2016年11月28日月曜日

誕生日はベトナム料理で

この週末土曜日は、家内の51回目の誕生日でした。移住してもうすぐ4年。最初の頃は、家内だけでなく、家族の誕生日は、親戚や友達を自宅に招いてのホーム・パーティ。それも20人、30人と招待しての結構な規模のパーティをやってましたが、もうすっかりそれにも飽きてしまい、今年は家族で外食が定着。今回は家内の希望で、隣街バコロドに最近オープンした、ベトナム料理のレストランに行ってきました。

フィリピンにベトナム・レストラン、しかも、マニラやセブではなく、ネグロス島にそんなお店ができる時代になったんですね。私が知っている範囲だと、中華にイタリア(主にピザとパスタ)、日本に韓国ぐらいしか、外国の料理を食べさせる店はありませんでした。

元々華僑が多い土地柄なので、中華は多分昔からあるんでしょう。ピザとパスタは、アメリカの影響で、フィリピン人も大好き。日本・韓国料理は、日本人と韓国人の旅行者が多いから。

特にフィリピンでベトナム料理が流行ってるとは聞かないし、オーナーがベトナム系の人なのかも知れません。こういう定番から離れたスタイルが出始めるのは、金持ち階級だけではなく、中流の層が厚くなったということか。しかも場所が、表通りからずいぶん奥まった住宅地の中。車で行ったら、10分ほど迷ってしまいました。

お店の名前は「ラウ・ラム・カフェ」(Rau Ram Cafe)。前日までの熱帯低気圧の影響も去って、朝から暑いほどの日差し。ちょっと苦労してたどりついたのは、想像していたよりずっとしっかりした作りの建屋。一般住宅を改装したものではなく、新規の建築のようです。10台以上は駐車できそうな、ゆったりしたパーキングも。かなりキチンとした建築家/デザイナーが手がけたものと思われます。



さて、肝心の料理。東南アジア諸国は仕事であちこち行った私ですが、実はベトナムは未踏。移住前、福岡に住んでいた頃に一度だけ家族で行った、博多駅前のレストランが、唯一のベトナム経験です。それでも、出てきた牛肉入りのフォー(ライス・ヌードル)と生春巻は、確かに福岡で食べたのと同じ。



ただ、純粋なベトナム料理でもなく、ナシゴレン(マレー風炒飯)やミゴレン(同・焼きそば)があったり、スパイシーさ加減がなんとなくインドネシアっぽかったり。その辛さも、フィリピンテイストに合わせて、かなり控えめでした。


と、御託を並べましたが、とても美味しかった。スパイシーな料理は、フィリピンでは比較的少ないので、久々にパンチの効いた味を堪能。パクチー大盛りも嬉しい。お箸を頼めば出てきて、息子と二人でフォーはお箸でいただきました。

フィリピンに住んでいて言うのも変ですが、異国情緒たっぷり。でも、やっぱりフィリピン流のサービス。持ち込みバースデーケーキは当然のようにOK。食事の後にちゃんとロウソクもセッティングして、まるでこの店のメニューのような扱い。


私たち家族3人に加えて、家内の父と弟夫婦にその子供2人、家内の叔母と従弟夫婦、さらにわざわざ隣島パナイから来てくれた、家内の幼馴染の友人1人の、総勢12名のこじんまりしたパーティ。でも、料理もサービスも良かったし、家内は喜んでくれたようです。私も気に入りました。これならば、日本からお客さんが来ても、お連れできますね。


コーヒーも本格的
砂糖入りだけど、ほどよい甘さ


2016年11月25日金曜日

無理なら休む



昨日から今朝にかけて、フィリピン中部ビサヤ地方を、熱帯低気圧マルセ Marce(フィリピン名)が横断。ここネグロス島では、つい先ほどマルセが通過したようで、時々雨が弱まり、空も明るくなってきました。フィリピンでは自国に接近する台風に、番号ではなく「フィリピン名」を命名。台風だけでなく、熱帯低気圧も同様。

また、予想される被害や台風・熱低の規模に応じて、シグナル1から4までの警報が出されます。今回のマルセでは、ネグロスを含むビサヤ地方を中心に、一番軽微なシグナル1。これだと、幼稚園や保育園が自動的にお休み。小学校以上が休校になるのはシグナル2以上。

このルールによると、今日は小学生の息子も登校するはずなんですが、朝から雨が激しく、母親である家内の判断でお休み。勝手に決めてエエんかいな?と思いましたが、家内を職場まで車で送っていく途中に学校の前を通ると、登校時間なのに人影がまばら。ゲートは開いていて、守衛さんもいるので休校ではないものの、やはり自主的な判断で子供を休ませた保護者が多かったようです。

学校だけでなく、交通機関のジプニー(乗り合いバス)や、路線バスの運行が困難になったり、動かなくなったりしたら、フィリピン人はあっさり通勤を諦める人が多い。数時間かかっても徒歩で、と思い詰めるような人は、会ったことがない。

台風でなくても「雨でトライシクル(輪タク)がつかまらないから」が、立派に欠勤や遅刻の理由になるお国柄。それで多少の不都合が生じても、自分でも無理なら休むと思っているから、仕方がないで済ませる。

こういう習慣を見ると、どうしても日本と比較してしまいます。いつものように極端な例で申し訳ないのですが、1995年の阪神大震災の時、未明の地震発生で公共交通機関がほぼ麻痺してる状況でも、出勤してる人はいました。中には被害の出た自宅に家族を置いたままで、というケースも。電車が止まった時点で、早々にギブアップした私などには、想像もできないメンタリティです。

個人の範疇ならば、場合によっては災害よりも深刻な、陰湿ないじめや過酷な業務環境が続いても、たいていの日本人(子供も含めて)は、なんとか登校・出勤しようとするし、周囲が簡単には諦めさせません。ネット上では、最近やっと「これは異常」と声を上げる人が出てきたようですが、おそらく現場では相変わらずなんでしょうね。

以前、私が勤めていた会社では「命懸けで仕事をしろ」と、本気で言う人が何人もいました。実際に、命に関わる病気で治療が必要なのに、入院を先延ばしにしてる社員や、それを組織責任者が賞賛するのを見聞きしたことも。戦前の話ではなく、つい何年か前のことなんですよ。信じられません。

仕事よりも自分の健康や命の方が大切なのは、当たり前。少なくともフィリピンでは当たり前なんだけどなぁ。そんなことを、学校を休んで家にいる息子の顔を見ながら、考えてしまいました。


2016年11月23日水曜日

日々の米を今日も与え給え

今日11月23日は、日本では勤労感謝の日。でも元々は「新嘗祭(にいなめさい)」という宮中祭祀の日。年に一度、天皇が神さまに五穀豊穣を感謝し、自らもその年収穫された米などの穀物を食するというもの。起源は飛鳥時代まで遡って現在も続き、千年以上もの歴史があります。

有史以来、お米とは深い関わりのある日本。そして日本だけでなく、東〜東南〜南アジアに米を主食とする文化圏が広がり、フィリピンも米食地域の一つ。

ひょっとするとフィリピン人は、日本人よりもお米大好きな国民かも知れません。以前にも「ライス・イーター」と題して投稿したように、僅かな量のおかずで、どっさりお米を食べる。だから中年以上の人だと、お腹ぽっこりで糖尿を患う人が多いのは、そのせいかと思うほど。

粘り気の強いジャポニカ米が主流の日本に対して、一般にフィリピンで作られているのは、比較的水気の少ないインディカ米。ジャポニカ米よりお腹にもたれることが少なく、その分つい食べ過ぎてしまう気がします。

毎週日曜日のカトリック教会でのミサ。その儀式の中心が、キリストの体を模した「パン」を頂く聖体拝領。ところが最も重要な祈り「主の祈り」のイロンゴ語(西ネグロスの方言)訳では、その一節「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」の「糧」に相当する言葉として「米」が当てられています。

英語訳で「パン」Bread の部分が、イロンゴ語で炊いた米を意味する「カノン」Kan-on。米そのものだけでなく、食べ物一般を表す言葉として使われるそうで、やはりフィリピンでは食料の代表が米なんですね。漢字の「糧」も米へんだし、「ご飯」と書いて食事一般を意味することもあるので、感覚は共通しているのかも知れません。

ちなみに、炊く前の米粒は「ブガス 」Bugasu、稲穂だと「フマイ」Humai。英語では「ライス」しかないのに、状態によって名前が変わるところは、米・ご飯・稲穂などを使い分ける日本と似ています。タガログ語でも「カニン」Kanin、「ビガス」Bigas、「パライ」Palayと、単語は少し違うけれど、同様に呼び分ける。

しかし、食べ方は日本と違い、お箸は使わずもっぱらスプーンとフォーク。欧米式のナイフ・フォークではなくスプーンなのは、やっぱり米を食べやすくする配慮? これはフィリピンだけでなく、私が行ったことのある、タイ、マレーシア、インドネシア、シンガポールなどの東南アジア諸国では同じスタイル。中国でも山東省にある会社の食堂では、洗いやすさ優先のためか、お箸ではなくスプーン・フォークでした。

さて、タイトルにも使った「主の祈り」。ヨーロッパ系の言語だと、おそらく英語以外も「糧」は「パン」なんでしょうけど、フィリピン以外のアジア諸国とかアフリカでは、どんな訳語になっているんでしょう。調べてみたら面白いかも。


ほぼ全島サトウキビ畑のネグロスでは、
珍しい田園風景


2016年11月22日火曜日

悪夢再び


今日は、珍しく平日に早朝テニスをしようと、朝5時(日本時間午前6時)に携帯の目覚ましで起床。何気なしにツイッターを見たら、地震や津波関連のつぶやきで画面が埋め尽くされてました。

滅多に見ないテレビ、しかもさらに滅多に見ないNHKワールドにチャンネルを合わせて、慄然。福島県沖で強い地震があり、沿岸に津波警報発令のニュース。5年前と同じような画面構成で、緊急放送。ただし国際配信なので、日本語の上に英語表記を重ねたもの。もっと雑然として、余計に尋常ならざる空気が伝わってきました。嫌でも思い出すのは、5年前のこと。

2011年3月11日は、まだ日本在住。折しも心療内科医からのドクター・ストップで、約1年に及ぶ休職期間中でした。当時暮らしていた大阪府茨木市のマンションで、津波襲来の第一報から、テレビの前に釘付けになったのを、今でもはっきりと覚えています。

今回は幸いなことに、2011年のような大惨事になることはなく、この投稿を書いている昼過ぎの時点で、津波警報・注意報はすべて解除されました。

フィリピンでも、私たちの移住直後の2013年10月に、ネグロス島と同じビサヤ諸島にある島、ボホールでマグニチュード7.2の地震が発生。多くの建物が倒壊し、200名近くの死者を出しています。シライ市内でも、震度2か3程度の揺れを感じました。日本に比べると、段違いに頻度は低いとは言え、火山もあり地震も津波も来るフィリピン。やはり、もしシライ市が津波に襲われたら...、と思うと、ぞっとします。

まず、警報の類が出ることは期待薄なので、強い揺れを感じたら自分の判断で、行動するしかありません。シライ市のあるネグロス島の西側は、沿岸から島の中央山岳地帯まで、緩やかな傾斜のサトウキビ畑が広がる地形。市内では3階建てのビルすら数えるほど。しかも自宅は海から2kmも離れていない場所。高台に逃げると言っても、徒歩ではとても間に合わず、車を飛ばして山に駆け上るしかないでしょうね。

何とか生き延びても、その後がたいへん。3年前のスーパー台風ヨランダで、まるで津波のような高潮に襲われた、近隣の島レイテの州都タクロバン。あの状況から考えて、災害からの復旧は絶望的に時間がかかると、容易に推測できます。

数年前まで「ネグロスには地震がない」と言い切っていた、建築技師の義弟。しかし、2012年には、島の反対側で死者が出るほどの地震がありました。私も人のことは笑えません。関西では大地震はないと思っていたのに、1995年の阪神大震災で、尼崎の自宅はかなりの被害が。やはり、日本人もフィリピン人も、自然災害から逃れられない宿命を背負っているようです。

2016年11月21日月曜日

母とネルジー 両親のフィリピン滞在・後編


今年八十歳になる両親のフィリピン滞在レポート、前回の続きで、これが最終回です。

母の足の負傷で、丸二日はバタバタしてしまったものの、それ以外は概ね順調だったフィリピン滞在。今回、両親にとって目新しい体験だったのは、日常生活にメイドさんがいるということだったかも知れません。

大抵の日本人、特に日頃すべての家事を一人でこなしている人は、メイドさんにどう接していいのか戸惑うのが普通。母は、6人兄弟姉妹の一番上で、祖父母が共働きだったこともあり、子供の頃から幼い弟や妹の世話をしたり、家事は一通りしてきました。父と結婚した時に、専業主婦とは何て楽なんだろうと思ったほど。

おそらく、十日間も何もかも人任せは、本当に小さな頃と入院中を除けば、初めてだったようです。ただ食事に関しては、一度だけ夕飯を作ってもらいました。献立は肉じゃがと味噌汁。ジャガイモ、ベーコン、玉ねぎ、人参など、日本とほぼ同じ食材があり、包丁もオタマも道具類は日本から持ってきた物が揃っているので、別にどうってことはないだろうと思いきや、意外にも大緊張の母。

日本の感覚からすると、ダダっ広い台所に、アシスタントに我が家のメイド、ネルジーを付けたのが原因。狭い所での孤独な調理を何十年もやってきた人なので、かなり面食らったようです。ネルジーの方も初めて接する日本人のバァちゃんなので、緊張が感染。携帯カメラを向けても、笑顔が引きつってました。

料理の手伝いなんて、身振り手振りでなんとでも頼めるはず。でも妙に律儀な母は、「スンマセンけど、◯◯をしてくれませんか?」と大阪アクセントの完璧な日本語。ネルジーが軽くパニックに。後でネルジーに聞いたら「英語で何を聞いても、全部日本語なんですぅ〜」と笑ってました。

それ以外にも、洗濯をしてもらうのには、抵抗があった。「他人さんに、下着を洗ろてもらえるかいな」とのことで、滞在中、自分と父の衣類一切の、洗濯、干し、たたみを一人で完結。まぁ日本メーカーの全自動洗濯機があるので、手間自体は日本にいるのと同じですが。



二階のベランダで洗濯物干し

そんなこんなで、メイド不要の母だったけれど、やはり同じ家にいる同居人。私が見ていないところで接点がいっぱいあったらしく、帰国前には「素直なええ子や」と感心することしきり。チップを上げたいと、月給3000ペソのネルジーに、1000ペソも渡そうとするので、さすがにそれは多すぎだと止めました。(ごめんね、ネルジー)

途中いろいろあったけれど、何とか十日間の日程を終了し、予定通り朝6時のマニラ行き早朝フライトで帰国の途についた両親。当日の夕方には無事帰国の連絡がありました。私にとってもいろんな体験になった、今回の両親の滞在。

最近では「介護移住」などという言葉があるらしい。これは遠方の介護施設や、都会に比べて広い住居が確保しやすい、日本国内の地方に引っ越すことで、一般的には海外移住を指す言葉ではないようです。私も介護が第一義で、フィリピンに移住したわけではないものの、もし高齢の両親を引き取るとなった場合、海外移住は、かなり有望な選択肢と言えるかも知れません。

フィリピンならば、広い家を持つのは、そう難しいことではないし、必要ならば住み込みの看護士を雇うこともできる。寒い冬もなく、煩わしい近所付き合いもない。問題は環境の変化を、介護を受ける側の人が受け入れられるかどうか。誰にでもできる話ではないけれど、ある程度の条件さえ整えば、介護する側にとっても、ずいぶん負担が少ないんじゃないかと思います。

両親の帰国後、孫である息子に「おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らしたいか?」と尋ねてみたら、「うん!」と即答したのが印象に残りました。


2016年11月19日土曜日

突然介護 両親のフィリピン滞在・中編

今年八十歳になる両親のフィリピン滞在レポート、前回の続きです。

さほど暑くもなく雨もあまり降らず、食事には満足して機嫌よくのんびりの両親。土曜日の午後、いつもの出張マッサージのおねえさんに、両親の施術も頼むことになりました。すっかりリラックスしてるし、ついでに南国リゾート気分になってもらおうと、良かれと思って勧めたマッサージが、仇になるとは...。

父は昔からマッサージが好きで、日本でもよく揉んでもらってましたが、母は生まれて初めて。当日と翌日はなんともなかったのに、月曜日の昼過ぎになって強烈な揉み返しが。それも、ちょっとした筋肉痛どころではなく、15年前に複雑骨折した左足首に激痛。伝い歩きですら冷や汗流すほどで、痛さの余り食事もできず、無理して食べたら吐いてしまう。これはヤバい。

慌ててネットで「揉み返し」を調べてみたら、結構ひどくなることがあるんですね。マッサージが気持ちいいだけに、「天国と地獄」と形容しているサイトもありました。頭痛や吐き気が来ることも多いらしい。

そして夕刻には、まったく歩けなくなり、立ち上がることもできない。仕方がないので、トイレに行く時は、私が横抱きにして運びました。母親を抱き上げるなんて初めてで、その拍子抜けするほどの軽さに驚き。日頃筋トレで鍛えていたのは、このためだったのか? 

有名な短歌「たわむれに、母を背負いて、そのあまり軽きに、泣きて三歩あゆまず」を詠んだ石川啄木と違って、涙は出なかったし、三歩以上歩きましたが、やっぱりこの軽さは衝撃的でした。もう子供である自分が、親を保護する立場になってしまった...。

仕事から戻った家内は、尿瓶を買ってきてくれたり、車椅子を借りるため友人に電話したりで大忙し。翌日の朝、家内は仕事を半日休んで、一緒に隣街のバコロド市内の総合病院へ、母を連れていくことに。通院前には、近所に住む友人夫婦が、車椅子を玄関まで届けてくれました。有り難い!


病院での診立ては、やっぱりマッサージの揉み返し。レントゲン撮ってみても、骨は折れてないし、痛みさえ引けば飛行機に乗っても大丈夫とのこと。早速、鎮痛剤と塗り薬を処方してもらいました。ちなみに外科のお医者さんは、「揉み返し」を英語で「Stress of Therapy」と表現してました。フィリピンではマッサージとは言わずセラピー、マッサージャーはセラピストと呼びます。

さて、この鎮痛剤。帰宅してすぐ服用したら、ちょっと怖いぐらい劇的な効果が。数時間で痛みはかなり治り、少し足を引きづりながらも、歩けるまでに回復。食欲も戻って、夕食はいつも通りの大食らいぶり。よかった〜〜〜。これは「おばあちゃんの足が良くなりますように」と前の晩、息子が祈ったからでしょうか? 神さまに感謝。

結果的に突然の一時介護状態になり、車椅子を使うと、思いもしなかった住宅の不具合に気付かされました。手すりは後から取り付けられるにしても、扉が小さすぎたり、洗面所のちょっとした段差が大変だったり。門扉の前だけスロープにしておいたのに、貼ったタイルが滑りやすくて、実際には使いにくい、というのもありました。

両親が要介護になる前に、フィリピン移住の下見という位置付けの今回の滞在。図らずも、受け入れ側の私にも、いろんな意味で準備を促す結果に。やっぱり高齢者配慮したデザイン(特に水回り)にして、裏庭に離れを一軒建てようかなぁ。また、お金の算段しなくちゃ。

ということで、次回に続きます。


2016年11月18日金曜日

大食い八十歳 両親のフィリピン滞在・前編


昨日までの十日間、日本に住む両親が、ネグロス島シライ市の我が家に、滞在していました。少し前に投稿したように、父も母も今年八十歳で、終活中の二人。だいぶ前から「あと何年生きられるか分からん」が口癖。身体は、あちこちガタが来ているようですが、足腰はしっかりしていて、今でも毎週のように二人でゴルフ場に通っているらしい。

日本の実家は、バブル期に作った三階建て。父は三階、母は二階の居室で、かなり急な階段を昇り降りする生活。父はまだ建築現場の監督の仕事、母は掃除・洗濯・炊事を一人でこなしています。若い頃に比べると「すっかり手抜きや」と言う母ですが、日に三度の食事の準備だけでも、相当な労働でしょう。最近、私も毎日ご飯を作っているので、よく分かります。

さて、新しい家は初めてでも、シライは何度も来ている両親。特に父は、この家の施工監督をしていたので、勝手知ったる場所です。今回の滞在目的も、いずれはこちらでの同居を見込んでの下調べ。お客さん扱いはせず、途中で一度だけレストランに出かけた以外は、散歩も買い物も、自分たちで好きなようにしてもらいました。

ただし、食事の用意だけは、私が担当。献立はいつもと同じとはいえ、量がすごい。一般的に八十歳にもなれば、いくら健康でも、もう少しは食が細くなるもんだろうと思います。ところがこの二人、特には母は、小学生の息子よりも食べる。しかも好き嫌いは皆無。

老人でなくても、中年以上の日本人は、フィリピンの米は食えないだとか、肉が固いとか文句を言う人が多いけれど、母は何を食べさせても、美味い美味いと完食。「この歳になって、息子に食事を作ってもらうとは、思わんかった」とご満悦です。まぁ、不機嫌になられるよりずっといいし、結構なことなんですが、食材の減りが早いこと。

数日も経つと、なんだか老人ホームの食事係に、就職したような気分になってきました。しかし考えてみると、私を含めて男三人兄弟を育てた母。食べ盛りの頃など、それは大変だったでしょうね。食卓での話題は、一日一升炊いても足りなかったこと、翌日の弁当のつもりだったおかずを、夜中に全部食べられてたこと...などの苦労話。

食事だけでなく、気候も良かった。雨が多いはずの今の時期、なぜか両親が到着してからは、ほとんど雨が降らない。かと言って暑さの厳しい季節でもなく、昼間でも風が通って快適な毎日。暇になると、母は私の書架にある本を読んだり、ハリー・ベラフォンテやビートルズの曲を聴いたり。父は日本から持ってきた、戦艦武蔵のプラモデルを作ってました。

これで、十日間の滞在は、平和に終わるのかと思いきや、一週間が経過した頃、思わぬトラブルに見舞われました。ということで、次回に続きます。