2020年11月29日日曜日

フラワーガールがお医者さん 前編


 私と、ネグロス島シライ市生まれの家内は、1998年の4月、西ネグロスの州都バコロドの教会で結婚式を挙げました。当時はジャパゆきさんが社会問題になって間がない頃。一時期は乱発されたエンターティナービザは、極めて厳格な運用となり、若いフィリピン女性の観光ビザ取得は、99パーセント不可能と言われていた時代。

さらに、合法的に結婚して、日本人の配偶者としてビザを取るのも、嫌がらせのように煩雑な手続きがある上に、日本の役所に必要書類を提出してから、どれぐらいの期間でビザが発行されるか、まったく予想ができなかった。

知り合いの話では、1年待っても梨の礫というのが珍しくないほど。不法就労やオーバーステイの記録があったら、散々待たされた挙句に拒否されることもあったらしい。

結果的にフィリピン大学の研究員と、一部上場大企業の社員という組み合わせが良かったのか、6月に書類を出して、家内の来日は9月末。約2ヶ月半で済みました。同じようにフィリピン女性との結婚で苦労した人たちからは「奇跡的に早い!」と言われたものです。

とまぁ、それは後になってからの話で、結婚前は、いつになるか分からない家内の来日を、とても待つことができず、まずフィリピンで入籍、挙式ということに。そうなると、日本側からの出席者は限られてしまうのも当然で、結局日本人は、私と、私の両親および弟二人、お世話になった会社のフィリピン法人の駐在員の方二人の、合計7名のみ。

つまり出席者のほとんどが、家内の親戚や友達となったのですが、それでも200名を超える一大イベントになりました。

教会や披露宴を行うホテルの手配、神父さまへのミサ依頼、車や食事にカメラマン、貸し衣装の手配などなど、一切合切は家内に任せて、私は自分の衣装と必要経費の現金を握りしめて、ギリギリの日程で家族を伴い、ネグロス入りしたわけです。

メイド・オブ・オナーやベストマン(花嫁・花婿の付き人)なんて、今でこそ日本でも一般的になりましたが、当時の私は全然知らず、段取りはすべて私が着いてから聞かされた次第。ちなみにベストマンは、私の弟にやってもらうことになりました。

そんないろんな役割の中で、一番出席者の心を和ませるのが、フラワーガル。

フィリピンの伝統的な結婚式では、老若男女を問わず正装は白が基本。日本だと花嫁だけが許されるのが、所変われば品変わるで、女性だけでなく男性も白いバロンタガログ(麻などで作った礼服)。花嫁の後ろについて、バージンロードに花びらを振り撒くフラワーガールも、当然、真っ白なドレス。

幼稚園とか小学校低学年の女の子が、きれいな白い衣装でお澄ましをしているのは、これはもう天使そのもの。

昔の写真を引っ張り出して見ると、私たちのフラワーガールを務めてくれた、三人の少女と、一人の幼女。実は数日前、ここに写っている向かって一番左の女の子、ゼニア嬢が、医師になるための国家試験にパスしたという知らせがありました。長い前振りになってしまいましたが、本題はここから。

22年も経ったので、小学生だったゼニアも29歳。今では、日本のアニメや韓流スターが大好きな、魅力的な大人の女性。彼女は親戚ではなく、子供の頃からの家内の大親友、マジョリーの一人娘。隣島パナイのイロイロ市に住んでいて、家族ぐるみの付き合いをしています。このブログにも、何度も登場している常連さん。(アニメ大好きフィリピーナ卵焼き大好きフィリピーナ

ということで、遂にお医者さんになったゼニアにスポットを当てて、その経緯などを詳しく書こうと思ってたのが、前振りが長くなり過ぎたので、その話は次回に。



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