2025年10月5日日曜日

年度末のセブ北部大地震

 今年度(2025年)もまさに最終日、あと数時間で日付が変わるという9月30日の夜、セブ島最北端に近い海底を震源に、マグニチュード6.9の大地震が発生しました。この6.9という数字、2011年の東日本大震災の9.0という、史上最強レベルの強さに比べれば、大したことないと思われるかも知れませんが、1995年の阪神淡路大震災の本震がマグニチュード7.3でしたから、決して侮れない規模。

地震があった時間は、私は2階の書斎でパソコンに向かっていて「お、久しぶりにちょっと強いのが来た。」という受け止め。震度3かひょっとしたら4ぐらいはありそう...。これ以上強くなったら、デスクの下に隠れようかと考えているうちに、揺れは収まりました。ドーンという揺れではなく、比較的周期の長いユッサユッサという感じだったので、震源はネグロス島内ではなく、ちょっと遠くでかなり強い地震があったか?

ちなみに私は阪神淡路大震災の時、比較的震源に近い兵庫県尼崎市の実家にいました。おそらく震度6以上はあったろうと思われる揺れ。まさしく「ドーン」と来ました。家具はほぼすべて倒れ、ガラスや陶器の食器類は大半が割れる被害。ただ新築直後の鉄骨3階建ての自宅は倒壊を免れ、火災もなく、私も家族もかすり傷程度で済んだのは本当に幸運でした。

そういう経験があるおかげで、今回の地震もパニックになることなく、そこそこ冷静に対処できましたが、地震慣れしていないフィリピン人の家内はそうはいきません。完全に動転して家から飛び出し、私が呼びに行った時は、停電の暗闇の中、庭の隅っこで震えていました。

すぐに発電機を始動して、ネットで情報収集したところ、震源は私たちが住むネグロス島シライ市からは、ざっと100キロ以上はなれた隣島セブの北部。震源に近いボゴという街では相当な被害が出たようで、後になって流れてきたニュースによると70名以上の犠牲者が出たとのこと。

ここまでの震災は、私たちが移住した年、2013年のセブ島の隣、ボホールで発生したマグニチュード7.2の地震以来。この時シライ市内では、今回よりやや弱めの揺れを感じましたが、当時のメイドさんは同じように真っ青になって家の外に飛んで逃げてました。

ところで、今回の地震に伴うネグロス島での停電。地震で設備が破損したりということではなく、ビサヤ地方の広域をカバーしているナショナル・グリッド(電力会社)が、緊急事態で送電を止めたのが原因。約2時間ほどの点検の後、電力が復旧しました。

さて、フェイスブックやユーチューブでは、地震発生直後から続々と被害を伝える動画が投稿。西ネグロスの州都バコロドでは、建物の倒壊を恐れて多くの人たちが路上に溢れいる姿。家内とまったく同じ行動なんですが、これは笑い事ではなく、フィリピンの建築物って、厳しい耐震基準を満たした日本のそれに比べとても脆弱。そりゃびっくりして外に飛び出すのも分かります。実際、2013年の地震でも、多くの建物が倒壊しましたから。

また今回の地震は、観光地として名前の通ったセブということで、日本でもかなり早い段階で報道されたらしく、日本の私の友人からも安否確認の連絡があったほど。ただ、大都市であるセブ市とその周辺は、シライと同じく震源から遠かったので、揺れたとはいっても被害はほぼありませんでした。しかしながら、土地勘のない海外の災害への反応の常として、あたかもセブ全島が大被害だったかのように、勘違いした人も多かったようです。「島」と言っても四国の1/3ぐらいあるんですけどね。



2025年9月17日水曜日

言語ドッキリ

 ここ最近、ユーチューブでよく見るのがKazu Languagesというチャンネル。これは、10カ国以上の言語をネイティブ並みに喋る日本人、カズマさんという20代の若者が主催。OmeTV(オメTV)なる、初対面同士がビデオ通話を楽しむアプリで、いろんな国の人たちの母語を喋って「言語ドッキリ」を仕掛ける趣向。

このカズマさんが、なかなか今風のイケメンで、主に若い女性たち(10代から20代)を驚かせるのが面白くて、ほとんど同じパターンの繰り返しながら、飽きずに何時間も見てしまいます。

10カ国以上と書きましたが、日々新しい言語に挑戦されているそうで、13とか16とか徐々に増えてくる。別チャンネルのインタビューでは、びっくりネタに使える程度の、挨拶プラスαまで含めたら、何十カ国にも及ぶとのことで、これはとんでもない才能の人が現れたものだと感心しております。ちなみに、三つ以上の言語を操る人のことを、ポリグロット(polyglot)と呼ぶそうです。

何がすごいって、勉強始めて数ヶ月とか半年で、ネイティブに褒められるほど(リップサービスがあるとは言え)の発音の確かさと、いきなりスラングで振られても、ちゃんと聞き取って気の利いた返しができてるところ。それも英仏独などのヨーロッパ系のメジャーな言語だけでなく、中国語(マンダリン)、韓国語、インドネシア語、アラビア語などのアジア系、さらには、アフリカの少数言語など、そんな言葉があったのかというレベルの言語までカバー。ちなみにフィリピンの公用語であるタガログ語も、かなりできるらしい。

立場を逆にすれば、中央アジアかどこかの、かろうじて国名を知ってるぐらいの国で、日本に来たこともない若者が、突如、流暢な関西弁を喋り出したようなもの。何しろ標準ドイツ語に加えてスイスのドイツ語やら、エジプトのアラビア語とか、方言まで熟知してます。

ここから急に話のレベルが落ちてしまって恐縮ですが、一応私も三つの言葉を喋るので、ポリグロットと言えなくもない。母語の日本語に加えて、英語と、今住んでるフィリピン・ネグロス島の方言イロンゴ語(別名ヒリガイノン語)。日本語以外は、ちょっと怪しいながら、日常会話には困らない程度には喋れます。

なので、初対面のネグロスの人に、英語からいきなりイロンゴ語にスイッチして驚かせたり笑わせたりする「言語ドッキリ」の醍醐味は経験済み。特に箸がコケても面白い年代の若い女性が相手だと、転げ回るほど笑われたりします。まぁ私の発音が面白いってのも、多分にあるんでしょうけど。

それにしても一般的な日本人の外国語音痴ぶりって、私が子供の頃から言われてました。原因は間違いなく受験英語として言葉を教えるスタイルの旧態依然ぶり。このブログでも何度書いた通り、小学校1年から、ネイティブの教師に会話中心で教えてもらったら、あっという間に新時代到来なんですけどねぇ。

ところがカズマさんの動画を見ていて思うのは、動画系のSNSやアプリの登場で、言語学習の分野で革命が起こっているということ。ただの独学ではなく、初心者でも対象言語のネイティブ話者と、実地で会話練習ができちゃうんですから。カズマさんは桁外れの天才だとしても、彼のやり方は凡人が真似しても得るところが多い。

現代のネット社会では、別に10言語を目指さなくても、そこそこ社交的で変な羞恥心を捨てられる人なら、一つや二つの外国語は、それほど無理しなくても習得できる環境が整っている。さらにすごいのがAIの進化・普及に伴ったネット上の自動翻訳。英語のような超メジャー言語だけでなく、最近はイロンゴ語の充実ぶりが凄まじい。早速、私のイロンゴ学習で活用しまくりで、イロンゴの家庭教師が驚くほどのレベルに達しています。

もう5年ぐらい前から、毎週イロンゴで日記というか週報みたいなA4一枚の宿題を書いて、先生に添削してもらってます。自動翻訳を使う前から、まず英語で書いてイロンゴに翻訳するスタイル。これは言語間の相性の問題で、同じヨーロッパ系のスペイン語からの借用語が多いせいか、日本語に比べると英語で1対1直訳できる単語が多いんですよ。

このやり方はグーグル翻訳でも有効で、出てきたイロンゴ文を読んだ先生が「誰かに代筆してもらった?」と疑うほど。まぁ代筆には違いないんですけど。

ということで、私が20代ぐらいの頃にこの環境があったら、カズマさん並みは全然無理でも、今喋れる3言語に加えて、タガログ語とスペイン語ぐらいはモノに出来てたかもしれません。若い人が羨ましい限りです。



2025年9月16日火曜日

88歳の母 驚異の回復

 前回の投稿で、フィリピンの我が家で介護中の88歳の母が、とうとうオムツ着用になってしまったという話をしましたが、驚いたことにその母が、赤ちゃん状態から戻ってきました。

一時期、施設に入所していた時に、要介護3になってオムツ付けていました。そこから自力排泄できるようになって、フィリピンに渡航できるまでに回復した実績はあったんです。とは言え、あれからもう数年が経ち、確実に老化は進行している母。正直もう最後までオムツは手放せないかと、諦めておりました。

私自身を含めた一般的な感覚として、中高年から老年期にかけて、若い頃できていたことが徐々できなくなった場合、大抵はもう元には戻らないもの。例えば長時間のスポーツとか、途中覚醒なしに8時間以上眠ったりとか。あるいはかつて食べていた量を食べたら、ひどく胃もたれしたり。

記憶力や認知力も同じですね。衰えの速度をがんばって鈍化させられても、残念ながら不可逆的に、できることが減っていってしまう。なので、母の場合も同じで、しかも一度回復したからと言っても、二度三度は無理だろうなと考えた次第。

ところが、元々母がそういう体質だったのか、それとも今のフィリピン・ネグロス暮らしが良い影響を与えたのか、ここ1週間ほどは大人用オムツとも縁が切れてます。私がホッとした以上に、これが分かった時の家内の喜びよう。メイドのグレイスと共に、直接介護をしてくれている家内なので、嬉しさもひとしお。

さて、その老人には良さそうなネグロス島の我が家での暮らし。具体的にどこが良いのか考えてみました。まずは、暑過ぎず寒さもない気候。これを書いているのは9月なんですが、日本はまだ「危険な暑さ」なんて予報が出てます。今回の父母の滞在は、3月からで、4〜5月の乾季は例年並みの暑さでした。それでも、大阪の狂ったような酷暑に比べれば「昔の日本の夏」レベル。緑の少ないマニラ首都圏などに比べても、避暑地と言ってもいいぐらいの涼しさ。7〜8月は雨季なので、日によっては扇風機さえ要らない天気。

次に考えられるのは、父母のために一戸建ての離れを用意したこと。これは介護する側にも大きいポイントで、相互のプライバシーを保てるし、耳が遠くなってテレビを大音量で付けっぱなしでも大丈夫。当事者の父母もかなり気楽だろうと思います。

そしてこれが一番大事だろうと思うのが、毎日の食事。若い頃から食べるのが大好きな母で、風邪ひいて多少熱があろうとも、食欲だけは衰えたことがない。60代の頃に骨折で入院して、退院祝いにと餃子の王将に連れていったら、下痢をするほど食べ過ぎたという人。さすがに今はそれ相応の食事量ながら、キッチリ三度食べてデザートのパパイヤやドラゴン・フルーツも完食。

誠に手前味噌で恐縮ながら、何より、私が食事担当なのは大きい。移住後10年ですっかり食事担当主夫が板につきました。フィリピンに移住して食べ物に慣れずに困っているという話を時々聞きますが、これは自炊すれば無問題。なぜなら、野菜・魚・肉などなど、たいていの食材は日本と同じか近いものが手に入るし、キッコーマンの醤油も味の素も、キューピーのマヨネーズだってあります。

そもそも母の手料理で、育ててもらった私なので、味付けや献立は母譲り。料理を教えてもらったことはないけれど、自然とそうなってしまう。おかげで、毎食「おいしい、おいしい」と食べてもらえてます。考えてみたら、食事自体もさることながら、夕食時には孫の顔をみられるのも、楽しみの一つなんでしょうね。

ということで、何とか元の生活に戻って、住み込み介護士を雇う話もペンディング。この調子で、最後の瞬間まで今と同じぐらいの元気さで、生き切ってもらいたいものです。


2025年9月11日木曜日

おむつの衝撃

 とうとうこの状況が来てしまいました。後期高齢者の母が半分寝たきりになって、かれこれ5年。私のフィリピン・ネグロス島の自宅に、父と一緒に引き取って世話をし始めてからでも足掛け3年になって、母がおむつの常時着用状態に。

きっかけは先月、母が下痢になってベッドで便を漏らしてしまい、自力でトイレに行けないことが発覚。もう来年90歳になろうという人なので、仕方ないと言えば仕方ないけれど、自分を産み育ててくれた母が、ここまで弱ってしまうのを目の当たりにすると、やっぱり衝撃を受けるもの。

ところが、義理の娘である家内と、介護の訓練を受けてきたメイドのグレイスの対応は見事でした。すぐ近所のスーパーで大人用おむつを購入し、嫌な顔もせずにテキパキと処理。まぁ、この状況を見越して父母専用の一戸建ての離れを建てて、介護の経験がある人を雇ったわけなので、想定内ではありました。

さらに年寄りや病人には手厚いと言われるフィリピンの国民性。まだ日本に住んでいた20年ほど前、ゴルフ場で骨折して入院した母のために、毎日病院に通って入浴の介助をした家内の行いは、それを身をもって証明したような出来事でした。なので、この二人には本当に感謝しつつも、ある意味、手筈通りに事が進んでいるとも言えます。

お陰さまで、母の下痢は数日で快癒。一時は家内ともども、デング熱のような厄介な病気だったらどうしようと心配しましたが、比較的早くに食欲が戻ったので、入院についてはせずに済みました。やれやれ。

それでも完全に元には戻らず、おむつは手放せないまま。実は一旦は要介護3で、日本の老人ホームに入っていた母。そこではおむつ着用だったそうなんですが、ケアマネージャーさんも驚く奇跡の回復で、なんとか飛行機に乗れるまでになり、今に至っています。それを考えると、また自力で下の世話をできる状況になるかも知れません。

下痢で寝込んでいる時は、まったく目の焦点も定まらず、完全に「寝たきり老人」だったのが、以前と同じく食事時には、父に支えられながらも、ちゃんと歩いてダイニングまで来て、健常者と同じメニュー(つまり私が用意する家族用の食事)を普通に食べてます。つい先週には、グレイスに散髪してもらって小ざっぱり。表情もしっかりしてきて、もう「呆けた顔」ではありません。

ただ問題は、おむつ必須だと日本への一時帰国は難しくなること。当初の予定では、半年に一回程度は帰国して、医師による健診や薬の処方などと考えてましたが、場合によっては、まだ頭も足腰もしっかりしている父のみ帰国、という選択肢も考えざるを得ません。そうなると、今は通いのグレイスだけではなく、住み込みの介護士を雇う必要もあります。(ちなみにネグロス島での介護士を雇う費用は、高くても月5万円ぐらい)

最近フィリピンでは、観光ビザのルールが変わって、手続きさえすれば3年は延長できるので、まだしばらくは大丈夫。また日本での介護に比べれば、はるかに恵まれている状況なんですが、それでも親が死ぬのを待っているような感じで、気分的は暗くなりがちですね。

ということで、私と同世代の50〜60代の方々には他人事ではない話題なので、この件に関しては、今後も投稿を続けたいと思います。


2025年8月15日金曜日

敗戦80年に想う

 「敗戦80年に想う」と題したものの、私はまだ還暦を過ぎて数年なので、当然、先の大戦は経験しておらず、両親や祖父母、親戚や学校の先生から話を聞いただけの者です。それでも、物心つくかどうかの幼少期から、繰り返し聞かされた戦中・戦後の悲惨な体験。それに加えて、映像や書物、さらにはマンガなどで、トラウマになるほど心に刷り込まれているので、やはり八月十五日には、いろんなことを考えてしまいます。特に太平洋戦争での最大の激戦地の一つだった、フィリピンに住んでいれば、尚更です。

ちなみに私の両親は、敗戦時に8歳と9歳。母は大阪から親戚の住む長野県に疎開していたので、直接の空襲被害は受けなかったものの、父は大阪大空襲を間近に見ています。今に至るまで、当時のことはまったく話しませんが。

幸いにも、祖父母も叔父や叔母にも、戦死したり空襲で亡くなった人はいないものの、誰に聞いても食糧難は本当にたいへんだったとのこと。確かに、小学生ぐらいで満足に食べ物を口にできないって、その後の人格形成にも影響が出たと思います。この世代の人たちって、サツマイモやカボチャは、子供の頃に一生分食べたから、もう見たくもないって言いますからね。

さて、今年は80年目という節目なので、ネットで眺めているだけでも、実にいろんな記事や言説が流れてきます。さらに、ウクライナやガザでの終わりの見えない殺戮が続き、一つ間違えば核兵器が実戦で使われるかも知れません。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が、昨年(2024年)のノーベル平和賞を受賞したのも、その可能性のヤバさが理由なのは、まず間違いないところ。

ここで唐突ですが、「ダウンフォール作戦」ってご存知でしょうか?訳すれば「破滅」の意味にもなる物騒な名称ですが、これは、1945年から46年(昭和20〜21年)にかけて、アメリカ軍が計画していた、日本本土への上陸作戦。まず45年11月に九州南部に上陸領(オリンピック作戦)し、そこを根拠地としてさらに翌年に、関東平野一円を占領(コロネット作戦)する予定でした。

この作戦は、原爆使用やソビエト連邦の参戦などがあり、日本政府がポツダム宣言(無条件降伏勧告)を受け入れて実施されなかったんですが、もしこれが現実になっていたら、私は生まれていなかったかも知れないし、その後の歴史もまったく違っていたでしょう。何しろ推定の日本側の死者が500万から1,000万(民間人含む・諸説あり)で、当時の総人口の7〜15%がいなくなる計算でした。

そしてここからがポイント。こういう話は日本人としては想像するのも苦痛だし、大戦末期の日米の圧倒的な戦力差からすると、巨人が虫けらを踏み潰すようなイメージなんですが、アメリカ軍の責任者や為政者の立場で考えたら、決してそんな簡単な話ではなかった。

例えばサイパンや硫黄島も沖縄も、その上陸と占領には、当初のアメリカの見込みよりはるかに長い期間を要し、多くの死傷者を出しています。もちろん日本側の被害に比べれば、ずいぶん少ないものの、沖縄だけで1万人以上の兵員が失われてますから、これが日本の本土となったら、大雑把に見積もっても、その何十倍の損耗は覚悟したでしょう。また、特攻や民間人まで動員した、相手からすれば狂信的としか思えない日本の戦い方を目の当たりにして、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症する兵士も多かった。

実際には大雑把どころか、アメリカらしく事前に綿密な調査と研究が行われ、戦力分析だけでなく、予定戦場の地質まで調べたそうです。そして導き出された米軍の被害予測が、少なくとも戦死者25万人。場合によっては100万という見方もありました。史上最大の上陸戦と評されたノルマンディさえ比較にならぬ数字に、当時のアメリカ大統領トルーマンがビビったのも無理からぬ話。

「私は生まれなかったかも」と書きましたが、これはアメリカ側でも同じように考えた人も多く、もし戦争が長引いていれば、父は戦死して復員せず、その子供である私は存在しなかっただろうと。

こういう背景を知ると、後にアメリカ人が核使用を正当化する際の「原爆は、何万人ものアメリカ兵の命を救った」という常套句も、必ずしも詭弁や言い逃れとは、思えなくなってきます。念の為に書きますが、だから広島や長崎の犠牲は仕方なかった、など言ってるのではないですよ。民間人への無差別爆撃は、当時であっても明白な戦争犯罪だし、とても許される行為ではありません。

私が問題だと思うのは、こういった事実や数字が日本の学校で、まったく教えられていないこと。被害者として、戦争がいかに悲惨で、繰り返してはいけないというのは、私の世代は、嫌というほど教わりました。しかし、なぜ当時の為政者が戦争を始めたか、その背景や経緯はどうだったか、などなど、感情に訴えるだけでなく、歴史的にどうだったかの視点がなさ過ぎる。これでは、現実にどうすれば戦争をしなくて済むのか、その具体的な行動指針も考えられない。

実は私がまだ大学生だった頃に「昭和16年夏の敗戦」という、その後都知事になった猪瀬直樹さんの著書を読みました。それによると真珠湾攻撃の半年前に、対米戦争やっても勝ち目はないとの分析結果が、当時の内閣直轄の組織だった、総力戦研究所で出てたんですよね。それも、ほぼ史実を予言するような形で。

にもかかわらず、その結果を無視して全面戦争をやってしまい、もっと悪いことに、国が滅びるかというほどの負け方をしてもなお、冷静に知的に、その教訓から学ぼうとしないのはなぜなのか? 私たちが受けた平和教育が無駄だとは思いませんが、それと並行して、当時の世界情勢や日本の軍事力の実態、日本政府や軍部の指導力、帝国憲法の問題点など、冷徹な乾いた目で見定めて、少なくとも高校できちんと教えるべきじゃないでしょうか?

ところが、軍事について語ろうとしただけで感情的になって、軍国主義だの右翼だのレッテルを貼られてしまうのが戦後教育の現実。挙げ句の果てが、「あの戦争は軍部の暴走」という一種の思考停止で片付けて、それ以上考えることもしなくなる。これは憲法9条についても同じで、問題点を論じるどころか、その話題に触れることすらタブー。

その結果、戦略的にまったく割の合わない特攻や集団自決を、美辞麗句で飾り立てるような人が、政治家の中からさえ出たりします。それに異を唱えると「お前はそれでも日本人か?」ですからね。特に今回の参議院選で、参政党から候補者の発信には、目を覆いたくなるものがありました。

ということで、書いているうちに熱くなってしまい、ずいぶんな量になってしまいました。その上、フィリピンやネグロスのことからも離れちゃったし。これは、猛烈な反発があるかも知れません。でもこの件については、昔からずっと考えてきたし、これからも考え続けるんだろうと思ってます。



2025年8月13日水曜日

日本語教師を辞めた顛末

 今年(2025年)5月に、満を辞して始めたオンラインの日本語教師の仕事が、3ヶ月保たずにパーになってしまいました。実は、このブログが1ヶ月以上も間が空いてしまったのも、それが原因。

理由は一つだけではないんですが、まず一番大きかったのが、マネージメントが雑すぎること。元々この仕事は、フィリピン・バコロド(西ネグロスの州都)生まれで、現在日本在住の50代のフィリピン女性Dさんからのオファー。前々回の投稿でも書いた通り、同じく日本に住んで仕事をしている、あるフィリピン人からDさんへの依頼で、姪っ子に日本で仕事を手伝ってもらいたいから、日本語を教えてほしいとのこと。これは日本語教育だけでなく、来日のためのビザ取得の代行業務の一環です。

当初の計画では、今年の1月からバコロド市内に日本語学校をオープンして、約20名ぐらいの生徒の先生をするはずだったのが、ほとんど説明もなくズルズルとなし崩し的に延期。結局、しばらく学校は無理だからオンラインで一人だけ、給料は1/4で、となったのが5月の半ば。

まぁ、こちらは教職の経験がないので、実務研修を兼ねてと思って引き受けたものの、これが実に難儀な仕事。というのは、生徒さんがいつ日本に渡航して、どんな仕事をする予定で、いつまでにどの程度の日本語レベルが必要かといった、基本的な情報が全然なし。仕方がないので、こちらから根掘り葉掘り質問しなければなりません。

ところが、Dさんから訊いた話と、生徒さんの言う内容が食い違う。Dさんからは、8月末、つまり3ヶ月で150時間の授業を終えたいとの要望が、生徒さんはドタキャンの連続。このままでは間に合いませんと生徒さんに言ったら、別に8月じゃなくても構わないと、焦る素振りもありません。

それだけでなく、他の生徒さんも増やしたいみたいなことを、断片的に言ってくるDさん。でもフォローの情報は皆無。その話が無くなったのか、継続で検討中なのか、途中経過がまったくありません。もちろんメインの日本語学校オープンの見通しも分からないまま。8月に入って、いよいよスケジュール的にヤバいとなって「このままでは先生の仕事を続けるのは無理です。」とメッセージしたら二日遅れの返事で「身内が入院してしまい、なかなか連絡ができません」とのこと。

それはたいへん気の毒なことなんですが、それを理由にマネージメントを放棄されては、現場にいる身としては堪ったものではありません。そんなことがあるなら、せめてすぐに教えてほしかった。

この状況に追い討ちをかけるように、相変わらずモチベーションが超低空飛行の生徒さん。週に14時間の予定が、ドタキャンしまくりで、最後の方は週にたった3時間しか授業ができず。また、まったく平仮名を覚えてくれないので、毎回、教科書にローマ字の振り仮名を振って、英訳まで追加で授業素材準備。これだけで授業1回分で2時間はかかってしまう。そして開始直前の30分前とかに「今日は外食するから休みます」「今日は疲れたので無理です」みたいなメッセージが来ると、心底ガッカリします。

トドメが、生徒さん宅の環境の悪さ。とにかくうるさくて、生徒さんの声が聴き取れず中断もしばしば。というのは、なぜか授業の時間になると決まって、同居している叔母さんが部屋の掃除を始める。それもかなり大掃除に近いような感じでドッタンバッタン。さらに、隣室で他の誰かが大音量でテレビを見てるし、小さな子供たちが絶叫してる。とても集中して授業ができる環境ではありません。

せめて授業の間だけでも静かにするように頼めないの?と、生徒さんに訊いても、どうやら親戚宅に居候しているような身分らしく「ごめんなさん、でもそんなこと頼めないです」。よ〜く考えたら、フィリピンから外国に出稼ぎにいくような人って、この生徒さんに限らず、大家族で狭くて劣悪な環境に住み、学習能力も決して高くないことが多いんでしょうね。

ということで、先が見えず毎日ストレスだけが溜まっていくのでは、わざわざフィリピンの田舎に移住した意味がなくなってしまうので、今回の仕事は辞めることにしました。まぁ安いとは言え、一応3ヶ月は給与生活でをして、久しぶりに「次の給料日が待ち遠しい」感覚を味わえたので、良い経験ができたと思うことにします。



2025年7月1日火曜日

7名死亡の大事故発生


出典:Negros Now Daily

 7月の投稿は、たいへん痛ましく残念な話からになってしまいました。

先週の金曜日(2025年6月27日)、我が街シライの市役所職員を乗せた車が横転し、7名が死亡19名が負傷するという、私が知る限り、シライ史上最悪の交通事故が発生。事故現場は、市役所から山間部へ通じる幹線道路で、山の中腹とは言え見通しの良くそれほどの急坂でもない場所。しかも晴れた午前中なので、最初に聞いた時は「なぜ?」というのが率直な感想でした。

第一報では、トラック絡みの事故とのことで、てっきり市の職員はマイクロバスに乗っていて、猛スピードのトラックと正面衝突でもしたのかと想像しました。ところが実際は、職員が乗っていたのがトラック。しかも本来、人が乗ってはいけない荷台に、30名近い人が立ったまま乗車していたらしい。さらに運の悪いことに、途中でブレーキが効かなくなり、コントロールを失って横転。

おそらく、よほどのスピードが出ていたんでしょうね。事故直後に報道された写真を見ると、亡くなった方々は、道路に叩きつけられたように横たわり、ムシロの代わりにバナナの葉が被せられていました。

まず、これだけの大人数をトラックの荷台に乗せて山道を走るなんて、日本では考えられない状況ですが、フィリピンではよくある話なんですよ。一般的に交通安全への意識が低すぎる。例えば、軽トラや中型トラックの荷台に人を乗せて走るなんて日常茶飯事。さらに驚くのは、バイクに家族4〜5人で乗ってたりする。これがサイドカータイプのトライシクルじゃなくて普通の二輪。お父さんが運転して、前に4〜5歳ぐらいの子供、後ろには赤ちゃんを抱いたお母さん、みたいな要領で。

こんな危険運転が普通なので、いつも「これは事故ったら大惨事やろなぁ」という思いでした。まさにその危惧が現実になってしまったわけです。

なぜ平日の昼間に、市の職員が大挙して山間部へ向かっていたかと言うと、これは定期的に行われている、市が主催の植林事業の一環。フィリピンというと、どこも緑豊かで、熱帯雨林に覆われているイメージですが、実は7〜8割、下手すると9割が伐採されてしまい、危機的な森林破壊が進行してるのが実態。このため山の保水力が低下して、土砂崩れなどの災害が多発。海では、かつて沿岸部に広がっていたマングローブの森も同じ状況になっています。

「アジアの病人」と揶揄されていた1980〜90年代を経て、今世紀に入った頃から経済成長著しいフィリピン。さすがに懐に余裕が出てくると、これまで放ったらかしていた環境破壊にも目が向くようになったのか、2000年代になってからは、あちこちで植林して緑を取り戻そうという機運が盛り上がってきました。

ここネグロス島のシライでも、一時期日本のNGOが協力もあって、今では市役所独自で植林運動を行なっています。まぁ元はと言えば、高度経済成長時代に日本への輸出用に樹木を切りまくったのが発端なので、ちょっと遅すぎる罪滅ぼしみたいなものですが。

そのような、より良きフィリピンの将来を作ろうという活動の途中で、こんな事故が起こるとは、まったく悲しい限り。目的は何であれ危ないことを続けてたら、いずれ事故になるのは、単に確率の問題でしかなかった。

さて、日本人的発想ならば、これから事故の責任追求が始まるところ。市役所の管轄部署の部課長や、場合によっては市長まで首が飛んでも、まったく不思議ではない。ところがフィリピンの場合は、そうはならないでしょうね。トラックの運転手には何らかの刑事罰があるかも知れませんが、役人が責任を感じて辞任するなんて光景は、下はバランガイ(町内会)から上は国政に至るまで、少なくとも私は見たことがありません。

おそらく被害者やその遺族への補償も微々たるもので、そもそも保険に入っていたかも疑わしい。ちなみに家内の弟、つまり義弟は市役所の職員で部長クラスの管理職。直接知っている方が亡くなっているそうです。

細かいことに拘らない大らかさは、この国に暮らす上での大きな魅力とは言え、人命にかかわる事へのいい加減さ、雑なところだけは何とかならないものかと思いますね。差し当たっては、息子に「友達に誘われても、トラックの荷台に乗ったりするなよ」と諭すことぐらいしかできませんけど。