2020年1月18日土曜日

1.17に思う25年の距離感

今年(2020年)の1月17日で、阪神淡路大震災から25年。当時私は、両親と弟、前の妻と一緒に、兵庫県尼崎にある私の実家、三階建て二世帯住宅に住んでいました。

鉄骨造りの、細長いペンシルビルのような構造だったので、倒壊は免れましたが、私がいた三階では、揺れがすごかった。食器棚、本棚、洋服ダンスはすべて倒れ、ダイニングは割れたガラスや陶器の破片で、足の踏み場もないほど。

大阪市に隣接する尼崎市では、神戸や西宮のような壊滅的な被害レベルではなかったとは言え、市域の推定震度は6。死者49名、負傷者7,145名の大惨事となりました。(図説 尼崎の歴史「阪神・淡路大震災がもたらしたもの」

実家はたまたま震災の2年前に、以前の木造平家から上記の三階建に建て替え。もしそれがなければ、終戦直後の住宅難時代に急ごしらえで作られた家は、ペチャンコだったかも知れません。実際に尼崎市内では、木造老朽化住宅にかなりの被害が出ました。

とまぁ、ほとんどの家具や食器はダメージを受けたものの、家族5人はかすり傷程度で全員無事。本当に神さまに感謝です。(私がカトリックの洗礼を受けたのは、この2年後ですが)

少なくとも自分が生きている間には、関西地方に大きな地震は来ないと、今にして思えば何の根拠なく信じていた私。その時までに経験した最大震度は、せいぜい3ぐらい。立っていられない、というか、地震発生時刻が、まだ薄暗い早暁だったので、起き上がれないぐらいの激しい揺れは、まったく初めての経験。布団の中で、これで人生終わりかと観念するほど。

その後、確か夕方ぐらいに電力が復旧して、地震後初めて見たテレビからの映像が、あの衝撃的な、阪神高速がぶっ倒れている場面。自宅の屋上からは見える六甲山の山並みは、大火災の煙に霞んでいるし、家の上空には、報道関係や自衛隊のものと思われるヘリコプターがひっきりなしに飛来。これが終末の風景というものか。



出典:神戸新聞

軍用ヘリが低空で飛ぶと、下っ腹に響くような振動を伴うことを、その時初めて知りました。

あれから25年。その間、私の人生はずいぶんと大きな変化が。

まず、まるで震災がその引き金になったかのように、その年(1995年)の11月、勤務先の会社から東南アジア担当を任じられ、1ヶ月に及ぶ6カ国の市場調査。これが私のフィリピン初渡航になります。

その後、離婚、カトリック入信、フィリピン女性との再婚、度重なる転勤、鬱病、早期退職にフィリピン移住。それまでがずいぶんと平坦で、誰かが敷いたレールの上を走っているような歳月だったのが、突然アップダウンの激しいオフロードになったみたい。

最近ふと気づいたのは、この25年という時間的な距離って、ちょうど1945年に太平洋戦争が終わり、戦後復興と経済成長の象徴だった、大阪万博が開催された1970年の間と同じという事。万博当時は小学校2年生だった私なので、当然、戦争については親や祖父母を通じてしか知りません。

子供には遠い昔の話ですが、その時の両親にすれば25年前の戦争は、まだまだ記憶も生々しい、ついこの間の出来事だったんだと、今更ながらに実感。

いくら社会の価値観が根こそぎ変わるぐらいの大きな出来事でも、25年もすれば、それを体験していない世代は、もう大学を卒業して社会に出るぐらいに育つもの。当たり前ですけどね。

真っ暗闇の中の激震。震災後間もない神戸や西宮で見た、見慣れたビルやマンションが倒壊した現場。何よりも塵芥や腐敗物が入り混じった臭気。あの強烈で全感覚を通じた印象を、言葉や映像だけで伝えるのは、かなり難しい。

つまり、親の世代が経験した戦争は、私には、本当の実感としては伝わっていないんでしょう。伝える側の真剣さと、受け取る側の感受性も大いに影響することでもあるし。

日本のテレビや新聞などのメディアでは、過去の大災害や戦災について報道する際、お決まりのセリフとして「記憶を風化させない」なんて、簡単に言ったり書いたりします。でも、身近に体験者が生きているうちはともかく、自国の歴史すらロクに教えていない国では、ただのお題目としか思えませんね。


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