フィリピンと聞くと、多くの日本人が思い浮かべるのが「貧富の差が激しい国」というフレーズ。実際に住んでみても、確かにその通り。しかしながら、ほんの一握りの大金持ちがいて、その他大勢は全部貧困層...でもないのが、私の実感。
おそらくスペイン統治時代には十把一絡げだったのが、第二次大戦後ぐらいから、本当の極貧層と中間層に分かれ始め、特にここ最近の好景気を反映して、かなりたくさんの人たちが、中流と呼べる生活レベルを実現したんじゃないでしょうか。
こう書くと私と同世代の人は、昭和日本の所得倍増とか一億総中流なんて言葉を思い浮かべるかも知れません。もちろん、そこまで急激な変化ではないし、日本の中流に比べれば、まだまだ質素なもの。それでも、5人が住んでいる家内の実家を見ていると、私たちが結婚した1990年代に比べれば、家財道具がずいぶんと充実。
家電製品では、冷凍冷蔵庫に電子レンジ、エアコン、大画面液晶テレビ。家族全員がスマホを持ち、パソコンは2台。かなり遅いとは言え、ちゃんとインターネットも使える。
家族構成は、年金を貰ってる家内の父と、市役所の部長クラスの義弟。公立小学校の教師をしている義妹に、高校生の子供が二人。ネグロスにすれば、かなり稼ぎはいい方でも、お金持ちというほどでもなく、中の上ぐらい。ちなみにコンパクトカーながら、新車で買ったヒュンダイも所有。
こうした、豊かさを手にした人々がいる反面、何世代にも渡って、社会の底辺に止まったまま多数の貧困層がいるのが、フィリピンの悲しい現実。
例えば、このブログで何度か貧しい人が暮らす代表のように紹介した、シライ市内のバランガイ(最小行政区分)、イーロペス(E. Lopez)。グーグルマップでイーロペスを見ると、シライの北の外れに位置し、広大なサトウキビ畑の中に、島のようにポツポツと数十世帯の集落が、何箇所かに散らばっています。
その集落の名前が、アシエンダ・ギンサアンとか、アシエンダ・ダニエル、アシエンダ・クラハオなど。頭に付いている「アシエンダ(Haciennda)」とは、大農園を意味するスペイン語。つまり、シライ市内に残るこの地名は、スペイン統治時代の名残りで、大地主が所有するサトウキビ畑で労働に従事した、小作人たちが住んでいた場所。
スペインから独立した後も、大地主・小作人の関係はそのままで、100年以上経った今でも、地図で見た通り、周囲から取り残されたように、相変わらず貧困までが保存されているわけす。
さらに、このイーロペスは、シライ市内を二筋に分かれて流れる、マリスボッグ川によって、中洲のようになっている。このため海岸に近い下流では、筏の橋渡しが現役で活躍。砂糖の精製工場や空港近くには、ちゃんとコンクリート製の橋があっても、そこまでは何キロも迂回しないと、市場や病院、学校などに行けないという不便さ。もう陸の孤島状態。
なぜ橋を作らないのか、シライ生まれの家内に聞くと、本当に不便なのはイーロペスの一部で、子供を含めても100人もいない。それを公約にしても選挙で有利にならないから、歴代市長も放置してるとのこと。
追い討ちをかけるように、先月(2021年1月)の2回の鉄砲水では、相当な被害が出て、頼みの筏まで流されてしまいました。つい先日、やっと市会議員の一人が、新しい筏を寄贈したそうですが、それを聞いた私は「ケチらんと、橋作ったれや」とツッコんでしまった。
ということで、今回の水害で改めて気付かされた、植民地時代の負の遺産について、少々義憤にかられながら書きました。
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