2017年6月29日木曜日

パッキャオ・ヤヤダブ・スパゲティ

巨人・大鵬・卵焼き
この言い回しを知っている人も、だんだん少なくなってきたかも知れません。私が小さい頃のことなので、1960〜70年代頃、日本人(特に子供)が誰でも好きなもの、少なくとも積極的に嫌いではないものの代表として挙げられたのが、この三つ。

熱狂的なタイガースファンが多い、関西地方に生まれ育った私としては、多少疑問はあるものの、当時は日本シリーズ9連覇の最中だった読売ジャイアンツ。全国レベルで見れば、まぁ分からなくはありません。横綱の大鵬関もすごい人気でしたね。強いだけでなく男前。卵焼きも、私が小学生の時代には、ご馳走というほどではないけれど、お弁当アイテムとしては不動のポジション。嫌う人は少なかったろうと思います。

時は流れて、今シーズンの巨人は、まさかの13連敗だし、プロ野球全体を見渡しても、かつての長島や王のようなスーパースターは不在。イチローに代表されるような突出したプレーヤーは、みんなメジャーに。相撲も人気がないわけではないけれど、大人から子供までみんながテレビ観戦ということはない。卵焼きに至っては、今の子供たちに「一番好きな食べ物は」と尋ねても、まずその名前は挙がらないと思います。

ところが我がフィリピン。
昔の日本のようなヒーローはまだまだ健在。これは、ようやく日本の高度経済成長に追いついてきたせいなのか、いくらネットが普及しても、まだまだ娯楽が少ないからなのか、確かな理由は分かりません。でも、ほとんど誰もが好き、または大好きと答える存在が、まだかなりあるような気がします。

極端な例がドゥテルテ大統領。故アキノ上院議員以来、約30年ぶりに現れたフィリピン政治の大スター。人権問題や数々の暴言があり、就任から1年が過ぎた今でも、8割を超える支持率はすごい。

そこで私なりに、巨人・大鵬・卵焼きのフィリピン版を考えてみました。まず、スポーツではボクサーのマニー・パッキャオ。これはフィリピン人に聞いてもまず外れていないでしょう。2001年、予定していた選手の故障で急遽上がった世界戦のリングで、見事KO勝ちによりIBFスーパーバンタムを制して2階級王者になった頃から、フィリピン国内だけなく世界のボクシングファンから注目され続けてきたパッキャオ。(その後、6階級制覇)



次に、日本ではあまり知られていませんが、コメディアンヌにして最近では映画やテレビで女優として引っ張りだこの、ヤヤダブことメイン・メンドーサ。有名人のものまねから身を起こしただけあって、親しみやすいキャラクター。しかもかなりの美人。一時期は、彼女が出演する昼時のバラエティ番組に、家内もメイドさんもハマってました。

コカコーラのキャンペーンガールを始めとして、テレビを見ていると、彼女の出るCMが2〜3本も続くこともあり、日本風に言えば「好感度No.1タレント」。以前、このブログでも取り上げたことがあります。


そしてスパゲティ。特に、フィリピンで一番人気のファーストフード店、ジョリビーのメニューにあるような、極甘のトマトソースを絡めて、削ったチーズを山盛りにしたもの。バースデーパーティや、各種のお祝いには必須の献立で、大人でも好きな人はたくさんいます。



中でも絶対的な存在感は、パッキャオ。
有名になったフィリピン人ボクサーが、アメリカに本拠地を移す中、生まれ故郷のミンダナオに住み続け、大きな試合に勝てば必ず帰国して凱旋報告。どんなに成功しても、決してフィリピンの同胞を忘れないという姿勢は、ボクシングファン以外の人たちにも深い共感を呼び起こしました。

その証拠に、2012年、長年のライバルであるファン・マヌエル・マルケスに、衝撃的な6ラウンドKOを喫した際、失意のうちに帰国したパッキャオは、連勝していた頃と変わらない歓声で故郷に迎えられました。翌2013年には、WBOのウェルター王者に返り咲き。その後は、一時は引退を表明したり、上院議員に当選したりしながら、すぐに復帰。

プロデビューが1995年とのことなので、実に今年で22年目。次の日曜日(2017年7月2日)に、またまた王座を賭けた試合が予定されています。勝てばプロ通算60勝。まったく凄いキャリアです。パッキャオの試合がある時には、フィリピン中の町で交通量が減り、犯罪率も下がる。実際、私も移住してから何度か経験しいるこの現象、次回も見られるでしょうか?


奇跡のタブレット


2週間前、家内の親戚たちと一緒に楽しんだリゾート。もう思い出の1ページになりかかっていたはずが、まだ続編がありました。帰宅して数日後、同行した家内の叔母、アンティ(ニックネームが「叔母ちゃん」って。)から電話があって「私が持って行ったサムソンのiPad知らない? 家に帰ったら、見当たらないのよ」。

ん?サムソンのiPad? そんなもの最初から無いよ、と言ってしまうと、会話が終わってしまいますね。フィリピンでは、この手の言い方はよく聞きます。練り歯磨きは何でもコルゲートだし、中型〜軽トラックは三菱じゃなくても全部キャンター。

昔は日本で、4WDの乗用車を全部ジープと呼んでいたのと同様に、米軍が残していったジープを改造して作った乗り合いバスは、今やベースがどんな種類の車でも、総称がジプニー。食品では、クノール(固形スープの素)なんてのもありますね。つまりアンティの頭の中では、アップル製じゃなくても、タブレット=iPadだったんでしょう。

叔母が持っていたサムソン製のタブレット、シカゴから一時帰国中の家族から貰ったもの。アップルに比べれば安いとは言え、今やサムソンはそこそこの高級ブランド。決して安物というわけではありません。タブレットやスマホの普及率が高いフィリピンでも、サムソン製を持っているのは、中流クラス以上だろうと思います。

そんな高価なものを紛失すれば、日本ならばともかく、ここフィリピンではまず絶対に戻ってきません。それは私が思うだけでなく、当のフィリピン人でも全員がそう考えるでしょう。ところが奇跡が起こりました。昨日、何と家内が、無くなったはずのタブレットを持って職場から帰宅。

事情を聞くと、まずアンティからの電話を受けて、家内が宿泊したリゾートに電話をしたことから始まり、リゾートのスタッフがタブレットを発見して、フロントに届けた。そしてタブレット発見の知らせが家内へ。たまたま仕事で、その島へ行っていた家内の友達が、タブレットを受け取った。さらにその友人が、家内の職場にタブレットを持ってきてくれた。

こんな具合に、驚くべき正直さと親切さの連鎖が何回も続いて成し遂げられた、快挙なのでした。今回は紛失場所が、外界がから隔絶されたような孤島で、そこで働くフタッフが少人数かつ、真面目な人ばかりだったことや、自然保護区に指定されているこの島で、家内の友達である大学生のキム嬢が、月一回のペースで調査をしていたことなど、幸運が重なったこともあります。

これが、普通のホテルとかだったら、まず最初でアウトでしょう。フィリピンではホテルの清掃担当などの人は、そんなにいい暮らしをしているとは考えにくい。忘れ物のタブレットを見つけたら、自分で使うよりも売払っちゃうかも知れません。たとえフロントに届けても、途中で誰かのポケットに消えるのが関の山。

とまぁ、かなり特殊なケースだったとは言え、やっぱり日頃フィリピンの悪い話ばかり聞くことが多いので、この国も捨てたもんじゃないと、とっても嬉しくなってしまいました。


しかも、このタブレットを最後に使っていたのが、どうやら私の息子だったらしい。アンティから借りて、ゲームでもしてたんでしょうね。見つかったのは、ビーチから少し奥まった場所にある、ベンチの上でした。このまま見つからなかったら、私が弁償しなくてはならなかったかも。


いずれにしても、久しぶりに気持ちのいい話でした。


2017年6月26日月曜日

安全軽視


2週間ほど前のこと、自宅の電灯が全部フリッカーし始めました。フリッカーとは、明るさが非常に短い周期で微妙に変化する状態で、明かりがちらついて見えること。蛍光管や白熱灯が古くなって、切れてしまいそうになると、よくこんな具合になります。最初に気づいたのは、数ヶ月前に交換したはずの場所だったので、ライトの品質問題かと思いました。買ったばかりの家電製品がダメになるのは、フィリピンではよくある話。

ところが、部屋の照明だけでなく、冷蔵庫や電子レンジの庫内灯までフリッカー。たまたま前夜、ネットに夢中になって2時頃まで起きていたので、目の疲れかなとも思ったり。翌日になっても同じ状態なので、家内やメイドさんに聞いたら、やっぱりフリッカーが見えるそうです。おまけに一昨年、日本の免税店で購入した日本製の炊飯器から、「ジー」と異音が。

そして私たちの家だけでなく、両隣の3軒の住宅でも同じ状況だということが判明しました。そこまで分かったのが土曜日で、週明けの月曜日に、ネグロスの電力を管轄するセネコ(CENECO : Central Negros Electric Cooperstive ネグロス中央電力)の事務所に電話をして点検依頼。

気になったので、フリッカーの原因というの調べてみたら、電圧が不安定になった時に起こる現象なんですね。そうこうしていると、昼前には請負業者がやって来て、付近の電柱に登ってなにやらゴソゴソやってます。珍しく対応が早いなぁと、ちょっと感心しましたが、フリッカーは相変わらず。

しばらく忘れてたら、夕方になって、少し離れた場所にある電柱に、さっき見かけたのと同じ車が止まり、業者さんが登ってゴソゴソ。案の定、フリッカーが出ていた我が家と近所の3軒は停電になりました。今度こそ不具合箇所が特定できて、部品かなにかの交換してるのかな?と思ってたら、何やら様子がおかしい。

人だかりが出来てザワザワして、そのうち救急車が。野次馬根丸出しにして見に行くと、どうやら修理をしている人が感電して、転落したらしい。まだ若い兄ちゃんが、コルセットで首を固定されて、まさに担架で救急車に乗せられようとしている。ひょっとして頭から落ちて頸椎損傷?

電気工事の業者さんに限らず、ここフィリピンでは安全対策をまったく無視して作業する人がほんとうに多い。トライシクル(バイクの輪タク)の運ちゃんでヘルメットかぶってるの見たことないし、家族で小さなバイクに、ノーヘル4人5人乗りなんてザラ。

自宅の工事中に、ヘルメットかぶっている大工さんが誰一人としていなかったし、サンダル履きで、釘を踏み抜く事故もありました。たまたま、我が家では大怪我したりはなかったものの、これは単なる幸運。他では、事故が多発してるに違いないと睨んでいたら、やっぱりでした。

今回の事故にしても、ヘルメットはしてなかったし、下まで落ちたということは、高所作業なのに命綱なしだったんでしょうね。死んだり後遺症の残る大怪我したりしても、保険に入っていない人は多いし、一家の大黒柱が寝たきりになったら、間違いなく家族は路頭に迷います。修理を頼んだ側としては、責任の取りようがないにしても、実に陰鬱な気分になりました。

その後、同じ電力会社に勤める知り合いを通じて、幸い軽症だったことを知りました。電力も1時間程度で復旧し、フリッカーも解消して一件落着。それにしても、この安全軽視の風潮はいつになったら終わるんでしょう。日本ほどガチガチにするのがいいとも思いませんが、もう少し何とかならないものでしょうか?


2017年6月24日土曜日

勝ち組...なんでしょうか?


「あなたは、勝ち組ですよ。」
先日、ある日本人の友達と喋っていた時の言葉。どういう会話の流れだったのか、はっきりとは覚えていませんが、皮肉とかではなく、私のフィリピンでの暮らしぶりや、状況をちゃんと分かっている人が言ったので、とても印象に残りました。

勝ち組なんて言われたのは、もちろん初めて。日本の企業に勤めて管理職にもならず、40歳になる少し前に鬱病をやらかして、50歳で早期退職。その後は無職のフィリピン暮らし。今のところストレスは全然ないし、悪くはない生活だと思います。でも、どっちかと言うと、経緯を見れば立派な負け組かも。負けではなくても、せいぜい本道から外れた、外れ組というところだと思ってました。

このブログで何度か書いているように、だからと言って捨て鉢になって、前後のことも考えずにフィリピンに逃走したわけではなく、10年に及ぶ準備期間があって、退職機会のタイミングをずっと待っていて、満を持しての海外移住。幸せな人生を実現するには、どうすればいいかを素直に考えての選択でした。

家電メーカーで工業デザイナーとして勤務していた28年間は、嫌でも勝ち負けを意識させられる日々。考案したアイデアが商品になるかどうか、まず同じ職場内での勝負があり、製品化されたら今度は他社製品に勝つか負けるか。そして、昇格で誰に勝ったとか、追い抜かれたとか...。そういうことをしたくて、美術系の大学に入り、デザイナーを目指したはずではなかったんですけどね。

考えてみると、40歳前後で勝負から降りて、50歳を目標に海外移住するまでは、給料分の仕事だけと割り切った私が、今頃になって勝者の側にいる思われるのも、不思議な話です。まぁ、勝つというのは、自分が思い描いた将来を実現することだとすれば、意外と客観的な評価なのかも知れません。

40代や50代で、仕事を辞めたり住む国を変えたりするとなると、ほとんどの日本人の場合、まず考えるのは経済的にやっていけるかどうか。私も例外ではなく、はっきり言うと、それをどうするかを考え続けた10年間。

日本での持ち家は早々に諦め、酒タバコも嗜まない。趣味と言えば読書にイラスト描き、週一のテニス。そんな感じでコツコツお金を貯めて、ちょうど50歳になろうという時に、会社で早期退職者の募集が。これこそ渡りに船とばかりに、金銭的はかなり有利な条件で計画実現の運びとなりました。

海外移住というと、何やら華やかなイメージがありますが、こう書くと実に面白味のない、地味なストーリー。後は年金受給年齢までは、貯金と退職金で食いつなぐ毎日。それでも、ここネグロスでは生活費が安く、慎ましくしてるつもりでも、ネグロスの中流家庭のレベルから見れば、十分金持ちの暮らし。確かにこれで負け組だと言ったら、地元の人が本気で怒りそうですね。


ツアーガイドはマーメイド


前回に続いて、ネグロス島のアイランドリゾート、ダンフガンのお話です。

ダンフガン島は、フィリピン国内に無数にある、ダイビングが楽しめるリゾート地のひとつ。とは言っても、ボンベを背負っての本格的なものではなく、シュノーケルとフィンだけのスキンダイビング。

フィリピン歴22年の私は、セブを始め、ボラカイやパラワンなどのダイビングが楽しめる場所を散々まわってきたのに、ダイビングはまったくの未経験。ダイビングが趣味の日本人の友達からは、何ともったいないと、羨望と非難が入り混じったようなことを、何回言われたか。

泳げないわけではありません。子供の頃は100メートルぐらいなら、プールの底に足をつけることなく泳ぎ切ってました。高校の臨海学校では数キロの遠泳もしたし、むしろ水泳は得意と言ってもいいぐらい。でも大人になってからは何となく面倒で、ビーチでちゃぱちゃぱぐらいなら大丈夫でも、背の立たない場所まで行くのが億劫になってしまいました。

今回は、ダイビング・インストラクター兼務のツアーガイドのお姉さんに「一緒に行かないと後悔しますよ〜」と笑顔で誘われて、ダイビングスポットまでのボートに乗船。


4月〜6月限定で、大学で海洋学を専攻している女子大生が二人、カルメラとプレシャスがツアーガイド。やっぱり海のことを勉強しているだけあって、海で泳ぐのが好きなんでしょうね。その上、毎日のようにダイビングしてるようで、二人ともよく日に焼けて、引き締まった身体。当たり前のように水深5メートルぐらいは、苦もなく潜ります。

実は家内もフィリピン大学では水産学専攻で、大学院を経て研究員になった人。プレシャスの先輩でした。

さて、10分ほどで、ダイビングスポットにある竹製のフローティングハウスに到着して、同行した家族や家内の親戚は、大喜びで泳ぎ始めました。ところが15人もいるのに、ライフジャケット未着用は、家内の従弟カルロだけ。日本のように、どの小学校にもプールがあって、夏場の体育は必ず水泳という環境にはないフィリピン。海辺暮らしでもない限り、そこそこは泳げるという人の方が、少ないんだそうです。


この状況で、ちゃんと泳げるところを見せればヒーローになれると、元来おっちょこちょいな私は、短パン一丁にゴーグルだけで、文字通り頭から海に飛び込みました。素潜りなんて何年ぶり(何十年?)でしょうか。一気に潜って、水底のサンゴにタッチ。ついでに、海中でびっくりして私を見てるカルメラ嬢に、親指立てて「イイネ」サイン。

ダイビングが終わって、ビーチにあるクラブハウスに戻ると、二人のマーメイドが私に「最初は水に入らないから、泳げないんだと思ってました〜!」。なんだか急に、評価が上がったみたい。プレシャスは、短期留学で広島の大学に行ったことがあるそうで、お好み焼きの話題で盛り上がりました。


暇さえあれば
双眼鏡で海を見ているプレシャス嬢

そして夕焼け。宿泊したコテージが、西に面したビーチに隣接していて、素晴らしい日没の光景を、1時間以上に渡って楽しむことができました。さらに、ほとんど人工の灯りがないダンフガン島。その夜の星空は、プラネタリウムでも敵わないんじゃないかというほどの物凄さ。夕焼けと星空だけを見るだけでも、ここに来た価値ありです。



2017年6月21日水曜日

静寂のダンフガン島


シカゴから里帰りしていた、家内の親戚5名。帰国早々に亡くなってしまった、家内の叔父の葬儀も済み、残った4名は、叔父が行きたかったというビーチや、温泉のあるマウンテン・リゾートなど、故人の意思を継ぐという名目で連日の観光三昧。楽しいことを封印してしまうのではなく、フィリピンらしい服喪と言えるかも知れません。

約1ヶ月に及んだネグロス滞在の最後に、隣街のバコロド在住の親戚も参加して、総勢10名がこの週末に私の家に泊まりで遊びに来ました。宿泊客は珍しくない我が家も、一度に10名受け入れというのは初めて。割と急な話だったので、食事の不足分は、近所のレストランで惣菜を買ってきて間に合わせましたが、問題は寝床。


約6畳ほどの広さのゲストルームは、シングルベットが二つだけ。折りたたみ式の簡易ベッドや、いつもは仕舞い込んでいるマットレスなど、総動員になりました。しかもこういう時に限って、朝からメイドのネルジーは、実家で緊急事態発生で急遽帰省。

とは言っても、そこはフィリピンの気安さ。雑魚寝には慣れている人ばかりだし、今回は小さな子供もいません。それに寒さとは無縁のネグロス島。ゴザと枕さえあれば、敷布団もシーツもなくても構いません。そんなわけで、なんとか全員収納しました。




さて、翌日の土曜日は朝5時に出発するとのこと。せっかくなのに、朝ごはんぐらいゆっくり食べて帰ったらいいのに。どうやら、亡くなった叔父の奥さん、家内の叔母のマミー・スモールが突然思い立って、その日に西ネグロスにあるアイランド・リゾートに予約を入れてしまったらしい。昔、家内も行ったことがある場所で、結局私たちも同行することになりました。だから、16人乗りのトヨタ・ハイエースをレンタルしてたのか。

そんなわけで、降って湧いたような旅行。行先のダンフガン島(Danjugan Island)は、シライから車で約4時間の場所から、さらにボートで30分のアイランド・リゾート。フィリピンでは、こういうスタイルが多く、ダイビングで有名なボラカイを始めとして、先日のラカウォンを含め、ネグロスだけでも何箇所もあるそうです。

早朝に出て、8時ごろにはカバンカラン(Kabankalan 人口18万の中核都市。東西のネグロス州を統括する、ネグロス・リージェントの首都)のジョリビーで朝ごはん。そこからさらに1時間少しで、ダンフガン島に渡るボートの船着場に到着しました。



前述のラカウォンは全島が白いビーチだったのとは対照的に、ダンフガンは珊瑚礁に浮かんだ緑の小山と言った風情。なんとなく、瀬戸内海の景色を思い出してしまいました。この島は、まるごと自然保護区に指定されていて、電話線もない。観光客はかなり制限されているようで、宿泊施設は、そんなに大きくもないコテージが4棟だけ。日帰り客を合わせても、1日に入島できるのはせいぜい20〜25名ぐらいでしょう。


そして電力は、クラブハウスの屋根に設置されたソーラーパネル頼り。使える電力はわずかで、エアコンはなし。携帯も圏外でインターネットにアクセスできず。さらには、カラオケもないしディスコもない。道路がないので、車もない。自然を楽しむ以外は、なぁ〜んにもない。フィリピンの観光地でも、こんな場所があったんですね。



こう書くと、サバイバル生活のように聞こえますが、建物は新しくてコテージはなかなか瀟洒な作り。蚊帳を備えた寝室は、絵に描いたような南国リゾート。食事は美味しいし、海はきれい。何よりも良かったのは、1泊2日の滞在中に付いてくれたガイドさんが、親切で明るくて、しかも現役女子大生だったこと。(すっかりオッさん視点でスンマセン)




自然保護区なので、4〜6月のこの時期だけ、大学で海洋学を専攻する学生さんをツアーガイドとして雇っているんだそうです。観光客が立ち入りを禁じられているエリアでは、滞在中にも、大学や研究施設のスタッフが調査活動をしていました。

長くなってしまいましたので、次回の投稿へ続きます。


2017年6月16日金曜日

千の風になって in フィリピン


またもや、お葬式関係の話題です。
叔父の葬儀の数日前、家内から唐突に、歌ってくれないかと頼まれてしまいました。いかにも歌や踊りのパフォーマンス大好きのフィリピンらしい。

フィリピンでの親戚や友達の前で歌を披露するのは、実はこれが初めてではありません。最初は20年前、私が西ネグロスの州都バコロド市の教会で洗礼を受けた時、儀式の後、神父さまを招いての会食で、家内の叔母に促されたのが最初。

急に言われたので、歌詞もカラオケも何にもなしで、仕方なしにアカペラでハリー・ベラフォンテの曲「Turn Around」を歌いました。ベラフォンテと言っても、私の世代ですら懐メロなので、若い人はまず知らないでしょうね。主に1950〜60年代に活躍したアメリカの歌手で、ダニーボーイやバナナボート(デイ・オー)が有名です。


こう書くと、私がまるでプロの歌手だと勘違いされそうですが、まるっきりの素人。ただ、歌うこと自体は大好きで、カトリック教会に通い始めた頃に、周囲の迷惑を顧みず大声で歌っていたら、それなら聖歌隊へどうぞと言われたのが、人前で歌うきっかけ。ロクに楽譜も読めないのに、ボイストレーニングだけは受けて、パソコンの音楽打ち込みソフトの助けで、毎週聖歌を練習。

そういう経緯なので、発声方法はどちらかというとクラシック。マイクを使ってカラオケで歌うのにはまったく不向きで、たまに家内と一緒にボックスに行くと、声が大きすぎると苦情を申し立てられます。

その後も、日本語はもちろん、教会のミサで歌うためにラテン語や英語、家内と結婚してからはタガログ語も少し暗譜。なので移住してからも、たまに「一曲頼む」とお願いされるわけです。

さて、今回は家内から指定されたのが「千の風になって」。日本では社会現象と呼ばれるほど流行ったこの曲。その頃、家内は私と一緒に日本に住んでいて、私が毎日のように家で聴いていたこともあり、一時は耳タコ状態。原詩は、アメリカ人のメアリー・フライという女性が書いたものだとされる「Do not stand at my grave and weep」。日本語版は2001年、新井満さんが訳詩・作曲して自分で歌い、2006年の秋川雅史さんの歌で、広く知られるようになりました。

ご存知のように詩の内容は、おおよそキリスト教の死生観とは異なり、死んでも天国へ行くのではなく、千の風や優しい日の光、雪や星になって、生前に愛した人を見守り続けるというもの。日本人の感性にはぴったりだったのか、好きな人が多いですね。

日本語を解する人が皆無のフィリピンなので、新井満さんのものではなく、キャサリン・ジェンキンスさんの、原詩での曲を歌いました。因みに英語でYouTubeを検索すると、同じ歌詞で何曲もの異なったメロディの「千の風」があることが分かります。


当日、バコロドの墓地の中にあるチャペルでの葬儀ミサの後、またもカラオケもマイクもなしのアカペラ。100名以上の参列者の前で無事歌い終わりました。後でみんなに聞いてみたら、家内以外に、この曲や詩について知ってる人は誰もいませんでした。とてもソウルフルで良い歌だと言ってくれましたが、やっぱり思いっきりカトリック大国のフィリピンでは、あまりピンとこないのか、そんなに有名ではないらしい。

それにしても、フィリピンの墓地は、墓石を立てずにプレート状にして埋め込むタイプが多く、広々とした空間があって「千の風」が似合います。特に親しい人を亡くした直後この歌詞を口ずさむと、救われた気持ちになりますね。


2017年6月12日月曜日

死後の世界も金次第

メディアがフィリピンを語る時に、とても高い頻度で使われるキーワードの一つが「貧富の差」。まるで貧富の差があること自体が、絶対悪のように書き立てた記事が多いですね。私はこの風潮があまり好ましいとは思えません。努力しようがしまいが、みんなが同じような暮らし向きになるのが良いことでしょうか。それを目指したソ連は解体され、中国は鄧小平によって、事実上のイデオロギーの改変を余儀なくされました。

努力と才覚で豊かになり、金持ちがさらに金持ちになるのは、資本主義を是認する限りは当然だと思います。ただ問題だと思うのは、貧困の歯止めがかからず、何世代も貧乏暮らしから抜け出せなること。そうなってしまうと、生まれた時から這い上がるチャンスすらなくなってしまう。

と、いきなり大上段に振りかぶった書き出しになってしまいました。ここフィリピンでは、私のような日本から逃げ出してきたあぶれ者でも、銀行の預金残高だけで見ると金持ち扱いされてしまいます。(もちろんそんなものは、滅多なことでは見せませんが)なので貧困者救済は支持しても、金持ち糾弾は無意味だというのが私の考え方。

そんな私でも流石に鼻白んだのは、西ネグロスの州都バコロドにある墓地での光景。先週投稿した、義理の叔父ダディの葬儀と埋葬のために赴いた墓地。一通りの儀式が終わって、参列者一同で敷地内のホールでの昼食後、時間が空いたので周囲を散策しました。

緑の芝生に、シンプルな白い墓標が並ぶのは、まるでアメリカの戦争映画のラストシーンのよう。思わず「千の風になって」を口ずさんでしまう景色です。


それと対照的なのが、ゲートから一番奥まったエリア。ここは墓地というより閑静な住宅地といった佇まいで、本当に一戸建て住宅のようなお墓が並んでいます。それぞれが意匠を凝らしたもので、一基の広さもちょっとした住宅並み。中には私の自宅よりも金がかかってるんじゃないかというものまで。



聖書の記述によると、生前に富を築いた者ほど天国に入るのが難しいとされてるはず。しかもこの墓地に埋葬されるということは、間違いなくカトリック信者。さらには、全然実用的ではなく、言って見れば遺族の見栄のためだけのようなお墓を、ここまで飾り立てるのは、一体どういう了見なんでしょうか?



ここまでくると「霊廟」

やっぱり私の感覚は、日本の庶民のものなんでしょうね。金持ちになるのは悪いことではなくても、必要以上にそれを見せびらかすのは、いい趣味とは言えません。フィリピンに限らず世界中どこに行っても、妬みを買うような行為は、何の得にもならないと思うんですけどね。




グレイブ・デザイナーという仕事が
十分成り立つフィリピン


2017年6月7日水曜日

「フィリピンパブ嬢の社会学」を読んで


先日の一時帰国の際、数年前にネグロス島で知り合った日本人女性のAさんと、久しぶりに話す機会がありました。Aさんとは、我が家の近所を拠点にするNGOで働いていたのがご縁。帰国してからも、フェイスブックで交流があったり、このブログを読んでいてくれたりで、親しくさせてもらっています。

その彼女が、別れ際に貸してくれたのが、この本「フィリピンパブ嬢の社会学」。今は日本在住のAさんは、その後もフィリピン関連の仕事をしていて、やっぱりこのタイトルは気になったようです。私もネットを通じて、こういう本が出版されたことは知っていて、フィリピンに戻って早速読んでみました。

率直な感想としては、読み物としてはとても面白い本。恋人のフィリピン人女性ミカの処遇を巡り、ヤバい筋のマネージャーに話をつけに行くエピソードを始めとして、偽装結婚に頼らざるを得ない、現在のフィリピンホステス集めの現状など興味深く読みました。実は私、日本のフィリピンパブには、一度も足を踏み入れたことがないもので。

そして、読み始めて感じたのは、まるで久しぶりにゲームセンターを覗いたら、まだインベーダーゲームに夢中になっている人がいた!みたいなもの。しかもゲームをやっているのが同年輩ではなく、私の子供と言ってもいいぐらいの、二十歳そこそこの若者。

フィリピンパブにハマるのは、中高年以上の男性との常識を覆して、平成生まれの著者が、フィリピンにのめり込んでいく姿は、確かに一読の価値はあるし、この本の「売り」でもあります。その意味では、著者が意図したかどうかはともかく、マーケティングは大成功と言えるでしょう。

しかしながら、現在50代の私にとって、水商売のフィリピン女性と恋愛関係になり、いろんなトラブルに巻き込まれるという話は、それこそ前世紀の遺物。30代の頃にマニラに足繁く通い、だいたいのことは経験したので、「まだそんなことで騒いでいるの?」と言いたくなるのも正直なところ。

また、以前このブログでも書いたように、ホステスとして日本に渡ってくるフィリピン女性は、かなりの貧困層の出身者であることが多い。敢えてその中からパートナーを選んでおいて、実際に彼女の家族やフィリピンでの生活を見て、驚いたり憤ったりするのは、少々世間しらずな反応。

さらには、国際線のフライトに乗り遅れたり、出稼ぎのお金をあっと言う間に浪費してしまう様子ばかりにスポットを当てる描写は、時間にルーズでお金に汚いダメなフィリピン人像を、ことさらアピールしているようにも感じます。

もちろん、著者の中島弘象さんが、ご自分の経験を正直に綴った内容だということに、疑念を呈するつもりはありません。ただ、同じフィリピン人が見ても、ひどいなと感じるであろう事柄や人々が、まるでフィリピンの代表のような印象を与えてしまうのは、残念。

あとがきの執筆者であり、この本を世に出した立役者だと思われる、松本仁一さんという方は、昭和17年生まれで、朝日新聞のアフリカのナイロビ(ケニア)支局長だったこともある方。ジャーナリストとして数々の受賞歴もあるそうです。松本さんが原石を探し当てる目はさすがと言うべきで、確かにこの本には読者を引っ張る力がある。

それだけに、20年以上もフィリピンに関わり、フィリピン女性と結婚し、現在フィリピンに住んでいる私としては、いまだに日本人がフィリピンに関心を持つきっかけが、フィリピンパブや貧困に偏っていることには、少々うんざりしてしまいます。この国には、他にもいろいろな面白い側面があるんですけどねぇ。


2017年6月6日火曜日

別離と再会


今日は、前回前々回と書いてきた、家内の叔父ダディ(私の義父ではなく、ニックネームがダディ)の死と葬儀についての投稿の最終回です。

ダディの家族は、奥さんのマミィ・スモールと、長女ルビーと次女レイチェルという娘が二人に、末っ子の長男ラルフの5人。子供はみんな結婚していて、ルビーには女の子が、レイチェルには男の子がいます。つまり孫が二人。

15年前シカゴに移住したダディですが、この家族が全員一緒だったわけではありません。奥さんは同行したものの、アメリカの生活に馴染めずに、数年で単身フィリピンに帰国。ラルフは最初からこちらに残り、シカゴに住んでいるのは、娘二人とそれぞれの連れ合いに子供。加えて、マミィ・スモールの弟で、ダディから見ると義弟夫婦と娘が一人が、ダディ家族に先立ってシカゴに移住。

そしてさらに複雑なのは、移住前にダディ家族と同居していた、マミィ・スモールの妹のナンシーとその息子二人パウロとカルロは、マミィ・スモールと喧嘩別れ。ナンシーとパウロはレイテ島に移り住み、カルロも同じネグロス島で一人暮らし。

つまり、もともと一つ屋根の下に住んでいた大家族が、いろんな事情で離散していました。そしてその家族が、ダディ危篤の報を受けて一斉に里帰り。

フィリピンでは主に経済的な理由から、家族がフィリピン内外にバラバラで生活しているケースが多く、年に一度(多くはクリスマスの時期)か数年に一度、場合によっては何十年に一度の Reunion(リ・ユニオン 再会)は、一族の大イベント。

リ・ユニオン向けの各種サービスが充実していて、パーティ会場や写真スタジオも「リ・ユニオンにどうぞ」と宣伝していたり、印刷屋さんに頼めば、リ・ユニオンで着るお揃いのTシャツのデザインやプリントもしてくれます。帰郷する人たちが購入する大量のお土産を考えると、これだけで相当な経済効果。

実際、私が勤めていた大手家電メーカーでも、フィリピンからの出稼ぎ労働者が多いドバイ向けに、持ち帰り用でフィリピン国内の電圧や放送方式仕様にしたテレビを、製造・販売していました。

さて今回のダディの親族たちの里帰りは、絵に描いたようなフィリピン家族のリ・ユニオン。側から見ていると、まるで古いイタリア映画「鉄道員」を地で行くような光景です。イタリアもフィリピンと同じく、家族の絆を大切にするカトリック国。心情的にはよく似てるところがあるのかもしれません。

鉄道員」は、1956年(昭和31年)製作の大昔の映画。知らない読者のほうが多いと思います。簡単に言うと、年老いた鉄道機関士の男が、様々な理由で家族や友人から孤立してゆき、何年もの離散を経て家族が和解。最期には懐かし人々に囲まれて、眠るような安らかな死を迎えるというストーリー。物語は機関士の幼い孫の目を通して語られ、情感溢れる佳作です。これを書いただけで、もう目がウルウルしてくるほど。

現実のリ・ユニオンも、ダディの棺の前で、仲違いしていた家族が抱き合って再会を喜んだりして、まったく映画さながらの劇的な場面が繰り広げられました。私にとっても10年以上ぶりに会う人たちばかり。同じ熱気を共有できることが、とても幸せに感じました。


「鉄道員」テーマ曲


2017年6月4日日曜日

死者との距離感


前回に引き続き、先日亡くなった、家内の叔父のお話です。この叔父貴、家族や親戚内でのニックネームが「ダディ」。妻や子供以外の従兄弟姉妹や甥っ子、姪っ子たち全員から「父ちゃん」と呼ばれているようなもので、知らない人からすると実に紛らわしい。ブログを読んだ人の方の中にも、私の義父のことだと勘違いしてしまった方がいたようです。

ちなみに、私の義父母は、「パパン」と「ママン」で、こちらも「父ちゃん」「母ちゃん」。ニックネームで呼び合うのは良いけれど、もう少し個人を特定できる名前にすればといいのに。その他にも、「マミー・スモール」とか「ミス・ママ」「パパ・ボーイ」。さらに「インダイ」なんてのもあって、これは「お嬢ちゃん」みたいな意味。だいたいどこでも、親戚には必ず一人「インダイ」がいます。

さて、義父ではない叔父のダディの死後、フィリピンの慣習に従い、亡骸は24時間後には防腐処置が施され、ガラス張りの棺桶に収まりました。メイクもされて、死の直前には黄疸で変わり果てていた肌色も、かなり自然な感じに。

私は今まで何度も、メイク後の死者の顔を、遺族が初めて見る瞬間に立ち会ってきました。特に奥さんが亡き夫を見送るケースの場合、ほとんど全員が「グァポ(男前)になってしまって。」と悲しみながらも、やや安堵の混じったような言葉を漏らします。やはり死の間際の苦悶の表情が、和らいで見えるからでしょうか。

フィリピンでは、通常ここから一週間の通夜となります。棺桶の前に、親族や親しかった友達が交代で集まり、数人は必ずその場に寝泊まり。死者の思い出話に花が咲き、時にはカードや麻雀などのギャンブルが始まったり。そんな風に、一週間ずっと見られ続ける死に顔で、その表情が最後の印象になるわけです。やっぱりメイクは大切なんですね。

今回の葬儀場は、亡くなったダディの自宅から車で15分ほどの距離にある、聖ペトロ・チャペルという場所。ずいぶん設備が完備されていて、100平米以上はあろうかというホールに、ファミリールームと称する、56人は宿泊できそうなベッドルームと、トイレ・シャワー、それにキッチンとダイニングまで付属。



ヘタなホテルよりもずっと居心地が良さそうです。言ってみれば、親族が一週間暮らすようものなので、これぐらいは必要なんでしょう。当然のようにWiFiも使えて、これまた当然のように、海外にいる親戚たちとビデオチャット。(誰でもこんな場所を使えるわけではなく、それ相応の料金が必要です)

数少ない不満点は、冷房の調節ができず涼しすぎることと、窓がほとんどなくて薄暗いこと。いくら防腐処置済みとは言え、遺体を一週間も安置するのですから、霊安所ならぬ冷暗所にしておくためなんでしょうけど、さすがにずっとこの場所にいたら、気分が滅入ってきます。

それにしても一週間だけとは言え、死者と寝食を共にする感覚は、現代の日本にはあまりないこと。死後数日と置かず荼毘に付すのが一般的な日本とは、死者との距離感がずいぶんと異なる気がします。フィリピンでも希望すれば火葬ができるらしいけれど、私が知る限りでは全員が土葬。ちょっと生々しい感じは拭えません。

それとは逆にフィリピン人の家内は、日本に住んでいた頃に、私の親戚の葬儀で目撃した火葬が恐ろしかったそうです。日本の習慣を批判するつもりはなくても、死後に自分の体が焼かれるのだけは、絶対に勘弁してほしいと懇願されてしまいました。


こうして午前中から夕方まで棺桶の前で過ごした一日。まだ明かるい外に出ると、熱帯の外気はめまいがするほど暑くて、メガネが曇るほどの湿気。いつもなら鬱陶しく感じるところが、大げさに言うと冥界から生きている人々の世界に戻ったように思えて、ホッとしてしまいました。


2017年6月2日金曜日

故郷の土に還る旅


昨日(201761日)、移住先のシカゴから帰国していた、家内の叔父「ダディ」ことロベルト・バトーが、肝臓癌のため入院先の病院で帰天しました。享年74歳。

家内の母方、オフィレニアの一族からは、ダディを含めて合計9人がシカゴに移住。ささやかながらアメリカン・ドリームを実現し、ネグロス島の実家に比べると、豪邸と言っていいほどの家に住み、乗用車も購入して何不自由ない暮らしを送っています。

ダディの死は、娘二人、その子供たちの孫二人の5人で、15年ぶりに一時帰国を果たした矢先のこと。実は、もう末期癌だったダディの、生まれ故郷のネグロスで人生の最期を迎えたいという、強い希望で実現したものなのでした。

帰国当日は、到着してすぐにまだ荷解きもしていないまま、空港から車で5分の我が家で歓迎パーティ。恰幅がよくて体が大きかったダディは、すっかり痩せて一回りほど小さくなったように見えました。黄疸が出て、歩くことも家族の介助が必要。それでも親戚や旧友たちとの再会に、表情はとても明るくよく喋る。

まだ何ヶ月かは残された時間はあるように見えました。素人ながら、なかなかの料理人ダディ。この機会に、お得意のフィリピン郷土料理の作り方を伝授してもらおうと、会話も盛り上がったのですが

故国の大地を踏んで、気が緩んでしまったのか、三日後には起き上がれなくなってしまったダディ。実家近くの州都バコロド市内の病院に入院し、十日目の昨日、家族に見守られながら天に召されました。

多くの出稼ぎ労働者、移住者を海外に送り出しているフィリピン。毎年、国家予算を上回ると言われる外貨を獲得する人たちは、OFWOversea Filipino Workers)と呼ばれる国の英雄。クリスマス休暇前、英雄たちが一時帰国する頃には、歴代の大統領が、マニラ国際空港の到着ゲートで出迎えをするのが恒例行事となっています。

それほど多くの海外在留フィリピン人がいるのですから、滞在先で不慮の病や怪我で亡くなるケースも多いことでしょう。故郷に戻り、懐かしい人々に囲まれて死を迎えたダディは、幸せだったのかも知れません。特にネグロスに残った奥さんとの再会は、さぞや嬉しかったろうと思います。

考えてみると、もう間違いなく人生の折り返し点を過ぎて、外国に住んでいる私自身。OFWの境遇とは違い、早期退職後の人生をのんびり過ごすための移住なので、悲壮感はまったくないし、その気になれば、その日のうちに帰国できる距離のフィリピンと日本。郷愁すらほとんど感じたことがありません。


ただそれも、今の私が健康で、家族と一緒に住んでいるから言えること。先のことは分かりませんが、死期を悟ったら、私も日本に帰りたいと願うことになるのでしょうか? 移住して丸4年。立て続けに親戚や友人の死に接して、そろそろ自分の身の処し方に思いを馳せてしまいます。