2025年8月15日金曜日

敗戦80年に想う

 「敗戦80年に想う」と題したものの、私はまだ還暦を過ぎて数年なので、当然、先の大戦は経験しておらず、両親や祖父母、親戚や学校の先生から話を聞いただけの者です。それでも、物心つくかどうかの幼少期から、繰り返し聞かされた戦中・戦後の悲惨な体験。それに加えて、映像や書物、さらにはマンガなどで、トラウマになるほど心に刷り込まれているので、やはり八月十五日には、いろんなことを考えてしまいます。特に太平洋戦争での最大の激戦地の一つだった、フィリピンに住んでいれば、尚更です。

ちなみに私の両親は、敗戦時に8歳と9歳。母は大阪から親戚の住む長野県に疎開していたので、直接の空襲被害は受けなかったものの、父は大阪大空襲を間近に見ています。今に至るまで、当時のことはまったく話しませんが。

幸いにも、祖父母も叔父や叔母にも、戦死したり空襲で亡くなった人はいないものの、誰に聞いても食糧難は本当にたいへんだったとのこと。確かに、小学生ぐらいで満足に食べ物を口にできないって、その後の人格形成にも影響が出たと思います。この世代の人たちって、サツマイモやカボチャは、子供の頃に一生分食べたから、もう見たくもないって言いますからね。

さて、今年は80年目という節目なので、ネットで眺めているだけでも、実にいろんな記事や言説が流れてきます。さらに、ウクライナやガザでの終わりの見えない殺戮が続き、一つ間違えば核兵器が実戦で使われるかも知れません。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が、昨年(2024年)のノーベル平和賞を受賞したのも、その可能性のヤバさが理由なのは、まず間違いないところ。

ここで唐突ですが、「ダウンフォール作戦」ってご存知でしょうか?訳すれば「破滅」の意味にもなる物騒な名称ですが、これは、1945年から46年(昭和20〜21年)にかけて、アメリカ軍が計画していた、日本本土への上陸作戦。まず45年11月に九州南部に上陸領(オリンピック作戦)し、そこを根拠地としてさらに翌年に、関東平野一円を占領(コロネット作戦)する予定でした。

この作戦は、原爆使用やソビエト連邦の参戦などがあり、日本政府がポツダム宣言(無条件降伏勧告)を受け入れて実施されなかったんですが、もしこれが現実になっていたら、私は生まれていなかったかも知れないし、その後の歴史もまったく違っていたでしょう。何しろ推定の日本側の死者が500万から1,000万(民間人含む・諸説あり)で、当時の総人口の7〜15%がいなくなる計算でした。

そしてここからがポイント。こういう話は日本人としては想像するのも苦痛だし、大戦末期の日米の圧倒的な戦力差からすると、巨人が虫けらを踏み潰すようなイメージなんですが、アメリカ軍の責任者や為政者の立場で考えたら、決してそんな簡単な話ではなかった。

例えばサイパンや硫黄島も沖縄も、その上陸と占領には、当初のアメリカの見込みよりはるかに長い期間を要し、多くの死傷者を出しています。もちろん日本側の被害に比べれば、ずいぶん少ないものの、沖縄だけで1万人以上の兵員が失われてますから、これが日本の本土となったら、大雑把に見積もっても、その何十倍の損耗は覚悟したでしょう。また、特攻や民間人まで動員した、相手からすれば狂信的としか思えない日本の戦い方を目の当たりにして、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症する兵士も多かった。

実際には大雑把どころか、アメリカらしく事前に綿密な調査と研究が行われ、戦力分析だけでなく、予定戦場の地質まで調べたそうです。そして導き出された米軍の被害予測が、少なくとも戦死者25万人。場合によっては100万という見方もありました。史上最大の上陸戦と評されたノルマンディさえ比較にならぬ数字に、当時のアメリカ大統領トルーマンがビビったのも無理からぬ話。

「私は生まれなかったかも」と書きましたが、これはアメリカ側でも同じように考えた人も多く、もし戦争が長引いていれば、父は戦死して復員せず、その子供である私は存在しなかっただろうと。

こういう背景を知ると、後にアメリカ人が核使用を正当化する際の「原爆は、何万人ものアメリカ兵の命を救った」という常套句も、必ずしも詭弁や言い逃れとは、思えなくなってきます。念の為に書きますが、だから広島や長崎の犠牲は仕方なかった、など言ってるのではないですよ。民間人への無差別爆撃は、当時であっても明白な戦争犯罪だし、とても許される行為ではありません。

私が問題だと思うのは、こういった事実や数字が日本の学校で、まったく教えられていないこと。被害者として、戦争がいかに悲惨で、繰り返してはいけないというのは、私の世代は、嫌というほど教わりました。しかし、なぜ当時の為政者が戦争を始めたか、その背景や経緯はどうだったか、などなど、感情に訴えるだけでなく、歴史的にどうだったかの視点がなさ過ぎる。これでは、現実にどうすれば戦争をしなくて済むのか、その具体的な行動指針も考えられない。

実は私がまだ大学生だった頃に「昭和16年夏の敗戦」という、その後都知事になった猪瀬直樹さんの著書を読みました。それによると真珠湾攻撃の半年前に、対米戦争やっても勝ち目はないとの分析結果が、当時の内閣直轄の組織だった、総力戦研究所で出てたんですよね。それも、ほぼ史実を予言するような形で。

にもかかわらず、その結果を無視して全面戦争をやってしまい、もっと悪いことに、国が滅びるかというほどの負け方をしてもなお、冷静に知的に、その教訓から学ぼうとしないのはなぜなのか? 私たちが受けた平和教育が無駄だとは思いませんが、それと並行して、当時の世界情勢や日本の軍事力の実態、日本政府や軍部の指導力、帝国憲法の問題点など、冷徹な乾いた目で見定めて、少なくとも高校できちんと教えるべきじゃないでしょうか?

ところが、軍事について語ろうとしただけで感情的になって、軍国主義だの右翼だのレッテルを貼られてしまうのが戦後教育の現実。挙げ句の果てが、「あの戦争は軍部の暴走」という一種の思考停止で片付けて、それ以上考えることもしなくなる。これは憲法9条についても同じで、問題点を論じるどころか、その話題に触れることすらタブー。

その結果、戦略的にまったく割の合わない特攻や集団自決を、美辞麗句で飾り立てるような人が、政治家の中からさえ出たりします。それに異を唱えると「お前はそれでも日本人か?」ですからね。特に今回の参議院選で、参政党から候補者の発信には、目を覆いたくなるものがありました。

ということで、書いているうちに熱くなってしまい、ずいぶんな量になってしまいました。その上、フィリピンやネグロスのことからも離れちゃったし。これは、猛烈な反発があるかも知れません。でもこの件については、昔からずっと考えてきたし、これからも考え続けるんだろうと思ってます。



2025年8月13日水曜日

日本語教師を辞めた顛末

 今年(2025年)5月に、満を辞して始めたオンラインの日本語教師の仕事が、3ヶ月保たずにパーになってしまいました。実は、このブログが1ヶ月以上も間が空いてしまったのも、それが原因。

理由は一つだけではないんですが、まず一番大きかったのが、マネージメントが雑すぎること。元々この仕事は、フィリピン・バコロド(西ネグロスの州都)生まれで、現在日本在住の50代のフィリピン女性Dさんからのオファー。前々回の投稿でも書いた通り、同じく日本に住んで仕事をしている、あるフィリピン人からDさんへの依頼で、姪っ子に日本で仕事を手伝ってもらいたいから、日本語を教えてほしいとのこと。これは日本語教育だけでなく、来日のためのビザ取得の代行業務の一環です。

当初の計画では、今年の1月からバコロド市内に日本語学校をオープンして、約20名ぐらいの生徒の先生をするはずだったのが、ほとんど説明もなくズルズルとなし崩し的に延期。結局、しばらく学校は無理だからオンラインで一人だけ、給料は1/4で、となったのが5月の半ば。

まぁ、こちらは教職の経験がないので、実務研修を兼ねてと思って引き受けたものの、これが実に難儀な仕事。というのは、生徒さんがいつ日本に渡航して、どんな仕事をする予定で、いつまでにどの程度の日本語レベルが必要かといった、基本的な情報が全然なし。仕方がないので、こちらから根掘り葉掘り質問しなければなりません。

ところが、Dさんから訊いた話と、生徒さんの言う内容が食い違う。Dさんからは、8月末、つまり3ヶ月で150時間の授業を終えたいとの要望が、生徒さんはドタキャンの連続。このままでは間に合いませんと生徒さんに言ったら、別に8月じゃなくても構わないと、焦る素振りもありません。

それだけでなく、他の生徒さんも増やしたいみたいなことを、断片的に言ってくるDさん。でもフォローの情報は皆無。その話が無くなったのか、継続で検討中なのか、途中経過がまったくありません。もちろんメインの日本語学校オープンの見通しも分からないまま。8月に入って、いよいよスケジュール的にヤバいとなって「このままでは先生の仕事を続けるのは無理です。」とメッセージしたら二日遅れの返事で「身内が入院してしまい、なかなか連絡ができません」とのこと。

それはたいへん気の毒なことなんですが、それを理由にマネージメントを放棄されては、現場にいる身としては堪ったものではありません。そんなことがあるなら、せめてすぐに教えてほしかった。

この状況に追い討ちをかけるように、相変わらずモチベーションが超低空飛行の生徒さん。週に14時間の予定が、ドタキャンしまくりで、最後の方は週にたった3時間しか授業ができず。また、まったく平仮名を覚えてくれないので、毎回、教科書にローマ字の振り仮名を振って、英訳まで追加で授業素材準備。これだけで授業1回分で2時間はかかってしまう。そして開始直前の30分前とかに「今日は外食するから休みます」「今日は疲れたので無理です」みたいなメッセージが来ると、心底ガッカリします。

トドメが、生徒さん宅の環境の悪さ。とにかくうるさくて、生徒さんの声が聴き取れず中断もしばしば。というのは、なぜか授業の時間になると決まって、同居している叔母さんが部屋の掃除を始める。それもかなり大掃除に近いような感じでドッタンバッタン。さらに、隣室で他の誰かが大音量でテレビを見てるし、小さな子供たちが絶叫してる。とても集中して授業ができる環境ではありません。

せめて授業の間だけでも静かにするように頼めないの?と、生徒さんに訊いても、どうやら親戚宅に居候しているような身分らしく「ごめんなさん、でもそんなこと頼めないです」。よ〜く考えたら、フィリピンから外国に出稼ぎにいくような人って、この生徒さんに限らず、大家族で狭くて劣悪な環境に住み、学習能力も決して高くないことが多いんでしょうね。

ということで、先が見えず毎日ストレスだけが溜まっていくのでは、わざわざフィリピンの田舎に移住した意味がなくなってしまうので、今回の仕事は辞めることにしました。まぁ安いとは言え、一応3ヶ月は給与生活でをして、久しぶりに「次の給料日が待ち遠しい」感覚を味わえたので、良い経験ができたと思うことにします。



2025年7月1日火曜日

7名死亡の大事故発生


出典:Negros Now Daily

 7月の投稿は、たいへん痛ましく残念な話からになってしまいました。

先週の金曜日(2025年6月27日)、我が街シライの市役所職員を乗せた車が横転し、7名が死亡19名が負傷するという、私が知る限り、シライ史上最悪の交通事故が発生。事故現場は、市役所から山間部へ通じる幹線道路で、山の中腹とは言え見通しの良くそれほどの急坂でもない場所。しかも晴れた午前中なので、最初に聞いた時は「なぜ?」というのが率直な感想でした。

第一報では、トラック絡みの事故とのことで、てっきり市の職員はマイクロバスに乗っていて、猛スピードのトラックと正面衝突でもしたのかと想像しました。ところが実際は、職員が乗っていたのがトラック。しかも本来、人が乗ってはいけない荷台に、30名近い人が立ったまま乗車していたらしい。さらに運の悪いことに、途中でブレーキが効かなくなり、コントロールを失って横転。

おそらく、よほどのスピードが出ていたんでしょうね。事故直後に報道された写真を見ると、亡くなった方々は、道路に叩きつけられたように横たわり、ムシロの代わりにバナナの葉が被せられていました。

まず、これだけの大人数をトラックの荷台に乗せて山道を走るなんて、日本では考えられない状況ですが、フィリピンではよくある話なんですよ。一般的に交通安全への意識が低すぎる。例えば、軽トラや中型トラックの荷台に人を乗せて走るなんて日常茶飯事。さらに驚くのは、バイクに家族4〜5人で乗ってたりする。これがサイドカータイプのトライシクルじゃなくて普通の二輪。お父さんが運転して、前に4〜5歳ぐらいの子供、後ろには赤ちゃんを抱いたお母さん、みたいな要領で。

こんな危険運転が普通なので、いつも「これは事故ったら大惨事やろなぁ」という思いでした。まさにその危惧が現実になってしまったわけです。

なぜ平日の昼間に、市の職員が大挙して山間部へ向かっていたかと言うと、これは定期的に行われている、市が主催の植林事業の一環。フィリピンというと、どこも緑豊かで、熱帯雨林に覆われているイメージですが、実は7〜8割、下手すると9割が伐採されてしまい、危機的な森林破壊が進行してるのが実態。このため山の保水力が低下して、土砂崩れなどの災害が多発。海では、かつて沿岸部に広がっていたマングローブの森も同じ状況になっています。

「アジアの病人」と揶揄されていた1980〜90年代を経て、今世紀に入った頃から経済成長著しいフィリピン。さすがに懐に余裕が出てくると、これまで放ったらかしていた環境破壊にも目が向くようになったのか、2000年代になってからは、あちこちで植林して緑を取り戻そうという機運が盛り上がってきました。

ここネグロス島のシライでも、一時期日本のNGOが協力もあって、今では市役所独自で植林運動を行なっています。まぁ元はと言えば、高度経済成長時代に日本への輸出用に樹木を切りまくったのが発端なので、ちょっと遅すぎる罪滅ぼしみたいなものですが。

そのような、より良きフィリピンの将来を作ろうという活動の途中で、こんな事故が起こるとは、まったく悲しい限り。目的は何であれ危ないことを続けてたら、いずれ事故になるのは、単に確率の問題でしかなかった。

さて、日本人的発想ならば、これから事故の責任追求が始まるところ。市役所の管轄部署の部課長や、場合によっては市長まで首が飛んでも、まったく不思議ではない。ところがフィリピンの場合は、そうはならないでしょうね。トラックの運転手には何らかの刑事罰があるかも知れませんが、役人が責任を感じて辞任するなんて光景は、下はバランガイ(町内会)から上は国政に至るまで、少なくとも私は見たことがありません。

おそらく被害者やその遺族への補償も微々たるもので、そもそも保険に入っていたかも疑わしい。ちなみに家内の弟、つまり義弟は市役所の職員で部長クラスの管理職。直接知っている方が亡くなっているそうです。

細かいことに拘らない大らかさは、この国に暮らす上での大きな魅力とは言え、人命にかかわる事へのいい加減さ、雑なところだけは何とかならないものかと思いますね。差し当たっては、息子に「友達に誘われても、トラックの荷台に乗ったりするなよ」と諭すことぐらいしかできませんけど。



2025年6月30日月曜日

茹で過ぎパスタ好きの国で、頑張る日系レストラン



バコロド市内にオープンした ぼてぢゅう
 コロナ禍以降、私たちが住むフィリピン・ネグロス島でも、すっかり経済成長のペースが戻った感じ。それを裏付けるかのように、昨年辺りから州都バコロドで、日系レストランが開店ラッシュを迎えてます。

元々日本人が多い(数万人規模)マニラやセブなどに比べ、微々たる数だったバコロドの日系レストラン。私たちが移住した13年前には、「いなか」「海星」ぐらいしかなく、7〜8年前に「維心」というラーメン屋さんが出来た程度。もちろん私も全部把握しているわけではないので、もう少しあるかも知れません。

こういう日本食レストランで、ありがちなのが、当初は日本クオリティを再現してたのが、なし崩し的に味も価格もローカライズされるパターン。その後、日本人客が来なくなっても、お店が無くなっていないなら「なんちゃって日本食」で、それなりに成功してるんでしょうね。

そんな中、比較的最近バコロドに出店したのが、ラーメンの一康流。すでにフィリピン国内だけで8店舗を展開中で、かなりの知名度はあるようです。オープン時には、バコロド初の本格的なラーメン専門店なので、かなりの頻度で通いました。ただ残念なことに、これもローカライズが原因なのかどうか、スープの味がずいぶん薄くなっちゃったんですよ。私の口には合わなくなったので、コロナ禍以降は、まったくのご無沙汰。

そして昨年(2024年)頃から、突如、カレーのCoCo壱、三ツ矢堂製麺、和民、そしてUCCカフェのバコロド2号店などが続々とオープン。今年に入ってからは、大阪発祥の「ぼてぢゅう」がやって来たという活況。調べてみたら、ぼてぢゅうのフィリピンでの店舗数は何と113店。これは日本国内の47店舗の3倍近い。

私は関西出身なので、ぼてぢゅうはよく知ってますが、この勢いだと、日本の他地域よりフィリピンの方が、名前の通りがいいんじゃないですか?フィリピンでもお好み焼きやたこ焼きの類いは、以前から人気があるんですが、それにしても「何故」と思いますね。まぁ、日本人として関西人として、フィリピンでお好み焼きがメジャーになるのは、嬉しい限りですが。

ところで肝心の味はどうでしょう?たまたま最近ユーチューブで見た、ホリエモンと和民のCEOである渡邉美樹(わたなべみき)さんとの対談。それによると、最初は日本オリジナルを押し付けてたそうなんですが、今ではフィリピン人シェフのアドバイスに従って、アレンジをしているとのこと。

確かに実際にバコロドの和民へ行って食べてみると、味はもちろんのこと、盛り付けやメニューの詳細まで、いかにもフィリピン受けしそうな日本食、という感じにまとまってました。そもそも日本だったら、居酒屋さんにラーメンや餃子、お寿司は、普通置いてないですよね。居酒屋と言うより、コンパクトな「くいだおれ」に近い感じ。

この傾向は、ぼてぢゅうも同じだし、フィリピン人オーナーが始めたような、小規模な「なんちゃって日本食」レストランでも同様。日本レストランに、ラーメン・餃子・唐揚げ・寿司がないと、フィリピンのお客さんは納得しないようです。

ただ前述のように、ローカライズも度を過ぎると、日本人だけでなくフィリピン人も離れていってしまう。と言うのは、昔に比べると、日本からの輸入食材や調味料は簡単に入手できるし、それほど裕福でなくても、日本に旅行して本物の日本の味の体験者が増えています。

なので、どの程度までフィリピン・ローカルの味やサービスに寄せるかは、かなり匙加減が難しいそうです。分かりやすい例で言うと、なぜか茹で過ぎパスタが大好きで、安い店だとグダグダに柔らかく、甘いソースでベチャベチャのスパゲティが出てきちゃう国。だからと言って、マニラの丸亀製麺のうどんはグダグダではなく、それなりにコシがありますからね。



フィリピンの親戚が作ったカルボナーラ(上)
私が作ったボロネーゼ(下)

ということで、地方都市バコロドですら、益々充実していく日本食レストラン。次は、天下一品のラーメンや家族亭の天ぷら蕎麦が食べたいなぁ。

箸でカレーを食べる高齢両親

 今年の3月に再び我が家にやって来た、もうすぐ90歳の高齢両親。今回は12月初旬まで滞在予定で、その半分ぐらいの日程が終わりました。

両親のためにわざわざ建てた2LDKの一戸建て。その値打ちが発揮されてる感じで、すっかり生活も安定した今日この頃です。相変わらず半分寝たきりの母ですが、食事の時には自分の足で歩いて母屋にやって来ます。特別にお粥などの流動食は用意せず、もうすぐ20歳の息子(つまり母にとっては孫)と同じ献立を、88歳という年齢の割には、毎食きちんと食べています。

それに比べて父はかなり元気で、暇つぶし用に日本から持って来た、大きなジグソーパズルに取り組む毎日。日に一回は、家の周りをややよたつきながらも歩行訓練。相変わらず照明や扇風機の消し忘れはあるし、窓全開でエアコンを回すスカタンはやりながらも、一応の意思疎通はできている。

ただ、二人ともアルツハイマーの兆しが出ているのは間違いなさそうで、食事時のふとした行動に違和感を覚えることもしばしば。最近気になってるのは、なぜか頑なにスプーンを使わないこと。明治や大正ではなく、ギリギリとは言えレッキとした昭和二桁生まれの両親。子供時代から普通にスプーンやフォーク・ナイフは使ってた世代だし、それしかなければ、今でもそれで食事はします。

ところが、フィリピン式の食事作法に則ってスプーンとフォークを並べると、なぜかフォークだけで食べようと頑張ってしまう。私はよくチャーハンを作るんですが、まるで親の仇のようにフォークだけしか使わない。それでキレイに食べられれば良いけれど、案の定、食後の皿にはご飯粒がポロポロ残ってる。「スプーンの方が食べやすいやろ?」と言うと、スプーンを使うものの、翌日にはネジが巻き戻るように元の木阿弥。

別に残したって構わないんですが、かつて弁当箱の蓋の裏に、ほんの少し米粒を残したら、烈火の如く怒った母なので、子供の立場としては、なんだか悲しくなってしまいます。おそらく認知能力が下がっただけでなく、目もよく見えてないんでしょう。

父に至っては、カレーを箸で食べようとする始末。もちろんカレーだけなら箸は出しませんが、たまたま野菜サラダも作ったので、箸の方が取りやすいかとの配慮の追加。ところが一旦箸を持ったら、食べ終わるまでスプーンには触るものか!みたいな勢いです。そして食べ終わった後の皿は、ものすごく汚い。変なところだけ、一般的なフィリピン人に似てしまってますねぇ。(ちなみにフィリピンでは、食べ終わってお皿がきれいな人の方が珍しい。)

まぁ、多少食べ方が汚くても、私の作る料理が口に合ってるようで、食事前は、10分か15分も前から、食卓のある母屋の部屋が見える場所で「メシはまだか」とばかりに待機状態。何だか、親子の立場が逆転しちゃったみたいです。

と、衰えてしまった両親をあげつらうような書き方をしてしまいました。しかし車椅子が必要で、毎回弟が付き添いをしながらも、飛行機に乗って外国のフィリピンまで来るだけでも、年齢を考えればずいぶんと活動的。気候への順応力も大したものです。英語は二人とも全然ダメで、父など1970年代にはオイルショックの煽りで、ドバイで出稼ぎ労働してたのに、結局英語はモノにならなかった。それでも掃除や洗濯してくれるメイドのおばさんには、分からないながらも優しく対応。これは面倒を見る側にすると、たいへん助かる。

最近つくづく思うのは、介護移住という観点では、フィリピンの地方って本当に適地。住む場所もそこそこ広くて、完全ニ世帯住宅(狭い敷地に上下で分けるのではなく、別棟を建てられる)も可能。メイドさんや介護士も、必要なら住み込みで雇えるし、寒い冬もない。

ということで、これから親の介護に直面しようという、私と同世代の人々へ。フィリピンへの介護移住は、真面目に選択肢の一つとして検討するに値しますよ。


フィリピンで教える難しさ

 ぼやぼやしてたら、あっという間に今年も半分終わり。もう6月の30日になってしまったので、駆け込みで何本か投稿します。

まずは先月(2025年5月)から始めた、オンラインでの日本語教師。なれない教職で、かつ生徒がフィリピン人。難しいことはあるだろうと予想はしてたものの、やっぱりいろいろ起こってます。

本来は、日本での就職希望者を募って、20人ぐらいに対面授業をする計画で、隣街の州都バコロドに小ぶりながら学校まで建設中。日本在住のフィリピン人経営者で、私の10年来の友人でもあるダイアナ女史が、かれこれ1年ぐらい前に声をかけてくれて、今の仕事をしているわけです。日本とフィリピンを往復して頑張っているダイアナなんですが、これが、なかなか順調...というわけには行きません。

学校の工事は遅れまくってるし、何社かある、交渉中の日本のクライアントとも、話がまとまりそうでまとまらない。ようやく動き始めたのが、ダイアナの知り合いで、日本で小さな会社の管理職をしている、某フィリピン女性からのオファーによる今の仕事。彼女の親戚でマニラ在住の20代女性に、日本での仕事を手伝ってもらうということで、それに先立って、基本的な日本語を教えてほしいという内容。

記念すべき私の生徒さん第一号は、日本語会話経験がほぼゼロ。私はフィリピンの言葉はイロンゴ語(私が住む西ネグロスの方言)しか解さないので、当然のように、英語で日本語を教えております。まぁ、それは大きな問題ではないんですが、困ったのは、この生徒さんの学習モチベーションの低さ。

もう半年もしないうちに、日本に渡って仕事を始めるというのに、予習・復習はしてくれないし、平仮名すら、まったく覚えようとしない。平日は自宅からマニラの職場へバス通勤で、オンライン授業は帰宅後の7時半から。朝も早いので、この時間には疲労困憊なのは仕方ないですが、ちょっとこれはマズいんじゃないか?

教科書は「みんなの日本語」を使っていて、これは版を重ねた初心者向け日本語教育のバイブルのような本。内容は充実しているものの、最低でも平仮名と片仮名は読める人向けに作られているので、毎回の授業では、アルファベットでルビを振った教材を、用意しないといけません。これが相当な仕事量。今回だけお終いではなく、今後も使い回しができるとは言え、今もらってる給料とは、とても釣り合いません。

なのでこのままでは、労力だけかかって、半年たっても片言レベルにしかならない。危機感が募り、ほぼ私に仕事丸投げ状態だったダイアナに「これヤバいよ」と伝えました。その回答が「大丈夫、仕事でほとんど日本語を使わないから」。何じゃそりゃ〜。

日本での仕事というのは、日本へのフィリピン商品の輸入関連。職場では基本英語だけだし、小売のお客さんは在日フィリピン人がほとんど。こちらはタガログが喋ればそれでOK。日本語は、買い物や交通機関での移動など、生活で必要な最低限の日本語ができれば良いらしい。生徒さん本人もそういう意識。そういう大前提は、授業が始まる前にしてくれよ〜。

ただ、そういった学習意欲の問題だけでなく、フィリピンあるあるの「今日は頭が痛いから」「飼い猫の具合が悪いので獣医に行きます」「大渋滞で時間までに帰宅できません」などなど、言い訳オンパレードで、やたら欠席が多い。どれも嘘ではないようなんですが、それにしても、ちょっと休み過ぎですねぇ。

そして極め付けが「ネットが死んでて授業受けられません」。この投稿を執筆中の6月末日がこの状況で、かれこれ1週間もネット不通。これは実際フィリピンのネット事情からすると、まさに「あるある」で、広範囲のネット障害も頻繁だし、今回のように特定の回線だけ不通になることも、実によくある。キャリアに連絡しても、何日も修理に来ないし、来ても「原因不明」で何の対策もなく業者が帰っちゃったり。我が家もこれが原因で、キャリアを替えましたから。

ということで、一体いつ再開できるのか見通しが立たないまま、7月を迎えようとしております。


追記:と書いた直後にWiFiの修理が終わったとのことで、久しぶりの授業がありました。大雨で帰宅が遅れて短縮授業の上に、隣家のパーティでカラオケ騒音がすごかったですけど。



2025年6月6日金曜日

フィリピンの大学で奨学金


「サクラサク」ならぬ「カエンジュサク」
の季節のフィリピン

「結果が分かり次第、報告します。」と書いてからすでに1ヶ月強。本日(6月6日)早朝、やっと息子が受験したセント・ラ・サール大学から、奨学金受け取り許可の連絡が来ました。それも郵送や電子メールでさえなく、該当者の名前をフェイスブックのホームページでシェアするという方法で。

合理的だし間違いが少ないし、FB普及率は九割以上の、いかにもフィリピンらしいやり方なんですが、同じこと日本でやったら、確実に炎上案件でしょうね。

それはともかく、まずラ・サール大学の合格は数週間前に分かっていて、息子が言うところの試験の感触からは、おそらく問題なしと思っていました。なので、飛び上がって大喜び...ではなかったものの、今日の奨学金に関しては、学費を支払う側からすれば相当嬉しい。そりゃそうでしょう。一時はマニラで一人暮らしの支援まで覚悟してたのが、バスで通える近場の大学に無料で通えることになったんですから。

しかも私たちが住むシライ市では、先月2選を果たしたガレゴ市長の政策で、シライ市内から隣市のタリサイやバコロドの学校に通う学生のために、無料送迎バスが運行されてます。これは本当に助かります。

これで昨年8月のフィリピン大学を皮切りに、4校の受験と最後の奨学金まで全勝でパスした息子。まぁ本当にたいへんなのは、大学出てからなんでしょうけど、親の責任範囲でここまで好成績なのは、素直に喜び、褒めるべきところ。この週末は、ちょっと美味しい晩御飯でも作りましょう。

さてここからは親馬鹿モード全開で失礼します。

この奨学金の難度なんですが、新入生が約1,000名に対して、受け取ることができるのは息子を含めて60名。奨学金のために別のテストがあったわけではなく、高校での成績がトップ数名に入っていて、入試の成績が優秀なことが条件。さらに最終考査は一人一人に面接となります。そのために先週、大学の先輩でもある、息子の従兄アンドレの運転する車で、ラ・サール大学に面接を受けに行ってました。

「うちは貧乏やから、奨学金がないと大学行けないんですぅ」と言ってこいと冗談を飛ばしてたものの、もちろん質問内容はそっちじゃなかったと思います。おそらく学業に対する意識の高さの確認みたいな事だろうと推測。もちろん受け答えは英語なので、それは息子の得意分野。帰宅後「たぶん大丈夫」との言葉通りとなった次第。

そして前回も少し書いたように、学びたいのはコミュニケーション。当初は言語学に興味があると言ってたし、フィリピン大学もガチの言語学専攻にトライだったのが、最終的に選んだのが、同じ「コミュニケーション」でも、商業寄りな分野。映画やテレビ、印刷媒体について学ぶんだとか。「で、何の仕事をしたんや?」と訊いたら、コンピューターゲームの製作者になりたいとの返事。つまり、何らかのエンターティンメントを作る側に行きたいらしい。

本人はマインクラフトから入って、多少のプログラミングはできるようで、そこからコードがりがりのプログラマーより、もうちょっと全体を俯瞰する立場を狙ってるということか?

まぁ、大学に入る時の希望と実際の就職では違っていて当たり前で、それはこれから息子がどんな人や世界と出会うかで、まったく変わってくるでしょう。かつてアートを目指して芸大に入ったけど、工業デザイナーとして家電メーカーに就職した私なので、その辺りは楽観的に眺めております。

何をやるかも大事なんですが、それよりも私の関心事は、どこで働くか。そもそも国外に働きに行く事自体のハードルがめちゃくちゃ低いフィリピン。むしろ、自国内で待遇の良い職場を探す方が難しいぐらい。それなら英語はできて、専門能力さえあれば、英語ベースの外国の方がはるかに良い暮らしができて、面白い仕事もできる。

極端な人物がリーダーになってしまい、移民に対してひどい対応を始めたアメリカは別としても、シンガポールやオーストラリア、ニュージーランドに中近東などなど。中近東で労働と聞くと、肉体労働者やメイドを思い浮かべがちですが、数は少ないながら、企業に就職して管理職に就くフィリピン人もいる。何を隠そう我が家のご近所さんは、サウジアラビアでボーイング社の部長だった人で、数年前に定年退職して悠々自適の暮らしをしてます。

何なら日本語マルチリンガルの能力を生かして、日本の外資系企業で働くという手もある。

ということで、先走った馬鹿親の皮算用になってしまいましたが、大学の4年間って本当に楽しい時期。新学期は周囲の公立校より少し遅めの7月1日からで、まずは、いろいろと満喫してほしいものです。