2018年6月16日土曜日

クリスチャンでも死ぬのは怖い


今日は、当たり前と言えば当たり前のことながら、クリスチャンの私もやっぱり死ぬのは怖いというお話。

そもそも宗教の始まりは、死への恐怖を克服するため、あるいは、誤魔化すためのものだったんじゃないか、というのが私が常々感じているところ。凡そカトリック信徒とは思えない発言ですね。

太古の昔から、人間は死んだらどうなるかを考えなかった人は、物心付く前に亡くなった場合を除けば、まずいなかったでしょう。死ねばすべてが消えるだけ、以上終わり、で思考停止できるのは少数派で、普通の神経の持ち主なら、自分の存在が失われることを突き詰め出すと、恐怖や虚無感で、居ても立っても居られなくなるものだと思います。

そんな時に、死を超越した神が在り、死後も魂は残ると言い切ってくれる「教祖」が現れたら、信じたくなるのも無理はない。もちろんいつの時代も「お前、見たんか?」と突っ込みを入れる疑い深い御仁はいたでしょうが、やっぱり大衆の多くは、神を信じたようです。

さらに自分の死より、年端もいかない我が子を亡くしたりしたら、その子の命が無駄だったと思えないのが人情。神さまの御元で安らかに過ごし、自分があの世にいく時まで待っていてくれると信じれば、どれだけ気持ちが楽になることか。

ところが現代(特に日本)は、そんなシンプルな信仰を持つには難しい時代。宇宙の始まりも、生命の誕生も、自分の体を構成する細胞のことまで、何となく分かったような気になってしまい、少なくとも日常生活で、神さまを介在させないと説明できないことなんて皆無に思える。

(実は、最先端の物理学者や数学者、宇宙飛行士が、神の存在なしに、こんな完璧な世界が創造されるはずがない、と感じるそうです。)

私にしたところで、神の存在やイエス・キリストの復活を信じて洗礼を受けたはずなのに、いざ自分が死んだ後に天国か地獄か、本当に、死後の世界に自分(の魂)が行くのか?と正面切って問われれば、絶対そうだと言い切る自信がありません。我ながら、信仰薄き者ですなぁ。

正直に申し上げて、どうなるかは死んでみないと分からない。なので、やっぱり怖いもんだから、立花隆さんの著書「臨死体験」を始め、その関連書籍を読み漁ったりしております。悟り澄ました信徒のような振りをしても、怖いものは怖い。

そこへ行くと、一般的なフィリピン人の持つカトリック信仰は、ずっと素朴で軽やかに見えます。本人も周囲も、幼児洗礼の信徒が大多数で、幼い頃から刷り込まれているからか、宗教行事への参加は、まったく生活の一部。あまり教養のなさそうな大工さんでも、食事の前のお祈りを頼めば、すらすらと神さまへの感謝の言葉が出てくるお国柄。

生き物として本能的な死への恐怖はあっても、死んだ後のことは、神さまに任せ切っている感じ。たぶん私が何を怖がっているのか、説明してもイマイチ分かってもらえないでしょう。これは心底、羨ましい。

そんな私も、四捨五入すればもう還暦。いくら人生100年になったとは言え、もう若いとは言えない。以前は、この年齢になれば、もう少し性根が座ってジタバタしなくなると想像してたんですけどね。「もう死ぬのは怖くない」と達観したセリフが吐けるまでは、まだ20年ぐらいはかかるんでしょうか?


0 件のコメント:

コメントを投稿