2019年8月15日木曜日

山下大将のこと


74回目の敗戦記念日、8月15日が巡って来ました。

私が生まれたのが、1962年(昭和37年)。物心がついて、戦争のことを意識し始めた頃には、戦後25年とか、あれから四半世紀、と言ってましたから、そこから数えても50年近く。戦争を知る最後の世代、1936年(昭和11年)生まれの父母は、まだ元気とは言え今年83歳。今日は、太平洋戦争終結にちなんだお話です。

フィリピンで最も名前の知れた日本人は誰かと問われれば、若い世代だけなら、現在活躍中の歌手や俳優を挙げるかも知れません。でも、やっぱり一番は「マレーの虎」と呼ばれた、山下奉文(やました ともゆき)元陸軍大将。

これは敗戦の直前、山下大将が、フィリピン国内のどこかに金塊を秘匿したとの噂を信じ、今でも一攫千金を夢見て「山下財宝(ヤマシタ・ゴールド)」を探索する人が後を絶たないのから。

金塊のことはさて置き、フィリピンに住んでいたり、フィリピンとの関わりが深い日本人には、いまさら説明するまでもなく、山下大将は、戦争末期の1944年(昭和19年)、第14方面軍司令官としてフィリピンに進駐。日本の将兵だけで、8万を超える戦死・戦病死・餓死者を出したレイテ島の戦い、同じく20万人以上の日本人が犠牲になった、マニラ市街戦とルソン島での戦闘などを指揮。

その後日本の降伏を経て捕虜となり、1946年(昭和21年)、マニラ近郊のロスバニョス刑務所で、軍人ではなく戦争犯罪人として、囚人服着用のまま絞首刑に処せられました。

予てより私は、太平洋戦争で「人道に反する罪」で、負けた側の政治家や軍人を裁いたことには、大いに疑問を持っています。戦争当事者でもないのに、100万以上の国民が殺された、フィリピンによる裁判ならともかく、焼夷弾や原爆による無差別爆撃で、数十万もの民間人を殺害したアメリカに、そんなことをする資格があるとは思えない。正直に「復讐だ」と言えばいいのに。

そして山下大将が罪に問われたとされる、シンガポールでの華僑虐殺マニラ大虐殺に関しては、前者が参謀の独断専行だった形跡があり、後者に至っては、マニラを無防備都市にして、市街地での戦闘を避けるつもりだったとのこと。結果的には、マニラに固執する海軍や大本営を、抑えることができなかったというのが真相らしい。

また開戦当初、シンガポール攻略の際に、敵英軍の司令官、パーシバル陸軍中将に「(降伏は)イエスかノーか?」と高圧的な態度で迫ったとされる有名な逸話。実は、通訳の不手際に苛立った山下が「まず、降伏の意思の有無をはっきりしてほしい」と言った言葉が一人歩き。のちにそれを気にした山下が「敗戦の将を恫喝するようなことができるか」と語ったそうです。

死刑判決が出た後の山下大将は、多くの部下と一般市民を死に追いやったことについての自責の念を、その遺言状に書き残しています。

ところで、ヤマシタ・ゴールドの件。
こちらは、どうやらスターリング・シーグレーブ Sterling Seagrave という、1937年(昭和12年)生まれで、幼少期を中国とビルマ(現在のミャンマー)国境地帯で過ごしたアメリカ人作家の著作の影響らしい。

当時の日本軍が、占領したアジア各地で略奪した財宝を、シンガポールからフィリピン経由で日本への輸送途中に敗戦となり、司令官の山下大将がフィリピンのどこかに、財宝を隠した。

もちろんその著作はフィクションで、現在に至るまでヤマシタ・ゴールド発見のニュースはありません。1992年に、マルコス独裁時代の不正蓄財の嫌疑をかけられた、未亡人のイメルダ・マルコスは、ヤマシタ・ゴールドを掘り当てて財を築いたと言ったそうですが、これは言い逃れの嘘でしょう。

ちなみにフィリピン政府は、ヤマシタ・ゴールドについては肯定も否定もしない立場。ただ発掘によるトラブル防止のために、財宝発掘を許可制に。もし本当に見つかった時に備えて、発見者と政府、発見場所の土地所有者の間での分配比率まで取り決めをしているそうです。


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