2025年2月24日月曜日

近所のリゾート・ホテル

 今日は、このブログでは珍しく、観光情報っぽいことを書きます。

そもそも、海外からの観光客にアピールするような観光地があんまり無い、ネグロス島の西側、私の住むネグロス・オキシデンタル(西ネグロス州)。もちろん皆無というわけではなくて、とびきりきれいなビーチのあるラカウォンとかダンフガンや、温泉リゾートのマンブカルに、おらが街シライの山間部には、マウンテンリゾートのパタッグもあります。

ただ、どこも規模は小さくて、フィリピン国内ではそこそこ有名でも、日本では「知る人ぞ知る」的な場所ばかり。さらに州都バコロドとなると、マスカラ・フェスティバルは全国区レベルで、毎年10月ごろには国内からの観光客がたくさん来るものの、場所ではなく行事。

もちろん人口50万人を数える地方都市バコロドなので、ホテルはたくさんあります。移住前に定宿にしていたルクソール・プレイス(ここは潰れちゃいました)とか、私たちが結婚披露宴を催したシュガーランド。最近ではエル・フィッシャーにセダ、ラディソンなど、マニラやセブにもあるチェーン・ホテルもバコロドに進出。どこも設備もサービスも悪くない3〜4つ星。プールや大きなパーティ会場もあります。

とは言えどこもアーバンホテル。日本にある、そこそこ良いホテルと大差はありません。かれこれ10年以上も西ネグロス在住の私も、バコロドにはリゾートと呼べるホテルは、無いもんだと思い込んでおりました。ところがあったんですよ、絵に描いたようなリゾートホテルが。

場所はバコロドのやや南寄りにある、現在は廃港になった旧バコロド空港のすぐ近く。海に面したパルマス・デル・マール・カンファレンス・リゾート・ホテル。ずいぶん長ったらしい名前ですが、地元では「パルマス」で通っているようです。「カンファレンス(会議)」と入っているのは、純然たる観光客よりも、公的機関が会議やセミナーに使われることが多いから。何を隠そう、フィリピン教育省勤務の家内も、仕事で何度か泊まったことがあります。ただ私は、そんな近くではなく、もっと遠くだと思ってました。まさかバコロド市内だったとは。


なぜ私が、パルマスを知ることになったかと言うと、日本在住のフィリピン人でバコロド生まれの友人、ダイアナ・ハバ女史の誕生日パーティがここで行われたから。1970年代生まれなので、今年63歳の私より10歳若いだけながら、日本とフィリピンを股にかけて多種多様なビジネスを展開。時々失敗して痛い目も見てるそうですが、日本でのフィリピン人支援や、フィリピンを紹介するいろんな催事にも参加していて、その人脈の広さは、ちょっと驚くほどです。

このダイアナさん、弱い立場の人を放っておけない、フィリピノ・ホスピタリティを体現したような人。すでに関係が破綻した日本人パートナーの高齢両親を、何の見返りもなく介護し続けたり、東日本の震災で困窮する在日フィリピン人を助けたり。それでいて明るいし常に前向き。側から見ていても、フィリピンと日本のどちらでもファンが多い。彼女のことについては、以前にも何度かこのブログで触れています。

実は今回、ダイアナさんの誕生日だけでなく、日本から視察に来られた三人のクライアントさんの歓迎会も兼ねています。実はこの仕事に私も関わっておりまして、フィリピン側のスタッフ紹介的な意味もあったんでしょう。こちらについては、実務が動きだしたら詳しく書きたいと思ってます。

パルマス・リゾートでのパーティに話を戻します。

このホテルは、今年が創立20周年とのことなので、それほど古いわけでもありません。ちょうど私の息子と同い歳。今ではプールが三つもあって、いかにも南国風なバーやレストランがあり、客室は3棟もありますが、当初は今の1/3ぐらいのサイズだったらしい。パーティは、新しい方のプールサイドで、約30人ほどのお客さんが集まりました。ほとんどがダイアナと同世代のオバちゃんばかり。まぁ賑やかなことこの上なし。

フィリピンのパーティには欠かせない豚の丸焼き「レッチョン・バボイ」が食卓に上り、私は例によって歌唱担当。70年代なので最初にアバの「ダンシング・クイーン」を歌ったら、すごく盛り上がりました。最後は金髪のウィッグとセクシーな衣装に身を固めた、トウの立った三人娘(?)が、マドンナの「マテリアル・ガール」を踊ってお開き。ホテルの敷地内なので、午後10時には撤収です。

私は、その夜のうちに帰れない距離ではなかったものの、深夜にバコロド市内を運転するのも面倒で、一泊して翌朝帰宅に。当然自分で払うつもりが、ダイアナが気を使って、先払いで一番良いスイーツを取っておいてくれました。一人で寝るには広すぎるなぁと思ってたら、一緒に来てたダイアナの妹二人とその娘さんが一人が一緒。なんだ、そういうことか。

誤解のないように書き添えておきますと、さすがのスイート・ルームなので、部屋は二つに仕切れる作りになっていて、ベッドも私が使ったダブル以外に、シングルが三つ、ちゃんと用意されてました。




翌朝は前夜に続いて良い天気で、プールサイドでゆっくり朝ごはん。海がすぐ近くなんですが、残念なことにバコロド周辺ってきれいなビーチがないんですよ。なので海沿いなのにプール・リゾート。それでも雰囲気はすっかりトロピカル。お腹いっぱいになって、大ぶりのカップでコーヒーを飲むと、ここが自宅から車で1時間もかからない場所とは、ちょっと信じられない感じでした。次回は、カミさんを連れてきましょうかね?


2025年2月18日火曜日

なぜかミンダナオ 最終回 MCL創設者・松居友さんのこと


松居 友 著「サンパギータの白い花

 前回の更新からちょっと間が空いてしまいましたが、引き続き、ミンダナオ島滞在について。今回は、私が4泊5日でお世話になったミンダナオ子供図書館(MCL)創設者の松居友(まつい とも)さんについて。

実は私、ツイッター経由で知り合った日本人スタッフの梓さんの伝手で、MCLを訪問するまで、日本人が立ち上げたNGOだとは、まったく知りませんでした。てっきりフィリピン人が自ら作った組織に、梓さんがその趣旨に共感して参加したのだと思い込んでいた次第。確かに今現在は、フィリピンのNGOとなっているものの、そもそも松居さんが、ミンダナオの先住民のマノボ族の困窮を見るに見かねて、親を亡くしたり家庭が崩壊して学校に通えない子供たちを、奨学生としてご自分のアパートで世話をしたのが事の始まり。詳しくは「松居友プロフィール」をご覧ください。

最初に私が松居さんと、MCLのダバオ事務所でお会いした時には、そんな予備知識ゼロ。ただ、たいへん穏やかな人柄の中に、ただならぬ「凄み」のようなものを感じ、深夜にもかかわらず話し込んでしまいました。後になってMCL創立の経緯を知り、そりゃ凄いはずだと膝を打ちつつ、失礼なことを言っちゃったんじゃないかと、冷や汗を流してしまいました。

松居さんは「創設者」と呼ばれることを潔しとはされないようで、図書館の運営は、すべてスタッフのお陰と仰います。しかし松居さんがいなければ、MCLは存在していません。その功績で、マノボ族の酋長に選ばれたとのことですから、人々の信任の厚さはたいへんなもの。

さて、そんな松居さんにお会いした時に思い出したのが、私が敬愛して止まない司馬遼太郎さんのエッセー集「以下、無用のことながら」に収録された「並外れた愛 柩の前で」の一節。これは、ジャーナリストであり、ノンフィクション作品「サイゴンから来た妻と娘」で知られ、1986年に夭折された、近藤紘一さんへの弔辞として書かれた文章です。以下少々長くなりますが、引用します。


君は、すぐれた叡智のほかに、並はずれて量の多い愛というものを、生まれつきのものとして持っておりました。他人の傷みを十倍ほどに感じてしまうという君の尋常ならなさに、私はしばしば荘厳な思いを持ちました。そこにいる人々が、見ず知らずのエスキモー人であれ、ベトナム人であれ、何人であれ、かれらがけなげに生きているということそのものに、つまりは存在そのものに、あるいは生そのものに、鋭い傷みとあふれるような愛と、駆けつい抱きおこして自分の身ぐるみを与えてしまいたいという並はずれた惻隠の情というものを、君は多量にもっていました。それは、生きることが苦しいほどの量でした。


私は、近藤さんの全著作を繰り返し読むようなファンだったので、おそらく近藤さんの人となりは司馬さんの描写した通りなのだろうと思う反面、正直なところ、そんな人が実在するのか?司馬さんの盛りすぎじゃないとかとの疑念もありました。ところが、ほぼその描写通りの方がおられたんですよね。

私は常々、ボランティアという行為は自分のためにするもの、と考えております。身も蓋もなく言ってしまうと「褒められたい」からする。でもそれが悪いということではなく、困っている人を助けたい、悲しんでいる人を喜ばせたい(たとえそれが束の間であっても)と思うのは、人間の本能に近い感情。そのためには、喜ばせるための技術が必要だし、それをちょうど良いタイミングと量で提供しないと、しばしば逆効果にもなる。

つまり、単に自分がやりたいからやる、ではなく、それなりの知恵や経験が必要で、決して簡単なことではありません。継続的にやるなら尚更です。そこまで考えてやるなら、自己満足も売名行為も大いに結構。

ところが松居さんのマノボの人々への思いは、司馬さんの言葉を借りれば「生きるのが苦しくなるほどの、並はずれた惻隠の情」。やりたいからやるなんて、生ぬるい気持ちではなく、人々を見捨てれば、自分の身が焼かれるほどの感情が激っているんだろうと推測します。もちろんこれは、私のような凡人が真似ることができない領域。神さまは、ごく稀に、このような魂を持った方を、この世にお遣わしになるようです。


ということで、9回に渡って投稿してきた、私のミンダナオ滞在シリーズはこれで終わりです。ここまで読んでいただいた方、長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございました。


2025年2月13日木曜日

なぜかミンダナオ その8 ビサヤ語は侵略者の言葉

 前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。今回は、ミンダナオ島の複雑な言語事情の話です。かなり刺激的なタイトルですが、実際にこう語る、ミンダナオの先住民の方がいるそうなんですよ。

このシリーズ投稿の最初に、ミンダナオの歴史について簡単にたどった通り、ざっと島の3/4を占めるビサヤ語やイロンゴ語話者がマジョリティの地域。これは歴史的には新規入植者。第二次大戦後と言いますから、せいぜい80年しか経っていません。実は以前から、なぜフィリピン中央部の言葉であるビサヤやイロンゴを話す人たちが、南部のミンダナオに多く住むのか疑問に思っていました。ちなみにミンダナオの最大の都市ダバオの市長を長く務めた、ドゥテルテ前大統領もビサヤ語が母語。家内によると、彼の喋る英語やタガログ語は、ベタベタのビサヤ訛りなんだとか。

こういう経緯があるので、ビサヤ語ほどではないものの、私が訪問したミンダナオ子ども図書館(MCL)周辺には、私が住む西ネグロスの言葉であるイロンゴを解する人が多い。なので、イロンゴに訳した日本の歌を歌ったわけです。まぁ言葉がどうこうより、子供たちにすれば聴き慣れないメロディだったので、ノリはイマイチでしたけど。

とは言え、一緒に食事の用意をした時には、私のイロンゴが結構通じて面白かった。お互いに第二・第三言語なので、かえって分かりやすいし聴きやすい。これは以前に仕事でヨーロッパに行った時、イギリス人とより、ドイツ人やイタリア人との英語会話が通じたのと似てます。ただ、最初はイロンゴで話しかけても、ところどころでビサヤ語が混ざり、聞き返しているうちに結局英語、なんて感じにもなりました。

ところでミンダナオのビサヤ語って、発祥の地であるセブやその周辺のビサヤ(セブアノ)とは、語彙や言い回しがかなり違うそうです。と言うのは、入植者は必ずしもセブからだけではなく、フィリピンの他地域からの人もいるので、タガログやその他のフィリピンの諸言語が混ざっている。私にはまったく分かりませんが、同じ言葉を話してるはずのセブから来た人が、戸惑ったりすることも。

このようにミンダナオは、いろんな意味での多言語地域なんですが、少なくとも私が滞在したMCLでは、ビサヤ、イロンゴ、ミンダナオ土着の言葉でMCLの子供たちが話すマノボなど、どの言語を母語としていても、みんな平和に暮らしています。食材の買い出しに行った公設市場では、私がイロンゴを話すとみんな面白がって、周囲にいた人たちがすぐに言葉をスイッチしてました。

ところが残念なことに、ミンダナオ全島がそうではなく、今も地域によっては、言葉の違い、あるいは宗教の違いを理由にする争いが続いてるとのこと。他島の住民かつ外国人である私には、それについてどちらにも批判的なことは言えませんし、ビサヤやイロンゴを「侵略者の言葉」として忌み嫌う先住民の人がいるのも、仕方ないのかも知れません。

それだけでなく、私がたいへんだなぁと思うのは、こういう環境で勉強する子供たち。特にマノボ出身だと、まず普通に街へ出て買い物をするだけでも、ビサヤ語を覚えないとなりません。さらに学校ではフィリピンの公用語である英語とタガログ(フィリピノ)語を教科としての学習が必須。教科書は公用語で書かれているので、それが不得手だと全教科で成績が悪くなる。いやもうこれは、虐待に近い。せめて公用語は英語だけにしてあげてよと、お願いしたくなります。実際、小学校一年からフィリピンで育った息子など、幸い英語は問題ないけれど、フィリピノ語には悪戦苦闘の12年。

この状況を間近に見ていると、日本語だけで高等教育が受けられるのは、なかなか素晴らしいことだと再認識。日本が明治時代以降いち早く近代化に成功し、20世紀初頭にヨーロッパ諸国に列するところまで行けたのは、母語か比較的母語に近い単一の共通語で、教科書を編纂できたのが大きかった。おそらくどんな方言であっても、書き言葉の漢字を共有してたのも重要だったでしょう。

ということで今日は、言葉の観点からミンダナオ滞在を振り返ってみました。次回は遂に最終回、MCL創設者の松居友(まつい とも)さんについての投稿です。



2025年2月12日水曜日

なぜかミンダナオ その7 タガログ語で歌う

 前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。今回は、ミンダナオ子供図書館(MCL)の子供たちの前で、日本人である私がタガログ語の歌を歌ったというお話。

急に思いついたわけではなく、30代の頃からカトリック教会の聖歌隊の一員として、ずっと歌ってはいたんですよ。それだけではなく、一時はアマチュアコーラスグループに所属して、クラシックの声楽曲を練習したり。一応ホールを借りて、ハイドン作曲の「テレジア・ミサ」を人前で披露するところまでは演りました。もちろんソリスト(独唱者)ではなく、バックコーラスの一員で、当たり前にノーギャラですが、一回でも聴衆を前に歌う経験があると、病みつきになるもんですね。「役者と乞食は三日やったら止められない」なんて言いますが、多分、歌手とかミュージシャンも同じなんでしょう。

その後も日本にいる間は、所属教会で歌い続け、月に一回ぐらいは「答唱詩編」も担当。これは何のこっちゃというと、その週の聖書の一部を朗読した後、そこにメロディをつけて歌う。これが、先唱のソロと出席者全員の掛け合いみたいに歌います。小さなチャペルでも100人ぐらいは集まるので、先唱者になるとなかなか緊張するんですよね。そのおかげで、人前で歌う度胸は鍛えられたというわけです。

そしてフィリピン移住。さすがに人口の八割以上がカトリックなので、ミサで少々大声で歌っても「聖歌隊へ是非!」なんて声は掛かりません。ものすごく信者層が厚い上に、歌うのが大好きな国民性。大聖堂で歌ってる人など、その中から手を挙げた、ほぼプロのレベルの歌い手ばかり。日本だと、そもそもの信者数が少ない上に高齢化が進み、聖歌隊の成り手が少なくて、転勤先で新しい教会に行くと最初のミサの後に100%の確率でお声えがけがあったものなんですが。

それでも毎週のミサでは、英語やタガログ語、時には地元の方言イロンゴ語の聖歌も、耳で覚えて歌ってました。ちなみに私、歌が好きなわりには楽譜が読めないんですよ。その上日本と違って、全員に「典礼聖歌集」みたいな歌詞と楽譜が記された冊子があるわけでもなく、事前練習もできない。ミサ当日にひたすら聴いて覚えるしかないわけです。さすがに最近では、オーバーヘッドプロジェクターで、歌詞だけは見られるようになりました。

ところが5年前のコロナ禍。ミサに行けなくなっちゃったので、週一の歌う機会が奪われてしまい、仕方なくYouTubeでカラオケ音源を集めて歌詞を印刷し、一人で「ボイストレーニング」と称して歌の練習を始めました。

なかなか孤独な趣味なんですが、始めてみると面白く、何より毎日1時間近くも歌ってると声も出るようになる。最初は途中で息切れしたり、高音部で声がかすれてた曲が、普通に歌えるようになると、ではもう少し難しそうな曲に...とチャレンジ。そうこうしているうちに、レパートリーは100曲以上になりました。日本語・英語だけでなく、タガログ語によるOPM(オリジナル・フィリピノ・ミュージック つまりタガログ語の歌謡曲)や、ラテン語のミサ曲やイタリア語、さらには、家庭教師にイロンゴ語の訳詞を書いてもらった日本の流行歌。

コロナ禍が下火になった後も、習慣になったボイトレはずっと続けていて、今では親戚や友達のパーティで歌ったりしてます。その話は何度もこのブログでも取り上げました。これって日本で同じことしようとしたら、それこそ落語の「寝床」に出てくる、義太夫を無理やり聴かせる長屋の大家さんみたいに、迷惑がられるかも知れませんが、フィリピンではとにかくウケる。まぁ私が歌い出さなくても、パーティがカラオケ会場になっちゃうのはよくあるパターン。



ミンダナオまで持参した愛用の譜面台
楽譜ではなく歌詞カードですが

延々と書いてきましたが、そんな背景があったので、今回のMCL訪問に際しても、夕食後の歓迎会と送別会に思いっきり歌いました。曲目は英語や日本語、タガログ語に前述のイロンゴ語訳の歌などなどでしたが、結果的に一番盛り上がったのは、みんなが知ってるアップテンポな曲。特にビートルズの「オブラディ・オブラダ」と、アバの「ダンシング・クーン」が全員で合唱になるほどの大騒ぎ。私はマイクを使わず歌うスタイルなので、自分の歌声が聴こえないほどでした。なぜかフィリピンでは、すごく若い世代でも1970〜80年代のポップスをよく知ってるんですよね。

あと、日本人スタッフの梓さんにいただいたのが「日本人がタガログやイロンゴで歌うと喜びますよ」というアドバイス。イロンゴ訳の歌はイマイチでしたが、タガログ語の「マイ・ブーカス・パ(フィリピン版 明日があるさ)」は、しんみりと聴き入ってくれました。

ちなみに夕食後のミニ・コンサート。私が一方的に歌うのではなく、子供たちもギターの伴奏で歌ったり踊ったりしてくれました。元々それがメインで、ゲストがこんなに歌い倒すのはわりと珍しかったようです。

ちょっと失敗したのは、歌う前に喋りすぎちゃったこと。MCL創設者の松居さんやそのご子息、スタッフの梓さんに、たまたまMCLに滞在中だった日本の学生さんたちと、久しぶりのまとまった日本語会話。こうなるとつい喋り続けてしまうんですよ。何時間ものお喋りの後に歌うのは、喉への負担が大きかった。

というわけで、やや「日本爺さんの自己満足」の気配があったものの、全体的には子供たちが楽しんでくれたようなので、まぁ上手くいったかなと思います。

次回は、ミンダナオ島の複雑な言語事情についてのお話です。



2025年2月5日水曜日

なぜかミンダナオ その6 フィリピンの食生活

 前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。5日間にわたって、ミンダナオ子供図書館(MCL)の子供たちと、食事を一緒に作って食べるという経験しました。日頃、フィリピンの家族のために、地元の食材を使った食事を毎日用意しているので、料理したり食材を買い揃えるという行為は、特別新しい経験ではなかったのですが、日々の食事を支えるスタッフや子供たちのリアクションには、いろいろと考えさせられました。

まず前々回にも書いた通り、決して潤沢な予算があるわけではないMCLで、何十人もの食べ盛りの子供たちに食べさせるためには、いかに安く食材を入手するかが一番の課題。そのために、寮母さんたちは毎週の買い出しに市内の市場やスーパーを駆けずり回っておられます。それでも、食卓に並ぶおかずを見ていると、品数も量も十分とは言えないなぁというのが、私の率直な感想。

もちろん、子供たちが生まれた環境からすれば、とにかく三度の食事にはありついているので、もし食事内容について質問したとしても、少なくとも不満はないし、文句を言ったらバチが当たる...という感じなんだろうとは思います。日本人スタッフの梓さんによると、1日1度の食事さえ難しいような家庭から、新しく入ってきた子供の場合、最初のうちは食べきれないほどのご飯を自分の皿に盛ってしまう。そして他の子供が食べ終わった後も、黙々と食べ続けるなんてことも。

ちなみにフィリピンでは、貧困層とまではいかなくても、経済的に余裕ない人は、僅かなおかずでたくさんのご飯を食べるスタイルが一般的。以前の我が家のメイドさんが典型的にこれ。通いなのでお昼だけは、私が家族に作ったものを一緒に食べてましたが、例えば前夜のカレーの残りを出すと、山盛りのご飯に、ちょっぴりのカレー。時々食べすぎて、午後からの仕事に支障が出るほど。

なので、私が追加で作った料理を、みんながすごく喜んでくれたのは、料理の出来や味つけ以前に、単純に食べられる量が増えたというのも大きいでしょう。さらに、日頃なかなか口にできない食材、例えばシチューに入れたマッシュルームとか、お好み焼きにトッピングした刻んだエビなどが嬉しい。朝食に出したサンドイッチでは、中身の卵よりパンそのもの。MCLでは3食とも米が基本ですからね。一緒に食べててそう言われると、心の中で「そこか〜い」ってツッコみつつも、なんだ不憫になってしまいました。

蛇足ながら、最後の昼食に作ったスパゲティ・ナボリタン。寮母のジョイさんが「テースティング(味見)」と称して、食事前にけっこうな量を食べてたのが可笑しかった。



市場にてジョイさんとツーショット

その反面、バリエーションの幅が少なくても、MCLでは野菜や肉のバランスも、それなりに考えられた献立なので、まだ救われてます。かつて私が接したことのある貧困層の食生活は、まったくお話になりません。

そもそも食育どころか、親がまともな教育を受けていないこともあり、子供が好むものだけを与えるなどして、虫歯だらけだったり、極端な偏食家に育ってしまうケースがとても多い。つまり、肉と白米だけしか食べない、逆ビーガンな人たち。なので、お金に困っているのに肥満だったり、糖尿病や心臓発作で亡くなる人がどれだけ多いか。平均寿命が日本より約15年から20年も短いのは、新生児の死亡率の高さや医療の不備もありますが、日頃の食生活が影響している側面も無視できないと思います。

ちなみに、おかず少なめでご飯大盛りって、なんだか既視感があるなと思ったら、私の母がよく話してくれた子供時代の食生活。それも、戦時中や終戦直後の食糧配給制の時代ではなく、かなり食料事情が改善してきた昭和20年代の後半から30年あたり(1950年頃)。まずは米増産!ということで、白いご飯だけは腹一杯食べられるようになったけど、毎日お肉とか毎朝卵はまだちょっと届かず。たまに「今日はすき焼き」なんて言われると、みんな大喜び。子沢山も今のフィリピンに似ていて、母は6人、父は8人の兄弟姉妹だったそうです。

意外なところで、父母が子供の頃、毎日食事を作っていたであろう祖母たちの苦労に思いを馳せてしまいました。ということで、MCLでの料理編はこれで終わり。次回はフィリピンの子供たちの前で、変な日本人がタガログ語の歌を歌った話です。



2025年2月3日月曜日

なぜかミンダナオ その5 キューピーすごい


MCLでの食事風景

   前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。第5回でやっと今回のメインイベントとも言える、お好み焼きを作った話に辿り着きました。

今までツラツラ書いてきた通り、ミンダナオ子供図書館(MCL)のみなさんのために、何を作ったら喜ばれるかはずいぶんと考えました。実は当初、そばやうどんの麺類とか、ハンバーグにトンカツなどの、日本でポピュラーな献立も頭に浮かびまました。でも以前に書いた通り、あまり日頃の味覚から遠い食材だと拒否反応が出るだろうし、そもそも豚肉はNG。なんとか日本らしさ(というより関西らしさ?)があって、フィリピンの子供の口も合うかと、捻り出した案がお好み焼き。

結局MCL滞在中、夕食は3回作って、最初がクリームシチュー、2夜目がルンピア(春巻き)、最後の夕食にお好み焼きというフォーメーションにして、まずはクリームシチューがスマッシュヒット。続くルンピアは、元々こちらでも人気料理だし、MCL子供たちも時々作っているそうです。おそらく具材はシンプルな感じだろうと思いますが、それでも結構手間はかかるんですよね。

逆に言うと、皮を巻く作業はみんなに手伝ってもらえるということ。さらに巻きやすいように、ダバオのSM(大型ショッピングモール)で、中国製のちょっと高くて大きい春巻きの皮25枚入りを3パック買っておきました。これなら簡単には破れないし(市場で売ってる丸い皮は、安いだけあって破けやすい)歩留りは良いはず。

なので、私が注力するのは中身の具材のみ。にんじん・インゲン豆・タケノコ代わりのじゃがいも、ニンニク&生姜と、椎茸代わりのマッシュルームを、鬼のように細かく刻み、隠し味の缶入りツナフレーク。これに小麦粉とオイスターソースを水で溶いたものを加え、でっかい中華鍋で炒めます。出来上がった具材を食堂のテーブルに運んで、その日の料理当番全員に手伝ってもらって皮巻き大会。この共同作業がとても楽しくて、なかなかの連帯感。

いつもは丸い皮が、今回は四角いものに変わったので、最初子供たちは「?」となってましたが、私が一個だけ見本を巻くと、あっという間にコツを飲み込んで、速攻で75個のルンピアが巻き上がりました。ここまで来れば、揚げるのは皆さん慣れているのでお任せ。


まぁ食べ慣れたルンピアなので、評判が良いだろうとは思ってましたが、予想以上のバカ受け状態。食事が終わったあと、別棟に住んでおられる、MCL創立者のご子息の方(日本人)が、スタッフから分けてもらって一個口にされたところ「すごく美味しい」と感激され「鰹節でも入ってるんですか?」と聞かれました。たしかにツナは入ってますけどね。

明日はお好み焼きですと言うと、なんだか妙にテンションが上がって「楽しみにしてます!」。うわっ、これはプレッシャー。こう書くと、私が料理の腕を自慢してるいたいですが、ずっとフィリピンに住んでると、ちょっとした日本の味が、とても美味に感じるものなので、そこは差し引いて考えないといけません。

そしてお好み焼きの日。まず前日、市場で買った大きなキャベツを刻むところから。さすがにこれは、みんな初めて見る料理なので、「このオっさん、今度は何を作るんだろ?」とばかりに興味津々。いよいよ焼き始めるという頃には、カマドの周りに数人の子供が観客みたいに集まって来て、ひっくり返すと拍手喝采。ちなみに豚玉ではなくエビ玉です。

ここからが懸案のマヨネーズととんかつソース。いきなり全部かけちゃうと「美味しくない」となった時に取り返しがつかないので、小皿に少し取って混ぜて、一人づつ味見をしてもらうことにしました。結果は取り合いになるほどの盛況。一番ちっちゃな女の子などは、皿に残ったマヨネーズとソースを、持ってたスナック菓子につけて、きれいに拭き取って食べてました。フランス料理か?

こうして焼き上げた17枚は、これまた瞬殺で完食。たまたまこの日は、MCL創立者の松居友(とも)さんも、フィリピン人の奥さんと一緒に食卓に。「ピザって言うからそう思って食べたら、まるでお好み焼きですね」。受け入れらやすいようにと「ジャパニーズ・ピザ」って説明しましたが、間違いなくお好み焼きです。

中でも一番喜んでいただいたのが、松居さんの奥さん。日本の生活が長かったそうで、懐かしい味に再会した、という感覚だったんでしょうね。


お好み焼きの日の料理当番の皆さん。向かって左上は寮母さん。

それにしても、キューピーのマヨネーズは偉大です。私がフィリピンに移住した頃には、すでに輸入食材として出回っていたキューピー。最初はベトナム製の甘いものも併売されてましたが、いつの間にかそちらは見かけなくなり、今店頭に並んでいるのは、フィリピン製。ただし味は紛うことなく日本のマヨネーズ。家内の親戚にキューピーファンがいるぐらい。

ということで、移住して12年。ずっと料理担主夫として台所に立ち続けてきたのは、この日のための伏線だったのか?と思うほどの充足感でした。フィリピンでの食生活については、まだまだ書きたことがあるので、この続きは次回へ。



2025年2月2日日曜日

なぜかミンダナオ その4 薪で調理のクリームシチュー

  前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。今回は、いよいよ現地で調理です。

ダバオで日本のマヨネーズやとんかつソースを買い込んで、市内のジョリビー(フィリピンでNo.1のファストフードチェーン)でお昼。お腹いっぱいになって、いざ目的地ミンダナオ子供図書館(MCL)キダパワンへ。

実は、ダバオから車で3時間って、狭くて曲がりくねってアップダウンの激しい、山道みたいな道路を想像してたんですよ。ところが案に相違して、片側2車線から4車線もある、まるで日本の高速道路。もちろん信号や交差点もあるので、自動車専用道ではないものの、ほぼ全行程ゆるやかな傾斜があるぐらいの、快適なドライブでした。ただ一箇所だけ「内戦」の片鱗を垣間見たのは、中間辺りのチェックポイント。そこにはフィリピン軍のものと思しき、濃緑色に塗装された装甲車が一台停まってました。

そしてキダパワン市内。これまた、どこか治安が悪いんや?というような、ごく普通のフィリピンの地方都市。相変わらず道は広くて汚い感じが微塵もない。野菜やお肉を買うために立ち寄ったローカルの公設市場など実に広々としていて、ざっと見た感じ、私の住むシライの市場の2倍はありそうで、並んでいる食材も豊富。やや内陸に位置するキダパワンでも、毎日新鮮な海産物が届けられているとのこと。さらに、イスラムでは御法度の豚肉も当たり前に売られてます。やっぱりここでも、マジョリティはカトリックなんですねぇ。


この市場で、鶏一羽丸ごとをナタで細かく切ってもらい、さらに獲れたてのエビを2キロ購入。その他諸々の野菜を買って、MCLに着いたのは夕方の4時頃でしたでしょうか? 事前に写真で見ていたの同じく、MCLは緑に覆われた敷地にゆったりと何棟かの建物がありました。この写真のイメージで、よほどの田舎かと思い込んでいたんですが、実際には隣が住宅地。聞くところによると、キダパワン市内に最後に残ったイスラム教徒のマノボ族の土地を、譲り受けたものなんだそうです。


出典:ミンダナオ子供図書館日記

さて、到着早々荷解きもそこそこに、たくさんの食材を両手に抱えて、早速MCLの調理場へ。待っていたのは、スタッフの寮母さんと、その日の料理当番の子供たち。8畳から10畳はある離れのような建物で、広くて明るくて想像してたよりずっと清潔。ただし煮炊きはガスではなく、薪をくべるスタイルのカマドが4つ。外では中学生ぐらいの女の子が斧を振るって、今日使う薪を慣れた手つきで割っています。

薪で火を起こすのは、子供の時、キャンプで飯盒を使った時以来。さすがにこれは子供たちに任せて、その日の献立クリームシチューに取り掛かった次第。


料理当番の子供たち


包丁とまな板、鍋の類は普通に揃ってるし、大きなヤカンに入った食用油、塩コショウに味の素もあるので、私はひたすら野菜を刻んで、大鍋に放り込んで煮るだけ。味付けもダバオで買った10缶のポタージュスープと卵を入れて完了で、初日は楽勝でした。ちょっと引いてしまったのは、食器代わりにプラスチックの洗面器使ってたこと。もちろん食事専用なんだろうとは思いますけどね...。

ずいぶんたくさん作ったつもりのシチューも、40人の子供に分けるとなると、一人分の量は知れたもの。おかずはそれだけではなく、元々用意してあった献立もあるので大丈夫なんですが、美味しい美味しいと秒殺で完食いただいて、とりあえずホッとしました。ちなみに子供たちが薪で炊いたご飯も美味しかったです。みんな「お焦げ」という日本語を知ってて、それが大好物。

初日の感触では、夕食だけでなく朝やお昼も行けそうだったので、翌日もう一度、市場への買い出しに同行して追加の食材を買うことにしました。この日は、別の寮母さんのジョイおばさんが買い出し担当。昨日の市場だけかと思ったら、少しでも安く上げるためにと、野菜はここ、鶏肉はここ、調味料は...という具合に、市内を転々と回りました。なんだか涙ぐましい努力。このジョイさんは、元MCLの奨学生。卒業を待たずにギブアップしたけれど、結婚・出産の後MCLに戻って、今の仕事をしているそうです。彼女もイスラム教徒で、外出時には髪をショールで隠してました。

買い出しから戻ると、短い休憩を挟んですぐに昼食作り。それ以降、私が作ったのは、チキンアドボ(鶏肉の酢醤油煮込み・フィリピンの定番家庭料理)、ルンピア(フィリピン式春巻き)、翌朝のたまごサンドイッチ、カロカロ(炒飯)、お好み焼きに、スパゲティ・ナポリタン。

おかげ様で、どれも喜んで食べてくれて、たくさん残されたどうしようという心配は、杞憂に終わりました。むしろ、もっと量を作ってあげた方が良かったかなと後悔するぐらい。中でも春巻きとお好み焼きは、子供たちだけでなくスタッフにも大好評。ということで、その詳細は、次回に続きます。