契約だとは考えていませんでした。

そう考えていくと、私が信じている神さまとフィリピン人である家内の神さまは、実は微妙に違うのかも知れませんね。


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