今日、ちょっと面白いツイートを見つけました。
「メシマズって意味がわからないんだけど、レシピ通りの材料用意してレシピ通りに作って途中で味見挟んだら料理なんて不味くなりようが無くない?」
それを引用リツイートして返答が、
「いやそうじゃないんだ。 ほんとに料理ができない人っていうのはこんなかんじ・まず野菜が切れない ・調味料の分量を正しく測れない ・味見しても味がわからない」
なるほどなぁ。確かに「出来る人」からしたら、なぜ「出来ない人」がいるのか分からないって、なりがちですね。それを強烈に実感したのが、メイドさんに料理の手伝いを頼んだ時。
かれこれ5〜6年前に、当時のメイド、ネルジー嬢にスパゲティー茹でを頼んだら、出来上がりが数本づつくっ付いた状態。途中で混ぜてたはずだし、一体どうやったらこうなるだろ? また、ツイートにもあるように、野菜の刻み方も全然で、どんなサイズでどう切るかのサンプルがないと、包丁片手に固まってたし。
ちなみに私が日常的にやってる趣味で言うと、歌、イラスト描き、ブログ投稿の文章。ついでに英語もそうなんですが、「私にはこれが出来る」なんて言い切っちゃうと、お前はどんな大先生や?とツッコミの嵐が来そうです。でも、私のレベルであっても、まったく出来ない人からすれば、十分に「出来る」と見られるもの。
ただ、上記のような事柄って、だいたい初心者には難しいとされいてるものばかり。テクニックをレクチャーしますと言ったら、お金払ってでも習う人がいる分野。そして一旦習得しちゃうと、出来なかった頃の感覚を思い出して、分かるように教えるってのはとっても難しい。なので、英語を喋れても、誰もが英語の先生になれる訳ではないという道理。
でも、そういった習い事の類だけでなく、例えば、先のことを考えて計画的にお金を使うとか、約束の時間を逆算して、朝起きる時間を決めたりや準備をするって、出来ない人には、とても難しかったりします。
もちろん年端もいかない子供ならともかく、日本で生まれ育った成人ならば、出来て当たり前と思われるでしょうけど、私が今住んでいるフィリピンでは、出来ない人が多過ぎて驚くぐらい。
以前にも投稿したことがありますが、私のように、まとまった貯蓄と退職金を、年金貰えるまでの10年以上の間、少しづつ取り崩して生活するって、低所得層の人たちには恐ろしく難しいライフスタイルなんだそうです。極端に言うと、10年分を最初の数ヶ月で使い切ってしまいそう。なので給料も半月とか一週間毎に支給しないと、あっという間に食費が底をついてしまう人が続出する。
ことほど左様に、お金と時間にまつわることは、日本とフィリピンで認識の差が著しいのは、出来て当たり前の常識が、かけ離れているから。かなりの数のフィリピン人にとって、努力して身につけるレベルの、ある種のスキルだったりします。
ここを理解しないから、「フィリピン人は馬鹿だ、民度が低い」と暴言を撒き散らす日本人が後を絶たない。でもね、逆に考えてみてください。日本人=「英語ができない面倒な人々」って思われてるんですよ。わざわざ大挙して、フィリピンにまで英語の勉強に来るぐらいですから。
結局のところ、子供の時から他人と違うことは恥ずかしいことと、骨の髄まで思い込まされて、同調圧力、等質文化にどっぷりの日本人。当たり前が出来ない人に対して、徹底的に不寛容になるのも仕方がない気がします。
これは自分自身への自戒も込めてなんですが、「そんなことも出来ないのか」と相手を蔑む前に、それはその人の責任なのかどうか、優劣の問題じゃなくて単なる背景の違いではないかと、自問してみるべきだと感じてます。