2017年7月31日月曜日
中流と下流の間、越え難き谷
このブログを読んでいただいていて、フィリピンで住んだり、働いたりしたことのある方は、おそらく私がフィリピン人の国民性一般に対して、とても好意的な評価をしていると思っておられることでしょう。
元来、天邪鬼な私は、フィリピン人のことを悪く言う人が多ければ多いほど、無理矢理にでも美点を探したくなります。1億のフィリピン人全員を知っているかのように、みんなが怠け者で恩知らずで金に汚く時間を守らないと、一方的に決めつける輩に反論を続けてきました。
でも、それは私の曲がったヘソのせいだけではなく、家内を始め、その家族・親戚・友達、家を建てるために雇った大工さんや職人さん、さらにはメイドさんや、週一でマッサージを頼んでいるセラピストに至るまで、本当にそんなひどい人には、滅多に会ったことがないんですよ。例外と言えば、ビザや免許などの取得で関わったお役所の連中ぐらい。
正直に書きますと、どうやら私は、奇跡的なほどの幸運に恵まれているらしい。親戚に金をせびりに来る人もいないし、アルコールやギャンブルで身を持ち崩した人もいない。さらには覚醒剤中毒者や、その取引に関る犯罪者も。
言葉を変えると、もしあなたがフィリピン人と結婚したら、相手の親戚の中に、こういう厄介な人が少なくとも一人や二人(あるいはもっと)は、いるかも知れない。旅行者であっても、ホールドアップで金品を強奪されたり、お金を騙し取られたりというのは、よく話に聞きます。とても残念なことですが、それもこの国の一面。
そして単に幸運なだけでなく、私がフィリピンではまったく仕事をしていなことも大きい。家族で現金収入を得ているのは、現在家内のみ。専業主夫と言えば聞こえはいいですが、私は一種の「ヒモ」と言えなくもない。気楽なもんです。もちろん移住前に十分な経済的な準備はしたので、無収入でも生活はできますが。
ところが、こちらでビジネスをして、フィリピン人労働者を雇うとなると、とんでもなく大変。つい先週このブログで、日本の過重労働を批判しまくって、フィリピンの愛情溢れた子供の育て方を賛美した、その舌の根も乾かぬうちに恐縮ながら、愛情と甘やかせがごっちゃになっている親が多いのも大問題。
やっぱり褒めて伸ばすのにも限度があって、それが過ぎると、自立心も忍耐力もない依頼心の塊のような人間に育ってしまう。(特に男の子!)フィリピンの歴史的宿痾ともいうべき貧困が、いつまで経っても解決できないのは、どうやらこれが決定的な要因。
景気は上向きとは言っても依然失業率は高いし、誰かに雇ってもらうのは難しい。それでも日本のような規制でがんじがらめな社会とは違い、マニラなどの大都会はいざ知らず、ここネグロスならば、道端で商売を始めることも比較的容易だし、最近では人手不足な職種もある。独立心旺盛で、雇われるより雇う側になろうとする華僑系の人たちが、貧困とは縁遠いのも、分かる気がします。
それにしても、地道に努力や工夫をして、コツコツ生活を立て直そうという思考にならない人が多すぎる。日本人に限らず誰に雇われても、能力不足で失敗して、少し叱責されただけで辞めてしまうし、ひどい場合は備品や道具、お金を持ち逃げしたり。親戚の中で、そこそこ稼いでいる人いれば、自分がいかに哀れむべき生活をしているかを切々と訴えて、お金を要求し、断られたら逆恨み。
フィリピンの最低賃金が何十年も上がらないのは、経営者に言わせると、高い給料を払うほどの労働者が少ないから。知り合いの日本人でも、いくら手取り足取り仕事を教えて世話を焼いても、かんたんに裏切るようなことをすると、嘆くことしきり。
どうやらフィリピン社会には、中流以上で高等教育を享受できたり、低学歴でも定職についている層と、下流の貧困層の間に、決定的に超えがたい「谷間」が存在しているようです。よく考えてみたら、家内はフィリピン大学のマスターだし、弟夫婦を始めとする親戚は、ほとんど大学出。その他に付き合いのある、それほど所得が高くない人たちにしても、楽ではないながら、手に職があってそれなりに生活は安定しています。
実は家内の母は、子供時代は相当な貧困を経験しているんですよ。ところが、祖父母が偉かったんですね。自分たちは飲まず食わずでも、子供にはきちんと教育を受けさせて、6人の子供たちのうち、家内の母を含む3人は教師、他にはアメリカで看護師の職に就いたり、日本に渡って会社勤めをしたり。家内の母はもう亡くなりましたが、存命の叔父叔母たちは、それぞれに悪くない暮らしぶり。
フィリピンの生活が厳しいのは事実でも、貧困からの脱出は不可能ではない(かんたんでもないですが)。まったく「貧すれば鈍する」とはよく言ったもので、何世代も貧困が続くと、そこから逃げ出すことができないと、思考が固定してしまうんでしょうね。
と、偉そうに上から目線で書いている私ですが、たまたま生まれたのが、三度のご飯をちゃんと食べられる家庭だったというだけ。もしフィリピンのスラム出身だったらと思うと、自分の幸運に感謝する気持ち。
日本全体にしたところで、第二次大戦の荒廃の後、西側陣営に属したこともあり、朝鮮戦争特需に端を発した好景気、その後の高度経済成長で、一時はGNP世界第2位にまでなりました。もし降伏した相手がアメリカではなく、ソ連や共産中国だったら、現在の北朝鮮ほどではなくても、1980年代までの東欧諸国のように、自由も経済的な発展も、著しく制限されていたかも知れません。
戦勝国側にいたはずのフィリピンが、植民地時代の大地主や支配者階層がそのまま残り、結果的に農地改革もできず、搾取体質を変えることができなかったのは、何とも不運でした。今の私が気楽な退職者生活を送っていられるのも、私自身の努力や才覚よりも、戦後日本の幸運と、親の世代の努力があってこそ。
そう考えると、どんなに他人の懐を当てにする人が多くても、フィリピンを頭ごなしに馬鹿にする気には、どうしてもなれません。
場所:
フィリピン シライ市
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