2015年1月30日金曜日

シーフード・パラダイス

フィリピンで美味しい食べ物は数あれど、やはり魚介類の新鮮さは素晴らしい。周囲を海に囲まれた島嶼国家ということでは、日本とまったく同じ環境。近所の公設市場では、その日に水揚げされた魚やカニなどがいつでも格安で手に入ります。

それだけではなく、市場まで行かなくても2〜3日おきに、バケツに獲れたての魚介類を入れて、家の前まで行商の魚屋さんが来てくれる。一回の購入額はせいぜい500円程度ですが、魚でもカニでも軽く1キロは買えます。



我が家の魚料理の定番、ムニエル


いつもカニを売りに来るオジさん
お名前が「Mr. Bimbo」確かに金持ちには見えませんが...。


日本ではスーパーの切り身ばっかり使っていたので、自分で魚をさばくようになったのは、フィリピンに移住してからです。とは言っても慣れないもので、我ながら嫌になるぐらい下手っくそだし、包丁はナマクラ。3枚に下ろしても「切り身」というより「魚肉の残骸」になってしまうこともしばしば。

こちらでは刺身で食べることは一般的ではなく、信頼できる日本食レストランでない限り、家庭ではまず絶対に魚の生食はしません。やっぱり寄生虫とか怖いですからね。新鮮な魚があるだけに残念なんですが、お陰で少々見てくれが悪い切り身でも、煮たり焼いたりしてしまえば、何とか料理らしくはなります。



魚とキャベツの胡麻油蒸し


一番よく作る魚料理は、ムニエルと、電子レンジでかんたんにできる白身魚の胡麻油蒸し。家内が料理すると酢醤油煮込みのアドボか、野菜と煮込むフィリピン料理の「ラスワ」。3枚に下ろすような面倒なことはしてくれないので、お頭付きのぶつ切りで、そのまま鍋の中。美味しいのですが、食べにくくてしょうがない。まぁ、魚料理とはそういうもので、私が日本のスーパー食材に慣れすぎてるだけなんでしょうけど。

カニが手に入った日は、シンプルに茹でてワイルドに素手でいただきます。でもカニフォークが欲しいなぁ。エビならピラフやエビフライ。家内の誕生日にエビを入れたシーフード・ピラフ作ったら親戚に評判がよくて、それからパーティには欠かせないアイテムになりました。




それにしても、もっとよく切れる出刃包丁が欲しいです。今度、プロ用の調理道具の店を見に行きましょうかね。


2015年1月28日水曜日

クリームシチューは日本料理

この半年、夕食作りがほぼルーティーン化してきました。作り始めた当初の目的が、日本で普通に食べていた料理の再現。日本で中華とか洋食とか呼ばれるものは、だいたい同じ食材が手に入るのでほとんど作れます。しかしよくあるのが、作ってみてフィリピン人のお客さんに食べてもらったら、日本オリジナルだったという料理。

移住する前から、カレーやオムライス、スパゲティ・ナポリタンは、日本独特の料理だと知ってました。ご飯にケチャップかけて炒めるだけでもかなり驚かれるのに、さらにそれを卵で包む(しかも慣れないと相当難しい)なんてのは、フィリピンでは見たことない...となるようです。

先日、この「日本オリジナル洋食」の系譜に、クリームシチューも入っていたと知りました。トマトソースをベースに作るビーフシチューはあるので、てっきりクリームシチューもポピュラーなのかと。

移住前、特に冬場はよく家で食べていたクリームシチュー。日本ではカレーと同様、固形のルーが市販されていて手軽に作れますが、こちらで身近なスーパーで手に入るのは、日本から輸入されたカレーだけ。ホワイトソースから何とかしなければなりません。
しかしスーパーの陳列棚をよく見ると、スパゲティ・カルボナーラ用のソースのレトルト食品が売られていたので、ちょっと手抜きをしてこれを使うことに。

カレーと同じ要領で、肉と野菜をよく煮込んでから、カルボナーラソースと卵黄、牛乳、小麦粉少々をよく混ぜて鍋に投入。バターを入れてもいいんですが、こちらのは変に甘いので今回はやめときました。

出来上がったのは、あの懐かしい食べ慣れた味。家内も息子も美味しいと言ってたくさん食べてくれましたが、家内いわく「これはフィリピンにないよ」とのこと。ウィッキペディアで調べてみたら、確かにシチューに牛乳入れて小麦粉でスープにトロミを出すのは、日本だけらしい。

家内が日本に来た時、食材の数とメニューの豊富さに驚いていましたが、日本人って工業製品だけでなく、食べることに関しても好奇心が旺盛で研究熱心な国民なんですね。日本を離れてから日々それを感じています。


たくさん作るので翌日の昼食もクリームシチュー
変化をつけるために、スパゲティにかけて食べました


2015年1月26日月曜日

神父とシスターの恋



お正月に家内と出かけた隣島のパナイ。用事が済んで州都イロイロのショッピングモールで買い物をしている時、家内が昔の上司という人とパッタリと出会いました。大学出てすぐぐらいに勤めていた場所のことなので、もう30年近く前のことになります。

見た感じ初老の上品なご婦人といった雰囲気で、きれいな英語でご挨拶。家内に「あなたは変わらないわねぇ。昔と一緒。私はすっかりおばあちゃんになっちゃたけど。」と、とても懐かしげに微笑んでいました。三人いるお子さんはすべて独立し、一人は医師になって豊かな暮らしをしているとのこと。

その後、モールの中の点心のレストランで食事してる時、家内が「人目を憚る」ような風情で小声で言うには、「あの人は、昔はシスター(修道女)だったのよ」
え、シスターなのになんで子供がいるの?

夫は元神父で、イロイロを揺るがす一大スキャンダルだったらしい。詳しいことは分かりませんが、教会か修道院かで知り合い、道ならぬ恋に落ちてしまったんでしょうね。この二人は職を投げ打って正式に結婚をしたそうです。ドラマみたいですね。すごいなぁ。

日本語で、カトリックでは神父、プロテスタントでは牧師と呼ばれるキリスト教の聖職。牧師は妻帯できますが、神父は生涯不犯。もちろん修道士、修道女も同じでこれは世界共通の戒律。今も昔も破戒が発覚すれば大騒ぎになる話です。

しかし家内によると、どうもフィリピンでは必ずしもそうではない。さすがに大ぴらに結婚生活はしないけれど、子供がいる神父の話はたまに耳にする。これは、スペインの植民地になって、スペイン人神父がやってきた400年前からの悪しき伝統で、先日紹介したイメルダ・マルコスの伝記によると、その祖母も実は聖職者の娘で、当時は表向き許されないはずの神父の妻帯が、半ば公然と行われていたようです。

その流れがあるのかどうか、イロイロで会った元修道女の人は、そんな過去があるとは想像もできない、知的で明るい印象でした。この辺りが、日本人の私には窺い知れない、フィリピン・カトリックの影の一面なのかも知れません。


2015年1月24日土曜日

実録 イメルダ・マルコス



日本にいた時に買って、ずっと未読のままになっていた本をようやく読了しました。フィリピン人記者カルメン・ナバロ・ペドロサによって書かれたイメルダ・マルコスの伝記「実録 イメルダ・マルコス」(発行 株式会社めこん/原題 The Untold Story of Imelda Marcos)。

フィリピンで、イメルダやその夫でかつての大統領だったフェルディナンド・マルコスの名前を知らない人は、若い層でもいないでしょうが、日本ではどうなんでしょうね? 私が大学を卒業して新入社員だった1986年の「エドサ革命」で失脚し、夫と共にアメリカに亡命した一連の騒動は、まるで映画でも見ているようで、日本でも詳しく報道されました。

20年にも渡り、事実上の独裁政権でフィリピンを支配し、戒厳令を出しっ放しにして言論・報道の自由も著しく制限。政変後、フィリピン国民の間では、飼い犬にオスならば「マルコス」、メスならば「イメルダ」と名付けることが流行ったそうです。因みに家内の実家で飼っていた雄犬もマルコスの愛称を意味する「マッコイ」でした。

子供っぽい話ですが、大統領就任直後はともかく、政権の最後の頃はよほど嫌われてんでしょうね。亡命後のマラカニアン宮殿(大統領公邸)から見つかった、イメルダが買い集めた1000足を超える靴の話は、今でも語り草。「イメルダの靴」といえば、フィリピンでは強欲の代名詞になってしまいました。

さてこの本は、イメルダの祖母の時代から始まって、幼くして母を亡くし、貧困や腹違いの姉との不和などを経て、大統領夫人となるまでを当時を知る人たちの証言を元に書き上げた労作です。外国人の私からすると、戦前のフィリピンの暮らしぶりや、イメルダが住んだレイテの州都タクロバン、首都マニラの昔の佇まいを知るための貴重な一冊となりました。

何よりも、まだマルコスが大統領になったばかりの1969年に、暴露とまではいかないにせよ、権力者の過去を描き切った著者ペドロサ氏の度胸は、賞賛に価すると思います。案の定、マルコスとイメルダの逆鱗に触れたようで、著書は発禁扱いになりペドロサ氏もアメリカに移住し、その後の消息は分からないとのこと。

それにしても若いころのイメルダの美貌と歌声は、並外れていたらしい。フィリピンではルックスの良さと歌や踊りの芸が達者な人が選挙に勝つというのは、現在のバランガイ(町内会みたいなフィリピンの最小行政単位)の選挙でも変わってませんが、まさにそれを国家単位で証明したようなもの。

マルコス自身をして、妻イメルダのおかげで少なくとも100万票は上乗せしたと言わしめるほどの影響力で、大統領就任演説にはマルコスの話を聞くためではなく、イメルダを見るために群衆が集まったと言われています。夫マルコスの死後、フィリピンに戻ったイメルダは、なんと80代の半ばの今でも現役の下院議員。ものすごい人ですね。


2015年1月22日木曜日

全焼

地震・雷・台風...。移住して2年足らずなのに、これ全部フィリピンで経験してしまいました。台風はある程度は覚悟してましたが、予想を遥かに上回る「スーパー・タイフーン」が来てしまうし、隣島とは言え死者が出るほどの地震はあったし、雷はまさかの自宅直撃。

さらに追い討ちをかけるのが火事。
多いんですよ。まず、電気の配線に問題が多い。自宅の工事の時に、ドリルや溶接機用の仮設配線を見ると、ほんとに大丈夫かいな?というような細いコードを使ってるし、雨ざらしの場所でも軽く絶縁テープ巻いただけ。これは怖かった。

さすがにそれなりに信用のおける大工さんや電気屋さんを集めて、こっちの感覚ではかなりいい給料を払ったお陰で、家の中はちゃんと配線してくれました。しかし雑な作りの家だと相当エエ加減な仕事が目に付きます。トタン屋根にベニヤの壁材で、恐らく素人が建てたような家は、場所によってはかなり多くて、そういうのに限って建て込んでいる。

雨漏りもするし、ネズミも住んでいるので囓られたりもするでしょう。しかも、安物のコードに無茶なタコ足配線する人が多いので、これでは火事にならない方が不思議ですね。

一昨日の深夜、消防車のサイレンがずいぶん長いこと鳴り響いていました。また火事か。ちょっと規模がデカそうな...と思っていたら、案の定、シライ市内の目抜通りに面した、商業ビルの一つが全焼してました。ここから少し離れたスーパーマーケットの2階が、つい数か月前に焼けたばかりなのに。

出火が深夜で、夜間は人のいない場所だったので怪我人はなかったとのこと。原因は分かりません。1階にあった、わりと大きな雑貨屋さんは完全に燃え尽きてました。これでは、当分店は開けられないでしょうね。




経営者やビルのオーナーもたいへんでしょうけど、従業員が可哀想です。おそらく休業補償など一切ないので、店が閉まればその日から収入ゼロ。こういう状況を見ると、フィリピンで庶民として生活するのは、過酷なんだなぁと思ってしまいます。

因みに我が家は、完成してすぐ保険に入りました。


2015年1月20日火曜日

アニュアル・レポート

直訳すれば「年次報告」。フィリピンで永住ビザを取得した外国人に、毎年課せられた入国管理局への報告義務です。私の場合、フィリピン国籍の家内の配偶者という資格で滞在しているので、この内容に変化がないかどうか報告せよ、ということらしい。

報告となっていますが、そんなに厳格なものではなく、決まった書式の書類を提出して手数料払えばそれでおしまい。ビザを取得するまでは、セブ島にあるオフィスまで何度も出向いての手続きが必要でしたが、今年からは車で30分ほどの州都バコロドで提出すれば大丈夫。これは楽チン...のはずだったんですが。


バコロド市内の入国管理局オフィス


家内に書類を揃えてもらって、先週一緒に入国管理局に行ったら、いつの間にやら手続きのやり方が変わったました。一昨年、去年と同じパターン。とにかくフィリピンの役所はこれが多いんですよ。頻繁に手順や提出書類の内容が変わるし、厄介なのはそれを全然周知徹底してくれないので、役所の窓口に行くまで分からない。ホームページから書式をダウンロードできる仕組みを作ってるんだから、どこかにちょっと書いておけばいいのに。

フェイスブックに、フィリピン入国管理局のページ(英語)が開設されていますが、もちろんここでもそんな大事なことを書いてくれないので、コメントにはフィリピン在住の外国人の罵声が飛び交っているような状況です。

日本政府のフィリピン人に対する閉鎖性を考えると、これでもまだマシかなと思うのですが、国策として海外からの退職者を積極的に受け入れようとしているにしては、ちょっとこの対応は解せません。

まぁ、私の場合は時間が自由になるので、何度出直しても構わないし、「住まわせて貰っている」身分なので、窓口でキレたりすることもないですが、時間も経費も限られた状況での業務滞在だったりすると、相当なストレスになるでしょうね。飛行機に乗って来ないといけないような遠隔地の場合、往復の運賃と丸1日の時間が無駄になってしまうわけですから。(実際、セブの窓口ではキレてる人をよく見ました)

海外資本による工場や事業場の誘致も、おそらくこういう効率の悪さが障壁になっているのは容易に想像できます。せっかく英語が公用語で、日本に比べると何かと利便性が高い国のはずなのに、もったいないことですね。


市街地の真ん中とは思えない静かな中庭


お湯が戻った

昨年のクリスマス前、自宅近くの落雷で壊れた電気製品が、今日やっと全部復旧しました。ちょうど1ヶ月かかってしまいましたね。ダメになったのは、給湯器2台、電話1台、照明器具3台、そして電気メーター。

なんで1ヶ月も経ってしまったかというと...。まず、個別の器具が悪いのか、途中で断線したのかが分からなかったので、電気工事屋さんに見てもらいたかったのですが、クリスマス休暇にかかってしまって、業者に連絡が取れなかったため。何度も電話したりメッセージ送ったりしてるんだから、返事ぐらいしてくれたいいのに。

大晦日の前日に、ようやくやって来た電気屋のサルディー。給湯器の1台は壊れていて、もう一台は電圧が下がっているから使えなくなっているとの見立て。その他はやっぱり器具がイカれた様子。

結局、そのまま正月に突入してしまい、楽しみにしていた大晦日のお風呂は、来年に持ち越しとなってしまいました。でも大晦日から年明け大停電だったので、どっちにしてもダメだったんですけどね。

南国フィリピンで、お湯のシャワーは必需品とは言えません。とは言っても年末年始のこの時期、さすがに赤道に近いこの国でも、朝晩の水シャワーは日本人にとっては少々厳しい。お湯だったら楽しいのに、震えながらの水浴びはとても億劫で、少し夜遅くになると面倒になってそのまま寝てしまうことも何度かありました。

なんとなくバタバタした年始。サルディーに取り外してもらった給湯器を、購入元の建材店に持って行ったのが、仕事始めの月曜日1月5日。まだ保証期間中でも、やっぱり落雷が原因では無料修理はしてくれませんね。その店で教えてもらったメーカーの修理店に運んで、見積もり〜部品発注〜修理〜取り付けでまた1週間。ようやく1台目が使えるようになったのが、先週でした。請求が1500ペソ(約3500円)


やっぱり熱いシャワーは最高...。


その修理屋さんに2台目も見てもらったところ、電圧の問題ではなくやっぱりこちらも壊れてるとのこと。サルディーの嘘つき! その上これは修理しても治るかどうかわからないし、新しいのを買うと同じぐらい費用がかかることが発覚。仕方なしに新品になってしまいました。6300ペソ(約13000円)。痛たた。

電話も照明も買い替えて、自分で取り付けて、2台目の給湯器の取り付けが終わったのが、今日の午前中。お疲れさんです。しかしぶっ壊れた電気メーターは、電力会社はちっとも修理しに来ません。電気代請求できないぞ! こっちはもうこのまま、永久に来なくてもいいです。


2015年1月16日金曜日

パパさま到着

この1週間ほどネット接続がとても不安定。繋がりはするものの、頻繁にオフラインになってしまい、フェイスブックへの書き込みも途中で何度も中断するために、とてもイライラさせられてます。ページによっては完全に不通になっているものも。
運悪く、この「ブロガー」を全然表示してくれなかったので、ほぼ1週間更新が滞ってしまいました。今夜も相変わらずのネット不調ですが、なぜか突然アクセス再開。

今フィリピンではサント・パパ(パパさま)こと、ローマ法王フランシスコの滞在中です。日本でも報道されていると思いますが、昨日の木曜日夕刻の飛行機で前の訪問地スリランカからやって来られました。日本でのお名前は「フランシスコ」ですが、こちらでは「フランシス」と呼ばれていて、私のフィリピンでの通称と同じです。
パパさまの名前は、小鳥に説教したことで知られる「アッシジの聖フランシスコ」に由来、私のは日本人にはお馴染みの「聖フランシスコ・ザビエル」から頂きました。

法王がフィリピンに来られるのは、先々代のヨハネ・パウロ二世以来、20年ぶり。国民の大多数がカトリック信徒で占められるこの国では、訪問が決まって以来テレビでもショッピングモールのポスターでも歓迎キャンペーンが延々と続いていました。何となくW杯とかオリンピック前の雰囲気に、似てるかもしれません。


近所のショッピングモール内のポスター


到着当日の昨日など、朝からフィリピン・ローカルのテレビ局では、どのチャンネルも法王関係の報道番組ばかり。これは日本の選挙の開票速報に似た雰囲気かも。中でも圧巻だったのは、法王が飛行機から降りて、出迎えのアキノ大統領に伴われて、たくさんの人の挨拶を受ける様子を、一切の実況音声もCMもなしに流し続けている番組。すごい。

前日には、その大統領が国民へのスピーチで、法王歓迎に協力を要請するという念の入れようで、日本でもし総理大臣が同じようなことしたら、政教分離を叫ぶ人たちが騒いでたいへんなことになりそうです。まぁ事実上カトリックが国教と言えるフィリピンなので、許されることなんでしょう。

前回のヨハネ・パウロ二世の時は、ここネグロス島にも法王は来られたそうですが、今回は首都マニラと、昨年の台風で大被害を受けたレイテ島のタクロバンだけ。なので私たちの住むシライ市は、いつもと変わらず静かなものです。しかしマニラでは交通規制がたいへんで、日本大使館からは、事前に注意を呼びかけるメールが来てました。移動が難しくなるだけでなく、首都圏は法王滞在中は臨時休日なので、仕事にも何もならないだろうなぁ。


2015年1月10日土曜日

旅するマリアさま



今日夕刻、マリアさまが数人のご近所さんに付き添われて、我が家にお越しになりました。もちろん聖母マリアが現れた奇蹟ではなくて、陶器で作られた聖マリア像。フィリピンの習慣らしいのですが、篤志家のカトリック信徒がマリア像を購入して、隣近所の家を巡回するように、1週間限定で各家庭に安置します。

家内によると、私たちの住むビレッジ(宅地)は広くて、3体の聖マリア像があるとのことで、約1年おきぐらいでまた回って来られるそうです。日本でも聖マリア像の巡回は聞いたことがありますが、信徒の家庭ではなく、教会間の移動だけだったと思います。

恥ずかしながら、ロクに勉強もせず、いきなりフィリピンで洗礼を受けてしまったエエ加減カトリックの私は、ちゃんとした知識を持ち合わせていないので、もし間違っていたらどなたか教えてください。

ともかく、日本でもフィリピンでも話に聞いただけで、実際に見るのは今日が初めて。約束の時間に30分ほど遅れて、ガラスの扉がついた木製のケースに入ったマリアさまが、近所に住む初老の男性に運ばれてやって来られました。思ったよりかなり小さいですね。



我が家には作り付けの祭壇があって、既にお一人マリアさまがおられます。どうやって安置するのか黙って見てましたが、祭壇の下のスペースに無造作な感じで置かれました。ツイン・マリア状態。こんなんでいいのかいな?

しかし、マリアさまの付き添いのご近所さんも家内も納得したようで、簡単な挨拶を交わしたあと、みんなでロザリオの祈りを唱えました。英語でしたが、意味は世界共通。私も日本の教会では慣れ親しんでいます。

恵みあふれる聖マリア
主はあなたとともにおられます
主はあなたを選び祝福し
あなたの子イエズスも祝福されました
神の母、聖マリア
罪深い私たちのために
今も、死を迎える時も、祈ってください
アーメン

日本のカトリック教会でもミサの前に早めに集まった信徒さんが、繰り返しこの祈りを捧げます。

祈りが終わると、フィリピンらしくみんなでミリエンダ(おやつ)。家内が近くのカフェで買ってきたお菓子に、コーヒー、紅茶で小一時間ほどおしゃべりをしました。大抵こういう場では、必ず家族や親戚の誰かが日本人と結婚したとか、日本の会社で働いていたという話題になります。



さて、これから1週間。この時ぐらいは真面目に毎日お祈りを捧げないと。まずは、明日の日曜日、遅れないようミサに与りましょう。




2015年1月9日金曜日

お役所カトリック

来週には、ここフィリピンにローマ法王フランシスコが来られます。人口の9割超がカトリック信徒で、アジアでは最大規模を誇るフィリピンでは、法王は「サント・パパ」と敬意と親しみを込めて呼ばれ、今回の訪問期間1月15日〜19日が土日を挟んでマニラ首都圏では特別休日のなるほど。かなりの混雑や混乱が予想されるため、日本大使館から注意喚起のメールが来ました。

カトリック信仰は、フィリピン人の日常生活にも深く根付いていて、新年とか誰かの誕生日で、直接宗教とは関係ないパーティでも、食事前には必ず神への祈りが捧げられます。私も含めて信徒である我が家でも、自宅に小さな祭壇を設けて聖母マリア像を安置。

事程左様にフィリピンでは、カトリック教会がたくさんの場面で人生に関係してきます。昨年末、家内の友人の家族に不幸があった時、その友達に頼まれて最寄り教会のサンディエゴ大聖堂の受付事務所に行ってきました。要件は葬式の申し込み。

ミサに与るために教会の中には何度も入ってますが、事務所は初めて。ちょっと驚いたのは、どう見ても日本の市役所の受付窓口みたいだったこと。掲げられている案内板も、洗礼証明書、結婚証明書、結婚許可など、お役所っぽい。




こちらでは、生まれてすぐの幼児洗礼式、結婚式、葬式、全部教会で行います。役所に出生届けを出してなくても、洗礼証明があれば大丈夫というほどお国柄。どうやら役所よりも権威が上らしい。

そのせいか、受付担当者の態度たるや、なんとも偉そうです。家内と現地の方言でやりとりしていて、車の運転で家内のお供の私は聞いているだけ。会話の内容は分かりませんが、完全に上から目線で物を言っているのは理解できました。

実は友達に頼まれたというのも、前日窓口に来て葬式の依頼に来た友達の親戚が、余りの尊大な受け答えに怒ってしまい、依頼せずに帰っちゃったから。なんだかなぁ。
同じフィリピン人を怒らせるって、よほど失礼なこと言ったんでしょうね。

家内と結婚する時の手続きで、マニラにある日本大使館で、たいがい無礼な態度を取られて頭に来た覚えがありますが、宗教関係機関でもなまじ権力を持つと、末端の構成員まで勘違いしてこうなっちゃうんですね。

信徒一人一人の信仰があるから、カトリックが成り立っているのに、これではイカンやろ。最近ジワジワですが、イグレシオ・ニ・キリストやその他のプロテスタント教会が、フィリピンで信徒数を増やしているのも、何となく理由が分かった気がしました。


2015年1月8日木曜日

華僑系に勝てない訳



先月、自宅直近の落雷で電気メーターがぶっ壊れて、もう3週間近く経過します。クリスマス休みに掛かってしまったので、修理が遅れるのはある程度覚悟してましたが、ちょっと放ったらかしすぎですね。

フィリピンでも仕事始めだった月曜日の1月5日に、電力会社に電話したらメーターの機会を発注したところ。電圧が少し下がっているけど、日常生活には支障がないし、メーターがないので修理が終わるまで電気代がタダなので、まぁ別に急がなくてもいいか...。

一般にフィリピン人の仕事振り、特に公共サービスの類いで、その傾向が強いのが、時間を守れないこと。もちろん個人差はあって、フィリピン人全員がそうではないです。しかし、これは何故なんでしょうか? 家を建てた経験から言うと、能力や責任感の問題ではないと思います。

サービス精神は旺盛で、自分の判断で要求以上のことをしてくれる人もいるし、こちらが困っていると親身になって考えてくれる。ところが話が未来のことになると、とたんに頼りなくなる。来週の予定とか組んでも簡単に無視するし、直前に何度も確認しないと仕事が進まない。

例えば「来週までに、◯◯はできるか?」と訊くと「大丈夫です、ボス!」と返事はいいけど、これは相手を喜ばせるために(または悲しませないために)深く考えずに答えてることが多いので、要注意です。

結果として約束を守れないとしても、約束した時は本気でやるつもりだったのは嘘ではないので、これを人前で罵倒したりすると、とんでもない恨みを買ってしまうことも。できるかどうか分からないことなら、ちゃんとそれを説明するのが常識だと思いますが、フィリピン人の場合、にべもなく「できません」と言う方が冷たいと取られるらしい。

そこへ行くと、華僑系の人たちには安心して仕事が頼める気がします。できないことはできないとはっきり言うし、価格交渉もシビア。日程は守る代わりに代金の取り立ても厳しい。国際的なビジネスの感覚では当たり前で、納期も支払い期日も守れない人たちと競争したら、これはボロ勝ちですね。

実際、フィリピンや他の東南アジア諸国では、華僑系が経済を牛耳っていることが多く、マレーシアでは華僑への極端な富の集中を防ぐために、かつてのマハティール首相が民族の人口構成(マレー系・中国系・インド系)に合わせて、学校への入学や企業への就職人数比率を規制したのは有名な話。

これだけを聞くと、なんだか華僑系の人たちが不公正に金儲けをしてるような印象を与えるし、政情不安や災害の時は真っ先に華僑の家が焼き討ちにあったりするそうですが、ちょっとそれは華僑系に対して酷ではないか? 実際にフィリピンに住んでみると、そういう気がしてきます。

聖書の教えに「先のことを思い悩むな」というのがあります。フィリピン人には、この言葉を実践してる人が多い。でも、ビジネスで華僑系の人たちと対等に渡り合い、生活を良くしたいなら、もうちょっと未来のことに頭を悩ませた方がいいと思います。今の暮らしが仕事が大変だから、子供を学校に行かせず働かせる...ここからまず何とかしないと。


2015年1月7日水曜日

難航メイド探し



初代住み込みメイドをクビにして2ヶ月。何人かの知合い、友達、親戚に「誰かいいメイドさんいませんか?」と声を掛けてますが、見つかりませんね〜。今日の食事に事欠く人はいっぱいいて、人通りの多い場所に「メイド募集」の張り紙でもすれば、あっと言う間に人は集まるんでしょうけど、それこそどんな人が来てしまうか分かりません。

やっぱり信用できる人物からの紹介でないと、最悪の場合、犯罪者を家に入れてしまう可能性もある。まぁそれはフィリピンでも極端な話としても、ややこしい人だと給料の前借りばかり頼んできたり、勝手に自分の子供を家に入れて、ご飯を食べさせたり...。昔聞いた話では、雇っているメイドさんが家族持ちの他の使用人の子を妊娠してしまい、二人とも辞めさせることになって困った、なんてことも。本当にいろいろあるんですよ。

つい数日前も、叔父さんの紹介で子持ちの24歳の女性が働きたいと言ってきたものの、自分からは来ずに家に呼びつけようとした態度に家内が腹を立てて、顔を合わせる前に断ってしまいました。周りを見ると、メイドさんが急に辞めてしまったとか、仕事振りが悪いので辞めさせたとかいう話は実に多い。そして後釜見つけるのにみんな苦労してるようです。

これだけメイドさんを雇うのが一般的なのに、なぜ紹介業者がいないんでしょうか? シライ市がいくら田舎でも、十分商売になると思うけどなぁ。海外出稼ぎならばエージェントはいるのに。

日本で海外からの看護師やメイドさんが受け入れることになると、このマッチングが社会問題になるかも知れません。ある程度の人数を確保しようとすると、どうしても人材の質にバラつきが出るもの。全員が日本語完璧で、専門知識が高くて、労働意欲満々はあり得ない。

いきなり日本向けではなくても、現地駐在の日本人社員の家族を対象に、メイド派遣業を考えてる日本人投資家がいると最近耳にしました。これは確実に需要があると思います。企業勤めの頃、メイドさんを使いこなせなくて、奥さんがノイローゼになったしまったというのは、よく聞きました。日本人が顧客ならば、相場より高い給与も期待できるので、それなりの人も集められるでしょうね。


2015年1月6日火曜日

旧都イロイロ訪問 その2



前回に引き続き、イロイロ市訪問の2回目の投稿です。
今回の宿泊は、出来たばかりの新しいホテル、その名もインジャップ・タワー・ホテル。インジャップというのはオーナーの渾名なんだそうです。それにしてもエラい名前付けちゃいましたね。日本人が泊まることもあるだろうに、そういうつもりではないにしろ、ジャップ(日本人の蔑称)は無いやろと思います。誰も教えなかったのかなぁ?

21階建てのビルで、それほど高いとは思わないけれど、周囲には高層建築が皆無なのですごく目立ちます。何でも西ビサヤ地方で一番高いらしい。言われてみれば、マニラとセブ以外で高層ビルってあんまり見ないですね。ネグロス島のバコロドでも最近大きなビルが建ち始めましたが、せいぜい10階建てぐらいか?




朝食は最上階のレストラン。チェックインの時無料のクーポンを貰ってそれを使いました。景色は最高なのにその朝ご飯が貧相なこと。目玉焼き一個に小さなソーセージが二つ、手のひらの半分にも満たない極小トーストが二枚だけでした。メニュー見ると泊まり客じゃないと190ペソ。シライ市ならば、大人一人満腹になる料理の値段。8割以上が場所代ですね。



その日は日曜日だったので、朝食の後ミサへ行くことにしました。一番近い教会をホテルで訊くと、向かいのショッピングモール、SMシティでミサがあるとのこと。へぇ〜、モール内にチャペルでもあるんかいな?と思ったら...。


開店時間が10時なのに、その1時間前の9時に正面玄関が開いていて、エントランスホール全体が「カセドラル化」してました。これはすごい。仮設とはいえ、ちゃんと祭壇が設けられ、マリアさまの像もある。神父さんはもちろん、聖体拝領をする人たちや聖歌隊まで揃っていて、音響効果も含めて完璧でした。

日曜日に店を解放してミサを行うのは、このイロイロだけではなく、フィリピン全土に展開するSMシティが、どの店舗でもやっている商業戦略。カトリックが人口の9割で、家族でミサに与り、その後買い物に昼ご飯。コロンブスの卵的発想ですね。これなら信徒の動機付けも強くなるし、最初に考えた人は頭いい。
しかし、レストランの前で聖体拝領というのは、なんだか妙な気分。

ミサの後、きっちり経営者の狙いにハマって、買い物して昼ご飯を食べました。朝が「可哀想」だったので、少し早いけど11時前にはお腹がぐぅぐぅ。イロイロ・ローカルで有名なお店「マンダリン」という点心の店に入りました。中華はどこ行ってもハズレが少ないですね。




食後はスターバックスでコーヒー飲んで、なんだかフィリピンにいるのを忘れそうなイロイロ訪問の後半でした。


2015年1月5日月曜日

旧都イロイロ訪問 その1



新年早々の週末、久しぶりに家内と二人だけで隣島パナイに、一泊二日の旅行をしました。息子はお留守番。まだ小学生なので、昼間は義父・義妹と従兄姉たちに来てもらい、夜はメイドさんが泊まり。疎らにしか家が建っていない宅地は、こういう時に物騒で、夜家を空けることができません。
フェイスブックに旅行の計画を書いたら、それを狙って空き巣に入られたりすることもあるとか。これはフィリピンに限らず、最近の日本でもありそうな話ではありますけど。

この旅の目的は、家内の友人の妹さんの婚約パーティ。お相手は同じ近所に住むアメリカ人だそうです。こちらでは結婚式や披露宴は日本並みに盛大ですが、婚約披露パーティというのは初めて出席しました。

場所は私たちの住むネグロス島から、フェリーで1時間ほどの距離にあるパナイ島イロイロ州の州都イロイロ市。人口は40万人足らずで、西ネグロスの州都バコロドより10万人ほど少ない。しかしスペインの侵略以前、このあたり一帯のビサヤ諸島の経済の中心地だった頃の面影があり、バコロドよりずっと洗練されて、人も多い印象があります。
太平洋戦争の頃は、日本陸軍が駐屯してたそうです。




バコロド〜イロイロ間のフェリー ”オーシャンジェット”
往きは天気が良くなくて、結構揺れた。


イロイロ港で最初に目に入る市庁舎。最近建て替えられました。

私が最後にイロイロに来たのは、かれこれ5年前。フィリピンの好景気の影響で、こちらも建築ラッシュですね。道の拡張工事やら新しいショッピングモールの工事やらで、家内ですら知らない場所がいっぱい。

婚約パーティは、これまたごく最近できた宅地内のクラブハウス。宅地の住人のパーティ・スペースで、プールも併設されて「瀟洒」という形容がぴったりくる感じです。私たちの住む宅地にも、プール付きのクラブハウスはありますが、もうちょっと貧相な感じですね。


風が吹くと少し肌寒いくらいでも、年末年始休暇最後なので子供が泳いでました。


今回はパーティと言っても、参加者は2〜30名程度で、ごく近しい人だけだったようです。婚約者のアメリカ人のデビッドくん、お相手のシーラ嬢とは同じ宅地内に住むご近所さん。しかしデビッド側の家族や親戚は誰も参加していないので、ちょっと寂しそうでした。この感じは分かるなぁ〜。国際結婚で相手側の国に住むと、どうしてもこうなりがち。




食事は人数の割にはかなり豪華で、例のレッチョン・バボイ(豚の丸焼き)も出ました。なんだか去年のクリスマス以来、毎日食べすぎてる。




腹ごなしに周囲を少し散歩してみました。超金持ち向けの...というより、中流階級向けなんでしょうか? 建売りがメインのようです。規模もかなり小さめで、分譲だけではなく借家もある。シーラもコンパクトな家を借りていて、パーティの後みんなでちょっと遊びに行きました。



ネグロスにいると、きれいな家に住んでるのは相当な収入のある人ばかりで、中間層が欠落した感じがしますが、イロイロのこの宅地を見る限り、中流階級でもそれなりに快適に暮らせる環境が充実してきて、少しづつかも知れないけれど、フィリピンの生活水準も高位平準化してきた気がします。

次回もイロイロの話を投稿します。


2015年1月2日金曜日

スマトラ沖地震から10年



もう一週間前になりましたが、12月26日であのスマトラ沖地震から10年になります。この時、私と家内は兵庫県尼崎市の実家に住んでいました。家内が日本に来てから7回目のクリスマス。この年に限って、なぜか毎冬使っている石油ファンヒーターが臭くて気持ち悪いと家内が言い出して、使っていなかった石油ストーブを引っ張り出したのを覚えています。

この日、家内が妊娠していることが分かりました。
結婚して2年目ぐらいに子供が欲しくて、不妊治療のために夫婦で産婦人科通いもしましたがダメで、もうすっかり諦めていた頃のこと。後から考えたらファンヒーターの臭いが気になったのは、つわりのせいだったんですね。
体調の変化に家内が気づいて、妊娠チェッカーを駅前ダイエーの薬屋さんに買いに行ったのが、偶然にもこの日でした。

まったく関係ない話ですが、この日は当時でもう還暦を過ぎていた母が、初めてゴルフでホール・イン・ワンを記録。大喜びでゴルフ場から帰った母に、孫ができることを伝えました。

家中が喜びに包まれていた時に、衝撃的なスマトラ沖地震による津波の映像が...。あの時のなんとも複雑な心境は、今でもうまく描写することができません。ある意味、人生で一番幸せな瞬間の記憶に、あの茶色い不気味な津波が街を飲み込む映像が固定されたまま。

そして今年、息子は10歳になります。
あれから10年経ったんですね。私にとっては本当に激動の10年でした。


2015年1月1日木曜日

暗闇の新年


明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

さて美人三姉妹を迎えて、料理を作っていた昨日、大晦日の午後7時前。まさかの停電になってしまいました。去年も12月はこの時間帯の停電が多く、今年も同じ。しかし大晦日当日のしかも夕飯時を狙うとは、そんな殺生な...。

長引かないでくれぇ〜、という願いも空しく、一昨年の台風ヨランダの時を除くと、移住以来の夜間の停電としては最長記録。復旧したのは年が明けてから早朝3時頃でした。せめて夕食終わってからだったらよかったのに。

悪いことは重なるもので、息子が気分が悪いと言い出していきなりの嘔吐。おやつ代わりに食べたマカロニを全部もどしてしまいました。頭痛もするというので、仕方なく早めに寝かせました。う〜〜ん、大晦日だと言うのに可哀想。

食事の方は、時間を少し遅らせて停電の様子を見ましたが、全然復旧の気配がなく結局9時前にロウソクの灯りで遅めの夕食。ロマンチックと言えないこともないのですが、台風のことを思い出してしまい、頑張って作った料理もイマイチ味が分かりませんでした。






その後、午前零時まで何もすることがなく、暗い居間で音楽を聴いているうちに全員うたた寝状態。それでも11時過ぎには起き出すと、外は停電などお構いなく例年通り爆竹やら打ち上げ花火で戦場のような音が響いてます。

ベランダに出ると、方々で花火が打ち上がり電灯が消えてることもあって、とてもきれいな景色でした。零時にはガレージで車のクラクションを鳴らし、みんなでハグ&キス。美人三姉妹に頬にキスされると現金なことに、さっきまでの暗い気分が吹き飛びました。
この頃には息子もだいぶ気分がよくなったようで、起き出してみんなで線香花火。年末というより、夏のキャンプみたいです。



明けて2015年1月1日。
ようやく年の瀬台風の影響が完全になくなり、ほぼ終日快晴に近い爽やかな晴天に恵まれました。昼食にはもう一家族が加わっての新年会パーティ。朝からまたせっせと料理三昧。これがフィリピン暮らしの醍醐味でしょうか?
みんなに喜んで食べてもらって、今年も元気で参りましょう。