2015年6月30日火曜日

自宅竣工1周年

早いもので、フィリピン・ネグロス島の自宅が竣工して1年が経ちました。あの時は、これでしばらくの間はすることがなくなって、のんびりできると思ってましたが、案に相違して修理やら追加やらが次々と発生。

まず最初から分かっていたのは、庭の整備。これは私が日本人だからなのか、やり始めるとどうしてもキッチリしたい。芝を植えるだけのつもりが、ついオープンカフェみたいにお茶できる場所が欲しいとか、家内が飼い始めた鶏のための鶏舎も...という具合にどんどん追加が増えてしまいました。

経費として大きかったのは発電機の設置。実は施工の時に世話になった電気屋のサルディくんが、発電機が追加されることを見越して配線してくれたので、セットアップは意外とスムーズでした。とは言っても、何しろ10万円程もする高価な機械。何度も長時間の停電に悩まされて、踏ん切りをつけるのに時間がかかりました。

細かいところでは、一階のシャワーブースの漏水とか、雨季に入って木製の玄関扉が湿気で膨らんでちゃんと閉まらないとか...。日本の感覚なら手抜き工事と言われるような話です。しかし、こちらではある程度の不具合は出て当然という感じで、修理のために戻ってきた大工さんたちも、別段恥じる様子もなく淡々と作業してました。

アクシデントの類では、落雷。電気給湯器が二台イカれたのには閉口しました。電気メーターも破損して3ヶ月ぐらい部品の入荷待ち。しかしその間の使用量が分からないので、結局修理が終わるまではタダで電気使うことになりました。こういうところはフィリピンならではの大らかさと言うべきか。

一番鬱陶しいのが、つい先ごろも投稿した玄関先の雨漏り。やっと直ったと思ったら、数日後また同じ所から水がポタポタ。結局原因と思われるガレージの雨樋のコンクリート仕上げをやり直すということになったのですが、一旦乾燥させてしまわないと、作業できないとのこと。それでは毎日夕立ちが来る雨季の間は、修理できないということやんか...。
ということで、丸1年経っても数週間おきぐらいに、何かの修理やメンテナンス、追加作業をしている状態が続いています。

それでも、軒天井に安いベニヤ板を使ったため1年も保たずに腐ってしまったとか、大工さんに任せっきりにしてたら、天井の下地に耐シロアリの防虫剤の塗布を全然してなくて、1年で天井総張り替えになったとかいう話を聞くと、いろいろ不満は残しつつも、我が家の場合は上手くいった方なんでしょうね。


2階のベランダから見た裏庭
上:去年の竣工直後、下:今朝撮影




2015年6月28日日曜日

西本神父さま

人間50年以上も生きていると「この方がいなかったら、今の自分はないだろう」という人がいると思います。神さまと両親はちょっと別格としても、私も何人か(何十人か?)の人生の恩人というべき人たちが。その中でも、フィリピンでの生活がようやく落ち着いてきた今になって、しきりと思い出されるのが西本至(とおる)神父さまのこと。

フィリピン人の家内との結婚を数日後に控えていた1998年。とても煩雑な手続きや書類の準備、翻訳などを何とか家内と二人でやっつけて、ようやくゴール寸前という時に、挙式予定のフィリピンの教会から物言いがつきました。カトリック教会では「離婚」は認められていないのに、洗礼証明書(しかもフィリピンでの洗礼)を持っている私がバツイチ。これを見咎められた。

どうしてこうなったかと言うと、最初の結婚が破綻した後にカトリック教会との出会いがあったから。洗礼の時にはそれも含めて、嫌というほど懺悔をしました。ところが神さまは、そう簡単には許してくれなかったようです。フィリピンの教会からの指示は「マニラのファーザー西本のところへ行け」。

そんな話、どこからも聞いたことないし、行ってどうなるのかさっぱり分からず、仕方なく教えてもらった西本神父さまのオフィスの番号に日本から国際電話をかけました。意外なほどスムーズに取り次いでもらって電話口に出た西本神父さま。こちらの不安を根こそぎ吹き飛ばすほどの快活明朗さで、「事情は分かりました。すぐに私の事務所に来なさい!」と返事されました。

その時まで全然知らなかったんですが、西本神父さまは、当時すでにフィリピンの日本人社会では伝説的な名士で、困窮日本人を助けたり、私たちのような日比の国際結婚で困っている人たちの面倒を見たりして、日本人からもフィリピン人からも絶大な尊敬を受けている方なのでした。

家内と二人、神妙な面持ちで訪れたマニラの下町にある西本神父さまのオフィス。電話での口調そのままに、底抜けに明るく私たちを迎えていただきました。私の洗礼証明書を見て、あっという間に書類をしたため、封をした便箋に入れて「即日交付」。その後いろんな話をしましたが、印象に残っているのは「フィリピン社会でカトリックの洗礼証明書があるのはとても有利なこと。こういう言い方すると語弊があるけど、大いに利用されたらいいですよ。」

なんと豪快な神父さま。神の愛を人生の現場で実践してます!という感じで、経験に裏打ちされた強い信念を垣間見た思いです。お陰さまで、ファーザー西本からの手紙は実に霊験あらたかで、結婚式は滞りなく終了。

こんなに世話になってたくせに、その後17年も忘れていた恩知らずな私。気がついてネットで調べたら、もう5年も前に天国へ行ってしまわれていました。ホゾを噛むとはこのことで、その後何回もマニラに行っているのに一度も挨拶しなかった...どころか思い出しもしなかったとは。次にマニラに行く機会があれば、必ずお墓参りをしなければ。




2015年6月26日金曜日

注目 日本食弁当

自宅が完成して、大工さんたちの仕事が完全に終わってからやっと1年経過。ちょうどその頃から毎日の食事、特にカレーやハンバーグ、コロッケなど日本の家庭料理を中心に作るようになりました。

最近では、小学校に通う息子の弁当も私が担当。フィリピンでは私の知る限り、小学校での給食というのは聞いたことがありません。学食や売店はあって、軽食を摂ることはできますが、昼ごはんは家に帰って食べる子供が多いようです。

もちろんお弁当食べてる子もいます。でも持参はせず、母親やメイドさんがお昼時に弁当を持ってくるのが一般的。おそらく熱帯のフィリピンでは、弁当を朝作るとお昼には傷んでしまい、食中毒の危険が高いからでしょうね。我が家でも例外ではなく、私が昼前に料理して、家内がそれを学校に持って行ってます。

その弁当の中身ですが、だいたい前日の晩ごはんの献立をちょっとアレンジというパターンが多い。なので自然とフィリピンではあまり馴染みのない献立になる。天ぷらとかカツ丼などを持っていくと、息子の友達が興味津々で集まってくるそうです。この頃は「味見用」にと、少し多めに入れるほど。


味噌汁も付けて「カツ丼弁当」

オムライスを作った時は、ライスなしで大きなオムレツだけだと思われたらしく、たまたま居合わせた子供のお母さんたちも「おかずだけしかないの?」と不思議がったそうです。そういう話を聞くと、サービス精神旺盛な関西人としては、ついエスカレートしそう。冷凍食品の力を借りて、日本の主婦が作るような色とりどりのお弁当作ったら、学校の人気者になれるかもしれません。


そして珍しがられるのは中身だけではなく、日本から持ち込んだジャーポット式の弁当入れ。フィリピンでも売ってないことはないんですが、やっぱりあまり普及はしてない。これに具沢山の日本のインスタントラーメン作って入れたら、息子は大喜びで友達に自慢しまくり。それは、ちょっと恥ずかしいかも...。



2015年6月23日火曜日

K - 12 フィリピン教育改革の現場


フィリピンでは今、初〜中等教育がかなり大きく変わりつつあります。以前は、小学校が6年制、高校(フィリピンでは中学という呼称がない)が4年制の合計10年。日本を始めとする多くの国では高校卒業までは12年間。それに比べて2年のギャップがあり、外資系の会社への就職や海外の大学への入学に際して、かなりの不利益が生じていたそうです。

公立校は高校までは無料のフィリピン。貧困層の人たちにすれば、少しでも早く学校を終わらせて、家計を助けるために働いてほしいという切実な背景があるのは分かりますが、12年制に比べて学力が不足するのは否めません。

そういう事情で高校が6年制に延長されることになり、遂に12年制導入。私たちが移住する2年前から新学制「K - 12」(K to Twelve)が既に始まっています。
Kは幼稚園(Kindergarten)のことで、12年制+幼稚園にも通わせましょうというキャンペーン。3年後にはフィリピン初の12年生が卒業するとのこと。

しかし高校まで卒業できるのは、全体の7割程度とも言われます。シライで実際に聞いた話では、徒歩では学校に通えない場所に住んでいるのに、往復50円程度のトライシクル(輪タク)のお金がなくて通学を断念。さらに根本的な問題として、子供を学校に通わせないといけないという意識が希薄な親がいること。

きれいにアイロン当てた制服を着て、ピカピカの革靴を履かせてもらった子供がいる小学校の裏手で、同じ年頃の子供が物乞いをしているのが、残念ながらフィリピンの現実。また学校の先生の給与が安すぎるのも大問題。延長した分の教員数を確保できるのかどうか、かなり疑問を感じます。実際、去年息子の担任の教師が同じ学年中に2回も変わりました。少しでも良い待遇の他校へ転職してしまったとのこと。

教育期間の延長も大事なことですが、それ以上に難問が山積しているのがフィリピンの教育の現場です。


2015年6月22日月曜日

東西ネグロス、知らん間に大再編

行政区分の再編成と言うと、最近の日本だと「大阪都構想」の是非を問う住民投票がありましたね。もう少し前だと「平成の大合併」。私自身は日本に住んでいる時に、住民として合併を経験したことがないので、実際のところは詳しく分かりませんが、知らない間に住んでいる場所の行政区画が変わっていた、ということはなかったろうと思います。特に先日の大阪の場合、該当区域だけでなく、全国版での報道もネット上で頻繁に目にしました。

しかしここフィリピンの場合、市町村単位どころか日本の都道府県に相当する州(プロビンス)や、さらにその上の行政単位の地方(リージョン)の再編成が地域住民があずかり知らぬ間に決まってしまうことがあります。



他でもない、私たち家族の住むネグロス島。四国よりやや狭い面積のこの島。シライ市のある西ネグロス州(ネグロス・オキシデンタル)と東ネグロス州(ネグロス・オリエンタル)に分かれていて、それぞれが西ビサヤと中央ビサヤという別のリージョンに属しています。

一見すると不思議な感じですが、東西の州では言葉が違い、西ではイロンゴ語、東ではセブアーノ語が母語。イロンゴ圏は西隣のパナイ島に及び、セブアーノ圏は東隣のセブ島に広がっています。つまり、地図で見るとひとつの島でも、言語・文化圏的には分かれている。さらに島の中央にはカンラオンなどの山地があり、旅客鉄道が皆無なこともあって、東西の交通は相当不便。


ところが、この東西ネグロス2州が他のリージョンから分離して、フィリピン18番目のリージョン「ネグロス・アイランド・リージョン」になったそうです。実は今月6月から新行政区画はスタートしていたのに、家内を始め多くのネグロス島民が知らないままだったらしい。今は一応、移行期間中とのことで、新リージョンの地方庁が西の州都バコロドか、東のドマゲッティかすら、まだ分かりません。

西ビサヤの地方庁は隣島パナイのイロイロで、日に何便も高速フェリーが往復しているので、1時間もあれば行くことができます。もしこれが島の反対側にあるドマゲティが地方庁になると、一般道路を車で4〜5時間。自家用車があればまだしも、バスを乗り継いだらもっと長時間になるでしょうね。言葉の問題もあるし、何にもメリットが感じられない。

家内はかなり冷笑的で、どうせ来年の選挙で議員が変わったら、また元に戻すかも知れないと、あまり深刻には受け止めていません。新リージョンになって、何がどう変わるかも分からないし、騒いだところで仕方がない、と言ったところでしょうか? フィリピン人の政治不信のタネは、こういうところにもありそうです。


2015年6月21日日曜日

列福 ユスト高山右近

このところ戦国武将が流行り。昔は時代小説と言えばオっさんの読み物で、織田信長がもし現代に生きて、会社の経営者だったら...みたいな見方が多かったようです。ところが最近は、戦国武将をアニメのキャラにしてみたり、若い女性が城跡巡りをしたりとだいぶ様変わり。

とは言っても昔と変わらず人気の武将は、信長、秀吉、家康、信玄、謙信、政宗...あたりなんでしょうか? 恐らく高山右近が好きという人は少数派かも知れません。私がこのキリシタン大名を初めて知ったのは、NHK大河ドラマ「黄金の日々」で鹿賀丈二さんが演じた右近。まだ中学生ぐらいだった私は、戦国武将でも本気でイエスに殉じた人がいたのかと、驚きました。

ユスト高山右近は、現在の大阪府・高槻市や茨木市を主な所領とした武将で、豊臣秀吉によるバテレン追放の際には棄教を拒み、城も所領も捨てて流浪の身となり、徳川家康のキリシタン禁令でフィリピンに渡航しました。そして今からちょうど400年前の1615年にマニラで病没。まさに殉教者の道を歩んだ人生。


カトリック高槻教会

なぜ突然、高山右近の話をし始めたかというと、今日のニュースで高山右近がカトリックの総本山バチカンで「福者」に認定される見通しになったと報道されたからです。福者とは聖人に次ぐカトリックでの高位者。右近の場合、1930年から聖人に列するようにとの「列聖」運動が始まったそうで、85年もかかってやっと「列福」まで来たわけですね。


高槻教会にある高山右近像

高山右近は私が生まれ育った尼崎にも所縁のあった人で、家内と一緒になって新婚時代から住んだのが右近のお膝元の茨木市。そして高槻教会にお世話になって、一人息子はその教会付属の幼稚園に通わせました。そして最後がフィリピン。右近さんは迷惑がっているでしょうが、私は他人とは思えぬほど親近感を持っています。



2015年6月18日木曜日

土砂降り定期便

日本では、熱帯地方の夕立ちのことをスコールと呼ぶ人が多いですが、実はこれ誤用だそうで、スコール(Squall)という言葉が意味するところは、突発的な風の強まり。もちろん豪雨を伴う場合もあるでしょうけど、大雨とか夕立ちという意味ではありません。

とエラそうに書いてるけど、私も仕事で東南アジアによく来るようになるまでは、完全に間違って使ってました。現地スタッフと英語で喋っていて、いくらスコールと言っても全然通じない。突然の大雨は、シャワー(Shower)なんですね。

さて、そのシャワー。ここフィリピン・ネグロス島では6月も半ばになると、4〜5月の真夏の暑さは和らいで、毎日雨模様。本格的な雨季の始まりです。しかし日本の梅雨とは少し違い、一日中降り続くということは少なくて、朝は日本の初夏か秋のように爽やかに晴れ、午後から雷を伴った土砂降りというパターンが多い。まさに判で押したような土砂降り定期便。


朝は爽やか





午後〜夕刻は曇りのち土砂降り

ずっと日本に住んでいて、梅雨の後に暑い夏が来るのが当たり前の感覚。それが真逆になっているので、何だかまた季節のやり直しで、これから夏が来るような気分です。とは言っても、これから寒くなるわけでもなく、やっぱり日中は30度前後になるんですが。

違いがはっきる分かるのは、朝夕の涼しさ。5月までは、時々就寝時にクーラーつけないと眠れない夜もあります。ところが今の時期はヘタすると、窓開けたままだったり扇風機つけたままだと、寝冷えしそうなほど。おかげでぐっすり眠れるのでテキメンに体が楽。

ただ、いいことばかりではなくて、水溜りが増えるので蚊の季節に。昨年は日本でも問題になってたようですが、こちらはデング熱の本場。それほどしょっちゅうではないにしても、たまに知り合いがデングで寝込んだという話を聞きます。これからは、裏庭の土いじりに、長袖長ズボンが欠かせません。


2015年6月14日日曜日

神父さまの大群


フィリピン人と結婚してフィリピンに住む日本人はたくさんいるものの、日本人のカトリックの信徒はとても少ない。以前マニラで日本人の神父さまにお会いしたことはありますが、私が知っているフィリピン在住の日本人でカトリックというのはその人ただ一人。少なくとも、このシライに住む日本人信徒は私一人のようです。

そもそも日本のカトリック信徒の数は、決して多いとは言えません。そして国全体が少子化・高齢化に向かっている今、日本のカトリックはそれを先取りするかの勢いで、急速に老人比率が高まっているというのが実感。

日本にいた頃、勤め先の関係で大阪、横浜、福岡と何度か転居して、いろんな教会にお世話になりましたが、どこでも爺さん婆さんが多かった。問題は単に年齢のことだけではなく、教会の運営にいつまでも老人が口出し続けること。何しろ信仰に定年はないですから。

50過ぎの私ですら若造扱いで、何かの提案をしてもだいたい長老格の古くからいる人達の反対にあって没...というパターンが多かったですね。自然と若い人が教会から足を遠ざけてしまうのも、これでは仕方がない。私も何度か「役員」を仰せつかりましたが、会社勤めと同様か時にはそれ以上にストレスを抱え込むことが多く、ある時を境に教会運営の一切から逃げ出しました。唯一の例外は聖歌隊だけ。

そして何よりも危機的なのが、神父さまを始めとする聖職者の方々の高齢化。どの教会でも私より若い神父さまは滅多にいなくて、いてもせいぜい同世代。神父さまの訃報もかなり頻繁に耳にしました。

そういう状況の日本からフィリピンに来てみると、全くの別世界。私たち家族が通っているのは、神父さまを養成する神学校の付属教会で、いつもチャペルの最前列には30〜40人ほども若い聖職者の卵たちがずらり。もちろん信者も子供連れが多く、年齢的な偏りはまったくありません。

ミサの司式は常時5〜6名おられる神父さまが毎週交代で受け持ち、私より年配と思われるのはお一人だけ。国全体の平均年齢が若くしかも9割以上がクリスチャンというフィリピンと比べるのが間違いなのでしょうけど、やっぱりこういうところも日本に住むことの息苦しさの原因なのかもと思ってしまいます。


2015年6月13日土曜日

雨漏り修理

まだ完成して1年経っていない新居なのに雨漏り。実は完成直後から漏っていたんですが、一旦大工さんたちが引き上げた後になると、もう一度頼むのが億劫。それも正確には屋内ではなく、ガレージと玄関へのアプローチの中間付近で、実生活には支障がない箇所だったので、何となく放置してました。


この雨漏り、少々の雨では何ともないけど、熱帯特有の激しい夕立状態になると盛大に漏ります。穴があいていると言うより、染み出す感じ。これはコンクリート内の鉄筋が錆びて来て、あんまり放っておくとヤバいかも知れんなぁ...。やっぱり玄関の天井剥いで、大層な工事になるんかなぁ....。としばらく悩んでましたが、悩んでも雨漏りは止まらないので、先日遂に重い腰を上げて、この家を建てた大工さんの一人アントニオ君(通称トニオ)に来てもらいました。


左官も木工も溶接もなんでもこなす万能選手のトニオ。先月設置した発電機の小屋とか、庭でお茶できるようにカフェ風のニッパハウス作ってくれたのも彼です。今は同じ宅地内で新築の家の工事に参加しているそうで、そちらが終わってからの夕方から修理開始。

まずガレージの屋根に登って、漏水箇所を点検。あっと言う間に原因を突き止めました。両側面に雨樋が設けてある我が家のガレージの屋根。本当ならば、全部防水モルタルで仕上げてあるはずの所が、部分的に仕上げをしていないことが判明。確かに指摘された箇所だけうっすらと緑色にコケが生えていました。う〜〜ん、もっとややこしいことかと想像してたら、単なるうっかりミス。でも玄関の天井を全部やり替えるような大掛かりなことではなく、防水モルタルで仕上げるだけなので一安心。

赤く示した部分が、防水仕上げ忘れ箇所

翌日、トニオから要望のあったセメント3キロと防水モルタル1パックを購入。材料代締めて65ペソ(200円足らず)。修理は2時間ほどで終わって工賃300ペソ。全部足しても1000円にも満たない金額でした。こんなことなら、もっと早く頼んでおけば良かった。


さて、修理が終わって丸1日経過した今日の夕刻、早速カミナリを伴った豪雨がきましたが、一滴も漏ってませんね。やれやれ。


2015年6月12日金曜日

お祭り騒ぎの独立記念日

今日6月12日はフィリピンの独立記念日。1898年6月12日にスペインからの独立が宣言されたことに因みます。しかし実際はフィリピンの独立勢力内での抗争があったり、独立宣言後にアメリカの植民地になったり、日本の軍政下に入ったり...。本当に紆余曲折があって、今につながる独立を勝ち取ったのは、第二次大戦後の1946年です。

歴史の経緯はさて置き、フィリピン・ネグロス島のシライ市での独立記念日。正直言って、ただのお祭り騒ぎの日にしか見えません。一週間前から全市を挙げての「フィエスタ」。市役所前の広場「プラザ」には屋台や簡易店舗の飲食店が並び、移動遊園地が来てメリーゴーランドが設置されたりします。夜は毎度お馴染みの屋外ディスコにカラオケ大会。まぁ、飲めて騒げれば何でもいいんでしょうね。


定位置に収まった移動遊園地


この時期毎年恒例の美人コンテスト


オカマコンテストもある


当日は早朝から市内の目抜き通り「リサール・ストリート」が約1キロにわたって車両通行止めの歩行者天国状態になり、市民によるパレードが行われます。最初は公立学校の先生や生徒のダンスや行進から始まって、昼過ぎにはまるでリオのパレードのように派手なコスチュームに身を包んだダンサーたちによる、かなり本格的なパレード。バランガイと呼ばれる町内会対抗のコンペティションなんだそうです。





今日は久しぶりに午後からの夕立もなく、南国の太陽が照りつけてそれでなくても暑く、パレードの参加メンバーはその天候にも増して熱い。日々の仕事もこれぐらい情熱的にやれば、貧困問題など速攻で解決するのになぁ〜。暗くなると、これまたお馴染みのプラザでの花火大会。

それにしても、国のお祝いをここまで屈託無く楽しめるのは、日本人の私からすると羨ましい限り。フィリピンの独記念日に相当するのは日本では何になるのか? 建国記念日に日の丸立てて騒いだりしたら、間違いなく「右翼」のレッテル貼られるのがオチでしょう。第二次大戦後の連合国による占領状態から独立した1957年の4月28日? う〜ん、知らん人の方が多い? 

建国や独立について語ることもそうですが、日本の場合、国旗掲げたり国歌斉唱することすら、時と場合によっては何かと問題視する雰囲気があるのは、やっぱり健全な姿とは言えないですね。こういうところだけは、日本もフィリピンみたいになってほしいものです。


2015年6月11日木曜日

何でも弁護士

日本で生活していると、逮捕でもされない限り弁護士の世話になることは珍しいと思います。その他に考えられるのは民事訴訟の場合ですが、私の場合は50年以上日本で生きて来て、幸い訴えることも訴えられることもなく済みました。

そんな弁護士未経験だった私が、フィリピンに移住してからというもの、何かと弁護士と接触する機会が多い。まず永住ビザの取得。大雑把に言うと書類揃えて、セブにある入国管理局に持っていけばいいだけ。しかし何故か地元の弁護士に一筆書き添えてもらうと、手続きがスムーズになるらしい。これは役所のホームページ見ても必要書類には指定されていません。まぁ一種の身元保証みたいなものなんでしょう。

入国管理局では面接があります。フィリピンに住む理由などを訊かれる訳ですが、ここでも面接官は弁護士。なかなか忙しいようで、私が行った時は偶然役所にいたので書類提出と同日に面接も終わりましたが、そうでないと面接のためだけに日程調整して、出直さないといけない。

最近では、銀行のキャッシュカードを紛失してしまった時。入っているはずのカードが財布の中にない。カバンにも服のポケットにもない。と青ざめてから最初にするのは銀行に連絡して、カードを無効にしてもらうこと。ここまでは日本と変わりませんが、カードの再発行で銀行から求められるのは、弁護士の手による身元証明。

この場合は市役所に出向くことに。そこにはちゃんと弁護士窓口みたいなものがあって、まるで職員の一人のようにカウンターの向こうに弁護士が座っています。そこで写真付きの身分証明書(私の場合はフィリピン版の外国人登録証明書「I Card」)を見せて、新たに書類を起こしてもらう。他にも順番待ちのシライ市民がいっぱい。

どの場合でも証明書の類いがちゃんと揃っていれば、別に弁護士は必要ないんじゃないかと思うのですが、書類の偽造を恐れているのか、手続きの不備が多いからなのか、二言目には「弁護士に頼め」というのが多いですね。そしてこれまた理由はよく分かりませんが、女性弁護士が多くてフィリピンで男の弁護士には、まだ会ったことがない。

どうやら同じ弁護士という名前の職能でも、社会で果たしている役割は日本とは少し違うようです。


2015年6月9日火曜日

熱唱カトリック


フィリピン人の歌好きは、日本でもよく知られていると思います。だいたい東南アジア諸国に共通しているようですが、特にフィリピンの場合はそれが顕著。一杯飯屋みたいな扉もないような食堂で、平日の昼間っからオッちゃんたちがいい塩梅になってカラオケで歌ってるし、ちょっとしたパーティになると、プロの歌手がギターやキーボードなどの伴奏者と一緒にやってきたり。

先日の日曜日、いつものように家族でミサに与っていた時のこと。その日は近くの変電所のメンテナンスだったそうで、ちょうどミサが始まって前半の山場とも言うべき「栄光の讃歌」の真っ最中に、電気がプチッと切れてしまいましました。

歌詞を映していたプロジェクターも、伴奏の電子オルガンもダウン。しかし約100人ほどの信者さんたち、まるで停電がなかったかのように、まったく途切れず最後まで歌いきってしまいました。典礼で歌われる聖歌は基本のところは決まっていて、だいたい歌詞は暗記しているものですが、それにしても見事でしたね。因みにこの時の歌詞はタガログ語でした。

伴奏も慣れきっていて、さっさとオルガンは諦めてフォークギターにシフト。ほんの数小節分でバックアップ。こちらもお見事。日本のカトリック教会でも、フィリピン人信徒の多い教会では、時々英語ミサなどで見かける光景です。フィリピンでの聖歌の伴奏は、ギターの方が一般的。

カトリックのミサは、家族全員で赤ちゃんまで連れて与るもの。小さい時から家族と一緒に歌うのに慣れている環境はやはり大きい。間違いなくこれがフィリピン人の歌好きの大きな要因だと感じました。考えてみると、音楽好きで乗りが良いと言われるラテン系の国民って、ほとんどカトリックなんですよ。

私がかつて所属していた大阪の教会では、平均年齢が高すぎるという理由もあるでしょうけど、神父さまが怒り出すほど聖歌を歌う声が小さい。技術的なこと以前に、人前で歌うこと自体が特別なことで、よほど上手く歌えないと恥ずかしいと思ってしまう。それが日本人の平均的なメンタリティなんでしょうね。

日本にいた頃は、多少ボイストレーニングを受けたこともあって、物怖じせずに歌うという理由だけで、転勤でどこの教会に移っても、必ず聖歌隊からお声が。しかしフィリピンでは聖歌隊メンバーが不足するどころか、歌いたい人が多すぎて全然目立ちません。それに、英語だけでなくタガログ語やイロンゴ語、ラテン語などの歌を全部暗譜してるような人が多い。これだけでもアマチュア歌手の裾野の広さがよく分かります。


2015年6月7日日曜日

バナナの心臓

庭に食べられる果物の成る樹木を植えるのは、昔からの夢でした。尼崎の生家に猫の額ほどの庭があって、木は植わっていましたが、ちょっと大きくなると枝が隣家にはみ出して、すぐに枝払い。社会人になって家族を持ってからは5回引っ越して、住んだのは全部賃貸マンションばかりで、庭自体が夢に。

フィリピンに移住して建てた新居は600平米も土地があって、住宅用にはその半分の300平米だけを使い、残り半分はそのまま「裏庭」になりました。今まで一坪の庭もなかったのが、いきなり馬鹿でかいフリースペースが出来てしまい、さてどうしたもんやら。結局今でもちゃんとした造園にはなっていませんが、果物の成る木だけは何本か植えました。

まず、家内の友達が新居の完成祝いにくれたのがバナナの苗木4本。こういうのが南国フィリピンらしいですね。軽トラに積まれて我が家にやってきたバナナたちは、裏庭のど真ん中に「デン」と腰を落ち着けしました。



実が成るまで3年かかると義父に教えられて、そういうもんかいなと思っていたら、丸1年で4本のうちの1本に緑のバナナがたわわに。日本では果物屋やスーパーに並んでいる黄色いのしか見たことがないので、珍しくて仕方がない。

1ヶ月もするとどんどん実が大きくなり、せいぜい3メートルぐらいしか高さのない木が折れそうに。早速義父がやってきて、つっかえ棒をしてくれました。その時に聞いたところでは、バナナは一回収穫すると、その木はもうお終いで切り倒すものだそうです。なるほど、ちょうど実がなる少し前から、周囲にチビバナナの木が何本も生えてきていました。


そう言われてみれば、バナナの大木って見たことないですね。短い周期で収穫、伐採を繰り返していたのか。まぁ2〜3年かかっても、ほとんど放ったらかしで育つので、ある程度の規模で栽培すれば、十分元は取れるんでしょう。

さて、今日は毎週メイドさんが掃除に来る日曜日。目敏くバナナの実を見つけて「バナナの心臓」を切り取らないと、実が熟れないよと、教えてくれました。バナナの心臓?

そういえばバナナの房の先端に、赤ん坊の頭ほどもある種(?)のような部分があって、それのことを言っているらしい。脚立を持ち出してそれを切ってもらいました。取れた心臓は料理に使えるそうで、メイドさんが喜んで持って帰りました。



バナナなんて私が小さい頃から慣れ親しんだ果物なのに、知らないことばかりですね。

(その後調べてみたら、これは種ではなく花で、インドネシアでもバナナの心臓と呼ばれ同じように食材になるそうです。)



2015年6月4日木曜日

税金払え! 〜国外転出時課税制度〜

昔から在マニラ日本大使館には、いい感情を抱くことができません。最初に関わることになったのが、フィリピン人の家内との結婚の時。家内を日本に呼び寄せるための配偶者ビザの発行手続き。

今は多少マシになっているらしいですが、当時はフィリピンの在留邦人からの悪評紛々。言葉使いはゾンザイで、納税者への奉仕という態度が皆無。特にフィリピン女性との結婚で相談に行ったら「このクソ忙しいのに、要らん手間増やしやがって」と言わんばかりでした。

移住してからも、ほとんど助けになるようなことはしてくれませんが、万一の時に備えて一応大使館に在留届けを出し、メールマガジンも登録しています。今の所たまに送られてくるメールの多くは、治安悪化が懸念される時や台風接近時。それも文章の大半が使いまわしのコピペで「ちゃんと警告したからね。これで何かあっても自己責任だからね。」と言い訳するためみたいなもの。

唯一有難いと思ったのは、小学生の息子のための教科書無料配布。しかしこれは、隣島セブの領事館まで取りに行かなくてはなりません。それだったら多少の料金はかかっても、送付してくれたらなぁと思います。

一昨日、その日本大使館から"「国外転出時課税制度」創設のご案内"といタイトルでメールが届きました。日本国内に住民票を持たない日本人への、新たな課税だそうです。資産1億円以上の人が対象なので、私は無関係ですが、金を払う時だけは律儀に知らせてくるようで、やっぱり嫌な感じ。

それにしても、こういう税金をわざわざ新設するとういうことは、多額の退職金や預貯金ごと国外に出る人が増えてるからなんでしょうね。私が早期退職して、フィリピンに住んでいるのは、貰える金額がどんどん目減りしていく年金への支払いに疑問を感じたのと、税制への不公平感が背景にあります。居心地を悪くしておいて、逃げ出す者からは追い銭を取るという発想が、そもそも間違ってる気がしてなりません。

だいたい大使館からのメールが来ると、不安になったりイラっとくることばかり。たまには心楽しくなるお知らせはないものでしょうか?


2015年6月2日火曜日

突然の雨季

東南アジアの真夏は4〜5月。と言っても、それ以外の時期より最高気温が5度ぐらい上がるかどうか。しかし目に見えて日差しが強くなり乾燥した晴天が続くので、体感温度はもっと高いように思われます。先月は、マニラ首都圏で40度越えの日が何日かあって、ニュースになるぐらい。つまり、熱帯のフィリピンでも40度は尋常ではない暑さなんですね。

日本ではまだ晩春か初夏のはず...なのに、この数日はネグロス島より暑いらしい。真夏の大阪や東京の暑さは、嫌というほど知っているので、8月に気温の逆転が起こるのなら分かりますが、5月や6月でフィリピンより日本の方が暑いというのは、一体どうなってるんでしょう?

それはともかく、いくら日本の夏よりは涼しくても、丸2ヶ月も暑くて、特にここ何週間かは雨がほとんど降らない。さすがにちょっとバテてきたと思っていたら、昨日はまるで6月になるのを待っていたかのように、昼過ぎに雷を伴った大雨。日本で同じ降り方したら、間違いなく「ゲリラ豪雨」。文字通り滝のような雨が収まった後も、断続的に弱い雨模様で、深夜まで西の空には稲妻が光っていました。



こうなると、フィリピンの田舎ではかなり劇的な変化が見られます。まず夕刻、どこからともなく大量の羽アリが湧くように飛来。家の外壁がマダラ模様になるぐらい。台所まで侵略してきて、洗ったはずのフライパンやまな板にまでタカるアリども。こうやって種族を殖やして繁栄しているのか。殺虫剤片手に庭中走り回りたい気分でした。

辺りが暗くなると、昨夜までとは打って変わってカエルの大合唱が始まりました。羽アリと同じく雨を待ってたんですね。近くに大きな川や田んぼはないので、恐らく乾燥している時期は、土の中に隠れていたと思われます。それにしても尋常な数ではない。一夜明けると、路上には車に轢かれてぺちゃんこになった「平面ガエル」が溢れることに。

アマガエルとかせいぜいトノサマガエルぐらいならまだしも、サイズが大人の手のひらほどもあるヒキガエルみたいな奴らなので、あんまり愛嬌がない。どうも熱帯の自然は何につけても極端で変化が急激なので、季節の移り変わりを愛でる、という具合にはいかないようです。


2015年6月1日月曜日

マールの死



6月1日月曜日、フィリピンの公立の学校では夏休み明け。息子は私立の小学校なので、少し遅れて木曜日からですが、今日はまるで夏が終わったことを宣言するように、朝から曇りがちで風が吹き渡っていました。

暑い日が続いて、近くにある涼しい高原リゾートに家族で遊びに行こうとしていた昼食時。本当に久しぶりのに白昼の豪雨。まるでそれと呼応するように、家内の携帯電話が鳴り、また訃報が....。

家内の学生時代からの親友で、一つしか歳が違わない愛称マールことマリーナ・アンダレシアが、入院先のマニラの病院で亡くなりました。享年51。

マールのことは、家内と付き合っていた頃からよく知っていて、家内がフィリピン大学の研究員だった時の同僚。同じスタッフ専用の宿舎のハウスメイトで、まるで姉妹のようでした。性格は典型的なフィリピン人。いつも笑顔で明るくて特別美人ではないけれど、愛嬌たっぷりで誰からも好かれる女性。でも何故か独身を通していました。

数年前に癌で手術を受け、その後も化学治療を続けていたものの、最近は元気な様子で、つい2ヶ月前の誕生日に、家内と長電話でおしゃべり。ちょっと突然すぎるし、若すぎるよ、マール。結局、シライ市の自宅には一度も来られなかったね。

フィリピンへの里帰りの時は、まだ赤ん坊だった息子をとっても可愛がってくれたマール。息子のゴッドマザーでもありました。こうなると分かっていたら、先月マニラに行った時に、会っておいたのに。

合掌。