2018年5月16日水曜日
我慢しない生き方
「若い時の苦労は買ってでもせよ」「石の上にも3年」「辛抱する木に金がなる」「ならぬ堪忍するが堪忍」「臥薪嘗胆」「刻苦勉励」「滅私奉公」「鳴くまで待とうホトトギス」
本当に、いくらでも出てきますね、我慢を奨励することわざや格言。日本人ってどこまでマゾやねん?という気がします。乱暴にまとめてしまえば、嫌なことでも、将来のために我慢して続けよう、ということなんでしょう。
何かをやり遂げるために、苦労を耐え忍ぶのは、悪いことではありません。私だって、目標の実現に向けて、忍耐の日々を送ったこともある。しかし、それは何がしたいのか、どうありたいのか、具体的なビジョンがあってのこと。56年の人生を振り返って、ただ漠然と、いずれ何かがあった時に備えての我慢は、結果としてほとんどしませんでした。
まず、子供の頃から図画工作が大好き。それが高じて、何でもいいから絵を描いたり、物を作ったりするのを仕事にしたくて、美術系大学に進学。絵描きになっても食えないと、親や教師の「我慢して真面目に勉強しろ」攻撃は、なかなかの手強かった。でもね、ファインアートだけが、絵を描く仕事ではないんですよ。メーカーにデザイナーとして就職する、という手口がちゃんとあったんです。
正直に申しまして、美大進学以外の勉強も、全然出来ないわけでもなかった。ただ、数学や物理に打ち込んでも、卒業後に自分が何をしたいのか、まったくイメージできない。つまり漠然と将来に向けての努力が、最初から無理。
デザイナーになってからは、海外の仕事がしたいと思い立ちました。当時は日本向け担当が出世コースで、海外要員は一段下みたいな空気もありました。それでもやりたいとなったら我慢できない。
入社時に受けたTOEICが1000点満点の100点に届かずという、惨憺たる結果を物ともせずに英会話の勉強開始。8年がかりで700点に手が届き、10年目にして東南アジア市場向け商品の担当デザイナーの座をゲット。これがきっかけで、フィリピンに初渡航。
その後、我慢不足で最初の結婚生活が破綻してしまいましたが、これは余計。
それから色んなことがあって、40歳になろうかという時期には、会社生活が段々と苦になり始めました。とても60歳の定年までは我慢できそうにない。そこで次に思い立ったのが、2度目の妻の生まれ故郷、フィリピンへの移住。
フィリピンが大好きだったというより、会社を辞めて暮らしていくための方便として選んだ生き方でした。これも10年間、お金を貯めたりプランを練ったり。今住んでいる家の図面なんて、最初の頃に出来てましたね。
こうして振り返ってみると、私の人生には大きく3回の契機があったようです。その3回とも、夢を我慢して諦めるのではなく、少々リスクがあっても実行する方を選びました。運良くどれも成功した、と言われるかもしれませんが、成功するまで止めなかったのが実感。
そしてどのケースも、苦労の意識は皆無。好きなこと、やりたいことの実現に向けての努力は、まったく苦労とは感じないもの。こういう具合に生きてきたので、若い人が「自分のやりたいことが分からない」とか「やりたいことはあるけど、自分には無理だから諦める」と簡単に言ってしまうのが、どうにも理解できない。
やりたいと思ったら、準備なんて走りながらでいいから、とにかく始めてしまう。何事も、やってみないと分からないことの方が多い。事前に完璧な準備とか言ってたら、永久にスタートできません。
60歳が近づいてきて思うのは、もし美大進学を諦めていたら、あまり好きでもないことを、我慢して続ける人生になっていただろうということ。そんな生き方は、面白くなかったでしょうね。
ラベル:
思い出
場所:
フィリピン シライ市
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